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物忘れの激しい人は何度聞いても新鮮のメリットあり=「鶉衣」(21)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの21回目は、「物忘翁伝」(前編中三〇、上巻139~143頁)を取り上げます。惚け老人、認知症、アルツハイマー病、…、老いの最大の恐怖は「生きる屍状態」になってしまうことでしょう。家族の顔も分からない。朝食べたものが夕方に覚えていない。体は勿論、脳みそが『健康』でないならば、老いさらばえて生きることに何の価値があるのでしょう。自分は何のために長生きしているのか。誰しもが抱くそんな不安を逆手に取った今回のお話は半分笑えるが、半分眉根を曇らさざるを得ないです。漢字の問題は僅少です。

わすれ草生ふる住よしのあたりに住みわびたる物わすれの翁あり。さるは健忘などいへる病の筋にはあらで、只身のおろかに生れつきて、物覚えのおろそかなるにぞありける。昔は1)ケイガクの道をもとひきゝ、作文和歌の席などにも、さそふ人あればまじらひけれど、きく事習ふ事のさすがに面白しと思ふ物から、夕べに覚えしことごとも、朝ぼらけにはこぎ行舟の跡なくて、身にも心にものこる事すくなし。されば是を書付置かむと、しゐて硯ならし机によれば、春の日はてふ鳥に心うかれて過ぎ、秋の夜は虫なきていとねぶたし。かくてぞ老曾の森の草、かりそめの人のやくそくも、小指を結び手のひらにしるしても、行水の数かくはかなさ、人もわらひても罪ゆるしつべし。

さればその翁のいへりける、身のとり所なきを思ふに、若きにかずまへられしほどは、人やりならずはづかしかりしが、A)つんぼうの雷にさはがず、座当の蛇におどろかざるこぼれ幸なきにもあらず。よのつねきゝわたる茶のみがたりも、はじめ聞きける事の耳にのこらねば、世に板がへしといふ咄ありて、またかの例の大阪陣かと、若き人々はつきしろひて、小便にもたつが中にも、我は何がし僧正のほとゝぎすならねど、きくたびにめづらしければ、げにときくかひある翁かなと、かたる人は心ゆきても思ふべし。ましてつねづね手馴れ古せし文章物がたりの双紙も、去年見しことはことし覚えず、春よみしふみは秋たどたどしく、又もくりかへしみる時は、只あらたなる文にむかふ心地して、あかず幾たびも面白ければ、わづか両三2)チツの書籍ありて、心のたのしみさらに尽くる事なし。むかし炎天に腹をさらしたるおのこは、人にもおりおり物をとはれて、とりまがはしいひたがへじと、いかにかしましき心かしけん。B)今は中々うれしき物わすれかなとぞいひける。猶かの翁が家の集に、何の本歌をかとりけるならむ、

 わすれてはうちなげかるゝ夕べかなと

 物覚えよき人はよみしか


今回のお話の主役は健忘症などという生易しいものではなく、生れついての忘れんぼさん。片っぱしから物を忘れ。メモろうとしても眠りこけてしまうから、筋金入り。どんな約束事も覚えていることがないのに、呆れて人も笑って許してしまうほどで、ある意味羨ましい限り。

その翁が言うには「若いころは恥ずかしかったが、いろんな人生経験を積んで、これはこれでめりっともありました」とはちょっと驚き。同じ話を聞いても読んでも新鮮この上なく、何度でも味わえる。「むかし炎天に腹をさらしたるおのこ」とは蒙求の「郝隆曬書」(カクリュウサイショ)に出てくる漢「郝隆」。短いのでそのまま引用します。「世説に、郝隆七月七日、日中に出でて仰臥す。人其の故を問う。曰わく、我は腹中の書を曬すなり、と」。もともとは世説新語にあるようで、晋の郝隆は腹を炎天下にあてて寝ていた訳を問われ、「わたしがこれまで覚え込んだ書物を虫干ししているのだ」と豪語し、自分の博覧強記ぶりを自慢したのです。物忘れの翁と比べれば何とも大層な話で、あまりに多くの書物が入っているので人から聞かれるたびにどこぞから引っ張り出さなければならず、御苦労なことだわい。也有のシニカルな笑いが窺えます。シニカルと言ったのは翁と郝隆の両方に対してです。

開き直り、諦めの境地。ある限界点を越えれば人間は楽になれるのかもしれません。世をはかなんで隠遁するのと似ているかもしれません。生まれつきの忘れんぼという点では宿世なのかもしれませんが、後天的に、意図的に忘れんぼになった場合に人はどう対応できるのでしょうか。抗うのか、委ねるのか。あるいはそうなる前に手を打つのか。きのうしたことも、朝食べたものも覚えていない。臆面もなく言えるかどうか。

翁が物を忘れることのメリットをいくつか挙げていますが、同じことを何度聞いても新しいことにしか感じないというのはどうなんでしょうか。同じことを聞かなければいいのでしょうね。そうすれば普通の人と同じだ。しかし、日常、同じことの繰り返しで厭き厭きするばかりなのも偽りの無いことです。同じことをいつも同じ物としてとらえるかどうかなんでしょうね。物忘れの翁はある意味、正直なだけ。同じものを同じものとできずにいるだけ。退屈な日常などあり得ない。聞くもの、見るものすべてが新鮮ですから。

年老いて物を忘れていくというのはもしかしたら日常を新鮮にすることなのかもしれません。幼き頃、好奇心に満ちていた。知りたい。見たい。そうしたピュアな渇望の原点に戻っていくこと。

最後に也有が詠んだ歌は物覚えの悪い自分の気楽さを楽しんでいます。年をとることが必然なら、記憶が薄れていくのも不可避なのでしょうね。也有は自分がそうなっても悔いることなく最後まで生き切ることを提唱しているのかもしれません。


■下線部A)は何を言いたい喩えか。

■下線部B)はどうしてか。

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あなたも自分だけのとっておきの七景を選んでみませんか?=「鶉衣」(20)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの20回目は、「七景記」(続編下一五〇、下巻146~155頁)を取り上げます。

中国の「瀟湘八景」を源とする風景羅列の妙味は我が国でも盛んにおこなわれました。琵琶湖の近江八景や鎌倉の金沢八景が名高い。読者諸氏の御当地にもあるのではないでしょうか。也有も自ら住む「知雨亭」(またの名を「半掃庵」という)から見える七つの景色に名付けてここに列記しました。

知雨亭とは、1)に其訳たゝはへるが如く、務観が詩によせて静かなる心をいへり。今又半掃庵とは、我物ぐさの明くれ、掃く日よりははかぬ日多く、床は塵、庭は落葉に任せがちなる庵のだゞくさをいふ也けり。名は二ツにして物二ツならず。さればこれに七景を撰ぶ。

