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「天地間無用の人」宣言は旧幕府人のスピリッツ

「明治の人と時代を掘りおこした、碩学の評伝集」である森銑三の「明治人閑話」(中公文庫)。ここで彼が、「綺羅星のごとく輝いた明治人」の一人に、わがblogのここもとの主役である成島柳北も取り上げられており、全320頁中26頁とかなりの紙幅が割かれています。

柳北の新聞人・言論家としての才について、森は「明治前半期の新聞人の有した精神を、柳北も有した。柳北も気概気節の士として、決して人後に落ちない」(同書、79頁)と称しています。世間一般には「風流才子」と評言され、人の金で欧米を見聞し、招かれた朝野新聞で斜に構えた戯れ文を数多く発表していることから、いかにも「遊冶郎」然たる人物と目されている柳北ですが、森は「その境涯は幾転変しても、柳北はその置かれた境涯に於て、自己の面目を発揮している。柳北は行詰まらぬ人だった。その点に於て才人だったことは否定すべくもない。しかし柳北はただの才分だけで、世と共に推し移ったのではない。居常徳川の遺臣たることを忘れず、心の奥底には一脈の哀愁をたたえていた。柳北の文章に悲寥な気分の裏附けせられているのは、そうした心境から来ている。そして柳北その人は、旗本の殿様としての気位を持ち続けている。少しも卑屈に堕してはいない」(同書、79~80頁)として、浅薄な見方として却けています。

以前も紹介しましたが、柳北は幕府の奥儒者の家に生まれ、二十歳そこそこで十四代将軍家茂の家庭教師役を務め、達者な口が災いして籠居の憂き目にも遭いますが、窃かに洋学を修め、文官から武官に転ぜられるという異例の「快挙」も成し遂げます。フランス式兵隊制度の確立を献策するも容れられず職を去るにもかかわらず、不死鳥のように甦り外国奉行に挙げられ、会計副総裁まで上り詰めます。いまでいうなら財務副大臣。政権中枢の一角を確実に担ったのです。ことほど左様に溢れる才能が彼をして上へ上へと引き上げていった。無論、徳川幕府末期のこと故、「人材払底」という客観的な情勢も加味しなければならないでしょうが。そして、彼は幕府瓦解と同時に「三千円の俸給と副総裁の職とを返上」し、三十二歳の若さで自ら進んで「隠居の身」となります。

柳北が明治元年の秋に書いた「濹上隠士伝」というのがあります。これはいわば旧幕臣・柳北が「天地間無用の人」になることを宣言したのであり、森によれば、「新政府に仕えて、一身上に新しい進路を開こうなどとするを欲せざることを明言した」(同書、67頁)、「徳川の遺臣として世を終ろうと決意している。その一事にも、柳北の人物の義理に堅かったことが認められよう」(同)と述べています。残念ながら、「明治人閑話」には一部しか抜粋されていません。本日はこの「濹上隠士伝」全文をご紹介しようと思います。近代デジタルライブラリー採集の「柳北全集」の劈頭を飾っています(リンクはここ、22コマ目)。旧字体は新字体に改めますが、旧仮名づかいはそのままにしておき、傍点や丸点は省略します。本文は追い込みですが、適宜改行して切っていきます。

「濹上隠士伝」

濹上の隠士、その名を惟弘といひ、字を保民と呼ぶ、幼名は甲子麻呂、長じて甲子太郎と改む、天保丁酉の年二月甲子に生れし故なり、冠して温字叔と称せしかど、諱むべき事ありて、今の名に改めたり、其別号は甚多し、確堂は、艮斎翁の与えしなれど、三河の老公にふれし故に廃せり、柳北は、柳原の北にすむより称せなり、誰園は、其園の名、春声楼は、其書楼、不可抜台は、その書室、我楽多堂は、去年造りし1)イチウの称なり、濹上の荘は、松菊荘とて記文あり、

