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父親曹操とその息子曹丕・曹彰兄弟の微妙な関係=世説新語

本日の「世説新語」は曹丕(ソウヒ)。魏の姦賊・曹操の息子です。明治書院「新書漢文大系21」(長尾直茂編)から2話を紹介します。文中の文帝が曹丕です。

魏の武帝崩じ、文帝悉く武帝の宮人を取りて自ら侍らしむ。帝病困なるに及んで、卞后出でて疾を看る。太后戸に入り、直侍を見るに、並びに是れ昔日愛幸せし所の者なり。太后問う、何れの時来りしや、と。云う、正に1)フクハクの時に過る、と。因って復たア)まずして歎じて曰わく、2)コウソも汝が余りを食らわじ。死は故より応に爾るべし、と。3)サンリョウに至るまで、亦竟に臨せず。(賢媛篇4)

1)「フクハク」=伏魄。死んだ直後で魄(たましい)がまだ宿っている時、つまり、死んでまだ日が浅い時のことで、呼び出せばまだ生き返る可能性がある時を指すか。辞書には掲載がない難しい言葉です。書き取り問題は難問過ぎました。読み問題で。

2)「コウソ」=狗鼠。いぬやねずみなど賤しい動物、転じて賤しい人を指す。「クソ」とも読む。狗尾草(えのころぐさ=莠)、狗母魚(えそ=鱠)など熟字訓が多い。

3)「山陵」=天子や皇后の墓。「みささぎ」とも。

ア)「前まず」=すす・まず。「前む」は表外訓みで「すす・む」。

【解釈】 魏の武帝(曹操)が崩じたとき、子の文帝(曹丕)は、武帝の宮女をみな自分のものにして、はべらせた。文帝の病気が重くなったとき、母の卞后が見舞いに行った。彼女が部屋に入ってみると、とのいの侍女はみな昔、先帝が寵愛した者たちだった。太后が「いつここに来たのじゃ」と問うと、宮女らは「おかくれあそばされたすぐ後で参りました」という。そこで太后はそれ以上進まず、嘆息しながら言った。「犬やネズミでもお前の食べかすは食らうまい。死ぬのは当然じゃ」。文帝の大葬にもついに哭泣しようとはされなかった。

魏の文帝、弟任城王の4)ギョウソウなるを忌む。卞太后のイ)に在りて、共に囲棊し、並びにウ)を噉(くら)うに因り、文帝は毒を以てエ)をオ)棗蔕の中に置き、自ら食らう可き者を選んで進む、王悟らず、遂に雑えて之を進む。既に毒に中たるや太后水を索めて之を救わんとするも、帝預じめ左右に勅して缾罐(ヘイカン=つるべの瓶)をカ)たしむれば、太后5)トセンして井にキ)けども、以て汲む無く、6)シュユにして遂に7)シュッせり。復た東阿を害せんと欲するや、太后曰わく、汝已に我が任城を殺せり、復た我が東阿を殺すことを得ざれ、と。(尤悔篇1)

4)「ギョウソウ」=驍壮。強くて勇ましい、また、そのような人。驍勇・驍雄ともいう。「驍」は「つよい」とも訓む。驍果(ギョウカ=強くてすぐれた決断力がある)、驍悍(ギョウカン=気性が荒くて強い)、驍騎(ギョウキ=強い騎兵、将軍の名称の一つ・驍騎将軍)、驍将(ギョウショウ=勇ましく強い大将)、驍騰(ギョウトウ=背が高く体重の軽い馬)、驍名(ギョウメイ=武勇の評判)、驍猛(ギョウモウ=強くて荒々しい)。

5)「トセン」=徒跣。はだしで歩くこと、また、すあしのこと。徒践ともいう。「跣」は「はだし」。

6)「シュユ」=須臾。ほんの短い間に、ごくわずかの時間がたって。たちまちにして。

7)「シュッせり」=卒せり。身分の高い人が死ぬこと、特に、大夫の死。「シュツ」は表外の音読みであることに注意しましょう。読みでも書きでも出そうです。「年を卒えた」と表現した忌言葉です。

