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「業を煮やしても」なかなか征服できないのが鎗ケ嶽=「鎗ケ嶽探険記」(26)

明治のアルピニスト、小島烏水の「鎗ケ嶽探険記」(岩波文庫、「山岳紀行文集「日本アルプス」所収、近藤信行編)シリーズの26回目は、ラストの章「その十 鎗ケ嶽裏山越えの記」の三回目です。

いつまでかくてあるべきにあらねば、相促して出立す、導者はここにて兎の死骸を発見し、杖にて敲くに1)ミイラの如く乾固まりて在りき、単にこれのみにはあらず、その後も往々兎の足痕のあざやかに、沙に印するを杖にて指され、始めてそれと知りたるもをかし。

路いよいよ濶くして二又に別れたるに、濶き方を取りて次第に下れば、水の出つるもの漸く多く、★々潺々(★=サンズイに「還-シンニョウ」。水がぐるぐる回ってわきおこるさま。「潺湲」と同義。)として崖より走り、木の間の葉の茂みを潜りて、ちよろちよろと落ち、行く途に当つて2)カンヌキを横へたるが如く、向ひの崖よりこなたへと僵れたる檜の、おのづと洞を成せるを筧にして下る、始めはひたひたと草鞋の底を浸すほどなりしが、後には3)より「くろぶし」に及び、加ふるに崖劖(サン=とがったものを刺して入れる)して削るが如くなるところより瀑となりて雲を吹くに及びてや、水いよいよ深くして膝の皿に及ぶ。

ここに至りて一同路を崖上に取らざるべからざるに至り、昼なほ暗き夏木立に分け入りたりしが、たとへば嵐に遭ひたる舟の、渚へ渚へとおもひながら、沖の方へ吹きつけらるる如く素より路もなき木下闇を、方角も解らで右へ左へと木々を揺りながら、廻旋するなれば、しんしんたる樅や、栂や、殊に唐松唐檜の如きは、本州に在りても東は磐城岩代を限りて奥羽以北になく、西は信飛の境上を界として立山以西南になき者なれば、こここそは我が主領なれといはぬばかりに密生して、その間木曾に多きネヅコを交へ、毿々(サンサン=毛がふさふさしたさま)として山男の髯の如きサルノヲガセを垂れたるもあれば、朽ちて年久しき僵木の交叉したる間に、4)に倚りたる如くなりて足を踏み入れ、抜かむとして傍の大木に蜿ねれる蔓に5)スガれば、苔ぬらりとして大蛇の鱗の逆立けむ6)きに、冷いやりとしたることあり、或時は栂の針多き枝に襟を縫はれて、鉄楯を担ひたる如く、いかに7)けども動かざるに呆れ、枝をぽきりと折りて思はずも前に8)めれば、葉はさつと揺れて光を飜(こ)ぼすこと一斗、空間冴えて三尺の乱れ焼刃、晃りと閃きたるかとおもふに、また閉ぢて葉は光を夢み、人は夢を追ふて、両ながら恍として相知らざるに似たり、木漸く疎らになりて、鞺鞳(トウトウ=つづみをうつ音の形容)たる水音に谿近きかとおもはるるところは、熊笹犇々として、その間に「熊の糞があるぞ」と導者の指すに胆を冷やしたることありしがそれも暫時、独活や9)オニアザミの、洋服の上より脛を嚙むところを、力任せに敲き伏せ、縦横に荒れて、早く日光を見るところへ出でたしと、面も振らず緑濤翠波の中に跳り入り、磁石を便りて崖へ近く近くと下り、楢の梢を猿の如く伝はりて、再び谿谷の河原へ飛び下りたりしが、半時間ばかりかかりて、渓流の直径四、五丁ばかりの所を、超えたるに過ぎざりしと知りて、呆れはてぬ。

かくてまた水深ければ、崖に上り、密樹を掻き分け、隔たること七、八歩なれば、互に人の在るところを失はむばかり、喘ぎ、苦しみ、悶えて「熊飛び」といふところに到れば、両崖聳えて額を合はさむばかり、10)ザンゼン水を夾んで莢を縦に割りたる如く屹立し、その下巨石は11)テンピを蔵する函の如く挿みて、流水溯一道の白気騰上して木葉に白雨を弾く、熊の、こなたの崖よりかなたへと飛びゆくを以て、この名ありと。

