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世に阿らず自らの意思で関わりを断ち切るべし=陶淵明「飲酒」13

陶淵明の「飲酒」シリーズの13回目。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から。この句の冒頭にある「長公」とは前漢の張摯(チョウシ)。大夫まで上り詰めたが、節を屈して世に容れられるのを潔しとしなかったため、罷免させられて、のち一生仕えることはなかった。「仲理」とは後漢の楊倫(ヨウリン)。郡の文学掾として出仕したものの、時流に合わず、辞職して大きな沼沢地のほとりで学を講じ、1000人以上もの弟子が集まったといいます。いずれも自らの意思で致仕した後、自らが欲するがままに晴耕雨読の生活を送った隠者の“先輩”として淵明が憧れる存在なのです。特に、張摯への敬慕は強く、ここ以外にも多くの場面で取り上げています。いずれ触れる機会はあるでしょう。

「其十二」

長公 曾て一たび仕えしも

1)ソウセツにして忽ち時を失う

門をア)して復た出でず

終身 世と辞す

仲理 大沢に帰りて

高風 始めて茲に在り

2)イチオウ 便ち当に已むべし

イ)何為れぞ復た狐疑する

去り去りて当にウ)をか道うべけん

世俗は久しく相欺けり

悠悠の談をエ)い落とし

請う 余が之く所に従わん


1)ソウセツ=壮節。

若い時代、働き盛り。「壮」は「さかん」の意で「体格も精神も充実した年頃、3、40代の男」。「節」は「区切りの一つ一つ、季節」。

2)イチオウ=一往。

ひととおり、ひとまず。ここでは「さっさと」。「往」は「ある方向へ向かっていく」の意。「死者」の意もある。往者(オウシャ=さきに、かつて)、往迹(オウセキ=昔、物事があったところ、古迹)。迂生の好きな言葉に孟子に出てくる「往者不追、来者不拒」というのがあります。

ア)杜して=とざ・して。

「杜す」は「とざす」。出入り口をしめて中にこもる。杜口(トコウ=口をふさぐ、口をつぐんでいわないこと)、杜絶(トゼツ=途絶、とだえること)、杜門(トモン=門を閉じる、堵門=トモン=)。

イ)何為れぞ=なんす・れぞ。

漢文訓読語法。どうして、なぜ。目的や理由を問う疑問の意。反語の意もあり、ここも「なんすれぞ~せん」と訓読してもOK。「なにをかなす」「なにをかなさん」との訓読もあり得ます。それぞれ「何をするのか」「なんの役に立とうか、役に立たない」と訳す。

ウ)奚=なに。

これ一字で「なにをか」と訓み、「なにを~するのか」と訳す。人・物・事を問う疑問・反語の意を示す。「奚」は、その目的語となります。「奚為」は「なんすれぞ」と訓読し、↑の「何為」と同じ意味です。「なに」はほかに、「那、曷」も。

エ)擺い=はら・い。

「擺」を「はらう」と訓む例は辞書に掲載がなく、通常は「ひらく」「ふるう」。ここは「ふるい」と訓んでもいいかもしれません。ただし、音読みは「ハイ」と難読です。「ヒ」ではないことに要注意。熟語では、擺脱(ハイダツ=古い習慣などをおしのけて抜け出す)、擺撥(ハイハツ=払いのけ、振り棄てる、放っておいて相手にしない)、擺落(ハイラク=払い落とす)、遥擺(ヨウハイ=肩を左右にゆすっていばる)などがあります。「はらう」はほかに、「攘う、箒う、掃う、擽う、禊う、禳う、糞う、蕩う、襄う、除う」などがあります。


長 公 曾 一 仕
壯 節 忽 失 時
杜 門 不 復 出
終 身 與 世 辭
仲 理 歸 大 澤
高 風 始 在 茲
一 往 便 當 已
何 為 復 狐 疑
去 去 當 奚 道
世 俗 久 相 欺
擺 落 悠 悠 談
請 從 余 所 之



前漢の張摯(張長公)は一度官途に就いたが、まだ働き盛りだというのに、たちまち失脚してしまった。それからは門を閉ざして終生仕えようとはしなかった。後漢の楊倫(楊仲理)は大きな沼沢地に帰隠したのち、はじめてあの高尚な学風がおこった。さっさと隠遁するだけのこと、何をためらうことがあろう。身を引くからにはぐずぐず言ってもはじまらぬ。世間のだましあいは今にはじまったことではないのだ。世間のいい加減な取りざたなど払い捨てて、我が道を行けばいいのだ。

世間が自分を認めるかどうかは、自分が御すことのできる「埒外」にあるということです。したがって、世間の反応などに構っていたら身が持たない。世に阿りせこせこした生きかたを嫌う淵明にとっては耐え難いものです。張摯は世間から冷たい仕打ちを受け、楊倫は自ら世に見切りをつけた。在野にあってこそ己の索める道を極めることが出来たのです。「一往便當已、何為復狐疑」という決意の言葉で自らを鼓舞する淵明。決めたら即行動が彼のモットーです。「悠悠談」というのは「ゆったりのどかな談話」で通常はいい意味で用いますが、その前の「世俗久相欺」と併せて、淵明は寧ろ「世間のいい加減さ、適当さ」としてネガティブにとらえています。

世間体とか栄達といった世間一般が認める標準にこだわるのも生き方の一つでしょう。迂生も全否定はしない。しかし、もしそれを振り払うことができればこれほど心強いものはないのではないか。人として生を享けた限り生を全うするのはもちろんです。その方向性は各人各様でいい。挫折もあろう。失望もあろう。でも、いかなる局面に身を置いたとしてもとどのつまりは自己が確立されているかどうかに尽きるのではないか。ぶれず、揺るぎない軸を守り通す生き方。淵明は古代の先輩に己の理想を見出した。そして、それを実践しようとした。価値基準は世間にあるのではない。自分の中にこそある。見えないけどある。世間のペースに合わせるのではなく、もし、世間が自分に合わせてくれないのなら、自らが世間から離れるだけ。淵明が求め、淵明が実践したことは実は、意外にシンプルなロジックだったのかもしれませんね。これなら迂生にも真似できますね。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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