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輪扁の言う「古人之糟魄」も無いよりましさ、残すぜよ!=陸機「文賦」18

陸機の「文賦」シリーズ(明治書院「新書漢文大系26・文選<賦篇二>」)の18回目です。

夫の豊約の裁、俯仰の形の若きは、宜に因り変に適い、ア)さに微情有り。或いは言は拙にして喩は巧みなり。或いは理は朴にして辞は軽し。或いは故きにイ)りて弥々新たにして、或いは濁れるにウ)沿りて更に清し。或いは之を覧て必ず察し、或いは之を研きて後にエ)し。譬えば猶お舞う者の節に赴きて以てオ)を投じ、歌う者の絃に応じて声を遣るがごとし。是蓋し1)リンペンの言うを得ざる所にして、故より亦2)カセツの能く精しくする所に非ず。


1)リンペン=輪扁。人名。春秋時代、斉の人。車輪を作る名人。斉の桓公に対し、自分の仕事をたとえにして、書物を古人が残した糟にすぎないと言った。弊blogの唯一にして最大のコンセプトである「古人之糟魄」の故事に登場します。詳しくは↓後段の迂生の解説コーナーにて。。。

2)カセツ=華説。はなやかなうつくしいことば。美辞、麗句。うわべは派手で美しいが、内容のない空言。華辞(カジ)ともいう。「華~」の熟語は、華腴(カユ=着物や食べ物の立派なこと、転じて貴族をさす)、華髪(カハツ=しらが、転じて老人)、華靡(カビ=はでなこと、はでやかなこと)、華贍(カセン=文章が華やかで意味が豊かである)、華饌(カセン=りっぱなご馳走)、華箋(カセン=詩や文を書く美しい紙、人からもらった手紙の尊称→華翰=カカン=、華墨=カボク=)、華簪(カシン=りっぱなかんざし、転じて高い地位)、華艶(カエン=はなやかである、派手で美しい、華婉=カエン=)、華袞(カコン=王公のはでやかな礼服、転じて、王公のこと、非常に高価な品物、華袞之贈=カコンのゾウ=)、華綺(カキ=はなやかに飾ること)、華奢(カシャ=はででおごっているさま、華侈=カシ=)、華顚(カテン=白髪頭、華首=カシュ=)、華胄(カチュウ=貴族の子弟・子孫)、華誕(カタン=うわべはりっぱだが内容が無い)。

ア)曲さに=つぶさに。既出。表外訓みですが「具に、備に、悉に」の方が一般でしょう。「曲」は「まがって入り組んださま、こまごまとこまかく複雑であるさま」の意。この意味の熟語は「曲尽」(キョクジン=細かい所まで言い尽くす、委曲を尽くす)、曲礼(キョクレイ=行事に関するこまかい作法)。

イ)襲りて=よりて。「襲る」は「よる」。今までのやり方やポストの上にかさなる。転じて、従来の方法や地位をそのまま引き継ぐ。「かさねる」「おそう」「つぐ」の訓みの方が一般的。襲因(シュウイン=受け継いで従う、従来通りに行うこと)、襲沿(シュウエン=以前の例に従って行うこと、沿襲=エンシュウ=、↓も参照)、襲継(シュウケイ=あとを受け継ぐ)、襲雑(シュウザツ=かさなって乱れる)、襲爵(シュウシャク=父祖の爵位を受け継ぐ)、襲封(シュウホウ=封土を受け継ぐ、親の代からの諸侯の領地、その支配権を受け継ぐ)、襲名(シュウメイ=親または師匠の名を受け継ぐこと、なをおそう)、襲用(シュウヨウ=これまでどおりそのまま用いること、踏襲)。

ウ)沿りて=よりて。「沿る」は「よる」。通常は「そう」。すでにある形式やルートに従ってすること。類義語は「順」「循」、「革」が対義語。沿革(エンカク=物事の移り変わり、変遷、「革」に重きのある偏義複詞です)、沿習(エンシュウ=古くからのならわし)、沿襲(エンシュウ=古くからのならわしに従う、↑を参照)。

エ)精し=くわし。「精しい」は「くわしい」。手が行き届いていてきれいなさま、また、巧みですぐれているさま。「粗」「雑」が対義語。精明強幹(セイメイキョウカン=ゆきとどいて、やり手である、事務処理能力にすぐれている)、精確(セイカク=精しくて確かなこと)、精覈(セイカク=くわしく調べる)、精舎(セイシャ=学校、精神の宿る心)、精麤(セイソ=細かいことと、あらいこと、詳しいことと、ぞんざいなこと)、精暁(セイギョウ=ある事柄について詳しく知っていること)。

