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子猿を追い掛ける母猿の「断腸の思い」=世説新語

主に三国時代や晋代の人物の逸話を玩わう「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)シリーズも残すところ、あと数回でしょうか。もうしばらくだけお付き合いください。本日は「桓温」(カンオン)の逸話。といっても、“主役”は別にいて、直接桓温の言動がどうのこうのではありません。今回と次回の二回シリーズで。まずは、「断腸」(腸を断つ)の出典となった逸話から。冒頭にある「三峡」というのは長江(揚子江)中流の難所のこと。辺りは山深く、悲しげな声で鳴く猿が多い所です。

桓公蜀に入り、三峡中に至るに、部伍の中に猨子を得る者有り。其の母岸に縁りて1)アイゴウし、行くこと百余里にして去らず。遂にア)りて船に上り、至れば便即ち絶ゆ。其の腹中を破り視れば、イ)皆ウ)寸寸に絶えたり。公之を聞きて、怒り、命じて其の人をエ)けしむ。(黜免篇2)

1)「アイゴウ」=哀号。かなしみ、泣きさけぶこと。哀叫(アイキョウ)ともいう。哀矜(アイキョウ)なら、「同情する、不憫に思う」という意。

ア)「跳り」=おど・り。「跳る」は「おどる」。表外訓みです。はねること、おどりあがること。跳梁跋扈(チョウリョウバッコ)という基本四字熟語があります。跳踉(チョウリョウ=ちょろちょろとはねまわる、足が乱れてよろめく)は意味が微妙に違うので要注意。跳丸(チョウガン=月日が過ぎるのが早い)、跳沫(チョウマツ=水しぶきが跳ねる)、跳盪(チョウトウ=敵のすきを見ておどり出し、敵陣を攻撃して打ち負かすこと)。

イ)「腸」=はらわた。表外訓み。五臓六腑の一つ。「わた」ともいう。腸肚(チョウト=心の中)は必須です。

ウ)「寸寸」=ずたずた。スンスンと読んでもOK。寸寸断裂(スンスンダンレツ=ずたずたに引き裂くこと)。

エ)「黜け」=しりぞ・け。「黜ける」は「しりぞける」。退ける、罷免する。音読みは「チュツ」。篇名にあるように「黜免」(チュツメン)=黜棄(チュツキ)=黜斥(チュツセキ)=黜放(チュツホウ)=黜廃(チュツハイ)=黜遣(チュツケン)はいずれも、官職を外し外へしりぞけること、免職すること。黜遠(チュツエン=遠くに追いやる)、黜責(チュツセキ=しりぞけて責める)、黜陟(チュツチョク=功績のないものをしりそけ、功績のある者を昇官させる)=黜升(チュツショウ)、黜罰(チュツバツ=無能の役人を押し退けて罰する)、黜否(チュツヒ=無能の者をしりぞける)。「しりぞける」はほかに、「斥ける、屛ける、却ける、卻ける、擯ける、貶ける、鐫ける、闢ける、蠖ける、逡ける」など。

【解釈】 桓公(桓温)が蜀に攻め入り、三峡までやってくると、部隊の中に、子猿をつかまえた者がいた。その母猿が岸を伝いながら悲しげに叫び、百里あまり行っても、まだ立ち去ろうとしない。とうとう船に飛び込んでくると、そのまま息が絶えた。その腹を裂いてみると、腸がずたずたにちぎれていた。公はこの話を聞いて怒り、その男を罷免させた。

所謂「断腸の思い」として知られる故事ですね。

明治書院によると、桓温(312~373)は東晋の軍隊を掌握し、穆帝の永和三年(347)、蜀に進攻して成漢国を滅ぼし、その地位を確固たるものとすることに成功し、「この逸話はその蜀進攻の折のものであろう」とあります。長江(揚子江)の三峡は、古来猿が多くいたらしく、その鳴き声が旅愁を一層掻き立て、詩人たちがしばしば詩の題材としています。その代表格として最も人口に膾炙しているのが李白の「早に白帝城を発す」(七言絶句)であろう、と紹介しています。

