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恨み骨髄に徹した水戸浪士の宿志成就=井伊直弼の血飛沫を桜吹雪と詠じた黒沢勝算

安政5~6年(1858~59)に起きた「安政の大獄」(ここ)は“幕末”開始の号砲を鳴らしました。やられたらやり返す。将軍継嗣問題で突出し過ぎた水戸藩を封じ込めた井伊直弼が今度は、水戸脱藩浪士によって桜田門外で暗殺されます。それが万延元年(1860)の「桜田門外の変」。幕府の実質ナンバーワンである大老が江戸城登城最中に藩士に殺されるという前代未聞の大椿事でした。「カーン!ラウンドワン」。まさに血で血を洗う幕末のゴングとも言えるでしょう。どちらかが倒れるまで、いや世の中が変わるまで続く「デスマッチ」ではなかったでしょうか。

そんな大業を成就した志士が捕らえられた際に詠んだ辞世の詩があります。詠み手は黒沢勝算。水戸脱藩浪士です。世間的には黒沢忠三郎で通っていますが、名前はこっちの方がいい。人生の勝算はなかったでしょうけれども、怨み骨髄に徹した直弼憎しの思いを遂げる勝算だけは確実にあったでしょうから。。。詩題は「絶命詩」。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P129~130)から。

呼狂呼賊任他評    狂と呼び賊と呼ぶも他の評に任す
幾歳■■■■晴    幾歳のヨウウン イッタンに晴る
正是桜花好時節    正に是れ桜花の好時節
桜田門外血如桜    桜田門外血桜の如し




【解釈】 狂人と呼ぼうと乱賊と呼ぼうと、それは他人の評するに任せておこう。わたくしの知ったことではない。佞臣井伊直弼を斃した今は、長年天下を覆うていた妖雲も一時に晴れた心地がする。時はあたかも上巳の節句、桜の花も開こうという三月(現在では四月)のいい季節である。場所も名に負う桜田門外、飛び散る血は桜の花吹雪のようであったぞ。


ヨウウン=妖雲。あやしい雲。不吉を予感させるような雲。「妖」は「あやしい」の意。「妖~」の熟語は、妖婉(ヨウエン=人の心を惑わすほどあでやかなこと)、妖魅(ヨウミ=人をたぶらかすあやしい化け物)、妖氛(ヨウフン=よくないことがおこりそうなあやしい気配、ぶきみな雰囲気、転じて戦乱)、妖孼(ヨウゲツ=災い、災いの起こるきざし)、妖言(ヨウゲン=人を惑わすことば)、妖蠱(ヨウコ=人をまどわせるほど、美しくあでやかなこと)、妖倖(ヨウコウ=気に入りの美人)、妖姿媚態(ヨウシビタイ=なまめかしい姿かたちと、人にこびるような態度)、妖祥(ヨウショウ=災いと幸福、禍福)、妖彗(ヨウスイ=彗星)、妖婦(ヨウフ=艶やかな美しさで男を惑わす女、妖女=ヨウジョ=)、妖変(ヨウヘン=世の中のわざわい、正体の知れない異変)、妖妄(ヨウボウ=あやしげで、でたらめなこと)、妖魔(ヨウマ=人を誑かすあやしい魔物)、妖民(ヨウミン=あやしい術を使う人間)。人を惑わす言葉を意味する「およずれ」という和語がありますが「妖」を充てます。

イッタン=一旦。ある朝、ひとたび。物事がおこるのを仮定するときに用いる。ここでは、「一瞬にして雲が晴れて朝がやってきたように」くらいの意か。≠一端、一箪、一反。



技巧も難語も何もないシンプルな詩です。己の心情だけをストレートに詠じています。明治書院によれば、勝算に付いて「乱後九鬼長門守邸に幽閉され、後に処刑。……いかなる理由があるにせよ、『血桜のごとし』とは確信犯だけが吐ける言葉」とあります。「処刑」とありますが、実際は病死だったようです。承句の「幾歳妖雲一旦晴」では、「してやったり」と快哉を叫んでいます。彼にとって、ペリー来航、井伊直弼の台頭、日米修好通商条約の締結など一連の出来事が「妖雲」だったのでしょうね。

陰暦3月3日、桃の節句でありながら、桜田門外の変と言えばわれわれには雪が舞うシーンが想起されますが、転句と結句は、桜吹雪と雪吹雪に血飛沫、白と赤のコントラストも鮮やかなる、相反する季節感を盛り込んでいると同時に、杜甫の晩年の作である「江南逢李亀年」にある「正是江南好風景 落花時節又逢君」を踏まえています。とても22歳の若者が詠じた辞世の詩とは思えない出来栄えです。

桜田門外で直弼を襲撃したのは18人で、うち17人が旧水戸藩士、残りの1人が旧薩摩藩士でした。水戸浪士の一人に佐野竹之助がいます。彼も水戸を出立する際に詠じた詩を残しています。

