スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ヒキンなヒキンは鶩かな?=「鎗ケ嶽探険記」(25)

明治のアルピニスト、小島烏水の「鎗ケ嶽探険記」(岩波文庫、「山岳紀行文集「日本アルプス」所収、近藤信行編)シリーズの25回目は、ラストの章「その十 鎗ケ嶽裏山越えの記」の二回目です。



山巓より飛騨方面に向ひて捌ける山の裾は、うち見たるところ二十五度ほどの傾斜にして、満山は何といふ名か知らねど、麦の穂波を1)ミナギらすやうなる青草にて、光沢ある2)ビロードをけば立て、下山いと易げに見えたれば、市三郎を先頭として次第に下りかくるに、草と草との間には窪穴あるかとおもへば、また石の凸出せるもありて、その上を草にて覆ひたれば、柔綿にて石を包みたる上を歩む如く、躓くこと幾回といふを知らず、友人岡野氏の如きは、ために右脚の拇指を擦破し血滲み出でたれば、手巾(ハンカチ)を裂いて早速の繃帯を作り、これを緊縛したるが、草鞋の紐喰い入りて痛むこと甚だしといふに、下山遅々として大に悩む。

崖を下り終ればその下は石道、大石机の如きもの、廈屋の如きもの、床の如きもの、乱堆して自然の危磴を作り、路3)くして見上ぐれば鎗ケ嶽の絶壁は、今にも4)ビショウを蹴らんとす、石道迂回するに随ひてますます濶く、傾斜も漸く緩やかとなり、飛ぶが如く石より石を伝はりて、全く水の気なき谿谷の底を行くに、これを前日の登山道に比すれば、大道砥の如きおもひあり、我はじめ飛騨蒲田の谿谷より、鎗ケ嶽登山の不可能なるを聴きて、思をこの方面に断ちたりしに、ここに至りてあまりに与みしやすきに呆れ、窃に飛騨5)ジンシの為す無きを嘲りぬ。

往けども往けども石は6)ヤグラを突起し、城砦を左右に築き、人の奔ると共に転輾して、低きもの隠れ、高きもの現はれ、その上の天壁一万尺、蜿蜒として雲を呑み、7)ムヘンサイ空に出没して、8)ヒキンもたゆたふ長城ぞや。

時既に午に近し、石間水の湛ふるものあり、天雪の融けたるものか、浄きこと水晶の如く、塵子なく、これを吹けば9)レンレンジョとして瑠璃の波を立てむかとぞおもふ、水の石を繞ぐりて上下乱流するもの、声漸く10)し、ここにて11)チュウサンを喫することに決し、市三郎は担荷を石上に卸し、鍋に米を容れてかつ洗ひかつ磨き、手頃の石を三方に囲みて早速の12)カマドを作り、このわたりには、はや部落を作れるタケ樅の林を背に負ひて、自然の大殿を食堂厨室となしぬ。我らはこの林間より、去年の枯木を拾ひ来り、草鞋に13)スイカを点して、杉の葉代りに燃やしたる上に加へてこれを扇ぐや、バチバチと音して烟は直上し、樅の梢より梢を伝ふよと見る間に、罅隙を索めて林の奥深くへと分け入りつ、白衣の物の怪、緑雨を浴びて、いづくにか消えぬ。ただ飯の炊ける間に、市三郎が石に敲く煙管の音のみ、コチコチとして無住の大14)ガランに、鼠の何物かを噛むらむ寂しさを味ひぬ。

我らはこの林間に踞れる大石の上に這ひ上り、「いま暖けえ飯よ喰はせるてや」といひながら鉈にて箸を作れる彼の甲斐甲斐しさに引き替へて、頤を支へて腹匐ひつつ心地よき日暖りに眠たくなりぬ、一昨夜も昨夜も、碌々睫を交へざりければなり。

飯成ると告げられて、まことは空腹に15)ムシズを呑みこみゐたる我らなれば、16)俄破と居直り、瞬く間に四、五碗を代へ、牛の鑵詰一個、奈良漬二本、乾魚六枚を退治したるこそめざましかりけれ。

仰げば大空17)アイダマを溶きて、ここなる甕底を望んで流れ入るらむ如く、崖の突き出たるに一尺二尺と天領を蹙められて、熱情の気欝として谿に満つるや、我は恍としてオルヅヲルスの「真美は谿谷に住む」True beauty dwells in deep retreats を想ひ出でぬ。



1) ミナギらす=漲らす。「漲る」は「みなぎる」。水面がはりつめる、水かさがはって溢れる寸前であるさま。音読みは「チョウ」。漲天(チョウテン=天一面に広がるさま)。

2) ビロード=天鵞絨。綿・絹・毛などで織り、こまかい毛をたて、なめらかでつやのある織り方をした織物。ポルトガル語veludoの意訳。

3) 窄く=せまく。「窄い」は「せまい」。窮屈なさま。音読みは「サク」。窄狭(サクキョウ=ぎゅっとしまってせまい)、窄衫(サクサン=つつそで、その衣服、窄袖=サクシュウ=)。

4) ビショウ=眉睫。まゆとまつげ。目つき。接近していることのたとえ、また、差し迫っていることのたとえ。目睫の間(モクショウのカン)ともいう。

5) ジンシ=人士。教養と地位のある人。ここは、単に「人々」。

6) ヤグラ=櫓。四方を展望するために設けた高楼。材木などを組み合わせて高く作った構築物。

7) ムヘンサイ=無辺際。広々として限りがない。

8) ヒキン=飛禽。飛ぶ鳥。「禽」は「とり」。

9) レンレンジョ=漣々如。涙がつらなって流れるさま。「漣」は「さざなみ」ですが、「つらなって流れる涙」の意もあります。漣如とはそうした様子を言う言葉。漣然(レンゼン)・漣漣(レンレン)ともいう。

10) し=はげし。「しい」は「はげしい」。きついさま、きびしいさま。音読みは「レイ」。風(レイフウ=はげしい風)、民(レイミン=人民を苦しめる)、色(レイショク=怒りで顔つきをきびしくする)。

11) チュウサン=昼餐。ひるごはん。午餐(ゴサン)・昼餉(ひるげ)とも。

12) カマド=竃。土・石・煉瓦・鉄またはコンクリートなどで築き、その上に鍋・釜などをかけ、その下で火を焚き煮炊きするようにした設備。かま、くど、へっつい。

13) スイカ=燧火。火打ち石で起こした火。「燧」は「ひうち」。燧人氏(スイジンシ=古代、伝説上の帝王の名で、はじめて火をおこすことや食物を煮焚きすることを教えたという)、燧石(スイセキ=火打ち石)、燧烽(スイホウ=のろし)。

14) ガラン=伽藍。寺院の建物全体のこと。梵語の「僧伽藍摩」の略。

15) ムシズ=虫唾。虫酸が一般的か。溜飲の気味で、胸のむかむかしたとき、口中に逆出する胃内の酸敗液。

16) 俄破と=がばと。勢いよく起き上がったり伏せたりするさま。当て字です。

17) アイダマ=藍玉。藍の葉を刻んで発酵させたものを乾し固めた染料。藍靛(ランテン)ともいう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

profile

char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

calendar
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
recent entry
recent comment
category
monthly archive
search form
RSS links
links
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。