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文だ武だ言ってる場合じゃないんだけどね…=「学制に関する意見箚子」(5)

幕末の越前藩士、橋本左内の「学制に関する意見箚子」(講談社学術文庫「啓発録」、伴五十嗣郎全訳注)シリーズの5回目です。越前藩は文武を一体化して文人も武人も関係なく人材育成を進めようとしました。しかし、肝腎の教官がその意図を理解せず、軽視して勝手に自分の究理に専念するばかり。文は文、武は武で乖離した状態が続いていることに左内の不満が頂点に達しているのです。上下一心して事に当たり、一丸とならなければこの難局は乗り切れないことは自明の理なのにあいつらは何をやっているのだ…。


■…しかるところ、過日すでに武藝所肝煎を始め、掛りの面々も仰せつけられ候へども、右等の族、今に一歩も学校へ1)スウコウの念動き申さず、一語も教官へ論談いたさず、詰の者とても、やうやく申し訳のごとくに、細々たる会読いたしをり候までの義にて、なかなか一頓に誰人より道義開明つかまつるべしとも存ぜられず候へども、教官たる者2)テンゼン安居いたしまかりあり候。

(要旨)役付きの武芸者は自分勝手な行動ばかり。一方、儒官の方も細々と講読会を開いているだけで両者が協力して藩校の教育を盛りたてようなどとは思わず、呑気に構えています。


■…その上また、深く御案じ申し上げ候へば、この儘にて文武掛りの面々、相互に推服倚頼の心なく、各々目の前の御奉公のみ相守りをり候なりゆきに推し遂げ候はば、文武一致はさて置き、かへつて究まるところ文武相輘(きし)り、互ひにその短を3)し、文士は武夫の粗暴偏狭を笑ひ、武夫は文士の柔弱4)キョウダなるを嘲り、生徒などの義につき候ても、双方いささかづつ見込みこれ有る者を、強て引込み取りつけ候やう相成り、その者の所長を達しさせ、国家の御有益になし候ところは打ち忘れ、所詮吾が流儀を推し張りたきやうに成り行き、互に意地をもつて角論に及び、つひに結党の勢ひ成り、門戸の争ひを相始め候はんも計りがたく、これまた恐るべき義に存じ奉り候。


(要旨)憂慮されることには、文事と武事の双方が信頼し合わない状況は互いに欠点をあげつらいあい、生徒のうちから自分の流儀の拡張のために勢力に組み込むような事態になりかねないでしょう。意地の張り合いはひいては党派結成の運びとなり闘争へと発展しないとは言えません。

■…また、古来より5)ウジュの陋見にて、とかく技藝を6)ヒシして、これを力修する者を7)キチョウいたし候。これ誠に8)モウマイ不通の論に御座候。聖人の道と申すも、畢竟人倫日用の外にはこれなく候へば、物外の道にてはなし、物外の道ならねば、事を離れ候ことはこれなき筈にて、所詮、道はかへつて技よりして進み入り候ものと愚考つかまつり候。しかるに、己の不能拙劣を掩ふため、いたづらに空理の談を喜び、着実の技藝を嫌ひ候は、笑ふべきの至りに御座候。古より聖賢の無能なる者、一もこれ有り候やう相見え申さず候。聖賢と申すは、多能にして能を頼まず、能に伐らず、技藝を修めて技藝に局せず、技藝の中において妙理の存するところを知り、衆藝の要、一致に9)ソウカイするところに覚えこれ有る人と考へられ申し候。

(要旨)昔から技能を卑しいと考え、努力して修行する者をあざける風潮が儒学者にありますが、何と世情に疎いことでしょう。彼らの説く聖人の道は人の踏むべき道であり、日常生活のことにほかならないはずです。それなのに自分の無能力を掩い隠すために、空理空論ばかり振りかざし着実な技能技術の習得をおとしめるのは笑止千万なことです。聖人・賢人と呼ばれた人々は不得意のことがなかったかのよう見えますが、極めて多芸多才でありながらそれに頼ることなく慢心することもせずさまざまの技術を修練して、堪能になっても拘泥することなく、そららの中からあらゆる技術に共通する最も重要な一点をきっちりと押さえて確認しているのです。

■…しかるところ、当今の教官右等のところに心づき申さず候や、目今御端立の兵科を始めとして、その他の諸科ともに一向念頭に掛け申さず、かへつて吾が道の10)ひとも相成るべしと存じ候や、それぞれへ人材等御配りなされ候ことなど、館内の妨げにも相成り候やう心得、何となく具憂つかまつりをり候塩梅に察せられ申し候。これらは固陋の最上、笑止の至りに御座候。

