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「たられば」の英雄・項羽に寄り添う「虞美人」=漢詩学習

中国四大美人ものは別にシリーズではないですが、王昭君、西施ときて本日は虞美人。秦を倒した英雄・項羽の愛人です。まずは項羽が詠んだ「垓下歌」(七言古詩)。「漢詩鑑賞事典」のP23~25です。「垓下」はいまの安徽省霊壁県にある。

力抜山兮気蓋世
時不利兮□不逝
□不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何


力山を抜き気世を蓋う
時利あらずスイ逝かず
スイの逝かざる奈何すべき
虞や虞や若を奈何せん


わが力は山も引き抜き、意気は世界を覆い尽くすにたるものである。ところが、どうしたことか。時勢が急に悪くなったぞ。おまけに愛馬の「スイ」も進まない。「スイ」が進まないならどうしようもない。虞や虞や愛しいお前をどうしよう。。。

「抜山蓋世」は準1級の四字熟語ですね。基本でしょ。「スイ」は考えてもダメ。知識としてあるかどうかが問われます。正解は、項羽の愛馬の名といえば「騅」。毛の色が青味がかった葦毛の馬であり、「あしげ」の訓読みもあります。毛の色をそのまま馬の名前としたのです。

強国・秦が滅び、漢王朝が樹立される過程のお話。「鴻門の会」や「四面楚歌」など項羽と劉邦にまつわる男同士の戦い・エピソードにはこの際、触れるのはやめておきます。「虞」は「史記」には「虞美人」と記されており、一般的に通用している。同書の「鑑賞」によると、「最後に、けなげにもここまでついてきた虞美人に向かって、『お前をどしよう』と泣くのは、英雄涙あり、の一コマとして知られるが、この期に及んで未練がましい、後世の歴史家は叱る」とあります。

これに対し、虞美人が和した詩が「楚漢春秋」(漢初の陸賈の作といわれる)に残っています。

漢兵已略地
四方楚歌声
大王意気尽
□□何聊生


漢兵已に地を略し
四方楚歌の声
大王意気尽く
センショウ何ぞ生を聊ぜん


「十八史略詳解・上」(明治書院、P195)によりますと、「大王は項羽をさし、センショウは虞美人自身をいったものである。何ぞ生を聊(やすん)ぜん。というのは、どうして安閑として生きておられましょう。というので、自決の決意を示したものである。この詩は伝説であって、おそらくは後世の偽作であろう」としています。

ということで「センショウ」の正解は「賤妾」です。自らを「いやしい女」と謙っている。こうした最期の潔さと礼節を重んじる「凛」とした美しさが、四大美人に名を連ねしめている所以なのでしょう。同音異義語には「仙裳」「僭称」「先蹤」「千鍾」「尠少」「戦悚」「戦捷」「旋踵」「船檣」など重要熟語が目白押しです。「聊」は「やすんじる」と訓みますが「聊か」難しい。通常は「いささか」か「たのしむ」。「無聊を喞つ」(ブリョウをかこつ)で使います。


北宋の曾鞏(1019~1083)に「虞美人草」(七言古詩)があります。20句の長い「詠史詩」。読み下し文だけでご容赦ください。「漢詩鑑賞事典、P600~604」。

鴻門の玉斗紛として雪の如し
十万の降兵夜血を流す
咸陽の宮殿三月紅なり
覇業已にエンジンに随いて滅ぶ
剛強なるは必ず死し仁義なるは王たり
陰陵に道を失いしは天の亡ぼせるに非ず
英雄本学ぶ万人の敵
何ぞ用いん屑屑としてコウショウを悲しむを
三軍散じ尽きてセイキ倒れ
玉帳の佳人座中に老ゆ
香魂夜剣光を逐いて飛び
青血化して原上の草と為る
芳心寂寞寒枝に寄る
旧曲聞こえ来たりて眉を斂むるに似たり
哀怨徘徊愁えて語らず
恰も初めて楚歌を聴ける時の如し
トウトウたる逝水今古に流る
漢楚の興亡両つながら丘土
当年の遺事久しく空と成る
樽前にコウガイして誰が為にか舞わん


