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「瀰」「咀」「豁」「齎」…訓読みは独特、紕繆も?=「鎗ケ嶽探険記」(19)

明治のアルピニスト、小島烏水の「鎗ケ嶽探険記」(岩波文庫、「山岳紀行文集「日本アルプス」所収、近藤信行編)シリーズの19回目は、「その九 鎗ケ嶽二回登山の記 上 第一回の登山」の五回目です。

時に大霧海の如くして音なく大荒を1)り、鎗ケ嶽の最高点なる奇痩の尖峰は、霧を呵し雲に駕して半天を渡る。その頂上なる三角測量標の尖端は、難破船の檣の如く聳えて、見る見る無慙の大波に没し、乱山荒水は路と共に回転して、霧の裂け目の上下に継ぎ合されてはまた裂くるところより、山容水声をうちあげ、うち下され、山より谷底を目がけて驀地に駈け下りる霧は雨の如く、谷はこれを容れじと逆しまに追ひ戻すや、霧また騰りて2)バイを銜める白馬の如く、疾駆して前後皆一白。

八合目ほどのところに到る、大石は鮪の切味をぶちまけたる如くに乱堆し、人より高きもの十を以て算ふべく、偃松その間に点々し、石楠の白花交はり咲き、雷鳥人に駭きてチヨコチヨコと小走りに走り去んぬ、人を3)ふにあらずやと疑はる。

絶巓に達したるときは、午後三時半、上下左右ただ濛々として白霧のみ、山高きか4)深きか、我ただ卵の白味の如きもの混沌として大虚を涵せるを知るのみ、時に余は頻に歯痛をおぼえ、加ふるに空気稀薄にしてかつ気圧の力低きを以て、心臓は促鼓し、呼吸は5)ヒッパクす、顧れば家郷を出でてよりここに十日、身は天漢に入りて雲を6)ひ霧を吸ひ、木魅石鬼に囲繞せられたる仙となり、火食の人なるをおぼえず、しかもただ泫然(ゲンゼン=)として涙下る。7)ふるところの蠟燭に火を点じ、幾度か消えなんとするを、壊敗したる石祠のささやかなる断片に囲ふて立て、8)メイモク天を仰いでしばらくは黙禱す、ヴオルテールなほかつ崇拝す、我今に迨びて初めて人間の弱きを知んぬ。

かくの如くして下山に決し、後向きになりて雪道を辷べりつつ下る、石、偃松、石楠花、倏ち尽きて前の急流、乱石の間を渉り、巌屋に帰りぬ。

主人は自在木(山中熊笹根曲り竹などの外に竹なし)の鍵にかけたる大鍋に、熊の肉汁(ソップ)を煮ながら、杓子にてドロドロと搔き廻はしゐたり、炉辺には熊の肉のボツボツ切を串刺にして列ねありしを、晩餐の肴に乞ひ得て、9)数臠を喫す、昨日は山鯇(やまめ)を味ひ、今は熊肉に飽く、山中の珍味これに過ぎたるはなし。炉辺には剥ぎたるばかりなる熊の皮を木骨に張りて、爪ある10)シシの伸びて鋭きが、火気強きにつれて、パチパチと音すること、麦稈を焼く如し。大石屋は彼と11)ジゴしたりしが、やがて件の熊の皮をおのが荷に巻きをさめて、独り会心の笑ひを洩らしぬ、けだし温泉の旅舎を生業とせる彼は、猟人何日の湯治料と交換するの約を訂したるならむか。猟人の語るところによれば、この熊は「タナカラオツテ」死しゐたるを発見して、皮と肉とにしてここまで搬び来りたるなりといふ。「タナ」は崖の方言、「オツタ」は「落ちた」の意義なることを後にて知りぬ。彼の語るところに拠るに、彼はかつて乗鞍嶽なる硫黄谷にて、大熊と小熊と累なり合つて死してゐたるを発見したることありしが、親子狎戯して絶壁より足を踏み外したるならむといふ。要するに余が今までしばしば見たるこの辺の熊の皮は、北海道産のものと違ひ、毛薄くして黒沢美ならねば、革としては知らねど、敷物としては妙ならざるべし。

前に霞沢の小舎を原始的なりとおもひたる余は、この巌屋に至つて更に一千年を溯りたる心地しぬ、猟人は大野川村の人、赤痢の12)ショウケツなるを避けて、この夏をここに閑居するなりといふ。さるにても我少年にして教へを受けたるとき、知命の者は13)ガンショウの下に立たずとこそ聞きたりしに、と微笑をとどめあへざりき。

