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武士の持ち前は武道、俳諧は趣味の領域に過ぎず…=「鶉衣」(12)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの12回目は、「贈或人書」(続編上一〇六、下巻28~36)を取り上げます。普段温厚な也有翁が何やら多少怒気を含んだ口調で友人のことを諌めている文章を見つけました。冒頭、「吾子」(ゴシ)で始まり、「あなた」「きみ」と相手を親しんで呼び掛けています。ところが、文中到る所に「あら面白からずや」「臭し」などの文言も見え、不平不満を感じていることがはっきりと分かります。一体全体、友人の何が気に入らないのでしょうか?比喩的にさまざまな故事来歴が盛り込まれており、理解するのに難解な部分も多い半面、含蓄に富んでいて現代人にも箴言となること必定の文章です。文章はやや長めですから上下二回に分けることを御容認ください。



吾子今「講武」を以て1)ケンゴウとし、句にも俳諧にも用ひて名とす、あら面白からずや。吾子はもとより武門の人也。紙売る者の暖簾に紙屋としるし、油売る家の看板に油屋と名のるは、買ひよる人のまがふまじきためなれば、其いはれあり。吾子たゞ風雅の2)ヒイキより、武道も一つに混ぜんとす。私心の迷ひといふべし。3)を横たへて詩を賦するも、扇を敷きて歌よみけるも、A)それはそれ是は是にして、しかも是を以てそれをあやまらず、それを以て是を害せず。文武二道と称するは、其事跡を見て4)コウジン是を嘆美せる也。「我れ」と名のることは甚臭し。


五老井が「射御の弁」すら、或人是を評して曰く、「其文の始には「武士の武士臭きは鼻を掩ふ」と書きて、人の謗りに針をさし、「武芸をあてにすべからず」といひて、他の嘲に蓋をして、さて其末に書きたる一篇、臭きこと5フンドのごとく、芸の自慢は傍若無人也」。律を知りたる僧の破戒6)ムザンと、経学にわたりたる人の7)フギョウセキなるは、あしきをしりつゝあしきをなせば、世にいふ「三宝の捨物」にして、8)イケンも治療もほどこす所なし。B)白蔵王も口を閉ぢ、扁鵲も手を袖にして、只つくさせて見るより外なし。新当流も正法念流ももとより武士の常にして、それがこゝへ出ることにはあらず。誰か武門に生れて是をたしなまざるべき。二流三流の印可免許も此辺にては珍しからず。天下の名人はおのづから人もしり世に顕はれて、各別のさた也。C)「世に馬を見ると云ふ人あれど、山上入道の名をだにしらず」とは、入道が身にとりては迷惑なる披露なるべし


也有の友人は武家であり、俳諧の友でもあるのですが、その俳号を「講武」としています。武士にとって「講武」、すなわち武門を学ぶことは当たり前のこと。それを俳号に用いた点をとらえて「武道も一つに混ぜんとす」と断じ、熱心に俳諧に取り組んでいる余り、本来の持ち前であるはずの武道を軽く扱っているように見えたのでしょう。風雅の一つに過ぎない。翻って、俳諧の世界も御座なりの風情が窺え、どちらも中途半端というか、生半可に取り組んでいる姿が也有からすれば鼻持ちならないというのです。自らが文武二道を声高に叫ぶことほど傍ら痛い物はない。文武二道を重んじるというのは他者が見て評価するべきものであって、当人が偉そうに掲げるものではあるまい。。。

「五老井」とは、岩波によると、「蕉門森川許六の庵号」。許六は蕉門十哲の一人でもあります。画にもすぐれるなど、孔子のいうところの六芸に通じ「許六」と名乗っていたようです。許六編の俳文集「本朝文選」(改題後「風俗文選」)の巻九に「射御の弁」を書いていて、許六が弓・剣術・鑓など武道の諸技に熟達していたことを記していたとあります。しかし、読む人が読めば単なる芸自慢にすぎないと酷評もされていると也有は言います。武道は殊更に誇るべきではない。「三宝の捨物」とは、仏法僧に見離された、堕落した人のことを言います。戒律を破って何とも思わない僧侶や身持ちの悪い儒学者なども引き合いに出して、馬鹿に付ける薬は無いと扱き下ろしています。「新当流」も「正法念流」も武家の流派も許六が学んだと書いていますが、武士ならば当たり前のことで、わざわざ明記する必要もないし、二つや三つの「お墨付き」をもらったくらいでは自慢にもならないではないか。真の名人は黙っていてもその名声が聞こえてくるもの。この段では森川許六の傍若無人な自慢話を例に出して友人を諫めているのです。



■下線部A)のそれと是に留意して解釈せよ。

■下線部B)はどういうことか。二つの故事を踏まえて解釈せよ。

■下線部C)の「山上入道」は刀槍の達人でるが、何を言いたい喩えか。


問題の正解などは続きにて。。。






1) ケンゴウ=軒号。住居・茶室・書斎などの雅号で、下に「軒」の字の付くもの。また、それを文人・茶人らが自分の号に用いたもの。

2) ヒイキ=贔屓。気に入った者に特別に目をかけ、力を添えて助けること。後援すること。後援者、パトロン。

3) 槊=ほこ。「サク」は音読み。武器の名。長さ一丈八尺の長い柄のほこ。「横槊賦詩」(ほこをよこたえてしをふす=馬上でほこを横たえて詩をつくる、英雄は戦いの中でも風流を忘れないこと、蘇軾の「赤壁賦」の名文句で、魏の曹操を称えたもの)。

4) コウジン=後人。後の人。後世の人。先人の対義語。

5) フンド=糞土。きたないよごれた土。転じて、きたないもの、つまらないもののたとえ。

6) ムザン=無慙(無慚)。悪いことをしても恥じないこと。「破戒無慙」は「戒律を破っても少しも恥じないこと」。

7) フギョウセキ=不行跡。身持ちのよくないこと。「フコウセキ・フコウゼキ」などと読みがち。

8) イケン=異見。思うところを述べて人を諫めること。この意味においては「意見」でも正解ですが、こちらを覚えておきましょう。ほかに、他人とは違った意見や異存の意味もあります。

■下線部A)のそれと是に留意して解釈せよ。
A)→「それ」は「武道」、「是」は「詩(俳諧)」を指す。武道と俳諧を同一視したりせず、それぞれ別の物であるというスタンスをしっかり持つべきである。要するに、それぞれは関連するものでなく、本文と趣味と分けて取り組むべきであるということ。

■下線部B)はどういうことか。二つの故事を踏まえて解釈せよ。
B)→「白蔵王」は狂言「釣狐」に出てくる漁師の伯父の名、狐が伯父に化けて甥の猟師に狐を釣らないよう意見するストーリー。「扁鵲」は、中国戦国時代の名医の名。「耆婆」と並び称される。そうした説得や名医も手を拱いて傍観するよりほかはない。とても馬鹿に付ける薬は無いので手の施しようがない。

■下線部C)の「山上入道」は刀槍の達人でるが、何を言いたい喩えか。
C)→許六は「軍馬の良し悪しを見抜く眼力の持ち主であった」と自賛し、「入道」の名前は知らないと書いているが、自画自讃も甚だしく、入道にとっては迷惑な話であり、寧ろその名を知らない自分の方が恥ずかしいのにということ。新当流も正法念流も免許皆伝し、馬を見抜く力もあると自慢が続く許六の鼻持ちならないスタンスに対して、也有が怒り心頭に発しているのです。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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