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食らうだけで努力せずば「天の殃」有るべし=韓愈「圬者王承福伝」2

中国名文を囓んで玩わうシリーズは、韓愈の「圬者王承福伝」(明治書院の「新書漢文大系30・唐宋八大家文読本<韓愈>」)の2回目です。左官職人である王承福は生計を立てるためにその職業を選んだのですが、一人分の家賃と食費が賄えればいいのであって、余分なお金は身につけないのがポリシー。将来の貯蓄に回すこともせずに恵まれない人々に寄付をするという。どうしてなのでしょうか?家族はいないのでしょうか?それもどうしてでしょうか?はてなはてなの連続で韓愈も俄かには彼の真意を量りあぐねています。王さんはさらに続けて人間の「生活」や「労働」に関する、彼なりの哲学を語り始めます。

【2】
又曰わく、1)ゾクは稼して生ずる者なり。布と2)ハクとの若きは、必ず3)サンセキして後に成る者なり。其の他生を養う所以の具は、皆人力を待って後に完きなり。吾皆之に頼る。然れども人は徧(あま)ねく為す可からず。宜なるかな、各々其の能を致して以て相生ずること。故に君は吾をア)めて生ずる所以の者なり。而うして百官は君の化を承くる者なり。任に大小有り、惟其の能くする所のままなること、イ)器皿の若し。食らうて其の事を怠れば、必ず天のウ)有り。故に吾敢て一日も鏝をエ)てて以て嬉せず。夫れ鏝は能くし易くして力む可し。又誠に功有りて、其のオ)を取る。労すと雖も愧ずる無く、吾が心安んず。夫れ力は強めて功有り易きなり。心は強めて智有り難きなり。力を用うる者は人に使われ、心を用うる者は人を使うも、亦其の宜しきなり。吾特に其の為し易くして愧ずること無き者を択んで取るなり。

1)「ゾク」=粟。穀物の総称。稲やキビなどの外皮がついたままの実。訓読みは「あわ」。転じて、小さいものに譬える。粟散(ゾクサン=粟をまき散らしたように小さいものがたくさん散らばる)、粟散国(ゾクサンコク=日本のような小国)、粟帛(ゾクハク=アワと絹織物、税金の代表物)、粟膚(ゾクフ=寒さ、恐ろしさのため、表面にあわ粒状のものができた皮膚、鳥肌)、粟米(ゾクベイ=アワと米、主食となる穀物のこと)。粟散辺地(ゾクサンヘンチ=小国)、滄海一粟(ソウカイのイチゾク=ちっぽけな存在)。

2)「ハク」=帛。きぬ、白い絹布、転じて絹織物。裂帛(レッパク、ハクをさく=女性の悲鳴、金切り声、ホトトギスの鳴き声)、帛書(ハクショ=絹に書かれた文書や書籍、古代には木や竹や紙のほか、保存性の高い絹も筆写する素材となった)、帛布(ハクフ=絹と布)、帛紗(フクサ=袱紗)、金帛(キンパク=お金と絹織物、金持ちの所有財産の代表物)、垂名竹帛(スイメイチクハク=後世に名を残す功績、竹帛之功=チクハクのコウ=)。

3)「サンセキ」=蚕績。カイコを飼い、糸をつむぐ。「蚕」は「かいこ」。「績」は「つむ・ぐ」の表外訓みがあり。蚕月(サンゲツ=陰暦四月)、蚕婦(サンプ=カイコを飼う女性、蚕姑=サンコ=、蚕女=サンジョ=)、蚕室(サンシツ=司馬遷のように宮刑に処せられた者が閉じ込められる部屋のこと、カイコを育てる部屋のように風が入らず蒸し暑いことから云う)。

ア)「理め」=おさ・め。「理める」は「おさめる」。きちんと筋道を立てる、筋を通して整える。表外訓みです。この意味での「おさめる」はほかに、「斂める、紀める、経める、釐める」などがある。

