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「愿愨」と「黝色」の読みに要注意ですな=「鎗ケ嶽探険記」(9)

明治のアルピニスト、小島烏水の「鎗ケ嶽探険記」(岩波文庫、「山岳紀行文集「日本アルプス」所収、近藤信行編)シリーズの9回目です。今回は「その七 霞沢の急湍を渉る記」の二回目です。いよいよ鎗ケ嶽。「これからは、もう人ッ児、ひとりに遇ふでねえ」。大石屋の主人の一言がアルピニストの緊張感を否応なしに高めます。

なほ行くと一里ばかり、霞沢の1)シンケイ漸く近うして、農家らしき孤屋に衝き当りぬ。枝折戸の傍には桐一本、暦日なき山中に歳月の「みをつくし」の如く高く標立し、この枝の小俣より垣へと斜にかけわたしたる棹には、樹の皮を細長く剥ぎたるを、幾十筋となく乾しあるが、初めは蛇のたくる(のたうつ)かとおどろかれぬ、一庭の畑には2)紫苣の葉油ぎりたるやうに濃く、桑畑その隅に錯はりて3)ソウセイす、濶くもあらぬこれらの畑を前に控へて、椽側長く、4)ロウオウ一人踞りて針仕事をしてありき、導者らは茶碗を宿より齎すことを忘れたりとて、この家にて四個を借り受け、荷を拵へ直しつつある間に、余は背戸の後なる筧に唇をあて息をも吐かず、冷水を飲むことおよそ三升、準備もはや整ひたり、渋茶なりともと押し止むる媼を辞して立ち出づるに「しんびやう(神妙)に、ためらうて、ようお出でなされ」と別れを惜しみて、目送すること、十年の知己の如し、山中の人、風俗5)愿愨にして親しむべきかな。

「これからは、もう人ッ児、ひとりに遇ふでねえ」

と我らを顧みてにやりと気味悪しく笑ひたるは、大石屋の主人なりき。

これより間もなく渓流の側に出づ、紫の組橋亭々として高く澗上に架し、自然石の柱はその両端に尖り出で、その上を竪に横にヤマモミヂは、鳶色に焦れたる櫨の木蔭より水を覗うて、ここなる水の一分は茜色に流れ、早秋の6)ゴウカ、川を焼いて「自然」に7)シュクサツの涙あり。

橋を渡り8)の間に拓かれたる路を拾うて、いよいよ霞沢に下る、9)ホンタン雪を噴きて、石を走らし、その中に全澗を圧するばかりなる一枚岩は、大魚の人立する如く躍り出づ、無色の水も層を成すに随ひて、はじめ透明水晶の如かりしもの、紫乳を搾りたる如くになりて、かしこに渦まき、ここによどむ、磧に沿ふこと四、五丁ばかりにして、石は叫び水楊は10)き、潤緑滴らんとする四壁に反響し、11)ヨウエイしどろに乱れて、寒流の上を白馬と紫騮と、相嚙み、相吼えて奔る。

一同ここにて新しく草鞋を換へ、水を渉る便宜のために、水楊の皮を剥ぎて早速の縄を作り、担荷を緊しきが上に厳しく括り合せ、やをら水中に踏み入りたるに、流迅くして危石も転ばすばかりなれば、両脚抗すべからず、重量を着けむがために石を抱へたれど、かへつてそのためによろめきて水中に顚踣(テンボク)せんとし、辛くも導者に扶けられて吻と息を吐きたりしが、かくして水を横断すること数次、時には深くして膝より臍に及べるを以て、紫蟹の如く崕に這い上り、12)れたるヤマハンノキを踏みたりしに、枝ポツキと折れて余は崖より三尺ばかり辷べり落ち、鉛筆は飛んで旋へらず、ポツケツトに土沙入ること約五合なるに苦笑したることありき。

かくの如き険流犇湍を、13)トショウするの便法は、一本の長棒を把り、14)リョリョク強き導者らをして、その両端を持せしめ、余ら二人その央を握り、「目指し」的に一文字に列なり歩調を揃へながら横ぎるを以て最も安全となす、もし人々個々に渉らば、体量軽きを以て脚を15)サラはれ、あるいは踏みかけたる石の転ぶと共に、前に16)俯める患ひあるなり、余従来高山に登れること多しといへども、渓流の険絶悪絶を極めたるは、実にここなる霞沢を以て無上となす。


