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親分!どうしてそんなに漢詩が詠めるんですかい?=高杉晋作匿い牢獄生活送った日柳燕石

これまで見てきた幕末の漢詩人は、腐っても全国諸藩の武家出身である勤王の志士が中心(もちろん、商人や僧侶もいましたが)でしたが、ちょっと毛色の変わった「親分」の詩人がいます。即ち仁侠の世界に生きた博徒で、その名を日柳燕石(クサナギエンセキ、1817~68)といいます。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P150~151)によると、「讃岐琴平の大親分と言われた。しかも、ただの大親分ではなく、詩、書、画に通じ、並みの学者顔負けの親分である。質屋で富豪の家に生まれ、学問だけでなく芸術の分野にも精を出した結果であろう」とプロフィールの一端が見えますが、これだけではよく分かりません。学者なのに博徒なのか?博徒なのに学者なのか?

いずれにせよ、かなり異色の漢詩人ではありますが、彼もまた幕末という時代にあって勤王の志を懐いており、長州藩士らを中心に名だたる志士たちを交流しております。生涯に詠じた漢詩は「数千」ともいいます。本日はその一部をご紹介します。まずは明治書院から。

「問盗」。

問盗何心漫害民    盗に問う何の心ぞ漫に民を害すと
盗言我罪是■■    盗は言う我が罪は是れセンジン
■■繡袴堂堂士    キンイ繡袴堂堂の士
白日公然■■人    白日公然人をハクシュすと



【解釈】 盗賊に尋ねた。「お前らはどういう料簡で罪もない良民に危害を加えるのであるか」と。盗賊が言うには「おれたちの犯した罪はまことに些細なものでさあ。ごろうじろ、あの錦の衣に繡の袴をつけた堂々たるお偉方が、真昼間、公然と人民の衣裳を剝ぎ取っているんではござんせんか」と。


センジン=繊塵。わずかなちり、ささいなことのたとえ。「繊」は「ちいさい」「ほそい」「こまかい」の意。「繊~」の熟語は、繊翳(センエイ=空のわずかなかげり、世の中の心配事のたとえ)、繊婉(センエン=ほそくてあでやか)、繊芥(センカイ=わずかで少ないさま、こまかいちり、孅介=センカイ=とも)、繊月(センゲツ=ほっそりした月、美しい形の三日月)、繊妍(センケン=ほっそりして美しい、からだつきが小作りでほっそりとととのっているさま)、繊巧(センコウ=技巧がこまかで、じょうずなこと)、繊毫(センゴウ=わずかなさま、糸毫=シゴウ=)、繊悉(センシツ=物事のこまかいところまで行き届くこと、また、そのさま)、繊手(センシュ=美人のほっそりした柔らかな手)、繊嗇(センショク=金銭にこまかでけち、ものおしみすること、孅嗇=センショク=、吝嗇=リンショク=)、繊人(センジン=神経のこまかい人、つまらない人間)、繊魄(センパク=三日月)、繊腰(センヨウ=美人のほっそりした腰、細腰)、繊羅(センラ=うすぎぬ)、繊麗(センレイ=ほっそりとしていて美しいこと)。≠千仞、賤人、先人、戦塵、洗塵、先陣、戦陣、撰人。これは意外に浮かばない。

キンイ=錦衣。にしきで作ったりっぱな着物。錦衣玉食(キンイギョクショク=りっぱな着物を着て美味しい食べ物を食べる、贅沢の極み)、錦茵(キンイン=にしきで作った敷物)、錦衾(キンキン=にしきで作った立派な夜着、錦被=キンピ=)、錦繡(キンシュウ=にしきのぬいとりのある絹織物)、錦上添花(キンジョウテンカ=美しいうえにさらに美しさを加えること)<錦心繡口(キンシンシュウコウ=美しい思いと美しい言葉、詩歌が巧みなこと)、錦囊(キンノウ=にしきで作ったふくろ、作詩の原稿を入れておく袋、よくできた詩)、錦帆(キンパン=美しい舟)、錦袍(キンポウ=にしきで作ったりっぱな上着)、錦楓(キンプウ=にしきのように美しく紅葉したカエデ)、錦纜(キンラン=にしいでつくったともづな)、錦鱗(キンリン=にしき鯉)、衣錦還郷(イキンカンキョウ=故郷ににしきを飾ること)。

ハクシュ=剝取。はぎとる、むりに奪い取る、剥奪(ハクダツ)ともいう。剝廬(ハクロ=ひどく困窮して身の置き所がないこと)、剝啄(ハクタク=こつこつという音の形容、跫音、戸などを叩く音、碁をうつ石の音など、剝剝=ハクハク=)、剝削(ハクサク=地主や金持ちが人民から金品をはぎとる)。≠柏手、拍手、柏酒。やや難問か。



なかなかに諷刺に富んだ痛烈な作品です。自らは任侠の世界で生きる男ですから、日常的に略奪行為などもあるのでしょう。しかし、それも幕府や各藩諸侯といったお偉方がやっている搾取に比べたらカワイイものでしょう。幕末という時代にあって勤王の志士たちの活躍ばかりが歴史上は取り沙汰されますが、民衆の存在がないはずがない。下々で社会を支える民衆という存在があってこそ歴史は作られ、残っているという現実を忘れてはなりません。戦をするにも戦士は民衆。討幕も、佐幕も、武士だけでは成り立たないのです。

燕石の鋭い時勢批判の眼は、博徒でありながら、一級の漢詩人であり、通常の武士以上の教養を備えていたことによるものです。頼山陽の「日本外史」を耽読し、勤王の志に目覚めました。吉田松陰、久坂玄瑞、桂小五郎、西郷隆盛らとも親交があったのです。そして、特に高杉晋作を潜匿させた罪で高松藩に捕えられ、慶応元年(1865)5月投獄され、在獄足掛け4年、明治元年・慶応4年(1868)正月放免されました。その後は、奥羽戦争にも加わり、越後・柏崎で病死します。


本日のオマケ。燕石の詩は、このサイトが詳しい(ここ)。ここから数首を採録して問題として掲げておきます。


「詠史楠公」。


日本有聖人    日本に聖人有り
其名日楠公    其の名を楠公と日う
誤生■■世    誤ってカンカの世に生まれ
提剣作英雄    剣を提げて英雄と作る




カンカ=干戈


「夜象山に登る」。


崖圧人頭勢欲傾    崖は人頭を圧し、勢傾かんと欲す
満山霊気不堪清    満山の霊気、清に堪えず
夜深天狗来休翼    夜深く天狗来たりて翼を休む
十丈■■揺有声    十丈のロウサン、揺いで声あり。





ロウサン=老杉



「春暁」。


燕石の叙情詩として有名だそうです。今でも詩吟で詠じられているという。明らかに蘇東坡の「春宵一刻値千金」という有名な漢詩と枕草子の「春はあけぼの…」を換骨奪胎したものです。


花気満山濃似霧    花気山に満ちて濃やかなること霧に似たり
嬌■幾■不知処    嬌オウテン処を知らず
吾楼一刻価千金    吾が楼一刻価千金
不在春■在春■    春ショウに在らず春ショに在り





オウ=鶯
テン=囀
ショウ=宵
ショ=曙




「吉田駅にて」。


高杉晋作の墓参の時の詩です。慶應4年燕石52歳です。高杉の「死して赤間が関の鬼とならん」という辞世の句の一節を踏まえています。


故人為鬼美人尼    故人鬼となり、美人尼となる
浮世変遷眞可悲    浮世の変遷、眞に悲しむべし
惨日凄風吉田駅    惨日凄風の吉田駅
涙痕如雨灑■碑    涙痕雨の如くタイ碑に灑ぐ。




タイ=苔



「梅処尼に贈る」。


これも高杉晋作の墓参の時の詩です。愛妾おうのは伊藤博文と井上馨の計らいで尼になり、独身を通して高杉の墓を守っていました。白居易の著名な詩「燕子楼」(白氏文集巻15)を巧みに使用しています。「高郎」は高杉晋作のことを指しています。燕は二夫を持たず、孤閨を守る女性に譬えます。涙ものの作品です。


憐汝恩情会不忘    憐れむ汝の恩情会って忘れざるを
■■剃去守空房    ウンビン剃り去って空房を守る
■■衾外春風冷    エンオウの衾の外春風冷やかに
燕子楼中秋夜長    燕子楼中秋夜長し
誰道妓娼無信義    誰か道う妓娼に信義無しと
始知婦女有心腸    始めて知る婦女に心腸有りと
高郎地下応■■    高郎地下応にメイモクすべし
■■長供一片香    センシュ長く供す一片の香




ウンビン=雲鬢
エンオウ=鴛鴦
メイモク=瞑目
センシュ=繊手




「吉田松陰翁追悼」。


吉田松陰が燕石の詩を好み、松下村塾では燕石の詩が吟じられていたそうです。「於莵」は「虎のこと」で、松陰の幼名寅を指しており、松陰を寓意する。「文相」とは「宋の文天祥」。「正気」とは「正気の歌」。子房とは「韓の張良」。


首唱尊皇論太奇    尊皇を首唱して論だ奇なり
此翁霊骨世皆推    この翁の霊骨世皆推す
横空■■翼雖折    空に横たわるコカク、翼折れると雖も
入■於莵尾不垂    オリに入る於莵は尾を垂れず
正気直追文相筆    正気直に追う文相の筆
壮心欲奮子房推    壮心奮わんと欲す子房の推
維持国力功非少    国力を維持する功少なきにあらず
好慰■■為建祠    好くエンコンを慰めて建祠をなさん。





太だ=はなはだ
コカク=孤鶴
オリ=檻
於莵=オト
エンコン=冤魂

散切り頭に込められた“自由奔放”=西行法師にならって「東行」と号した高杉晋作

散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする――。

丁髷をいち早く切り落とした高杉晋作(1839~67)。高杉の散切り頭は明治の「文明開化」を目の当たりにすることは残念ながらありませんでしたが、彼の髪型は残る写真や肖像画からすると幕末にあって如何にもモダン。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で晋作を演じる伊勢谷友介もカッコいい。しかしながら、彼もまた時代を少しだけ先取りしすぎたのかもしれません。

ところで、高杉が髷を落としたのはどうしてか御存じか?それはおいおいと……。弊blogをば、ゆ~っくりと読み進めてくださいな。

晋作というのは通称です。本名は春風。長州萩の人。嘉永5年(1852)、12歳のとき藩校明倫館で学び、その際、同級生に久坂玄瑞がおり、終生の友となりました。二人とも安政4年(1857)に松下村塾に入塾し、門下の双璧、双竜と称されますが、いずれも30歳に満たない短い人生でした(久坂は蛤御門の変で24歳で戦死、高杉は28歳で結核で病死します)。

高杉は翌1858年には、藩命令により湯島・昌平黌でも学びます。そして、1859年の松陰の死後、佐久間象山や横井小楠とも知己を得ます。幕末きっての開明派との邂逅によってインスパイアされたに相違ないです。そして、1861年、22歳のとき上海にも遊学しているのが見逃せません(いろいろごたごたあって左遷の意味合いもあるようですが)。ほぼ10カ月の滞在中、ズタズタにされた清国を直視しながらも攘夷の急先鋒となります。そして、これを機に藩内で「奇兵隊」を組織し、百姓、町人をも取り込んだ近代的な軍隊の原形を作ることとなります。

明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P149~150)によると、「藩命を得ずに奔走したのをとがめられ呼びもどされて獄につながれたときの作」である「囚中作」という詩があります。八・十八政変や池田屋事件が起きて、長州が挙兵しようとするのを止めようと説得に回りますが、失敗し、勝手に上京したため脱藩の罪で野山獄につながれます。獄にいる間、藩がイギリスら四国艦隊に下関を砲撃され苦境に陥ります。そんな時に詠じた詩です。本邦と漢国の二大「無念の憂国の士」を引き合いに出して、獄中にありながら己の志を曲げることなく目的に向かい邁進する心意気を詠じています。高杉は漢詩の才に溢れていたようで短い生涯ながら数多くの漢詩を残しています。

君不見死為忠鬼菅相公    君見ずや死して忠鬼と為る菅相公を
霊魂尚在天拝峰       霊魂尚在り天拝峰
又不見懐石投流楚屈平    又見ずや石を懐いて流れに投ず楚の屈平
至今人悲汨羅江       今に至るまで人は悲しむ汨羅江
自古■■害忠節       古よりザンカン忠節を害す
忠臣思君不懐躬       忠臣君を思うてを懐わず
我亦■■幽囚士       我亦ヘンタク幽囚の士
憶起二公涙沾胸       二公を憶起して涙胸を沾す
休恨空為■■死       恨むをめよ空しくザンカンの為に死するを
自有後世議論公       自ら後世議論の公なる有らん



【解釈】 諸君ご存じであろう、死んで忠義の鬼となった右大臣菅原道真公の霊は、今なお太宰府の天拝峰にとどまっていることを。またご承知のことと思う、国の衰亡を憂えて、石を懐に湘水の流れに身を投じたのは楚の屈原であったが、今日に至るまで人々皆汨羅の淵にその忠烈の志を悲しまぬ者はいないことを。昔から讒人が忠節の士に危害を加えた例は乏しくないが、忠臣はただ主君を思って一身を顧みないものである。自分も罰せられて獄に投ぜられた囚人だが、菅・屈二公のことを追憶して、悲憤の涙に襟をぬらしているのである。だが、恨みがましいことは言うまい。たとい讒言のためここで生命を落とすとも、後世公正な議論が行われて、わが忠誠の気持ちが世に認められる日もあるであろうから。


ザンカン=讒間。あしざまに告げ口して人の仲を裂く。「讒」は「つげぐち」とも訓む。讒口(ザンコウ=非難、悪口、告げ口、讒舌=ザンゼツ=)、讒毀(ザンキ=告げ口して人をけなし、事をぶち壊す)、讒構(ザンコウ=まげて組み立てた告げ口をして、人をわなにおとしいれる)、讒誣(ザンブ=事実を偽ってありもしないことを言って、人をそしる)。

ヘンタク=貶謫。官位を下げて遠方の地へ流刑にする。貶竄(ヘンザン)、貶流(ヘンリュウ)、貶逐(ヘンチク)ともいう。この「貶」は「おとす」「おとしめる」の意。「謫」は「官職を落として地方の役人にしたり、辺境の防備につかせたりする、官職をおとされて地方に流される」の意。謫徙(タクシ=とがめを受けて官位を落とされ、地方へ左遷されること、謫遷=タクセン=)、謫落(タクラク=罰して辺境の地へ左遷すること、謫降=タクコウ=)、謫居(タッキョ=罪を犯し、その罰として遠方へ流されること、また、そこでのわびずまいのこと)。

躬=み。我が身、自身。

休めよ=やめよ。禁止を表すことば。~するな。「休道」は「いうをやめよ、いうことをやめよ」。



憂国の士の一人目は、菅原道真。二人目は屈原。ともに讒言に遭って無念をこの世に残し九泉に去っていた。それでも魂はこの世にあって人々から忘れ去られることなく、折節、人々に想起され影響力を残しているのです。道真も屈原も弊blogで取り扱っており、その思いの重さは読者士もご存じのはず。翻って、高杉が名うての漢詩人であったことは意外と知られていないでしょう。奇兵隊のイメージが鮮烈ですからね。時代が違えばきっと、彼は別の人生が待ち受けていたはずです。この二つがクロスするには時間が必要かもしれません。ところが、明治維新の礎を築いたものの、その姿かたちを見ることなく散った28歳の死の無念さを思うと、それだけで我々はある種の感慨に浸らないわけにはまいりません。

高杉には肺病に侵された牀で詠んだ辞世の句というか、歌の途中までがあります。

おもしろき こともなき世を おもしろく

勤皇の女流志士で、高杉をサポートした野村望東尼(もとに)が「すみなすものは 心なりけり」とつけたと言われています。歴史小説家の童門冬二氏は「できれば下の句は付けてほしくなかった」と惜しんでいます。童門氏曰く、高杉の思いは空白のままにして、我々後世人が自由に想像できた方が楽しかったのではないかというのです。

本日のオマケ。高杉の漢詩についてはここのサイト(ここ)が詳しいです。高杉の漢詩が時系列でエピソードを交え紹介されており、28年の人生が漢詩と共に歩めるので迚分かりやすいサイトです。

それによると、先ほどの「囚中作」は元治元年(1864)4月25日の作となっていますが、この年は高杉の「屈折期」として数多くの「囚中作」と題する漢詩が詠まれていることが分かります。それにしても高杉が改めて漢詩人として優れていることが判然とする力作揃いですね。この中から幾つか掲載し問題といたします。そのままコピペさせていただきますが、解釈はなしです。一部手を加えてあります。

