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始皇帝から国家論を学べ=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」1

中国の詩人、官僚、政治家、文人らが現代に伝える名文、美文の数々。迂生はこのblogの場を借りて出来得る限り取り上げていこうと思います。それは必ずやわれわれ現代人にとって生きる上で針路を指し示す「羅針盤」となってくれるはずです。古人の糟魄が教えてくれる物の見方や考え方は楽しく生きることの要諦でもあるのです。そして、別の意味では、われわれが漢字や言葉を手に入れるための「生きた教科書」でもあるのは論を待ちません。古人の糟粕を嘗めるために迂生は漢字の学習をしています。

「得魚忘筌」や「得兎忘蹄」という荘子の教えがあるように、目的である「魚」や「兎」を得たのなら、手段である「筌」や「蹄」は捨てても構わない。しかし、そうそう簡単に「魚」は筌に入りませんよ。そうそう簡単に「兎」は蹄に掛かりませんよ。そんな短時間ではなく、一生をかけて目指すべきものでしょう。ま、人それぞれで求めるべき「魚」の「実像」は異なるでしょうけどね。

本来は(いや少なくとも迂生にとって)「筌」や「蹄」である漢字、言葉の学習は捨てたくても一生捨てるわけにはいかないでしょうなぁ。捨てる気もさらさら無いけどね。だって、どれだけやっても奥が深いもの。限がないもの。でも、小さいながらも少しずつ魚が筌に入っている実感はある。兎だって子兎なら獲れているんじゃないか。時間をかけただけ「人生の意味」に近づいている気だけは日ごとに強くなっていくのは確かです。弊blogの第一回の記事(2009年3月30日)で「桃源郷」に迷い込んだと言った髭鬚髯散人ですが、その後1年近くを経た現在においても、さらに杳い場所に入り込み、藻掻き、足掻き、喘いでいます。年齢だけは1歳老ました。相変わらず行き先は分かりませんが、弊blogの趣旨にご賛同、あるいはご納得された方であれば今後ともお付き合いくださいませ。

さて、本題。秦の始皇帝の奢侈淫佚を杜牧が諷喩した「阿房宮の賦」ですが、北宋第一級の才人の呼び声高い蘇東坡(蘇軾、1036~1101)にも「秦の始皇・扶蘇の論」という文章があります。蘇東坡が生きた時代は、同時期を生きた先輩官僚の王安石が主導した革新的な諸施策の数々である「新法」と、それに反対する「旧法」の対立の構図の中で政治が動いていました。今風なら「政権交代」と言えば聞こえはいいか?しかしながら、要は依怙贔屓が罷り通る仲間内の政治のことですよ。いかにして徒党を組んで皇帝をまるめ込むか。身内に甘く敵方には苛い。蘇東坡は王安石に対峙した旧法党に属していました。ざっくりと言いますと、新法党が政権を担うと彼は地方に飛ばされ、旧法党が取って代わるとまた中央に復帰し、またまた……というように激動の変転を繰り返す官僚人生を送ったのです。南の最果ての地にも飛ばされている。しかしながら、左遷の憂き目にあった地方時代に多くの名詩を残しており、やはり不遇の時代にこそ珠玉の作品が生まれるのは「真理」なのでしょうか。

新法は厳格な法律を適用して法を犯すものを次々と葬り去っていました。これに対して、蘇東坡は、「宥恕の道」を説く儒教の経典を焼き儒家を生き埋めにして殺した「焚書坑儒」と同じようなことが今まさに行われようとしていることを憂え、「死刑を乱発する政治は国民に福を齎しはしない」ことを訴えています。10回シリーズのロングランで。これも明治書院の「新書漢文大系9 文章規範」から採録しております。

【1】
秦の始皇の時、趙高罪有り。蒙毅之を按じ、死に当す。始皇ア)して之を用う。長子扶蘇、1)チョッカンを好む。上怒り、北のかた蒙恬の兵を上郡に監せしむ。始皇、東のかた会稽に遊び、海に並って、琅琊にイ)く。次子胡亥・李斯・蒙毅・趙高従う。道にして病み、蒙毅をして還りて山川に祈らしむ。未だ還るに及ばずして、上崩ず。李斯・趙高、詔をウ)り、胡亥を立て、扶蘇・蒙恬・蒙毅を殺し、卒に以て秦を亡ぼせり。

1)チョッカン=直諫。思っている事がらをはばからずに直接口に出していさめること。「諫」は「いさめる」。諫議大夫(カンギタイフ=官名で、天子の欠点や政治上のあやまちをいさめ正す官。後漢から元代まで置かれた。秦・漢では諫大夫が置かれた)、諫鼓(カンコ=君主をいさめたり君主に訴えたりするために、朝廷の門外に置いて人民に打たせて合図とした太鼓)、諫臣(カンシン=天子の誤りをいさめる臣下)、諫争(カンソウ=いさめ争う、相手の意に逆らうことになっても目上の人をいさめること)。

