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荘周が蝶になって舞い飛ぶさまが「ククゼン」=「鎗ケ嶽探険記」(16)

明治のアルピニスト、小島烏水の「鎗ケ嶽探険記」(岩波文庫、「山岳紀行文集「日本アルプス」所収、近藤信行編)シリーズの16回目は、「その九 鎗ケ嶽二回登山の記 上 第一回の登山」の二回目です。

1)アサゲは済みたり、登山準備ははや整ひたり、上りて今夜は山中に一泊し、明日またここに下りて一宿する計画なれば、我らは各外套一領と食糧品の必須なる分量をのみ、導者らには負はせて、担荷の十の七を小舎の老猟師に托しつ、山林吏たに一揖して立ち出でぬ。

時に聖き山の蘇りたる誕生を2)キンガする如く、空は瑠璃色に霽れわたり、灝気(コウキ=天上の清らかな気)は残る隈なく充ち満ちて、天心より大地まで垂直に洗ふが如く透りたり。日もはや昇りたるならむ、大岳崇領の屏風にて、四囲を繞ぐらしたる谿底なれば、茜さす空はあらざりけり、ただ3)ランセイのみ瑠璃嵌めたる金剛石の如くに晃めきたりしが、空は微白より明白に明けゆくにつれて、4)コウボウ次第にすがれゆき、樅林の中に5)げる鳥の翥(はばた)きを聴く。黒松の峻直なる間、灌木の6)エンエイせるところを行くに、屍の臭ひの如きもの7)プンとして鼻を撲つにおどろき、回避して去りしが、今にその何といふことを知らず、路に往々野牛の音立つるばかりに笹の葉を嚙めるを観る、灌木尽くるところこれ梓河の畔。川の濶さ約二百間、その水とろりとして膏を凝らし、一万尺の山肩を擁してその重さに流れを停めたる如くなるに、試に一脚を投じたるに、かの淙々として石を嚙み雪を噴く浅瀬よりも、おもて静にして、しかも水底はかへつて石を動かし沙を走らし、我らの脚は根の揺ぎたる杭の如く、8)ナビいて僵れむとす、駭いて互に棒と棒とを繋ぎ合せ、手長猿の水を渉るが如くして辛うじて向岸に達したるが、その間中央にて水の深さ膝より股に及び、寒剣を以て歩々に斫る如く、冷味を過ぎて痛味となり、殆ど泣かんとしき。

向岸といふは根曲り竹の丈、七、八尺なるもの、こんぐらがりて人を没し、その間に痩せよろぼいて、骨と皮ばかりになりて立てる黒松、それに並べる山毛欅は、楕円の大葉を傾けて銀の天漿を領元に飜ぼすこと、9)シュウウより豪なり、幾んど足を地に着けざる根曲りの竹の中を泳ぐが如くして、右に迷ひ左に惑ひ、再び岸頭に出づれば、寒流梭より10)く、その底自ら花崗の大石を11)して礀(たに)を作り、玻璃の中に太古の雪を秘めたる如し、河幅狭きを以て躍り越ゆるに決し、力任せに地を蹴ると同時に、向ふへ六尺ばかり飛ぶ、余の手際頗る鮮やかならずして、渚に尻突き、渓水を跳り損ねたる12)ビロクの如くに、腰より下を13)湿ほしたりしかば、一同手を拍つて大笑す、しんしんたる木下闇、木魅石鬼また和してどよめき、翠雨紛として飛ぶ。

この時紅玉の日は高く躍出して、穂高山の左肩に掩へる血の如き濃雲は、千年万年これらの名山を望んで、大聖の膝下に14)ケイケンの念を馳せたる山村幾万の生霊が心血の漂へるが如く、山は覩るうちに微妙なる情火の全身に沁み渡る如く明るくなり、衣の皺の百千条を一時に15)するや、東の方、大霊の在ませるあり、山色水光を一時に揺がす、見よ、清醒は現生に来れり。

奔(ホンコウ=川の波がぶつかるさま)せる山流を夾んで、穂高山一脈の崇嶽、天に攙(サン=中に割り込む)し溯りゆくものは我ら四人、しかも水は上下に乱流して往々分解したる花崗の16)ハクレキを堆積し、菱形に洲を作りて、水楊17)スイハツをそよがし、黄蝶18)ククゼンとして山吹の花の19)リョウランする如く飛ぶ、月明の夜は化現して山姫の20)リョウカンとなり、村家の少女が夢に入りなむか。