高杉は「西行法師」にならって「東行」との号を持っていました。

咏西行(西行を咏ず)。

破衣破笠一■■    破衣破笠一ソウアイ
到処青山骨欲埋    到る処の青山骨を埋めんと欲す
石枕夢冷孤渓月    石枕夢は冷かなり孤渓の月
古寺魂暗■■懐    古寺魂は暗しゴコウの懐
見生如死死即生    生を見ること死の如く死は即ち生
自言我是方外客    自ら言う我は是方外の客
無情淡心玩咏歌    無情淡心咏歌を玩ぶ
曽拠高位不肯惜    曽て高位を拠り肯えて惜しまず
休道老仏虚無術    道うを休めよ老仏虚無の術
天下能害幾何人    天下能く幾何の人を害す
雖然使僧不学仏    然りといえども僧をして仏を学ばざらしめば
千載誰称西行僧    千載誰か称せん西行僧

ソウアイ=草鞋
ゴコウ=五更
幾何=いくばく


高杉には正妻「まさ」のほかに愛妾「おうの」がおりました。その両者に板挟みになったモテ男の心境をユーモアたっぷりに詠んでいます。右往左往。。。

「戯作」。

細君将到我閑居    細君将に我居に到らんとす
妾女胸間患有余    妾女は胸間患余り有り
従是両花争■■    是より両花エンビを争う
主人■手莫何如    主人は手をコマヌいて如何ともするなし


エンビ=艶美
コマヌいて=拱いて



師匠吉田松陰(二十一回先生)の墓を現在の世田谷・松陰神社に移した時に詠じたものです。何処まで行っても悔しいのは早過ぎた師匠の死です。自らも後を追うように早世するのですが、仇は十分取って余りあったと言えるのではないでしょうか。松陰との二人三脚で新しい日本国の礎を築くことはできたのですから。

「五日改葬松陰先生及頼三樹、小林民部遺骨於若林下邸 賦小詩、奉二十一回先生墓前」(五日松陰先生及び頼三樹・小林民部遺骨を若林下邸に改葬す 小詩を賦し、二十一回先生墓前に奉ず)。

要思往事慰■■    往事を思うてエイコンを慰めんと要す
自愧未能雪■■    自ら愧ず未だ能くキュウエンを雪ざるを
墓下回看少年日    墓下の回看す少年の日
若林村景似松村    若林の村景は松村に似たり

エイコン=英魂
キュウエン=旧冤



おっと、冒頭の散切り頭の答えを書き落とすところでした。

先ほど西行への憧れを詠じた詩をご紹介しました。「東行」というのは高杉らしい諧謔性に富んだ号です。しかし、単に「西」を「東」に変えただけではない。江戸へ行って幕府を倒すとの意も込められている。そして、このとき彼は髷を落とした。そう、西行法師にならって出家したのです。そして、散切り頭という「自由な翼」を得て高杉は世の中を変えようと決めたのです。文明開化の音を聞くことはできなかったけれど、日本国の文明を開花する音を出すことはできたのでした。既成の枠に囚われず、高杉は長州藩を何度も何度も脱藩します。脱藩しては戻りまた脱藩。脱藩脱藩また脱藩。。。藩を愛し、国を愛した自由奔放な男でした。

「松陰君よ!飛耳長目こそ大事なのだよ」=開国の優位性を説いた佐久間象山

幕末のある時期を二分した「尊皇攘夷」と「佐幕」。どちらも勢力を保ち、世の中を支配しようとしました。当時の識者、志士はこのどちらかに属してはお互いに衝突しあい。エネルギーを蓄え、発散しました。ところが、安政期に、そのどちらもダメだ、開国を以て日本国を残していくべきだと主張し、影響力を行使した人物がいました。それが佐久間象山(1811~64)。吉田松陰の師匠でもあります。松陰が外国に目を向けたのも象山からインスパイアされたことによるところが大きいのです。

象山が松陰に向けた餞の詩があります。本日はこれを玩わうことといたします。詩題は「送吉田義卿(吉田義卿を送る)」。「義卿」は松陰の字です。長崎のロシア艦に身を投じて密航しようと企てた松陰が江戸を出立する際に詠じたものです。松陰はペリー来航の折も国外探索の野望を持ち乗船を試みました。一言で言えば、高い志を枉げることはなかったのです。出典はいつものように明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P141~143)です。

之子有霊骨    之の子霊骨有り
久厭蹩★群    久しく厭う蹩★の群れ   
振衣万里道    衣を振るう万里の道
■■未語人    シンジ未だ人に語らず
雖則未語人    則ち未だ人に語らずと雖も
■■或有因    ソンタクするに或いは因有り
送行出■■    行を送ってカクモンを出ずれば
孤鶴横■■    孤鶴シュウビンに横たわる
■■何茫茫    カンカイ何ぞ茫茫たる
五洲自成隣    五洲自ら隣を成す
周流究形勢    周流して形勢を究めよ
一見超百聞    一見百聞に超えん
智者貴投機    智者は機に投ずるを貴ぶ
帰来須及    帰来須らくに及ぶべし
不立非常功    非常の功を立てずんば
■■誰能賓    シンゴ誰か能く賓せん



【解釈】 この青年(吉田松陰)は生まれつき駿骨を備えており、夙に世の凡庸の群れに伍するを厭うていたが、このたび決然衣を振るって万里の旅程に上ろうとしている。心中ひそかに期するところがあるに違いないが、まだ誰にも語っていないという。たとい、まだ人に語っていないとしても、推測するに深い理由があるのだろう。よってその門出を見送ろうと町はずれまで出てみると、一羽の鶴が秋空高く飛んでいる。(あたかも君の先導をなすがごとくに)さて、日本を取り巻く海は茫々と果てしなく広がっているが、海の彼方には五大洲があって、隣り合っている。昔から百聞は一見にしかずの諺のある通り、一見は百聞にまさるのであろう。(得るところは必ずや大であろう)智者は時機をとらえて行動することが大切である。時世の激しい変動の時だ。心して帰国の時期におくれぬようせねばならぬ。男子たる者、格別の功を立てるのでなければ、死後に誰が称賛し敬意を払うであろうか。



シンジ=心事。心に思う事がら。胸のうち。

ソンタク=忖度。他人の気持ち・考えを、そっと推し量る。臆度(オクタク)、揣度(シタク)ともいう。「忖」は「はかる」。思忖(シソン=おしはかること)。

カクモン=郭門。町はずれにある城郭の門。「郭」は「くるわ」で、「外側をへいや城壁でとりまいた町のこと」。ここは「町はずれ」の意。

シュウビン=秋旻。秋の空、秋天。「旻」は一字で「あきぞら」。単に「そら」とも。旻天(ビンテン=秋の空、一般に天空のこと)、蒼旻(ソウビン=青空)。

カンカイ=環海。四方に海をめぐらせていること、また、その海。「環」は「めぐる」。

シンゴ=身後。自分が死んだ後、死後。

辰=とき。時刻や日。ここは「たつ」ではない。辰刻(シンコク=とき、時刻)、吉辰(キッシン=吉日)、辰良(シンリョウ=物事を行うのによいとされる日、吉日、良辰=リョウシン=)。

「★」は「薛+足=サツ、≒躄?ヘキ」。蹩、躄はともに「足が不自由なさま・人、すなわち用無し?」。これは超難語です。漢和辞典にも掲載がない。推測するしかないですが、「ベッペキ」と読んで「役立たず」くらいの意でしょうか。さすが象山先生。



自分の「目で見る」ことに勝るものはない。「耳で聞く」だけではダメなのである。松陰の「飛耳長目」の教えは象山直伝だったのかもしれません。「投機」は「機会に乗じてうまくもうけようとすること」。今では「市場価格の変動を見込んで利益を得よう」という相場用語に“成り果てて”いますが、当時は「機会を逸するな」と“果断な行動”をいう言葉だったのかもしれません(ちなみに、人の金で儲ける際にも機を逸してはダメですが)。松陰君、ロシアに行って見聞を深めた後は即座に帰国して日本国の為に働きなさい。――ご存知の通り、松陰の野望は悉く叶わなかったのですが……。そして、象山も……。

象山は、京都を中心に活動した尊攘派の急先鋒である漢詩人、梁川星巌が江戸在住のころに交わりました。一方で、象山は単に皇国といった「思想」にとらわれるだけではなく、洋学を学び、西洋の医学や砲術、それに科学知識を広く吸収し、誰よりも早く「外」に目を向けることを体で得たのです。江戸で私塾を開き、子弟教育にも熱心で、松陰のほか、勝海舟、坂本竜馬、橋本左内らも育ちました。安政元(1854)年には松陰の米国密航未遂に連座して松代に蟄居を命じられるも、西洋研究に没頭。8年後に赦免が降り、公武合体・開国の路線を京都で説いていたさなか、元治元(1864)年7月、尊攘派の長州藩の志士によって白昼堂々暗殺されます。彼もまた時代の波に翻弄され、少しだけ先を見過ぎていたがために惜しい命を少しだけ早めた人でした。

天皇家を不遜に弄び夷狄に魂を売る輩に天誅を!=「坂下門外」でなく獄中で死した児島強介

幕末の志士たちが精神的支柱とした合言葉は「愛国心」でした。幕藩体制を謳歌する間に、西洋列強諸国がアジアに近づき、隣の清国が滅茶苦茶にされ、自ずとその次は「わが日本国の番」との危機感が台頭します。最初こそそれを撃ち払うことに躍起になりますが、次第にその無意味さに気付かされます。新しい国体の在り方を模索する中で、徳川幕府の独裁支配からの脱却と結び付き、「皇国」の意識がこれまでにないほど志士の心を囚えます。そのバックボーンが藤田東湖の主宰した水戸学でした。水戸の尊王の志士たちは良くも悪くも過激な行動で幕末という時代をリードします。

文久2年(1862)に江戸城坂下門外で、老中安藤信正が、幕政改革を目指す水戸の尊攘激派浪士ら6名に襲撃されました。世に言う「坂下門外の変」。大老井伊直弼が倒れた「桜田門外の変」の後、実権を握った安藤は幕府生き残りを掛けて公武合体路線を推し進めます。その最たるものが皇妹和宮降嫁。将軍家が皇族との姻戚関係を築くことです。その意味では幕府も単独で存続できないことは分かっていた。しかし、愛国心に燃える尊皇派からは「天皇家を冒瀆する傲岸不遜なる行為である」との怒りを買うことに。さらに、井伊の開国路線を継承し、西洋列強との貿易拡大を推し進めたことも、攘夷派の憤怒が収まらない状況を一層深刻なものとしていました。そんな中で起きたのが坂下門外の変です。

6人の水戸・宇都宮浪士が実行犯でした。本日は、彼らを資金面で支援した廉で捕らえられ、獄中で病死した宇都宮の商人、児島強介(1837~62、、葦原、草臣)が詠じた詩を玩わうことといたします。

「獄中作」。

愛読文山正気歌    愛読す文山正気の歌
平生所養顧如何    平生の養う所顧うに如何
■■唯待就刑日    ショウヨウとして唯だ待つ刑に就くの日
含笑■■知己多    笑いを含むキュウゲン知己の多きに



【解釈】 年来自分は文天祥の正気の歌を愛読しているのであるが、さて自ら養い得たところは果してどうであろうか。今はただ従容として死刑に処せられる日を待つばかりであるが、幸いにも九泉の下には大義に殉じた多くの知人がいるから、また一緒になれる楽しみに、われながら微笑もわいてこようというものだ。(節を守って死ぬ気持ちと、死を恐れない点は、おそらく文天祥を学んで得たと思っているのである。)




ショウヨウ=従容。ゆったりと落ち着いてくつろぐさま。「従」は「ゆるめる、束縛を解いてのばす」の意。この読みでは「縦」と同義です。従合(ショウゴウ=合従すること、南北の国の連合)、従親(ショウシン=合従して親しくする)、従然(ショウゼン=落ち着いた様子)、従約(ショウヤク=合従の約束、中国の戦国時代に韓・魏・燕・斉・楚・趙の六国が連合して西方の秦に対抗しようとした盟約のこと)。

キュウゲン=九原。墓地。人が死後に行くという地底の世界のこと、よみじ。




明治書院によると、児島強介(葦原)は宇都宮の人で「坂下門外の変に参画(病床にあって行動を共にすることはできなかったが、家産を傾けて資金を用立てている)し、変後捕らえられて獄中で病死する」とあります。まだ、26歳という若さであり、病死にも毒殺説が流れています。結句の「九原の知己」とは坂下門外で先に無念の死を遂げた6人の同志ら仲間を指す。死など怖くはないぞ。国を思う気持ちこそ我にあり。

坂下門外の変は桜田門外の変と比べると、幕末史に対する“影響力”は弱かったかもしれません。井伊の命を奪った桜田門外の変以後、老中ら幕府首脳に対する諸大名の警備は厳重となり、安藤は負傷したが命に別状はありませんでした。しかし、白昼堂々、刺客に襲われた事態に幕府の権威はさらに傷つき、安藤は4月には老中を罷免され、8月には隠居・蟄居を命じられれることとなります。幕府内の権力闘争と相まって、その瓦解に向けた小さな一里塚だったと言えるでしょう。血で血を洗うテロの嵐はまだまだ続きます。


本日のオマケ。安藤信正襲撃テロに参画した志士は各人とも「斬奸趣意書」なる“犯行声明”を懐に隠し持っていたといいます。実行犯である6人は全員が激闘の中、斬死を遂げました。それぞれの懐にあったはずの斬奸趣意書は、戦いの中で逸失します。ところが実は、7人目の志士がおり(名を川辺佐治右衛門という)、彼は襲撃時間に遅刻したため、現場から立ち去り、その足で長州藩邸にいる桂小五郎を訪ねたといいます。そして、桂に後事を託し、割腹自刃して果てたという。このとき、桂に渡された斬奸趣意書が残され、その写本が尊攘志士の間に広く伝えられました。以下は、その写本の一例です(ここ)。本日はその全文をコピペさせていただき、問題といたします。手紙文形式であり、かつ、旧字体です。読むこと自体いささか難しいかもしれません。でも意味は取れると思います。

井伊直弼は掃部頭、安藤信正は對馬守。先の「桜田門外の変」で同志が井伊を折角斬殺したというのに、何故又今ここで、安藤を討たなければならないのかが滔々と語られています。


