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蔭補の御蔭で出世できず 才能あっても卯建上がらず=北宋の梅堯臣3

北宋の梅堯臣シリーズの3回目は、こき使われる農家の牛の悲惨な境遇を詠んだ作品を取り上げます。あたかも梅堯臣が自らの境遇を寓意したかのようにも受け取れます。身分が低くて虐げられた者、そして、能力がありながらそれを発揮する場所が与えられない者の怨嗟の叫びかもしれません。



「耕牛」(五言律詩)

ア)を破りて 耕して休めず

何ぞ1)ルイトクを顧みるに暇あらん

夜に帰って 明月にイ)

朝に出でて 深谷を穿つ

力は2)デンチュウに窮ると雖も

腸は未だ3)スウシュクに飽かず

稼収 風雪の時

又 ウ)寒坡に向て牧せらる

   (NHKラジオテキスト 宇野直人「漢詩をよむ 漢詩の来た道(宋代前期)」から)

   嘉祐2年(1057)、梅尭臣56歳のころの作品



1)ルイトク=羸犢。

やせて弱々しい子牛。「犢」は「こうし」。舐犢之愛(シトクのアイ=親が子をむやみに愛すること、溺愛、親馬鹿)、「羸」は「つかれる」とも訓む。羸馬(ルイバ=痩せ衰えた馬、羸駑=ルイド=)、羸師(ルイシ=つかれてよわった軍隊)、羸弱(ルイジャク=つかれ弱って力が衰える)、羸脊(ルイセキ=つかれやせる、羸瘦=ルイソウ=)、羸餒(ルイタイ=ぐったりとつかれて飢える)、羸兵(ルイヘイ=つかれてぐったりした兵士、羸卒=ルイソツ=)、羸弊(ルイヘイ=つかれて弱り苦しむ、羸敝)、羸老(ルイロウ=つかれ老いる、体力の衰えた老人)。

2)デンチュウ=田疇。

田畑のあぜ。転じて、田畑そのもの、田地。「疇」は「うね」。疇隴(チュウロウ=畑のうね、田畑)。

3)スウシュク=芻菽。

まぐさと豆。「芻」は「まぐさ」。草冠のついた「蒭」はこれの異体字です。芻豢(スウカン、スウケン=草食の家畜と穀食の家畜)、芻狗(スウク、スウコウ=わらでつくった犬の模型、祭りで用いて終れば捨てる、用無し)、芻言(スウゲン=草刈りのいう言葉、民間人の意見、自分の意見を遜る)、芻蕘(スウジョウ=身分の卑しい者、転じて、庶民、自分の作品を謙遜する言い方)、芻米(スウベイ=牛馬を飼うまぐさと、人を養うコメ)、芻牧(スウボク=牛馬などを飼うこと)、芻秣(スウマツ=牛馬の飼料としてのまぐさ、かいば)、芻霊(スウレイ=草を束ねてつくった人形、葬式の時、死者と共に葬り、殉死者のかわりとした)。「菽」は「まめ」。菽水歓(シュクスイのカン=マメを食い、水を飲む貧しい生活をしていても親を歓ばせる、貧窶な生活をしていても親に孝行を尽くすこと)、菽粟(シュクゾク=人間の常食としてのマメ類と穀物類)、菽粒(シュクリュウ=マメ粒のこと)、不弁菽麦(シュクバクをベンぜず=おばか)。

ア)領=うなじ。

 くび(のうしろ)。領悉(リョウシツ=承知する、うけたまわる、手紙の文面で用いる)。

イ)喘ぎ=あえ・ぎ。

「喘ぐ」は「あえぐ」。音読みは「ゼン」。喘噎(ゼンエツ=せきこんでむせぶ)、喘汗(ゼンカン=あえいで汗を流す)、喘喘(センセン=はあはあとあえぐさま)、喘息(ゼンソク=咳の出る病気、喘気=ゼンキ=)、喘鳴(ゼンメイ=ぜいぜい音がする喉鳴り)、呉牛喘月(ゴギュウゼンゲツ=誤解して必要以上におびえるたとえ、思いすごしから要らぬ苦労をするたとえ、懲羹吹膾=チョウコウスイカイ=、蜀犬吠日=ショクケンハイジツ=)。