1) アサゲ=朝餉。あさの食事、朝食。夕餉(ゆうげ)は晩御飯。「餉」は「かれい」とも。携行用の乾した飯。音読みは「ショウ」。一餉(イッショウ)、餉遺(ショウイ=食べ物をおくること)、餉饋(ショウキ=食糧を送り届けること)、餉給(ショウキュウ=兵士に配給する食糧)、餉時(ショウジ=食事をするほどの短い時間)。

2)キンガ=欣賀。よろこぶこと。謹賀とは微妙に違う。欣懌(キンエキ=よろこぶこと)、欣予(キンヨ=のんびりと楽しむこと)。

3) ランセイ=爛星。かがやく星。この「爛」は「光があふれんばかりに輝く」という意。眼光爛爛(ガンコウランラン=目がきらきらと輝く)。

4) コウボウ=光芒。きらきらする光、ほのあかく広がる光線。「芒」は「すすき」「のぎ」のほか「ほさき」「ひかり」の訓みもある。芒角(ボウカク=星の光の輝き)、

5) 噪げる=さわげる。「噪ぐ」は「さわぐ」。ざわざわとさわぐ。音読みは「ソウ」。噪音(ソウオン=がやがやとさわがしい音)、噪聒(ソウカツ=さわがしい)、噪急(ソウキュウ=口やかましく気が短い)、噪噪(ソウソウ=がやがやとさわぐさま)。

6) エンエイ=掩翳。おおいかくす。「翳」は「かざす」「おおいかくす」。この言葉はぜひ覚えておきたい。

7)プン=紛。「紛たり」と用いて、小さいものが分散するさま、こなごなに飛び散るさま。

8) ナビいて=靡いて。「なびく」。外から加わる力に従う。

9) シュウ=驟雨。にわか雨。「驟」は「はやい」。↓の「迅雨」と同義語です。驟至(シュウシ=はやいテンポでやってくる、急に雨が降ったり風が吹いたりすること、しばしばいたる、間隔を詰めて通う)。

10) 迅く=はやく。迅雨(ジンウ=急にはげしく降る雨)、迅羽(ジンウ=鷹)、迅疾(ジンシツ=とぶようにはやい、迅捷=ジンショウ=)、迅邁(ジンマイ=乗り物や月日が、さっさと過ぎてゆく)、迅瀬(ジンライ=はやせ、急湍=キュウタン=)。

11) 甃=シュウ(いしだたみ)。平たい石を敷きつめたもの、石畳。音読みは「シュウ」。ここは両方の読みがありでしょう。ここは「川底がきれいに敷き石を敷き詰めたような状態になっていること」。勿論、自然の造形美です。以前、遅塚麗水の文章でも似た表現があったのを思い出しました。甃砌(シュウセイ=平たい石を敷き詰めたもの、石畳)、甃甎(シュウセン=しきがわら)。

12)ビロク=麋鹿。シフゾウ。シカ科の哺乳類、角はシカ、蹄は牛、尾は驢、首は駱に似るがどれとも違うとされ、四不増(シフゾウ)の異名がある。ヘラジカ。オオジカ。

13) 湿ほし=うるほし。「湿おす」は「うるおす」。水気を帯びるようにする。

14) ケイケン=敬虔。深く敬って態度をつつしむさま、神仏を敬って仕えること。

15) ノする=熨する。上から下へ、じわじわとおさえる。ひのしで布のしわを伸ばす。「熨」は通常「のし」と名詞ですが、今回はれっきとした動詞です。音読みは「ウツ」。熨斗(ウット=炭火を中に入れてその熱で布のしわを伸ばす、柄のついたひしゃく型の器具、ひのし、和訓では「のし」で意味が全然異なります)。

16) ハクレキ=白礫。しろいこいし。「礫」は「こいし」。「つぶて」とも。古墳、地層でよく用いられる。石英。

17) スイハツ=翠髪。女性の黒々した美しい毛髪、所謂一つの「みどりの黒髪」。緑髪ともいう。

18) ククゼン=栩栩然。ふわふわするさま、飛ぶ羽のように自由で愉快なさま。荘子・斉物論の「栩栩然胡蝶也」で有名。もともとは「くぬぎ」。日本では「とち」。

19) リョウラン=繚乱。花が咲き乱れる、たくさんの花が咲いているさま。

20) リョウカン=了鬟。あげまきやみずらを結った娘。年少の娘をいう。「鬟」は「わげ」「みずら」。
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Author:char
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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