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物忘れの激しい人は何度聞いても新鮮のメリットあり=「鶉衣」(21)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの21回目は、「物忘翁伝」(前編中三〇、上巻139~143頁)を取り上げます。惚け老人、認知症、アルツハイマー病、…、老いの最大の恐怖は「生きる屍状態」になってしまうことでしょう。家族の顔も分からない。朝食べたものが夕方に覚えていない。体は勿論、脳みそが『健康』でないならば、老いさらばえて生きることに何の価値があるのでしょう。自分は何のために長生きしているのか。誰しもが抱くそんな不安を逆手に取った今回のお話は半分笑えるが、半分眉根を曇らさざるを得ないです。漢字の問題は僅少です。

わすれ草生ふる住よしのあたりに住みわびたる物わすれの翁あり。さるは健忘などいへる病の筋にはあらで、只身のおろかに生れつきて、物覚えのおろそかなるにぞありける。昔は1)ケイガクの道をもとひきゝ、作文和歌の席などにも、さそふ人あればまじらひけれど、きく事習ふ事のさすがに面白しと思ふ物から、夕べに覚えしことごとも、朝ぼらけにはこぎ行舟の跡なくて、身にも心にものこる事すくなし。されば是を書付置かむと、しゐて硯ならし机によれば、春の日はてふ鳥に心うかれて過ぎ、秋の夜は虫なきていとねぶたし。かくてぞ老曾の森の草、かりそめの人のやくそくも、小指を結び手のひらにしるしても、行水の数かくはかなさ、人もわらひても罪ゆるしつべし。

さればその翁のいへりける、身のとり所なきを思ふに、若きにかずまへられしほどは、人やりならずはづかしかりしが、A)つんぼうの雷にさはがず、座当の蛇におどろかざるこぼれ幸なきにもあらず。よのつねきゝわたる茶のみがたりも、はじめ聞きける事の耳にのこらねば、世に板がへしといふ咄ありて、またかの例の大阪陣かと、若き人々はつきしろひて、小便にもたつが中にも、我は何がし僧正のほとゝぎすならねど、きくたびにめづらしければ、げにときくかひある翁かなと、かたる人は心ゆきても思ふべし。ましてつねづね手馴れ古せし文章物がたりの双紙も、去年見しことはことし覚えず、春よみしふみは秋たどたどしく、又もくりかへしみる時は、只あらたなる文にむかふ心地して、あかず幾たびも面白ければ、わづか両三2)チツの書籍ありて、心のたのしみさらに尽くる事なし。むかし炎天に腹をさらしたるおのこは、人にもおりおり物をとはれて、とりまがはしいひたがへじと、いかにかしましき心かしけん。B)今は中々うれしき物わすれかなとぞいひける。猶かの翁が家の集に、何の本歌をかとりけるならむ、

 わすれてはうちなげかるゝ夕べかなと

 物覚えよき人はよみしか


今回のお話の主役は健忘症などという生易しいものではなく、生れついての忘れんぼさん。片っぱしから物を忘れ。メモろうとしても眠りこけてしまうから、筋金入り。どんな約束事も覚えていることがないのに、呆れて人も笑って許してしまうほどで、ある意味羨ましい限り。

その翁が言うには「若いころは恥ずかしかったが、いろんな人生経験を積んで、これはこれでめりっともありました」とはちょっと驚き。同じ話を聞いても読んでも新鮮この上なく、何度でも味わえる。「むかし炎天に腹をさらしたるおのこ」とは蒙求の「郝隆曬書」(カクリュウサイショ)に出てくる漢「郝隆」。短いのでそのまま引用します。「世説に、郝隆七月七日、日中に出でて仰臥す。人其の故を問う。曰わく、我は腹中の書を曬すなり、と」。もともとは世説新語にあるようで、晋の郝隆は腹を炎天下にあてて寝ていた訳を問われ、「わたしがこれまで覚え込んだ書物を虫干ししているのだ」と豪語し、自分の博覧強記ぶりを自慢したのです。物忘れの翁と比べれば何とも大層な話で、あまりに多くの書物が入っているので人から聞かれるたびにどこぞから引っ張り出さなければならず、御苦労なことだわい。也有のシニカルな笑いが窺えます。シニカルと言ったのは翁と郝隆の両方に対してです。

開き直り、諦めの境地。ある限界点を越えれば人間は楽になれるのかもしれません。世をはかなんで隠遁するのと似ているかもしれません。生まれつきの忘れんぼという点では宿世なのかもしれませんが、後天的に、意図的に忘れんぼになった場合に人はどう対応できるのでしょうか。抗うのか、委ねるのか。あるいはそうなる前に手を打つのか。きのうしたことも、朝食べたものも覚えていない。臆面もなく言えるかどうか。

翁が物を忘れることのメリットをいくつか挙げていますが、同じことを何度聞いても新しいことにしか感じないというのはどうなんでしょうか。同じことを聞かなければいいのでしょうね。そうすれば普通の人と同じだ。しかし、日常、同じことの繰り返しで厭き厭きするばかりなのも偽りの無いことです。同じことをいつも同じ物としてとらえるかどうかなんでしょうね。物忘れの翁はある意味、正直なだけ。同じものを同じものとできずにいるだけ。退屈な日常などあり得ない。聞くもの、見るものすべてが新鮮ですから。

年老いて物を忘れていくというのはもしかしたら日常を新鮮にすることなのかもしれません。幼き頃、好奇心に満ちていた。知りたい。見たい。そうしたピュアな渇望の原点に戻っていくこと。

最後に也有が詠んだ歌は物覚えの悪い自分の気楽さを楽しんでいます。年をとることが必然なら、記憶が薄れていくのも不可避なのでしょうね。也有は自分がそうなっても悔いることなく最後まで生き切ることを提唱しているのかもしれません。


■下線部A)は何を言いたい喩えか。

■下線部B)はどうしてか。
下線部A→耳が聞こえない人や目が見えない人にもいい点があるように、物覚えの悪い人にも思いもよらないメリットがあるということ。

下線部B→「板がへし」という同じ話を繰り返して聞いても飽きることはないし、大坂の陣の軍功の自慢話を繰り返し聞いても、毎回新鮮なものとして聴けるので、相手から咄をき聞かせ甲斐のある人だと有り難がられる。書物を何度読んでも初めて読む心地がするので新鮮だし、第一、読書は二、三冊があれば済むので楽である。このように物覚えが悪い自分は人からあれこれ詮索されることもないので気楽であるから。



1) ケイガク=経学。経書、いわゆる四書五経を研究する学問のこと。

2) チツ=帙。和とじの本を包むおおい。ふみづつみ。とじた本や文章を数える単位。「両三帙」は「二、三冊のとじた書物」。
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Author:char
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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