遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズから、「飛騨の山と越の海」の32回目は、「一四 夜の日本海」のその2です。辺りが闇に隠れる頃おい、次第に海の天候が変化し始めます。
船は錨を揚げたり、風は1)ホウホウゼン、仰ぎ見れば暮れ行く天に崢(そうこう)たる立山あり、2)ザンショウ尚ほ在り峯角燃えんとし、而して中腹以下は凝紫3)杳然たり、日の全く沈みし頃ほひ、立山の峯吹き白めて夕立したり、4)莽々たる5)ホンウン忽ち山を偸却して看れども見えず、天半遥かに断虹を懸けたるが、其の色の6)アせ去りし後、夜は7)周章しくも迫り来りて、海はさながら漆のごとし、8)チョウボウはA)■(やみ)に奪はれたれど、船房に入るものなく、煙草の火をば相乞ひて暗中に語り合ひつゝ、人皆な飽まで海上風露の気を攬つて脾肝入らんとするなり。
夜の十二時、やがては一時とも覚しき頃、急颷(はやて)は忽ち吹き来りぬ、テントは為めに破られて半ば飛び去り、9)襞まれたる檣頭の帆は吹解かれて空に舞ひ、目には見えねど10)ツブテのごとかるべき大粒の雨は人の面を撲ちきぬ、正しく低気圧の襲ひ来りしなり、四方の浜を出でし時は、11)コビるがごとき美霽なりしを、斯くとは知らで此の船に乗りたること一期の不覚と、言ひ合さねど人々安き心もなし。
★「崢」=山がとり巻いてきそいたつ。
★「急颷」=つむじかぜ。
和訓語選択
A) 「やみ」→マイ・メイ・ガイ・サイ・タイ「正しく低気圧の襲ひ来りしなり」――。ゆっくりと、そして着実に自然の猛威が頭を擡げます。「斯くとは知らで此の船に乗りたること一期の不覚」と後悔しても時すでに遅し。夕刻の夕陽は明らかに罠でした。人々をこの船旅に誘うための。。。。次回は死を覚悟する麗水たち。
問題の正解は続きにて。。。
A) メイ=冥。くらい。おおわれて光がないさま。「暗」と同義。冥茫(メイボウ=うすぐらく、とりとめのないさま、冥芒)、冥晦(メイカイ=くらい、まっくら、くらやみ)、冥鴻(メイコウ=くらく高い所を飛ぶ鴻、俗世間をさけて志をいだう者のたとえ)。
1) ホウホウゼン=蓬々然。風が吹きおこるさま。蓬勃(ホウボツ)も同義。「蓬」は「よもぎ」。ぼさぼさの髪の毛を形容する意もあります。蓬頭垢面(ホウトウコウメン・ホウトウクメン=髪の毛の乱れた頭とあかじみた顔、なりふりかまわないさまのこと)、蓬葆(ホウホ=髪の毛の乱れたさま)、蓬髪(ホウハツ=ざんばら髪)、蓬累(ホウルイ=蓬が風に吹かれてあてもなくころがっていくように、あてどなく放浪する)、蓬飄(ホウヒョウ=蓬が風に吹かれてころがっていくように、あてどなくさまよう、流浪する)、蓬首(ホウシュ=髪の毛の乱れたあたま)。
2) ザンショウ=残照。夕日の光。残暉(ザンキ)ともいう。夕映え、残映(ザンエイ)。
3) 杳然=ヨウゼン。はてしなくはるかなさま。この「杳」は「はるか」の意。杳乎(ヨウコ)ともいう。
4) 莽々=ボウボウ・モウモウ。野原や山などが遠くはるかに連なったさま。
5) ホンウン=奔雲。はげしく簇り上る雲。
6) アせ=褪せ。「褪せる」は「あせる」。色がさめる。音読みは「タイ」と「トン」。褪紅色(タイコウショク・トンコウショク=ときいろ)。
7) 周章しく=あわただしく。「周章しい」は「あわただしい」。「周章」は「あちらこちら遊び歩く」「あわてふためく」の意。周章狼狽(シュウショウロウバイ=思いがけないことに出あってあわてふためくこと)。
8) チョウボウ=眺望。見渡した時のながめ。「眺」は「ながめ」。眺矚(チョウショク=遠くをじっとながめる)。
9) 襞まれ=たたまれ。「襞む」は「たたむ」。「襞」は「ひだ」。衣服の細い折目。この意味から「たたむ」と当て字訓み。前後の文脈から何となく訓めるでしょう。音読みは「ヘキ」。襞積(ヘキセキ=衣服のひだ)。
10) ツブテ=礫。こいし。ころころしたこいし、小つぶのいし。音読みは「レキ」。礫石(レキセキ=小石、つぶて)、礫岩(レキガン=こいし)、的礫(テキレキ=一つ一つがはっきりと見えるさま)。
11) コビる=媚る。なまめく、なまめかしさでたぶらかす。音読みは「ビ」。媚子(ビシ=君臣を和合させる賢人、寵愛される子)、媚辞(ビジ=こびへつらうことば、媚語=ビゴ=)、媚承(ビショウ=こびへつらい、他人の意に従うこと)、媚態(ビタイ=こびへつらうさま、色っぽくあでやかなさま)、媚附(ビフ=こびへつらい、つき従う、阿附=アフ=)、媚薬(ビヤク=情欲を増進する薬、ほれぐすり)。
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