注)天保丁酉=天保8年(1837年)。
確堂、三河の老公=元津山藩主・松平確堂。三河は松平家の知行地。
艮斎=儒学者、安積艮斎(漢詩は紹介したことあり)。





1) イチウ=一宇。一むねの建物・家。家一軒。「宇」は「家」の意。八紘一宇(ハッコウイチウ)は「全世界を一つの家と考えること」。

隠士は、東岳先生の孫にして、稼堂君の子なり、幼より書を読み、和歌を詠ず、2)シフは景好む所なり、十七の冬父にわかる、十八の春、温恭大君の侍講見習となり、幕朝実録編輯の事を督せり、二十歳の冬侍講となり、昭徳公に読書を授け奉る、廿一の冬3)ホイを命ぜらる、昔の六位にあたるなるべし、後鑑三百七十五巻訂正の労を賞せられて、黄金御衣を賜ひ、実録編輯の4)に因て、俸を新に増し給へり、十年文字を以て、内廷に奉仕し、君恩の5)ユウアクなるに感泣せしが、一朝6)ヒンセキをうけて、散班に入りぬ、そは風流の罪過によると、或は云ふ7)ケンチョクに過て衆謗を得ると、或は洋学を主張するの故なりと云ふ、何れにてもよしとして、三年8)ロウキョ、西学者に就て、専ら英書を攻む、大に9)カイゴせしことあり、

注)東岳先生=奥儒者、成島司直。
稼堂=奥儒者、成島良譲。
温恭大君=徳川十三代将軍家定のこと。
昭徳公=徳川十四代将軍家茂のこと。
散班=窓際の閑職。







2) シフ=詩と賦。ともに韻文の一種。柳北の得意な分野は景色の叙述だという。

3) ホイ=布衣。律令時代以降、六位以下のものが着る無紋の狩衣、転じて、六位以下の官吏を指します。江戸時代では、武士の大紋に次ぐ4番目の礼服となり、転じて、それを着ることのできる御目見(おめみえ)以上の身分の者を指します。旗本の身分の代名詞。また、「フイ」と読めば、中国で「官位のない一般庶民」をいう。

4) 勲=いさおし。かぐわしい手柄。「いさお」でもOK。勲業(クンギョウ=てがら、勲績=クンセキ=)、勲閥(クンバツ=てがら)。

5) ユウアク=優渥。天子の恵みが手厚いこと。「渥」は「うるおいがこもっていること」。

6) ヒンセキ=擯斥。おしのける、のけものにする。擯棄(ヒンキ)・擯却(ヒンキャク)ともいう。「擯」は「しりぞける」とも訓む。擯介(ヒンカイ=主人と客の間にたって、案内し介添えする人、取り持ち役、擯相=ヒンショウ=、擯詔=ヒンショウ=)。

7) ケンチョク=狷直。片意地で偏屈な性格。「狷」は「かたいじ」とも訓む。狷介(ケンカイ)、狷急(ケンキュウ)、狷狭(ケンキョウ)、狷隘(ケンアイ)、狷者(ケンシャ)、狷忿・狷憤(ケンフン・ケンプン)、狷戻(ケンレイ)などはいずれも、不本意なことを拒んで行わない、臍曲がりであることをいいます。

8) ロウキョ=籠居。家の中にとじこもったきりでいる。蟄居。

9) カイゴ=開悟。迷いが解けて悟ること。開寤(カイゴ)もOK。≠介護、悔悟、乖忤。

二十九の秋、突然歩兵頭並に10)でられ、家になかりし千石の禄を賜ふ、其冬騎兵頭並に転じ、仏蘭西騎兵伝習の事を建言し、其命をうけて、翌年より横浜に陳営を造り、大に操練の事を督せり、営築の事、三兵の管轄、みな隠士の手にあり、仏国の教師謝農安は至て親しかりし、三十一の夏に、騎兵頭に登り、二千石に加俸す、その秋、騎兵奉行の事をつとむべきよし命あり、隠士11)ヒッケンに成立したれども、時運に深意ありて、陸軍一局に非常の精神を費やせしかど、竟に其志の如くならざるを憤り、病に臥して職を辞しぬ、

注)謝農安=シアノアン。シャルル・シャノワーヌ(Charles Chanoine、1835~1915)。慶応元(1865)年、幕府からフランスへ派遣された使節団の正使柴田剛中の要請によりフランスから来た軍事顧問団の団長。のちの陸軍大臣。柳北は1972年の仏蘭西漫遊した折、巴里で再会を果たします。






10) 擢でられ=ぬきんでられ。

11) ヒッケン=筆硯。ふでとすずり、転じて、文筆を職業とする人の生活をたとえる。文官。


家に臥す僅三十日にて、慶応戊辰の早春に、外国奉行に栄転し、従五位下大隅守に叙任す、其月の末に会計の副総裁に進み、参政の班に加はれり、此時は大阪敗走の後なり、隠士会計局の12)クウボウなる折に逢ひ、奮てなせし事もあるべし、其詳はしらず、大君の東台に蟄し給ふ後、隠士三千円の俸金と総裁の職を返し奉りて隠る、時に年三十二、其家は養子信包に譲て、市籍に入るとの風説なり、是より後のなりゆきは、13)キッカイとなるか、王侯となる歟、草野に俄死するか、極楽浄土に生るるかもはかり難し、







