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傷心の王維も陶淵明に傾倒へ=漢詩学習

本日は王維の「菩提寺の禁に、裴迪来りて相い看て説く。逆賊等凝碧池上に音楽を作す。供奉人等声を挙ぐるに、便ち一時に涙下ると。私に口号を成し、誦して裴迪に示す」という長~いタイトルの詩を玩わいます。長いのは題だけで、詩本体は七言絶句で、比較的シンプルな詩です。
岩波文庫「王維詩集」(P255~257)から。

万戸傷心生野煙
百官何日更朝天
□□葉落空宮裏
凝碧池頭奏管絃

万戸 傷心 野煙を生ず
百官 何の日か 更に天に朝せん
シュウカイ 葉は落つ 空宮の裏
凝碧の池頭 管絃を奏す


家々が皆、野煙を上げているのは心の痛みを表しているかのようだ。再び帝の前に百官が勢ぞろいするのはいつのことになるのか。秋となりえんじゅの枯葉がひっそりとした宮殿の中に舞い落ちている。凝碧の御池のほとりでは管弦楽の調べが奏でられているばかりだ。

「シュウカイ」は熟語としては難しいでしょう。解釈をヒントにして「秋になってえんじゅに枯葉が…」ですから正解は「秋槐」。「えんじゅ」は「カイ」が音読みです。「鬼」を「キ」ではなく「カイ」とノータイムで読めるようにしなければいけません。「かたまり」の「塊」は常用ですが、①「隗より始めよ」の「隗」②「崔嵬」(たかくけわしい)の「嵬」③「傀儡」(くぐつ)の「傀」④「玫瑰」(はまなす)の「瑰」などがあるので「グループ化」しておきましょう。

で、これだけ読むと何のことやらいまひとつ分からないでしょうね。題を見ると、「逆賊」とあるのは「安禄山」のことなんです。これまでも何度も取り上げていますが、755年12月に唐王朝に反旗を翻した安禄山の乱が舞台。翌年6月には都長安も陥落しました。漢詩国民投票でぶっちぎりの一位を獲得した杜甫の「春望」はこの都の荒れ果てたさまを詠んだものでした。この乱は当時の詩人たちにはかほど大きな衝撃を与えました。そして、王維も例外ではなく捕虜として監禁されたのです。そうしたさなかに詠んだのが上記の詩です。

「凝碧池」というのは、副都・洛陽にある御苑内の池のこと。安禄山は洛陽に本拠を構えていました。「供奉人」というのは文学芸術にすぐれ宮中に召しだされて御用を承る者で、あの李白もこれに任ぜられて、楊貴妃を褒めまくって墓穴を掘ったのでしたよね。ここでは宮廷所属の音楽団の団員を指します。「口号」は「口ずさみながら作った詩」。

この詩のエピソードについては、音楽好きだったあの玄宗皇帝が自ら宮中で学団を養成し、「梨園の弟子」と称したのは例の長恨歌でご存知ですよね。同書に拠りましょう。「彼らは長安が陥落すると安禄山の捕虜となってしまった。禄山は凝碧池で大宴会を開き、彼らに演奏をさせたが、みな涙を流しながら演奏した。禄山の一党はみな刀を抜いて彼らをおどかした。楽団の一人雷海青はたまりかねて楽器を投げだし、玄宗のいる西方をめがけて大いに泣きさけんだ。禄山は怒りにまかせて海青を八裂にしてしまった。王維はそのことを聞き伝えてこの詩を詠んだという」とあります。出典は玄宗時代の逸話集「明皇雑録」。

そして、王維は次のような詩(五言絶句)も詠じています。これが彼の未来を救います。

安得捨塵網
払衣辞世喧
悠然策□□
帰向桃花源

安くにか塵網を捨つるを得て
衣を払いて世の喧しきを辞し
悠然としてレイジョウを策き
帰りて桃花源に向かわん


何とかして世俗のしがらみを捨て、衣の塵を払って世間の騒音に別れを告げ、ゆったりとくつろいであかざのつえをつき、桃花源に帰ってゆきたいものだ。(石川忠久氏の「王維一〇〇選」P253~254)