東嶺孤月 路傍古松 蓬丘烟樹

海天帰雁 龍興寺鐘 市門暁鶏

隣舎舂歌

「東嶺孤月」とは、嶺は三河の猿投山なり。遠き山々の夫より北につらなりて、此山のあはひより、十月ばかりのよく晴れたるには、2)シホウのいたゞきもみゆる事あり。夫かあらぬかと、昔は人の疑ひしが、宝永の比、かの山の焼ける時、夫とは定まりしかと、古き人のいへりけり。さればさなげ山とは、名のをかしくて歌などにも読むべきを、文字を猿投と書けるは少しくちをし。たゞ万葉にぞかゝまほしけれ。されど月には猿の名もよそならず。ほとゝぎすも3)ショッコンと書き、朝がほも4)ケンギュウとかけばむくつけきたぐひにや。A)清氏の女も画にかきておとるものといひしが、字に書きて劣るさたはなし。月は夜の長短によりて、此山の南北より出でて、清光ことにさはる物なし。此府下に月の名所をえらまば、此地をこそいふべかりけれ。

「路傍古松」とは、世に七本松とよべり。あるは5)アイオイめきてたてるもあり、又程へだゝりてみゆるもあり。染めぬ時雨のゆふべ、積る雪の朝、ながめことに勝れたり。草薙の御剣のむかし語を追ひて、もしは此七ツを以て辛崎の一ツにかへむといふ人ありとも、我は更におもひかへじ。

「蓬丘烟樹」は、則ち熱田の御社なり。高蔵の杜は猶ちかくて、春の霞、秋の嵐、此亭の南の観、たゞ此景にとゞまる。しばらく杖を曳けば、あけの6)華表も木の間にみゆめり。鳴海は熱田につらなりて、松風の里・夜寒の里・呼継浜・星崎など、我国の歌枕は、皆此あたりにあつめたり。すべて是熱田の浦辺なれば、海づらもやゝみゆべきほどなれども、家居にさわり森にへだちて、一望のうちにいらず。されば、「海天新雁」も、此あたりをいへるなりけり。

「龍興寺鐘」は、庵の東よき程に隔たる木立一村の禅林なり。ある日客ありて物語しける折しも、此鐘のつくづくと雲よりつたふを聞きて曰く、「けふ此声の殊に身にしめる何ぞ然るや」と。我是に答へて曰く、「客もかの7)廿年の昔をしるならん、此あたりはしばし歌舞の遊里となりて、あけ暮8)シチクのえむをあらそひ、月雪花もたゞ少年酔客の遊にうばゝれしが、其世は此鐘の暁ごとに別を告げて、幾B)衣々の腸をたちけむ。世かはり事あらたまりて、今は其形だになく、蛾眉9)センビンも今いづくんかあるや。されば、つく人に心なくとも、聞く人の耳にのこりて、10)イキョウを悲風に託せるならん」と。客も実にと聞きて、かついたみ、かつ笑ひにき。さてや、「市門の暁鶏」は、此西の方、あやしの小借屋といふ物、軒をならべ、おのがさまざまの世渡り佗しげなれど、かゝればおのづから遠里小野のかはりかりの声も、事かゝぬ程に音づれ、はかばか敷商人は来らね共、海老・鰯・小貝やうの物、名のりて過ぐる事も明くれなり。さればたまたまとふ人ありて、みさかなに何よけんなど、一盃をすゝむるには、こゆるぎのいそぎありかねども、居ながら求め得る日も有るべし。家ゐは是より市門へつらなれば、暁の鳥も枕につたへて、老のね覚のちからとはなれる也。

「隣舎の舂歌」は、もとより農家の間なればいふにも及ばず。かのからうすのこほこほとなりし夕がほの隣どのは、なほゆたかなる家ゐにてもやありけん。こゝらは唯手杵の業わびしく、麦の秋・稲の秋、あはれは11)キヌタの丁東にもゆづらず。是をならべて七景とはなせりけり。さるはいとをこがましく、12)リョウトウの豕にも似たれど、賞心は必ずしも山水の13)キゼツにもよらじ。名にしあふみの人のみるとも、おのが八所の14)コウミにあかば、かゝる淡薄のけしきも又まづらしきにめでゝ、一たびの目をとゞめざらめや。



前回ご紹介した「法楽俳諧序」でも「此地に名におふ富士の高根を、こと山の間よりわづかに望めば、かねて富士見原ともいへりけり」とあったように、尾張・前津からは富士山が見えるのです。これは驚きです。富士山の裏と言ったら失礼かもしれませんが、猿投山など山々の間から名古屋方面からも見えるのは意外でした。当地の方々は御存じなのでしょうけどね。歌枕に採用されてもおかしくないほどの名所で詠んだ歌が残っていてもおかしくないのに、猿投山と漢字で書くと「猿」なので「少しくちをし」と也有。「万葉」とかなで書いた方が味が出るという。月夜の風景が一番であるのは間違いない「さなげやま」。

「草薙の御剣」とは、古事記にある日本武尊の伝説。東征を終えて、伊勢の尾津前の一つ松のほとりに帰り着いたとき、草薙の御剣がなおそのままにあったので、「尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松 吾兄(あせ=囃子詞)を 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 吾兄を」との歌を詠まれたという。「辛崎」は「唐崎」。「唐崎の夜雨」は近江八景の一つで有名です。七本の松を唐崎の一つ松に倣って一本に替える人にわたしは大反対するよという也有でした。

「蓬丘烟樹」は熱田神宮の森のこと。熱田神宮は蓬莱とも蓬が島ともいうことが岩波に書かれています。松風の里・夜寒の里・呼継浜・星崎など、尾張国の歌枕の多くがこの辺りの海岸に連なっていることを也有が認めています。

也有の住んだ前津のあたりに一時、遊廓ができていたことを記しています。それが「龍興寺鐘」。その昔の華やかな音が鐘となって聞こえてくることがあるというのですが、それは余りにも短い華であり、何とも物悲しい響きがある。遊廓が禅寺にかわり、まさに物換星移、栄枯盛衰ですなぁ。

「市門の暁鶏」と「隣舎の舂歌」はそれぞれ商人と農家の風景。「舂歌」はやや難しい。「臼搗歌」。臼で米や麦をつきながらうたう。也有の住んだ前津には当時のあらゆる階級の人々が生活していたことを表しているのでしょう。近江八景のようにただ単に綺麗な景色を集めたのではない。人々の息づかいもみている也有。最後のくだりはあくまで独り善がりではあるけれど、近江八景にはかなわないまでも、濃厚な味に飽きた人は私の選んだ七景もたまには味わいに来てほしいですね。味は薄いがさっぱりするよ。



■下線部A)は誰のことか?



