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即座に雨を降らす有り難い「咒符」で飲み水はOK?=「飛騨の山と越の海」(8)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズから、「飛騨の山と越の海」の8回目は、だらだら続けてきたものの特段のエピソードもない「四 橘の渡」の「その4」です。須原神社は現在、洲原神社というのが正確のようです。養老年間創建と言いますから奈良時代、千三百年以上も経過している「大静大寂、太古の村に游ぶの想ひあり」という古い神社です。農業信仰の厚い神社のようです。んでも、そろそろ次に進みましょうね。。。


 渓に背きて山に入り、山を出でゝ後は渓に傍ふ、路は次第に仰ぎて馬歩甚だ1)む、行くこと二里、須原の村に入りて少憩す、須原神社あり、養老年間の創建にして諾冊(だくさつ)両尊を祀る、危磴大渓に向ふて立ち、登り尽せば楼門あり、門に入れば拝殿、神殿、寒嵐冷雲の中に幾多の2)ネンショを歴たれば、画梁絵楣、丹古り朱老ひ、技巧以外に一味の蒼涼3)ユウエンの趣を添へ、大静大寂、太古の村に游ぶの想ひあり、此の社、雨の咒符なるものを出し、毎歳三伏久旱の時に至れば、遠く尾張、三河、伊勢の農人来り賽し咒符を受け、これを青竹の先に挿みて4)ホウジして還るといふ、而も若し過つて其咒符を地に卸すことあらば、即時に雨を降すの5)キズイありとて、茶店の少憩にも交る交る之れをホウジし、旅館に宿りても、宵より旦に至るまで6)テイバンに之れを擁護すとぞ、余も亦た此のキズイある咒符両三枚を乞ひ得て、盛暑山中に7)コントンすることあらん時、随所に8)カンウを獲んことを思ふ。

★「咒」は「呪」の異体字。「咒符」(ジュフ)は「災厄を避けるための、まじないふだ、護符」。

★「三伏」(サンプク)は「夏の極暑の期間。夏至後の第三の庚の日を初伏、第四の庚の日を中伏、立秋後の第一の庚の日を末伏という。時候のあいさつで極暑の候をいう」。

★「久旱」(キュウカン)は「ながいひでり、雨が長期間降らないこと」。



最後に出てきた「雨の咒符」。雨を降らす御利益がある農家にとってはありがたい護符です。麗水は盛暑山中に困頓することあったら、お恵みの雨でも降らせるために三枚を購入したとやや茶化し気味です。農家にとっては真剣なのに。。。罰が当たりますぞ。。。

問題の正解は続きにて。。。


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鬱悒なる宿を忘れ墨絵の如き風景に酔い痴れる=「飛騨の山と越の海」(7)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズから、「飛騨の山と越の海」の7回目は「四 橘の渡」の「その3」です。六人が乗り合わせた馬車は長良川の渓流沿いを進みます。辺りは絶景の連続、麗水の筆も美文となって迸ります。

 円石を排置したる板葺の低屋に交はる瓦屋の層楼、1)シンシとして九百余戸、刀鍛冶にて名高き関町に次げる中濃の小繁華の2)を過りて、終に乗鞍岳3)サンイに嚮ひ長良川の渓流に傍ふて進みたり、橘の渡を渡る、乱山水と共に奔りて頽嵐凝碧相4)エイタイす、日はいまだ峰を出でず、雲静かに度り靄は澹く籠め、渡りて中流のところに到れば嶙々として石白く沈々として水青く、5)スイビ細やかに吹いて人の鬢髪を揺かす、岩陰の泊舟、水を汲み竹を焚いて朝の餉(かゆ)を煮るにやあらん、軽烟一抹裊々(でうでう)として6)苔磯の辺に低迷す、宛然たる一幅青緑山水の図画なり、舷を敲いて7)欸乃一声山水緑の唐詩を長吟すれば、木応へ石言いひ、8)ヒョウヨウして遥かに9)ウンショウに入る、

