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「その六 白骨温泉の記(下)」から抜粋=「鎗ケ嶽探険記」(7)

明治のアルピニスト、小島烏水の「鎗ケ嶽探険記」(岩波文庫、「山岳紀行文集「日本アルプス」所収、近藤信行編)シリーズの7回目です。今回は「その六 白骨温泉の記(下)」から抜粋です。

十三日夜、小をんなをして亭主を呼ばせたるに、主人は松本に赴きて不在なりとて、新宅の主人来る、鎗ケ嶽登山の導者周旋を頼みたるところ、大石屋の主人といふが、かかることには物馴れたる男なればとて、やがてその人を伴ひ来る、齢は三十五、六顔色1)レイコクにして、唇厚く眼細く、頤に剛き髯を尖らす、切口上にて「ヒヱツ」と恭しく挨拶するなど、一癖ありげにて気味よからぬ男なり、彼曰く、鎗ケ嶽の麓なるカミウチまでは路を知りたれど、鎗ケ嶽へは未だ登りたることなし、しかしともかくもカミウチまで往きて、あの辺の猟師を語らひ、図を引いてもらへば、登れぬことはあるまじとおもふ、別に野宿の用具や行糧の準備もあれば、負担に堪ふる人を他になほ一人傭ひくれよと、即ちこれを諾す、彼は件の同伴者を大野川より拉し来るなれば、翌十四日をここに逗まりて待つこととなりたるなり。この夜弦月一片、2)色に3)クスぶりたる雲に呑まれむとして、偶ま我らが面に当れる「穂ナシ平」にひよろりと立てる一本杉に懸り、軒と平行に欠壁を垂る、血ぬりたる宝蔵院の鎌鎗をしごいて、4)牢く突き立てたる如し、二人相顧て、雲行きの常ならざるを悪む。

(中略)

十四日5)マイソウ、乗鞍嶺上の雲は、6)チョウトンを覆ふ、紗にして火を7)むが如く、倏ちにして大聴巓皆焼けむかとぞおもふ、火は雲の一枚一枚を剥ぐが如く、かしこの心より燃え、ここの孔を破りて出づ、8)ドウモクして仰ぐほどに、一味の黄色と混淆して、空に沁むや、たとへば9)ロウシン焼け尽くして、水色の涙落つるが如し、相慶して今日の酷熱を卜す、されどこの土地にて朝焼けは雨降る前兆なりと、里人より聞くに10)んで、窃に怯む。

(中略)

午後、友と余と隣室の教授氏を麾いて、宿を出ず、間もなく左折すること三町余にして、畑中に榜して鬼ケ城へ百四十四間といふ、11)カンボク欝密叢生せる中を、岩石と段々して下り行く、鈴蘭、ギボシ、最も多く花咲く、木の根12)セキボウのきらひなく、急峻の下り道となり、路を失して谿流に下る、13)キョウボク日を洩らさじと、14)を交へて茂れる下に、大磐石あり、塩原箒川の野立石に似たり、踞して憩ふ、水は15)シンペキを凝らし、垂々の樹葉と形影相拍ち、互に緑蓋を傾けて吻を接す、石は稜層あるもの、苔蒸して緑潤なる者、16)カゲキより草樹を乱生せるもの、孤剣空を削るがごとく刎ね飛ばす、腹這ひになりて、水色に見惚れたる間に、我が草帽失墜して水に入り、冷やし瓜の如く泛びて回転し、急湍のおもてにZ字を乱書して奔る、石より伝はりて追ふこと二間、漸く両大石の間に夾まりたるところを捉ふ、仰げば岸の半腹より、糸の如き瀑あり、傾斜より17)マッシグラに跳れる緑木の大濤と、先を争ひてこの川に落つるを見る、18)ヘキラクを搾りはじめて生ずる水にあらずば、いかでこの色あらむ、今もしそれここなる緑樹の頂を基点として、水平線を劃せば、その上は夏、その下は則ち冬の領。

(中略)

元の来路を登り、白骨温泉の本道とV字形を成せるところの右を取り、渓谷に入りて湯瀑を見る、甚だ熱からざるを以て就いて浴すべし、鍾乳石一、二枚を拾ふ、なほ下ること一、二間、岩鼻に踞して石門を観る、竜穴の名あり、土人は「突い通し」といふ、一水北より来るもの、石灰岩の障壁を穿ちて、19)カマボコ形の門を作り、その下を叫喚20)ドコウしつつ、南より来る一水を併せ、前の鬼ケ城の下なる渓流となりて東崖へ出づるや、渓濶くして山舒ぶ、人もしこの石門内に21)し入りて、北端に至れば、浅くして流水と共に22)ウロウして出づべしと、今日雨後の水満漲して、石門の23)キュウリュウを距ること甚だ短きを以て能はず、この間二町ばかり、内闇くして両崖より漏るる微明、暁天の如く、水上に晃めくや、緑葉娑婆、24)クウスイは25)ヘキギョクを雨ふらし、銀の26)タライはこれを享けて、山魚の浮游するごとし。この谷をなほ溯ること十七、八間なれば、巖下に「木の葉」石、「苔の花」石など多量に層を成して存在すといへど、我らは一枚も獲ざりき。

(中略)

原頭の草を27)いて、三人夕陽中に音なく仆るる荒城の如くなる、乗鞍の山影を浴びながら、何とは知らず28)ブゼンとして語なし、偶ま大さ29)の如くなる悪虫に30)を31)され、痛み甚だしきに駭き友を促して去る。

この日も半陰半晴にして昏れぬ、夜は教授氏より「日本紀行療養論」を借読し、思ひ当りたることどもを手帖に抄す。

明日はいよいよ登山の第一日なり。




この文章は表題の通り、鎗ケ嶽の登攀記です。これまではその準備であって実は、いや当然ながらここからが面白い。迫力ある記述の連続となります。次回以降は先を急がずじっくりと順を追って行くこととします。

