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「真景累ケ淵」の女主人公に擬えられた老猟師=「鎗ケ嶽探険記」(13)

明治のアルピニスト、小島烏水の「鎗ケ嶽探険記」(岩波文庫、「山岳紀行文集「日本アルプス」所収、近藤信行編)シリーズの13回目は、鎗ケ嶽登攀の佳境シーンの一つである「その八 梓河畔に立ちて穂高山を観ずる記」のその二です。

小舎(こや)の軒には古く1)ススびたる板札を釘付けにしたり、黄昏の微明に透かし視るに「一人一泊五銭」とぞ記されたる、戸を開くれば吹き入る山嵐に、囲炉裏の烟は横になぐれたるに、あなやと組みたる胡坐をくづし、うしろ手を着きながら我らが方を2)キッと睨まへたるは、この舎の主人かからぬか、右の眼よりかけて頬の半面は皮剝の刑に遇ひたる罪囚が、3)旧瘢の蔽ひも隠されざる如く、その方面の前額より頭にかけては赭く禿、三、四毛をそよがせたるのみ、かかる夕、かかる深山の孤屋に、かかる奇醜の容貌を睹たるもの、宮本武蔵にあらずして、誰か悚然二の足を踏まざらむ、我も呆れて躊躇したるが、導者の心安げに挨拶するに、聊か安堵して内に入れば、彼はこの舎の主人といふにはあらず、猟の片手間、岩魚や山鯇(やまめ)を釣るために、ここを仮りの宿としたるにて、平生は留守居とてなく、ただかかる深山の中にて、ともかくも人家らしきはここの一軒のみなれば、いはば「お助け小舎」の如くに保存せられつつあるものにて、かの板札に記されたる如き宿料は、何年前よりの定めなるかを知らずといふ、狭き小舎ながら室と言はば言ふべかりけるもの、三間に4)りて在り、床板の上に、5)フルムシロ一枚敷きたるのみにて、よろづの体たらく物置小舎より無造作にして汚さ苦し、我らはその一室に草鞋を6)きたりしが、隣りての室には洋服を着けたる山林巡廻の7)二人、導者一人と倶に在り。「今夜はえら賑ふこつたぞ」とあたり構はず大笑したるは、かの8)を男にして見まほしき老猟師なりき、我らが導者は荷を解くや否逸早く、手分量にて米を何合か、齎せる鍋へ量り入れ、磨ぐべく急瀬淙々たる梓川辺へ立ち出でたるあと、我も9)キャハンの紺の滲みに汚れたる足を洗ふべく、つづきて立ち出でたるが、軒を圧してむくむくと天に参せる10)大華表の如き霊山こそ、衝き立ちたれ、川の両岸よりは樅樛の木立黝色になりて、大男の大股踏みしめ、臂を張りたるが、今にも歩み寄らんとする如く、森厳凄惨の気は、この北の方中俣嶽、北俣嶽、烏帽子嶽、抜戸嶽、南の方、硫黄嶽、焼嶽など、一万尺を出入する、山の頂の錐の如く尖りて、破線状の鉄壁を容くれる内に深沈として、をりから天父の唇より洩れたる11)アイキに肌いと寒かりしが、12)ムセイを破れる咳一つ、かの万山中の孤屋よりぞ聞えける。

今にも軒に落ちかからむずるこの巨人は、海抜一万一千五百余尺と測られて、鎗ケ嶽と臂を把つて中州に13)ゴウゲイせる穂高山、夕の空は霽れて水の如く、しかも蒼色より水色に、猫眼石の如く次第に変化するや、夕の色は冷色なれば、何物も目より退く如く見ゆ、それかあらぬか、蒼海原より澄みわたりたる虚空に14)れるこれらの大瑠璃山は一秒ごとに二、三寸づつ我より遠ざかりて、しかもなほ森厳なる15)センエイ点は、半空16)ボアイの水平線を突破したり。


問題の正解は続きにて。。。





1) スス=煤。黒いすす。煙に含まれて起ち上る炭素粒。また、それが屋内などに灰と共に残ったもの。「たきぼこり」ともいう。音読みは「バイ」。用例は煤塵、煤煙。

2) キッと=屹と。屹度・急度とも書く。「屹となる」と用いて、「おごそかなきびしい面持ちになるさま」。当て字です。


3) 旧瘢=ふるきず。古疵とも書く。比喩的に、ずっと前に犯した罪悪、旧悪。また、忘れてしまいたい昔の苦い経験。年を経たきず。対義語は「生傷・生疵」。「瘢」は「きず」「あと」で音読みは「ハン」。瘢痍(ハンイ=傷あと、瘢痕=ハンコン=・瘢創=ハンソウ=)、瘢疣(ハンユウ=傷あとと、いぼ)、洗垢索瘢(センコウサクハン=他人の欠点や誤りをどこまでも追求してほじくりだすたとえ、洗垢求瘢=センコウキュウハン=)。