★「裊々(でうでう)」は「ジョウジョウ」で「しなやかにまといつくさま、そよかぜやけむりなどのなよなよとしたさま」。嫋嫋も同義語。



唐詩を口にすれば木や石が言葉を発しゆらゆらと空高く舞う。そんな空気が立ち籠めています。恰も一幅の墨絵の如き風景に酔い痴れる麗水でした。昨夜泊った鬱悒(いぶせき)なる宿の存在はとっくにお忘れですな。この項はまだ続きます。


問題の正解は続きにて。。。



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顔見知りの熟年夫婦ならぬジュクメン夫婦とはこれ如何に=「飛騨の山と越の海」(6)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズから、「飛騨の山と越の海」の6回目は「四 橘の渡」の「その2」です。馬丁の勧めで泊まった宿はとんでもなく鬱悒の宿でした。襖子の引き手の金物が剥がれていて穴が二つ開いているさまは、「メクラのにらみ」と形容しています。おお~こわ。。

  雪隠に隣れる湯殿にて、式(かた)ばかりの浴(ゆあみ)したる後、盆を膝にして1)ザスイする2)ショウヒを幾たびか喚覚して寂しき夜食を終り、青より黄に3)ける破蟵子(やれかや)、石のごとき蒲団、木枕、携へ来りし空気枕して眠りに就きしに、蚤奴の4)バッコを奈何せん、午夜まで覚めたる後は知らず、夜明けて起きて膚を検すれば、宛ら紅5)コウケツ

 今日は九月の二日とて、二百十日の荒日なるを、日は麗かに霽たり、午熱こそ思ひやられる、A)■■(ゆふべ)の馬丁来りて、八幡まで馬車に乗らんことを勧め、主個(あるじ)も和して余に説きぬ、余が志すところは飛騨に在り、宜しく応に半日の脚力を6)みて、嶙峋(りんじゅん)踏破の勇を養ふべしと思ひて、其の7)カンゼイを容れ、終に復た馬車に乗りぬ、客は8)ジュクメンの祭文語夫婦、此の町の9)コジン二、鴻の台なる第一師団騎兵聯隊の下士君、余を合せて六人なり。

★蟵子(かや)は「蚊帳」。この「蟵」は国字です。

★嶙峋(りんじゅん)は、「山が重なり連なるさま、行っても行っても山また山」。



和訓語選択。

A) 「ゆふべ」=「ゆうべ」→セキジツ・コウコン・チュウセキ・シンタン・シンコウ

一刻も早く退散する麗水。この日は所謂「二百十日」。立春から数えて二百十日目。九月一日のころで、ちょうど中稲の開花時期に当たり、台風襲来の時期とも重なることから、農家では厄日として警戒するのですが、打って変わって快晴に恵まれました。逆に昼過ぎは暑くなることが思いやられます。すると馬丁が八幡まで再び乗合馬車に乗ることを勧めます。半日でも脚力を温存してきたるべき山岳旅程に備えようという誘惑に駆られ同意します。今回の客は六人。ジュクメンの祭文語の夫婦とは面白い表現。熟年夫婦ならぬジュクメン夫婦。商人が二人、そして、騎兵連隊の下士。きゃぴきゃぴの化しまし娘は今回はなしで~す。ちょっぴり残念??この項はまだまだ続きます。

問題の正解は続きにて。。。

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「塊芋山水」って何?安いのには訳があるんです=「飛騨の山と越の海」(5)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズから、「飛騨の山と越の海」の5回目です。白雨降って固まった地面は、清々しい想いと共に最初の宿である上有知に辿り着きました。打ち解けた?かしまし娘たちとは残念ながらお別れしたようです。ところが、一難去ってまた一難。宿がいぶせき(鬱悒=いとわしく、きたない、むさくるしい)ことこの上ない。とにかく安宿は安いだけあって居心地が最悪なのです。