詩題は「出郷作」。こちらは某サイト(ここ)からの借用です。

決然去国向■■    決然 国を去りてテンガイに向かう
生別又兼死別時    生別 又た兼ぬ死別の時
弟妹不知■■志    弟妹は知らずアケイの志
■■牽袖問■■    インギンに袖を牽きてキキを問う



【解釈】 思い切って郷里水戸を去って、遙かなところへ向かうことになった。生きたままの訣別は、同時に、今生の別れでもある。幼い兄弟たちは、蹶起の大義を理解することができないので、慕わしげに袖を引っ張りながら、いつ頃帰ってくるのか、と問いかけてくる。


テンガイ=天涯。非常に遠いところ。「涯」は「はて」。≠天蓋、天外、碾磑。ここでは井伊直弼のいる江戸を指し、ひいては死を意味するあの世を言っている。

アケイ=阿兄。自分の兄を親しんで言うことば。にいさん。「阿」は「親しみの気持ちをあらわして、人を呼ぶ言葉につく接頭辞」。阿姨(アイ=母の姉妹を親しんで言う、おばさん)、阿翁(アオウ=祖父、おじいさん、夫の父)、阿咸(アカン=甥と同じ年代の者をいうことば)、阿姑(アコ=夫の母をいうことば、しゅうとめ)、阿公(アコウ=嫁が夫の父をいうことば)、阿姉(アシ=姉を親しんでいうことば、ねえさん)、阿女(アジョ=自分の娘を親しんでいうことば)、阿誰(アスイ=だれとも決まっていない人をさすことば、だれかしら)、阿婆(アバ=年とった女性を尊敬して言うことば、おばあさん)、阿父(アフ=父を親しんでいうことば、おとうさん)、阿母(アボ=母を親しんでいうことば、おかあさん)、阿媽(アボ=母のこと)、阿妹(アマイ=妹を親しんでいうことば)、阿蒙(アモウ=こども)、阿爺(アヤ=父を親しんで言うことば)。魯迅の「阿Q正伝」も庶民であるところの「Qさん、Qちゃん」くらいの意。

インギン=慇懃(殷勤)。ねんごろなさま、ていねいに気を配ること。慇懃無礼(インギンブレイ=外面だけていねいで、実は無礼なこと)、慇憂(インユウ=深く憂える)。

キキ=帰期。帰る時。帰る時期。≠騏驥、窺覬、希冀、毀棄、諱忌、起跪、暉暉、嬉嬉、鬼気、危機、機器。



かたや、大業を成し遂げた喜びから心底の震えが止まらない詩。こなた、大業成就を目指して生きて再び帰ってこないという決意を示した家族との今生の別れを描いた詩。借用したサイトの解説には、そのいずれもが燕の荊軻の『易水歌』にある「風蕭蕭兮易水寒,壮士一去兮不復還」のイメージと重なる旨が記されています。成るほど、易水のほとりで仲間たちに見送られながら最後の決意を詠じた刺客、荊軻ですね。荊軻は大国・秦の始皇帝を殺す大役を担わされていたわけです。これに対して、勝算や竹之助ら水戸浪士にしてみれば、幕府大老・井伊直弼を暗殺することも同様かそれ以上の大きな意義があったのです。誰かに送り込まれた刺客ではなく、いわば自らが自らを刺客たらしめたと言えるのではないでしょうか。公憤、義憤。。。理屈では言い尽くせない感情でしょう。

それにしても両者ともまだうら若き志士です。平易な言辞を駆使していますが、それだけに読む者の心に訴える力を持っている。水戸藩校・弘道館で当時教えられていた「水戸学」の水準の高さをうかがわせる秀作と言えましょう。

本日のオマケ。今年は桜田門外の変の勃発から150年ということもあって秋に映画「桜田門外ノ変」が公開されることになっています。旧水戸藩士らによる「仇討ち」という視点で描くようです。桜田門外の変の歴史的な価値・評価については、明治期においても分かれていました。中期から後期にかけては、井伊直弼が開国の風穴をあけたことを高く評価する声が多くなり、彼を殺した水戸藩に対する風当たりは強かったようです。とても「義挙」などという言葉では称せない。これに抗って岩崎英重(岩崎鏡川=センキョウ)なる人物が明治44年に「桜田義挙録」を著しました。彼は高知市の北方、土佐山村菖蒲の出身で、文部省維新史料編集局の委託を受けて編纂しました。むしろ坂本龍馬研究の方が世に名高いようです。明治の高知出身の詩人・評論家である大町桂月とも親交があり、桂月が自分の論文集に「桜田義挙録の序」と題する小文を書いております。本日はこれの一部を引用して問題といたします。本文は旧字体、旧かなづかいですが、旧字体だけ新字体に改めてあります。原文は近代デジタルライブラリーから。

…(略)…
 この十年間、鏡川は野にキュウキョして、世路の崢(ソウコウ=年月が曲折を経て経過するさま)たるに屈せず、心を日本女流の歴史と幕末の歴史との研究に潜め、苦心サンタン、而かも堅忍不抜、所謂官学以外、独力を以て大に発明する所ありけるが、この頃に至りて予はまた驚きぬ。鏡川は「桜田義挙録」を著はして史界稀に見るの一大著述を為しける也。