■下線部Bの意味は。また、別の熟字訓で書け。

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俳諧と和歌をつなぐ「人丸」の謎をこの老兵が解いて見せようぞ!=「鶉衣」(19)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの19回目は、「法楽俳諧序」(続編中一四二、下巻128~132頁)を取り上げます。也有序文シリーズが定番となっておりますが、今回は黒田氏釜月子が頼んだ「法楽俳諧」に対する序文です。岩波の注釈によると、黒田氏は也有の俳友(こんな言葉あるんですね)で、「尾張藩士、俳人黒田甫の父で、前津に住んだ人、茶道にも通じた風流人」との解説が見えます。題にある「法楽」とは「神明に奉納すること、仏前で読経して本尊を楽しませる」の意。もともと和歌を奉納していましたが、江戸期になると俳諧も仏前で読経するように広がりを見せました。也有の時代は俳諧が隆盛したと同時に、もともと根が同じ和歌に対する回帰の動きも勃興しました。今回のお話を読むとそうした流れが良く分かります。まずは冒頭の「人丸」とは誰のことなのかを考えながら読み進めてみてください。南北朝時代の歌人である頓阿法師が、その聖像を百体も彫って全国各地に残して今に伝わるというのですが、御存知なら簡単。たとえ知らなくても後半になればヒントが登場し判明します。

1)聞説、むかし頓阿法師、みづから百体の人丸の聖像をきざみて残せしが、今も世にちりぼひて、たまたま和歌者流の家に求め得れば、こよなうかしづきもてはやしけることとぞ。2)邇日、黒田氏釜月子の手に、かの一体を求め出せり。黒田氏3)て城南前津の里に別荘あり。此地に名におふ富士の高根を、こと山の間よりわづかに望めば、かねて富士見原ともいへりけり。釜月子の厳父、過ぎし寛延の比ほひ、韓使の朝に来りける時、異客の手に請ひて、第一楼の三字をかゝしめ、則ち此別荘の号とす。此楼の向ふ所、富士はさら也、其余、参州の猿投、信州の御嶽・駒が嶽まで、皆一望の内にいる。南に指をうつせば、熱田・鳴海潟よりすべて当国の歌枕なるもの、十にして七八を4)ふ。5)に府下の第一楼なる哉。さればかの聖像をこゝに安置し、あけくれの富士にむかはしめ、石見潟・高津の松に見果てし月も、ふたゝびこゝにてらさむと也。

しかるに主人つねに俳諧の連歌に遊びて、和歌は専とせず。そも俳諧は連歌に出で、連歌はもとより和歌の流れにして、皆A)伯仲の風雅なれば、枝こそわかれたれ、根はおなじ柿の本の、何ぞ白眼し給はむやと、今一巻の俳諧をつらねて法楽に供へんとす。連衆已に定りて、予が老いたるを以て小序の求あり。6)ハクレツのあたらざるを慙ぢて辞せんとするに、またおもへらく、実に世の諺に年役といひ、若役といへる、手足を労し働くわざは若役の請とりにして、居ながらなす業は多く老年の課役となれり。今や一坐に頭をめぐらすに、B)あぢきなきかな、齢は吾が右に出づる人なし。よしや7)ビン髭を染めて若殿ばらと競はむは、たとへ病衰の思ふとも叶はじ。眼鏡にしばし筆をとらむは、難きより見れば易かりぬべしと、8)ヒロウはみづから年に託して、C)こちたくも此日の序者となんぬ。




「人丸」とは、万葉の歌人、柿本人麻呂のことです。岩波によれば、和歌の守護神であり、その画像は「人麻呂影具(エイグ)」として、歌会にはつねに飾られてきた、とあります。頓阿法師が百体もの人麻呂像を刻んだうちの一体が、也有の友人である黒田氏釜月子の手にあったのです。その別荘が也有の住む前津にあり、尾張国の歌枕の多くが存在する景勝地である。富士山も望めるという。そして、人麻呂は石見国にゆかりがあり、遠く離れた前津にその像を飾ることによって、あたかも人麻呂が歌に詠んだ「石見潟」や「高津」の風景を見ることができるというのです。

後半の段で「根はおなじ柿の本の、何ぞ白眼し給はむや」とは、和歌と俳諧の掛け言葉で関係を言っています。根っ子は柿本人麻呂からでているもの同士、俳諧をやる身とてどうして和歌のことを白い眼で見ることがあろうか。黒田氏が催した俳諧法楽に呼ばれた也有は集まった衆の中の最高齢であり、発句を詠むように頼まれました。文中にある「ビン髭を染めて若殿ばらと競はむは、たとへ病衰の思ふとも叶はじ」は平家物語に見える故事を踏まえている。斎藤実盛が、寿永二年、維盛に従って、木曾義仲を討つ時、ビン髭を黒く染めて奮戦したが、手塚太郎光盛に討たれたことをいう。老兵は去るのみとも言われますが、亀の甲より年の功との諺もある通り、徒に齢を重ねてきたわけではない。こんな私にも手柄を立てたいという欲はまだあるのだ。年寄り兵士の見栄と意地が綯い交ぜになっていますね。也有とて例に漏れません。伊達に長老を名乗るわけにはいきませんから。



■下線部A)はどういう意味か。


■下線部B)、C)の意味を記せ。



問題の正解などは続きにて。。。。





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夢に出てきた蠅は駿馬の尻に乗り千里の道を行くが如し=「鶉衣」(18)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの18回目は、「笠の次手序」(続編中一四一、下巻124~128頁)を取り上げます。今回も句集の序文を人から頼まれています。東羽とは現在の山形県にあたる出羽国のこと。東北に彼方に住む花雲と号した僧侶からの依頼。会ったこともほとんどないというのに趣味や心が通じ合っているようで、遠路はるばる手紙をよこして序文を頼んでいます。断るのも申し訳ない也有ですが、荘子に擬えた夢を見たことを書き連ねて序文に代えることを思いつきます。いや~それにしても中国の故事来歴がたっぷり詰め込まれています。也有の文章はとことん勉強になりますね。



