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陶淵明の「閑情の賦」シリーズ最終回=「エロ」の「エネルギー」を昇華せよ!

 本日は陶淵明先生の「閑情の賦」の最終回。「碧眼録」はまたもお休みです。すいません。
 以下、charのmixi日記、2009年3月16日付からの転載です。(一部省略しました)


脳内ストーキングに窘しんだ「閑情の賦」もオーラスです。最後は案外あっさり終わりますが、斯くもホットに、ストレートに思いを詠んだ歌は珍しいのではないでしょうか。しかも、酒好きの田園詩人、陶淵明だからなおさら意外です。愛しいあの人の傍にずっといたいという思いだけ。。。しかも、思いを伝えることすらできないのなら、何にでもなってやろうとむきになる。でも、どれも「限界」を突きつける。一生傍にいるなんて無理なこと。その思いをどう昇華し、自分の人生でポジティブに生かせるかという風に、転化を逼られたのです。次第に冷静さを取り戻していくプロセスは、迂生にとっても参考になりましたわ。


 雞は翅を斂めて未だ鳴かず、

 笛は遠きに流れて以て清哀なり。

 始めは妙密にして以て閑和なるも、

 終には寥亮として蔵摧く。


 ■「

 =「にわとり」。「鶏」の異体字であって旧字ではない。音読みは「けい」。「鶏距」(けいきょ)=「鶏跖」(けいせき=鶏蹠、けづめ)、「鶏黍」(けいしょ=心からの饗し)、「鶏晨」(けいしん)、「鶏鶩」(けいぼく)、「鶏肋」(けいろく)。

 ■「翅」

 =「はね」と訓む。普通は「つばさ」と訓むほうがいいかもしれないが、この場合は「にわとり」なのでやはり「はね」がふさわしいか。音読みは「し」で「翅翼」(しよく)、「魚翅」(ぎょし)、「羽翅」(うし)、「双翅」(そうし)、「比翅」(ひし)、「翼翅」(よくし)。「翅に」(ただに=啻に)の訓みもあるので注意しよう。

 ■「妙密」

 =「みょうみつ」。きめ細かく密なさま。「妙~」の熟語で留意すべきは「妙絶」(みょうぜつ)、「妙諦」(みょうてい)、「妙歯」(みょうし=年若の女性)。

 ■「寥亮」

 =「りょうりょう」。声や音が澄んだ音色で響き渡るさま。「寥戻」(りょうれい)ともいう。「寥」は「さび・しい」とも訓み、熟語では「寥寥」(りょうりょう)、「寥郭」「寥廓」(以上りょうかく)、「寥落」(りょうらく)、「荒寥」(こうりょう)、「凄寥」「淒寥」(以上せいりょう)、「寂寥」(せきりょう)。

 ■「蔵摧く」

 =「ぞうくだ・く」。はらわたをこなごなにしてえぐるさま。「摧蔵」(さいぞう)を訓読したもので、「心を痛める、気持ちが打ち拉がれるさま」。「蔵」は「はらわた」「内臓」の意。「五蔵」は、肺、心、肝、腎、脾。「蔵器」(ぞうき)、「蔵垢」(ぞうこう)。「摧」は「さい」が音読みで、「蘭摧玉折」(らんさいぎょくせつ)に注意しよう。「摧破」(さいは)、「摧挫」(さいざ)、「摧朽」(さいきゅう)=「摧枯」(さいこ)、「摧槁」(さいこう)、「摧残」(さいざん)、「摧辱」(さいじょく)、「摧折」(さいせつ)、「摧頽」(さいたい)、「摧眉」(さいび、まゆをくだく=我慢して遜る)、「摧北」(さいほく)、「摧抑」(さいよく)。「摧」がらみの熟語はいずれ劣らぬ出そうなものばかり。是非とも覚えておこう。


(解釈)ニワトリは翼をずぼめたまままだ夜明けを告げない。ところが、遠くのほうから哀しく澄んだ笛の音が流れ漾ってくる。始めはこまやかで静かな音色と思っていたら、終いには高らかに響き渡り、私のはらわたを抉り裂く。