四 橘の渡


 馬丁に導かれて宿りし家は、1)に小間物を売り、奥にて宿屋を営めるいぶせき家なりき、星月夜の下に2)ベッカしたる3)微白の町の様より猜すれば、好箇の旅館あるべきを想ひたる余は、悔れども門に入りては回避すべきにあらず、占め得たる一室は兎も角も此の家の4)セイチョウと覚しく、床に塊芋山水の怪しげなる一軸懸り、楣間(なげし)に偽鉄舟の匾額(ヘンガク)を挂けたり、低き天井、5)雨暈の襖子、襖子の引手の金物6)ハクラクし去りし跡の孔二個並んで、7)カッシャの眼のごとく人を8)むも怖ろしや。

★「楣間」(なげし)は、長押。日本建築で柱と柱とを繋ぐ水平材。「楣」は「まぐさ」「ひさし」とも訓み、「出入口の上にある横梁」。
★「匾額」(ヘンガク)は、「平らでうすい掛け額、絵や字を表装して枠に入れ、平らな額としたもの」。扁額とも書く。



「塊芋山水」は「つくいもさんすい」のルビがふられています。「つくいも」は「つくねいも」のことで通常は「仏掌薯」「捏芋」と書きます。一方、「塊芋」は「ほどいも」と訓みます。「仏掌薯(捏芋)山水」は「岩石・山などがつくいもに似ているため、文人画を嘲る言い方」。「つくねいもさんすい」とも言う。福井県敦賀市のホームページに、「東洋の美術史家として来日したお雇い外国人のフェノロサが龍池会の講演で南画を非難したことから、『つくね芋山水』或いは『すりこぎの松』などと評されたことは有名です」とありました(ここ)。フェノロサの言葉ですか。面白い表現です。「鉄舟」はもちろん、幕末の幕臣、山岡鉄舟のこと。書の大家でもあったと言います。

それにしてもひどい宿のようです。次回、もう少しだけひどい描写が続きます。

問題の正解は続きにて。。。


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白雨降ってかしまし娘靡く?おれは車一番のモテ男だあ=「飛騨の山と越の海」(4)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズから、「飛騨の山と越の海」の4回目は「三 金華山の白雨」のその2です。麗水は乗合馬車の中で、名古屋から来た女工3人のかしまし娘の駄香水と膏汗に囲まれながら必死で耐えています。

 余等を載せたる馬車は今ま上有知(かうづち)に1)ふて走れるなり、行くこと一里ばかり、金華の山の麓を度る頃ほひなり、雲2)洩々と3)のごとく馬頭より起ると見えしが、雨忽ちに降り来りぬ、車窓の4)ガラス欠くること既に久しければ、雨は横さまに車中に吹き入り、避けんに5)イトマなし、工女の一人は馭者が腰に巻き居りし6)赤毛布を借り得て、面壁7)フザの無8)シゼンの達磨とばかり頭より之れを被る、他の二人は手拭もて頬冠し、風呂敷もて肩を掩ひ、手帕(はんけち)もて帯を蔽へど、9)ランコウの雨を防ぐに堪ゆべくもあらず、祭文語りの菅笠と余の麦稈帽子とは、終に10)チョウハツされて窓の扃(とぼそ)の代りとして、此の11)コンウを防ぐの12)となされたり、其の黒風白雨の中に紫蛇狼籍し、迅雷13)を裂くがごとく山を圧して行く時に当りてや、両隣の女余の臂を擁して相驚号す、多謝す風伯雨師、余をして車中第一の14)エンプク家たらしめしことを。

 日野阪に至り、渓に枕める一茶亭に入りて15)ショウケイす、過雨山に入りて美霽人に媚び、新涼一気、水のごとく流れて16)キンカイを吹く、馬を易へて亦た発し、17)チョウセン声々夕陽を催すの頃ひ、壺川の18)清瀬を度り、疲馬星に19)アエぎ惨として20)イナナかざるの夕、上有知の町に入る、此日行くこと八里、