東羽に花雲師は、予と時をおなじうし、好む所も同じうして、只其国のおなじからざる故に、つひにA)半面の識ともならず、わづかに紙筆に風雅を通ずれども、それさへ幾重の山を隔て、海を渉れば、あるは洪喬が1)フラチにあふこともなきにあらず。B)されども芦垣のまぢかくて、心のうとからむよりは、萩の葉の稀なる音信も、心のしたしきは老を慰む友なるべし。一日仮初に昼ねのひぢを曲げたるC)漆園の2)コチョウにもあらで、人もすさめぬ身は、似合しき蠅となりてたはむれしが、そこにも3)イッカの玉の上に、卒然として立ちどまりたるを、我ながらおほけなく物汚したる心地して夢さめぬ。蠅や我ならん、われや蠅ならんと、分別いまだ定まらざる所に、花雲師の消息到りぬ。4)を披けば、さればこそ書中にいへることあり、師曾てD)掛錫の所々、或は其地に5)モンジンの句どもを輯めて、「笠の次手」といへる一集6)シコウの志あり、予に其小序をそへよとぞ。先づ名を聞きてより、其集の玉なるべき俤こそおしはからるれ。さるに其地は文人の7)フクソウする東都にもいと近し、8)キンセイの序文は得るも易かりぬべきを、雲水遠き9)ヘイユウの老拙に請はるゝことや、E)たとへば崑山の下に居ながら、遥の鞍馬に便して10)ヒウチ石を求むるがごとし。実に不才のあたらざるを以て辞せむとするに、彼の思ひ合する夢あり。天已に是を定め、物已に知りて11)るまじきを諭すにこそと、只此物がたりを述べて其せめに代ふ。思ふにまた其蠅のかゝる笠の次手を得て、12)キビにつき千里に13)を遺さむは、李漢が韓文に序かきて、世にしらるゝためしにも似たりと、厚顔に筆とりてF)雁の14)を労することしかり。




この序文の最も面白い点は、荘子にある故事を捩って自分を蠅に擬えた点にあると思います。遠く離れた花雲師とはそんなに接点があったわけではないが共通の趣味でつながり同朋・同好の間であることでしっかりとつながっていました。「蠅や我ならん、われや蠅ならんと、分別いまだ定まらざる」。也有は、夢の中に蠅が出てきた時は、なにかしら自分が蠅になったようで嫌な気持ちになった。

そんな時に花雲師から便りが届き、心をもう一度きれいに澄みきらせる必要があると強く感じたのです。「笠の次手」という集題を見て、なお更に強くそう感じました。そして、夢の中でみた蠅が止まった「玉」がそれだったのだと気づきます。わたしに序文を書くように、天の神様のお告げだったのではないか。そして、この蠅であるわたしは親愛なる友人の句集のなかに名を残すことで世の中に送り出す価値を高めることができるのではないか。それはあたかも中唐の韓愈の文章を集めて、自ら序文を書いたことによってその名を世に知らしめた婿・李漢と同じようだ。ちょっと傲岸不遜かなと思いつつも手紙の返事を認めましたと結んでいます。あくまで韓愈が優れていて李漢は二の次ということですが、也有はその二人の関係に擬えて遜っているのです。

それにしても、自らを蠅に見立ててる自虐的な諧謔性は、くすりと読む人の笑いを誘うのは勿論ですが、かたや心の友を駿馬であると持ち上げる効果があります。そればかりか、その心の奥底では、普段は会うこともないがこうして夢の中でつながっているという人と人の絆を深めるインパクトも絶大です。荘子、孟子、後漢書、韓愈などあらゆる古典、故事が全体に彩りを添えており、常人の追随を許さない珠玉の文章に仕上がっているのです。しかし、なかなか自分を蠅には譬えられないなあ。。。せいぜい狗か猫か、あるいは狸か狐だよね。







■下線部Aは、故事成語であるがどういう意味か。

■下線部Bは、どういうことか。

■下線部Cは、古代中国の思想家である。誰のことか。

■下線部Dの熟語を読むとともに、意味を記せ。

■下線部Eはどういうことをいっているのか


問題の正解などは続きにて。。。




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世に言う古今和歌集の秘事をここに開陳す=「鶉衣」(17)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの17回目は、「三鴉集序」(続編中一四〇、下巻121~123頁)を取り上げます。也有はさまざまな人から自作の俳文集などの序文を依頼されることが多かった。彼らの意図を汲んでさらりとした短い文章でまとめあげることができたのは、卓抜なる能力に長けていたと言えるでしょう。

信濃なる駒が嶽は、名におふ富士の1)オモカゲして2)シイジの雪たえず。花の名所と呼べる吉野も、卯月のあらしに吹きちらされ、淀のわたりの郭公も声とゞまらず。須磨・更科の月といへど、山にかくれてあとの闇は、よのつねにかはることなし。よそにはなき雪をとゞめてこそ、誠に雪の名所ともいふべけれ。されども歌人の目にいらず、浅間の煙にだに立ち劣れる詠めを惜しみて、此国に3)コウズの三士、集作りて世に4)げむとす。集成りて題号を「三鴉」とはいかに。されば「古今集」に「三鳥の伝」ありて、それは安からぬ習なるよし。今又こゝに「三鴉の伝」あり。そも此5)センジャ三人の各羽の字を以て名とせる、いまだ其羽はいづれの鳥とも定まらざりしが、いでや今定めむとするに、もとより異国のことはとはず、我朝にても春ぞ秋ぞと季節あるものはむつかし。あるは山にかたより、水にのみ住めるは不自由なり。さらばかたよらぬ6)ジョウジュウの物をえらぶに、A)の羽は仙人くさく、B)は猛くて寂しみなし。ましてC)のむくつけなる、D)は山野にわたらず、E)は不情にF)はいそがし。只月にうかれて夜もすがらいも寝ず、雪の寒きにも朝起する鴉の羽こそ、俳諧に借るべき物にありけれと、終に此羽は此鳥に定りぬ。さてこそG)□□□のひかりさして、此集も世にはかゞやくならむ。是此「三鳥の伝」にして、我はた幸にきくことを得たり。7)カガクシャの「三鳥」は、われのみしりて、意地わろく人にをしへぬがうるさければ、此序に是をあらはして、センジャのもとめにかふるとしかいふ。


今回序文を頼まれた俳文集のタイトルは「三鴉」。岩波文庫によると、信州の羽跡・竹羽・巣羽の共編によるもの。宝暦十三年八月序、翌年刊行とあります。いずれも雅号と思われますが「羽」が入っている。当人たちだけはそれが「鴉」の羽だと知っており、也有もそう聞いている。この序文を書くに当ってその「秘密」を開示することとし、故事来歴を交えて紹介する、お洒落な逸品となっているのです。

文中にある「古今集」に「三鳥の伝」というのは、「三木三鳥」(サンモクサンチョウ)の伝のことで、歌学の古今伝授における秘中の秘の一つとされています。それぞれが何を指すのかは、歌学流派によって異なるようですが、一般的には「三木」とは「をがたまの木」「めどにけづり花」「かはな草」、「三鳥」とは「百千鳥」「喚子鳥」「稲負鳥」とされます。

也有の序の面白いのは、この秘伝を捩って「三鴉」と名付けた由来を説いている点にあります。そして、本来秘伝であるべき「三鳥」の内容をこうした形で公開したことによって、秘伝でも何でもなくするという意味において諧謔性に溢れているのです。歌学の閉鎖性を暗に当て擦りながら、何でも受け入れて材料にしてしまう俳諧の開明的な優位性を説いたのかも知れませんね。