王維は獄中にあってこの詩を詠じました。「塵網」は「けがれた網、つまり、世間のしがらみ」。先日紹介した陶淵明の「園田の居に帰る 其一」にも出てきました。最後の句の「桃花源」は言わずと知れた「桃花源の記」。陶淵明への傾倒を夢に見ます。「払衣」は「衣の塵を払って辞去する、つまり、隠遁すること」。「レイジョウ」は「令丞」「令嬢」「礼状」「令状」「霊場」「礼譲」ではないですよ~。正解は「藜杖」、「あかざのつえ」です。「策き」は「つ・き」と訓む。

石川氏の解説によると、「757年の初めに安禄山は子の安慶緒に殺され、秋には一時、乱も終息にむかうかにみえた。玄宗のあとを継いだ粛宋は長安にもどり、十月には王維も唐軍に救われたが、敵に仕えた偽官として処罰されることになった」といいます。岩波文庫の「王維詩選」によると、「この詩は粛宋の耳に入って、王維が本心から賊に降ったのではないことがわかっていたため、乱後の処分が軽くすんだと言われている」とあります。本来なら死刑になるところを、降格にとどまりました。詩の内容が前王朝への忠誠心を表したものと理解されたのです。弟の王縉による切実なる助命嘆願も功を奏したといいます。

杜甫も同じように賊軍の囚われの身となりましたが、自力で脱出したことが評価され、天子を諌める官職を得ました。乱後、王維と同僚となった時、次のような詩(五言律詩)を王維に贈りました。王維の方が先輩です。傷心の先輩に深い同情をささげています。(「王維一〇〇選」P258~260)訓み下し分のみ。

王中允維に贈り奉る

中允声名久し
如今ケッカツ深し
共に伝う庾信を収むと
比せず陳琳を得たるに
一病明主に縁る
三年独り此の心
キュウシュウ応に作有るべし
試みに誦せ白頭吟


中允の王維どのは詩人としてつとに名声を得ておられ、いま、非常に深く苦しんでおられる。世人はみな、敵前逃亡しても臣下として迎えられたかの庾信のような、りっぱな人物と伝えている。最初は袁紹に仕えておきながら、曹操の部下となった陳琳のような輩とはくらべようもない。賊軍に捕らわれて口がきけないふりをしたのも、ひとえに天子への忠心からしたこと。獄に下され、三年間ひたすら唐王朝への忠誠を貫かれた。その苦しみに憂えた間に、きっと詩作がおありのはずです。ちょっとあなたさまの「白頭吟」をお聞かせくださいませな。

「ケッカツ」は「契闊」。苦労すること。「死生契闊」をお忘れなく。
「キュウシュウ」は浮かびますか?「仇讐」「鳩聚」「翕習」ではない。常用漢字ですが、やや難しい。正解は「窮愁」。貧乏で難儀をしていることからくる深い悲しみ。杜甫がよく使う語彙です。「窮賤」(キュウセン)は「貧乏」、「窮巷」(キュウコウ)、「窮閻」(キュウエン)は「むさくるしげな場末の町」、「窮涸」(キュウコ)は「金がつきはて生活に苦しむこと」。「窮~」という熟語は数多いので要注意です。

詩人はどんな境遇に置かれても自分自身を詠じるしか道はない。それが自らの運命を切り開くのです。それが分かる者同士だからこそ杜甫は王維に贈ったのでしょう。いずれにせよ安禄山の乱は王維の心に傷を残した事件だったようです。陶淵明が追い求めた隠逸の世界へと急速に傾き始めるきっかけとなりました。誰しもあるでしょう。心に負った傷が。そして、それを癒すにはもはや従前のありきたりのものではダメなのです。
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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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