ところで、サブタイトルの「白雨」は熟字訓問題に最適でした。「ゆうだち」と訓む。今回のお話のキーワードでもあります。馬車が揺れに揺れる中、謎の夫婦と3人のかしまし娘の香膏汗に囲まれて最悪の居心地に堪えているところに、剰え降って来たのがこの「白雨」。おんぼろ馬車は窓ガラスも欠けていて雨が侵入。かしまし娘たちはきゃあきゃあ騒ぎたてます。そんな中、唯一ついいことがありました。迅雷の轟きを聞いた両脇に娘たちが麗水の両肘に攀りました。そして、放った一言が「多謝す風伯雨師、余をして車中第一の艶福家たらしめしことを」。俄然、冷静さを取り戻した様子ながら、嬉しさに溢れる表現ですね。ああ、神よ、雨雷様よ、あなた様のお陰でこんなにモテてしまいましたわ。感謝感激雨霰。。。ってまさにこのことですな。漢文調であるだけに余計におかしみが増します。心の底から嬉しいのに、一歩だけ引き下がって冷静さを装う。でもにやけてしまう。そんな感じですね。


嵐が去って一休み、最初の宿のある上有知の町に到着しました。この日の走行距離は八里です。恐らく、この雨のお陰でかしまし娘らとも打ち解けたのではないでしょうか。別に嫌らしい意味ではなくて。お互いのいろんな話ができたのではないでしょうか。雨降って地固まる。。。「新涼一気、水のごとく流れて襟懐に吹く」というくだりがそれを物語っているように受け止めました。そうなると麗水の中に潜んでいた男の野生が頭を擡げてくるようなことはないでしょうねぇ、すこしばかり心配になりますが、その後読み進めてもそんなくだりは一言もありませんのでご安心を。。。って本当のことすべてを書いているとも思われませんがね。。。でも、明治、大正の世にも旅先のナンパはあって不思議はないですよね。

今回は問題の数が多いですが、正解は続きをご覧あれ。。。



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「香団粉陣」VS「武骨無粋」…男の一人旅は辛いのです=「飛騨の山と越の海」(3)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズから、「飛騨の山と越の海」の3回目です。突撃喇叭のようなけたたましい出発の合図に急かされて乗合馬車に乗り込んだ麗水。乗客は総勢6人なんですが、なんとも怪しげな夫婦と3人のかしまし娘の囲まれて悶悶とします。


三 金華山の白雨

 乗客は総て六人、馭者台近く天猊(あまいぬ)高麗猊(こまいぬ)のごとく左右に座を占めたるは、祭文語の夫婦なり、他は名古屋の紡績会社より解放されて故郷に還る工女三人、余を併せて六人なりき、余は左右両隣と前方とに此の鈿女式美人に1)イジョウされて、肩を側だてゝ窮屈を忍び居たるに、髪に塗れる膏のかほり、扇の送る2)ワキガのにほひ、殊には駄香水の香の、彼等の3)ヒハンせる体軀より4)シンシュツする膏汗と相和して、直ちに人を吹いて鼻より脳に入る其の心地の好からぬに、かてゝ加へて5)犖确たる石路を6)チョウベン乱揮して馬を駆り車を走らする其の揺動につれて、臂相触れ膝相撞くに至りては、香団粉陣の7)チトツに8)れざる武骨無粋の余をして、幾たびか車を捨てゝ徒歩せんかと思はしめし程にて、実に実に言ひも知らず怖しく且つ苦しかりき。


★祭文語(さいもんかたり)=祭文読(さいもんよみ)ともいい、歌祭文(うたざいもん)をうたって銭を稼ぐ遊芸人。江戸時代に発達した。もと、山伏が錫杖を振り法螺貝を吹きながら唱えたが、のち、心中など世俗の出来事を取り上げた。でろれん祭文ともいう。