イ)「閤」=コウ。夫人の部屋、御殿、宮殿。閨閤(ケイコウ=ねや)。

ウ)「棗」=なつめ。音読みは「ソウ」↓オ)を参照。棗栗(ソウリツ=女性が人を訪ねる際に持っていく手土産)、棗本(ソウホン=版木で作った書物)。

エ)「諸」=これ。表外訓み。

オ)「棗蔕」=ソウタイ。なつめのへた。「蔕」は「へた」。「うてな」とも訓む。蔕芥(タイカイ=小さなとげとごみ、転じてちょっとした故障、差し障り)=芥蔕とも。

カ)「毀たしむ」=こぼ・たしむ。「毀つ」は「こぼつ」。こわすこと。「やぶれる」「やぶる」「そしる」「こわれる」「こわす」とも訓む。毀損(キソン=物を傷つけこわす)、毀傷(キショウ=いため傷つける)、毀壊(キカイ=事物を壊し崩す)。

キ)「趨け」=おもむ・け。「趨く」は「おもむく」。音読みは「スウ」「ソク」。趨闕(スウケツ=朝廷に行く)、趨舎(スウシャ=出処進退)、趨翔(スウショウ=立ち居振る舞い)、趨蹌(スウソウ=素早く走るさま)、趨庭(スウテイ=家庭で子が父の教えをうけること)、趨拝(スウハイ=出かけて行って高貴な人に逢うこと)、趨織(ソクショク=コオロギ)=趨趨、趨数(ソクソク=せわしげでわずらわしいさま)。

【解釈】 魏の文帝(曹丕)は弟の任城王(曹彰)が勇猛であるのを憎んでいた。そこで、母の卞太后の部屋で一緒に碁を打ち、ともにナツメを食べる折、文帝は毒をナツメのへたの中に入れておいて、自分は食べてもよい物を選んで口にした。王はそれとも知らず、毒のある物、ない物、ともに口にしてしまった。毒が回ってきたので、太后は水を持ってきて手当てをしようとしたが、帝はあらかじめ左右に命じてつるべを壊させておいたので、太后ははだしで井戸へ走って行ったが、水を汲むことはできなかった。しばらくして、ついに王の息は絶えた。帝は、次に東阿王(曹植)を殺そうとした。太后は言った。「おまえはもう私の任城王を殺した。この上、私の東阿王までも殺すことはまかりならぬ」。

文帝曹丕(187~226)は「三国志」魏書・文帝紀には「文帝、天資の文藻、筆を下せば章を成し、博聞彊識、才藝兼ね該う」と記されているように、英邁な君主でした。ただし、上記二つの挿話は才能に溢れる弟たちをいびり殺して帝位に就いた腹黒い兄というイメージが付き纏います。三国志ファンの間ではどうしても敵役として通っていることが多いでしょう。仲が良くはなかったが父曹操の血を受け継いだとも言えるでしょうか。

二つ目の挿話に出てくる曹彰(?~223)は母を同じくする曹丕の弟ですが、武勇に優れ、父曹操からは「黄鬚児」(きひげ)と呼ばれて大層可愛がられました。そのためか、帝位を伺う野心を持っていたのは確かで「三国志」魏書・任城威王彰伝の裴松之注に引用された「魏氏春秋」には次のように書かれています。

 以前、曹彰は王の印璽と綬のことをたずね、謀反しようとする気持ちがあった。そのため、来朝して も文帝曹丕に会うことができなかった。曹彰は怒りと恐れの余り、急に歿した。

このエピソードは曹彰が洛陽に上京し、病気に罹って急に公邸で死去したことの裏話として紹介されています。この最後の「怒りと恐れの余り、急に歿した」という件が、曹丕毒殺説のような憶説を生む根拠となっているようです。あくまで現実には噂のレベルを出ないのですが、曹彰の死には不自然な印象が強いのは確かのようで、三国志ファンの間では悪役のヒーロー曹丕、武勇のヒーロー曹彰のイメージが確立されています。
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