(要旨)それなのに、今の明道館の教官ときたら、この辺の勘所に理解がなく、このほど創設した兵科をはじめ、科学技術関係の各科を無視して、自分の学問の障害になるとでも思うのか、適切な人材を配置することすらしません。頑固、偏屈の一語に尽き笑うしかありません。


■…万一、御家中一統に空理の論11)ゴウハツを12)ち候ほど13)セイビに入り候とも、身に覚えたる実藝なく、ことごとく14)ウハツ禅のごとき士のみに相成り候はば、軍攘は誰か当り申すべきや。会計は誰、農田・水利は誰、製械・開物は誰に託し申すべきや。国家を治め候には、色々の道具なくては修まり申さざること、なほ一家にしても様々の15)キジュウなくしては、生命の保続出来申さざるに同じ。これらの事さへ心づき申さず、吾が学に大関係の治事の諸科をも慢看放過しおき、何をもつて治国平天下の業をなし、何をもつて政教一致・文武不岐の御誂え相果し候見詰めに御座候や、甚だ覚束なき義と存じ奉り候。

(要旨)もしもすべての藩士が空理空論ばかり極めつくす一方、実際に役立つ技術が身についておらず中途半端な武士ともいうべきものになったら、藩の軍事、財政、農耕・治水の行政、機械の製造、物産の開発はだれに委ねることができましょうか。国家を治めるというのは、政治・経済学の理論も大事ですが、道具が必要であることは家庭を振り返れば分かること。当たり前です。自分の学問を実践するうえで欠かせない諸技術を教える諸学科を放置してどうやって国を治め天下を安泰に導くことができるのでしょうか。政治と教育を一致させ、文事と武事を一体の物にせよという藩是を実現できるのでしょう。目の前が真っ暗になります。



■…はたまた人材を得候は、ただ教育薫陶の上にこれ有るのみならず、またその材を取りてその長を展ばさせ、あはせて16)ボウジンをして観感憤起せしめ、17)オカに安んぜざらしむるの術、また肝要と存じ奉り候。もし、いたづらに人材を造成するに規々として、これを取り、これを用ゆる道を知らざる時は、人材下に18)エンタイするの患ひ有るのみならず、遂に造成の縁も塞り申すべく候へば、選挙の道もあらかじめ講明いたし置きたく存じ奉り候。これらも、固より上の御著目肝要とは申しながら、人々の小長・微能まで、逐一上聴に達し候ものにてもこれなく候へば、教官たる者目撃透視して、その材その能を捨て置かず推挙いたすべきこと、当務に御座あるべく候。

(要旨)さらに考えれば、人材を得るということは優秀な学生にだけ目を向けるのではなく、長所を伸ばし、低位に甘んじることなく向上のための努力を仕向け底上げを図ることも大事です。人材の登用も欠かせません。連続して登用して活力を与えなければなりません。常々学生を見るのは殿様ではなく藩校の教官ですから、その資質を見極めて才ある者を放置せず推挙することが重要な職務となるのです。





左内が説くのは危機意識の共有化であり、無用な縄張り争いには何の価値もないということです。政治の世界で言う政権交代も目的だったことがはっきりし、与野党ともに自分の延命を図ることばかりに汲汲としていることが眼前で繰り広げられている。相手の足を引っ張り、勢力を拡張することだけしか能がないのです。人材を育てたり、国家を守ったりすることこそ全員が一致して当らなければ時間がないのに。要するに能力がないのです。そんな奴らが政治という名の下に高額の禄を食み無為な行為ばかりを続けているのです。しかし、国民にも非がある。おねだりばかりで投票を餌にしてきたのだから。そんな構図を政治家と共につくってきたのだから。左内の言辞を見ましょう。実学こそ世の中を動かす原動力となる。頭でっかちの空理空論では偉そうにできても何も変えることは出来ない。人を教化することは出来ないのです。左内の儒学批判は痛烈です。彼は医者を志し洋学にも精通していましたから、儒学の空論が何の役にも立たないことを知っている。厳しく律する道具とはなっているので一定の有用性は認めているが、儒学ばかりではダメで世の役に立つものも身につけて両輪の人材こそが求められているという。現代でも詰め込みの教育の限界が取り沙汰され、どんなに名のある大学に入っても、入ることが目的である限りは政権交代と同じで出るときに職にありつけない有様です。それよりはキャリアアップのために海外に出たり、外の人たちと交流して人脈や技術を身にまとうことが自分の人生を彩るうえでは有効だということにそろそろ気が付くだけではダメで、実践しなければ可惜人材が朽ちてしまうのは目に見えています。人材、教育。御題目ではダメ。行動です。誰一人傍観者であってはダメ。全員参加型の社会にしなければだめだ。かつては戦争という「道具」を用いたがいまや通用せず。教育という名の下に全員が心を合わせる必要があるでしょう。