かしまし娘たちの汗や匂いが気になって仕方がない様子。麗水はこのころ幾つなのでしょうか。青春真っ盛りということはないでしょうが、炎天下の旅先のちょっとした楽しみであるはず。しかし、必要以上に馬車に揺られて気分が悪いところにこの攻撃は確かにしんどそうです。変なお触りは勿論できませんから却ってつらい。「香団粉陣」VS「武骨無粋」―。我慢の上に我慢を重ねる彼の様子が察せられて面白いくだりになっています。何度車を降りて歩いた方がましだと思ったことでしょう。でも歩くも地獄です。同じ地獄なら「香り」を楽しみましょうよ、麗水さん。この項はまだ続きます。


問題の正解は続きをご参照を。。。


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母上様 一刻も早く顔見たや 険しき近道踏み越えても=「飛騨の山と越の海」(2)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズから、「飛騨の山と越の海」の2回目です。御母堂が在す飛騨は高小千谷を目指して、名古屋から岐阜に入ります。岐阜から飛騨・高山に抜ける路には二種類あるという。即ち、関、金山からのルート、これは比較的平坦ですがかなりの回り道。もう一つは、上有知、八幡を経て龍が峰を越えるコース。こちらは近道ですが険しいという。さあ、麗水はどっちを通るのでしょうか。


二 岐阜

 停車場を出でたる余は、早く既に乗合馬車の1)廝丁の為めに拘引されて、市の端(はづ)れなる一個湫隘なる旅亭の二階に馬を2)マグサする間を留置さるゝの身となりき、主人を喚びて飛騨越の路を3)モンジンしたるに、高山に到るに二道あり、一は関、金山を歴て高山に入るもの夷なれども4)、他は上有知(かうづち)、八幡を過りて龍が峰を度るもの嶮にして捷なりと、余は即ち嶮にして捷なるものを撰びたり。

 俟つこと之れも久しうして馬車の発すべき気色もなし、香魚の外には箸を下すに堪えざる寂しき午餐(ひるげ)をしたゝめし後、5)セッチンを左にし行燈部屋を右にせる6)陋穢なる四畳半の中に、7)キョクコウの興を貪りしが、頓(やが)て高低断続響き度れる8)ラッパ声に夢は破れぬ、風常に死せる9)庇間の窓の本格子を、己が天下と網を張れる蜘蛛の巣の、蝶、蛾、さまざまの屍を懸けし間より射し入る日影は室に遍く、汗のA)■■(しとしと)と流るゝを拭ひも敢へず、10)ハンシャツ、11)ハンモモヒキ、太肚(ふとはら)の括るゝまで12)ヘコオビ13)緊乎と拳結びになしつ、脱ぎたる単衣を推襞(おしたゝ)んで小14)カバンにくゝりつけ、左の肩に振分けて急ぎ此家を立ち出でたり。




和訓語選択。

A) 「しとしと」=シュクコツ・ホウハイ・リンリ・シュウゼン・シンシュツ

麗水は険しいが時間が短縮できる方の道を選びました。一刻も早く母上に逢いたいという急いた気持ちの表れでしょうか。ところが、うまかいの都合で足止めを食らわされ閉口します。そこに突如の出立の知らせが。取る物も取りあえず慌ただしく汗だくになって乗合馬車に乗り込みます。長い長い孤独な旅の始まりです。


語選択も含めた問題の正解は続きにて。。。





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往復三百里の山越え海に向かう長旅です=飛騨の山と越の海(1)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)シリーズを続行します。次なる旅は「飛騨の山から越中、越後の海」がターゲット。出発は東京・新橋で東海道線から名古屋に出て岐阜から日本の中央部を縦断して日本海に抜けます。汽車と車の通っていない箇所も多いしんどい旅になりそうです。かなり長いのでゆっくりと歩を進めることとしましょう。母親が下の弟とともに飛騨に住んでいます。三百里と遥かなる旅程です。その五分の一は歩き。もちろん山ですよね。




まずは序文から。

▼飛騨の山と越の海

岐阜を振り出しにして、郡上街道を飛騨の高山に入り、更に神通川に沿ふて越中富山に下り、海に浮びて直江津への紀行文『飛騨より北陸道へ』と、新潟より海を伝ふて、弥彦、寺泊、出雲崎など三日路の『越の海を伝へて』の二篇を収む、記者の飛騨旅行当時は徒歩なりしが、今は岐阜より高山まで乗合自動車ありて、昔の旅の三日路を、其の日のうちに走る、便利の世とはなりたり。


