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40年の人生を振り返り、ちょっぴりブルーっす=陶淵明「飲酒」17

陶淵明の「飲酒」シリーズの17回目。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から。「不惑」を目前にして自分は何をしてきたものなのかと振り返り、暗い気持ちに拉がれる淵明です。本首はちょっと暗め。ブルーな陶淵明ちゃんも偶には乙か。しかし、その中にもちらりと顔を覗かせる「プライド」も見せます。せめてもの抵抗ですかね~。

「其十六」

少年より人事ア)にして

遊好は六経に在り

行き行きて不惑にイ)んとし

1)エンリュウして遂に成る無し

竟に固窮の節を抱き

飢寒は飽くまでイ)し所

2)ヘイロ 悲風交い

荒草 前庭を没す

褐を披て長夜を守るに

3)シンケイ 肯えて鳴かず

孟公 茲に在らず

終に以て吾が情をウ)らす

1)エンリュウ=淹留。

一か所に長い間とどまる。滞っていて前に進まないこと。淹久(エンキュウ)、淹泊(エンパク)ともいう。「淹」は「はった水が引かないように、いつまでもとどまる、ぐずぐずしているさま」の意。「おおう」「ひたす」の訓みもある。日本読みでは「お茶をいれる」の意味も。淹雅(エンガ=学問・見識が広く、教養が高くてみやびやかである、博学高雅)、淹久(エンキュウ=学問を広くきわめる)、淹月(エンゲツ=期間が一か月にわたること)、淹歳(エンサイ=長く久しい年月、期間が一年にわたること)、淹漬(エンシ=水につかること、水につけること、淹浸=エンシン=)、淹宿(エンシュク=一か所にとどまって一夜を過ごす)、淹恤(エンジュツ=長く他国にとどまっていて、さびしい思いをする、淹卹=エンジュツ=)、淹速(エンソク=ぐずつくことと速いこと)、淹滞(エンタイ=とどまりたまっている、すぐれた才能がありながら下の位にとどまっている)、淹通(エンツウ=学問や知識があって広く物事に通じている、淹貫=エンカン=、淹該=エンガイ=)、淹博(エンパク=学問・知識が深く広い)、淹病(エンビョウ=ながわずらい)。

2)ヘイロ=弊廬。

自分の自宅の謙称。弊宅(ヘイタク)、弊屋(ヘイオク)、弊家(ヘイカ)、弊居(ヘイキョ)ともいう。「弊」は「やぶれる」の表外訓みがあり。弊邑(ヘイユウ=貧乏なむら)、弊竇(ヘイトウ=弊害のある点)、弊事(ヘイジ=弊害になる事柄)。

3)シンケイ=晨鶏。

夜明けを告げる鶏。「晨」は「あさ」「あした」とも訓み、清晨(セイシン=さわやかな朝)、晨光(シンコウ=早朝に輝く太陽の光)、晨昏(シンコン=早朝と晩)、晨鐘(シンショウ=夜明けを知らせる鐘の音)、晨炊(シンスイ=早朝の飯炊き)、晨征(シンセイ=早朝出立する、晨往=シンオウ=、晨行=シンコウ=)、晨星(シンセイ=明け方に残る星、転じて、物の数の少ないたとえ)、晨省(シンセイ=早朝、両親の機嫌をうかがうこと、昏定晨省=コンテイシンセイ=)、晨装(シンソウ=明け方の旅の装い)、晨朝(シンチョウ=早朝、震旦=シンタン=)、晨風(シンプウ=早朝吹く風)、晨門(シンモン=門番)、牝鶏之晨(ヒンケイのシン=早朝、めんどりがときを告げること、転じて、女性が政治に口出しして乱すこと)。

ア)罕に=まれ・に。

例が少ないこと、珍しい。音読みは「カン」。もともとは「長い柄のついた、鳥を獲る網、鳥あみ」。稀罕(キカン=まれ)、罕儔(カンチュウ=同類が少ない、比類まれである)、罕漫(カンマン=はっきりしないさま、いい加減)。「まれ」はほかに、「稀、少、希」。

イ)向んとし=なんな・んとし。

「向んとす」。「いまにもそうなりそうだ」「ある状況に近づきつつある」という「垂んとする」と同義ですが、あまり見かけません。李商隠の「楽遊原」に「晩に向かって意適せず」(向晩意不適)がありますが、「暁になんなんとす」と訓んでもOK。

ウ)更し=へ・し。

「更る」は「へる」。一つ一つ経験する、物事を次々にする。これも珍しい用法か。「更」では通常、「あらためる」「かえる、かわる」「こもごも」といった表外訓みがあります。

