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自分の知らないことを知っている人が「師」=韓愈「師説」3

中国名文を噛み締めるシリーズは、韓愈の「師説」(明治書院「新書漢文大系30・唐宋大家文読本<韓愈>」)の3回目です。理想の師弟関係を築くことのできた孔子の時代ですら、自らが師であると同時に、自らも師と仰ぐ人がいた。それなのに今の人ときたら、自分が人に付き従って師と仰ぐことをしないのはどうしてか――。韓愈の不満が爆発します。

【3】
其の子を愛しては、師をア)んで之に教う。其の身に於ては、則ち師とするを恥ず。惑えるかな。彼の童子の師は、之に書を授けて其の1)クトウを習わしむる者なり。吾が所謂其の道を伝え、其の惑いを解く者に非ざるなり。クトウの知らざる、惑いの解けざる、或いは師とし、或いはしかせず。小は学んで大はイ)る、吾未だ其の明なるを見ざるなり。

1)「クトウ」=句読。「。」や「、」などのしるしをつけて文章を区切ること。また、文章の区切り方。「句」は一つの文が終わったところ、「読」は一つの文の中の息の継ぎ目。句度(クト)、句逗(クトウ)、句投(クトウ)ともいう。転じて、文章の読み方をいう。とても簡単な漢字ですが、こういう奴こそ本番で狙われます。狗偸、狗竇、狗盗、瞿唐など逆に難しいのしか浮かばないかも。。。韓愈先生に習いましょう。

ア)「択んで」=えら・んで。「択ぶ」は「えらぶ」。表外訓み。「えらぶ」はほかに、「揀ぶ、簡ぶ、刪ぶ、掏ぶ、撰ぶ、柬ぶ、詮ぶ、銓ぶ」。択交(タッコウ=交際してもよい国・友人をえらぶこと)、択材(タクザイ=りっぱな人材をえらぶ)、揀択(カンタク=区別すること、えりわける)。

イ)「遺る」=わす・る。疎かにすること。表外訓み。「のこる」とも訓むがここは前者。

自分の子供には家庭教師をつけたり、塾に通わせたりして「師」を与える。ところが、自ら「師」を選んで習うことは恥ずかしいと考える。韓愈に言わせれば、それは「惑」の為せる技。理性を失っているのだという。しかし、子供に教える「師」は本当の意味で「師」ではない。彼はいわば、読み書きそろばん、学問のイロハを授けるにすぎない。「道」を知っているものではないのだから、本当は「師」と言うべきではないであろう。

世の中には教育熱心な親も多いでしょうが、経済力があれば多少の「学問」らしきことを与えてはやれます。しかし、肝心の子供本人はノー天気。金をかければいいってもんじゃないのよね。親の自己満足、エゴに過ぎません。子供にどれだけの意欲を喚起し、持続させられるかが最大のポイントですが、他人がとやかくできるものではないでしょう。自らの発露があるのみ。知識への渇望、危機意識のないところに「道」は生まれないでしょうね。まぁ、刺激は必要と言えば必要ですが…。啐啄同時じゃないとね。。。

【4】
2)フイ・楽師・百工の人、相師とするを恥じず。士大夫の族、曰わく弟子を云わば、則ち群がり聚まりて之を笑う。之を問えば則ち曰わく、彼と彼とは年相若けり、道相似たりと。位卑しければ則ち羞ずるに足り、官盛んなれば則ちエ)うに近し。噫乎、師道の復せざること知る可し。フイ・楽師・百工の人は、君子齢せず。今其の智は乃ち反って及ぶ能わず。其れ怪しむ可きかな。

2)「フイ」=巫医。みこと医者。転じて、医者。古代、みこは祈りで病気を治したことから、医者と同類としてみられていた。「巫」は「みこ」「かんなぎ」。巫覡(フゲキ=巫は女みこ、覡は男みこ)、巫咸(フカン=殷代の伝説上のみこの名)、巫峡(フキョウ=四川省巫山県の東にある峡谷)、巫蠱(フコ=祈禱やまじないで人を呪うこと)、巫山戯(ふざけ)、巫山之夢(フザンのゆめ=男女の情事)、巫史(フシ=みこと記録係、古代の神職)、巫祝(フシュク=みこ、はふり、かんなぎ)、巫術(フジュツ=みこのまじない)、巫女(フジョ、みこ)、巫匠(フショウ=みこと大工、孟子が仁を説いた時のことば、どちらも人の為になる存在)。「フイ」といえば「布衣」がうかびますが、庶民という意味でここは違います。

エ)「諛う」=へつら・う。ことばを曲げて相手の隙に付け込む、人の機嫌を取るように媚び、おもねるさま。音読みは「ユ」。阿諛(アユ=おもねる)、諛悦(ユエツ=こびへつらって喜ばせる)、諛言(ユゲン=こびへつらうことば、諛辞=ユジ=)、諛臣(ユシン=こびへつらう家来)、諛佞(ユネイ=くねくねとして、相手にこびへつらう、諛媚=ユビ=、諛諂=ユテン=)、諛墓(ユボ=ことさらに死者の生前の実際の事柄と違った墓誌を作って死者を賛美すること)。阿諛便佞、阿諛追従、讒諂面諛。All WRITING OK?

韓愈は続けて言います。「みこや医者、音楽師、諸種の技術者たちは、人を師とすることを恥じない」――。徒弟制度が染みついた世界と言えばそうですが、彼らは皆「道」を極めることが技術を高めていくことだと知っているのなのです。だから、道の先達者として師に倣うことを厭わない。

それに対して、韓愈によれば「士や大夫などの身分のある者たちは、師と言い、弟子と言うならば、群がって笑うのみ」といい、それが何故かと言えば、「年齢が同じくらいだから、極めた道も似ているだろう。また、身分が卑しければ、彼を師とするのは恥である。さらに、官職が高位であれば、彼を師とすることはへつらい、おもねり、こびである」。つまり、世間体や己の体面を重んじるあまり、師たる人を師として見るという正常な判断ができなくなっているのです。恥かしいのはどっちだよ~。韓愈は読者の羞恥心を煽って、もっと素直に、肩の力を抜いて、師を見つけることを提唱する。当時の唐王朝では身分がすべてを決していたから、身分を超越した師と弟子という関係には何の価値も見出せなかったのでしょう。身近に師のいることの意味をもう少し考えてみましょう。それほど深く思う必要はない。

例えば新聞記者。彼らはとにかく人の話を聞いて記事にする。分からないという前提で人に聞きまくるのが仕事なのです。だから、彼らにとって取材先はすべて「師」と言えるでしょう。自分の知りたいことを知っている人は「師」なのです。知らないのが当たり前。こう考えたらもう少し気楽に「師」というものを見詰めることができるのではないでしょうか。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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