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真源を原ねてみれば脚元の清流こそ真実なれ=「破格」の詩ばかり作った良寛

江戸期の漢詩の担い手であった僧侶のうち、良寛(1758~1831)も忘れてはなりません。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P85)によれば、「越後出雲崎(新潟県)の人。名主の長男に生まれたが家は弟に譲り出家。出家の原因は家のことがかかわっていたらしい。父は流浪の旅に出て京の桂川に身を投げた。良寛は越後の寺を転々とし、農民や子供と心を通わせている。晩年には貞信尼と恋愛し、彼女に介抱されながらこの世を去る」とあります。いわゆる厳しい戒律の下で難行修行を続けた禅僧のイメージとはいささかかけ離れています、良寛さん。

まずは「偶作」。

歩随流水覓源泉    歩して流水に随って源泉を
行到源頭却惘然    行きて源頭に到って却って惘然
始悟真源行不到    始めて悟る真源行き到らざるを
倚笻随処弄■■    に倚り随処にセンエン(センカン)を弄せん



【解釈】 歩いて流れに沿うて水源地を求め、やっとたどり着いてみたら、これは何としたこと、あの滔々たる流れはどこにもない。ただただ呆然たるばかりであった。そこで、やっとわかった。真実の源を遠く探しても、到底そこまでゆけるものではない。まあ、それぞれの場所に従い、杖にもたれ、谷川の流れをすくってみることである。清流はそこに厳然として存在しているのである。(世事万般、まずはこんなものではないだろうか。)

センエン(センカン)=潺湲。水がさらさらと流れるさま。涙なら、はらはら流れるさま、潸然(サンゼン)ですが、ここは前者の意。

覓む=もとむ。目を細めてさがす、広くさがしもとめる。音読みは「ベキ」。覓句(ベキク、クをもとむ=詩を作る時、苦心してよい句をさがしもとめること)、覓索(ベキサク=さがしもとめる)、覓得(ベキトク=さがしもとめて見つけ、自分のものにする)。

笻=つえ。とくに竹製のつえをいう。音読みは「キョウ」。異体字で「筇」とも書く。配当外。



明治書院(P85)によると、良寛は「とりすました層の対極に位置する僧侶」で、「自然で無駄な力の入らぬ生き方は時の流れとともにますます共感をもってむかえられている。漢詩の他に和歌にもすぐれ、書はことに愛好者を多く生んでいる」とあります。漢詩にとどまらないマルチ文化人でした。そして、漢詩について言えば「平仄や韻の規則に拠らない破格のものが多い。この詩はその中で唯一の規則にかなった詩」とあります。そこでもう一つ。

「下翠岑」。「漢詩鑑賞事典」(石川忠久編、講談社学術文庫)から。

担薪下翠岑    薪を担って翠岑を下る
翠岑路不平    翠岑路平かならず
時息■■下    時に息うチョウショウの下
静聞春■声    静かに聞く春キンの声



【解釈】 薪を背負って、緑一色の小高い山を下る。この緑の山道は険しくて平かではないから、時に大きな松の根元で一息を入れる。すると、そこここから春の鳥の鳴き声が聞こえはじめ、心静かに耳を傾けるのだ。

チョウショウ=長松。たけの高い松の木。隠者のマストアイテム。≠嘲笑、凋傷、寵妾、朝餉、長殤(=夭折)、鬯浹、長嘯。

キン=禽。とり。禽語(キンゴ=とりのさえずり)、禽荒(キンコウ=狩猟にふけって他の事柄を顧みないこと)、禽獣(キンジュウ=とりやけもの)、禽翦(キンセン=つかまえて斬り殺す)、禽息鳥視(キンソクチョウシ=けものやとりが息をしたり物をみたりして生活する。いたずらに生活のための糧を求めるのみで、すぐれた志を持たないこと、また、俸禄を受けるのみで世に利益を与えることが無いこと)、禽鳥(キンチョウ=とり)、禽犢(キントク=とりと子牛、人を訪問する時の手土産や贈り物、≒束脩=ソクシュウ=、≒棗栗=ソウリツ=)、禽困覆車(キンもくるしめばくるまをくつがえす=捕らえられた鳥獣でさえ苦しめば車をひっくり返す、ましてや人間においては弱者でも死に物狂いになれば大きな力を出す)。

翠岑=スイシン。青葉が茂って緑一色の小高い山のこと。辞書には掲載なしですが、ぜひ覚えておきたい言葉です。「翠」は「みどり」、「岑」は「みね」。いずれも「スイ」「シン」とは読みにくい漢字で、読み問題には最適な言葉です。岑蔚(シンウツ・シンイ=山の峰で木が茂った所、岑翳=シンエイ=)、岑峨(シンガ=じぐざぐして高いさま、長短・高低があってそろわないさま)、岑寂(シンジャク=ひっそりともの静かなさま)、岑岑(シンシン=頭の痛むさま)、岑楼(シンロウ=高く聳えている山)、岑壑(シンガク=高く切り立った山と深く切り込んだ谷)。



講談社学術文庫(P826)によると、良寛には「心中の物を写さざれば、多と雖も復た何をか為さん」と、「技巧を凝らした詩を批判した詩」があるといいます。そして、「詩の形式である押韻や平仄などおかまいなしの破格ばかり作った」とある。この「下翠岑」も「韻は踏んでいるが、平仄は無視した破格」。別の五言詩では「誰か我が詩を詩と謂う、我が詩は是れ詩に非ず、我が詩の詩に非ざるを知り、始めて与に詩を言うべきのみ」と、彼のビビッドな主張が打ち出されております。続けて、石川忠久氏は、「破格であっても、それは作者が無教養で詩の素地がないとか、詩の趣意を失っているということでは無論ない。『翠岑』の語が尻取りのように繰り返されているが、これは六朝時代の山水詩などにも見られる手法であり、『翠岑』も立派な詩語である。長松の下に休息するというのも、どの木でもよいようなものだが、漢詩の世界では、松は隠者とか節操とかを表象するから、この場面にもっともふさわしい」と解説しています。

良寛は細部にこだわらず、己の内なる心の叫びを素直に詩に表現しました。この詩は陶淵明ばりの隠者の生活への憧憬の思いが込められています。
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2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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