およそ梓川七里の長さ、東より流れてまた西に旋ぐる、霞沢より神河内(17)ドゾク略してカミウチと呼ぶ)まで三里半の間、この急流乱山相仄する間を18)バッショウするなり、水いよいよ深く断崖およそ百米突、鉄鉱褐色を成して水を夾むや、水は蛇紋の碧に加ふるに、19)黝色の薄皮を以てし、膏の如くとろりと澄む、ここに至りて一歩も前む能はず、再び崖に攀ぢ登り、懸崕の腰を繞ぐりて大木の雲を衝く中を潜りゆくに、崕と谿との間に樹皮を組み合せたる屋状のものあり、鹿垣にもあらねば熊の栗垣ともおもはれず、聞くにここは「ネヅミ落とし」と呼び、冬に入りて山頂より斫り落す材木を受け留むるところなりといふ、崕の半腹を20)リョウジョウすること三十町余、危峰交も天を衝いて回転し、急湍怒吼して人語を乱るところ、偶ま大屏風の急斜面より珠を噴くごとく、蒲の穂の狂ふごとく、瀑水の高さ十丈ばかりなるもの、鮮緑を洗ひて直下するに行き遇ひぬ、その二段に折れたる間に突き出でたる巌を、しぶきに濡れながら危ふく踏みて、向ひの巌へと跳りたりしが、瀑布を横断したる旅行もこれをもてはじめとす。

☆紫騮(シリュウ)=栗毛の馬。「騮」は「くりげ」。

☆顚踣(テンボク)=つまずいて倒れること。「踣」は「たおれる」。






問題の正解は続きにて。。。






1) シンケイ=深谿。ふかい谷。深渓・深谷(シンコク)とも。烏水お気に入りの用語でこれまでも何度も出ています。深閨(シンケイ)だと、家の奥深くにある、婦人のへや、深刑(シンケイ)なら、きびしい刑罰のこと。

2) 紫苣=むらさきちさ。レタス。苣は「ちさ」。萵苣とも書く。

3) ソウセイ=簇生。草木などが群がって生えること。叢生とも。

4) ロウオウ=老媼。年をとった女性。老嫗(ロウウ)とも。老翁なら「おきな、年老いた男性」なので要注意。ここは前後の文脈から女性と分かる。老鶯は「春が過ぎても鳴くウグイス」。

5) 愿愨=ゲンカク。きまじめで誠実なさま。「愿む」も「愨む」も「つつしむ。いかにも出そうな熟語。書けと言われれば難問でしょうが読むことはなんとしても身につけたい。愿朴(ゲンボク=ありのままで飾らない)。端愨(タンカク=きちんとしてまじめであること、端誠=タンセイ=)。

6) ゴウカ=劫火。はげしい炎。仏教用語で、この世の最後に世界を焼き尽くすという大火災。

7) シュクサツ=粛殺。つめたい秋の空気が草木をしぼませ、枯らすこと。秋の空気がぐっと万物を引き締めて、厳しくものをいためつけること。

8) 磧=かわら。水際に小石の重なった場所、川原。音読みは「セキ」。磧沙(セキサ=川原の砂)、磧中(セキチュウ=小石の重なった砂漠の中)、磧歴(セキレキ=浅い水中につらなる小石、磧礫=セキレキ=)。

9) ホンタン=奔湍。川の水流の急な所、早瀬。これも烏水の紀行文では頻出語。

10) 顫き=おののき。「顫く」は「おののく」。ぶるぶるふるえる。音読みは「セン」。顫動(センドウ=寒さやおそれのために、ぶるぶるふるえること)。音読み注意。

11) ヨウエイ=漾影。ゆらゆらただようかげ。「漾う」は「ただよう」。

12) 僵れ=たおれ。「僵れる」は「たおれる」。からだがこわばって伸びてしまうさま。音読みは「キョウ」。僵屍(キョウシ=たおれた死体、僵尸=キョウシ=)、僵仆(キョウフ=たおれ伏す、たおれた死体)。

13) トショウ=徒渉。歩いて川をわたること。

14) リョリョク=膂力。体力、背中の力。背膂(ハイリョ=背骨)。「膂」は「せぼね」とも訓む。

15) サラはれ=浚はれ。「浚う」は「さらう」。水の底を掘って深くする。「ふかい」の訓みもある。ここの場合は川の流れに足を取られるの意ですからむしろ、「掠う」や「攫う」の方がふさわしいかもしれません。音読みは「シュン」。浚急(シュンキュウ=深くて速い流れ)、浚渫(シュンセツ=水底の泥をさらって深くすること)。

16) 俯める=のめる。からだが前方に傾くこと。当て字。やや難問。通常は「うつむく」。つんのめる。

17) ドゾク=土俗。その土地の人。

18) バッショウ=跋渉。山をふみこえ水をわたること。転じて、諸国漫遊すること。

19) 黝色=ユウショク。あおぐろいいろ。音読み注意。黝藹(ユウアイ=樹木がこんもり茂るさま)、黝堊(ユウアク=青黒く塗る、塗り土やしっくいをぬる)、黝牲(ユウセイ=祭りの際、いけにえとして供える青黒い色の牛)、黝黝(ユウユウ=うすぐろいさま、樹木がこんもりと茂ってうす暗いさま、黝然=ユウゼン=)、黝堊丹漆(ユウアクタンシツ=建物が古いしきたりにかなって作られていること)。

20) リョウジョウ=繚繞。まつわりめぐる。川などがくねくねと湾曲したさま、袖が長くまつわるさま。繞繚(ジョウリョウ)も同義。
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2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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