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いや~吃驚仰天!一休さんの猛烈なエロ漢詩=漢詩学習

春眠暁を覚えず
処処啼鳥を聞く
夜来風雨の声
花落つること知る多少


盛唐の孟浩然の有名な「春暁」です。例の「漢詩国民投票」では第四位にランクインしており、「日本人好みの詩」の一つと言っていいでしょう。石川忠久氏と中西進氏の「漢詩歓談」(大修館書店)を読んでいますと、この詩の解釈について両人両様の“珍説”が紹介されていました。

日本漢詩界の泰斗である石川氏は、「この作品の背後には、栄華の巷を低く見るような高い精神、高士の姿がある…(略)…寝ているのは、宮仕えを拒否しているからなんです。宮仕えをすると朝早くに出仕しなくてはいけませんから、寝てはいられません。だけどこの人物はぬくぬくと朝寝を楽しんでいる。『朝も早(はよ)から宮仕えに出てあくせくしている諸君、どうだ、このおれさまのような生活をしてみろ』とうそぶいているんです。」(P33~34)と、従来の解釈は「行く春を惜しむ」という自然を愛でるといった視点に偏っていたが、そうではなくて「閑適の世界」を詠じながらも世俗へのこだわりを見せる人間臭い詩なのではないかと指摘しています。

これに対し、漢詩の世界は“素人”である中西氏は、「日本的に、艶情詩、つまり男女の恋の寓意を読むという読み方はなりたたないんでしょうか」(同)と提起し、第1、2句は「日本でいうと、女性の部屋で朝を迎えて、起きて帰らなきゃいけない、となります」、第3句に関しては「これはちょっとエロチックですよ。そして『花落つること』……」(P35)との解釈を畳みかけ、この新たなる見解には石川氏もいささかタジタジとなっています。

迂生が思ったのは、漢詩と言えばいささか大袈裟というか、隠者の世界だ、諷喩詩だ、と大上段に構えたり、凝りに凝った技巧を尚ぶきらいがあったりしますが、実は意外と生活に密着していて、「日常の風景」を詠じることに適した文学なのでないか。17文字の俳諧に通じる部分があるんですが、こうした点については同書の「付録 日本人の好きな漢詩」で中西氏が、「和歌文学に対する俳諧文学というのは、和文的なものに対する漢詩的なものですから。明治でいうと、どこの教科書にでも書いてあるように、和文脈の島崎藤村と、漢文脈の土井晩翠。いろんなところで生きてるんですよね、漢詩って」(P268)と述べて、石川氏とともに、漢詩に対する認識、理解を取り戻す必要があるのではないかと説いています。中西氏が、漢詩と和歌を「唇歯輔車」で譬え、「漢詩と和歌と俳句の三位一体でいくといい」(石川氏)と相対的な漢詩のポジションの向上を訴えています。

漢詩復権の投げ掛けですね。

ま、そうした論点については文学音痴である迂生は何も語れませんが、一つだけ言えることがある。漢詩は、たとえ噛まなくても噛まないなりに味が出るし、さらに噛めば噛むほどどんどん味が出る。いかにも「外面」はいかめしいが、実は「内面」は温かでだれでも受け入れてくれる。ただし、「勇気」を持って飛びこまなければ一生味わうことはできない。そう勇気なんです。たまたま漢字学習という形で漢詩の勉強を始めましたが、思い切って飛び込んでよかった。こんなに奥深い世界が広がっていようとは夢想だにしませんでした。

日本人はもっと漢詩を勉強するべきだとの思いを強くしています。漢詩があまりにも蔑ろにされているのではないか。和歌も、俳諧も、歌謡も、伝統文学はそれだけで価値がある。廃れてしまえば、簡単に廃れてしまう怖さがある。誰かが伝承しなければ、いや、みんなで繋いでいかなければならないのです。それほど怖い世界ではない。もっと身近な存在になれればいいのになと思わずにいられません。

