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吝嗇家を演じた?王戎の真の狙いとは…=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)の「竹林の七賢」シリーズも最後の一人となりました。「王戎」の三つの逸話を紹介しましょう。一番目は勇敢な子供時代を描いていて微笑ましいのですが、次の二つは、絵に描いたような「守銭奴、吝嗇、しみったれ、ケチ」。この“ギャップ”をどう塡めたらいいのでしょうか?

魏の明帝、宣武場上に於て、虎の爪牙を断ち、百姓の之を観るをア)す。王戎七歳なるも、亦往きて看る。虎イ)をウ)いエ)に1)じてオ)え、其の声地を震す。観る者2)ヘキエキ3)テンプせざるは無し。戎4)タンゼンとして動ぜず、了に恐るる色無し。(雅量篇5)

1)「ヨじて」=攀じて。「攀じる」は「よ・じる」。腹をつけて体をそらして木や岩を登る。音読みは「ハン」。攀轅臥轍(ハンエンガテツ=任地を離れる地方長官に対し民衆が其の別れを惜しむこと)¬攀恋(ハンレン)=攀慕(ハンボ)、攀桂(ハンケイ=科挙合格、立身出世)、攀竜附鳳(ハンリョウフホウ=家来がすぐれた君主によって功績を立てること)。

2)「ヘキエキ」=辟易。横に避け、体を低めて退却するさま。のち、転じて閉口するという意の方が一般的になりました。

3)「テンプ」=顚仆。さかさにころげる。顚頓(テントン)ともいう。「顚」も「仆」も「たおれる」。「たおれる」はほかに、「斃れる、僵れる、殪れる、殪れる、沛れる、蹶れる」。

4)「タンゼン」=湛然。落ち着いて平然として。坦然、澹然、赧然、端然と区別しましょう。

ア)「縦す」=ゆる・す。表外訓み。「ほしいまま」「たとえ」も忘れずに。。。

イ)「間」=すき。これも表外訓み。間隙(カンゲキ)を想起して。。。

ウ)「承い」=うかが・い。またまた表外訓み。稍難問か。

エ)「欄」=おり。またまたまた表外訓み。欄牢(ランロウ=牛や馬を入れておくおり。馬小屋や牛小屋のこと)、牛欄(ギュウラン=牛小屋)。

オ)「吼え」=ほ・え。「吼える」は「ほ・える」。音読みは「ク、コウ」。吼号(コウゴウ=大声をあげて叫ぶ)、吼天氏(コウテンシ=風の別名)、吼怒(コウド=怒り大声で叫ぶ)、獅子吼(シシク=釈迦の説法)=獅吼(シク、シコウ)。「ほえる」はほかに「吠える、咆える、哮える、嘯える」。

【解釈】 魏の明帝(曹叡)は、宣武場で虎の爪を切らせ、人民に見物させた。時に王戎は七歳であったが、それを見に出かけた。虎はすきを窺い、おりによじ登って吠えたてたが、その声は地を揺るがすようであった。見物していた人々は、みなたじろいで倒れ伏したが、王戎は平然として落ち着き払い、少しも恐れる様子がなかった。

司徒王戎、既に貴くして且つ富めり。区宅4)ドウボク、5)コウデン水堆(スイタイ=粉ひき碓)の属、洛下に比無し。契疎(証文の整理)6)オウショウ、カ)に夫人と燭下にキ)を散じて算計す。(倹嗇篇3)

4)「ドウボク」=僮牧。召使いと牧童。「僮僕」とは少し意味が異なるので要注意。

5)「コウデン」=膏田。土地が肥えた田圃。肥田ヒデンともいう。

6)「オウショウ」=鞅掌。手一杯に仕事を受けていそがしいこと。「鞅」は「むながい」とも訓む。

カ)「毎に」=つね・に。表外訓み。

キ)「籌」=かずとり。数を数える時に用いる細長い竹製の棒。音読みは「チュウ」。籌算(チュウサン=かずとり、計画)、籌商(チュウショウ=集まって策を相談する)。

【解釈】 司徒王戎は身分が高くしかも金持ちであった。その所有する家屋敷・下男・牧童・ゆたかな田畑・粉ひき碓のたぐいは洛陽でならぶものがなかった。証文を整理する仕事が多く、いつも夫人と燭火の下で。かずとり棒を散乱させて計算していた。