問題の正解などは続きにて。。。






1) スウコウ=趨向。目標のほうに向かっていく。おもむくこと。ここは武藝所肝煎や掛りに任命された者が藩校に出勤することを指す。

2) テンゼン=恬然。安らかでのんびりとしているさま、物に動じないさま。「恬」は「やすらか」とも訓み、「平然として落ち着いているさま」の意。恬逸(テンイツ=安らかでのんびりしている、恬蕩=テントウ=)、恬豁(テンカツ=欲がなくてあけすけである)、恬虚(テンキョ=心が安らかであっさりしている、物事にとらわれないこと)、恬曠(テンコウ=静かで広々している、何もすることがなく暇なこと)、恬退(テンタイ=欲がなく、人と争うことはしない)、恬淡(テンタン=無欲であっさりしている、恬澹=テンタン=)、恬漠(テンバク=心が安らかで静か、恬静=テンセイ=)、恬愉(テンユ=心が安らかで、しこりがない)。

3) 摘し=さし。「摘す」は「さす」。特定のことを取り出してあげつらうこと。摘抉(テッケツ=あばき出す)。

4) キョウダ=怯懦。おくびょうで意気地がない。怯弱(キョウジャク)とも。怯懾(キョウショウ=おじけおそれる)、怯惰(キョウダ=おくびょうでなまけものである)、怯臆(キョウオク=おそれてしりごみする)、怯夫(キョウフ=おくびょうな男)。

5) ウジュ=迂儒。世情にうとく、その知識が実際に役立たない、つまらない学者。象牙之塔。

6) ヒシ=卑視。他人を見下すこと、いやしめさげすむこと。「卑」は「いやしむ、いやしとする」。

7) キチョウ=譏嘲。とがめてあざけること。「譏」は「そしる」「とがめる」。譏諷(キフウ=遠回しにそしる)、譏揣(キシ=人の長所や短所を非難してもみくしゃにする)、譏排(キハイ=非難して退ける)、譏讒(キザン=口を告げる、そしり)。

8) モウマイ=蒙昧。おろかで道理にくらい。「蒙」も「昧」も「(道理に)くらい」。蒙翳(モウエイ=草木や霜などがおおいかぶさる)、蒙耳(モウジ・みみをおおう=人のいうことをきかない)、蒙茸(モウジョウ=乱れてもやもやしているさま、蒙戎=モウジュウ=)、蒙稚(モウチ=道理がまだよくわからないこども、幼い子供)、蒙蔽(モウヘイ=知恵が発達しないで道理がわからないこと)、蒙籠(モウロウ=草木がはびこり乱れてしげるさま、≠朦朧)。

9) ソウカイ=湊会。物事が一か所に集まること。湊集(ソウシュウ)とも。「湊」は「あつまる」の意。輻湊(フクソウ=あつまること、輻輳)、湊泊(ソウハク=一か所にあつまりとどまること)。

10) 累ひ=わずらひ。「累わす」は「わずらわす」。めんどうな事につながりをもたせる、まきぞえをくらわす。めんどうなかかわりあい、わずらわしい心配事。

11) ゴウハツ=毫髪。細い毛すじ、ほんのわずかであること。

12) 析ち=わかち。「析つ」は「わかつ」。「さく」とも訓み、「べつべつにはなす、こまかくわけはなす」の意。析骸(セキガイ=死人の骨をさきくだく)、負析薪(セキシンをおう=父の割ったたきぎを子が背負う、転じて、子孫がりっぱに先祖のあとつぎをするたとえ)。

13) セイビ=精微。詳しく細かい。精密・精緻とも。

14) ウハツ=有髪。剃髪せずに修行する僧侶のこと。中途半端で本物でないと左内は侮蔑のニュアンスで用いています。

15) キジュウ=器什。いろいろのうつわ、さまざまな家財道具。「什」は「十」の意。種類が多いことをいう。「器」は「道具」の意。

16) ボウジン=傍人。かたわらの人、第三者である他人。

17) オカ=汚下。土地が低いこと、低地。

18) エンタイ=淹滞。すぐれた才能がありながら、下の位にとどまっている。そのような人。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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