ア)赦して=ゆる・して。表外訓み。「赦す」は「ゆるす」。赦免(シャメン)=赦原(シャゲン)・赦罪(シャザイ)・赦宥(シャユウ)。「ゆるす」はほかに、「縦す、免す、聴す、容す、予す、侑す、允す、准す、原す、宥す、恕す、放す、貰す、釈す」などがあります。いずれも訓めることが肝要です。

イ)走く=おもむ・く。表外訓みですがやや特殊か。「走」は「にげる」とも訓む。走舸(ソウカ=大勢の漕ぎ手がいて速く走る船、戦争用)、走尸行肉(ソウシコウニク=生ける屍、役立たず)、走集(ソウシュウ=辺境のとりで・お城)、走馬看花(ソウバカンカ=いい加減にざっと見て物の本質を理解しないことのたとえ)、走北(ソウホク=走り逃げる、戦いに負けて逃げること)、走路(ソウロ=逃げ道)。

ウ)矯り=いつわ・り。表外訓み。「矯る」は「いつわる」。矯誣(キョウフ=事実をかえてごまかし、人を欺くこと、矯詐=キョウサ=)、矯殺(キョウサツ=君主の命令だといつわりだまして殺す、矯虔=キョウケン=)、矯亢(キョウコウ=わざと人と違ったふりをする、妙に知ったかぶりをする)。「いつわる」はほかに、「陽る、偽る、譎る、誕る、詐る、佯る、繆る、訛る、詭る、譌る、譖る、譛る」などがあります。これもしっかりと訓めるようにはしておきましょう。

(解釈)趙高が罪を犯し、蒙毅が取り調べて死刑に相当するとの判断を下した。ところが、始皇帝は許し、官職を与えて処遇した。長男の扶蘇は父を諌めることを進んで行ったが、皇帝の怒りを買い、北方にある上郡に追いやって蒙恬の軍隊の監督に当らせた。始皇帝が会稽に巡行した折、海岸沿いの琅琊におもむいた。これにお供したのが次男の胡亥、李斯・蒙毅・趙高。道中、病に伏せった皇帝は蒙毅を都に帰らせて山川の神々に快癒の祈禱を命じたが、都に行く途中で薨られた。そこで李斯と趙高が皇帝の御言葉(御遺言)を改竄して、次男の胡亥を天子の位につけて、扶蘇・蒙恬・蒙毅の3人を殺害した。そしてあっけなく秦は滅亡してしまった。

文章規範の「背景」(P133~134)によると、秦の始皇帝は、「法によって天下を治めようという韓非ら法家の思想をとりあげ、儒家の説く徳治思想は危険なものとして弾圧」(それが焚書坑儒)を断行したとあります。そして、阿房宮の大建築、外敵の侵入を防ぐための万里の長城の大土木工事など「これらの人的負担はすべて民衆に回ったため、その不満は一触即発の空気をはらみながら、鳴りを潜めているかのようであった。しかし、崩壊は時を同じくして、内側からもすでに腐りかけていた」といいます。

第一パーツでは、秦の始皇帝をめぐる家族と家臣の名前が相次ぎます。中国史に通暁していなければ辛い所です。迂生もよく分かりません。調べる時間も無いのでこのまま流します。屹度、蘇東坡のこの文章を読み進めればある程度は流れに馴染むことが可能でしょう。

文章規範によりますと、始皇帝の長男の扶蘇は、皇帝の考え方に反対し、北方軍司令官の名で朝廷から追放されました。秦朝は、地方の扶蘇と将軍の蒙恬(蒙毅の兄で、ときに北方の異民族討伐に従事していた名将)の一派と、都に居る胡亥(扶蘇の弟)と宰相の李斯(始皇帝の統一政策の実行者)、および始皇帝に信任の厚い宦官である趙高(刑法に精通)らの一派とに分かれて勢力争いをしていました。大勢は後者が優勢に事を進めており、始皇帝の死後、胡亥らは扶蘇を自殺に追いやり、蒙恬を逮捕、胡亥が二世皇帝の位につきます。その後、李斯が趙高に殺されたあたりで、外から反乱の烽火が上がり、胡亥も在位三年で趙高に殺されてしまいます。

蘇東坡の文章のスタートは秦朝の歴史のお浚い。ゆっくりと進めましょう。いずれにせよ彼は国家がどうして滅ぶのか。そして、それを食いとめるために為政者は何を為すべきかについて、過去の歴史から学ぼうとしているのです。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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