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もっと自由に学問やらせてほしかった…=「異学の禁」で運命変じた亀井南冥と亀田鵬斎

柴野栗山が主導した「寛政異学の禁」は、当然ながら他学派の学者から猛反発を食らいます。しかしながら多勢に無勢であり、幕府の力が勝ります。その中に、亀井南冥(カメイナンメイ、1743~1814)と亀田鵬斎(カメダボウサイ、1752~1826)がいます。異学の禁は思想弾圧ではありません。いわば教育改革です。つまり、人材を教化、登用する基準として朱子学を選んだということです。現代でいうなら学習指導要領に「朱子学」を明確に位置付けて、しっかりと教えますよ。そして、幕府は朱子学のできる人材を求めます。だから、入学・就職試験には必ず出題しますよ。みなさん、しっかり勉強してくださいね。と幕府がメッセージを出したということなのです。これを受けて、いわば国立大学である、昌平坂学問所はもちろんのこと、公立大学である各藩の藩校にも影響が出ることとなり、荻生徂徠を祖とする蘐園学派などに属する学者の立場は危うくなったのでした。

亀井南冥は福岡藩の儒医として登用され、1784年に創建された同藩西学問所である甘棠館の祭酒(館長)に任命されていました。同じ年にできた東学問所の修猷館(竹田定良)とは思想的に相いれず対立していましたが、異学の禁以降、対立派からあらぬ中傷を受けるなどして学問の表舞台からの失脚を余議なくされ、悲惨な最期を遂げました。一方、亀田鵬斎は一生仕官せず江戸で私塾を開いていましたが、異学の禁を受けて、当時の山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」との烙印を押されてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失ってしまいます。晩年は流浪の日々を送り、かの良寛とも交流がありました。そんな彼らの詩を味わってみましょう。

まずは、亀井南冥の「鹿児島客中作」。

誰家■■散空明    誰が家のシチクぞ空明に散ず
孤客倚楼夢後情    孤客楼に倚る夢後の情
■■南溟波不駭    コウゲツ南溟波かず
秋高一百二都城    秋は高し一百二都城



【解釈】 どこからか尺八や琵琶の音が響いて、明るい空に拡がってゆく。夢より覚め、一人旅館の欄干もたれて聞いていると、妙に旅愁がかきたてられる。見渡せば南国の海は皓皓たる月影に照らされて、風は穏やかに波一つ動かず、百二の都城に秋の気は澄み渡り、天もひときわ高く見えた。


シチク=糸竹。管楽器と弦楽器、音楽全般を指す。これまで何度も出てきているのでもうお分かりですね。いつ本番で問われてもおかしくないでしょう。

コウゲツ=皎月。白く輝く月。「皎」は「しろい」。皎皎(コウコウ・キョウキョウ=真っ白さま、潔白なさま、明るいさま)、皎潔(コウケツ=態度やようすが白くけがれのないさま)、皎日(コウジツ=白く輝く太陽、白日)、皎然(コウゼン=白く明るいさま、皎如=コウジョ=)。

駭かず=おどろかず。(波が)うごかない、波一つ立てない。「駭」の音読みは「ガイ」。駭愕(ガイガク=ぎくっとする、驚愕=キョウガク=)、駭汗(ガイカン=冷や汗をかく)、駭遽(ガイキョ=ぎくっとしてあわてる)、駭惶(ガイコウ=おどろきおそれる、駭懼=ガイク=)、駭震(ガイシン=ぎくっとしてふるえる)、駭嘆(ガイタン=おどろきなげく、駭歎=ガイタン=)、駭慄(ガイリツ=ぎくっとして身震いする)。



明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P73)によると、「詩は三十二歳の夏、鹿児島に行ったときのもの。『南溟』は南の海。『一百二城』とは地勢が険しく天然の要害をなしていること。薩摩は天然の要害に加えて国境に武士を配して万全の固めを誇っていた」とあります。さらにこの詩が李白の「春夜洛城聞笛」を下敷きにしていると解説しています。

李白「春夜洛城聞笛」(NHKライブラリー「漢詩を読む 李白100選」から)。

誰家■■暗飛声    誰が家のギョクテキか 暗に声を飛ばす
散入春風満洛城    散じて春風に入りて洛城に満つ
此夜曲中聞■■    此の夜 曲中セツリュウを聞く
何人不起故園情    何人か故園の情を起さざらん



【解釈】 どこからか、笛の音が、ひそやかに鳴りだして、春風に乗り、洛陽の町に響き渡る。今宵、流れる曲は、悲しい別れの折楊柳、誰か故郷を思わずにいられようか。

ギョクテキ=玉笛。りっぱなふえ。

セツリュウ=折柳。旅に立つ人を見送ること、送別。漢代では長安の都から旅立つ人を見送る時、郊外の灞橋までいって柳の枝を折って旅立つ人に手渡して見送る風習があった。ここでは、その楽曲の名。故郷を旅立つ人、あるいは見送る人の送別の情を歌ったもの。「折楊柳」ともいう。



明治書院に、南冥のプロフィールが載っており、「痛ましい最期をとげた人である。南冥の父は医者であったが徂徠の学を好み、息子を徂徠の門人釈大潮につけて学ばせた。やがて南冥は筑前藩(福岡県)の藩校甘棠館を創設し、熱心に教育に当たるしかし、何ものも恐れずズケズケと言うことで対立派の怨みを買い、失脚。晩年は鬱々として楽しまず、神経に異常を来し、自家の火災で焼死。自焚の説もある」といいます。

続いて亀田鵬斎の「江月」。

満江明月満天秋    満江の明月 満天の秋
一色■■万里流    一色のコウテン 万里流る
半夜酒醒人不見    半夜酒醒めて人見えず
霜風■■荻蘆洲    霜風ショウシツたり 荻蘆洲



【解釈】 月の光は川面に満ちて空はあくまで澄み渡り、秋の気は爽やかである。水と空とが碧一色に連なって遠く万里に流れている。さて夜半酒の酔いからさめてみれば、すでにあたりに人影はなく、ただ霜気を帯びた冷たい風が寂しく荻や蘆の生えた中洲を吹きわたっているばかりである。


コウテン=江天。川の水と空とがつらなるあたり。ここでいう「江」とは、隅田川のこと。≠昊天、公転、荒天。

ショウシツ=蕭瑟。ひゅうひゅうと風の吹きぬけるさま、ものさびしいさま。「瑟」は「おおごと」ですが、ここでは「風のさっさっと吹くさま」の意。



明治書院(P80)によると、「詩は隅田川の月を詠じたもの。大川(隅田川)に月という取り合わせは、風流の代名詞みたいなものだが、ここでは『霜風蕭瑟』という語が日本的な情緒ではなく、中国の秋を現出させている」とあります。「荻蘆洲」というのもいかにも支那臭芬芬ですね。

同書(P79)に、鵬斎のプロフィール。「江戸神田の生まれ。母が鵬斎を生むとすぐ亡くなったので、父の手で育てられた。父は鼈甲商であった。学は井上金峨について折衷学を修める。性豪放であったが、思いやりの心は深く、天明三年(1783)の浅間山の大噴火の影響で凶作が続いた折には、蔵書を売って窮民を救い、それがために自身も衣食に事欠くありさまだったという」とあります。彼の学説は、己こそ規範であり、善悪を判断する拠り所としていた。このため、社会的な権威を否定した。これが異学の禁に触れた点です。書にも優れていたようです。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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