スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

徳川貶して逐われた蝦夷で一日百印百詩=父に劣らぬ快漢詩人の頼三樹三郎

頼三樹三郎(1825~59)は名を惟醇、字を叔厚、号を鴨崖という。三樹三郎は通称で、京都・三本樹で生まれたことに因んでいます。鴨川の岸であることから鴨崖。ベストセラー「日本外史」の著者で名高い、江戸時代を代表する漢詩人である頼山陽の三男。三樹三郎も熱き勤王の志士でした。二十歳のころに江戸・昌平黌で学んだものの、酒癖が悪く酔うと暴れたといいます。ある夜、上野の寛永寺を歩き、廟の立派なるを見て逆上、寺門の「葵」の紋の入った石燈を蹴倒す事件を引き起こしました。「徳川がかかる華侈を極めるのは許せん」というのが理由です。已にして尊王思想を具えていたのです。これにより三樹三郎は弘化3年(1846)、昌平黌の寮を放逐させられます。のちのちの安政の大獄へと繋がります。

「春簾雨窓」。そんな血気に逸る若き三樹三郎が酒に酔って詠んだ詩でしょうか?

春自往来人送迎    春は自ら往来して人は送迎す
愛憎何事別■■    愛憎何事ぞインセイを別つ
落花雨是催花雨    花を落とすのは雨是れ花を催すの雨
一様■■前後情    一様のエンセイ前後の情



【解釈】 春はいつの間にかやってきて、いつともなく去ってゆく。われわれはそれをそのまま自然に送り迎えすればよろしいのである。それなのに晴れたといっては喜び、雨だといって憎むのは、何としたことであろう。考えてみるがよい。花を散らす雨は、花を促し咲かせた雨である。同じ軒の雨垂れの音も、聞く時によって好もしい雨、憎らしい雨と、両様の情を催させるのである。


インセイ=陰晴。くもりとはれ。晴雲。陰霽(インセイ)とも書く。

エンセイ=檐声。軒端に流れる雨の音。辞書には見えない特殊な語ですが、いい響きのある含蓄深い言葉ですね。詩語ですね。「檐」は「のき」で「簷」とも書く。


「簾」は「すだれ」。この七言絶句ですが、明治書院に「詩は春雨を簾越しに見たもの。自然の営みを冷静に感じ取る心と逆上の心、その振幅を同一人のものとして受け止めることの難しさ」との鑑賞が見えます。一読して、「往来」「送迎」「愛憎」「陰晴」「前後」と反意語で構成する熟語が数多く盛られていることに気づくでしょう。転句の「落花」と「催花」も対の関係にある語であり、二十八字のうち半分を占めている。いずれも「往」「送」「憎」「陰」「後」「落花」の方に意味の重きがある「偏義複辞」として、どちらかと言えば“ネガティブ”な現実を言い表していると捉えるべきなのでしょう。理想である「来」「迎」「愛」「晴」「前」「催花」といった前向きな気持ちになりたいのだが、そうはなれないギャップに苦しんでいる。当時の三樹三郎の揺れ動く心境を表している。飾らない平易な字句を列ねながらも深い味わいのある作品です。さすが山陽の息子です。ただの過激な“ドラ息子”ではない。

もう一首載っています。三樹三郎は昌平黌を逐われ、東北から蝦夷地に向けて旅に出ます。海防の状況を自分の目で確かめようという「飛耳長目」。まるで吉田松陰と同じです。彼もまた日本の現実を目の当たりにすることとなります。

「過函嶺」(函嶺を過ぐ)。

当年意気欲凌雲    当年の意気雲を凌がんと欲す
■■東馳不見山    カイバ東に馳せて山を見ず
今日■■春雨冷    今日キト春雨冷やかなり
■■揺夢過函関    カンシャ夢を揺るがして函関を過ぐ




【解釈】 天保十四年(1843)の秋、遊学のため江戸に下ったときは、意気軒昂たるもので雲をも凌がんばかり、快足の馬は東方目指し疾駆し、箱根八里の天下の険も目にもとまらず過ぎ去った。ところが、今日は囚われの身となって、冷たい春雨のそぼ降る不安な旅路を、窮屈な唐丸籠の中に揺られながら、思い出の箱根の関所を越えて行くのである。



カイバ=快馬。速く走る馬。「快」は「はやい」の意。

キト=危途。あぶない道、危険な道路。危道(キドウ)ともいう。

カンシャ=檻車。罪人・獣などを運ぶ、おりのついた車。ここえでは唐丸籠のこと。罪人の護送に用いました。「とうまる」は「鶤鶏」。上から籠を被せたさまが似ているからいう。「檻」は「おり」。檻猿(カンエン=おりに入れられたサル、自由の利かないもののたとえ)、檻檻(カンカン=車の走るときの音の形容)、檻穽(カンセイ=おりと、落とし穴)、檻送(カンソウ=罪人などをおりや囲いに入れて送る、檻致=カンチ=)、檻輿(カンヨ=罪人などを送るための、おりのついたこし(かついで運ぶかご)。「てすり」「おばしま」の訓みもあり、「欄檻」「闌檻」(以上、ランカン)。


この詩も春の雨を詠んでいます。先の詩は簾越しの雨。今回の雨は罪人として唐丸籠を隔てて見る雨。その境遇には雲泥の差があります。三樹三郎の身に何があったのでしょうか?

明治書院(P123)によると、「蝦夷、奥羽、北陸を回り、海防の不備に驚き、年来の尊皇攘夷思想も俄然現実的なものになってゆく。幕府の外国との条約締結、将軍継嗣問題にことごとく反対し、水戸藩に幕府叱責と攘夷の詔勅を賜わるように運動したかどで三樹三郎は捕らえられる」とあります。水戸藩の詔勅は、世に言う「戊午の密勅」。それがために井伊直弼から睨まれた彼は安政の大獄で、拠点にしていた京都から江戸に送られます。その“道中”、箱根で春雨の風景に出遭ったさまを詩に詠じました。眠りに就いて夢を見ているのでしょうか。江戸で待ち受けた幕府の追及は厳しいものでしたが、言を翻さず小塚原で斬首されました。

本日のオマケ。三樹三郎は東北・蝦夷旅行の最中、弘化3年10月14日、江差にいた友人・松浦武四郎と「一日百印百詩」の会という雅会を催しました。地元の文人らを集めた中から「題」が出され、その「題」をもとに、三樹三郎が詩を詠んで紙に書き、武四郎が題名を鉄筆を使って石に彫ってハンコを作り、その紙にペタリと捺す。その速さと技術を競い合うという即興芸でしたが、それを百回行うという途方もなく大変な作業。しかし、二人は日の明けきらないうちから始めて、日が沈むまでの間に、多くの人たちが見守る中、その百印と百詩を完成させました(三重県松阪市のHP参照)。北海道大学のサイトで原文が見られます(ここ)。達筆なる漢文ですので迂生にはとても太刀打ちできません。雰囲気だけでも味わって見ていただきますと、三樹三郎と武四郎のコラボレーションの真蹟が分かります。この中から漢詩を一首でも採録できると良かったのですが、時間も無い中、現状では無理。将来の課題ということでお許しください。

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

profile

char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

calendar
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
recent entry
recent comment
category
monthly archive
search form
RSS links
links
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。