4) 劃り=くぎり。「劃る」は「くぎる」。「かぎる」とも訓む。刀でくぎりの印を刻み込むこと。

5) フルムシロ=古蓆。「蓆」は、藺・蒲・藁・竹などで編んだ敷物のこと。使い古したむしろ。「むしろ」はほかに、「筵・席・苫・莚・蒲・莞・蒻・藉」がある。

6) 釈き=とき。「釈く」は「とく」。しめて固めたものを、一つ一つときほぐす、わからない部分やしこりをときほぐす。いましめや束縛をとく。「シャク」は呉音、「セキ」は漢音。釈甲(シャクコウ=よろいのひもをとく、戦争をやめること)、釈褐(シャクカツ=褐をぬいで官服を着る、はじめて役人になること、カツをとく)、釈耒(シャクライ、ライをすつ=畑をたがやすためのすきを捨てる、農業をやめること)。

7) 吏=つかさ。役人の総称。とくに、直接民政を処理する下級役人をいう。胥吏(ショリ=下級役人)、吏才(リサイ=役人としての才能、官吏として事をさばく能力、吏能=リノウ=・吏幹=リカン=)、吏情(リジョウ=不自由な役所勤めの気持ち)、吏人(リジン=下っ端の役人、吏員=リイン=・吏卒=リソツ=)、吏禄(リロク=役人の俸禄、官吏の給料)。

8) 累=かさね。ここはやや特殊な意味。怪談の女主人公。三遊亭円朝の「真景累ケ淵」で有名。ここは老猟師の醜い容貌を「塁」にたとえている。

9) キャハン=脚絆。旅などで歩きやすくするために脛にまとう布。脛巾(はばき)ともいう。

10) 大華表=おおとりい。「華表」は「とりい(鳥居)」。神社で最初に潜る最も大きな鳥居。

11) アイキ=噫気。おくび、げっぷ。

12) ムセイ=無声。声を発しないこと。無性や夢精でないことは前後の文脈から瞭然ですね。

13) ゴウゲイ=傲睨。おごりたかぶっていて不正なさま。いばって人をにらみつけるさま。「傲」は「おごる」。傲岸(ゴウガン=気位が高く人にへりくだらないさま、傲岸不遜=ゴウガンフソン=)、傲倨(ゴウキョ=おごりたかぶる)、傲骨(ゴウコツ=気位が高く人に屈しない気質)、傲世(ゴウセイ・よにおごる=おごりたかぶって世間の人を軽んじる)、傲然(ゴウゼン=人を見下しおごりたかぶるさま)、傲霜(ゴウソウ=霜に屈しない、転じて、強く正しくて凶暴な物にも恐れたり屈したりしない人のたとえ)、傲慢(ゴウマン=おごりたかぶって人を見下すこと)。

14) 涵れる=ひたれる。「涵す」は「ひたす」。他動詞が普通で自動詞用法は珍しい。たっぷりと水の中につける。たっぷりとうるおす。音読みは「カン」。涵泳(カンエイ=水にひたって泳ぐ、転じて、恩恵を受けること)、涵煦(カンク=水でうるおし、日差しで暖め、たいせつに養う)、涵濡(カンジュ=たっぷりとひたしてうるおす、うるおう、恩恵を施す、恩恵を受ける)、涵咀(カンソ・カンショ=よくかみこなして味わう、文章の意味をよく味わう)、涵養(カンヨウ=学問や教えにひたして養成する、恩恵をほどこす)。「ガン」の慣用読みにも注意。涵蓄(ガンチク=心の中に含みたくわえる、含蓄)。

15) センエイ=尖鋭。物の先がとがってするどい。考えや行動が急進的なさま。

16) ボアイ=暮靄。夕暮れに立ちこめるもや。夕靄(セキアイ)ともいう。夕暮れの風物は物悲しいものが多く、暮檐(ボエン)・暮鐘(ボショウ)・暮雪(ボセツ)・暮砧(ボチン)などがある。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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