申年三月赤心報國の輩、御大老井伊掃部頭殿を斬殺に及候事、毛頭幕府へ對し奉り候て、異心を挟候儀には之なく、掃部頭殿執政以来、自己の権威を振ひ、天朝をベツジョ奉り、只管夷狄を恐怖いたし候心情より、コウガイ忠直の義士を悪み、一己の威力を示さんが為に、専ら奸謀を相廻らし候體、實に神州の罪人に御座候故、右の奸臣を倒候はば、自然幕府におゐて御悔心も出来させられ、向後は天朝を尊び夷狄を悪み、國家の安危人々の向背に、御心を付させられ候事も之あるべしと存込、身命を投候て斬殺に及び候處、其後一向御悔心の御模様も相見申さず、彌御暴政の筋のみに成行候事、幕府の御役人一同の罪には候得共、畢竟御老中安藤對馬守殿第一の罪魁と申すべく候。對馬守殿井伊家執政の時より同腹にて、暴政の手傳を致され、掃部頭殿死去の後も、絶てカイゴの心之なきのみならず、其奸謀ザンケイは掃部頭殿よりも趨過し候様の事件多く之あり、兼て酒井若狭守殿と申合せ、堂上方に正義の御方之あり候得ば、種々無實の罪をラショクして、天朝をも同腹の小人のみに致さん事を相謀り、萬一盡忠報國の志烈敷手に餘り候族之ある節は、夷狄の力をかり、取押へるとの心底顕然にて誠に神州の賊とも申すべく、此儘に打過候てはエイリョを悩まし奉り候事は申すに及ばず幕府に於ても御失體の御事のみに成行、センコ迄も汚名を受させられ候様に相成候事鏡にかけて見る如く、容易ならざる御義と存じ奉り候。此上當時の御模様の如く、因循姑息の御政事のみにて、一年送りに過させられ候はば、近年の内に天下は夷狄乱臣のものと相成候事、必然の勢に御座候故、以て片時も寝食を安じ難く、右は全く對馬守殿奸計邪謀を専らに致され候所より指起り候儀に付、臣子の至情黙し難く此度微臣共申合せ、對馬守殿を斬殺申候。對馬守殿罪状は一々枚挙に堪へず候へ共、今其端を挙て申候。此度皇妹御縁組の儀も、表向は天朝より下置かれ候様に取繕、公武御合體の姿を示し候得共、實は奸謀威力を以て強奪し奉り候も同様の筋に御座候故、此後必定皇妹をスウキとして外夷交易御免のチョクジョウを推て申下し候手段に之あるべく、其儀若し相叶はざる節は密に天子の御譲位を醸し奉り候心底にて、既に和学者共に申付、廃帝の古例を調べさせ候始末、實に将軍家を不義に引入、萬世の後迄悪逆の御名を流し候様取計候所行にて、北條足利にも相越候逆謀は、我々共切歯痛憤の至りと申すべき様も之なく候。又外夷取扱の儀は、對馬守殿彌増慇懃丁寧を加へ、何事も彼等が申す處に随ひ、日本周海測量の儀夫々指許し、皇國の形勢悉く彼等に相教へ、近頃品川御殿山を残らず彼等に貸し遣し、江戸第一の要地を外夷共に渡し候類は、彼等を導き我國をとらしめんも同然の儀に之あり、其上外夷應接の儀は、段々指向にて密談数刻に及び、骨肉同様に親睦致候て、國中忠義憂憤の者を以て、却て仇敵の如くに忌嫌ひ候段、國賊と申すも餘りある事に御座候故、對馬守殿長く執政致され候はば、終には天朝を廃し幕府をたふし、自分封爵を外夷に請候様相成候儀明白の事にて、言語道断不届の所行と申すべく候。既に先達てシーボルトと申すシュウイに對し日本の政務に携り呉候様相頼候風評も之あり候間、對馬守殿存命にては、数年を出ずして、我國神聖の道を廃し耶蘇教を奉じて君臣父子の大倫を忘れ、利慾を尊み候筋のみに陥り、外夷同様禽獣の群と相成候事疑なし。微臣共ツウコク流涕大息の餘り余儀なく奸邪の小人をサツリクせしめ、上は天朝、幕府を安んじ奉り、下は國中の萬民ども夷狄と成果候處の禍を防ぎ候儀に御座候。毛頭公邊に對し奉り異心を存候儀には之なく候間、伏て願くは、此後の處井伊安藤二奸のイテツを御改革遊ばさせられ、外夷をキンチクしてエイリョを慰め玉ひ、萬民の困窮を御救ひ遊ばされ候て東照宮以来の御主意に御基き、眞實に征夷大将軍の御職位を御勤遊ばされ候様仕り度、若も只今迄も儘にて、幣政御改革之なく候はば、天下の大小名、各幕府を見放し候て、自分自分の國のみ相固候やうに成行候は必然に之あり候。外夷取扱さへ御手に餘り候折柄に相成候て、如何御處置遊ばされ候哉、當時日本國中の人々、市童走卒迄も、夷狄を悪み申さざる者は壹人も之なく候間、萬一夷狄チュウリクを名と致し旗を揚候大名之あり候はば、其方に心き候事疑之なく、實に危急の御時節と存じ奉り候。且、皇國の風俗は、君臣上下の大義を辨じ忠孝節義の道を守候御風習に御座候故、幕府の御處置数々天朝のエイリョに相反し候處を見受候はば、忠臣義士の輩、壹人も幕府の御為に身命をち候者之あり間敷、幕府は孤立の御勢に御成果遊ばさるべく候。夫故、此度御改正の有無は、幕府の御荒廃に相係り候事に御座候故、何卒此義御勘考遊ばされ、傲慢失礼の外夷共を疎外し、神州の御國體も、幕府の御威光も相立、大小の士民迄も一心合體候て、尊王攘夷の大典を正し、君臣上下の誼を明かにし、天下と死生を倶に致し候様、御處置願度、是則臣等が身命を擲ち奸邪をチュウリクして幕府諸有司に懇願愁訴する處の微意に御座候。キョウコウ謹言。

やはり尊皇攘夷派の急先鋒である水戸藩の志士の文章は、“松岡修造”のごとく熱いです。安藤は売国奴だというのです。桂小五郎が突然出てきたのですが、実は安藤襲撃のプランには長州藩も絡んでいたのです。藩内の諸事情あって今回は不成立でした。それでも長州藩は反幕府の急先鋒としてこのあともその存在感を弥増していくことになります。







こたえ)▼ベツジョ=蔑如▼コウガイ=慷慨▼カイゴ=悔悟▼ザンケイ=讒計▼ラショク=羅織▼エイリョ=叡慮▼センコ=千古▼旁=かたがた▼スウキ=枢機▼チョクジョウ=勅諚▼偖=さて▼シュウイ=醜夷▼ツウコク=痛哭▼サツリク=殺戮▼イテツ=遺轍▼キンチク=擒逐▼チュウリク=誅戮▼靡き=なびき▼擲ち=なげうち▼キョウコウ=恐惶

雪の重みに堪えながら節操失わぬ「竹」を見習え=安政の大獄で死罪を免れた藤森天山

安政の大獄で捕らえられたものの、証拠不十分で死罪を免れ追放処分で済んだ儒学者がいます。藤森天山(1799~1862、藤森弘庵)です。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P130~131)によると、「江戸の人。土浦侯に招かれて土浦藩の学制を任され『文武館』(郁文館)を創設するが、保守派の反発に遭い職を辞す。しかし、職を辞してからも土浦侯の信頼は篤く、禄を給されている。土浦を去った後は江戸(下谷)に出て、(帷を下し)子弟の教育に当たった」とあります(カッコ内は迂生が手を入れました)。ここまでは別にどうということもないプロフィール。土浦藩主の信任が篤く、教育熱心な博学の儒学者といったところですが、その内に秘めたる熱き思いは次の漢詩から読み取れるでしょう。

「竹」。

■■千竿竹    ユウケイ千竿の竹
相依積雪時    相依る積雪の時
低頭君莫笑    低頭君笑う莫かれ
■■不曾移    コウセツは曾て移さず



【解釈】 奥深い小路に植えられた千本もの竹。雪の積もったときは互いに寄り添うて、じっとその重みに耐えている。頭を垂れているからといって笑ってはいけない。高い節操を一度も変えたことがないのだから。

ユウケイ=幽径。人気がなく静かで奥深い小道。幽逕とも書く。「径」は「こみち」。

コウセツ=高節。節操の高いこと、りっぱなみさお。高説ではない。



天山は嘉永6年(1853)のペリー来航に際して、幕府の対応に憤激し「海防備論(海防論)」二巻を著し建白しました。これと同時に、時局を論じて「芻言」六巻を水戸藩・徳川斉昭(烈公)に献じて「嘉奨」されました。藩に迎え入れるべしとの声も上がりますが「二君に仕えず」と固辞します。安政4年(1857)には、京に上り当時尊王攘夷運動を展開していた梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲浜、僧侶の月性らと交流します。おそらくは彼らと日本国の在り方について侃侃諤諤の議論を戦わせたのでしょう。そして、安政5年(1858)に孝明天皇が水戸藩に直接勅書を下した「戊午の密勅」への関与の嫌疑がかけられ、「安政の大獄」に連座することとなります。幕吏の取り調べに対して、彼は「死生は命なり吾時に命を委ね以て天下の定まるを竢たん」「一身の存亡世に軽重するなれば士として曷ぞ執るに足らん」と平然と応じたといいます。

詩では自らを「竹」に寓しています。「積雪の時」とは、幕府の弾圧が日に日に厳しさを増す中で、「頭を低れても」、決して「高節」を失わないという天山自身の処世訓。細いがしなやかで強靭な竹のような人間として生きることこそが彼の本望でした。

結局は重罪にならず、「時勢を誹謗する」の廉により、「郊外に放逐」という罪となりました。行く先は下総・行徳村でした。その風聞が世に伝わり、弟子入りを求める者が後を立たなかったといいます。ほどなく桜田門外の変が起こり、井伊直弼が斃れ、禁錮の者らに赦免下り、江戸に戻ることが許されました。1882年に出た「近世先哲叢談続篇(下)」(1889年再版)に見える「藤森弘庵(天山)」の記述(近代デジタルライブラリー、ここ)によると、彼は病に臥した折、辞世の詩を残しています。白文のみ。

伏枕期年鶴骨支
猶聞時事思如糸
空余満腹経綸作
把筆柱書絶命詩


本日のオマケ。さらに、近代デジタルライブラリーを検索していると、藤森天山(弘庵)を題材にした「教育逸話文庫」なるものを発見しました。とても簡単な内容です。偶にはのんびりと道徳のお勉強もよろしいですかね。
ここ

■「獄中尚先生と尊敬せらる」

明る年の二月十三日、再び評定所に召され、水戸の家人、鵜飼幸吉等が持ちかへりし、内勅の事に付て、しかじかの問あり、後又しばしば召し出されて尋ね問はれしかども、もとより己があづかりし事ならねば「知らず」と答ふ。猶くりかへし同じ事を問はるるに、先生、腹立てイタケダカになり「知らざる事は、幾度、尋ねたまふとも、答ふべきやう候はず」とて、覚えず椽板につきたる手を、膝のうへに置きしかば、「こは不敬なり。揚屋入申付る」といへり。この揚屋といふは、武士また神主、僧徒など、身がら賤しからぬものを入るる獄にして、名は異なれども、その実は牢獄に同じ。その内に、牢名主といふものあり。これは久しく繋がれて、其罪、決せざるもの一人をもて、獄中の事をらしむるなり。大方はキョウカン無頼の賊にして、余の囚人を観るふと牛馬に異ならず。新参の囚徒等は、貴賤を問はず、これを駆り使ひ、為めに病を発して死するものも多かりき。此時の名主は、北国の産にして、少し文字をも知れる男なれば、かねてより先生の名を聞き慕ひつれば、先生と称して、これを上座にすゑ、尊敬する事、子弟の如し。ヒツボクの類、獄中にとり入るる事は、禁制なるに、いかにしてか是を得たりけん、多くの紙を出し、物かきてたまはれと乞ふ。先生、キンゼンとして筆をとり、終日、むことなし。さて彼男、先生に向ひ「シャバ、恋しくや、ぼすらんソレガシよきに計らひ候べし」とて、其日より先生は、いたくビョウガしたりと披露せしが、やがて獄を出で療養することを許さる。獄中には囚人を亡者に比し、獄外をばシャバといへり。旧例に、凡そ軽囚、病あるときは、家に帰りて療養することあれど、名主の証を得ざれば、其願かなひ難し。こたびは彼の男のホウシに由ると雖も、是しかしながら、先生が徳義、、むくつけき獄囚の心を感動せし故なりとて、人皆感じあへりとなん。(維新史料、川田博士)



「学問は大事ですよ。いつ何時身を助けるか分かりませんから、ちゃんとやっておきましょうね」という如何にもありがちな教訓です。漢字も平易ですから、「小学校高学年~中学校一年辺り」の道徳の副教材に好適でしょうか?迂生が注目したいのは、安政の大獄の取り調べの現実です。「揚屋」なる牢屋があって、そこには現場を牛耳る牢名主がおり、自宅に帰って病気療養するにも牢名主の許可がいる。。。などなどまさに現場の模様を伝えており興味深い。




こたえ)▼イタケダカ=居丈高▼掌らしむる=つかさどらしむる▼キョウカン=強悍▼ヒツボク=筆墨▼キンゼン=欣然▼ウむ=倦む▼シャバ=娑婆▼ソレガシ=某▼ビョウガ=病臥▼ホウシ=芳志

恨み骨髄に徹した水戸浪士の宿志成就=井伊直弼の血飛沫を桜吹雪と詠じた黒沢勝算

安政5~6年(1858~59)に起きた「安政の大獄」(ここ)は“幕末”開始の号砲を鳴らしました。やられたらやり返す。将軍継嗣問題で突出し過ぎた水戸藩を封じ込めた井伊直弼が今度は、水戸脱藩浪士によって桜田門外で暗殺されます。それが万延元年(1860)の「桜田門外の変」。幕府の実質ナンバーワンである大老が江戸城登城最中に藩士に殺されるという前代未聞の大椿事でした。「カーン!ラウンドワン」。まさに血で血を洗う幕末のゴングとも言えるでしょう。どちらかが倒れるまで、いや世の中が変わるまで続く「デスマッチ」ではなかったでしょうか。

そんな大業を成就した志士が捕らえられた際に詠んだ辞世の詩があります。詠み手は黒沢勝算。水戸脱藩浪士です。世間的には黒沢忠三郎で通っていますが、名前はこっちの方がいい。人生の勝算はなかったでしょうけれども、怨み骨髄に徹した直弼憎しの思いを遂げる勝算だけは確実にあったでしょうから。。。詩題は「絶命詩」。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P129~130)から。

呼狂呼賊任他評    狂と呼び賊と呼ぶも他の評に任す
幾歳■■■■晴    幾歳のヨウウン イッタンに晴る
正是桜花好時節    正に是れ桜花の好時節
桜田門外血如桜    桜田門外血桜の如し




【解釈】 狂人と呼ぼうと乱賊と呼ぼうと、それは他人の評するに任せておこう。わたくしの知ったことではない。佞臣井伊直弼を斃した今は、長年天下を覆うていた妖雲も一時に晴れた心地がする。時はあたかも上巳の節句、桜の花も開こうという三月(現在では四月)のいい季節である。場所も名に負う桜田門外、飛び散る血は桜の花吹雪のようであったぞ。


ヨウウン=妖雲。あやしい雲。不吉を予感させるような雲。「妖」は「あやしい」の意。「妖~」の熟語は、妖婉(ヨウエン=人の心を惑わすほどあでやかなこと)、妖魅(ヨウミ=人をたぶらかすあやしい化け物)、妖氛(ヨウフン=よくないことがおこりそうなあやしい気配、ぶきみな雰囲気、転じて戦乱)、妖孼(ヨウゲツ=災い、災いの起こるきざし)、妖言(ヨウゲン=人を惑わすことば)、妖蠱(ヨウコ=人をまどわせるほど、美しくあでやかなこと)、妖倖(ヨウコウ=気に入りの美人)、妖姿媚態(ヨウシビタイ=なまめかしい姿かたちと、人にこびるような態度)、妖祥(ヨウショウ=災いと幸福、禍福)、妖彗(ヨウスイ=彗星)、妖婦(ヨウフ=艶やかな美しさで男を惑わす女、妖女=ヨウジョ=)、妖変(ヨウヘン=世の中のわざわい、正体の知れない異変)、妖妄(ヨウボウ=あやしげで、でたらめなこと)、妖魔(ヨウマ=人を誑かすあやしい魔物)、妖民(ヨウミン=あやしい術を使う人間)。人を惑わす言葉を意味する「およずれ」という和語がありますが「妖」を充てます。

イッタン=一旦。ある朝、ひとたび。物事がおこるのを仮定するときに用いる。ここでは、「一瞬にして雲が晴れて朝がやってきたように」くらいの意か。≠一端、一箪、一反。



技巧も難語も何もないシンプルな詩です。己の心情だけをストレートに詠じています。明治書院によれば、勝算に付いて「乱後九鬼長門守邸に幽閉され、後に処刑。……いかなる理由があるにせよ、『血桜のごとし』とは確信犯だけが吐ける言葉」とあります。「処刑」とありますが、実際は病死だったようです。承句の「幾歳妖雲一旦晴」では、「してやったり」と快哉を叫んでいます。彼にとって、ペリー来航、井伊直弼の台頭、日米修好通商条約の締結など一連の出来事が「妖雲」だったのでしょうね。

陰暦3月3日、桃の節句でありながら、桜田門外の変と言えばわれわれには雪が舞うシーンが想起されますが、転句と結句は、桜吹雪と雪吹雪に血飛沫、白と赤のコントラストも鮮やかなる、相反する季節感を盛り込んでいると同時に、杜甫の晩年の作である「江南逢李亀年」にある「正是江南好風景 落花時節又逢君」を踏まえています。とても22歳の若者が詠じた辞世の詩とは思えない出来栄えです。

桜田門外で直弼を襲撃したのは18人で、うち17人が旧水戸藩士、残りの1人が旧薩摩藩士でした。水戸浪士の一人に佐野竹之助がいます。彼も水戸を出立する際に詠じた詩を残しています。

詩題は「出郷作」。こちらは某サイト(ここ)からの借用です。

決然去国向■■    決然 国を去りてテンガイに向かう
生別又兼死別時    生別 又た兼ぬ死別の時
弟妹不知■■志    弟妹は知らずアケイの志
■■牽袖問■■    インギンに袖を牽きてキキを問う



【解釈】 思い切って郷里水戸を去って、遙かなところへ向かうことになった。生きたままの訣別は、同時に、今生の別れでもある。幼い兄弟たちは、蹶起の大義を理解することができないので、慕わしげに袖を引っ張りながら、いつ頃帰ってくるのか、と問いかけてくる。


