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王導を見習え!いつまでも「楚囚」じゃないぞ=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系」21)から、本日は「王導」(276~339)の三つの逸話を取り上げます。王導は西晋から東晋の宰相。瑯邪臨沂(ロウヤリンキ、現在の山東省臨沂県)王氏の一族。東晋の初代皇帝元帝となった瑯邪王司馬睿と共に江南の地に入り、建鄴に東晋王朝の基礎を築くに際して多大な功績があった人物です。元帝に「吾の蕭何(ショウカ=漢を建国した劉邦を補佐した功臣)なり」(「晋書」王導伝、「蒙求」巻上「王導公忠」)と言わしめたほどでした。

「王導」①

王丞相司空を拝するや、桓廷尉1)リョウケイを作し、2)カックンして杖をア)き、路辺に之を窺い、歎じて曰わく、人は阿竜超えたりと言う、阿竜故より自ら超えたり、と。覚えず台門に至る。(企羨篇1)

1)「リョウケイ」=両髻。耳の両脇を結んだ髪型。「髻」は「もとどり」「たぶさ」。

2)「カックン」=葛裙。粗末な葛でつくったスカート様のもすそ。「裙」は「も、もすそ」。「カックン」って言ったら、「膝かっくん」が浮かんじゃいますよねぇ~。

ア)「策き」=つ・き。「策く」は「つえつ・く」とも訓む。表外訓みですが聊か特殊か。「策」は「つえ」「ふみ」「みち」とも訓む。策杖(サクジョウ=つえ、つえをつく)。

【解釈】 王丞相(王導)が司空(三公の一つ、土木工事をつかさどる)を拝命した時、桓廷尉(桓彝)は髪を二つのもとどりに結い、葛布のはかまをつけて杖をつき、道端で彼の様子を窺うと、感嘆して言った。「人は阿竜(王導)のことを頭抜けた人物と言うが、なるほど阿竜は頭抜けているわい」。そして知らず知らずに役所の門までついていってしまった。

このエピソードに出てくる桓彝(カンイ)は王導と同じく元帝に仕えた軍人ですが、乞食風に変装してまでその為人を確かめ上げた王導には一目も二目も置いたようです。ただ、残念ながら、王導のどういった点が具体的に「阿竜超えたり」という根拠となったのかは不明です。例えば、次の逸話でしょうか?

「王導」②。元帝の信任が厚かったことを示すエピソードです。

元帝、正会に、王丞相を引いて御牀に登らしむ。王公固辞す。中宗之を引くことイ)彌々ウ)なり。王公曰わく、太陽をして万物とエ)を同じうせしむれば、臣下は何を以て3)センギョウせん。(寵礼篇1)

3)「センギョウ」=瞻仰。あおぎみること、あおぎたっとぶこと。「瞻」は「みる」「みあげる」。対義語は「瞰」(みおろす)。瞻望咨嗟(センボウシサ=欧陽脩の文が出典)は頻出四字熟語です。瞻前(センゼン=将来をよく考えること)、瞻慕(センボ=人を尊敬し慕うこと)。

イ)「彌々」=いよいよ。「弥」の旧字体。遠く伸びてもいつまでも程度が衰えない意。ますます。愈、逾が同義語。

ウ)「苦」=ねんごろ。表外訓みですが漸特殊か。「はなはだ」との訓みもあるので、こちらからの派生と思われます。「しつこい、しきりに」といった意味に近いでしょう。苦求(クキュウ=しつこく求める)、苦留(クリュウ=無理に引き留める)。

エ)「暉」=キ、ひかり。「暉」は「ひかり」。夕暉(セッキ=夕陽)、春暉(シュンキ=春の日、転じて子を育む親の恩)、寸草春暉(スンソウシュンキ)は必須です。

【解釈】 元帝(司馬睿)は、元旦の儀式の時、王丞相(王導)を促して、玉座にのぼらせようとした。王公(王導)は固く固辞したが、中宗(司馬睿)はますます熱心に促した。王公は言った。「もし太陽が万物と輝きをひとしくしたならば、臣下はどうして仰ぎ見ましょうぞ」。