ウ)寒坡=カンパ。

寒々しい丘。「坡」は「つつみ、さか」。土を盛って山型に築いた堤。坡陀(ハダ=起伏があって平らでないさま)、坡塘(ハトウ=土手、堤防)、坡頭(ハトウ=土手のほとり)、坡老(ハロウ=蘇軾の別名)、坡壟(ハロウ=土手と丘、小高くなったところ)。

破 領 耕 不 休
何 暇 顧 羸 犢
夜 帰 喘 明 月
朝 出 穿 深 谷
力 雖 窮 田 疇
腸 未 飽 芻 菽
稼 収 風 雪 時
又 向 寒 坡 牧


(解釈)首の皮をすり傷だらけにして休みなく耕す。かよわい子牛に目を向けるゆとりなどない。夜半に帰る時、月を見て息を切らし、朝早くに小屋を出て 深い谷へと向かう。体力が畑地に尽き果てようというのに、その腹はまぐさや豆を十分に食べていない。取り入れの後、風交じりの雪の季節が到来し、今度は寒々しい丘の上で放牧されているのだ。


梅堯臣のいわば同僚官僚だった欧陽脩は進士出身(科挙)で政府高官とした世に名を馳せたのと対比すると、梅尭臣は地方暮らしが長く、不遇を喞ちました。ところが、欧陽脩は梅堯臣の詩に一目も二目も置いていました。詩の才能に於いてはもしかしたら梅堯臣の方が上だったかもしれないほど、彼の詩はすぐれているとの評判が立っていました。それは欧陽脩も認めていたのです。それなのに梅堯臣が卯建が上がらなかった人生を送ったとされるのはなぜでしょう。梅堯臣はいわばコネで官僚になったため、いわゆる進士というエリートコースには乗っていませんでした。高級官僚だった叔父のおかげで官僚になれたのです。蔭補、蔭叙、蔭子、蔭生、蔭位、蔭官などと称します。それだけで不遇とは言えないでしょうが、やはり生活が苦しかったことは挙げられるでしょう。もしかしたら世渡り下手だったのかもしれません。そして、有り余る才能がある故に、現実とのギャップは彼を苦しめたに違いありません。これだけの詩才がある俺がどうしてこの苦境から抜け出すことができないのだ?――。

景祐3年(1036)、35歳という若い頃、建徳県(浙江省建徳県)の知事時代に詠んだとされる「陶者」という詩(五言絶句)があります。

門前の土を陶き尽すも
屋上 片瓦無し
十指 泥に霑はざるも
鱗鱗 タイカに居る

陶尽門前土
屋上無片瓦
十指不霑泥
鱗鱗居■■


(解釈)門前の陶土を全部焼いて瓦に仕上げるのだが、自分の家には瓦が一枚もない。それなのに、両手の指が泥に触れることすらないのに、屋根瓦が魚のうろこのようにぎっしり並ぶ豪邸に住む人がいる。

●タイカ=大廈。

 豪邸のこと。「廈」は「いえ」で「屋根を葺いた家」。大廈高楼(タイカコウロウ)といえば「大きな建物のこと」、大廈棟梁(タイカのトウリョウ)は「国の重要な任務をになう人材のこと」、広廈万間(コウカマンゲン=なん間もあるような広い家)、廈屋(カオク=大きな屋根でおおったいえ)。


NHKテキスト(P81)によれば、「梅堯臣はここで、社会の繁栄を支える人々がそれに見合った地位と報酬を得ていないことを述べ、栄華の底にひそむ矛盾を訴えたのだった」とあります。30代半ばのこれから人生が本格化するときです。知事という地方官僚だからこそ見えた世界でしょうか。「紺屋の白袴」や「駕籠舁駕籠に乗らず」などとも言いますが、職人は技術はあっても人のために活用されるもので自らの生活の繁栄には貢献しないもの。この詩でも陶者は人のためにせっせと瓦を焼いていくが、自分の家にはその瓦が一枚もないという皮肉な生活を送っている。まるで自分のようだ。こんなに才能があっても自分の生活が楽になることにはつながらない。嗚呼、この才能のうまい使い道はないのか?だれか分かってくれる人はいないのか?才能がないのにのうのうと出世して、安逸を貪っている奴らが五万といるというのに……。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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