テンガイ=天涯。非常に遠いところ。「涯」は「はて」。≠天蓋、天外、碾磑。ここでは井伊直弼のいる江戸を指し、ひいては死を意味するあの世を言っている。

アケイ=阿兄。自分の兄を親しんで言うことば。にいさん。「阿」は「親しみの気持ちをあらわして、人を呼ぶ言葉につく接頭辞」。阿姨(アイ=母の姉妹を親しんで言う、おばさん)、阿翁(アオウ=祖父、おじいさん、夫の父)、阿咸(アカン=甥と同じ年代の者をいうことば)、阿姑(アコ=夫の母をいうことば、しゅうとめ)、阿公(アコウ=嫁が夫の父をいうことば)、阿姉(アシ=姉を親しんでいうことば、ねえさん)、阿女(アジョ=自分の娘を親しんでいうことば)、阿誰(アスイ=だれとも決まっていない人をさすことば、だれかしら)、阿婆(アバ=年とった女性を尊敬して言うことば、おばあさん)、阿父(アフ=父を親しんでいうことば、おとうさん)、阿母(アボ=母を親しんでいうことば、おかあさん)、阿媽(アボ=母のこと)、阿妹(アマイ=妹を親しんでいうことば)、阿蒙(アモウ=こども)、阿爺(アヤ=父を親しんで言うことば)。魯迅の「阿Q正伝」も庶民であるところの「Qさん、Qちゃん」くらいの意。

インギン=慇懃(殷勤)。ねんごろなさま、ていねいに気を配ること。慇懃無礼(インギンブレイ=外面だけていねいで、実は無礼なこと)、慇憂(インユウ=深く憂える)。

キキ=帰期。帰る時。帰る時期。≠騏驥、窺覬、希冀、毀棄、諱忌、起跪、暉暉、嬉嬉、鬼気、危機、機器。



かたや、大業を成し遂げた喜びから心底の震えが止まらない詩。こなた、大業成就を目指して生きて再び帰ってこないという決意を示した家族との今生の別れを描いた詩。借用したサイトの解説には、そのいずれもが燕の荊軻の『易水歌』にある「風蕭蕭兮易水寒,壮士一去兮不復還」のイメージと重なる旨が記されています。成るほど、易水のほとりで仲間たちに見送られながら最後の決意を詠じた刺客、荊軻ですね。荊軻は大国・秦の始皇帝を殺す大役を担わされていたわけです。これに対して、勝算や竹之助ら水戸浪士にしてみれば、幕府大老・井伊直弼を暗殺することも同様かそれ以上の大きな意義があったのです。誰かに送り込まれた刺客ではなく、いわば自らが自らを刺客たらしめたと言えるのではないでしょうか。公憤、義憤。。。理屈では言い尽くせない感情でしょう。

それにしても両者ともまだうら若き志士です。平易な言辞を駆使していますが、それだけに読む者の心に訴える力を持っている。水戸藩校・弘道館で当時教えられていた「水戸学」の水準の高さをうかがわせる秀作と言えましょう。

本日のオマケ。今年は桜田門外の変の勃発から150年ということもあって秋に映画「桜田門外ノ変」が公開されることになっています。旧水戸藩士らによる「仇討ち」という視点で描くようです。桜田門外の変の歴史的な価値・評価については、明治期においても分かれていました。中期から後期にかけては、井伊直弼が開国の風穴をあけたことを高く評価する声が多くなり、彼を殺した水戸藩に対する風当たりは強かったようです。とても「義挙」などという言葉では称せない。これに抗って岩崎英重(岩崎鏡川=センキョウ)なる人物が明治44年に「桜田義挙録」を著しました。彼は高知市の北方、土佐山村菖蒲の出身で、文部省維新史料編集局の委託を受けて編纂しました。むしろ坂本龍馬研究の方が世に名高いようです。明治の高知出身の詩人・評論家である大町桂月とも親交があり、桂月が自分の論文集に「桜田義挙録の序」と題する小文を書いております。本日はこれの一部を引用して問題といたします。本文は旧字体、旧かなづかいですが、旧字体だけ新字体に改めてあります。原文は近代デジタルライブラリーから。

…(略)…
 この十年間、鏡川は野にキュウキョして、世路の崢(ソウコウ=年月が曲折を経て経過するさま)たるに屈せず、心を日本女流の歴史と幕末の歴史との研究に潜め、苦心サンタン、而かも堅忍不抜、所謂官学以外、独力を以て大に発明する所ありけるが、この頃に至りて予はまた驚きぬ。鏡川は「桜田義挙録」を著はして史界稀に見るの一大著述を為しける也。

 開国以来茲に五十年、国運益リュウショウ、文化愈進んで止まざるにつれ、世は当年開国の責任を帯びし井伊直弼をオウカし、直弼をヨウゲキせし水薩の志士をガンメイなる暴徒とのみしめむとす、当年志士が義刃を揮ひし桜田門はなほ依然として有り。而して横浜の埠頭直弼の銅像新に立ち、小塚原の跡、志士の墓空しく累累として相並ぶ。一片気骨ある者。誰か憤慨せざるを得むや。

 維新の大業は一朝一夕に成りたるに非ず。水戸学派先づ大義名分を明らかにし、国学起りて国体益明かになり、山県大貳、藤井右門、竹内式部の如き勤王家出で、高山彦九郎出で、蒲生君平出で、頼山陽出で、徳川幕府隆盛の極に達せし時、早や既に勤王の精神天下にオウイツしたりき。露国北辺を犯してより、海防論盛になりけるに、米艦端なく我海門の戸を叩きぬ。是より後、海内テイフツして開港派と攘夷派とシノギを削り、幕府センシにして朝旨を奉ぜざるより、勤王党と佐幕党と相血闘す。公武合体論となり、水戸烈公の補佐となり、井伊大老の違勅となり、将軍の継嗣問題となり、安政の大獄となり、桜田門の一撃となり、和宮の降嫁となり、将軍の上洛となり、男山行幸の朝議となり、十津川の義旗となり、七卿の西奔となり、元治の変となり、長州征伐となり、薩長連合となり、大政返上となり、討幕論となり、伏見鳥羽の戦となり、江戸城の明渡しとなり、上野、会津、箱館の戦争となり、終に全く王政古に復して、天日再び明か也。幕末歴史は、血の歴史也。即ち志士の血を以て太平の春を回らしたる也。

 米艦渡来より王政復古までは、事件が事件を生み、フンザツにフンザツを重ぬれども、其間に一貫せる修理あり。即ち尊王愛国の精神也。桜田門の挙を以て、単に井伊の開国に反対するものとのみなすは、皮相の見たるを免れず、実に是尊王愛国心の結晶也。日本男児の真面目也。王政復古の行程の一大要件也。井伊大老出で将軍の暗愚を利して賢明なる烈公をくること既に違勅也。年長じて賢明なる慶喜を退けて幼弱なる家茂を将軍に迎ふるも、亦違勅也。外国に脅迫せられて屈辱不益なる条約を結びたるは、違勅の最も甚しきもの也。殊に安政の大獄を起して天下の志士を一網打尽したるは何ぞ其れ暴なるや。嗚呼神州の男児、骨なくむば則ち止む。骨ある者、誰かシュウシュ傍観するを得むや、水戸の義士は実に其キュウセンポウとなりて、君国の為めに一身を犠牲に供したるもの也。

 島田三郎氏の開国始末出でて、直弼が俄に器量をあげ、終に其銅像の建立をも見るに至りたるが、其影響する所は単に直弼の器量問題のみにあらず、支那は革命の国なれども、さすがに秦檜をオウカせざる也。況んや日本の神国、勅に違ひて屈辱なる条約を結びたる者をや。さらでだに危険思想天下にマンエンせむとするの時勢柄、水戸の志士が単にガンメイなる暴徒と目せらるやうになりては、神州の士気ますますショウマせむとす。危い哉。危い哉。

 鏡川茲に憤慨する所あり、マンコウの熱血をぎ、平生の研究を発揮してこの会を成せり。堂々二千頁、其材料の精確なる、其行文の美はしき、実に史界の大著述也。況んや世道人心に益あることの大なるをや。水戸の志士は茲に知己を得たり。神州の士気は茲にコスイ者を得たり。幕末歴史の要部は茲に全く明かになれり。われタイハクを挙げて、鏡川の気骨と努力とをオウカせざるを得ず。さるにても、佐々木侯今や世に在らず。高美氏も在らず、もし在らば、其喜は如何ならむと思ふにつけても、余はテイルイなきを得ざる也。(明治四十四年初夏)




こたえ)▼キュウキョ=窮居▼サンタン=惨憺(惨澹)▼リュウショウ=隆昌▼オウカ=謳歌▼ヨウゲキ=要撃(邀撃)▼ガンメイ=頑冥▼貶しめ=おとしめ▼オウイツ=横溢▼テイフツ=鼎沸▼シノギ=鎬▼センシ=専恣▼フンザツ=紛雑▼黜くる=しりぞくる▼シュウシュ=袖手▼キュウセンポウ=急先鋒▼マンエン=蔓衍▼ショウマ=銷磨▼マンコウ=満腔▼灑ぎ=そそぎ▼コスイ=鼓吹▼タイハク=大白▼テイルイ=涕涙

フビライに屈しなかった文天祥に唱和せよ=安政の大獄で死んだ最年少の橋本左内

安政の大獄で処刑された志士たちは総じて若かったですが、中でも最年少だったのが橋本左内(1834~59)です。享年26歳。まだ働き盛りというより遊び盛りでしょう。号は景岳。諱は綱紀。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」から、そのプロフィールは「福井藩の医家の生まれ。大阪の緒方洪庵の適適斎塾で蘭学を、杉田玄白のところで蘭学、医学を学ぶ」と簡潔な内容。吉田松陰が「留魂禄」の最後の方で「越前の橋本左内二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に坐する五、六日のみ。勝保同居せり。後勝保西奥に来り、余と同居す。余勝保の談を聞いて、益々左内と半面なきを嘆ず。左内幽囚邸居中『資治通鑑』を読み、註を作り漢紀を終る。また獄中教学工作等の事を論ぜし由、勝保余にこれを語る。獄の論大いに吾意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思う。」と自分より先に斬首された左内の死を悼んでいます。

左内が入獄中に詠じたとみられる詩が「獄中作」です。

二十六年如夢過    二十六年 夢の如く過ぎ
顧思■■感滋多    顧みてヘイセキを思えば感滋々多し
天祥■■嘗心折    天祥のタイセツ 嘗て心折す
土室猶吟正気歌    土室猶お吟ず正気の歌



【解釈】 自分は今年二十六歳となったが、いつしか夢のうちに過ぎてしまった。それに着けても平生を回顧すると、感激がひとしお多いものがある。宋の大忠臣文天祥の大節には日頃感服していたが、彼は土牢の中にありながら、なお従容として正気の歌を吟じていたのである。(いま、自分も獄中の人、何とか天祥にあやかり、大節を全うしたいものである。)

ヘイセキ=平昔。ふだん、常日頃。この「昔」は「むかし」というよりは「むかしからこれまで」のニュアンスが強い。「平」は「ふだん、何もないふつうの時」の意。平時、平日、平常、平素、平生、平居ともいう。「平~」の熟語では、平允(ヘイイン=平らにそろう、公平で適切)、平午(ヘイゴ=正午)、平康(ヘイコウ=世の中が穏やかで安らかなこと)、平曠(ヘイコウ=平らで広いこと、平闊=ヘイカツ=)、平沙(ヘイサ=平らで広い砂原、砂漠)、平視(ヘイシ=面と向かってまともに見る、直視)、平澹(ヘイタン=あっさりしていて、しつこくないこと)、平旦之気(ヘイタンのキ=夜明けがたの澄んだすがすがしさ)、平蕪(ヘイブ=雑草の茂った野原、平原)、平常(ヘイジョウ=特にすぐれた点もなく、なみなこと)、平旦(ヘイタン=夜明け、明け方、平明)、平愈(ヘイユ=病気が治ること、平復)、平話(ヘイワ=口語で歴史物語を語る、日本の講談のようなもの)。

滋々=ますます。さらに、いよいよ。

タイセツ=大節。人としてのけじめの中で特に重大なもの、君臣の間で守るべき正しい関係など。



左内が引き合いに出した「正気の歌」は、藤田東湖も和した中国南宋末期の文天祥(1236~83)が詠じたものです。蒙古民族・元に圧迫され滅亡が目前に迫った南宋の宰相として最後まで支え、地下の土牢に幽閉されること3年、たびたびの投降勧誘をすべて拒絶。最後には元皇帝フビライがその人物を惜しんで直接説得したものの、宰相ポストを用意しようとの条件にも一顧だにせず峻拒して、文天祥は従容として処刑に臨んだ忠臣として後世に名を馳せています。左内は若くして尊王攘夷運動の旗頭として、薩摩藩の西郷隆盛らと交流し、幕府の守旧派と対峙しました。有能であるがゆえに井伊直弼の眼にとまり、出る杭は打たれるとばかり、安政の大獄で露と消えました。左内がその精神的支柱として信奉したのが文天祥でした。国家とは何か。愛国心とは何か。身を以て教えてくれる存在が文天祥だったのです。文天祥が獄中で詠じた「正気の歌」を、自分も同じ境遇になって口ずさむうちにできた詩だったのです。

本日のオマケ。本家本元の「正気の歌」全文です。(ここ)から採録しました。

天地有正氣   天地に正氣有り
雜然賦流形   雜然として流形を賦す
下則為河嶽   下っては則ち岳と為り
上則為日星   上っては則ち日星と為る
於人曰■■   人に於いてはコウゼンと曰う
■■塞蒼冥   ハイコとして蒼冥に塞つ
皇路當清夷   皇路清夷に當たれば
含和吐明庭   和を含んで明庭に吐く
時窮節乃見   時窮すれば節、乃ち見れ
一一垂丹青   一一丹青に垂れる

在齊太史簡   齊に在っては太史の簡
在晉■■筆    晉に在ってはトウコの筆
在秦張良椎   秦に在っては張良の椎
在漢蘇武節    漢に在っては蘇武の節
為嚴將軍頭    嚴將軍の頭と為り
為嵆侍中血    嵆侍中の血と為る
為張睢陽齒    張雎陽の齒と為り
為■■■舌    ガンジョウザンの舌と為る
或為遼東帽    或いは遼東の帽と為り
■■氷雪    セイソウ、氷雪よりもし
或為出師表    或いは出師表と為り
鬼神泣壯烈    鬼神も壯烈に泣く
或為渡江楫    或いは江を渡る楫と為り
■■呑胡羯    コウガイ、胡羯を呑む
或為撃賊笏    或いは賊を撃つ笏と為り
逆豎頭破裂    逆豎の頭は破裂す

是氣所磅礴    是れ、氣の磅礴する所
■■萬古存   リンレツとして萬古に存す
當其貫日月    其の日月を貫くに當たりては
生死安足論    生死、安くんぞ論ずるに足らん
地維以立    地維、りて以って立ち
天柱以尊    天柱、りて以って尊し
三綱實系命    三綱は實に命に系り
道義為之根    道義、之を根と為す
嗟予遭陽九    嗟あ、予は陽九に遭い
隷也實不力    隷は實に不力也り
楚囚纓其冠    楚囚、其冠を纓び
傳車送窮北    傳車、窮北に送らる
鼎鑊甘如飴    鼎鑊、甘きこと飴の如き
求之不可得    之、求むるに得べからず
陰房闃鬼火    陰房に鬼火はかに
春院閟天    春の院は天に閟ざしてし
牛麒同一    牛と麒は一を同にし
■■鳳凰食    ケイセイで鳳凰は食らう
一朝蒙霧露    一朝、霧露を蒙らば
分作溝中瘠    溝中の瘠と作らんを分とす
如此再寒暑    再び寒暑、如くの此し
百沴自■■    百沴、自らヘキエキ
嗟哉沮洳場    嗟哉、沮洳の場も
為我安樂國    我が安樂の國と為らん
豈有他繆巧    豈に繆巧有らんや
陰陽不能賊    陰陽も賊するあたわず
顧此■■在    顧てこのコウコウ在り
仰視浮雲白    仰ぎ視て浮雲白ければなり
悠悠我心悲    悠悠として我が心は悲しむ
蒼天曷有窮    蒼天、曷ぞ窮み有らん
哲人日已遠    哲人、日に己に遠く
典刑在■■    典刑はシュクセキに在り
■■展書読    フウエンに書を展げて読めば
古道照顏色    古の道、顏色を照らす






こたえ)▼浩然▼沛乎▼董狐▼顔常山▼清操▼慷慨▼凜烈▼しずかに▼鶏棲▼辟易▼耿耿▼夙昔▼風檐(風簷)

徳川貶して逐われた蝦夷で一日百印百詩=父に劣らぬ快漢詩人の頼三樹三郎

頼三樹三郎(1825~59)は名を惟醇、字を叔厚、号を鴨崖という。三樹三郎は通称で、京都・三本樹で生まれたことに因んでいます。鴨川の岸であることから鴨崖。ベストセラー「日本外史」の著者で名高い、江戸時代を代表する漢詩人である頼山陽の三男。三樹三郎も熱き勤王の志士でした。二十歳のころに江戸・昌平黌で学んだものの、酒癖が悪く酔うと暴れたといいます。ある夜、上野の寛永寺を歩き、廟の立派なるを見て逆上、寺門の「葵」の紋の入った石燈を蹴倒す事件を引き起こしました。「徳川がかかる華侈を極めるのは許せん」というのが理由です。已にして尊王思想を具えていたのです。これにより三樹三郎は弘化3年(1846)、昌平黌の寮を放逐させられます。のちのちの安政の大獄へと繋がります。

「春簾雨窓」。そんな血気に逸る若き三樹三郎が酒に酔って詠んだ詩でしょうか?