■空欄A)~F)にそれぞれ入る鳥を選択せよ。

鳩・鶏・鷹・鳶・鶴・雀


■空欄G)には「黒」「夜」「夕」「月」「夢」などにかかる枕詞が入る。漢字三文字で記せ。

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亡き翁も顔を綻ばせる「尾張五歌仙」の復活=「鶉衣」(16)


江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの16回目は、「秋の日の序」(続編中一三三、下巻103~105頁)を取り上げます。芭蕉亡きあとも後人たちがしっかりとその跡を継いでいることを実感した也有が喜び勇んで筆を走らせているさまが目に浮かびます。自分もその中に加われているという自負もちらりと顔を覗かせています。

蕉翁生前のA)七部集とて、世にあがむるが中に、「冬の日」の集は「尾はり五歌仙」ともいふなりけり。しかるに、暮雨巷の門人騏六なる者の家につたへとゞむる一巻の歌仙あり。これは往昔竹葉軒のあるじの、翁を招きて其日になれるものにして、其坐の荷兮が筆したるまゝに遺せる也。いづれの集に出でたりとも見えず。されば暮雨巷暁台子是ををしみ是を尊みて、社中をかたらひて四巻の歌仙をつらね、再び「尾張五歌仙」を継がむとす。1)稿なりて閲するに、誰かはB)狗の尾をもつて2)テンを続ぎたりといふべき。祖翁の魂、もしかへりきたるとも、C)3)セイガンにして賞し給はむ。今人なしといふべからず、実に本州の面起すともいふべし。4)ジョウシャに臨みて予に一語をそへよと請はる。5)嗟乎是また蕉門の6)セイジ也、何ぞ口を7)ツグまんやと。年は明和の五めぐり龍証方に集まる比もあひに逢ふ冬の日の、短き筆さしぬらして、聊責をふさぐことしかり。


1772年(安永元)に元尾張藩士、加藤暁台(=暮雨巷、1732~1792)が編集し刊行した俳諧集である「秋の日」に綢わる経緯が記されています。これは、岩波によると、かつて貞享5年7月21日、芭蕉が名古屋の竹葉軒長虹を訪ねた折の七吟歌仙が、暁台門の騏六の家に伝わっていたのを巻頭にして、暁台一門による四歌仙を加えて、「冬の日」五歌仙につぐ「尾張続五歌仙」(見返し題)として刊行したものとあります。芭蕉の発句「粟稗にとぼしくもあらず草の菴」が載せられています。

也有によれば「実に本州の面起すともいふべき」と述べており、「尾張俳諧界の面目躍如」と大絶賛です。この短い文章に籠められた蕉門隆盛に対する熱い思いが顕れています。ちなみに、最後にある「年は明和の五めぐり龍証方にあつまる比もあひに逢ふ冬の日」は少し、冗長で見慣れない言い回しです。「龍証」というのは「龍集」というのが一般的で、元号の後ろにつき「一年」をあらわす。「明和5年の年」くらいの意味です。「龍」は木星のことで「集」は「宿る」の意。一年に天空を一周するので一年を表す。通常は、元号+「龍集」+干支と表す。2011年の現代ならば、「平成二十三龍集辛卯」となります。「歳次」「龍次」ともいいます。古文書などを見ているとときたま見かけます。覚えておいて損はない。試験問題には出ないけど。。。。。



■下線部A)は、蕉門の代表的撰集である所謂「俳諧七部集」(別称「芭蕉七部集」)のことである。全てを列記せよ。

■下線部B)は中国の故事を踏まえた表現だが、何を言いたいのか。

■下線部C)は、誰がどうするということか。

問題の正解などは続きにて。。。




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釣鐘のように重い思いで照らせば暗闇に提灯は必要なし?=「鶉衣」(15)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの15回目は、「為或人書序」(続編中一二三、下巻81~83)を取り上げます。親を大切にする心持ちの大切さを説いています。「或人」が孝養の情に厚く、也有の琴線に触れたようで、そのさまを称えている文章になっています。

五十にして親を慕ふは、世にありがたきためしとか、昔1)タイケンもの給ひし。七十にして慕ふ人、今参陽の2)キザン翁か。此秋3)センコウの五十回の忌に、仏事4)サゼンのいとなみはさら也、其生前にすける道とて、四方の俳士に手向の句を求む。されば心の水の浅からぬより、かげ見ぬ人までもよせおくり、やごとなきかたにもきこえあげて、かたじけなく給はりし句どもゝありとか。誠に人を動かすこといつはりにはあらざりけり。そもかの先人烈志子は、貞享・元禄の比にありて、其角・嵐雪が5)を友として、深く風雅に遊べりとぞ。其世の詠句は古集にも見えたり。其子・うまごまでも猶風月の才に富めること、ためしはた世に多からむや。昔曾子が6)ヨウソウを食はざるは、父の7)タシナみしことをわすれざれば也。今此キザン子の俳諧を翫べるも、又父のタシナめるを慕へば也。それは孝よりして捨て、是は孝よりしてすてず、捨つると捨てぬと表裏ながら、追慕、孝情の重さを荷はゞ、只釣がねとつり鐘にして、挑灯のさたに及ばず。もとより挑灯何ぞたのまむ、孝子の追福よく8)冥闇はてらすべしとぞ。


冒頭の一節、「五十、云々」は「孟子・万章章句上」に載る「大孝は終身父母を慕ふ。五十にして慕ふ者は、予、大舜に於て之を見るのみ」を踏まえています。自分が五十歳になって親のことを慕える気持ちでいられるのは珍しいことだといいます。現代のような長寿社会ならいざしらず、短命の多かった当時は矢張りそうそうあることではなかったのかもしれません。ましてや今回の主人公である「箕山翁」は七十歳にして亡父五十回忌をおやりになられている。感心しきりの也有です。

その「烈志子」は俳諧にも通じておられ、芭蕉翁の高弟である、かの宝井其角や服部嵐雪とも親交が深く、俳諧を詠じ合った間柄であることは何とも素晴らしいことではないか。その子孫がみなみな俳諧の際に富んでおられるとは稀有なことである。曾子が父親の大好物だったナツメを口にしなかったのは、父親を敬慕して余りあるが故の行動だったが、かの箕山翁が俳諧を嗜んでいるのもかの父親の影響が大きく、敬慕しているからなのである。

曾子は敬慕の余り(羊棗を)捨てたのに対して、箕山翁は敬慕の余り(俳諧を)捨てなかった。表向きは「捨てる」「捨てない」と対照的ではあるが、その父親を敬慕する思いは文字がちょっと違うだけで同じように重い。「釣がね」と「つり鐘」ほどの違いにすぎず、言ってみれば二人共が父親に対する敬慕の情は、諺にある「提灯と釣鐘」ほどの差がある重い物である。故人の徳を偲ぶには提灯などで照らす必要はあるまい。何となれば、孝行息子には追福の情が余りあるので暗闇などなくなってしまうから。

