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本念寺にて大田蜀山人・南岳の墓健在を確認す=「礫川徜徉記」(2)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの2回目です。この記が書かれたのは大正十三年(1924年)4月20日で、つまり関東大震災のあった翌年のことです。荷風は成島柳北のほか、江戸時代中後期・町人文化の担い手であった大田蜀山人も信奉し、その子孫である俳人画家の故大田南岳とも親交がありました。小石川原町(現在は小石川白山)の本念寺には蜀山人と南岳両人の墓があり、震災の影響で墓が倒れていはしまいかかどうか気になって仕方がなかった。そこで「掃墓」の一環として、墓の無事を祈りながら本念寺を訪うたのです。


 ことし甲子の暮春、日曜日にもあらず大祭日にもあらぬ日なり。前夜の雨に表通も砂ほこりをさまりて、吹き添ふ微風に裏町の1)ヌカルミも大方はかわきしかと思はれし昼過。丸の内より神田を過ぎて小石川原町なる本念寺に大田南畆の墓を弔ひぬ。われ小石川白山のあたりを過る時は、必本念寺に入りて北山南畝両儒の墓を弔ひ、また南畆が2)コウエイにしてわれらが友たりし南岳の墓に3)コウゲを手向くるを常となせり。震災の時これらの墳墓いかがなりしや。殊に南畆の墓碑はこの4)チョウイキにても形大なるものなれば、倒れ砕けはせざりしやと心にかかりてゐたりしが、この日行きて見るにその位置少しく変りしのみにて石は全かりき。南岳の墓は本のところに依然として立ちたり。自然石にて面に大田南岳墓。碑陰にまつくろな土瓶つゝこむ清水かなの一句を刻す。これ南岳の句にして小波巌谷先生書する所、石もまた巌谷翁の5)を捐てて建てられしものなり。

小波巌谷は、明治・大正期の児童文学作家で俳人の巌谷小波(いわや・さざなみ)のこと。

われ初て南岳と交を訂せしは明治三十二年の頃清朝の人にして俳句を善くしたりし蘇山人羅臥雲が平川天神祠畔の6)グウキョにおいてなりけり。南岳諱は亨。野口幽谷の門人なり。初陸軍士官学校に入らむとして体格検査に合格せざりしかば、7)ソシを翻して絵事に従へるなり。その初武を以て身を立てんと欲せしはその家世々征夷府に仕へて8)徒士たりしによれるもの歟。南岳少くして耳9)ロウせり。人と語るに10)オント鐘の如し。平生奇行に富む。明治卅八年秋八月日魯両国講和条約の結ばれし時、在野の政客暴民を11)コセンし電車を焼き官庁を破壊す。12)レンコクの下13)ジュンラを見ざること数日に及べり。市民各その欲する所を14)にする事を得たりしかば、南岳白日衣をまとはず釣竿を肩にして桜田門外に至り15)を16)御溝に垂れて連日鯉魚十数尾を獲て帰りしといふ。


「交(まじわり)を訂す」は「好を通じる、交際する、親炙する」の意。明治三十二年(1899)、荷風は二十歳の時、清の留学生であり俳人の蘇山人の紹介により巌谷小波の主宰する「木曜会」に入会。蘇山人の仮住まいに出入りしていて南岳と出会ったというのです。このあたりは南岳を偲び、思い出話が一齣、二齣続きます。都内におまわりがいなくなり警備が手薄のところで素っ裸で皇居のお濠で魚釣りというのも奇天烈です。


また大婚式記念郵便切手の発行せられし時都人各近鄰の郵便局に赴き局員に請ひて、記念当日の消印を切手に捺せしむ。南岳17)春画を描きたる絵葉書数葉を手にし郵便局の窓に18)りて消印を請ふ。局員裏面の絵画に心づかず消印をなすこと三、四葉にして初て19)キョウガクの声を発す。この時おそし南岳20)エンピを伸べ絵葉書を奪つて疾走す。後に人に語つて曰くこれ21)に22)ヘイカの宝物なり。子孫の繁栄を祝するものけだしこれに優るものあるを知らずと。その為人おほむねかくの如し。かつて上野なる日本美術協会の展覧会に出品して褒状を得たり。褒賞授与の日川端玉章手づからこれを南岳に与へしに、南岳一礼して手に取るや否や、寸断して脚下に放棄し、悠々としてその席に還りて坐す。満堂の画人皆色を失ふ。南岳おもむろに鄰席を顧て曰く諸君驚くことなかれ、我狂するにあらず。唯平生川端玉章の為人を好まず、従つてその手に触れしもの我これを受ることを欲せざるのみと。23)ジライ復浮名を展覧会場に争はず。


春画の絵葉書に消印を押させ、子孫繁栄のため家宝とするセンスは面白い。残念ながら今回は紀行文と言うよりは故人を偲ぶ文が中心でした。本念寺は知らないし訪れたことはありません。大田蜀山人にも特に思い入れはありません。ノスタルジーには浸れませんでした。ちなみに、荷風が小石川に思い入れがあるのは出生地(今の小石川春日)だからです。十二、三歳の頃までの少年時代を過ごし、いろいろと遊んだ記憶のあることが、「荷風随筆集(上)」の「伝通院」で紹介されています。


