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「オウシャク」「テンシャク」似て非なるものたち=「鎗ケ嶽探険記」(14)

明治のアルピニスト、小島烏水の「鎗ケ嶽探険記」(岩波文庫、「山岳紀行文集「日本アルプス」所収、近藤信行編)シリーズの14回目は、鎗ケ嶽登攀の佳境シーンの一つである「その八 梓河畔に立ちて穂高山を観ずる記」のその三です。嵐の前の静けさ。鎗ケ嶽登攀直前の静寂の場面です。

1)タソガレの眼には確に見解けられざりしが、山の大体心臓(ハート)形なる五個以上の大塊より成り、その頭はいづれも2)キョシ状に尖りて、錯出すれども、互層して半腹一に合するを以て、3)ケンコウはいと濶く、鎗ケ嶽の頂上の如く切截鉛錐形に孤聳することなし、千山の冷たき土窟に醸されたる新しぼりの八千渓水は、石に叫び木魂に響いて、山の麓なる梓川に落ち合ふなり、静かなる夕を歌はんがために、威力ある大君の前に舞はんがために。

この夕、我れ河畔に立ち、4)ぎもせで偉大なる穂高山を観ず。

我が脚を立つるの地は、接続より成れること、年代また年代を追へる歴史のそれの如くにして、歴史が巨人の紀年碑なる如く、地の最高最後の暘(ひので)は山なりき。

げに山なりき、爾は兀々たる自然の大書籍なり、人に在りての書籍は聖書、地に在りての書籍は爾にあらずや、我は仮に爾をここに「山」と呼ぶ、しかも爾の山なるはその外皮のみ、爾が挟める一木は5)オウシャクよりも尊く、爾が秘める一弁の花は、6)テンシャクの栄あり、爾は高し、しかれども爾の高さを測り得べきものは三角術にあらずして、大なる聖霊ならずんばあらず、何となればバイロンも言ひけむ如く、高山は我に取りて絶大なる感情なるをや。

ああこの夕、日は没して現界より他界に移るとき、ここに立てる一個の人影は、かしこに7)キツリツせる一個巨人の影に圧せられ、屏風倒しに折り累なりて、大地に落つるときここに8)コンゼン融和して、我は天地の一部なる如く、山は我の一部なるが如し。

彼9)し、山は10)ハリ函中に秘められたる11)キキョウの大弁の如くなりぬ。そのハリいよいよ厚さを加へぬ、ああ12)コントン

今や爾は13)スイシの聖徒の如く失せむとす、なほかつ爾の前に頭を擡ぐるものやある、14)ショウフクせざる何物か在る、我今かくの如く絶叫す、爾いかなれば寂として声なきや、しかも黙して爾を15)テイシするとき、我ただ、16)ソウボウ万古の意を覚ゆ、ああ、爾は永劫に活く。

恍惚は天授なる哉。

日全く没して星一つ二つ17)めくにつれて、遠近の山は脈拍し、全渓谷は18)コゾウし、木立は19)シュンショウす、而して禽謡はず、熊歩まず、20)リス躍らず、一葉囁かず、ああ森厳!穂高山麓縦七里の非人寰は、21)エンジョとして日本のヨセミテ渓谷なり。

飯既に熟したりと、導者の来り促すに心駭かされて、小舎にかへりぬ、串刺しにされたる岩魚は、かの容貌の醜きと反比例に、心ざまのしほらしき老猟士の手に炙られて膳に上りぬ、22)チンシュウなりき、彼は、やをら立ち上りて「お茶を御馳走しべいか」と、この舎にはふさはしからぬブリキ鑵を隅より持ち来りぬ、一撮の茶、山気の爽絶なるに適ふ。

夜寒うして白樺の枝を燈の代りに、★炉(コウロ)にさし23)べながら、我ら八人車座になりて熊狩の冒険談より岩魚釣の話に移りぬ、かの猟師は壮年の折、岩魚を釣らんとして、険流を渉るとき、過ちて足を辷べらし、押し流されて水中の岩石に半面を24)サッパせられ、彼が如き大傷を蒙りたるなりといふ。