「提灯と釣鐘」は「月と鼈」と同様の喩えをいいます。形は似ているが重さや大きさは天と地ほども離れているというのです。釣り合いの取れない男女のカップルを皮肉っぽく言う場合に用いますが、ここは曾子の孝養の情を引き合いに出して、友人である箕山翁の父親に対する思いの深さを形容しているのです。それにしても父親の五十回忌を為すというのは我が身に置き換えてみれば途方もないことだと思わざるを得ません。幸い、迂生の父親はいまだ健在であり、迂生の年齢から言っても五十回も命日を迎えるのは計算上成り立ちませんね。

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「小便にも一徳」、何せ生きているからこそなのです…=「鶉衣」(14)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの14回目は、「一徳弁」(続編上一一二、下巻49~55)を取り上げます。一見すると「九損」あるいは「十損」しかないと思える物にも「一徳」はあるというお話。也有が御題にしたのは、……ちょっと下ネタです。御心配なくそれほどに際どい内容ではありませんから。くすりと笑えます。安心してお読みください。

1)マリをすかぬ人は九損ありとそしり、好く人は一徳ありと尊ぶ。あらゆる遊芸九損はこれに限るべからず、もしは十損もしりがたし。さはいへ、いかなる不用の事にも、しひて求むれば一徳もなきといふ事なし。つらつらおもふに、人のもとめてなす業の外、天よりしからしめ、身に備りたる業は何ぞといふに、只飲食と二便にとゞまる。然るに飲食の重きこと、聖主の国を養ひ民をめぐむといへるも、2)ヒッキョウはたゞ飲食なり。さるから、奢れば法にすぎて、三条中納言の大食には医師もあきれて逃げ、何曾が3)バンセンには料理人の手も廻らず。されど二便はこれが類にてもなし。4)セッチンに高麗縁の畳を敷き、きんかくしに5)マキエを粧ひ、たとひおかはを6)ナシジにするとても、いくばくの費えをかなさん。道具好の茶人とても、南京7)セイジのしゆ瓶は尋ねず。しかれば出入の違ひありて、飲食とは各別のさた也。

そも又大小の二ツが中に、大は人の平生に長セッチンの時をうつすも、8)かに一昼夜に一両度に過ぎず、只小便のわづらわしき、さのみ隙はとらねども、しきりに是を催す時は、いかなる公卿・僧正も9)コシグルマにたまりかね、武者の戦場に急なる場にても、草摺をたゝみ上げて、思はぬ敵に後をもみすべし。まして談議芝居の中に、こらへ袋のきれかゝる時は、群集の膝をおし分け出でて、往生の要文を聞きもらし、大事の狂言の所作を見残す。あるは下馬先に供をはづす鎗持、長舟にもみ尻する女中など、是が為に悩まさるゝ事世に多し。されど馬方・小揚の身の上のみ、あるきながらもやり放し、清水をけがし、雪にも跡をつけて、人目を恥ぢぬは論ずるにたらず。

かくとりへなき物なれども、猶其徳を尋ぬるに、地蔵の開眼に、一休の法力は茶のみ噺の真偽をしらず。昔10)コウモンの会に、高祖は是にかこつけて危き座敷をはづし給ひ、越王はこれをなめて11)カイケイの恥をすゝぐ。今も世上の途中にて、いやなる人に行きあうたる時は、たちやどるべき家もなく、逃ぐる方なき道芝の露とこたへて消えたき時には、件の用をとゝのふ振にて、やがて溝端に後をむけて、時宜にもおよばずやり過したるぞ、此ことなくてはいかで此難をのがれん。これを小便にも一徳ありといふべし。幼子の居びたれは乳母の油断と叱られて、其子の12)にはならざるを、老人の取はづしは子にも恥かしく、娵にうとまれて、老いてふたゝび児とはいへど、昔の児より大きにきたなし。さらでも老の身の苦しき、霜冴ゆる夜もすがら、深草の少将の九十九夜を一夜の心地して、見る人もなきといひけん師走の月を、あかぬ顔に詠めて折々通ふ寒さは、13)御衣をぬがせ給ひけん有りがたき御心にも、是迄の事はおよぼしもよらざるべし。あはれ今宵も風さわがし、幾度の行きかひかせんと、寝よとの鐘に寝所とゝのへて、例の縁ばなにまづ立出でたるに、14)余所にも夜なべの身しまひにや、戸のからからと鳴る音のしければ、一首はかうぞおもひつきける。

死ざまに念仏申さぬ人はあれど
ねざまに小便せぬ人ぞなき



今回のテーマは排泄に紆わる損と徳。冒頭、遊びごとが人にとってほとんど利益をもたらさないという世の戒めを説いています。百害あって一利なし。ギャンブル、賭け事などがその最たるものなのでしょう。也有は、どんなものでも見方を変えれば「一徳」はあると温かい眼差しを注ぎます。例えばとして上げた物が「飲食」と「排泄」。飲食にはお金を掛けるが、排泄にはお金は掛けない。人に入る飲食と人から出る排泄の「出入」の大きな懸隔と言えるでしょうか。

排泄と言っても、「大」と「小」とがある。大はせいぜい一日に一度か二度あるかの頻度ですが、小の方は限りなく細かく「わづらわしき」ことこの上ない。一回一回の所要時間は大したことないのですが、塵も積もれば何とやらで、戦場や芝居見物などで催すと、事によっては肝心かなめの急場を逃してしまうこともあると言うから、聊か大仰ですな。身分の低い場合は、至る処、垂れ流してもお構いなしですから、これは人間として恥ずかしいことこの上なき、この上なき。。。

也有に言わせれば「とりへなき物」ではありますが、その「徳」を尋ねればこれがまた奥ゆかしいばかりにあるのだともいう。一休僧正、鴻門之会、会稽之恥。。。古来、下ネタでピンチを脱したエピソードも数多い。いまなお、遇いたくもない人とすれ違う場合、トイレをするふりこそ最も簡単で効果的だという。「これを小便にも一徳ありといふべし」。也有の弁です。とはいえ、赤ん坊のおねしょは乳母の怠慢、老人の粗相は嫁に憎まれる始末。ああ見苦しや、恥ずかしや。

斯く言うわたしだって、老いさらばえた身。寒き冬の日の夜に、小野小町に通った深草の少将ではないが、吉田兼好も詠んだ師走の月をながめながら、トイレに何度も通うはめになったのは迚辛き事。醍醐天皇がお着物を脱いで民の苦しみを悟ったのだが、このわたしは夜気の寒さが身にしみる。ああ、齢は取りたくないものだ。夜ごとのトイレ通いがこんなにも堪えるとは。。。そこで一句、死に際に念仏を唱え忘れることはあっても、寝る前にトイレに行き忘れることはあるまい。ああ、哀しき生理現象。トイレはするのではなくて、させられるのだよなあ。。。これって生きている証だもんなぁ。。