ここに至りて一行大に沮み、進む能はず、退くに術なし、時計を12)すれば午後二時夏の日長しといへども、甕の底の如き谿谷なればにや、黄昏に近きたるかとおもはるるまで光弱く、靄ははや谿を渉りて白く、混沌としてただ急瀬雷吼の如くおどろおどろと鳴りはためくを聴くのみ、しかれども蒲田の荒村は未だ何里の先にあるかを知らず、日いよいよ昏れてここなる谿澗に13)ヤエイを張ることともならば、米の残りなほあれば饑こそ凌ぎ得べけれ、外套も毛布も、今朝大石屋に持たせて別路を先発せしめたれば、いかでか高寒を防ぐことを得むと、気遣ふこと甚だし、市三郎は悠然迫らず、いつも先頭に立ちて崖下りに、瀬踏みに、はた熊笹に、路を拓くこと頗る努む、余は森道の捗取らざるに業を14)やし、むしろ一気に荒水を乱りて、魚と運命を伴にせむといきまけど、友は余よりも体軀短くして、水の余が胸部に来るときは、彼の喉に及ぶ比例なるを以て、従はず、余また大に15)うて止む、しかも谿流かくの如く深くして迅かに、仄崖かくの如く高くして急ならんか、余らおそらくは竟に16)シショを知らざらむなり、ここに至て始めて飛騨方面より登山の到底不可能なるを知り、さきの広舌を悔いぬ。






1) ミイラ=木乃伊。人間または動物の死体が長く原形に近い形を保存しているもの。Mummyの漢訳語。

2) カンヌキ=閂(関)。門を閉める横棒。

3) 踵=かかと。くびす・きびす・あくと。

4) 榻=トウ。こしかけ。長椅子、寝台。音読みは「トウ」。榻布(トウフ=かけ布、きめが粗く厚い布)。

5) スガれば=縋れば。「縋る」は「すがる」。「攀る」でも正解か。たよりにする。音読みは「ツイ」ですが、熟語例は知りません。ひとにぶらさがるという意味。

6) 腥き=なまぐさき。「腥い」は「なまぐさい」。音読みは「セイ」。生肉や脂肪のつんとくるにおい。腥血(セイケツ=つんと鼻を刺激してなまぐさい血)、腥膩(セイジ=なまぐさく、あぶらぎっている)、腥臭(セイシュウ=なまぐさいにおい)、腥羶(セイセン=なまぐさい、けものの肉、外国人をののしっていうことば)、腥聞(セイブン=身持ちが悪いといううわさ、悪いことをしているといううわさ)、腥穢(セイワイ=なまぐさくて、けがれている)。

7) 悶け=もがけ。「悶く」は「もがく」。通常は「藻掻く」と書く。「もだえる」が一般的な訓みであり、明らかに当て字訓み。悶悶(モンモン=心中に不満がこもって気が晴れず、もだえ苦しむさま)。

8) 俯めれば=かがめれば。「俯める」は「かがめる」。通常は「うつむく」「ふせる」と訓むので、明らかに当て字訓み。「かがむ」は「屈む」「傴む」などと書くのが一般的。俯就(フシュウ=自分の主義や主張などをむりにかえて他人に従うこと、自分の態度などを変えて卑しい職に就くこと)、俯伏(フフク=うつむきふす、目上の人に遠慮して下を向くこと)、俯瞰(フカン=高い所から下を見下ろすこと)。

9) オニアザミ=鬼薊。モリアザミの別称。山地に自生し、高さ約一メートル。晩秋、紅紫色の頭状花を上向きに咲かせる。根は太く長く漬物に。ゴボウアザミ、ヤマゴボウともいう。

10) ザンゼン=嶄然。山がひときわたかくそびえたつさま。転じて、多くの人の中で、ひときわ目立ってすぐれているさま。韓愈の「柳子厚墓誌銘」に「嶄然見頭角」があります。「嶄い」は「たかい」嶄絶(ザンゼツ=山が切り立って険しいさま)。

11) テンピ=天秘。天の秘密。天日ではない。

12) 検する=けみする。調べること。検閲。「けんする」とも読めてしまいますが、これでは問題の意味がない。「閲する」とも書く。

13) ヤエイ=夜営。夜に軍隊が外で野営すること。事ほど左様に「夜営」と「野営」は違うのです。

14) 熬やし=にやし。「熬やす」は「にやす」。通常は「いる」で、これは完全な当て字訓み。熬煎(ゴウセン=火にかけている、火でいるように痛めつける)。煎と同義。通常は「業を煮やす」と書く。

15) 咲う=わらう。笑う。これは頻出。出てもおかしくない。

16) シショ=死処。名目のたつ死ぬ場所や死ぬべき機会。死所とも書く。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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