正会とは「元正の嘉会の意味で、陰暦一月一日に臣下が参内して行われた儀式」のことです。

「王導」③。西晋時代から東晋王朝を起こす“俠気”の空気を伝えるとともに、王導が硬骨漢であることを示すエピソードです。周侯は周(シュウギ)で、王導と並んで元帝の股肱の臣とも言うべき人物。

過江の諸人、4)ビジツに至る毎に、輙ち相邀えて新亭に出で、オ)を藉きて飲宴す。周侯、5)チュウザにして歎じて曰わく、風景は殊ならざれども、正に自ら山河の異なる有り、と。皆相視て涙を流す。唯だ王丞相のみ愀然(シュウゼン=顔をしかめるさま)として色を変じて曰わく、当に共に力を王室にカ)せ、神州を克復すべし。何ぞ6)ソシュウと作りて相対するに至らんや、と。(言語篇31)

4)「ビジツ」=美日。晴れた日。

5)「チュウザ」=中坐。大勢の人が座っている中で。日本では「会合の途中で退席する」意ですが、ここは意味的には通らないでしょう。

6)「ソシュウ」=楚囚。とらわれた楚の人。転じて、とらわれて異郷にある人。この逸話の肝の言葉です。楚の鍾儀が晋にとらわれてもなお母国の冠をつけて母国を忘れなかったという故事があります。

オ)「卉」=くさ。草と同義。音読みは「キ」。草卉(ソウキ)、嘉卉(カキ)、花卉(カキ)。卉衣(キイ=草の繊維で織った衣服。夷狄の服装。)=卉服、卉裳ともいう。

カ)「勠せ」=あわ・せ。「勠せる」は「あわ・せる」。音読みは「リク」。勠力(リクリョク=力を合わせること)、戮力協心(リクリョクキョウシン)。「戮」も「あわせる」という意味あるが、こちらには「ころす」もある。戮殺(リクサツ)=殺戮(サツリク)。


【解釈】 江南の地に移って来た人々は、うららかな日になると連れだって新亭に出掛け、草の上で酒盛りをした。周侯は酒宴の半ばで嘆いて言った。「風の色、日の光は同じようだが、まさしく山河は異なっている」。皆顔を合わせて涙を流した。ところが王丞相だけは色をなして言った。「今は共に王室に力を尽くして、中原を回復しなければならないはずだ。どうして楚囚の真似をして顔を見合わせているばかりでよかろうか」。

明治書院によると、「楚囚」に関する「春秋左氏伝」成公九年に載る話を紹介しています。

 楚の鍾儀は晋に拿らえられていた。晋の景公が武器庫を見回った時、拘束された鍾儀を見て「あの楚の冠を被って縛られている者は誰であるか」と左右の者にたずねた。役人が「楚の囚人です」と答えたので、景公は縄を解かせて「楚で何の職にあったか」と聞くと、鍾儀は「音楽師です」と答えた。そこで景公が琴を弾かせたところ、鍾儀は楚の音楽を奏でたのである。

この話が基となって「楚囚」が、敵地にあっても郷里を忘れぬ望郷の人を指すようになったとあります。成語林によると、「楚囚其の冠を纓す」(ソシュウそのカンをエイす)という成句も文天祥「正気歌」にあると載っています。鍾儀は音楽を奏でるだけでなく、楚の冠を身につけていたのです。

ところが、王導が祖国を逃げ出して宴会の場で「楚囚」と用いたのは、故郷をただ懐かしみ、愁いに浸るだけでは何の解決にもならないと、いささかネガティブなニュアンスを醸しています。愛国心ですね。国を強く思う気持ち。国民として国のために何ができるか?戦乱の世に在っては命も惜しまない姿なんでしょうが、翻って現代社会で国民は国のために何ができるのか?

鳩山政権が早くも正念場を迎えています。国民との「蜜月」の期間はもうそろそろ終わりです。国民に希望を与え、国民を主体的に動かすための「夢」をそろそろ描きださないと、日本という国が世界の潮流の中で存在感を失い埋没してしまいかねませんよ。普天間基地移設問題などごときでごたごたを見せているのは情ない。もっと国の主体性を強く打ち出してほしい。日米安保なんてどうでもいいとは言わないが、こんなもんがアキレス腱である政権ならもういらないよ。アメリカの「楚囚」じゃないんだから。王導のように、もっと毅然とした態度を見せるべきではないでしょうか。
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2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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