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憧れは扨措き 前にこそ進みなんいざ!=陶淵明「帰去来兮辞」5・完

陶淵明の「帰去来兮辞」の最終回です。

 【4段】

 已矣かな、

 形をウダイに寓する 復た幾時ぞ。

 ぞ心に委ねてキョリュウを任せざる、
 
 胡為コウコウとして何くに之かんと欲する。
 
 富貴は吾が願いに非ず、
 
 テイキョウは期す可からず。

 リョウシンを懐うて以て孤り往き、

 或いは杖を植てて耘耔(★)す。

 トウコウに登りて以てろにウソブき、

 清流に臨みて詩を賦す。

 聊か化に乗じて以て尽くるに帰し、

 夫の天命を楽しみて復た奚をか疑わん。

注:(★)は「耒」扁+「子」。「つちかう」「し」と訓む。草木の根本に土をかけて育てること。「耘耔」は「ウンシ」。詩経(小雅・甫田)に「或いは耘(くさぎ)り、或いは耔(つちか)う」がある。

 ■已矣=やんぬるかな。

いたしかたない。もうだめだ。もうこれまでだ。絶望を表わすことば。

 ■ウダイ=宇内。

 あめのした。天下。世界。「形を宇内に寓する」とは、肉体がこの世に仮の姿であること。

 ■曷ぞ=なん・ぞ。

どうして、なんで。しばしば「…せざる」と反語的に用いるとある。「なに」「いずくん・ぞ」「いつ」とも訓む。音読みは「かつ」。「曷若」(いかん)、「曷為」(なんすれぞ)が訓読語法では必須です。

 ■キョリュウ=去留。

 去ることととどまること。去就。また、この世から去ることと、この世にとどまること。死と生。自然の成り行き。

 ■胡為ぞ=なんすれ・ぞ。

反語・疑問の副詞。「どうして」「何のために」と訳す。行動する目的や理由を問う疑問の意を示す。

 ■コウコウ=遑遑。

 うろうろと落ち着かないさま。あわただしく忙しいさま。「遑」は「いとま」とも訓み、「枚挙に遑がない」(まいきょにいとまがない)は日常用法。「遑寧」(コウネイ)、「遑安」(コウアン)、「遑急」(コウキュウ)、「遑遽」(コウキョ)。完全征服には「あわただ・しい」「あわ・てる」「ひま」の訓みも見える。「コウコウ」は難しいぞ。同音異義語が山とある。1級搦みだけ列挙しておきます。「皓皓」「惶惶」「黌校」「交媾」「耿耿」「杲杲」「鏗鏗」「皎皎」「薨薨」「黄蒿」「磽磽」「煌煌」「溘溘」「江皋」「膠膠」「狎恰」「庚庚」「衡巷」「壙壙」「悾悾」「哮吼」「佼佼」「亢衡」「膏肓」。まだまだあるだろうがこの辺りで。。。。

 ■テイキョウ=帝郷。

 通常は、天帝がいる所、つまり天上のこと。ここでは、仙人が住むといわれる所。

 ■リョウシン=良辰。

 よい日柄。良日。吉日。佳辰。「辰」は、とき、時刻や日。「辰刻」(シンコク)は時刻のことだが「たつのこく」と訓めば、今の午前8時、その前後2時間。

 ■トウコウ=東皐。

 東にあるおか。「皐」は「さわ、きし、水際」。熟語には「皐比」(コウヒ=虎の皮、講義の席)、「皐月」(コウゲツ、さつき=陰暦5月の異称)、「皐皐」(コウコウ=がやがや騒ぐ)、「皐門」(コウモン)、「皐牢」(コウロウ)がある。「皐魚の泣」(コウギョのキュウ=親の死を嘆き悲しむこと)。「トウコウ」には「竇窖」「韜光」「豆羹」「桃梗」がある。

 ■舒ろに=おもむ・ろに。

漢検辞典の意味欄②には「ゆるやか、ゆったり」がある。この訓み方は独特だろう。「の・べる」「ひろ・げる」と訓むのが通常。音読みは「ジョ」。「展舒」(テンジョ)、「舒緩」(ジョカン)、「舒遅」(ジョチ)、「舒巻」(ジョケン)、「旌旗巻舒」(セイキケンジョ)、「舒舒」「舒徐」(以上ジョジョ)、「舒嘯」(ジョショウ)、「舒情」(ジョジョウ)、「舒暢」(ジョチョウ)、「舒展」(ジョテン)、「舒放」(ジョホウ)、「閑舒」(カンジョ)。

 ■ウソブく=嘯く。

 声を長くひいて詩歌をうたうこと。音読みは「ショウ」。熟語には「嘯歌」(ショウカ)、「嘯傲」(ショウゴウ)、「嘯合」(ショウゴウ)、「嘯集」「嘯聚」(以上ショウシュウ)、「嘯咤」(ショウタ)、「嘯風」(ショウフウ)、「長嘯」(チョウショウ)、「猿嘯」(エンショウ)、「吟嘯」(ギンショウ)、「嘯風弄月」(ショウフウロウゲツ)、「虎嘯風生」(コショウフウショウ)、「虎嘯風烈」(コショウフウレツ)がある。上記の「舒」とセットで「舒嘯」(ジョショウ=ゆったりと吟じる)と訓読する例もあるようだ。熟語も漢字源に載っていました。ただ、意味はやはりそれぞれの漢字で考えるべきでしょうね。定着度合いが全然違うから。



最後の段では、前段の続きで、老いは逆らえないのだ。己の肉体が仮の姿でこの世にとどまれるのも後僅か。。。だからこそ、己の願うがままにしたがって自分の生死を決めていいのだ。富や名声なんてどうでもいい、ましてや神仙の世界というのも求めたって思うにならない。あわててもどうすることもできない。晴れた日には孤りで歩き回る。杖を置いて農業にいそしむ。東の丘にのぼって詩歌を歌う。清流を前に詩を賦す。自然の変化に己の人生を合わせて死んでいく。それが天命。。受け入れることができれば恐いものはない、何の迷いもなく人生を楽しむことができる。。半分は諦めの境地か。悟りの境域か。

しかし、迂生にとって淵明の生き方は「憧れ」ではあるものの、絶対に真似のできないものです。詩才も何もない者はどうすればいいのか。。。そう、愚直に己の欲するものを極めればいいのです。淵明の真似ができるとすれば、己の欲するものを飽く迄も追求する姿勢ではないか。人生は40歳過ぎから「新たな境地」が豁けると信じています。ま、50歳になれば嫌でも「天命を知る」のですから、あと、数年は己の欲する道の方向性をしっかりと見極め、地固めをしていきたいと思います。。。という思いを改めて示唆してくれた「帰去来兮辞」でした。「帰りなんいざ」。いやいや一歩でも前にこそ、「進みなんいざ」。。。。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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