「飛騨より北陸道へ」

一 東海道

 人は争ふて松青く砂白き海辺に1)ショウカの郷を尋ぬるに、余は独り嵐寒く雲冷やかなる山間に2)ジョウショの境を覓めんと思ひ立ち、八月尽前の半宵、陸地測量部の二十万分の一の地図を披展して、旬日の閑をもて踏遍し得べき好箇の3)セイロを4)タントウしたる後、美濃の岐阜より程を起して、飛騨の高小千谷の次弟の家に、児と共に5)す老母に陪して還らんといふに決しぬ、程を計るに6)オウカン約三百里、其の中舟車の便あるは二百四十里、他の六十里は荒山乱水、儘我が七寸の7)アイコンを印すべきところなり。


 翌、晦日、暑さ烈しき日なりき、夕の六時、新橋停車場の楼上に於て、三盃の麦酒、一皿のハム及びサンドウヰツチとにて、心ばかりの独旅の8)首途を祝ひ、9)ヒョウゼンとして汽車に上りぬ、静岡にして午夜、浜松にして10)ケイメイ、新橋の11)ビクン百里の夜を度りて静醒山と共に青きの暁、名古屋より南して桑名に往き、知れる人の門を敲きしも逢はず、更に雨足り稲肥えたる木曾川沖積層の美霽の風色を看て、岐阜に車を降りしは、九月初一の午前十一時なりき、北、濃飛の境を望めば乱山雲を摩せり、山霊、河伯、木魈(もくせう)、石鬼、幸ひに此の独往の人を愛護せよ。



「山霊、河伯、木魈(もくせう)、石鬼」は良く分かりませんが旅の途次に待ち受ける妖怪たちのことか。旅の無事を祈って見守ってほしいという願いを籠めているのでしょう。暗雲垂れこめる濃尾と飛騨の県境をみて果てしない旅だと流石の麗水も聊かビビっているようです。今回は完膚無き迄に孤独な煢然たる「独り旅」です。

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昔々浦島は木曾路の「寝覚の床」で好好爺に…=木曾道中記「日本道中記」(13)・完

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)から、「峡雲蘇雲・木曾道中記」の13回目は、「五 木曾道中」の「その2」です。最難関の鳥居峠を越えて木曾道中の都とも言われる福島の宿に入ります。いよいよ木曾道中の旅の最後です。冒頭は信濃の民謡、木曾節のまさに冒頭の一節。「旅」は「足袋」の紕繆ではないかと思われますが、麗水一流の掛け言葉なのかもしれません。


