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漢文は訓読せずに漢音で読むべし=大明征圧夢見た豊太閤を追慕する荻生徂徠

幸田露伴の「幽情記」に採録されている「一枝花」にこんな一節があります(講談社文芸文庫「運命 幽情記」P208)。

吾が邦の漢文学は、徂徠荻生氏よりして大に開けぬ。徂徠の和の習気を排して、古(こ)の文辞を唱ふるや、平安朝以来の陋弊、一時に抉摘掃蕩せらる。其の功もとより甚だ大なり。ただ徂徠の奉ずるところは、李王の説にして、古を擬し辞を修むるを以て、宗旨(むね)と為す。

徂徠は若い頃、中国宋代の朱子学を究めましたが、朱熹の主観である朱子学を空理空論であると排斥して、中国古典に立ち帰る古文辞学を打ち立てました。これが露伴の言う「古の文辞」です。そして、徹底的に文献に当たるその姿勢はのちの本居宣長の国学へとつながる源流ともなりました。最後のくだりは、中国の16世紀、明代中期に李攀龍・王世貞が古文辞を提唱し,秦・漢・唐への復古と「擬古文」が流行したことを指しており、徂徠の説もその流れに沿ったものであるというのです。

弊blogでは日本漢詩シリーズ、江戸時代篇を続行しておりますが、本邦漢詩界の巨擘である荻生徂徠(1666~1728)を忘れていました。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P43~44)によりますと、徂徠は「将軍綱吉の侍医方庵の子。この関係で幕政に参画する環境は早くから整えられていた。八歳で詩を作り、九歳で見事な文をつづり、長老と喜んで談話する。子供であって、すでに大人であった。綱吉の引きがあって柳沢吉保の懐刀となる。吉保は幕政を左右していたから、徂徠の考えはこの時期の幕政にかなり大きな影響力を持ったと思われる」と解説されています。

吉保失脚に伴い徂徠も中央政界を離れ、市中での学問にはげみました。私塾「蘐園塾」を主宰し、多くの俊才を育てました。これまでに取り上げた服部南郭もその一人です。徂徠が“唐風趣味”に凝っていたというのは有名で、漢文を訓読することなく「唐音」で読むことを提唱しました。つまり、原文である中国語の音で読めと。世間的には一時は大流行したらしいですが、さすがに現代と違って中国語のできる日本人はそうそうおらず、その持続力には限界がありました。しかし、漢文を読むのに音を重視する姿勢は大いに参考になる。意味と連動するからです。訓読の結果、同じ「みる」でも充てる漢字によって意味は違うはずで、それを音で読み分けるというのはとても大切なことです。

ま、聞き齧りの屁理屈はこれくらいでいいですね。本日の詩題は「寄題豊公旧宅」(豊公の旧宅に寄題す)。「豊公」とは豊臣秀吉のことです。「寄題」というのは「その地方へ行かないで、その地方についての漢詩を作ること」。明治書院には「秀吉が朝鮮遠征の際肥前名護屋に出陣して指揮をとった、その旧址を想像して作ったもの」とあります。

絶海楼船震大明    ゼッカイの楼船大明を震わす
寧知此地長■■    寧ぞ知らん此の地サイケイを長ぜんとは
千山風雨時時悪    千山の風雨時時に悪し
猶作当年■■声    猶作す当年シッタの声







【解釈】 荒海を乗り切って、彼の地に押し寄せた豊太閤の軍船は、その勢い、かの大国明をも震えあがらせたものであったが、その根拠地が今日このように雑木生い茂る荒野となろうとは、誰が予測しえただろうか。周りの山々には、時折、風雨が荒れ狂うことがあるが、今なお太閤が軍勢を大声で叱咤しているのではないかとさえ思われるのである。


ゼッカイ=絶海。海を横切って渡る。陸地から遠く離れていて人が行ったことのない海。「絶」は「わたる」の意。ここでは、中国大陸や朝鮮半島から見て遠く離れた海の彼方にある日本のことを言っています。「絶漠」(ゼツバク=砂漠を横断する、絶幕=ゼツバク=)。

サイケイ=柴荊。しばといばら、雑木。粗末な家、あばら家を言うこともありますが、ここは前者。≠細逕、菜畦、蔡京、歳計、再掲。

シッタ=𠮟。大声で叱る、きびしく命ずること。「」は「咤」の異体字です。「シッタ」は「叱咤」と書くのが一般的です。「咤」は「たあっと大声で叱る」。咤叱(タシツ=大声でしかりとばす)、咤食(タショク=舌打ちしながら食べる、不作法なこと)、咤咤(タタ=怒る声の形容)。

寧ぞ=いずくんぞ。反語の訓読語法。「どうして~であろうか」「まさか~ではあるまい」と訳す。表外訓みとして覚えましょう。



「楼船」は、やぐらのある舟で水上の戦で用いる大型の戦闘船、軍艦。桂山彩巌の「八島懐古」の源平合戦のシーンでも出てきました(ここ)。「大明」は中国のこと、「大」は中国での呼び方をそのまま踏襲したいかにも徂徠らしい言葉ですが、決して相手を敬っているのではないでしょう。むしろ第四句の「猶~」などに見られるよう、迫力とスピード感をたっぷりと太閤秀吉の「余烈」を追慕し、敬いの念を表しています。いかにも古文辞派の祖、徂徠らしい作品と言えましょう。

ところで、詩題にある「旧宅」とは、一般的な解説では、朝鮮出兵の拠点となった肥前国名護屋の本営を指すとされますが、一説には、本営というのは仮寓であって「旧宅」とするのはおかしいことから、「旧桃山城」のことを言っているともされます。名護屋には「千山」がないというのもその根拠。京・伏見に築城された桃山城は秀吉が天下の財力を集め、贅を極めた絢爛豪華なものでした。それが秀吉没後たった三十四年で廃城となり、第二句にある「寧知此地長柴荊」がピタリと当てはまる感じがしますね。栄耀栄華は長続きしないが、その最中には誰も衰滅するなどとは思いもよらないのです。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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