春自往来人送迎    春は自ら往来して人は送迎す
愛憎何事別■■    愛憎何事ぞインセイを別つ
落花雨是催花雨    花を落とすのは雨是れ花を催すの雨
一様■■前後情    一様のエンセイ前後の情



【解釈】 春はいつの間にかやってきて、いつともなく去ってゆく。われわれはそれをそのまま自然に送り迎えすればよろしいのである。それなのに晴れたといっては喜び、雨だといって憎むのは、何としたことであろう。考えてみるがよい。花を散らす雨は、花を促し咲かせた雨である。同じ軒の雨垂れの音も、聞く時によって好もしい雨、憎らしい雨と、両様の情を催させるのである。


インセイ=陰晴。くもりとはれ。晴雲。陰霽(インセイ)とも書く。

エンセイ=檐声。軒端に流れる雨の音。辞書には見えない特殊な語ですが、いい響きのある含蓄深い言葉ですね。詩語ですね。「檐」は「のき」で「簷」とも書く。


「簾」は「すだれ」。この七言絶句ですが、明治書院に「詩は春雨を簾越しに見たもの。自然の営みを冷静に感じ取る心と逆上の心、その振幅を同一人のものとして受け止めることの難しさ」との鑑賞が見えます。一読して、「往来」「送迎」「愛憎」「陰晴」「前後」と反意語で構成する熟語が数多く盛られていることに気づくでしょう。転句の「落花」と「催花」も対の関係にある語であり、二十八字のうち半分を占めている。いずれも「往」「送」「憎」「陰」「後」「落花」の方に意味の重きがある「偏義複辞」として、どちらかと言えば“ネガティブ”な現実を言い表していると捉えるべきなのでしょう。理想である「来」「迎」「愛」「晴」「前」「催花」といった前向きな気持ちになりたいのだが、そうはなれないギャップに苦しんでいる。当時の三樹三郎の揺れ動く心境を表している。飾らない平易な字句を列ねながらも深い味わいのある作品です。さすが山陽の息子です。ただの過激な“ドラ息子”ではない。

もう一首載っています。三樹三郎は昌平黌を逐われ、東北から蝦夷地に向けて旅に出ます。海防の状況を自分の目で確かめようという「飛耳長目」。まるで吉田松陰と同じです。彼もまた日本の現実を目の当たりにすることとなります。

「過函嶺」(函嶺を過ぐ)。

当年意気欲凌雲    当年の意気雲を凌がんと欲す
■■東馳不見山    カイバ東に馳せて山を見ず
今日■■春雨冷    今日キト春雨冷やかなり
■■揺夢過函関    カンシャ夢を揺るがして函関を過ぐ




【解釈】 天保十四年(1843)の秋、遊学のため江戸に下ったときは、意気軒昂たるもので雲をも凌がんばかり、快足の馬は東方目指し疾駆し、箱根八里の天下の険も目にもとまらず過ぎ去った。ところが、今日は囚われの身となって、冷たい春雨のそぼ降る不安な旅路を、窮屈な唐丸籠の中に揺られながら、思い出の箱根の関所を越えて行くのである。



カイバ=快馬。速く走る馬。「快」は「はやい」の意。

キト=危途。あぶない道、危険な道路。危道(キドウ)ともいう。

カンシャ=檻車。罪人・獣などを運ぶ、おりのついた車。ここえでは唐丸籠のこと。罪人の護送に用いました。「とうまる」は「鶤鶏」。上から籠を被せたさまが似ているからいう。「檻」は「おり」。檻猿(カンエン=おりに入れられたサル、自由の利かないもののたとえ)、檻檻(カンカン=車の走るときの音の形容)、檻穽(カンセイ=おりと、落とし穴)、檻送(カンソウ=罪人などをおりや囲いに入れて送る、檻致=カンチ=)、檻輿(カンヨ=罪人などを送るための、おりのついたこし(かついで運ぶかご)。「てすり」「おばしま」の訓みもあり、「欄檻」「闌檻」(以上、ランカン)。


この詩も春の雨を詠んでいます。先の詩は簾越しの雨。今回の雨は罪人として唐丸籠を隔てて見る雨。その境遇には雲泥の差があります。三樹三郎の身に何があったのでしょうか?

明治書院(P123)によると、「蝦夷、奥羽、北陸を回り、海防の不備に驚き、年来の尊皇攘夷思想も俄然現実的なものになってゆく。幕府の外国との条約締結、将軍継嗣問題にことごとく反対し、水戸藩に幕府叱責と攘夷の詔勅を賜わるように運動したかどで三樹三郎は捕らえられる」とあります。水戸藩の詔勅は、世に言う「戊午の密勅」。それがために井伊直弼から睨まれた彼は安政の大獄で、拠点にしていた京都から江戸に送られます。その“道中”、箱根で春雨の風景に出遭ったさまを詩に詠じました。眠りに就いて夢を見ているのでしょうか。江戸で待ち受けた幕府の追及は厳しいものでしたが、言を翻さず小塚原で斬首されました。

本日のオマケ。三樹三郎は東北・蝦夷旅行の最中、弘化3年10月14日、江差にいた友人・松浦武四郎と「一日百印百詩」の会という雅会を催しました。地元の文人らを集めた中から「題」が出され、その「題」をもとに、三樹三郎が詩を詠んで紙に書き、武四郎が題名を鉄筆を使って石に彫ってハンコを作り、その紙にペタリと捺す。その速さと技術を競い合うという即興芸でしたが、それを百回行うという途方もなく大変な作業。しかし、二人は日の明けきらないうちから始めて、日が沈むまでの間に、多くの人たちが見守る中、その百印と百詩を完成させました(三重県松阪市のHP参照)。北海道大学のサイトで原文が見られます(ここ)。達筆なる漢文ですので迂生にはとても太刀打ちできません。雰囲気だけでも味わって見ていただきますと、三樹三郎と武四郎のコラボレーションの真蹟が分かります。この中から漢詩を一首でも採録できると良かったのですが、時間も無い中、現状では無理。将来の課題ということでお許しください。

家族にゃ悪いが夷国船を撃破しに行かねばならぬ=ヤミ商人の才覚も禀けた梅田雲浜

安政の大獄で捕らえられ、病死した梅田雲浜(1815~59)。前回ご紹介した吉田松陰の「留魂録」(第二章、冒頭から二つ目の「一」から始まるくだり)にある梅田源二郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をかせしや」との幕吏の尋問ででてくる「梅田源二郎」のことです。これに対して、松陰は雲浜のことを「素より奸猾」と称して、「わたしが密議するなどあり得ない」と反論しています。かなり厳しい調子の物言いですが、一体どんな人物だったのでしょうか。

いつものように明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」によることとします。そのP120によれば、「若狭小浜の人。江戸に出て山口管山に学ぶ。後に京都に移り、京都における尊皇攘夷派の中心的存在となる。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、橋本左内、頼三樹三郎らと交友があり、すべてをなげうって攘夷の運動に奔走した。安政の大獄で捕らえられ、牢内で病死」とあります。

これではよく分かりませんが、そんなときこそ漢詩を味わいましょう。「安政元年十一月、ロシアのプチャーチンが大阪沖に現れ通商条約を迫った際、これを追い払おうとして家を出る時に残したもの」(明治書院)とあります。1854年のことですから雲浜が39~40歳のころです。

「訣別」。

妻臥■■児叫飢    妻はビョウショウに臥し児は飢えに叫ぶ
挺身直欲払■■    身を挺して直ちにジュウイを払わんと欲す
今朝死別与生別    今朝死別と生別と
唯有皇天后土知    唯だ皇天后土の知る有り



【解釈】 妻は病の床に横たわり、子はひもじさに泣き叫んでいる。この妻子を置いて去るにはいかにも忍びないのであるが、身をなげだし、進んで外夷を撃ち払うために門を出るのである。今朝が死別となるのか、生別となるのか、それは、ただ天地の神々だけが知るところで、私があらかじめ知る由もないことである。

ビョウショウ=病牀。病人が寝ている寝床。やまいの床。「牀」は「とこ」。もちろん、「病床」でも正解ですが、雲浜先生の語彙ですから、覚えておきましょう。病蓐(ビョウジョク)、病褥(ビョウジョク)ともいう。

ジュウイ=戎夷。中国から見て周辺の異民族の蔑称。もちろん、ここはわが日本国から見た西洋諸国のこと。攘夷ですから。戎狄(ジュウテキ)、戎越(ジュウエツ)、戎蛮(ジュバン)ともいう。



雲浜の一家は当時、貧困の窮みに喘いでいたようです。結核を患う妻は病床にあり、二人の子供にも食事すら碌に与えられない始末。嗟夫、それなのに、嗟夫、それなのに。。。そんな家族を置き去りにしてもロシア船を撃ち払おうという雲浜は、詩を賦します。ところが、妻はあろうことか雲浜を励まし、送り出したと伝えられています。「妻の鑑」でしょうか。妻は翌年二十九歳でこの世を去り、雲浜は幼い二人の子供を抱えながら、妻の位牌を常に携行しつつ尊皇攘夷の運動を続けました。。。この姿からは少なくとも松陰から「奸猾(姦猾)=悪賢い」と称されるようなダーティーなイメージはうかがえないですねぇ。

ところが、ネット検索をしていてとあるblogの雲浜に関する記述(ここ)を見つけました。はは~ん、これか。。。以下、そのまま引用しておきます。

「……これが4~5年も経つと急にりっぱになって、長州の客、大和の客、と出入りも多く、客が来ると祇園町から芸者なども呼びよせて酒宴をする」

「これは長州から金がきていたのではなかった。彼がそういう政治資金を何処からどうして取って来たかというと、彼の門人の中には、京都あるいは江州、あるいは大和、そういった各地方のブルジョアジーがいて、そのブルジョア的な門弟達が発案して、たとえば大和の物産を京都にもって来て売りさばく。京都の物資を買い集めて大和にもっていって売りさばく。ところが当時はそれは問屋を通じてしなければならない。それを直接にヤミでやる。そのヤミのルートを雲浜先生につけてもらう。・・・雲浜先生にはいろいろなお弟子さんが沢山あるから、頼まれると、よろしいというので、若州の家老のところに、あるいは長州の家老のところに出かけて行く。直接談判で話をつける。自分の若狭藩の物産方に話をつける。こういうふうにして、幕府の260年の間の決めてある問屋を通じての取引をやらないで、自由貿易をやる。国内市場の自由な発達の通路をつくってやる。この仕事をはじめたのである。そこで一昨日の貧乏人が急に立派になった。政治資金が出来て運動も大規模になる。長州に商談を兼ねて乗り込む。そうすると吉田松陰は潔癖家だから、さしむき河上肇先生みたいである。凡そ銭かねのことは不案内、天下国家のことしか眼中にない。こういう人から見ると、どうも雲浜という人はおもしろくない。雲浜はヤミ商人のようである。それで松蔭が江戸の牢に入れられて、牢の中で雲浜とすれ違ったとしても―すれ違ったかどうか知らぬが―鼻汁もひっかけない。そうして取調べの席において、雲浜というものは信用できない。あれは商売人だ。到底国事を共にするということはできない。だから自分は雲浜と連絡はありっこないといって頑張る。けれども政治家としてみるならば雲浜という人間のほうが偉かった。・・・現実に雲浜は幕末尊王運動の組織者で、その組織運動ということにおいては松蔭は雲浜の比ではない。・・・雲浜によって組織されたこの種の産商業家の組織が一つの政治的経済的な地下組織となって、雲浜処刑後の、あの安政の大獄直後の猛烈な反動の嵐の中にビクともせず残っていた」
(服部之総『近代日本のなりたち』)  


以上、引用終わり。

どうやら、雲浜は儒学者であると同時に、広範な人脈を生かしてヤミの商売人としての才覚も持ちあわせていたようです。その資金力をバックに尊皇攘夷の志士たちを動かす黒幕となったのでした。松陰が「奸猾」と称したのは「商売人」として貶んだ言葉だったのです。理想と現実。。。得てして人は「二面性」があるものです。どちらも矯りのない本当の姿なのです。

本日のオマケ。明治書院には載っていませんが、この詩には続きと言うか、実は二首連作のようです。

■■欲支奈力微   タイカ支えんと欲するも力微なるを奈んせん
此間可説小是非   この間説く可けんや小是非
■■効国区々意   センシン国にす 区々の意
憤激臨行帝闈拝   憤激行に臨みて帝闈を拝す



タイカ=大厦。大きな建物。「厦」は「いえ」。大廈高楼(タイカコウロウ)は忘れずに。

センシン=賤臣。主君に対して、家臣が自分のことを謙遜していうことば。賤役、賤技、賤軀、賤躬、賤子、賤事、賤室、賤質、賤儒、賤妾、賤称、賤丈夫、賤人、賤内、賤房、賤微、賤侮、賤俘、賤隷、賤民はいずれも「いやしい~」で遜る言い方です。意味はご自分で。。。≠浅斟、穿鍼、尖新、荐臻、贍賑、還軫、専心、線審。

効す=いたす。力を出しつくす。効果を上げる。効力(コウシ、シをいたす=命を捨てる、また、死ぬほど努力する、死力を尽くす)。

帝闈=テイイ。天子の居られる場所。御所。帝掖(テイエキ)、禁掖(キンエキ)、帝闕(テイケツ)、帝城(テイジョウ)ともいう。「闈」(イ)は宮中の通路に設けた小門のこと。



またまた翻って、漢詩人としてはやはり、熱き勤王の志士ですね。結句は“熱い”の一語に尽きます。藤田東湖の「正気の歌」を思い出します。

耳を飛ばして情報を得、長い目で世界を見よ=「大和魂」を留め置いた吉田松陰

「飛耳長目」という成句はご存知でしょう。「長目飛耳」とも「鳶目兎耳」とも言います。「何処からでも情報を仕入れ、先を読む洞察力を持つこと。「耳」を飛ばすというのは面白い表現ですな。今なら、差し詰め新聞記者など情報収集を生業とする者の極意をいう。吉田松陰が好んで用いた言葉の一つであり、彼は私塾「松下村塾」で門下生たちにこの教えを繰り返し説きました。将来を的確に読む力を養うためには、情報収集が欠かせないのだ。そのために彼はかの東北旅行をはじめ全国行脚し、自らの手で情報を集めたのです。遠近で見聞したもの、随所の賢者の高論卓説によって“インスパイア”され、日本国が目指すべき針路を思い描いたのです。このままではダメだと。。。しかし、松陰の「長目」は当時まだ少しだけ「先を見過ぎた」がためにその寿命を縮めたというのは皮肉でしょうか。

松陰の遺書とも言われる「留魂録」。松下村塾門下生に当てたメッセージです。徳富蘇峰の「吉田松陰」(岩波文庫刊、P208~)から、その全文を引用します。ちょっと長すぎますかな。じっくりと読んでみてください。漢字の問題は厳選します。

『留魂録』〔人の将に死せんとする、その言や善し。〕

身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

  十月念五日                      二十一回猛士

一、余去年来心蹟百変、挙げて数え難し。就中趙の貫高を希い、楚の屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙の多士一貫高、荊楚の深慮只屈平」というもこの事なり。然るに五月十四日関東の行を聞きしよりは、また一の誠の字に工夫を付けたり。時に子遠死字を贈る、余これを用いず、一白綿布を求めて、「孟子のシセイにして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫付け、携えて江戸に来り、これを評定所に留め置きしも、吾が志を表するなり。去年来の事、恐れ多くも天朝、幕府の間、誠意相孚せざる所あり。天苟も吾が区々のコンセイを諒し給わば、幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、ブンボウ山を負うの喩、終に事をなすこと能わず今日に至る。また吾が徳のヒハクなるによればなり。今将誰をか尤めかつ怨んや〔これ哲人の心地〕

一、七月九日初めて評定所呼出しあり、三奉行出坐し、ジンキクの件両条あり。一に日く、「梅田源二郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をかせしや」。二に曰く、「御所内に落文あり、その手蹟汝に似たりと源二郎その外申立つる者あり、覚ありや」。この二条のみ。それ梅田は素よりカンカツなれば、余与に志を語ることを欲せざる所なり。何の密議をかなさんや。余ここにおいて六年間幽囚中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請い、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて、終に下獄とはなれり。