 福島は木曾道中の都なり、夏に蚊なければ蚊帳の用なく、夢を食む蚤もなしとぞ、御嶽に登る人は皆こゝに宿る、旅の徒然に、『木曾の御嶽さんは夏でも寒い、1)アワセ遣りたや旅添へて』の木曾節の踊の手振を見るも亦た面白し、御嶽登山口は町の尽頭(はなれ)折れ、王瀧川に傍ふて行くなり、橋戸の常盤橋を渡りて黒沢、登山の人は此の里にて昼飯をしたゝむ、御嶽の神を2)カンジョウしたる社殿あり、講社の人は3)ミズゴリして登山平安の護符を受く、含満の淵より四合目の松の尾の小屋、五合目の千本松の小屋、これよりは檜槙帯の大森林、扇ケ森には六合目の中の小屋あり、七合目の一の又小屋、さて八合目の新小屋にて日の出を拝す、人間の夜いまだ明けやらぬ一万尺の峯の端に、紫金の妙光4)チュウウに流るゝ朝日影、南東にて富士、東には浅間、駒ケ岳は前に在り、北には飛騨の乗鞍、槍ケ岳、越中の立山、西には加賀の白山を見る、これより路は偃松帯のうちに入り、灰白帯黄の羽ある禽の、鳩よりも大きなるが松の蔭より起つを雷鳥と珍しく看めながら、覚明の籠堂より右に折りて三の池を過ぎ、高天原を度り、万年雪の上を5)ホフクしつゝ絶巓の御嶽神社に6)るなり、この山の巓は、宛がら半開の蓮華のさまに幾箇の峯の欹たちて色の赭き火山帯より成り、其の花の7)に当れる六十坪ばかりの夷らなる処に、小社ありて嶽神を祀れる社あり、社を繞りて、講社の人の奉納せる8)セッケツ、銅人など攅り立つ、怖ろしき地獄谷、更に怖ろしき大のぞきの9)シンガクを度りて山を下り、七合目より落葉松帯、田の原の荒原を過ぎて深樹昼間暗き三笠山の、一禅の吟ずるなく、又た一鳥の啼くことなく古道を下りて八海山の麓を行き、二合目より左に折るれば清瀧といふ瀧あり、百余尺と聞えし青き一枚岩の削り立ちし上より、水の浅く落つるさま極めて清麗、その名に負かず、岩の面の皺に生ふる水苔の、さまざまの模様を作りて瀧の水に透けて見ゆるなど更に優美の趣を添へたり、一つの峯を踰ゆれば大瀧あり、清瀧よりは大なれど風趣は揚らず、但し瀑布の後に岩窟ありて、人は此処に立ちて瀑布の裏を見るが面白し、王瀧に帰りて御岳二日の荒行を終るなり、王瀧より三里にして鞍坡橋の勝あり。

 上松は木曾第一の勝と聞えし寝覚の床のあるところ、臨川寺の10)クリの木欄干に凭れば全渓の勝を11)ソウランすべし、歯牙香ばしき名物の蕎麦もあり、小野瀧は、今や汽車その瀧の前を度る、須原野尻三留野より妻籠、吾妻、このあたり木曾乙女の、檜笠を作るあり、木曽川常に路に傍ふて、紅葉の秋や殊に好し、中津川は木曾路の関門、大井、釜戸、土岐津を歴て多治見には虎渓山永保禅寺あり、路は濃州を過ぎて名古屋に入るなり、空に霞める金の12)シャチホコ


御嶽山登山はかつての八ケ岳ほどではないにせよ、かなりの難所のようです。「人間の夜いまだ明けやらぬ一万尺の峯の端」の「人間」は「ジンカン」と読みたいところ。神の世に対する人間界のこと。御嶽山を中心にして「
南東にて富士、東には浅間、駒ケ岳は前に在り、北には飛騨の乗鞍、槍ケ岳、越中の立山、西には加賀の白山を見る」と、日本を代表する数々の峰々が莅める超絶景。日本を代表する鳥、雷鳥も生息しています。頂上から一気に下り降りる描写はスリリングで圧巻ですね。流石は筆力扛鼎の麗水なり。最後には「二日の荒行」だったと形容しています。

木曾八景のひとつ、「寝覚ノ床」(ここ)(あそこ)。浦島太郎伝説も残っていて(なぜに山ですが…)、臨川寺は浦島太郎が玉手箱を開けた場所として伝わっているそうです。川の水面の色はエメラルドグリーン。麗水が謂う所の「木曾第一の勝」です。名古屋も近いだがね。木曾路の旅は終わりです。

問題の正解は続きにて。。。


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信濃川の上流部の千曲川は筑摩川とも書くんです=木曾道中記「日本道中記」(12)

遅塚麗水の紀行文集「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)から、「峡雲蘇雲・木曾道中記」の12回目です。今回の旅の最後のハイライトである木曾街道を膝栗毛します。今回はその出発のシーンで「その1」といたします。木曽義仲こと源義仲の地元です。一事は征夷大将軍にまで任ぜられたが源義経・源範頼連合軍に敗れ近江粟津で戦死しました。