夜が明けるのを待つも、なかなか夜明けは来ない。コケコッコーではない、謎の笛の音がこんな夜更けに流れてくるのは、まだ己の「煩悩」が消え去りきっていない証拠でしょう。体が切り刻まれるほどに切ない音色。。。夜明け前に聞くには耐えられませんね。揺さぶりだ。。。果して夜明けまで体が持つのでしょうか。。。


 意うに夫の人の茲に在りて、

 行雲に託して以て懐いを送るならんか。

 行雲 逝いて語無く、

 時は奄冉として過に就く。


 ■「奄冉」

 =「えんぜん」。ふと、にわかに。両方の意味があるがどちらがよりふさわしいでしょうか?「過に就く」は「次第に過ぎ去ること」。「えんぜん」には「奄然」「婉然」「艶然」「閹然」「宛然」「偃然」「嫣然」「淵然」「厭然」などがあるのでしっかりと書き分けられるようにしましょう。


(解釈)勝手に想像するのだが、あの笛の音は、あなたが行く雲に託してその思いを寄せて下さったのではあるまいか。が、雲は無言のまま過ぎ去るばかり。ふと気づけば時間だけがさっさと過ぎ去ってしまう。ああ。。雲よ行かないで。

都合のいい解釈がまたぞろ頭を擡げます。あなたが笛を吹いてくれたのではないか。そして、その思いを雲に乗せて笛の音と共に託してくれたのではないか。。。。んなわけない。脳内の妄想はもういい。。。そろそろ立ち直らんとな、いい加減にね。。。



 徒らに勤しみ思いて以て自ら悲しみ、

 終に山に阻まれ河に滞る。

 清風を迎えて以て累いを袪け、

 弱志を帰波に寄せん。


 ■「累い」

 =「わずら・い」と表外訓み。漢検辞典には、意味欄②に「つながる、かかわりあい、わずらい」とある。熟語には「係累」(けいるい)、「家累」(かるい)、「挈累」(るいをたずさう)。

 ■「袪ける」

 =「しりぞ・ける」。「衣偏+去」で配当外。音読みは「きょ」。意味は、そで、欠く、そでぐちをあける、取り除く。「袪袪」(きょきょ)は、じゃまものをはらいのけるさま。

 ■「帰波」

 =「きは」。これは稍難しい。東に帰る波。中原の河川はみな東海に向かって流れる。「帰~」の熟語は「帰隠」(きいん)、「帰雲」(きうん=夕方の雲)、「帰臥」(きが=隠居する)、「帰雁」(きがん)、「帰趨」(きすう)、「帰寧」(きねい)、「帰命頂礼」(きみょうちょうらい)、「帰沐」(きもく)、「帰道山」(どうさんにかえる=死ぬこと)。


(解釈)いたずらにひとり思いわずらい、悲しむばかりで、ついにはあなたとの間には山が立ちはだかり河が横切って邪魔をしている。涼やかな風が吹いてくれればわたしの心中の悩みを払ってくれようぞ。そして、懦弱な心を東に帰る波に頼んで押し流してしまおうぞ。。。

やや前向きな宣言が飛び出しています。いよいよ吹っ切れようとしているのかもしれません。遅かったけど。風で吹き払おう。波に押し流そう。



 蔓草の会を為すを尤めて、

 邵南の余歌を誦せん。

 万慮を 坦けて以て誠を存し

 遥情を八遐に憩わしめん。


 注: 本文の読み下し文は「担」となってますが誤植ですね。白文の「坦」が正しい。



 ■「蔓草」

 =「まんそう」。はびこっている草のこと。解説によると、「詩経」の「鄭風」にある「野有蔓草」篇のこと。ここでいう「会」というのは、男女の密会のこと。「蔓」は「つる」「のびる」。「蔓延」「蔓衍」(以上まんえん)、「蔓生」(まんせい)、「蔓説」(まんせつ=無駄話)、「蔓草寒煙」(まんそうかんえん)、「蔓纏」(まんてん)。

 ■「尤める」

 =「とが・める」。見出し語。失敗やあやまちを責める。音読みは「ゆう」。「めだってすぐれる、めずらしい」の意もあり、「尤異」(ゆうい)、「尤悔」(ゆうかい)、「尤隙」(ゆうげき)、「尤最」(ゆうさい)、「尤物」(ゆうぶつ)。「とがめる」は「咎める」「譴める」も。