エ)翳らす=かげ・らす。

物を覆って影を作ること、気持ちを暗くさせること。「翳」は「かげ」「かざす」とも訓み、音読みは「エイ」。翳翳(エイエイ=ほの暗いかげの生じるさま、物事の本質が奥深くにあり知りにくいさま)、翳然(エイゼン=かげに隠れたさま、荒れ果ててひっそりしたさま)、翳薈(エイワイ=草木が茂って葉がおおいかぶさっていて、状況が判明しがたいさま)。


少 年 罕 人 事
遊 好 在 六 經
行 行 向 不 惑
淹 留 遂 無 成
竟 抱 固 窮 節
饑 寒 飽 所 更
敝 廬 交 悲 風
荒 草 沒 前 庭
披 褐 守 長 夜
晨 雞 不 肯 鳴
孟 公 不 在 茲
終 以 翳 吾 情



若いころからわたしは世間と交渉を持たず、心ひかれるものといえば儒家の経典類であった。歳月は過ぎて、今はもう不惑の年になろうというのに、ぐずぐずと過ごしてきたわたしは、何一つものにならなかった。守り通したものと言えば「固窮の節」くらいのもので、飢えと寒さはいやというほど味わった。茅屋には寒風が吹き荒れ、雑草が前庭を埋め尽くしている。ぼろをひっかけてじりじりと朝の明けるのを待っているが、一番鶏は鳴こうともしない。ここには酒と客を愛した劉孟公のような知己もなく、わたしの心はくらく沈み込んだままである。

第一句にある「人事」とは、「人間社会の事がら」。若いころから社会とは距離を置いてきたという。「六経」(リッケイ)とは「易経、詩経、書経、春秋、礼記、楽記(周礼)」といった儒家にとってマストな経書のことです。子供らしからぬ淵明は絵本よりも儒教の教えに興味津津だったようです。ところが、嗚呼、月日は百代の過客にして行き交う年も又旅人なり――。気がつけば年を経て四十歳。孔子が言う所の「惑わない」お年頃たというのに、己が成就したものは一つもないことに愕然とする淵明。ただ、いかに貧しかろうともあくまで節を曲げることはなかった。「固窮の節」だけは貫いて来れたのが救い。ここは淵明の矜恃でしょう。孔子の教えを守れて自分を褒めたいと思っていますね。淵明のお気に入りの言葉です。既に何度が登場しています。

しかし、この首は明るくは終わりません。寒風荒ぶ襤褸家でひもじさからまんじりともできない淵明は夜明けを待ちます。ところが、一番鶏の鳴き声が聞こえる気配がない。もしかしたら、一生夜は明けないのかもしれない。こんな暗鬱な思いに塞がれてしまう。最後に出てくる「孟公」というのは、後漢の劉龔(リュウキョウ)。当時、張仲蔚(チョウチュウウツ)という隠者がいて、貧しく家には雑草が生い茂り、訪れる人すらいなかったが、劉龔だけは彼を高く買っていたという故事が晋の皇甫謐(コウホヒツ)の「高士伝」に見えます。淵明は自分の境遇を張仲蔚に擬えます。しかし、彼には劉龔という酒好きの友がいたのに、自分にはいないのはなぜだ、と羨望の眼差しを注ぐと同時に、自らの人生を卑下します。この首は「悲風」「荒草」「長夜」「晨鶏」とやや重い言辞を連ねています。陶淵明全集(上)のP227には「当時の政治上の暗い動きに対する寓意がこめられていると見ることもできる」との解説が見えますが、具体的に何を指すかは不明です。身分次第で出世にも限界がある官僚制度に対する不満、怒り。一向に暮らし向きが良くならない庶民の生活に対する諦め、絶望。一連の「飲酒」には酒にことよせてそうした憂さを晴らそうという姿がはっきりと見えます。「生」を謳歌しようと鼓舞する淵明。しかし、それが容易ではないことも承知したうえでの叫びなのでしょう。



(オマケ)本首では「ついに」が三種類登場します。第四句の「遂に」、第五句の「竟に」、第十二句の「終に」。微妙な意味の違いがあります。「遂に」は「とうとう、その結果、かくて」の意。「竟に」は「結局は」の意。「終に」は「最後まで、最後には」と帰着点を表わす義。順番に訳すと、その結果成就できた物はない、結局は固い窮の節だけは守り通した、最後には暗い気持が私を覆うばかりだ。な~るほどでしょ?覚えておいて損はないよね。

「不敢~」は「どうしても~しようとしない」と訳すのが常道で~す。本首では「敢えて~せず」と訓読していますが、「~するをがえんぜす」と読み下すケースもあります。陶淵明の詩を読むと漢文語法を学べますね。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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