一、吾性激烈、ドバに短し、務めて時勢に従い人情に適するを主とす〔それ然り、豈にそれ然らんや〕。ここを以て吏に対して幕府違勅の已むを得ざるを陳じ、然る後当今的当の処置に及ぶ。その説常に講究する所にして、具に対策に載するが如し。ここを以て幕吏といえども甚だドバすること能わず。直ちに曰く、「汝陳白する所悉く的当とも思われず、かつ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届なり」。余また深く抗せず、「ここを以て罪を獲るは万々辞せざる所なり」といいて已みぬ。幕府の三尺、フイ(ホイ)国を憂うることを許さず。その是非、吾曾て弁争せざるなり。聞く、薩の日下部伊三次は対吏の日、当今政治の欠乏を歴詆して、かくの如くにては往先三、五年の無事も保し難しというて、キクリを激怒せしめ、乃ち曰く、「ここを以て死罪を得るといえども悔ざるなり」と。これ吾の及ばざる所なり。子遠の死を以て吾を責むるも、またこの意なるべし。唐の段秀実、郭曦においては彼の如くセイコン、朱においては彼の如くの激怒、然らば則ち英雄自ら時措の宜ろしきあり。要するに内に省みて疚からざるにあり、そもそもまた人を知り機を見ることを尊ぶ。吾の得失、当にガイカンの後を待って議すべぎのみ〔隠然自負、蓋し松陰直情径行といえども、また臨機応変的長州気質を免がる能わざるなり〕。

一、この回の口書甚だ草々なり。七月九日一通申立てたる後、九月五日、十月五日両度の呼出しも、差したるキクモンもなくして、十月十六日に至り、口書読み聞かせありて、直ちに書判せよとの事なり。余が苦心せし墨使応接、航海雄略等の論、一も書載せず。ただ数箇所、開港の事を程よく申演べて、国力充実の後打撰然るべしなど、吾心にも非ざるウフの論を書付けて口書とす。吾言いて益なきを知る故に敢て言わず、不満の甚だしきなり。甲寅の歳、航海一条の口書に比する時は、雲泥の違というべし〔死に際して、なお口実の可否を論ず、これ死を愛まずして、名を愛む所〕。

一、七月九日一通り大原公の事、鯖江要駕の事等を申立てたり。初め意らく、これらの事幕にも已にチョウチすべければ、明白に申立てたる方かえって宜しきなりと。已にして逐一口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。因って意らく、幕にて知らぬ所を強いて申立て、多人数に株連マンエンぜば善類を傷う事少なからず、毛を吹いて創を求むるに斉しと。ここにおいて鯖江侯要撃の事も要諫とはいい替えたり。また京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名等、成るべく丈は隠してグハクせず。これ吾後人のためにする区々の婆心なり。而うして幕裁、果して吾一人を罰して一人も他に連及なきは、実に大慶というべし。同志の諸友深く考思せよ。

一、要諫一条に付き、事遂げざるときは鯖江侯と刺違えて死し、警衛の者要蔽する時は打払うべきとの事、実に吾がいわざる所なり。然るに三奉行強いて書載してフフクせしめんと欲す。フフクは吾肯て受けんや。ここを以て十六日書判の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに争弁す。吾肯て一死を惜しまんや、両奉行の権詐に伏せざるなり。これより先九月五日、十月五日両度の吟味に吟味役まで具に申立てたるに、死を決して要諫す、必ずしも刺違え、切払い等の策あるに非ず。吟味役具にこれを諾して、而もかつ口書に書載するは権詐にあらずや、然れども事ここに至れば、刺違え、切払いの両事を受けざればかえって激烈を欠き、同志の諸友もまた惜しむなるべし、吾といえどもまた惜しまざるに非ず、然れども反復これを思えば、成仁の一死、区々一言の得失に非ず。今日義卿奸権のために死す、天地神明照鑑上にあり、何の惜しむことかあらん〔松陰十五、六の少年を提げて、堂々たる諸侯の儀衛を衝かんとす。人みなその大胆に驚く。彼曰く、「昇平日久しく、苟もくも決死の徒二、三あらんか、彼の横剣荷槍の儀衛は、禽奔獣散せん」。松陰死するの明年、水戸十七士桜田の変あり。ここにおいて門人みな彼が先見の明に服すという〕。

一、吾この回初め素より生を謀らず、また死を必せず。ただ誠のツウソクを以て天命の自然に委したるなり。七月九日に至っては、ほぼ一死を期す。故にその詩にいう、「継盛ただ当に市戮に甘んずべし、倉公寧んぞ復た生還を望まんや」と。その後九月五日、十月五日吟味の寛容なるに欺かれ、また必生を期す。またすこぶる慶幸の心あり。この心吾この身を惜しむために発するに非ず、そもそも故あり。キョロウ大晦、朝議已に幕府に貸す、今春三月五日、吾公の駕已に萩府を発す、吾策ここにおいて尽き果てたれば、死を求むること極めて急なり。六月の末江戸に来るに及んで、夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来り天下の形勢を考察し、神国の事なおなすべぎものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々り。吾もし死せずんば、その勃々たるもの決して汨没せざるなり。然れども十六日の口書三奉行の権詐、吾を死地に措かんとするを知り、因ってさらに生を幸うの心なし。これまた平生学問の得か然るなり。

一、今日死を決するの安心は、四時の循環において得る所あり。蓋し彼のカカを見るに、春種し夏苗し秋刈り冬蔵す。秋冬に至れば人みなその歳功の成るを悦び、酒を造りレイを為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨みて、歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾行年三十、事成ることなくして、死してカカの未だ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て言えば、これまた秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれは人寿は定りなし、カカの必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死するものは十歳中自ら四時あり、二十は自ら二十の四時あり、三十は自ら三十の四時あり、五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは、ケイコをして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは、霊椿をしてケイコたらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備わる、また秀また実、そのたりとその粟たると吾が知る所にあらず。同志の士その微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自らカカの有年に恥じざるなり。同志それこれを考思せよ。

一、東口揚屋におる水戸の郷士堀江克之助、余未だ一面なしといえども、真に知己なり、真に益友なり。余に謂いて曰く、「昔し矢部駿州は桑名侯へ御預けの日より絶食して敵讐をいて死し、果して敵讐を退けたり、今足下も自ら一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払われよ、一心を残し置きて給われよ」と丁寧に告戒せり。吾誠にこの言に感服す。また鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば天下の事総て天命に付せんのみ、ただ天下の益となるべき事は同志に托し後輩に残したき事なり」と。この言大いに吾志を得たり。吾の祈念を籠る所は、同志の士甲斐甲斐しく吾志を継紹して尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀鮎二子の如きは海外に立つとも獄中に立つとも、吾が同志たらん者願わくば交を結べかし。また本所亀沢町に山口三輶という医者あり、義を好む人と見えて、堀鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣わしたれば、小林のためにまた大いに周旋せり。この人想うに不凡ならん。かつ三子への通路はこの三輶老に托すべし。

一、堀江常に神道を崇め天皇を尊び、大道を天下に明白にし異端邪説を排せんと欲す。謂らく、天朝より教書を開板して天下に頒示するに如かずと。余謂らく、教書を開板するに一策なかるべからず、京師において大学校を興し、上天朝の御学風を天下に示し、また天下の奇材異能を京師に貢じ、然る後天下古今の正論確議を輯集して書となし、天朝教習の余を天下に分つときは、天下の人心自ら一定すべしと。因って平生子遠と密議する所の尊攘堂の議と合わせ堀江に謀り、これを子遠に任ずることに決す。子遠もし能く同志と議り内外志を協え、この事をして少しく端緒あらしめば、吾の志とする所もまた荒せずというべし。去年チョクジョウ倫旨等の事一跌すといえども、尊皇攘夷苟くも已むべきに非ざれば、また善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。京師学校の論また奇ならずや。

一、小林民部いう、京師の学習院は定日ありて、百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる、講日には公卿方出坐にて、講師菅家、清家及び地下の儒者相混ずるなり。然らばこの基に因ってさらに斟酌を加えば、いくらも妙策あるべし。また懐徳堂には霊元上皇シンピツの勅額あり。この基に因りさらに一堂を興すもまた妙なりと小林いえり。小林は鷹司家の諸太夫にて、この度遠島の罪科に処せらる。京師諸人中罪責極めて重し。その人多材多芸、ただ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。西奥揚屋にて余と同居す、後東口に移る。京師にて吉田の鈴鹿石州、同筑州別して知己の由、また山口三輶も小林のために大いに周旋したれば、鈴鹿か山口かの手を以て海外までも吾同志の士通信をなすべし。京師の事については後来必ず力を得る所あらん。

一、讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諫め、宗藩水家と親睦の事について苦心せし人なり。東奥揚屋にあり、その子速水、余と西奥に同居す。この父子の罪科如何、未だ知るべからず。同志の諸友切に紀念せよ。予初めて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。法、セキゴを交ゆることを得ず、翁独語するものの如くして曰く、「むしろ玉と為りて砕くるとも、瓦と為りて全うする勿れ」と。吾甚だその意に感ず。同志それこれを察せよ。

一、右数条余徒に書するにあらず。天下の事を成すは、天下有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず。而して右数人は余この回新たに得る所の人なるを以て、これを同志に告示するなり。また勝野保三郎早や已に出牢す。ついてその詳を問知すべし。勝野の父豊作、今潜伏すといえども有志の士と聞けり。他日事平ぐを待って物色すべし。今日の事、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同志をモンジンする如くすべし。一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す。

一、越前の橋本左内二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に坐する五、六日のみ。勝保同居せり。後勝保西奥に来り、余と同居す。余勝保の談を聞いて、益々左内とハンメンなきを嘆ず。左内幽囚邸居中『資治通鑑』を読み、註を作り漢紀を終る。また獄中教学工作等の事を論ぜし由、勝保余にこれを語る。獄の論大いに吾意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思う。ああ〔恐らくは松陰以上の人ならん〕。

一、清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。故に余これを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。同志それ吾に代ってこの言を践まば幸甚なり。

一、同志諸友の内、小田村、中谷、久保、久坂、子遠兄弟らの事、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野らへ告知し置きぬ。村塾の嘉、須佐、阿月らの事も告げ置けり。飯田、尾寺、高杉及び利輔の事も諸人に告げ置きしなり。これみな吾が苟くもこれをなすに非ず。

かきつけ終りて後

心なることの種々かき置ぎぬ思い残せしことなかりけり〔安心〕

呼だしの声まつ外に今の世に待つべき事の無かりけるかな〔静寂〕

討たれたるわれをあわれと見ん人はきみを崇めて夷払えよ〔尊王攘夷〕

愚かなる吾をも友とめず人はわがとも友とめでよ人びと〔汝ら相い愛せよ〕

七たびも生かえりつつをぞ攘わんこころ吾れ忘れめや〔七たび生れて賊を滅ぼす〕

十月二十六日黄昏書す                    二十一回猛士




こたえ)▼シセイ=至誠▼コンセイ=悃誠(懇誠)▼ブンボウ=蚊虻▼ヒハク=菲薄▼ジンキク=尋鞠(訊鞠)▼カンカツ=奸猾(奸黠)▼ドバ=怒罵▼フイ(ホイ)=布衣▼キクリ=鞠吏▼セイコン=誠悃(誠懇)▼ガイカン=蓋棺▼キクモン=鞠問▼ウフ=迂腐▼チョウチ=諜知▼マンエン=蔓延▼グハク=具白▼フフク=誣服▼ツウソク=通塞▼キョロウ=去臘▼汨没=コツボツ▼カカ=禾稼▼レイ=醴▼ケイコ=蟪蛄▼秕=しいな▼詛いて=のろいて▼輯集=シュウシュウ▼協え=かなえ▼チョクジョウ=勅諚▼シンピツ=宸筆▼セキゴ=隻語▼モンジン=問訊▼ハンメン=半面▼夷=えびす


日本漢詩シリーズと銘打っておきながら本日は漢詩がありませんでした。次回からは通常のパターンに戻ります。

敵情視察のため外遊渇望も頓挫=国内旅行ではインスパイアされた吉田松陰

明治のジャーナリスト、徳富蘇峰が「吉田松陰」に関する論文(岩波文庫刊)を書いています。それによると、松陰は嘉永4年(1851)12月~5年(1852)4月、満22歳のとき、東北旅行をしています。前回ご紹介した漢詩、「磯原客舎」は、その時の模様を認めた「東北遊日記」の嘉永五年正月廿二日、茨城県・磯原(現在の北茨城市、野口雨情の故郷)にて詠じた詩です(ここ、18ページ目を睹てください)。

日記を見ますと、「磯原客舎」の詩の前にも漢詩が載っています。

白文のみ。

濤声砰湃和松声
十里白沙撥眼明
憶起舞妓湾上夢
一樽緑酒酔班荊



「砰湃」は「ホウハイ」。なみがぶつかり合うさま、その音の形容。「砰然」(ホウゼン)ともいう。澎湃と似ているが、こちらは水がこんこんとわき上がるさま。「撥」は「目を見開く」の意。原文では旁が「発」ですが、辞書にないのでこっちで書きました。「緑酒」は「上等な酒のこと」。「班荊」は友人と仲睦まじく並んで、いばらを敷いて座ること。班荊道故(ハンケイドウコ)を想起しましょう。



松陰の東北旅行は「武総の野を経て、水戸に赴き、白川に出で、会津に入り、越後に往き、佐渡に航し、転じて羽州を貫き、さらに寒沢に抵り、遙かに函館海峡を隔てて松前を望み、転じて仙台より米沢に到り、再び会津を蹈み、日光を経て江戸に帰れり」(岩波文庫「吉田松陰」P80)という長大な旅程でした。

松陰がなぜこの旅行を敢行したか、そして、外国渡航を企てたのかについて蘇峰が論考したくだりがあります(同書P82~85)。本日はここを引用して問題としたいと思います。漸長いです。

 その東北行において、最も大なる印象を加えたるは水戸なるべし。彼の尊王論は水戸派の尊王論にあらす。そのエンゲン各々同じからずして、ゴウも水戸派の議論に負う鮮なきが如しといえども、その実未だ必ずしも然りというべからず。然も王覇の弁、カイの説、神州たる所以、二百年来水戸人士のこれを講ずる精かつ詳。後水戸学の宿儒会沢、豊田の諸氏に接し、その談論を聞き、キゼンとして嘆じて曰く、「身皇国に生れ、皇国の皇国たる所以を知らず、何を以て天地の間に立たん」と。嘗て彼の「東北日記」の原稿を見るに、その表紙の裏面に、細字を以て『六国史』云々と乱抹せるものあり。これ彼が水戸に来りて、自家の邦典に明かならざるを愧じ、ハップン以てこれを誌せるなり。帰来急に『六国史』を取ってこれを読み、古の聖君英主海外蛮夷を懾服したるのユウリャクを観て、ガイゼンとして曰く、「吾今にして皇国の皇国たる所以を知れり」と。もしそれ彼の蜻蜓州の頭尾を蹈破して、天下を狭しとするの雄心を生じたるが如きは、活ける学問の学問たる所以と知らずや。

 かくの如く旅行は、彼の活ける学問たりき。然れども彼は亡邸(=勝手に他県に旅に出ること、一種の亡命か)のために、籍を削られ、禄を奪われ、家にヘイキョせしめられたり。彼が行路はここにサテツしたりき。

 これを要するに彼はその眼中、既に地方的固着心あらざりき。彼は長州藩士として天下に立たず、日本人士として天下に立てり。彼は実に天下の士を以て自ら任ぜしなり。その亡邸の挙たる、禄を世にし、籍を世にする封建時代においては、実に非常の事といわざるを得ず。然るにこれを捨てて、ゴウも意に関せざるが如きは何ぞや。果してこれを捨つる程の非常なる道理ありしか。否。彼はただ友人と発程の日を約束し、その期に違わんことを恐れて、かくの如き無遠慮の事を為したるなり。発程の期日を延期したりとて、何程の事かある。この極めて軽小なる事を以て、この極めて重大なるものとう、顧うに彼の眼中において果して自ら安んずる所あるか。

 かつ彼の一生を卜するに、彼恒に身を以てカンナンを避けざるのみならず、自らカンナンを招くもの、その例、即ちこの亡邸の一挙において観るべし。少しくその期日を忍べば、何ぞらに亡邸するに至らん、何ぞ故らに浪人と為るに及ばん、何ぞ故らにこの亡邸のために帰国を命ぜらるるに及ばん。然れども彼はこれを辞せざりしなり。大凡物はその好む所に聚る、彼のカンナンの如きも、またんぞ彼が自ら好んでこれを致したるに非ざる莫きを知らんや。