イ)「器皿」=キベイ。食べ物を盛るうつわ、食器類。「ふせざら」である「皿」を「ベイ」と読むのは音表外訓み。「盂」は「まるくくぼんだ大皿」、「盤」は「平らに開いた大皿、おおざら」。

ウ)「殃」=わざわい。さわり・たたりなど、順調な進行を抑えて止める邪魔なもの。「わざわいする」とも訓む。殃咎(オウキュウ=わざわいととがめ)、禍殃(カオウ=わざわい、災難)=殃禍(オウカ)=殃害(オウガイ)、殃及池魚(わざわいチギョにおよぶ=池魚之殃=チギョのわざわい、罪もないのに巻き添えにあうこと、傍杖を食らう)。

エ)「舎て」=す・て。「舎てる」は「すてる」。捨てる。表外訓み。「すてる」はほかに、「棄てる、捐てる、委てる、拌てる、撤てる、擲てる、遺てる」がある。「おく」とも訓む。この関連では「舎奠」(セキテン=学校で孔子を祀る祭り)、舎采(セキサイ=同)がある。

オ)「直」=あたい。その物や仕事に相当するねだん、価値のこと。「値」に当てた用法。表外訓みです。ここは労働の対価である賃金のことを指す。

まず王さんが言うには、米穀、布帛といった生活の基礎となるものは人間がつくるものだが、一人の力ですべてを形成することはできない。だから、それぞれが得意なことを持ち寄って助け合って生活するのである。君主が人民を治めるのもそうした大前提があり、いわば、政府の役割とは君主の意を受けてさまざまな人民を統治することだ。

「食らうて其の事を怠れば、必ず天の殃有り」というのは、食うばかりで働かない者に下る天罰を言っている(ここのくだりは後々再び登場します)。だから、王さんは左官の仕事を択んだという。なぜなら、左官は上手にできる。努力すればもっと上手になる。仕事の結果もある上に、その労賃も手に入る。苦労はあるが恥じることは何もない。心は恬らかである。彼はこのように左官の仕事をしていてよかったことを滔滔と述べた後、肉体労働という物の利点を知的労働と対比しながら説明します。

「夫れ力は強めて功有り易きなり」
→肉体労働は努力すれば仕事の成果は得やすい。

「心は強めて智有り難きなり」
→心の働きは努力しても必ずしも知力を得られるとは限らない。

「力を用うる者は人に使われ、心を用うる者は人を使うも、亦其の宜しきなり」
→労働力のある者は人から使役され、心の力のある者は人を使役するのは、至極普通のことで特に問題があることではない。

「吾特に其の為し易くして愧ずること無き者を択んで取るなり」
→私が左官という肉体労働を択んだのも、努力すれば結果がより得られやすいと思ったからだ。

明治書院(P48)によれば、「世の中が、適材適所の人材登用によって、始めて成り立っているものであることを主張する。左官は鏝を一日も手放さない。職分を全うすることによって、その人の存在価値を言う…(中略)、『孟子』滕文公上『心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる』という言葉を下敷きとして『人に使われ』る立場に自分が身をおいていると言う」とあります。

即ち彼は自分の持ち分を弁えている。彼の労働観は現代でも立派に通用すると思います。人それぞれに向き不向き、得手不得手があって、全員が同じことはできないし、仮に同じことをやってしまっては寧ろ偏ってしまい、複層的な厚みのある健全な社会は成り立たない。いろんな人がいて、その多様性を認め合ってこそ、誰もが幸福を手に入ることのできる「社会的な空間」たりうるのです。

だから、肉体労働者がいて、知的労働者がいて、どちらもその意味では対等でそれぞれの持ち分を持ち寄って社会に貢献し、それがひいては個人の幸せにもつながるからです。仕事に貴賤はない。使う、使われるといった上下関係ではない。ただし、王さんが言うように努力を怠ってはいけない。これこそが社会の発展の源泉でしょうからね。ここまではいい。韓愈もその考えに何ら異論はないはずです。ところが……どこかが違う?
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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