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家族にゃ悪いが夷国船を撃破しに行かねばならぬ=ヤミ商人の才覚も禀けた梅田雲浜

安政の大獄で捕らえられ、病死した梅田雲浜(1815~59)。前回ご紹介した吉田松陰の「留魂録」(第二章、冒頭から二つ目の「一」から始まるくだり)にある梅田源二郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をかせしや」との幕吏の尋問ででてくる「梅田源二郎」のことです。これに対して、松陰は雲浜のことを「素より奸猾」と称して、「わたしが密議するなどあり得ない」と反論しています。かなり厳しい調子の物言いですが、一体どんな人物だったのでしょうか。

いつものように明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」によることとします。そのP120によれば、「若狭小浜の人。江戸に出て山口管山に学ぶ。後に京都に移り、京都における尊皇攘夷派の中心的存在となる。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、橋本左内、頼三樹三郎らと交友があり、すべてをなげうって攘夷の運動に奔走した。安政の大獄で捕らえられ、牢内で病死」とあります。

これではよく分かりませんが、そんなときこそ漢詩を味わいましょう。「安政元年十一月、ロシアのプチャーチンが大阪沖に現れ通商条約を迫った際、これを追い払おうとして家を出る時に残したもの」(明治書院)とあります。1854年のことですから雲浜が39~40歳のころです。

「訣別」。

妻臥■■児叫飢    妻はビョウショウに臥し児は飢えに叫ぶ
挺身直欲払■■    身を挺して直ちにジュウイを払わんと欲す
今朝死別与生別    今朝死別と生別と
唯有皇天后土知    唯だ皇天后土の知る有り



【解釈】 妻は病の床に横たわり、子はひもじさに泣き叫んでいる。この妻子を置いて去るにはいかにも忍びないのであるが、身をなげだし、進んで外夷を撃ち払うために門を出るのである。今朝が死別となるのか、生別となるのか、それは、ただ天地の神々だけが知るところで、私があらかじめ知る由もないことである。

ビョウショウ=病牀。病人が寝ている寝床。やまいの床。「牀」は「とこ」。もちろん、「病床」でも正解ですが、雲浜先生の語彙ですから、覚えておきましょう。病蓐(ビョウジョク)、病褥(ビョウジョク)ともいう。

ジュウイ=戎夷。中国から見て周辺の異民族の蔑称。もちろん、ここはわが日本国から見た西洋諸国のこと。攘夷ですから。戎狄(ジュウテキ)、戎越(ジュウエツ)、戎蛮(ジュバン)ともいう。



雲浜の一家は当時、貧困の窮みに喘いでいたようです。結核を患う妻は病床にあり、二人の子供にも食事すら碌に与えられない始末。嗟夫、それなのに、嗟夫、それなのに。。。そんな家族を置き去りにしてもロシア船を撃ち払おうという雲浜は、詩を賦します。ところが、妻はあろうことか雲浜を励まし、送り出したと伝えられています。「妻の鑑」でしょうか。妻は翌年二十九歳でこの世を去り、雲浜は幼い二人の子供を抱えながら、妻の位牌を常に携行しつつ尊皇攘夷の運動を続けました。。。この姿からは少なくとも松陰から「奸猾(姦猾)=悪賢い」と称されるようなダーティーなイメージはうかがえないですねぇ。