 サテツ彼において何かあらん、彼は蜻蜓州の頭尾を踏み破りて、満目の江山にそのライカイの気を養えり。彼は故郷にヘイキョせしめられたるに係わらず、知を藩主にうし、再び十年間遊学の許可を得、嘉永六年正月萩を発し、芸州より四国に渡り、大坂に達し、畿内を経、伊賀より伊勢に入り、随所の名士に接し、随所の歴史的古跡、随所のショウクを訪尋し、中山道を経、六月一日を以て江戸に達せり。あたかもこれ米国水師提督ペルリ、軍艦四隻をい、浦賀湾に突至し、国書を献げ、交親通商の期を迫るに際す。彼が平生蓄積したる骯髒(コウソウ=からだがふとって堂々としたさま)マイオウの気、一時に沸発し、正に非常の事を為し、以て非常の功を立てんとす。ここにおいてか万里超海のホウキョは彼を促して、終に自ら禁ずる能わざりき。

 何故に彼は外国に渡航せんと欲したるぞ。……(中略)……

 惟うに彼が外国に航せんと欲したるは、種々の企謀ありしに相違なしといえども、その重なる点は、則ち彼を知り己を知るの意にして、以て一種のカンチョウたらんと欲したりしなり。いわゆる(佐久間)象山が「ビシン別に謀を伐つの策有り、安んぞ風船を得て聖東(ワシントン)に下らん」といいしは、また以てその意の存する所を知るべし。然れどもさらに一層を突進して論ずれば、その非常の事たりしがためのみ。彼は非常を愛して、凡俗の行をなすを厭う。もし衆人みな独木橋を渡らば、彼んぞ喜んで渡らん。ただ人の為すを敢えてせざること、彼敢えて為さんと欲するのみ。

  云々…



こたえ)
▼エンゲン=淵原(淵源)▼ゴウも=毫も▼カイ=華夷▼キゼン=喟然▼ハップン=発憤▼懾服=ショウフク▼ユウリャク=雄略▼ガイゼン=慨然▼蹈破=トウハ▼ヘイキョ=屛居▼サテツ=蹉跌▼易う=かう▼カンナン=艱難▼故らに=ことさらに▼大凡=おおよそ(タイハン)▼焉んぞ=いずくんぞ▼ライカイ=磊塊▼辱う=かたじけのう▼ショウク=勝区▼帥い=ひきい▼マイオウ=邁往▼ホウキョ=鵬挙(鳳挙)▼カンチョウ=間諜▼ビシン=微臣▼奚んぞ=いずくんぞ(なんぞ)



佐久間象山の名前も出てきます。彼の漢詩はまた後日…。

松陰シリーズはあと一回続きます。

死して後国を動かす不思議な力=早熟にして早世した吉田松陰

明治書院の「新書漢文大系7 日本漢詩」をベースとして、日本人が漢字を列ねて詠じた「漢詩」を味わうシリーズは愈、江戸時代の幕末・維新篇に突入します。折しもNHK大河ドラマ「龍馬伝」が舞台を長崎に移し佳境に入っております。坂本龍馬、高杉晋作をはじめとする勤王の志士たちの獅子奮迅の活躍ぶりが活写されており、幕末ファンの方々は心を躍らせながらご覧になっているに違いありません。

世の中を変える政事の表舞台の陰で彼らはほぼ例外なく、一人の人間としての心情、乃ち“魂の迸り”を漢詩として世に残しているのが特徴です。表面的な歴史を記録する「正史」ではない、誤解を恐れずに言えば「野乗」の類ではないでしょうか。彼らは社会が流動化する中で、身分の高低に関係なく、高邁な理想を掲げ、独学であれ学問だけは欠かさなかった。そして、漢詩を詠む素養を身につけていたのです。

そんな漢詩でも恐らくは「糟魄」にすぎないでしょう。しかし、彼らが生きた「証」を我々に伝えてくれます。現代社会を生きる我々にとっては、漢詩を詠じる力を育むことは出来なくとも、漢詩を読んで味わい、生きるヒントを見出すことは決して無意味なことと思われません。毎度毎度の迂生の“自己陶酔的”な妄念と言われてもあえて反論はいたしませんが。。。。。

御託を並べた長口舌はここまで。幕末篇で味わう漢詩は、これまでの儒学者や僧侶と異なり、いわば志士たちの日記に過ぎず、その歴史的、文学的価値には甲論乙駁あるでしょう。それを前提として、当時の若者のホンネに迫りたいと思います。

まずは、可惜多くの人材を九泉に葬った「安政の大獄」に纏わる人々から味わうことといたしましょう。迂生の“歴史認識”では、「幕末」と言えば「安政の大獄」がスタートして以降の約10年間を指すと考えます。無論、それ以前のさまざまな出来事、例えば、ペリー来航なども広義の意味では含まれるでしょう。それでも、「末」という言葉に注目したい。約260年続いた江戸幕府が瓦解し新政府が台頭するプロセスを俯瞰した場合、全体の十分の一にも満たない最後の10年間を「末」と称したいのです。王政復古の大号令・1868年から10年を遡れば、1858年の「安政の大獄」に当たるのです。異論は芬芬でしょうが。

劈頭は勿論のこと吉田松陰(1830~59)です。

「磯原客舎」。

海楼把酒対長風    海楼酒を把って長風に対す
顔紅耳熱■■濃    顔紅に耳熱してスイミン濃かなり
忽見■■万里外    忽ち見るウントウ万里の外
蔽海来■■    巨ゴウ海を蔽うてモウドウ来る
我提吾軍来陣此    我吾が軍を提げ来りて此に陣す
貔貅百万髪上衝    貔貅百万髪上り衝く
夢断酒解灯亦滅    夢断え酒解けて灯亦滅す
■■撼枕夜■■    トウセイ枕を撼がして夜トウトウ



【解釈】 海辺の高楼に酒をくみながら万里の長風に向かうと、顔は紅くほてり、耳も熱くなり、いつしか酔いつぶれ、ぐっすり寝込んでしまった。たちまち夢の中で、雲と波と一つになった彼方から、大きな海亀が海を覆うように、外国の軍艦が寄せて来るのを見た。われもこれを迎え撃とうと、わが軍勢を率いて来てここに陣取れば、百万の勇士は怒髪冠を衝くばかり、まことに意気軒昂、たのもしき限りである。ふと夢も破れ酒の酔いもさめたときには、灯火も燃え尽きて真っ暗闇、ただ怒濤の声が枕を揺り動かさんばかりにどどーん、どどーんと聞こえていた。


スイミン=酔眠。酒に酔って眠ること。引っ掛けです。

ウントウ=雲濤。雲と波。

ゴウ=鼇。ウミガメ。「鼇」の一字で「おおうみがめ」とも訓む。鼇頭(ゴウトウ=おおうみがめの頭、書物の上欄に書きこんだ註釈、頭註)、鼇峰(ゴウホウ=翰林院のこと)、鼇山(ゴウザン=山車のこと)。

モウドウ=艨艟。いくさぶね、軍艦。艨衝(モウショウ)ともいう。≠盲動、妄動。

トウセイ=濤声。波のうねりの音。「濤」は「なみ」。濤波(トウハ=うねり、濤瀾=トウラン=)。

トウトウ=鼕鼕。とんとんという太鼓やつづみの音。これは難問か。滔々、罩罩、盪盪、偸盗、叨叨、幢幢、掉頭、沓沓、滔蕩、董統、蕩蕩、東陶などと区別しなければなりませんが、ここも太鼓などの音ではない比喩的な表現で用いているので難しい。

貔貅=ヒキュウ。猛獣の名。豹に似ている。太古の時代には飼い馴らして戦争に用いたという。勇猛な軍隊を比喩する言い方でもあります。貔虎(ヒコ)ともいう。



明治書院(P125)によると、この詩は「東北旅行の際、磯原(茨城県)の宿で見た夢を詠じたもの」とあります。松陰は長州萩の人。八歳で藩校明倫館に出仕し、十歳のとき、藩主の前で兵学を講じるほどの「早熟児」でありました。叔父の開いた松下村塾で学問に専念しながら世情を慮り、各地を経めぐり、ペリー来航時には便乗して世界を見ようと企てました。安政の大獄では島流しで済むところを、自らが老中暗殺を計画したことを告白して死罪になってしまうという不幸な末路でした。わずか二十九歳のことです。しかしながら、その遺志は弟子を通じて明治維新の推進力となります。死して後、影響力を行使したのです。松陰の漢詩は技巧はない。ストレートな感情を詠んでいる。「酒」と「眠り」に関する言葉が多く出てくるのが面白い。酒に酔って見た夢で彼の理想の社会を描いているのです。「艨艟」「貔貅」という言葉から滲み出る、外敵から日本国を守ろうという一念は誰にも負けない強いものがありました。

松陰は次回も続きます。

大業成すも満たされぬ太公望の心の隙とは?=南洲翁も信奉した佐藤一斎

あらゆる人間は平等な時間が与えられています。一日は二十四時間、一年は三百六十五日。これは誰も同じです。寿命は多少の違いがあるでしょうが、それは結果。生きている間は誰も次の瞬間死ぬとは思っていないので平等です。そこには全くの優位劣位はない。ところが、時間の使い方は千差万別。同じ一時間を使うもその効果たるや人によってがらりと異なります。仮令、世間が認める大業を成したとしても、どこかしら心が満たされないこともある。それは己が納得した時間の使い方ではなかったから。したがって、生きていく上で時間の使い方が最も大切となります。「時間が足りない」「時間があり過ぎる」とその多寡を嘆くのではなく、自分にとって最も有効な、納得のいく使い方を心掛けるべきです。

中国周代の太公望呂尚はご存知でしょう。渭水の上(ほとり)で釣りをしていたところを占いのお告げを受けた文王に発掘され、車で連れられる。そして、その子・武王を補佐して殷国を滅ぼし、周王朝建国に多大な貢献をしました。しかしながら、やはりこの人は「渭浜漁父」なのです。釣りが好きで好きでたまらない。魚が釣れようが釣れまいが渭水の上で釣り糸を垂れて一日をのんびりと過ごしたかったのです。そんな太公望の心境を詠じた漢詩が江戸時代末期の官需、佐藤一斎(1772~1859)にあります。

明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P119)によると、彼のプロフィールは「美濃岩村藩の江戸藩邸で家老の子として生まれた。ここで一斎は一生を規定する出会いをする。藩主の第三子、松平衡(たいら)、一斎より四歳年長であった。のちに衡は林家の養子となり、林述斎と称する。一斎は少年時代この衡と兄弟のように生活し、共に学問に励んだ」とあります。林家の養子となった衡に従って、一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門。1805年には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たったといいます。儒学の大成者として公に認められ、1841年に述斎が没すると、公儀の学問所昌平黌の儒官(総長)を命じられ、実質的な責任者となりました。門下生にはあの渡辺崋山もいました。ただ、蛮社の獄で崋山の無実の罪を解くよう奔走した松崎慊堂とは対照的な態度をとったことから、明治期にはその無慈悲さを批判されることとなります。

「太公望垂釣図」。


謬被文王載帰得    謬って文王に載せ得て帰られ
■■風月与心違    イッカンの風月心と違う
想君牧野■■後    想う君が牧野ヨウヨウの後
夢在磻渓旧釣磯    夢は磻渓の旧釣磯に在りしならんと



【解釈】 不本意にも文王に見い出され、王の車で周につれていかれた太公望は、それ以来心ならずも、一本の釣竿を肩に風月を楽しむことは二度と得られなかった。文王が亡くなって武王が立ち、その軍師として目ざましい働きをし、ついに殷の紂王を牧野に伐って滅ぼし、実は斉公に封ぜられたものの、その後、毎夜見る夢は、おそらく昔釣りをした磻渓の磯に帰って行ったことであろう。



イッカン=一竿。釣り竿のこと。ここは「一竿風月」(イッカンフウゲツ、イッカンのフウゲツ)で、陸游の「感旧詩」にある「回首壮遊真昨夢、一竿風月老南湖」との一節を踏まえている。釣り竿一本を友に、俗事を忘れて自然の風月を楽しみながら、自然の中で悠悠自適に過ごすことをいう。王侯に仕えず在野で隠棲して暮らすことを含意しているかもしれません。

ヨウヨウ=鷹揚。タカが飛ぶようにゆったりと力強く、勢い盛んなこと。「オウヨウ」と読むのは日本語で「こせこせしない、ゆったりと落ち着いている」の意。ここは無論前者の意。

釣磯=チョウキ。釣りをする磯のこと。「磯」の音読み「キ」と読む熟語が珍しいので採録しておきました。「幾何学」の「幾」が「キ」なので読むこと自体は難しくないですね。でも熟語はかなり珍しいです。熟字訓の磯馴松は「そなれまつ」。



出だしの「謬って」が面白い。「もつれて道筋を間違った」と言う意味ですが、ここは太公望呂尚の不本意な気持ちを代弁しています。「一竿風月」こそが彼の本心だったという。その後の業績も名声もなぜかしら空しい。「磻渓」(ハンケイ)とは、今の陝西省宝鶏県の東南を流れ、渭水に注ぐ川の名。呂尚が釣りをしていて文王に出会ったところです。ああ、呂尚よ、あなたは文王にさえ出会わなければあのまま釣りを楽しんでいたろうに。。。ここからは一斎の気持ちの忖度です。私も衡侯の傍に仕えていなければ、江戸・昌平黌で儒学を教えるなどという大それたことをする機会もなかったのだ。人の運命など分からぬものだ。自分自身でさえどうにもならないものなのかもしれない。確かに大きなことができるのはうれしいのだ。人より恵まれているだろう。呂尚とても正直そう思ったに違いない。ところが、どこかしら隙間風が吹くのはなぜだろう。人間は本当にやりたいことをしているのが一番なのである。事の大きさではない。己の満足感なのだ。それがこの世に生を享けた証なのかもしれないな。碩儒・佐藤一斎の本音が、太公望に事寄せて垣間見える詩ですね。う~む、深いぞ。

本日のオマケ。一斎は「言志四禄」という書物を書いております。「言志禄」「言志後禄」「言志晩禄」「言志耋禄」の4書の総称で、総1133条にも及ぶ長大な内容です。この中から西郷隆盛(南洲)が101条を選んで手元の座右の銘としていました。秋月種樹(古香)がその手抄本を借り出して、偶評を加えて、「南洲手抄言志録」として発行しました。青空文庫で読めます(ここ)。この書は1888(明治21)年5月17日に博聞社から発行されたもので、山田済斎が「南洲手抄言志録」を「西郷南洲遺訓」に収録する際に、漢文の偶評を反訳し、本文に訳を加えたのです。

ここから最初の十カ条を抜粋して、佐藤一斎の遺訓の一端と西郷がどう活用したのかを味わうとともに、漢字のお勉強もいたしましょう。

一 勿認■■以爲寛裕。勿認嚴刻以爲■■。勿認私欲以爲志願。

〔譯〕ユウダを認めて以て寛裕と爲すこと勿れ。嚴刻を認めて以てチョクリョウと爲すこと勿れ。私欲を認めて以て志願と爲すこと勿れ。

二 毀譽得喪、眞是人生之雲霧、使人■■。一掃此雲霧、則天青日白。

〔譯〕毀譽得喪は、眞に是れ人生の雲霧、人をしてコンメイせしむ。此の雲霧を一掃せば、則ち天青く日白し。

〔評〕徳川慶喜公は勤王の臣たり。幕吏の要する所となりて朝敵となる。猶南洲勤王の臣として終りを克くせざるごとし。公は罪をし位に敍せらる、南洲は永く反賊の名を蒙る、悲しいかな。(原漢文、下同)

三 唐虞之治、只是情一字。極而言之、萬物一體、不外於情之推。

〔譯〕唐虞の治は只是れ情の一字なり。極めて之を言へば、萬物一體も情の推に外ならず。

〔評〕南洲、官軍を帥ゐて京師を發す。婢あり別れを惜みて伏水に至る。兵士環つて之を視る。南洲輿中より之を招き、其背を拊つて曰ふ、好在なれと、金を懷中より出して之に與へ、旁ら人なき若し。兵士太だ其の情を匿さざるに服す。幕府砲臺を神奈川に築き、外人の來り觀るを許さず、木戸公役徒に雜り、自らを荷うて之を觀る。茶店のロウウあり、公の常人に非ざるを知り、善く之を遇す。公志を得るに及んで、厚く之に報ゆ。皆情の推なり。

四 凡作事、須要有事天之心。不要有示人之念。

〔譯〕凡そ事を作すには、須らく天に事ふるの心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず。

五 憤一字、是進學機關。舜何人也、予何人也、方是憤。

〔譯〕憤の一字、是れ進學の機關なり。舜何人ぞや、予何人ぞや、方に是れ憤。

六 著眼高、則見理不岐。

〔譯〕眼を著くること高ければ、則ち理を見ること岐せず。

〔評〕三條公は西三條、東久世諸公と長門に走る、之を七卿脱走と謂ふ。幕府之を宰府にザンす。既にして七卿が勤王の士を募り國家を亂さんと欲するを憂へ、浪華に幽するの議あり。南洲等力めて之を拒ぎ、事終にむ。南洲人に語つて曰ふ、七卿中他日關白に任ぜらるゝ者は、必三條公ならんと、果して然りき。

