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散切り頭に込められた“自由奔放”=西行法師にならって「東行」と号した高杉晋作

散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする――。

丁髷をいち早く切り落とした高杉晋作(1839~67)。高杉の散切り頭は明治の「文明開化」を目の当たりにすることは残念ながらありませんでしたが、彼の髪型は残る写真や肖像画からすると幕末にあって如何にもモダン。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で晋作を演じる伊勢谷友介もカッコいい。しかしながら、彼もまた時代を少しだけ先取りしすぎたのかもしれません。

ところで、高杉が髷を落としたのはどうしてか御存じか?それはおいおいと……。弊blogをば、ゆ~っくりと読み進めてくださいな。

晋作というのは通称です。本名は春風。長州萩の人。嘉永5年(1852)、12歳のとき藩校明倫館で学び、その際、同級生に久坂玄瑞がおり、終生の友となりました。二人とも安政4年(1857)に松下村塾に入塾し、門下の双璧、双竜と称されますが、いずれも30歳に満たない短い人生でした(久坂は蛤御門の変で24歳で戦死、高杉は28歳で結核で病死します)。

高杉は翌1858年には、藩命令により湯島・昌平黌でも学びます。そして、1859年の松陰の死後、佐久間象山や横井小楠とも知己を得ます。幕末きっての開明派との邂逅によってインスパイアされたに相違ないです。そして、1861年、22歳のとき上海にも遊学しているのが見逃せません(いろいろごたごたあって左遷の意味合いもあるようですが)。ほぼ10カ月の滞在中、ズタズタにされた清国を直視しながらも攘夷の急先鋒となります。そして、これを機に藩内で「奇兵隊」を組織し、百姓、町人をも取り込んだ近代的な軍隊の原形を作ることとなります。

明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P149~150)によると、「藩命を得ずに奔走したのをとがめられ呼びもどされて獄につながれたときの作」である「囚中作」という詩があります。八・十八政変や池田屋事件が起きて、長州が挙兵しようとするのを止めようと説得に回りますが、失敗し、勝手に上京したため脱藩の罪で野山獄につながれます。獄にいる間、藩がイギリスら四国艦隊に下関を砲撃され苦境に陥ります。そんな時に詠じた詩です。本邦と漢国の二大「無念の憂国の士」を引き合いに出して、獄中にありながら己の志を曲げることなく目的に向かい邁進する心意気を詠じています。高杉は漢詩の才に溢れていたようで短い生涯ながら数多くの漢詩を残しています。

君不見死為忠鬼菅相公    君見ずや死して忠鬼と為る菅相公を
霊魂尚在天拝峰       霊魂尚在り天拝峰
又不見懐石投流楚屈平    又見ずや石を懐いて流れに投ず楚の屈平
至今人悲汨羅江       今に至るまで人は悲しむ汨羅江
自古■■害忠節       古よりザンカン忠節を害す
忠臣思君不懐躬       忠臣君を思うてを懐わず
我亦■■幽囚士       我亦ヘンタク幽囚の士
憶起二公涙沾胸       二公を憶起して涙胸を沾す
休恨空為■■死       恨むをめよ空しくザンカンの為に死するを
自有後世議論公       自ら後世議論の公なる有らん



【解釈】 諸君ご存じであろう、死んで忠義の鬼となった右大臣菅原道真公の霊は、今なお太宰府の天拝峰にとどまっていることを。またご承知のことと思う、国の衰亡を憂えて、石を懐に湘水の流れに身を投じたのは楚の屈原であったが、今日に至るまで人々皆汨羅の淵にその忠烈の志を悲しまぬ者はいないことを。昔から讒人が忠節の士に危害を加えた例は乏しくないが、忠臣はただ主君を思って一身を顧みないものである。自分も罰せられて獄に投ぜられた囚人だが、菅・屈二公のことを追憶して、悲憤の涙に襟をぬらしているのである。だが、恨みがましいことは言うまい。たとい讒言のためここで生命を落とすとも、後世公正な議論が行われて、わが忠誠の気持ちが世に認められる日もあるであろうから。


ザンカン=讒間。あしざまに告げ口して人の仲を裂く。「讒」は「つげぐち」とも訓む。讒口(ザンコウ=非難、悪口、告げ口、讒舌=ザンゼツ=)、讒毀(ザンキ=告げ口して人をけなし、事をぶち壊す)、讒構(ザンコウ=まげて組み立てた告げ口をして、人をわなにおとしいれる)、讒誣(ザンブ=事実を偽ってありもしないことを言って、人をそしる)。

ヘンタク=貶謫。官位を下げて遠方の地へ流刑にする。貶竄(ヘンザン)、貶流(ヘンリュウ)、貶逐(ヘンチク)ともいう。この「貶」は「おとす」「おとしめる」の意。「謫」は「官職を落として地方の役人にしたり、辺境の防備につかせたりする、官職をおとされて地方に流される」の意。謫徙(タクシ=とがめを受けて官位を落とされ、地方へ左遷されること、謫遷=タクセン=)、謫落(タクラク=罰して辺境の地へ左遷すること、謫降=タクコウ=)、謫居(タッキョ=罪を犯し、その罰として遠方へ流されること、また、そこでのわびずまいのこと)。