 ■「邵南」

 =「しょうなん」。「召南」に同じ。これも「詩経」の篇名。解説によると、この篇にある「草虫」「采蘋」「行露」などの諸篇はみな孔子にかなった女性の行動をたたえた詩であるとある。

 ■「坦ける」

 =「うちあ・ける」と表外訓み。率直に告白すること。(失礼、「担」は誤植でした)。「坦」は「たい・ら」。「坦懐」(たんかい=胸にわだかまりが無く、さっぱりとおおらかな気持ち)からこの訓みが派生していると思われる。感情に起伏が無く、態度や行動に裏表がないさま。「坦夷」(たんい)=「坦平」(たんぺい)、「坦牀」(たんしょう=女婿)=「坦婿」(たんせい)、「坦然」(たんぜん)、「夷坦」(いたん)、「坦率」(たんそつ)、「坦坦」(たんたん)、「坦塗」「坦途」(以上たんと)=「坦路」(たんろ)、「坦腹」(たんぷく)、「平坦」(へいたん)。

 ■「遥情」

 =「ようじょう」。ゆらゆらと揺れる思い。雑念。煩悩。

 ■「八遐」

 =「はっか」。八方の極めて遠いところ。この場合の「は八」は四方八方という意味。「八~」という熟語で注意すべきは「八音」(はちおん)、「八面玲瓏」(はちめんれいろう)、「八面六臂」(はちめんろっぴ)、「八垠」(はちぎん)=「八垓」(はちがい)=全世界、「八紘」(はっこう→八紘一宇)、「八索九丘」(はっさくきゅうきゅう)、「八駿」(はっしゅん)、「八珍」(はっちん)、「八表」(はっぴょう)、「八衢」(やちまた)。「遐」は「とおい」。「遐域」(かいき)、「遐異」(かい)、「遐遠」(かえん)、「遐観」(かかん)、「遐棄」(かき)、「遐挙」(かきょ)、「遐荒」(かこう)、「遐邇」(かじ)、「遐陬」(かすう)、「遐想」(かそう)、「遐登」(かとう)、「遐念」(かねん)=「遐齢」(かれい)、「遐念」(かねん)、「遐福」(かふく)。既出だったかもしれません。ま、何度も覚えましょうよ。「とおい」は「邃い」「逖い」「迢い」「迥い」「藐い」「茫い」「縹い」「夐い」「遥い」「迂い」「緬い」「悠い」もある。「ちかい」は「邇い」「輓い」「咫い」と少なめ。


(解釈)「詩経」の「野有蔓草」篇に見られるような男女の密会を排斥して、「召南」の諸篇に見られるような礼法に合った古人の遺詩を高らかに朗誦しよう。ここにもろもろの心に蟠る雑念を洗いざらい告白して、自分のまごころのあるところを示し、身の程を知らぬ高望みを八方の彼方に散らせようぞ。

最後は、古代中国の庶民の真情を古来詠み継がれて来た「詩経」の登場です。その中で、男女関係に関して両極端のポジションを取っている二篇を持ち出して、対比させています。男女の密やかな恋愛を排除する一方、古の人が襟を正した気高い気持ちを詠んだ詩を朗読することを唱えます。愛しい人への思いを断ち切って、脱皮することを宣言するのです。

迂生は陶淵明が詠んだこの恋愛詩を自分の身に置いて詠み直してみました。幾つになっても誰しも愛しい人はいる(ことでしょう)。年齢に恋愛は関係ないと思います。迂生もそう。それが家族であれ、別の密やかな誰かであれ、常にそうした「対象」は持っているはず。その「存在」自体が活力を与えてくれるケースは多い。しかし、それを口に出したり、あるいは剰え相手に思いを伝えたりしてしまってはいけないのです。いや自由恋愛はありでしょう。ありでしょうが、脳内ストーカーにとどめるのが礼儀。そして、ストーキングはエスカレートするのが不可避な結末であるならば、行く付くところに行く前に、方向転換をしなさい。。。エネルギーの使い道を考えなさい。無から有を生み出す力があるのだから、引き戻せなくなる「エリア」に踏み込む前に、ストーキングするエネルギーを昇華させなさい。。。それがいま迂生がこの場を借りて表現しようとしていることなのですが、お分かりになりますでしょうか?。。。。やや抽象的かなぁ。。。

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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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