ところが、ネット検索をしていてとあるblogの雲浜に関する記述(ここ)を見つけました。はは~ん、これか。。。以下、そのまま引用しておきます。

「……これが4~5年も経つと急にりっぱになって、長州の客、大和の客、と出入りも多く、客が来ると祇園町から芸者なども呼びよせて酒宴をする」

「これは長州から金がきていたのではなかった。彼がそういう政治資金を何処からどうして取って来たかというと、彼の門人の中には、京都あるいは江州、あるいは大和、そういった各地方のブルジョアジーがいて、そのブルジョア的な門弟達が発案して、たとえば大和の物産を京都にもって来て売りさばく。京都の物資を買い集めて大和にもっていって売りさばく。ところが当時はそれは問屋を通じてしなければならない。それを直接にヤミでやる。そのヤミのルートを雲浜先生につけてもらう。・・・雲浜先生にはいろいろなお弟子さんが沢山あるから、頼まれると、よろしいというので、若州の家老のところに、あるいは長州の家老のところに出かけて行く。直接談判で話をつける。自分の若狭藩の物産方に話をつける。こういうふうにして、幕府の260年の間の決めてある問屋を通じての取引をやらないで、自由貿易をやる。国内市場の自由な発達の通路をつくってやる。この仕事をはじめたのである。そこで一昨日の貧乏人が急に立派になった。政治資金が出来て運動も大規模になる。長州に商談を兼ねて乗り込む。そうすると吉田松陰は潔癖家だから、さしむき河上肇先生みたいである。凡そ銭かねのことは不案内、天下国家のことしか眼中にない。こういう人から見ると、どうも雲浜という人はおもしろくない。雲浜はヤミ商人のようである。それで松蔭が江戸の牢に入れられて、牢の中で雲浜とすれ違ったとしても―すれ違ったかどうか知らぬが―鼻汁もひっかけない。そうして取調べの席において、雲浜というものは信用できない。あれは商売人だ。到底国事を共にするということはできない。だから自分は雲浜と連絡はありっこないといって頑張る。けれども政治家としてみるならば雲浜という人間のほうが偉かった。・・・現実に雲浜は幕末尊王運動の組織者で、その組織運動ということにおいては松蔭は雲浜の比ではない。・・・雲浜によって組織されたこの種の産商業家の組織が一つの政治的経済的な地下組織となって、雲浜処刑後の、あの安政の大獄直後の猛烈な反動の嵐の中にビクともせず残っていた」
(服部之総『近代日本のなりたち』)  


以上、引用終わり。

どうやら、雲浜は儒学者であると同時に、広範な人脈を生かしてヤミの商売人としての才覚も持ちあわせていたようです。その資金力をバックに尊皇攘夷の志士たちを動かす黒幕となったのでした。松陰が「奸猾」と称したのは「商売人」として貶んだ言葉だったのです。理想と現実。。。得てして人は「二面性」があるものです。どちらも矯りのない本当の姿なのです。

本日のオマケ。明治書院には載っていませんが、この詩には続きと言うか、実は二首連作のようです。

■■欲支奈力微   タイカ支えんと欲するも力微なるを奈んせん
此間可説小是非   この間説く可けんや小是非
■■効国区々意   センシン国にす 区々の意
憤激臨行帝闈拝   憤激行に臨みて帝闈を拝す



タイカ=大厦。大きな建物。「厦」は「いえ」。大廈高楼(タイカコウロウ)は忘れずに。

センシン=賤臣。主君に対して、家臣が自分のことを謙遜していうことば。賤役、賤技、賤軀、賤躬、賤子、賤事、賤室、賤質、賤儒、賤妾、賤称、賤丈夫、賤人、賤内、賤房、賤微、賤侮、賤俘、賤隷、賤民はいずれも「いやしい~」で遜る言い方です。意味はご自分で。。。≠浅斟、穿鍼、尖新、荐臻、贍賑、還軫、専心、線審。

効す=いたす。力を出しつくす。効果を上げる。効力(コウシ、シをいたす=命を捨てる、また、死ぬほど努力する、死力を尽くす)。

帝闈=テイイ。天子の居られる場所。御所。帝掖(テイエキ)、禁掖(キンエキ)、帝闕(テイケツ)、帝城(テイジョウ)ともいう。「闈」(イ)は宮中の通路に設けた小門のこと。



またまた翻って、漢詩人としてはやはり、熱き勤王の志士ですね。結句は“熱い”の一語に尽きます。藤田東湖の「正気の歌」を思い出します。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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