七 性同而質異。質異、教之所由設也。性同、教之所由立也。

〔譯〕性は同じうして而て質は異る。質異るは教の由つて設けらるゝ所なり。性同じきは教の由つて立つ所なり。

八 喪己斯喪人。喪人斯喪物。

〔譯〕己を喪へば斯に人を喪ふ。人を喪へば斯に物を喪ふ。

九 士貴獨立自信矣。依熱附炎之念、不可起。

〔譯〕士は獨立自信を貴ぶ。熱に依り炎に附くの念、起す可らず。

〔評〕慶應三年九月、山内容堂公は寺村左膳、後藤象次郎を以て使となし、書を幕府に呈す。曰ふ、中古以還、政刑武門に出づ。洋人來航するに及んで、物議紛々、東攻西撃して、ナイコウ嘗て戢(おさま)る時なく、終に外國の輕侮を招くに至る。此れ政令二途に出で、天下耳目の屬する所を異にするが故なり。今や時勢一變して舊規を墨守す可らず、宜しく政權を王室に還し、以て萬國竝立の基礎を建つべし。其れ則ち當今の急務にして、而て容堂のシガンなり。幕下の賢なる、必之を察するあらんと。他日幕府の政權を還せる、其事實に公の呈書に本づけり。當時幕府既に衰へたりと雖、イケン未だ地に墜ちず。公抗論して忌まず、獨立の見ありと謂ふべし。

一〇 有本然之眞己、有■■之假己。須要自認得。

〔譯〕本然の眞己有り、クカクの假己有り。須らく自ら認め得んことを要すべし。

〔評〕南洲胃を病む。英醫偉利斯之を診して、勞動を勸む。南洲是より山野に游獵せり。人或は病なくして犬を牽き兎を逐ひ、自ら南洲を學ぶと謂ふ、疎なり。






こたえ)▼游惰(遊惰)▼直諒▼昏迷▼ゆるし▼ふご(もっこ)▼老嫗▼竄▼やむ▼内訌▼至願▼威權(威権)▼躯殼(軀殻)

昌平黌で学問の思いに浸る=竹を画く極意を詠じた野田笛浦

本日は江戸時代終盤の藩儒、野田笛浦(1799~1859)を取り上げます。それほど著名な漢詩人ではないでしょう。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P116~117)によれば、「丹後田辺の人。十二歳のとき江戸に行き、古賀精里の門人になる。文政九年(1826)、清国の船が清水港に漂着し、その応待を命ぜられる。船を長崎に護送するまでの六十日間、筆談し、また詩を応酬し合い、中国人を驚かせたという。このとき、笛浦は昌平黌にあった。のちに郷里の田辺藩に仕え、藩の執政として文教部門において大きな貢献をなす」とあります。

「画竹」。

落落胸中竹    落落たる胸中の竹
一揮応手成    一たび揮えば手に応じて成る
湘雲凝不散    湘雲凝って散ぜず
■■■■    マンプクシュウセイ起こる



【解釈】 爽快な胸中の成竹を筆に託し、一たびこれを揮えば、手に従って見事に苦も無くできた。湘水のほとりの雲が凝ったようにまわりを籠めて、一幅全体にいかにも秋の声が起こってきそうである。



マンプク=満幅。紙・布の幅いっぱい。全面的。これは引っ掛け。「満腹」や「万福」ではない。

シュウセイ=秋声。秋を感じさせるような物音、秋風の音や木の葉の散る音など。≠甃砌、秋霽、脩整、修正。



明治書院によれば、詩は竹の画に題したものという。「落落」とは、さっぱりした気分、気持ちが大きくて率直なさま。「胸中竹」というのは面白い表現です。心の中で竹の姿を強く思うこと。念ずれば通ず。竹の画を描こうと筆を揮う際の極意を述べています。イメージ・トレーニングが大事であると。竹が地中から顔を出し、グングン伸びてゆく。そして枝を張り、葉を繁らせ、秋風にカサカサとさびしい音を立てる――。こうした姿を心に思い描くのです。そうすれば、あとは筆が動くのに任せるだけ。一気呵成。芸術家の気持ちはなかなか分かりませんが、実際に筆をどう使おうかなどとはあまり考えないのが普通でしょう。筆を下ろすまでが大変。胸に去来するさまざまな思いをいかにして題材にするか。それが難しいんです。このblogの執筆もそう。各ネタが決まるまでが大変。一旦固まればあとはキーボードを乱打するのみ。一心不乱に書く可し。

笛浦が江戸・昌平黌で学んだころを思い描いて詠んだ詩でしょうか。「昌平橋納涼」という作品があります。昌平橋は江戸神田川に懸かる橋で、現在のJR御茶ノ水駅東口、「聖橋」の南詰めの坂を百メートルほど下ったところにあります。川向かいには昌平黌(湯島聖堂)が見えることから、昌平橋と称されるようになりました。当時の神田川には舟が浮かべられ、月見の宴が催され、その河畔では夜店が立ち並び人々が行き交ったようです。

夏雲擘絮月斜明    夏雲綿をいて月斜めに明らかなり
細葛含風歩歩軽    細葛風を含んで歩歩軽し
数点■■橋外市    数点のコウトウ橋外の市
■■一担売秋声    ロウチュウ一担秋声を売る



【解釈】 夏の白い雲が綿をさいたようになり、その裂け目から夕月が明るい光をなげている。薄いかたびらの袖は風をはらんで涼しく、歩く足取りも軽い。何か所かのかがり火があかあかと燃えて、橋畔の夜店には一荷の籠虫が並び、早くも秋の声を売っている。

コウトウ=篝灯。かがり火。かごでおおった灯火。「篝」は「かがり」と訓み、「木や竹を四角く組んで火を付ける組み木」の意。篝火(コウカ、かがりび=夜間の照明・警備・漁猟などのために、屋外でたく火)。

ロウチュウ=籠虫。鈴虫などかごの中で飼っている虫のこと。「籠」は「かご」。籠蓋(ロウガイ=すっぽりとおおう)。

擘いて=つんざいて。「擘く」は「つんざく」。通常は「劈く」ですが、これもありです。音読みは「ハク、ヘキ」。擘張(ハクチョウ=手で弓をひきしぼること)、擘裂(ハクレツ=引き裂く、つんざく)、擘劃(ハッカク=右に左に分けながら、人や事柄を整理して処分する、擘画)、擘指(ヘキシ=おやゆび)、巨擘(キョハク=巨頭、大親分)。


晩夏の夜の風景を詠じた爽やかな作品。明治書院(P118)によれば、「神田川べりの納涼を描いて涼やかな詩である。足どり軽く歩くのは昌平黌の学生であろうか。雲の間から夕月がさし、川風が心地よい。今やかがり火は望むべくもないが、カーバイドの灯りにさえ郷愁を覚える昨今である。現在のこの界隈は、聖橋のたもとにビルが立ち並び、往時を偲ぶよすがはない。籠の中の虫はすずむしであろうか」との鑑賞がみえます。

「葛」は「かたびら」とも訓み、「クズの繊維を織ってつくった布、それでつくった衣」。「担」は「ひとかつぎでかつげる重さ・量」で、「一担」は「百斤、また一石、約五十キログラム」。満担(マンタン=せいいっぱいのひとかつぎの重さ)。

湯島聖堂に行かれたことはありますか?

迂生は昨年の5月には初めて訪れました。境内の掲示板には「日本の学校教育発祥の地」と記されています。既にご紹介した「寛政異学の禁」で復活を遂げ、林家の私塾から幕府の御用学問所「昌平坂学問所(昌平黌)」になりました。「昌平」というのは儒教の祖、孔子の生まれた村の名です。明治期には湯島聖堂の構内に文部省、国立博物館(現在の東京国立博物館・国立科学博物館)、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)など一時同居していました。孔子廟が祀られている「大成殿」は土日祝日のみ公開されております。受験シーズンには、孔子の絵馬を買い求め、合格祈願する人々で賑わいますが、普段は閑静です。緑豊かな境内を散策しながら学問への思いに浸るのも偶には乙ですよ。

攘夷せよ!火が付く幕府の尻叩く=激烈なる漢詩人カップル・梁川星巌・紅蘭

200年以上もの長きにわたり太平の世を謳歌し、安逸を貪った江戸時代も1800年代に入り、進むにつれてと、あちこちにガタがきて綻びが目立ち、屋台骨が揺らぐようになります。最終的には開国せざるを得ないのですが、そこに行き着く道程において「攘夷」の思想は避けて通れませんでした。前回取り上げた藤田東湖も若き勤王の志士たちに過激な思想を植え付けました。本日紹介する梁川星巌(1789~1858)も東湖と同様の熱き人でした。東湖と比べればどちらかと言うと漢詩人として名を残したのですが、勤王の志士たちにとって精神的支柱として果たした役割も無視するわけにはいきません。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P114)によると、星巌は「梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内等と交友があり、没するのがもう少し遅ければ、捕らえられること必定であった」とあります。安政の大獄ですね。

「紀事」。熱い詩です。

当年■■気憑陵    当年のダイソ 気 憑陵
叱咤風雲巻地興    風雲を叱咤し地を巻いて興る
今日不能除外■    今日外キンを除く能わずんば
■■二次是虚称    セイイの二字は是れ虚称



【解釈】 その昔徳川氏の祖家康は頗る盛んで、風雲に乗じ地を巻く勢いで身を興し、征夷大将軍となり幕府を開いた。その子孫たるものが、今日に及んで外患を除き得ないようでは、征夷の二字はその実のない虚称となる(征夷大将軍と言うからには、その名の通り外夷を撃攘すべきである)。


ダイソ=乃祖。汝の祖父。転じて、大祖先、偉大なる始祖。ここは徳川幕府を開いた家康を指す。「乃」は「なんじ、第二人称の代名詞」。乃公(ダイコウ=目上の者が、目下の者に対して自分を言う自称の言葉、父が、自分の子に対して自分をいう自称のことば)、乃今(ダイコン=このごろ、いま)。

キン=釁。すきま、割れ目。「外釁」は辞書に見えませんが、外国から攻められる恐れや外国との煩わしい交渉をいう。外患、外虞、外憂とも同義。釁端(キンタン=戦争が起こったり、不和になったりするきっかけ、仲たがいのはじまり)、釁隙(キンゲキ=すきま、仲たがい)。「釁」はもともと、銅器や酒器などのわれめのことですが、「ちぬる」の訓みも忘れずに。

セイイ=征夷。夷(えびす=外敵)を打ち払うこと。鎌倉時代以来、幕府の長を「征夷大将軍」と称しました。もともと奈良・平安時代は「蝦夷」を討つこと。≠誠意、清渭、霽威。



「憑陵」(ヒョウリョウ)とありますが、辞書では「憑凌」かあるいは「馮陵」となっており、「攻めよせて侵す」の意。「馮」は「向こう見ずにぶつかっていく」。行動が無茶振り、向こう見ずであるさまを「暴虎馮河」(ボウコヒョウガ)というのは「論語・述而」に見えます。

明治書院によると、詩は「老中間部詮勝の上洛を諫めようとして書かれたもの」とあります。安政五年(1858)秋、大老井伊直弼は日米修好通商条約の勅許を得るべく間部を上洛させました。星巌は間部に詩を教えたことがあり、紀事二十五首を作って、大津で出迎えて上洛を思いとどまらせようとしたのです。何よりも「征夷」が「虚称」というのは過激極まりない言葉です。

ところが星巌は虎列剌で急死します。先ほど名前の出た仲間たちが安政の大獄で捕らえられる3日前のことでした。それ以降は愈、血で血を洗う腥い幕末に突入します。数えればあっという間の十年間ですが、なんとまあ濃密な十年間であったことでしょう。弊blogの日本漢詩シリーズも8月からは幕末篇に入ります。

本日のオマケ。梁川星巌の妻、紅蘭も女流漢詩人として名高い。明治書院(P166)によれば、「江馬細香、原采蘋と並ぶ閨秀詩人である」と紹介されており、次の漢詩が載っています。

「牡丹蝴蝶図」。

■■驚世俗    グウゲン世俗を驚かす
周也果何人    周や果たして何人ぞ
怪爾為蝴蝶    怪しむ爾が蝴蝶と為り
偏尋富貴春    偏に富貴の春を尋ぬるを



【解釈】 事にかこつけたつくり話で世俗の人を驚かした荘周とは、いったいどんな人であったのでしょうか。あなたは夢に蝴蝶となって花から花へ飛びまわったと言いますが、ことさらに富貴の花といわれる牡丹の春色を訪ねるとは、平生の持論にも似合わない、とんと訝しく思われますよ。

グウゲン=寓言。事物にかこつけていう話。たとえ話。寓話(グウワ)とも。「寓」は「よる」「よせる」とも訓み、「当座のものを利用してことよせる、かこつけてほのめかす」の意。寓意(グウイ=他の物事にかこつけて、それとなく気持ちや意志を述べること)、寓懐(グウカイ=思いをよせる、自分の思いを他の事物に託する)、寓目(グウモク=注意して視る、注目、寓視=グウシ=)。


明治書院によると、「牡丹の花に蝶がたわむれている画を見て、それに題した詩」とある。「荘子」に出てくる有名な「胡蝶之夢」の故事が思い出されます。夢の中で荘子が胡蝶となり、気持ちよくひらひらと飛んでいるうちに目覚めてみれば、自分自身しかいない。あれれ、夢の中で趙になったのは自分なのか、それとも蝶が夢の中で荘子になったのか。区別がつかなくなってしまいます。紅蘭は、艶やかな牡丹の花に舞う蝶を見て、荘子の胡蝶を思い描いたのですが、「それにしちゃあ、荘子さん、牡丹なんざ、ちょっと派手が過ぎやしませんか?」と諷っているのです。「牡丹」は「富貴」の象徴。所詮、偉そうなこと言っても最後は金金か。。。尊皇攘夷を説いた熱血漢詩人星巌は、その妻も熱き女流漢詩人だったのです。

その紅蘭ですが、こんなお洒落なエピソードも。二人が結婚したのは文政3年(1820)。星巌32歳、紅蘭17歳のことでした。某サイトから借用いたします(ここ)。

星巌は、結婚後2~3ヶ月すると、もう旅に出た。

「わしはちょっと旅に出る。お前は裁縫をすること。それから学問をすること。まず三体詩をよく読んで、その中の絶句を暗誦しておきなさい。」と紅蘭に言い残して飄然と家を出ていってしまった。三体詩は、唐の164家の詩集で七絶・七律・五律の3種を記載するもので、詩学の代表的選集であった。

紅蘭は1ヶ月で絶句を覚えた。さらに律詩まですっかり暗記してしまったのに、星巌はいっこうに帰ってこない。

「見渡せば 野にも山にも霞なり 君は帰らず また春や来し」

春は再び訪れたが、夫からは一片の便りもない。親戚の者たちは、紅蘭がうら若い身そらで、長く空閨を守っていることに心を痛め、実家に戻るよう進言した。

しかし紅蘭は「一旦縁あって嫁いだ上は、一方の意志のみで自ら婚家を去るは、婦道の道に背くもの」と、いじらしくも固い決心をし、夫を信じてひたすら裁縫をし、詩道の勉学に精進した。

そんな星巌を待ち焦がれて詠んだ詩があります。詩題は「無題」。読めばわかるということです。

■■栽芍薬    カイゼンに芍薬を栽え
堂後蒔当帰    堂後に当帰を蒔く
一花還一草    一花還た一草
情緒両■■    情緒両つながらイイたり



【解釈】 前庭にはシャクヤクを植えました。背戸の庭にはセリを蒔きました。一つの花と一つの草と、花には花の思いを映し、草には草に寄せる私の思いがあります。私の心はこうして2つの花と草から離れることはありません。(芍薬は晩春に咲き、春に離れようとするので「将離」ともいう。ここでは夫に別れたこと。当帰はセリのこと。「待ち人は、やがてきっと帰ってくる」。どうして離婚など考えられるでしょう。)(訳・冨長蝶如)



カイゼン=階前。家に上がる階段の前、前庭のこと。

イイ=依依。なつかしげで離れにくいさま。依遅(イチ=ぐずぐずしてゆっくり物事をするさま)、依附(イフ=よりそってたよる)、依微(イビ=ぼんやりとしていてかすかなさま)。



星巌は足かけ3年目(文政5年・1822)、ようやく紅蘭の待つ曽根に帰ってきた。星巌が長い無音を陳謝した後、絶句の暗誦を質したところ、絶句はもとより三体詩494全部を暗誦しているので、すっかり感心し、褒めたたえた。    云々。。。


お洒落な漢詩人カップルですわ。
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char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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