12) クウボウ=空乏。物などが何もないこと、貧乏なこと。空匱(クウキ)・空耗(クウコウ)・窮乏。ただし、空房ではない。

13) キッカイ=乞丐。こじき、物もらい。乞人(キツジン)・乞児(キツジ)・乞食(キッショク・コツジキ)ともいう。「乞」も「丐」も「こう、ものごいする」。丐子(カイシ=物乞いする者、丐夫=カイフ=、丐児=カイジ=、丐者=カイシャ=)、丐取(カイシュ=ねだって手に入れる)、丐命(カイメイ=命の助かることを願う、助命を求めること、乞命=キツメイ=)。

「草野に俄死する」は「野垂れ死にすること」。「俄」は「餓」の誤りかとも思われますが、突然死んでしまうという意も包含しているかもしれません。


大痴公曰、隠士生れて、人に短なる所少なからず、色を好むこと甚し、酒を14)タシナむこと亦甚し、百般の遊戯好まざる所なく、好て人を罵り、世に悖る、何事をなしても、無益の勉強をなさず、ややもすれば、15)ランマンを楽しんで、撿束せず、これ其短所なり、然れどもまた長処あり、人と争ふ事を好まずして、人に欺かれず、己に私すると雖も、人の害となることをなさず、16)ユウトウに耽るといへども、常に家国の安危を心にとどめり、これ長ずる所ともいふべき歟、






14) タシナむ=嗜む。すきこのみ、それに親しむことが長い間の習慣となる。音読みは「シ」。嗜玩(シガン=好みもてあそぶ、愛玩する)、嗜虐(シギャク=残虐なことを好む)、嗜好(シコウ=たしなむ、すき好む、好み)、嗜僻(シヘキ=特に好む傾向)、嗜眠(シミン=眠りたがる、むさぼり眠る)、嗜慾(シヨク=見たい、聞きたい、食べたいなどという欲望)。

15) ランマン=懶慢。ものぐさで、だらしがないこと。懶惰(ランダ)の同義語。「懶」は「おこたる」「ものぐさ」とも訓み、懶困(ランコン=ものうくてつかれる)、懶婦(ランプ=不精の女、コオロギの別名、嬾婦=ランプ=)。≠瀾漫、爛曼、爛縵、爛漫。

16) ユウトウ=遊蕩。節度を失って遊ぶ、酒色にふける。

「大痴公」が誰を指すかは未詳です。「撿束」(ケンソク)は「検束」とも書いて、「行いをつつしみ、自分の身を引き締める」の意。自制して禁欲的な生活を送ることです。柳北はそれは到底できない性分だという。「撿」は「しめる、ひきしめる」の意。

隠士妙齢より今日に至るまで、遊戯連年、いまだ其倦たるけしきを見ず、古の所謂情痴者なる者歟、隠士風雲花月の妙処に逢ふ時は、涎を流し、魂を飛し、酒を把て、陶々として楽む、時に詩歌を草す、所謂風流客なる歟、隠士盛宴に臨み、17)コウクン前に満るに当て、時として感激18)ヤクワン、19)嬌娜の色も眼に上らず、痛憤按剣の志あり、所謂忼慨悲壮なる者歟、隠士頃者一書を読まず、一事を為さず、空々として日を渉る、所謂馬鹿者なる歟、蓋隠士の言に曰、われ歴世20)コウオンをうけし主君に、21)ガイコツを乞ひ、21)ビョウランの極、真に天地間無用の人となれり、故に世間有用の事を為すを好まずと、それ或は然らむ、それ或は然らむ、

明治元年秋の末     東京 野史氏しるす







17) コウクン=紅裙。あかいもすそ、転じて、それを着た美しい女性、特に芸妓をいう。紅裾(コウキョ)ともいう。「裾」は「すそ、もすそ」。

18) ヤクワン=扼腕。自分の腕をおさえて、残念がったり、いきごんだりするさま。切歯扼腕(セッシヤクワン)で用いることが多いですが、こうして二字熟語もありです。意外に難問かも。「扼」は「おさえる」とも訓み、「圧力を加えて自由に動けないようにすること」。「やくする」の和訓もあり。扼喉(ヤクコウ・のどをヤクす=のどをおさえる、急所をおさえて敵の動きをとれないようにする)、扼殺(ヤクサツ=のどをおさえて絞め殺す、搤殺=ヤクサツ=とも)、扼襟(ヤッキン=えりもとをしめつける)。