躬=み。我が身、自身。

休めよ=やめよ。禁止を表すことば。~するな。「休道」は「いうをやめよ、いうことをやめよ」。



憂国の士の一人目は、菅原道真。二人目は屈原。ともに讒言に遭って無念をこの世に残し九泉に去っていた。それでも魂はこの世にあって人々から忘れ去られることなく、折節、人々に想起され影響力を残しているのです。道真も屈原も弊blogで取り扱っており、その思いの重さは読者士もご存じのはず。翻って、高杉が名うての漢詩人であったことは意外と知られていないでしょう。奇兵隊のイメージが鮮烈ですからね。時代が違えばきっと、彼は別の人生が待ち受けていたはずです。この二つがクロスするには時間が必要かもしれません。ところが、明治維新の礎を築いたものの、その姿かたちを見ることなく散った28歳の死の無念さを思うと、それだけで我々はある種の感慨に浸らないわけにはまいりません。

高杉には肺病に侵された牀で詠んだ辞世の句というか、歌の途中までがあります。

おもしろき こともなき世を おもしろく

勤皇の女流志士で、高杉をサポートした野村望東尼(もとに)が「すみなすものは 心なりけり」とつけたと言われています。歴史小説家の童門冬二氏は「できれば下の句は付けてほしくなかった」と惜しんでいます。童門氏曰く、高杉の思いは空白のままにして、我々後世人が自由に想像できた方が楽しかったのではないかというのです。

本日のオマケ。高杉の漢詩についてはここのサイト(ここ)が詳しいです。高杉の漢詩が時系列でエピソードを交え紹介されており、28年の人生が漢詩と共に歩めるので迚分かりやすいサイトです。

それによると、先ほどの「囚中作」は元治元年(1864)4月25日の作となっていますが、この年は高杉の「屈折期」として数多くの「囚中作」と題する漢詩が詠まれていることが分かります。それにしても高杉が改めて漢詩人として優れていることが判然とする力作揃いですね。この中から幾つか掲載し問題といたします。そのままコピペさせていただきますが、解釈はなしです。一部手を加えてあります。

高杉は「西行法師」にならって「東行」との号を持っていました。

咏西行(西行を咏ず)。

破衣破笠一■■    破衣破笠一ソウアイ
到処青山骨欲埋    到る処の青山骨を埋めんと欲す
石枕夢冷孤渓月    石枕夢は冷かなり孤渓の月
古寺魂暗■■懐    古寺魂は暗しゴコウの懐
見生如死死即生    生を見ること死の如く死は即ち生
自言我是方外客    自ら言う我は是方外の客
無情淡心玩咏歌    無情淡心咏歌を玩ぶ
曽拠高位不肯惜    曽て高位を拠り肯えて惜しまず
休道老仏虚無術    道うを休めよ老仏虚無の術
天下能害幾何人    天下能く幾何の人を害す
雖然使僧不学仏    然りといえども僧をして仏を学ばざらしめば
千載誰称西行僧    千載誰か称せん西行僧

ソウアイ=草鞋
ゴコウ=五更
幾何=いくばく


高杉には正妻「まさ」のほかに愛妾「おうの」がおりました。その両者に板挟みになったモテ男の心境をユーモアたっぷりに詠んでいます。右往左往。。。

「戯作」。

細君将到我閑居    細君将に我居に到らんとす
妾女胸間患有余    妾女は胸間患余り有り
従是両花争■■    是より両花エンビを争う
主人■手莫何如    主人は手をコマヌいて如何ともするなし


エンビ=艶美
コマヌいて=拱いて



師匠吉田松陰(二十一回先生)の墓を現在の世田谷・松陰神社に移した時に詠じたものです。何処まで行っても悔しいのは早過ぎた師匠の死です。自らも後を追うように早世するのですが、仇は十分取って余りあったと言えるのではないでしょうか。松陰との二人三脚で新しい日本国の礎を築くことはできたのですから。

「五日改葬松陰先生及頼三樹、小林民部遺骨於若林下邸 賦小詩、奉二十一回先生墓前」(五日松陰先生及び頼三樹・小林民部遺骨を若林下邸に改葬す 小詩を賦し、二十一回先生墓前に奉ず)。

要思往事慰■■    往事を思うてエイコンを慰めんと要す
自愧未能雪■■    自ら愧ず未だ能くキュウエンを雪ざるを
墓下回看少年日    墓下の回看す少年の日
若林村景似松村    若林の村景は松村に似たり

エイコン=英魂
キュウエン=旧冤



おっと、冒頭の散切り頭の答えを書き落とすところでした。

先ほど西行への憧れを詠じた詩をご紹介しました。「東行」というのは高杉らしい諧謔性に富んだ号です。しかし、単に「西」を「東」に変えただけではない。江戸へ行って幕府を倒すとの意も込められている。そして、このとき彼は髷を落とした。そう、西行法師にならって出家したのです。そして、散切り頭という「自由な翼」を得て高杉は世の中を変えようと決めたのです。文明開化の音を聞くことはできなかったけれど、日本国の文明を開花する音を出すことはできたのでした。既成の枠に囚われず、高杉は長州藩を何度も何度も脱藩します。脱藩しては戻りまた脱藩。脱藩脱藩また脱藩。。。藩を愛し、国を愛した自由奔放な男でした。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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