夜に入りて主人白樺の皮を附木代りに点火するに、青熒(セイケイ=)白昼の如く、14)コウキ石油に勝る、いよいよ山中の風流をたたへながら寝に就く、蓆僅に二枚にして五人を覆ふに足らねば、あるいは山毛欅の葉を採り来りて地に敷き、あるいは担荷を枕代りにして横になる、主人は木枕に手拭あてて、仰向けになりしが、やがて四傍(あたり)かまはぬ大15)イビキとなりぬ、我らのみ寒うして睫を交へられねば、焚火を掻き起してのみゐたりける、蓆の戸の隙間とり沁み入る大山深谷の噫気、神骨を冷殺するとき、千樹万禽、片唾を呑んで静まりかへりぬ。

されど、疲労は竟に寒気を征服しぬ。



問題の正解は続きにて。。。






1) 瀰り=みなぎり。「瀰る」は「みなぎる」。もしかしたら「はびこる」の紕繆かもしれません。水が一面に満ちること。「~を」と他動詞になっているので「はびこる」はおかしいですが。瀰漫(ビマン=広がりはびこる)。「漫る」と混同したのかも。

2) バイ=枚。隠密に進軍する時などに兵士が口にくわえたり馬にくわえさせたりして、声を立てるのを防ぐ木片。銜枚(ガンバイ・バイをふくむ)で用いて「枚を口にくわえること」。

3) 咀ふ=のろふ。「咀」に「のろう」の意味はないです。なんどもかむ。咀嚼(ソシャク)で用いる。もしかしたら烏水は「詛う」(のろう)と混同してしまったのかもしれません。

4) 豁=たに。これも「谿」の紕繆か?「豁」に「たに」の意はない。「ひろい」「ひらける」「あけすけである」などの意。豁爾(カツジ=ひろびろとひらけたさま)、豁如(カツジョ=心がひろくて大きいさま)、豁然(カツゼン=土地などがひらけているさま、疑いや迷いがさらりと解けて物事がはっきりするさま)、豁達(カッタツ=けしきなどがひろびろとしているさま、心が大きく物事にこだわらないさま)。

5) ヒッパク=逼迫。物事が差し迫っていて余裕がないこと。切迫。「逼る」は「せまる」。ひしひしと押し寄せること。逼近(ヒッキン=ひたひたと迫る、危険な物が近づくこと、危険な物に近づくこと)、逼塞(ヒッソク=しめつけられて動きが取れない、落ちぶれて世間と交際しない)、逼奪(ヒツダツ・ヒョクダツ=ひしひしとせまって奪う、君主に迫って位を奪うこと)。

6) 吮ひ=すひ。「吮う」は「すう」。くちびるを細くとがらせてすう。音読みは「セン」。吮疽之仁(センソのジン=大将が自分の部下を手厚くいたわること、中国の戦国時代、呉起が部下の兵士のはれもののうみを吸い取った故事から)、吮癰舐痔(センヨウシジ=はれもののうみをすい、痔をなめる、ひどく人にこびへつらうことのたとえ)。

7) 齎ふる=そなふる。通常は「齎す」(もたらす)。烏水独特の訓みか。あるいは紕繆か。今回の一節では漢籍に精通する烏水が独得の訓みを披露しているケースが多いですね。一歩間違えばうろ覚え。

8) メイモク=瞑目。目をつぶる。「瞑」は「ねむる」「つむる」「つぶる」の和訓があり。瞑想(メイソウ=目をつぶって心を静めて考え込む)、瞑瞑(メイメイ=はっきり見えないさま)。

9) 数臠=スウレン。数枚の肉の切身。「臠」は「きりみ」。ミンチ肉のことです。臠巻(レンケン=互いにからみあい、ひきあっていること、また、のびないさま)、臠殺(レンサツ=ずたずたに切りさいて殺す、≠憐察)、臠婿(レンセイ=天子のむすめむこ、また、後世、科挙の、進士の及第者の中からむこを選ぶこと)。

10) シシ=四肢。両手と両足。また、からだ。四体(シタイ)ともいう。

11) ジゴ=耳語。耳に口を寄せてひそひそ話すこと、耳打ち。

12) ショウケツ=猖獗(猖蹶)。はげしくあばれまわっていて、おさえることのできないさま。「猖」は「盛んにあばれる、たけだけしいさま」の意。猖狂(ショウキョウ=狂気のさたの荒い行いをする)。

13) ガンショウ=巌牆。高いへい。巌牆之下(ガンショウのもと)が成句で「危険な場所のたとえ」。孟子にある「是故知命者、不立乎巖牆之下」が典拠。君子危きに近寄らず、明哲保身の極意です。危機は事前に回避できる。

14) コウキ=光暉。かがやき。光輝でも正解。

15) イビキ=鼾。ねいき。音読みは「カン」。鼾睡(カンスイ=いびきをかいて眠る)、鼾声(カンセイ=いびき、鼾息=カンソク=)、鼾雷(カンライ=雷のようないびき、おおいびき)。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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