19) 嬌娜=キョウダ。女性があでやかでなまめかしいさま。「嬌」は「なまめかしい」、「娜」は「たおやか」。嬌嬰(キョウエイ=愛らしい赤ん坊)、嬌客(キョウカク=はなむこ、好きな人、芍薬の別名)、嬌児(キョウジ=かわいらしい子、愛児)、嬌羞(キョウシュウ=愛らしくはにかむ、嬌恥=キョウチ=)、嬌女(キョウジョ=なまめかしく、かわいらしい女)、嬌笑(キョウショウ=なまめかしい笑い)、嬌艶(キョウエン=あでやかでなまめかしい、そのような女の姿)、嬌態(キョウタイ=なまめかしいようす、人の気持ちをひくようななまめかしい姿、嬌姿=キョウシ=、嬌容=キョウヨウ=)、嬌痴(キョウチ=愛らしくあどけない、おぼこ)、嬌鳥(キョウチョウ=かわいらしい鳥)、嬌名(キョウメイ=なまめかしいうわさ、美人であるという評判)、嬌面(キョウメン=なまめかしく、かわいらしい顔、嬌顔=キョウガン=)、阿嬌(婀嬌=アキョウ=愛人や若い女性を親しみを込めて呼ぶことば)、婀娜(アダ=なよなよとして、なまめかしく美しいさま)、娜娜(ダダ=なよなよと揺れ動くさま、しなやかなさま)。

20) コウオン=鴻恩。大きなご恩、大きな恩み。鴻沢(コウタク)・鴻恵(コウケイ)ともいう。「鴻」は「おおきい」の意。もちろん、「ひしくい」「おおとり」の訓みもある。鴻業(コウギョウ=帝王の大事業の基礎、丕基=ヒキ=)、鴻荒(コウコウ=おおむかし、太古)、鴻号(コウゴウ=天子という立派な名称)、鴻才(コウサイ=すぐれた才能)、鴻儒(コウジュ=りっぱな学者)、鴻藻(コウソウ=立派な文章)、鴻猷(コウユウ=大きな計画、丕図=ヒト=、鴻図=コウト=)、鴻博(コウハク=学問・知識の広いこと、博学)、鴻範(コウハン=大きな規模)、鴻筆(コウヒツ=大文章を書くこと)、鴻名(コウメイ=大きな名誉、りっぱな名前)、鴻烈(コウレツ=大きなてがら、大功)。

21) ガイコツ=骸骨。「乞骸骨」(ガイコツをこう)と用いて、「君主につかえている自分だが、その老いさらばえた骨だけはいただいて帰りたいと願い出る、辞職を願うこと、辞表を提出すること」の意。乞身(キッシン)・乞骸(キツガイ)ともいう。「骸」は「むくろ」とも訓む。

22) ビョウラン=病懶。怠け病。「懶」は「なまける」。





最後にある「真に天地間無用の人となれり、故に世間有用の事を為すを好まず」というくだりが森銑三が指摘したところの、「徳川家から受けた御恩を、改めて身に沁みて感じているのであり、天地間の無用の人となったからには、世間有用のことには従事せざるべしと自ら誓ったのである」(同書、67頁)。下野してからさまざまな職に従事する中で、仏蘭西・伊太利・英吉利・亜米利加への漫遊にも出かけ、見聞を広げるとともに、新聞紙上で戯れ文をものするのです。これが柳北の宣言した「天地間無用の人」の真骨頂。世の中は御一新となり、丁髷は落としても、刀は納めても、地位も名誉も捨てても、徳川幕府の一員であるスピリッツだけは忘れようとしなかった。時代の狭間にあって二つの顔を持つこともできず、そこはある意味不器用だったがゆえに、宛ら陶淵明のように時代に背を向けて隠者のような暮らしを追い求めたのでしょう。


讒謗律を揶揄する「辟易賦」も世間に対する精一杯の抵抗だったかもしれません。そして、渠の雑文は実は赤壁賦のパロディーだけではなかったのです。それは次回のお楽しみに。。。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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