問題の正解は続きにて。。。





1) レイコク=黎黒。色が浅黒いこと。顔色黎黒。「黎」は「くろい」。黎献(レイケン=人民の中の賢者)、黎民(レイミン=庶民、人民、黎首=レイシュ=・黎庶=レイショ=・黎元=レイゲン=)、黎明(レイメイ=うすぐらいあけがた、夜明け、黎旦=レイタン=)、黎老(レイロウ=老人)。

2) 色=ヨウショク。美しいく華やかな色。然(ヨウゼン=美しく輝くさま、=ヨウヨウ=)。

3) クスぶり=燻(ぶ)り。「燻る」は「くすぶる」。煙でいぶされて薄暗くくもる。

4) 礑=いしづき。地中に石を突き込め、建物の土台を固めること、その土台。こじり。もしかしたら「鐺」の誤りかも。「礑」は「はたと」。これは難問か。

5) マイソウ=昧爽。よあけ、あかつき、未明。昧旦(マイタン)。

6) チョウトン=朝暾。あさひ、暾は「あさひ」。

7) 裹む=つつむ。くるむ、外側を物でつつむ。

8) ドウモク=瞠目。目をみはる、あきれたり驚いたりすること。瞠然(ドウゼン=驚きあきれて目をみはるさま、瞠乎=ドウコ=・瞠若=ドウジャク=)、瞠瞠(ドウドウ=驚いたりあきれたりして目をみはるさま)。

9) ロウシン=蠟心。蠟燭の芯。やや難問。辞書に記載なし。

10) 迨んで=およんで。「迨ぶ」は「およぶ」。おくれず間にあう、とどく。音読みは「タイ」。迨吉(タイキチ・よきにおよぶ=よい時期をのがさない)、迨及(タイキュウ=およぶ、まにあう、逮及=タイキュウ=)。

11) カンボク=灌木。むらがりはえる木。たけの低い木。ツツジやヤマブキなど。低木。

12) キョウボク=喬木。↑の「灌木」に対して、幹がたかく、高さが3メートル以上になる木。高木。

13) セキボウ=石鋩。するどくとがった石。とがった石の先端。「鋩」は「きっさき」。

14) 柯=えだ。草木のえだや茎。音読みは「カ」。柯条(カジョウ=曲がった木のえだ)、柯葉(カヨウ=えだと葉、枝葉)。

15) シンペキ=深碧。濃い緑色、ふかみどり。

16) カゲキ=罅隙。すきま。罅漏(カロウ)ともいう。「罅」は「ひび」「すき」。罅発(カハツ=ぴんと割れる、はじける)。

17) マッシグラ=驀地。勢いよく目的に向かって進むさま。「バクチ」とも読む。

18) ヘキラク=碧落。あおぞら。「落」は「ところ」の意。

19) カマボコ=蒲鉾。白身の魚をすりつぶして味をつけ、練って板に盛り、簀巻きにして蒸したり焼いたりした食品。

20) ドコウ=怒吼。叫び声。怒鳴り声。「吼」は「ほえる」。「コウ」は漢音、「ク」は呉音。吼号(コウゴウ=大声をあげて叫ぶ)、吼天氏(コウテンシ=天で吠える者、風の別名)、吼怒(コウド=怒って大声でほえる、激しく怒ること)。

21) 俛し=フし。「俛す」は「フす」。伏せる、身をかがめたり、頭をたれたりすること。「俯」と同義。対義語は「仰」。俛仰(フギョウ=うつむいたり、あおいだりすること)、俛仰之間(フギョウのカン=顔をうつむけたり、あおむけたりするほどのわずかな間)、俛首(フシュ=首を垂れて貌をうつむける、俛首帖耳=フシュチョウジ=あわれみをこうさま)。「ベン」と読めば、「勉め励むさま」の意。俛焉(ベンエン=むりして努力するさま)。

22) ウロウ=傴僂。背をかがめる、うやうやしくつつしむさま。「ウル」とも読む。傴背(ウハイ=背がカギ型に曲がって小さい人)。

23) キュウリュウ=穹窿。弓形のように中央が高く周囲が下がっているテント。アーチ形の屋根。

24) クウスイ=空翠。空高くそびえる木々の緑色。

25) ヘキギョク=碧玉。空や水の青々としたさま。青く美しい宝石の一種、ジャスパー。

26) タライ=盥。音読みは「カン」。洗濯用のおけ。「てあらう」とも訓む。盥耳(カンジ=汚れた耳をあらいきよめる)、盥櫛(カンシツ=手を洗い、髪をくしけずる)、盥漱(カンソウ=手を洗い、口をすすぐ)、盥濯(カンタク=手を洗い、足をすすぐ)、盥沐(カンモク=手や髪を洗い清める、湯あみ)。

27) 藉いて=しいて。「藉く」は「しく」。音読みは「シャ」。草やむしろをしく。藉口(シャコウ=口実をもうけていいわけをする)。

28) ブゼン=憮然。悄然とするさま。

29) 蚋=ぶゆ。「ぶよ」も正解。ハエに似るがもっと小型。雌は人畜の血を吸う。「ぶと」ともいう。音読みは「ゼイ」。蚊蚋(ブンゼイ=かとぶゆ)。

30) 臑=すね。音読みは「ジュ」。「柔らかい肉」の意もあり、臑羔(ジュコウ=煮た小ヒツジの柔らかい肉)。

31) 螫され=さされ。「螫す」は「さす」。毒虫がさす。音読みは「セキ」。螫虫(セキチュウ=毒虫)。
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Author:char
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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