「エンジン」=「煙燼」(けむりやもえのこり、転じて、滅亡するたとえ)
「コウショウ」=「紅粧」(美しくめかした女)=「紅妝」とも
「セイキ」=「旌旗」(色鮮やかなはた)=「旌旃」「旌旆」とも
「トウトウ」=「滔滔」(水が勢いよく流れるさま)
「斂むる」=「おさ・むる」(たるんだものを引き締める)→「斂眉」(レンビ、まゆをおさむ)=両眉を寄せて顔をしかめること
「コウガイ」=「慷慨」(感情が高まって嘆くさま)=「慷愾」とも


同書の「鑑賞」によると、「栄枯盛衰、めまぐるしく交代する人事も、そのひとこまを取ってみれば山あり谷ありなのであるが、悠久の歴史に立ち返ってながめれば、いずれも盛者必衰の輪廻を超えることはできない。これは、目前の可憐な草にことよせて、人事の転変を回顧した詩である。美人と草との二重写しは、当然、作者の意識下における過去と現在の二重写しを意味する。それゆえ、第17句の、今も昔も流れる水は、昔を押し流したと同様、今をも押し流すのであろう」と解説しています。

さらに、この詩の背景が続きます。「紀元前210年、始皇帝の死を契機に各地で蜂起した勢力は結局二人の領袖に集約された。項羽と劉邦(2、3、4句)。一足先に咸陽に入った劉邦を追って、項羽は鴻門に陣した。両雄は鴻門で会する。圧倒的優勢を誇る項羽の前に劉邦は、参謀の張良を残して脱出する。項羽の智臣、范増は、玉斗を地になげうって嘆く、事終われりと(1句)。それから4年、形勢は逆転する。追われる立場の項羽は、四面楚歌の中、虞姫と自作の詩をうたい合って(14句)、名残を惜しんだ(9~12句)。さらに敗亡を続ける項羽は800人余りの騎士を従えて、一路出身地の楚を目指して南下を続ける。淮水を渡ろうとするときには、従者わずかに100人余りになっていた。陰陵では農民にあざむかれ、道に迷い、その間に漢軍に追いつかれてしまう(6句)。もはやこれまでと観念した項羽は自害し、虞姫のあとを追うのであった」。

虞美人を語る際、ことさらその美しさを描写する言葉は少ないです。英雄・項羽とセットですが、その馴れ初めはどこにも記述がない。「虞美人草」は今でいう「ヒナゲシ」(雛罌粟、雛芥子)。英語ではpoppy。項羽が「垓下歌」を詠じたあと、大王様の足手纏いになるとして自刃した彼女を葬った墓に翌夏、赤くこの花が咲いたという伝説に由来しているようです。漱石の「虞美人草」は特にこの虞姫の含意はないようです。

項羽は烏江(いまの安徽省和県の東北にある)で自刎して死にはてます。時に31歳。後世の人はこの地に項羽を祀り、「烏江廟」と称した。晩唐の杜牧が詩を詠じています。七言律詩です。

勝敗兵家不可期
包羞忍恥是男児
江東子弟多豪俊
巻土重来未可知


比較的簡単なので一読できるでしょう。白文だけにしておきます。第2句では「はじをしのんで江東をわたった方がほんとうの男児としての生き方だったのではないか」、第4句では「楚の地から巻き返して、再び天下を取ることができたかもしれないのに」と、「たられば」で若過ぎる豪桀の死を悼んでいる。

烏江にたどり着いた項羽は、宿場の「亭長」が江東に渡らせようと船の用意をしていたのに、「8000人を連れて出て行ったのに今は一人もいない。彼らの父兄が俺を再び王にしてくれるかも知れんが、どうして顔を合わせられようか」と拒絶した。杜牧はこのエピソードを踏まえているのです。歴史に「たられば」は禁物ですが、彼ほど「ああ、生きていれば歴史は大きく変わったろうに」と後世人に言わしめ続けている英雄も稀有でしょうね。日本で言えば判官贔屓の源義経といったところでしょうか。
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不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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