オ)袂=そで。衣服のそで。和訓では「たもと」。和服のそでで、袋状になった部分、かたわら。音読みは「ベイ」。聯袂・連袂(レンベイ=たもとをつらぬ、何人かがいっしょに同じ行動をすること、聯袂辞職=レンベイジショク=)。


若夫豐約之裁,俯仰之形,因宜適變,曲有微情。或言拙而喻巧,或理朴而辭輕。或襲故而彌新,或沿濁而更清。或覽之而必察,或研之而後精。譬猶舞者赴節以投袂,歌者應絃而遣聲。是蓋輪扁所不得言,故亦非華說之所能精。



【解釈】 文章における、繁と簡の度合いや、前後の対応の形というものは、時宜にかない、変化に応じるべきもので、言い尽くせない微妙な点がある。表現は稚拙ながら、比喩が巧妙な場合もあれば、構想は素朴であるが、言葉が軽快な場合もある。古いものを基礎にしながら、新鮮な作品を作り上げる場合もあるし、混濁した表現が、次第に明瞭になる場合もある。読みさえすれば理解できる文章もあり、熟読してはじめて理解できる文章もある。このようにさまざまな文体を駆使していく様子は、あたかも、舞いを舞う者が、調子に合わせて袖を振るい、歌を歌う者が、演奏にのせて声を発するようなものである。これこそ、かの輪扁が、口では伝えられないと言ったところであり、美辞をいくら費やしたとしても、精確に述べることはできない。

陸機が述べている一連の文章の「掟」。いろいろな文章スタイルがあって、さまざまに伝えたい思いを言葉にして列ねるのですが、そのさまを「譬猶舞者赴節以投袂,歌者應絃而遣聲」と称しています。音楽に合わせて舞いを舞い、演奏に合わせて歌を歌うさまに喩えるのですが、ここで大きなポイントとなるのが、最後の「是蓋輪扁所不得言,故亦非華說之所能精」というくだりです。

荘子「天道篇」に出てくる「輪扁」の故事。書物はことばをつらねたものであるが、肝腎なのはその意味内容のはずである。とかく世間ではことばを尊重しがちであるが、本当の意味内容はことばでは伝えられないものである。本当に分かっている人はことばで説明しようとはしない、ことばで説明する人は本当は分かっていないのだと言える。

車輪大工の扁さんは、畏くも斉の桓公に対して、このようなことを言った後で「然らば則ち君の読む所の者は、古人の糟魄のみ」と断じました。大工の技術にはコツがあるのですが、それをことばでは表現できないのです。だから七十歳のこのかた子供に伝授できないのです。老いさらばえても大工仕事一筋に生きている次第なのです。むかしの聖人の残したことばとて、真に彼の思いを伝えているものではありません。そうして死んでしまう。だから、書物に書いてあることは単に残り滓に過ぎないのです、と。

陸機は荘子のこの輪扁の説明を持ちだして「文章論」を説くことの難しさを論じています。こうなると、職人の「求道」の困難さに思いを致さなければなりません。人を教えるということがいかに虚しいことか。言葉は信用できない。技術を伝えることができない。

輪扁を通じて荘子が伝える厳しい言葉は、このblogを書いている迂生にも「冷や水」を浴びせますね。事物の実情を伝えるのにことばは信用できないというのですから、何も書けなくなってしまいます。

「お前の書いていることは誰にも伝わらないのだぞ」と言われているかのようです。しかし、迂生はあえて反論します。そう、確かに無理かもしれない。しかし、それがたとえ「糟魄」であったとしても迂生は嘗めるし、自分の「糟魄」にすぎないとしても、それを残す。

「糟魄」イコール「無価値」というわけではないでしょう。伝わるか伝わらないかは迂生が決めることではない。それを受け取った側の問題だから、そこに焦点を当てた議論に何の意味がありましょうか。伝わるか伝わらないかを考えるよりも、己が真に残したいものは何なのかを突き詰めた方がいい。それこそが「糟魄」だ。

伝わらないから何も残さないというのであれば古人の糟魄は何もなくなってしまう。未来の人にとっては汚物か遺物か知らんが、歴史を残すことはできなくなってしまう。教訓も、失敗も、残されない未来人に未来は無いでしょう。そうした思いを込めて日夜blogを更新し続けます。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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