朝辞白帝彩雲間   朝に辞す白帝彩雲の間
千里江陵一日還   千里の江陵 一日にして還る
両岸□□啼不住   両岸のエンセイ 啼き住まず
軽舟已過万重山   軽舟 已に過ぐ 万重の山

この詩のpunch-lineとも言うべき「エンセイ」を一応問題にしました。簡単ですね。正解は「猿声」。

解釈は石川忠久氏の「漢詩鑑賞事典」(講談社学術文庫、P189~192)に拠りましょう。

朝早く朝焼けの雲のたなびく白帝城に別れを告げて、
三峡を下ると、千里もの距離がある江陵に、たった一日で着いてしまう。
切り立つ両岸では、群れを作す猿の鳴き声が絶え間なく続いている。その鳴き声が続いているうちに、
私の乗った小船は、幾重にも重なった山々の間を通り抜けて行く。

その「鑑賞」によると、「古来李白の傑作とされ、清の王士禎(オウシテイ)は唐代七絶の随一と称している。…(中略)…第三句、この詩の大きなポイントがここにある。それは猿のなき声である。…中国では猿の声を聞くと、悲しくて腸が断ち切れるというような表現の詩が多くみうけられる。謝霊運の詩に『噭噭(キョウキョウ)として夜猿啼く』という句があり、噭噭という猿のなき声の形容からみても、キーッ、ケォーッとつんざくようななき声がわかろう。日本の猿のキャッキャッというなき方とは違うようである。この猿の声が両岸のこだまを呼び、蜀の地よサヨナラという郷愁や感傷をよびおこしている。つまり、ここから先は中国の中心部へ出ていくことへの感傷が、猿声によって効果をあげている」と解説されています。

続けて同書の「補説」には、「猿が悲しい動物の例証として、『断腸』の語がある。『断腸』とは腸(はらわた)がちぎれるほど悲しむことをいう。『世説新語』黜免篇からでた故事成語である。それによると、『桓温将軍が三峡にさしかかった時、部下の一人が子猿を捕らえた。母猿は岸で悲しげになき、百余里もついて離れず、最後には舟の上に飛びこみ、そのまま息たえた。その腹をさいてみると、腸はズタズタに断ち切れていた』とある」。

 「なお、日本の俳句にもこの詩に着想を得たと思われるものがある」として榎本其角の「声かれて猿の歯白し峰の月」を載せています。

明治書院によると、「李白の詩は、桓温が蜀に進攻してから400年ほど後の、唐の乾元二年(759)頃に作られたものと推定されるが、この時点ではまだ三峡の両岸に猿が鳴きやまず、かしましいほどであったことがわかる。しかしながら現在は、種々の環境の変化からか、その猿声を耳にすることは殆どない」とあります。

肝心の桓温ですが、「この蜀進攻の後、征西大将軍に任ぜられ、永和十二年にはかつての晋の都であった洛陽を奪回して更に自己の地位を強固なものとした。そして、帝位にあった司馬奕を廃位に追い込んで、かつて自分を牽制しようとした司馬(イク)を簡文帝として即位させ、やがて自らが東晋王朝の帝位を奪うことを企図したが、果たさず、病死した」(明治書院P130)と結んでいます。

蛇足ですが、どうして死んだ母猿の腹を裂いてみたのでしょうかね?不審死として行う司法解剖じゃあるまいしね。明らかに外見上、特異な死であったのでしょうか。あるいは母猿が百余里も追いかけてきたその執念に対する畏敬の念に近いものがそうさせたのか。子猿を捕らえたという部下の話を聞いて、桓温が即座に左遷したのも、そうした執念に起因する「祟り」を恐れたからかもしれません。「断腸の思い」とはことほど左様に恐ろしいものかもしれません。ちなみに、「普天間」移設問題で社民党の福島瑞穂が啖呵を切って見せた「重大な決意」とは、この母猿の「断腸の思い」とは似て非なるものですがね…。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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