軽妙な流れ。分かりやすいたとえ。卑近なものを題材に笑いを取りながら、真理を看破する巧みなプロット。これぞ也有ワールドの真骨頂ではないでしょうか。前回御紹介した「贈或人書」が余りに特定の個人攻撃が過ぎていて少し眉を曇らせたのとは対照的。表面的に見えないどこかにぴりりと辛いひと粒が雑じっているのだけれど、全体には何ともいえぬ諧謔性に富んだペーソスが溢れている。こんな文章を書きたいものです。


問題の正解は続きにて。。。


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森川許六よ、俺はお前のことが大嫌いなのだ!=「鶉衣」(13)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの13回目は、「贈或人書」(続編上一〇六、下巻28~36)の後半を味わいます。この書は「或人」として「吾子」を諫める形を取っていますが、どうやら、芭蕉の跡を受け継ぐのは自分だと公言して憚らず傲慢の譏りもあった森川許六の批判を展開しているようです。その許六が十歳の息子に、武士の心得を説いた遺誡としてしたためた「射御の弁」の内容が一々気に入らないようです。何故、也有が許六をここまで嫌いなのかは判然とはしません。


昔或人歌を自讃して、「この歌の心の奥はよもしらじ定家家隆も釈迦も達磨も」と読みたる返しに、「釈迦達磨定家家隆もしらぬうたくそのやくにもたゝぬなりけり」とはよみしが、其ためしも思ひ出でらる。師匠が下手ならば、弟子は師匠を越すもあるべし。只我のみにほこるは、遼東の1)イノコ也。めづらしさうにかきたるにて、「のこりの衆の思ひやられて」と云ふ或狂歌の下の句やつくべからむ。佐々木・梶原が先陣を評して、2)カラメテ数万の油断人、一騎も残らずわたしたれば、鎌倉にての荒言も少しは是にて戻りけりとは、余りに不案内なる心得違ひ也。二騎より外渡されぬ川ならば、何しに不覚の先陣して犬死をばすべき、後陣のつゞく川と見たればこそ、先登の功は立てたれ。抑武芸十万人に勝れたりとも、用ふるところ不義ならば、A)明智を誅せし土民の竹鎗にも劣るべし。しかるに功なり名とげて余力あらば、仁義五常の道を学びもすべしとは、碁・象戯も舞謡もおなじ物と覚えたるや。そもや五常の3)キクにはづれて、何を以て其功をなし、何を以て其名をとげむ。B)家を建てて後に地築せよといふがごとし。功なり名遂ぐるとは、我が行ひの仕上げを云ふ也。老子は身退けといひたる、已に暮合比ぞかし。夫から仁義の学問は、隠居してからいろは習ふに異ならず。仁義五常と云ふ詞も重言にしてくどし。外に鼓・三線にのせる五常もあるかはしらねど、先づは五常のうちに仁義はありて、仁義五常といふに及ばず。C)願人坊主がかのえ庚申かのえ庚申とよびありくとおなじこと也

我はそも俳諧はしらねど、釈迦の鼻をせゝりたる蠅が金色の光もさゝず。孔子の肌着を這ひたる蚤に道徳備はる物にもあらず。勧学院の雀が「蒙求」を4)サエズれども、「だみたる声を啼かぬ也けり」と、5)生立をほめたる鶯には及ぶべからず。されば其世に生れ合せて、6)セキトクの直弟とても、必ず上手とも極め難し。しかるに「滑稽伝」・「直指の伝」を見れば、祖翁の血脈をうけて、俳諧文章の名人は我一人也とはすゝどし。そも又翁の方からも、此一人に渡したりとの売上げ証文のさたを聞かねば、心もとなき様なれど、俳諧は定めて上手にてやありけむ。武士道は只臭くして7)しくはおぼえず。泰平の代に手ぐすね引きて、楠・村上が上に立たむと大言いふ人も、其場に臨み其ことにあづかざれば、ほかほかとはうけとられず。さるを聖賢もこり給ひて、「言を以て人を挙げず」とはの給へり。是を我里にては陰弁慶とはいふ也けり。

「文選」は俳諧の文集とこそきけ、此一篇にやさしきこと葉もをかしき語もなし。我子への異見ならば、部屋の壁にはり置くにはしかじ、何故にD)此弁はありやと、潜に謗りたる人もありしぞかし。是臭きが故に蠅のたかるがごとく、人も其非をいひたがる物なり。されば武を講ずるも兵を鍛ふも、武士には勿論と云ふ付合なれば、俳諧においてはいとうるさし。早々此号を改め給ふべし。我も武門に生れたれば、第一に先づ鼻を掩ふ。E)たゞしかくいふも則ち臭きやらん。さればこそ臭きもの身しらずといへば、少しの匂ひは8)し給ふべからず。


■下線部A)の「明智」は「明智光秀」のことである。どういう喩えか。

■下線部B)はどういうことか。

■下線部C)は何を喩えようとしているのか。

■下線部D)は何を指すか。

■下線部E)は也有自身のことをいう。どういうことか。



「新古今和歌集の撰者である藤原定家・家隆にも、釈迦も達磨も自分の歌の真髄分かるまい」と傲慢限りない歌を詠んだ人がいるけれども、その返歌では「藤原定家・家隆にも釈迦にも達磨にも分からない歌がどんな役に立つというのか」と詠んでやった。「佐々木・梶原が先陣」は平家物語のハイライトシーンの一つ「宇治の先陣」を指す。源義経勢の佐々木高綱と梶原景季の宇治川の先陣争い。佐々木は許六の祖先であるという。許六は「射御の弁」で、巧言を弄して先陣を果たした佐々木高綱のことを持ち上げているのですが、也有からすれば手前味噌。武家が功を立てるのは「功なり名遂ぐるとは、我が行ひの仕上げを云ふ也」。老子を持ちだして、引退後に初めて言えることであって、仁義の学問もその時から始めるものである。許六は「仁義五常」にも言及しているのですが、「五常」という仁義礼智信と仁義が重複しているなど怪しい言辞だと批判。ちゃんちゃらおかしいぜと言っています。許六の「射御の弁」も読んでみたのですが、武家の本分とは何かを説いているのですがどこかしら自慢に終始しており、鼻持ちならないと言われればそんな感じもします。それにしても斯くも也有が許六のことを毛嫌いしているのは何故でしょうか。芭蕉を出発する俳諧界の内紛や系統については疎いので分かりません。也有の思いが滲み出ている文章となっています。「或人」と宛も友人を装っているのですが、もしかしたら、許六その人に宛てているつもりなのかもしれません。もちろん時代は重なっておらず、芭蕉の跡を継いでいるという許六の態度が、同じ武家の出として許せなかったか。