 開国以来茲に五十年、国運益リュウショウ、文化愈進んで止まざるにつれ、世は当年開国の責任を帯びし井伊直弼をオウカし、直弼をヨウゲキせし水薩の志士をガンメイなる暴徒とのみしめむとす、当年志士が義刃を揮ひし桜田門はなほ依然として有り。而して横浜の埠頭直弼の銅像新に立ち、小塚原の跡、志士の墓空しく累累として相並ぶ。一片気骨ある者。誰か憤慨せざるを得むや。

 維新の大業は一朝一夕に成りたるに非ず。水戸学派先づ大義名分を明らかにし、国学起りて国体益明かになり、山県大貳、藤井右門、竹内式部の如き勤王家出で、高山彦九郎出で、蒲生君平出で、頼山陽出で、徳川幕府隆盛の極に達せし時、早や既に勤王の精神天下にオウイツしたりき。露国北辺を犯してより、海防論盛になりけるに、米艦端なく我海門の戸を叩きぬ。是より後、海内テイフツして開港派と攘夷派とシノギを削り、幕府センシにして朝旨を奉ぜざるより、勤王党と佐幕党と相血闘す。公武合体論となり、水戸烈公の補佐となり、井伊大老の違勅となり、将軍の継嗣問題となり、安政の大獄となり、桜田門の一撃となり、和宮の降嫁となり、将軍の上洛となり、男山行幸の朝議となり、十津川の義旗となり、七卿の西奔となり、元治の変となり、長州征伐となり、薩長連合となり、大政返上となり、討幕論となり、伏見鳥羽の戦となり、江戸城の明渡しとなり、上野、会津、箱館の戦争となり、終に全く王政古に復して、天日再び明か也。幕末歴史は、血の歴史也。即ち志士の血を以て太平の春を回らしたる也。

 米艦渡来より王政復古までは、事件が事件を生み、フンザツにフンザツを重ぬれども、其間に一貫せる修理あり。即ち尊王愛国の精神也。桜田門の挙を以て、単に井伊の開国に反対するものとのみなすは、皮相の見たるを免れず、実に是尊王愛国心の結晶也。日本男児の真面目也。王政復古の行程の一大要件也。井伊大老出で将軍の暗愚を利して賢明なる烈公をくること既に違勅也。年長じて賢明なる慶喜を退けて幼弱なる家茂を将軍に迎ふるも、亦違勅也。外国に脅迫せられて屈辱不益なる条約を結びたるは、違勅の最も甚しきもの也。殊に安政の大獄を起して天下の志士を一網打尽したるは何ぞ其れ暴なるや。嗚呼神州の男児、骨なくむば則ち止む。骨ある者、誰かシュウシュ傍観するを得むや、水戸の義士は実に其キュウセンポウとなりて、君国の為めに一身を犠牲に供したるもの也。

 島田三郎氏の開国始末出でて、直弼が俄に器量をあげ、終に其銅像の建立をも見るに至りたるが、其影響する所は単に直弼の器量問題のみにあらず、支那は革命の国なれども、さすがに秦檜をオウカせざる也。況んや日本の神国、勅に違ひて屈辱なる条約を結びたる者をや。さらでだに危険思想天下にマンエンせむとするの時勢柄、水戸の志士が単にガンメイなる暴徒と目せらるやうになりては、神州の士気ますますショウマせむとす。危い哉。危い哉。

 鏡川茲に憤慨する所あり、マンコウの熱血をぎ、平生の研究を発揮してこの会を成せり。堂々二千頁、其材料の精確なる、其行文の美はしき、実に史界の大著述也。況んや世道人心に益あることの大なるをや。水戸の志士は茲に知己を得たり。神州の士気は茲にコスイ者を得たり。幕末歴史の要部は茲に全く明かになれり。われタイハクを挙げて、鏡川の気骨と努力とをオウカせざるを得ず。さるにても、佐々木侯今や世に在らず。高美氏も在らず、もし在らば、其喜は如何ならむと思ふにつけても、余はテイルイなきを得ざる也。(明治四十四年初夏)




こたえ)▼キュウキョ=窮居▼サンタン=惨憺(惨澹)▼リュウショウ=隆昌▼オウカ=謳歌▼ヨウゲキ=要撃(邀撃)▼ガンメイ=頑冥▼貶しめ=おとしめ▼オウイツ=横溢▼テイフツ=鼎沸▼シノギ=鎬▼センシ=専恣▼フンザツ=紛雑▼黜くる=しりぞくる▼シュウシュ=袖手▼キュウセンポウ=急先鋒▼マンエン=蔓衍▼ショウマ=銷磨▼マンコウ=満腔▼灑ぎ=そそぎ▼コスイ=鼓吹▼タイハク=大白▼テイルイ=涕涙
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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