五 木曾道中


 『小坂花岡白帆が帰る、お城並木に日が残る』の諏訪の駅を過ぎて、岡谷より天龍に傍ひ、やがて別れて塩尻駅、正に木曾街道の振出しなり、中央線の開通してより久しけれど、街道には尚ほ残る昔の面影、急がぬ人には汽車を捨てゝ、1)ヨバの旅こそ面白けれ。

 洗馬の駅、唯ある茶亭の屋後の崖路、老ひたる檜の蔭に湧く清泉に、2)を架して蛍袋の花さく草叢の中に湛えし3)一泓の浅き池は、木曾義仲の乗馬の蹄の泥を洗ひしところと伝ふ、駅の名もこれに4)むと頷かる、本山の駅はせゝらき人家の前を流れて、御嶽構社の納手拭を長き竿に5)がり懸けて店頭に高く掲げし旅館多し、本山より山に入りて桜沢、若神子には小町茶屋といふがあり、木曾の小町と歌はれし美人の、今は梅干婆となりて茶を売るなり。

★「蛍袋」(ほたるぶくろ)は「山小菜」とも書く。キキョウ科の多年草。原野・路傍に自生し、高さ30~50糎。夏、茎頂に淡紫色の大きな鐘形花を数個下垂、そのさまが提灯に似る。

 これより路は筑摩の上流に傍ふて走る、三里にして奈良井の駅、低き石屋根は雨を聴くに好かるべく、長き簷、6)袖廂は雪の日を思はしむ、何さま古駅の趣きあり、これより登り一里下り一里半の鳥居峠となる、頂に御嶽7)ヨウハイ所あり、峠の高さは三千五百尺、『雲雀より高くやすらふ峠かな』と芭蕉の歌ひしところにて、筑摩と、木曾との分水嶺なり、嶺を下れば藪原の駅、山の8)に並ぶ家の、軒に張子の櫛の9)招牌を懸けたるが多きは、名物のお六櫛を売る店なり宮の腰には巴ケ淵、山吹の里、木曾義仲の拠りたる山吹城、軍の旗揚げしたる八幡社は鉾杉の木立のうちに在り、日義村の徳音寺には木曽義仲の木像あり、其の遺品も数多し、七笑の川に架けたる同じ名の橋、橋の10)タモトに同じ名の酒を売る店あり、一杯聊か木曽殿に酹するも亦た妙ならむ。

★酹(ライ)は「酒つぼを手にとり、酒を地に注いで神霊をまつること」。


途中に出てくる芭蕉の『雲雀より高くやすらふ峠かな』ですが、ネット検索に因りますと、元禄元年(1688年)芭蕉45歳の作で「雲雀より空にやすらふ峠かな」が正確な字句であって、しかも、「臍峠・多武峰より龍門へ越ゆる道なり」との前詞がある。現在は「細峠」と呼ばれ、桜井から吉野への途次にある、と芳野(奈良)で詠んだものであり、木曾路の鳥居峠で詠んだという麗水の記述が怪しい。勘違いでしょうか?

「筑摩の上流に傍ふて…」の筑摩は「千曲川」ですね。この字を当てるのは知りませんでした。信濃川の上流、長野県内を流れる部分をいいます。

「名物のお六櫛」は、中山道藪原宿に伝わる伝統工芸。その種類は多彩で梳き櫛、解かし櫛、挿し櫛、鬢掻き櫛などがあります。「お六」というのは、偏頭痛に悩む娘、お六が「みねばり」という木で作ったすき櫛で毎朝夕髪を梳かして治ったという伝説から名づけられました。かの太田蜀山人の『壬戌紀行』にはも「お六櫛のことをとうに、お六といえる女はじめてみねばりの木をもて此の櫛を引き出せり。しかるに此のあるじのおじなるもの此業をつぎて、みねばりの木をつげの木をもて此櫛をひき、諸国にひろめしより、あまねくしれりといえる、薮原またやご原ともよぶ…」とお六櫛の記事が掲載されているとあります。(ここ

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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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