「『滑稽伝』・『直指の伝』を見れば、祖翁の血脈をうけて、俳諧文章の名人は我一人也とはすゝどし」。也有が許六を最も痛烈に批判しているくだりです。「すゝどし」とは「わるがしこい・こすい」の意。自分の書いた書物の中で、芭蕉の後を受け継いで俳諧文章の名人は自分であると豪語した許六のことを指しています。也有自身は俳諧は下手糞で蒙求をさえずることもできないと謙虚極まりない(ある意味嫌味にも聞こえますが)半面、ぬけぬけと自慢する許六を扱き下ろします。

最後の段の「文選」とは、中国のそれではなく、許六の「本朝文選」のこと。武家が武家を誇り、本分でない俳諧にもその臭いをぷんぷんさせる態度をどうしても受け入れることができない也有の苦虫を噛み潰した顔が浮かびますね。泰平の世における武家の存在感とは何か。どんなに剣術の腕を磨こうとも、現実にそれを試すチャンスはない。武道を窮めるのは当たり前でも多くが宝の持ち腐れ。したがって、文の道も大事になってくる。俳諧の世界に目を向ける輩も多くなる。したがって、也有は、武士が俳諧を嗜む際の節度を説いているのだと思います。殊更に文武を声高に叫ぶ必要はあるまい。武の世界を俳諧に持ち込むことほど愚かしいことはない。

一つのこともできない輩がどうして二つ三つと成就できようか―。急がず慌てず寄り道せず地に足を着けた行動を規範とするよう戒めてみましょうかね。

ちょっとまとめきらなくて申し訳ないのですが、今回の「贈或人書」は也有の文章にしては個人攻撃の舌鋒が鋭すぎるきらいもあります。武家と俳諧の関係を探る上では貴重な資料の一つとなることだけは間違いないでしょう。迂生の力量ではこれ以上深めることは出来かねますのでこの辺で退散いたしましょう。。。

問題の正解続きにて。


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武士の持ち前は武道、俳諧は趣味の領域に過ぎず…=「鶉衣」(12)

江戸中期の俳人、横井也有の「鶉衣」(岩波文庫上・下巻、堀切実校注)シリーズの12回目は、「贈或人書」(続編上一〇六、下巻28~36)を取り上げます。普段温厚な也有翁が何やら多少怒気を含んだ口調で友人のことを諌めている文章を見つけました。冒頭、「吾子」(ゴシ)で始まり、「あなた」「きみ」と相手を親しんで呼び掛けています。ところが、文中到る所に「あら面白からずや」「臭し」などの文言も見え、不平不満を感じていることがはっきりと分かります。一体全体、友人の何が気に入らないのでしょうか?比喩的にさまざまな故事来歴が盛り込まれており、理解するのに難解な部分も多い半面、含蓄に富んでいて現代人にも箴言となること必定の文章です。文章はやや長めですから上下二回に分けることを御容認ください。



吾子今「講武」を以て1)ケンゴウとし、句にも俳諧にも用ひて名とす、あら面白からずや。吾子はもとより武門の人也。紙売る者の暖簾に紙屋としるし、油売る家の看板に油屋と名のるは、買ひよる人のまがふまじきためなれば、其いはれあり。吾子たゞ風雅の2)ヒイキより、武道も一つに混ぜんとす。私心の迷ひといふべし。3)を横たへて詩を賦するも、扇を敷きて歌よみけるも、A)それはそれ是は是にして、しかも是を以てそれをあやまらず、それを以て是を害せず。文武二道と称するは、其事跡を見て4)コウジン是を嘆美せる也。「我れ」と名のることは甚臭し。


五老井が「射御の弁」すら、或人是を評して曰く、「其文の始には「武士の武士臭きは鼻を掩ふ」と書きて、人の謗りに針をさし、「武芸をあてにすべからず」といひて、他の嘲に蓋をして、さて其末に書きたる一篇、臭きこと5フンドのごとく、芸の自慢は傍若無人也」。律を知りたる僧の破戒6)ムザンと、経学にわたりたる人の7)フギョウセキなるは、あしきをしりつゝあしきをなせば、世にいふ「三宝の捨物」にして、8)イケンも治療もほどこす所なし。B)白蔵王も口を閉ぢ、扁鵲も手を袖にして、只つくさせて見るより外なし。新当流も正法念流ももとより武士の常にして、それがこゝへ出ることにはあらず。誰か武門に生れて是をたしなまざるべき。二流三流の印可免許も此辺にては珍しからず。天下の名人はおのづから人もしり世に顕はれて、各別のさた也。C)「世に馬を見ると云ふ人あれど、山上入道の名をだにしらず」とは、入道が身にとりては迷惑なる披露なるべし


也有の友人は武家であり、俳諧の友でもあるのですが、その俳号を「講武」としています。武士にとって「講武」、すなわち武門を学ぶことは当たり前のこと。それを俳号に用いた点をとらえて「武道も一つに混ぜんとす」と断じ、熱心に俳諧に取り組んでいる余り、本来の持ち前であるはずの武道を軽く扱っているように見えたのでしょう。風雅の一つに過ぎない。翻って、俳諧の世界も御座なりの風情が窺え、どちらも中途半端というか、生半可に取り組んでいる姿が也有からすれば鼻持ちならないというのです。自らが文武二道を声高に叫ぶことほど傍ら痛い物はない。文武二道を重んじるというのは他者が見て評価するべきものであって、当人が偉そうに掲げるものではあるまい。。。

「五老井」とは、岩波によると、「蕉門森川許六の庵号」。許六は蕉門十哲の一人でもあります。画にもすぐれるなど、孔子のいうところの六芸に通じ「許六」と名乗っていたようです。許六編の俳文集「本朝文選」(改題後「風俗文選」)の巻九に「射御の弁」を書いていて、許六が弓・剣術・鑓など武道の諸技に熟達していたことを記していたとあります。しかし、読む人が読めば単なる芸自慢にすぎないと酷評もされていると也有は言います。武道は殊更に誇るべきではない。「三宝の捨物」とは、仏法僧に見離された、堕落した人のことを言います。戒律を破って何とも思わない僧侶や身持ちの悪い儒学者なども引き合いに出して、馬鹿に付ける薬は無いと扱き下ろしています。「新当流」も「正法念流」も武家の流派も許六が学んだと書いていますが、武士ならば当たり前のことで、わざわざ明記する必要もないし、二つや三つの「お墨付き」をもらったくらいでは自慢にもならないではないか。真の名人は黙っていてもその名声が聞こえてくるもの。この段では森川許六の傍若無人な自慢話を例に出して友人を諫めているのです。



■下線部A)のそれと是に留意して解釈せよ。

■下線部B)はどういうことか。二つの故事を踏まえて解釈せよ。

■下線部C)の「山上入道」は刀槍の達人でるが、何を言いたい喩えか。


問題の正解などは続きにて。。。



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不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
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