問題の正解は続きにて。。。




1) ヌカルミ=泥濘。「デイネイ」の読みもあり。泥の深い所。

2) コウエイ=後裔。子孫。末裔(マツエイ)、後胤(コウイン)とも。「裔」は「(衣の)すそ」「すえ」「はて」の訓みもあり要注意。裔胄(エイチュウ=とおい子孫、裔孫=エイソン=)、四裔(シエイ=四方のはて)。

3) コウゲ=香華。仏に供える香と花。香花とも。供華・供花(クゲ・クウゲ)は「仏前または死者に花を供えること、その花」。

4) チョウイキ=兆域。墓地。塋域(エイイキ)・冢墓(チョウボ)とも。

5) 貲=シ。たから、もとで。財産のこと。貲財(シザイ=たからや金銭、財産のこと、貲産=シサン=)、貲郎(シロウ=金銭をおさめて官職を買い、役人になった者)、高貲(コウシ=財貨の多いこと、またその人、大富豪、高訾=コウシ=とも)。「あがなう」の訓みもあります。「貲を捐てる」という言い方で「私財を投じる」。タイガーマスクこと伊達直人の寄付行為もこれに当てはまります。

6) グウキョ=寓居。かりずまい。寓食(グウショク=居候)、寓宿(グウシュク=宿る、宿泊する)。

7) ソシ=素子。日頃の志。かねての願い。宿願。

8) 徒士=かち。徒歩で主君の行列の供をしたり、先導したりする身分の低い武士。

9) ロウ=聾。つんぼ、耳の聞こえないこと。

10) オント=音吐。ものをいう声、発声、声の出し方、こわね。音吐朗々(オントロウロウ=音声がゆたかではっきりしているさま)、

11) コセン=鼓煽。自分の意見を述べて他人をそそのかすこと。「煽」は「あおる」。「鼓して煽動(センドウ)す」の略とも見られる。

12) レンコク=輦轂。「輦轂の下」(レンコクのもと)と用いて、首都東京を指す。「輦」は「(天子の乗る)てぐるま」。つまり、天皇陛下が住まわれている場所をいい、首都をさす。

13)ジュンラ=巡邏。見回りをして調べること、その人。巡視、巡査、おまわり。

14) 恣=ほしいまま。自分勝手、自由自在。音読みは「シ」。恣心(シシン=わがままな心)、恣縦(シショウ=勝手気ままにやりたいことをやる、恣肆=シシ=・恣逸=シイツ=・恣横=シオウ=・恣放=シホウ=)。

15) 綸=いと。釣り糸。「綸を垂る」「綸を収む」などと用いる。音読みは「リン」。綸言(リンゲン=天子の言葉、みことのり、綸音=リンイン=・綸旨=リンジ=)、綸言如汗(リンゲンあせのごとし=汗が出たらもどらないように、天子が一度発したことばは、取り消すことは出来ないこと)。

16) 御溝=おほり。ここは皇居(旧江戸城)をとりまく堀。「御壕、御堀」の方が一般的でしょうか。「溝」は通常、「みぞ」と訓みますが、意外に注意すべき熟語が多いので整理しておきましょう。溝壑(コウガク=他人からものをもらって生きる人、生活の糧を失った人)、溝渠(コウキョ=みぞ、ほり、下水道)、溝洫(コウキョク=田畑の間にあるみぞ、灌漑)、溝渓(コウケイ=みぞや谷、さびしい田舎)、溝池(コウチ=城のほり)、溝中瘠(コウチュウのセキ=困窮のためやせはてて、みぞに埋もれた死体)、溝瀆(コウトク=みぞ、どぶ、人家のない寂しい場所)、自経於溝瀆(コウトクにジケイす=自分で首を絞め、みぞに落ちて死ぬこと、詰まらぬ死に方の喩え、論語「憲問」)。

17) 輙=すなわち。AしてすぐにBする。ここでは「絵葉書に春画を描いてすぐさま郵便局に持って行った」。

18) 抵りて=いたりて。「抵る」は「いたる」。そこまでぴたりと届く、そこまで行く。抵至(テイシ=いたる)、抵死(テイシ=死にいたる)。

19) キョウガク=驚愕。ぎくっとしておどろく。驚鄂とも書く。

20) エンピ=猨臂(猿臂)。勢いよく長く腕を伸ばして、物を取る時の腕のこと。「猿臂を伸ばす」と用いる。「臂」は「ひじ」。

21) マコトに=洵に。まったく、本当に。洵美(ジュンビ=ほんとうに美しい)。

22) ヘイカ=敝家。謙遜した我が家。弊家でもOK。「敝」は「やぶれる」。弊廬(ヘイロ)、弊宅(ヘイタク)とも。

23) ジライ=爾来。ある物事があって以来、その後。
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2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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