夜更けて囲炉裏の傍に雑魚寝したれど、一味の高寒25)シフより迫り来りて、外套にて包まれたる身も、夢を包むまで、山林吏が纏ひたる毛布の端を、をりをり我に着せられたる情のほどぞ、世にありがたかりける、夜もすがら戸外の山流の音冴えたるに引き入れられて幻となりしが、醒めて山姫がうたふ催眠歌にあらざりしかと惑ひぬ。

我は終生、この万山環峙中、南北二十里間の、趣ある唯一孤屋を忘れざるべし。


★=火+工。かまど、あるいは煖炉のことと思われますが辞書には掲載がない。


1) タソガレ=黄昏。夕がた、夕暮れ。「コウコン」の読みもあり。

2) キョシ=鋸歯。のこぎりの歯のように鋭いさま。鋸牙(キョガ)とも。

3) ケンコウ=肩胛。腕と胴体を結合する平たい三角形の骨。かいがらぼね。「胛」は「かいがらぼね」。肩胛骨。

4) 瞬ぎ=まじろぎ。「瞬ぐ」は「まじろぐ」。さっとまたたきをすること。

5) オウシャク=王笏。帝王の持つしゃく。「笏」は「しゃく」。

6) テンシャク=天爵。その人に自然に備わった徳の高さ。対義語は「人爵」。

7) キツリツ=屹立。山が高くそびえたつこと。

8) コンゼン=渾然。異なったものがまじりあって、とけ合っているさま。

9) 昏し=くらし。「昏い」は「くらい」。日暮れ、くらやみ、日が暮れてくらい。昏暁(コンギョウ=夕暮れと夜明け、愚かさと賢明さ)、昏黒(コンコク=日が暮れてくらくなること、夕闇)、昏時(コンジ=くらい時、夜のこと)、昏昼(コンチュウ=夜と昼)、昏暮(コンボ=日暮れ、夕暮れ)、昏蒙(コンモウ=まっくら、暗黒、愚かなこと)、昏耄(コンボウ=年をとって頭がぼける、老いぼれる)。

10) ハリ=玻璃。天然ガラス。仏教で七宝の一つ、水晶のこと。

11) キキョウ=桔梗。草の名。キキョウ科キキョウ属の多年草。野山に自生。初秋、紫か白の花をつける。秋の七草。「ケッコウ」とも読む。

12) コントン=混沌。物事の区別・なりゆきのはっきりしないさま。

13) スイシ=垂死。今にも死にそうな状態。瀕死。「死になんなんとする」の意。

14) ショウフク=懾伏。恐れてひれふす、恐れて屈服する。「懾れる」は「おそれる」。懾駭(ショウガイ=きもをつぶして、おじける)、懾慴(ショウショウ=おじけてひやひやする、懾畏=ショウイ=・懾怖=ショウフ=)、懾憚(ショウタン=恐れはばかる)。

15) テイシ=諦視。全体をじっと見ること。諦観。「諦」は「つまびらかにする」「いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせる」の意。諦聴(テイチョウ=注意してよく聞く)、諦料(テイリョウ=全体をとりまとめて見とおす)。

16) ソウボウ=蒼茫。海・空・平原などがあおあおとして広がっているさま。

17) 晃めく=きらめく。光が四方に広がり出るさま。音読みは「コウ」。晃晃(コウコウ=ひかりかがやくさま)、晃蕩(コウトウ=光が広がって明るいさま)、晃耀(コウヨウ=ひかりかがやくさま)。

18) コゾウ=鼓臓。はらわたが震え動く。「鼓」は「うつ」。

19) シュンショウ=瞬睫。またたくま、あっという間。これは難語。「睫」は「まつげ」。まつげをまたたかせることから。

20) リス=栗鼠。獣の名。リス科の哺乳類。「リツソ」とも読む。「リス」は唐宋音。

21) エンジョ=宛如。そっくりそのままに、まるで、ちょうど、さながら。宛然の方が一般的か。

22) チンシュウ=珍羞。珍しくておいしい御馳走。珍庖(チンポウ)・珍味・珍膳(チンゼン)・珍饌(チンセン)ともいう。

23) 燻べ=くべ。「燻べる」は「くべる」。「ふすべる」ともいう。火でいぶすこと。

24) サッパ=擦破。すりやぶる、すりむく。辞書にはない。

25) シフ=紫府。仙人の居る所。紫宮(シキュウ)・紫闕(シケツ)・紫台(シダイ)ともいう。
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2006.6  2級合格
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2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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