で、漢詩なんですが、孟浩然の「春暁」が男女の後朝のシーンを描いたエロチックなものなのではないかという中西氏の“珍説”もありだと思う。漢詩で描かれる世界は、表層的でないとするなら、いかなる解釈も成り立ちうる。そうした想像力を逞しくするという玩わい方は、実は最も楽しいことなのかもしれません。考えたもん勝ちみたいな。。。

さて、本日は臨済宗の禅僧、一休宗純(1394~1481)の「美人陰有水仙花香(美人の陰に水仙の花の香有り)」(七言律詩)という詩を玩わいましょう。ぶっちゃけ申しますが、ずばり「エロ」詩です。宗純と言えば、頓知でおなじみのあの「一休さん」ですよね。後小松天皇の落胤ともされ、由緒正しい血統ながら、幼少のころから詩才に溢れ、漢詩をものしたようです。大徳寺の住持も任されますが、87年の生涯は自由奔放な生活を送り、男色、飲酒・女犯など戒律を破る行動も目に付いたとされます。

石川氏の「漢詩鑑賞事典」にも未掲載で、手元の資料にはありません。「漢詩歓談」(P35)の注意書きに紹介されているだけです。

楚台応望更応攀
半夜玉床愁夢顔
花綻一茎梅樹下
凌波仙子繞腰間


楚台応に望むべしさらに応に攀ずべし
半夜の玉床愁夢の顔
花は綻ぶ一茎の梅樹の下
凌波の仙子腰間を繞る


解釈はありませんので、迂生が勝手にやりますが、まぁ、別に解釈はいらんでしょ。そのまんまですよ。エロ、エロ、エロ。ストレートなエロ。

夢が覚めたとき、横たわる白い肌の豊満な女体を眺める。まるで高い山が聳えるかのようだ。さあ挑もうぞ。征服するのじゃ。夜はまだ明けぬ。玉を敷いたような寝床の上には憂いに満ちて夢でも見ているそなたの寝顔じゃ。一本の梅樹のもとにほころんでいる水仙の花が一輪。腰間にまといついて、波打ちながらゆらいでいる。

題名の「陰」はもちろん「女陰」(ほと)のことですね。まんまです。「水仙」の花の香りがするんですって。。。えろ一休っ。「楚台」は女体のことを指す。春秋戦国時代の「楚」の国には美人が多いといわれていた。「楚腰」という言葉もありますね。楚王は楼台で美女をはべらせあらん限りの歓楽を尽くしたとされます。もうエロです。「攀」は「よじのぼる、すがる」。「綻ぶ」は花が咲くことですが、もちろん、「花」とは水仙のことで女陰です。ですから、綻ぶのはうるおっていること。。うわー、やばいです。伏字にしないと。。。。「一茎」は「イッケイ、ひとくき」で梅樹を指しますが、やはり「男根」、一休さんの立派なね。。。これもピー。

「凌波仙子」は「水仙の花のこと」。「凌波」は「波を押しのけるさま、衣裳に皺が寄るさま」を表している。「仙子」は「仙女」のことで、白居易の「長恨歌」にも出てきましたね。「腰間」は腰回り、う~ん、下半身のことですね。下半身がくねくねと波打って悶えるさまを言っているのでしょう。迂生も、いろいろ書いていて汗が出てきましたよ。このblogでどこまで言い表わしていいんやろかって。。。これでも言葉を選んでいますよ。お分かりですよね。ある程度は品位を保たないといけませんから。いや、もう十分、落ちていますけどね。。。。はははは。

詳しい解説書がないんでもう終わりますが、宗純は77歳のとき、住吉大社薬師堂で盲目の美女、森(しん)の舞を見て見初めます。そして、京田辺の酬恩庵に連れて行き、以後、死ぬまで同棲します。彼女は50歳も下だとも言われていますが、30代、40代でも大変なものですね。70、80の爺ちゃんですよ。そんな二人の「愛慾生活」の一端を詠んだのが先ほどの詩なんです。いや~、これ以外ももっともっとすんごい詩を詠んでいるのですが、ここで紹介するのはやめまひょ、ね、一休さ~~~ん。

は~~~い。
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char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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