王戎に好き李有り。常に之を売りて、人の其の種を得るを恐れ、恒に其のク)にケ)てり。(倹嗇4)

ク)「核」=さね。表外訓み。種のこと。核桃(カクトウ=クルミ、胡桃)。

ケ)「鑽て」=うが・て。「鑽つ」は「うが・つ」。錐などで穴をあけること。音読みは「サン」。鑽鑿(サンサク=あなをあける)、鑽灼(サンシャク=深く研究すること)、鑽燧(サンスイ=きりもみして火をおこす)、鑽味(サンミ=中まで入ってあじわう)、鑽礪(サンレイ=研鑽)=鑽摩サンマ、鑽研サンケン、鑽仰(サンギョウ=徳のある人を尊敬する)、鑽営(サンエイ=人にうまく取り入ること)。「きる」の訓みもある。

【解釈】 王戎のところにいい李の木があった。王戎はいつもこれを売っていたが、人がその種を手に入れるのを心配して、かならずその核に錐で穴をあけておいた。

冒頭にも書きましたが、七歳の王戎と大人の王戎のギャップに戸惑いを禁じ得ません。

明治書院の解説によります。

「王戎は、幼少の折から神童の誉れが高かった。雅量篇4には、七歳の王戎が道ばたに枝も折れんばかりに実をつけている李を見て、『木が道ばたにあるのに実がたくさんついている。これは苦い李に違いない』といい、周囲にいた子供が食べてみると本当にそうであったという逸話が載る」。

これは「道傍苦李」(ドウボウのクリ)という四字熟語にもなっています。人から見捨てられ、見向きもされないもののことです。「クリ」は「栗」ではないので念のため。「にがいすもも」です。

獰猛な虎にも動じなかった逸話に施された劉孝標の注によりますと、「虎を見ても平然としていた王戎少年の様子を明帝曹叡が見て、左右の者にその姓名を尋ねさせ、これを世にも珍しい子供だと思ったという記事が紹介されている」ともあります。

ところが、二番目と三番目の逸話に描かれている王戎は金持ちであるにもかかわらず、せこい生活ぶり。金貸しでもやっていたんでしょうか。夫人と一緒に蠟燭の火をともしながら夜遅くまで証文の整理に追われています。そして、苦い李に違いないと見破った王戎でしたが、自分の庭になっている甘い李はいい値段で売れました。ところが、種には穴をあけておいた。なぜなら、実を食べたあとで種を植えて李を栽培されるのがいやだったからでしょう。「せこっ」の一語に尽きますね。

解説によりますと、「王戎が吝嗇で、守銭奴的な性質を有していたことは『晋書』王戎伝にも記すところであり、当時からよく知られていた事実らしい」とあります。憖、竹林の七賢に名を連ねているだけに聊か違和感を覚えますね。浮き世離れした隠者のイメージからはあまりにも懸け離れている。むしろ、浮き世そのものではないですかね。どちらが本当の王戎なのでしょうか。

「雅量」というのは、上品な人柄、宏量という意味(大酒飲みもあるがここは取らない)。これに対し「倹嗇」(ケンショク)というのは、倹約して物惜しみすること、「倹吝」(ケンリン)とも言います。この両極端に位置すると言ってもいい二つの篇にそれぞれ逸話を残していることになります。詰まる所、どちらも王戎なのでしょう。

七歳にして明帝の覚えが目出度かったのはまさに神童、早熟だったのでしょうか。その彼が年を重ねると金に慢心していく。倹嗇篇にある九つの逸話のうち四つが王戎のものだとされます。竹林の七賢の中では最も若い彼は、阮籍や嵆康らと付き合う中で隠者の理想に近づいたはずです。ところが、先輩たちがこの世を去っていくのを目の当りにして変化していく。讒言に遭い心ならずも死んでいった人もいる。明哲保身という言葉を再び想起せざるを得ません。

もしかしたら王戎の吝嗇ぶりは自分の身を守るための武器だったのかも知れません。「佯狂」という言葉もありますが、吝嗇家を演じることでこの世を長らえることができた――。あくまで迂生の勝手な仮説ですが。。。。んでも、種に穴をあけて李を売るという、この合理的な発想はやはり隠者のイメージには合わないですね。どうせなら「種なし李」でも開発すればよかったのに。。。
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2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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