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死んだらおしめぇよ!生きてるうちが花だぜぃ!!=陶淵明「飲酒」12

さて、GWも終わり本日から陶淵明シリーズは再び「飲酒」二十首に戻ります。その12回目です。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から。第一句の冒頭にある「顔生」とは孔子の一番弟子、顔回のこと。三十一歳で夭折しましたが、仁者として名を馳せ、孔子の覚えもめでたい人物でした。一方の「栄公」は陶淵明が嬖りの春秋時代の隠者・栄啓期。既に「其二」で一度登場しています。九十歳まで長生きしました。この二人に対する敬慕の念を示しつつも、半面、反面教師としても冷静に見ている。その功罪の両面から論じようと試みています。

「其十一」

顔生は仁を為すと称せられ

栄公は1)ユウドウと言わるるも

屢々空しくして年を獲ず

ア)に飢えて老に至る

2)シンゴの名を留むと雖も

一生 亦た3)ココウせり

死し去りては何の知る所ぞ

心にイ)うを固より好しと為す

千金の軀を4)カクヨウするも

5)に臨んでは其の宝を消す

裸葬 何ぞ必ずしも悪しからん

人 当に意表を解すべし

1)ユウドウ=有道。

道徳を身につけている人。「ウドウ」とは読まない。

2)シンゴ=身後。

自分が死んだ後。死後。

3)ココウ=枯槁。

やせおとろえる。屈原の「漁夫」に「顔色憔悴、形容枯槁」がある。「槁」は「かれる」とも訓む。槁梧(コウゴ=琴の別名)、槁骨(コウコツ=日にさらされて肉のなくなった骨)、槁悴(コウスイ=病気や貧困などでやせたり、やつれたりすること)、槁暴(コウバク=生木が野ざらしになってかわくこと)、槁木死灰(コウボクシカイ=からだは、枯れた木のように、心は、灰のように生気のないさま、荘子の「斉物論篇」に出典あり)。

4)カクヨウ=客養。

養生すること。あたかも「客」として扱うように体を大切にするといった意味でしょうか。辞書には掲載がありませんでした。「客」を「キャク」と読むのは呉音です。漢音では「カク」。小学3年生の常用漢字ですが意外に難敵ですよ~。客臘(カクロウ=昨年の十二月)、客寓(カクグウ=旅先の住まい)、客卿(カッケイ=他国から来てその国の大臣になった人)、客枕(カクチン=旅寝の枕、旅で寝ている枕元のこと)。

5)カに臨む=化に臨む。

臨終。この場合の「化」は「かわる、ばける」から派生して「人間の体の変化」を指す。つまり、「死」。化者(カシャ)は「死者、死人」。

ア)長に=つね・に。

いつも。ちょっと特殊な表外訓み。「つねに」はほかに、「毎に、恒に、庸に、尋に、彝に、雅に」があります。

イ)称う=かな・う。

ぴったりあう。「となえる」の訓みもありますが、ここは採らない。称意(ショウイ、イにかなう=心にかなう、気に入る)、称職(ショウショク、ショクにかなう=才能がその職に適している)、称心(ショウシン、こころにかなう=思い通りになること)。「かなう」はほかに、「諧う、叶う、適う、敵う、協う、恊う」がある。


顏 生 稱 為 仁
榮 公 言 有 道
屢 空 不 獲 年
長 饑 至 於 老
雖 留 身 後 名
一 生 亦 枯 槁
死 去 何 所 知
稱 心 固 為 好
客 養 千 金 軀
臨 化 消 其 寶
裸 葬 何 必 惡
人 當 解 意 表



顔回は仁者であると称えられ、栄啓期も有道の人と評されているが、前者はいつも空きっ腹をかかえていて若死にし、後者はひもじい日々のなかで老いさらばえた。二人とも死後に名を残したものの、一生、痩せ衰えていた。死んでしまったら何にも分からないのだから、生きている間の充足感こそ大事にしたい。御身大切とばかりに養生したところで、死んでしまえば体そのものが消えてしまうのだ。裸で埋葬されるのも悪くないではないか。自然に帰ることの意味をもっと理解すべきであろう。



顔回と栄啓期はそれぞれ、死後に生前の徳を以て称えられ名を残しました。しかし、前者は飢えてなくなり、後者はひもじさの中、老いさらばえ生きながらえた。生きている間は常に苦しさと向き合い、いわば「生きる屍」状態でした。そして、死んでからはじめて世間の評判が立ったのです。淵明にはそれが空しくて仕方がなかった。「死して後、名声が高まること」にどのような意味があるのか?疑問を呈します。世間に意味はあるかもしれないが、当事者にとっては何の価値もないと言い切る。だからこそ、生きている間の満足感がほしい。享楽的なコメントです。

隠者らしいのか?隠者らしからぬのか?は迂生にも判定がつきませんが、死後ではなくて現世における自分の存在を認めていく考え方は生きる上では必要不可欠なことでしょう。その意味では淵明は「生」にこだわった人だった。死ぬことは全く怖くなかった。役人の仕事を続けることは彼にとって「死」を意味し、すべてを捨てて田舎に帰ったのは「生きる」ためだったと言えましょう。

最後の「裸葬」というのは、「死者を衣類にも包まず、棺にも入れずに葬ること」で、前漢の楊王孫が臨終の際、「吾、『贏の貝が果』葬を欲す、以て吾が真に反らん」と言い残し、裸で葬られたエピソードを指しています。このように「裸葬」に対して淵明が肯定的な考えを表明しているのは、「死」を厭う気持ちが微塵もないから。彼にとって「死」とは自然への回帰。まさに、「帰去来兮」なのです。そして、飲酒は「生」を貪ること、そのものだったのです。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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