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世界遺産の「いわみ」銀山は「岩見」?「石見」?=山陰道五日の旅「日本道中記」(4)

遅塚麗水の「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)から「山陰道五日の旅」シリーズに4回目です。蜆で有名な宍道湖のことを「碧雲湖」と詠んだのは誰だろうと麗水が訝っていますが、どうやら江戸時代後期の漢詩人、菅茶山のようです。典拠は不明ですが…。


宍道湖畔

日野川を渡れば米子町、やがて、『社日桜に十神山』の俗謡に名高き安来駅なり、十神山の1)スイタイは錦の浦の波を2)す、汽車はやがて3)バンケイの煙波を披らける宍道湖畔の松江駅に入る、碧雲湖とは誰が呼び做しけむ、風煙描くがごとき波の上に、4)ましくも浮ぶ嫁が島あり、五層の天守閣は今尚ほ荒れずして、乱松の間に粉壁の日に5)やくを見る、最高層を天狗の間といふ、東には伯耆の大山、西には岩見の三瓶山(さんぺいやま)を望む、気象雄大なり。



★「社日桜に十神山」は民謡「安来節」の一節。「しゃにちざくらにとかみやま」と訓む。「やすき」ではなく「やすぎ」ですので念のため。。。

★「岩見」は正しくは「石見」ですね。麗水は案外漢字の間違いも多いです。要注意!

本日は短いですが以上。出雲大社は次回に御容赦を。。問題の正解は続きにて。。。

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体を張って部下を助けた名君と山陰の麒麟児の異名を持つ忠臣=山陰道五日の旅「日本道中記」(3)

遅塚麗水の「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)から「山陰道五日の旅」シリーズに3回目です。鳥取エリアに入ります。地味な街ですが、麗水の心に訴え、琴線に触れる人物が数多く輩出しています。



鳥取の一夜

鳥取は池田侯の故1)テイホウ、2)き瓦屋根、低き3)、薄暗き町、鼠色の土、やゝ陰鬱なる裏日本の名邑に金字塔(ぴらみつど)形せる久松山あつて4)メイジョウの気象を添へたり、城跡は5)されて在りし昔の面影を天主台の石垣に留むるのみなり、天正九年城将吉川経家(きっかわつねいえ)、羽柴秀吉の6)コウイを受けて苦戦月を7)ね糧尽き勢ひ窮まりて後、使を秀吉の陣に遣はし、己れ自殺して城を開き、士卒の死を宥されんことを乞ふ、秀吉義として之れを諾し、酒肴を贈りて籠城の苦労を慰めたり、経家士卒と8)ケツインして、山下の寺に入り、秀吉の検使を迎へて従容として9)トフクせるその壮烈なる武将の終焉は、備中高松の清水長治と時を同じうして、誠に武士道の10)セイカを発揚したる者也、新品治町の玄忠寺には11)ケンキョウ荒木又右衛門の墓あり。


★末川経家は1581年2月、鳥取城に入城しましたが、城内の兵糧の蓄えは、わずか3カ月分しかなく秀吉の包囲網により兵糧搬入の糧道を絶たれ、陸路および海路を使った兵糧搬入作戦も悉く失敗、城内の兵糧は尽きていきました。鳥取城の守備兵は四千、秀吉率いる侵攻軍は二万を数えましたが、秀吉は名将経家の策をおそれて、むやみに襲いかかることなく鳥取城を遠巻きに包囲し続けました。孤立無援のなか城内の将兵は4カ月の籠城に耐えたものの、餓死者が続出し始め、終に同年10月、吉川経家は、ここに至って城兵の助命を条件とし、降伏を申し出る。秀吉は経家の奮戦を称え、山名家重臣たちの自害のみを要求、経家には城外へ退去せよとの意思を伝えましたが拒否し自分だけが自害しました。

★清水長治は恐らく清水宗治の謬りではないでしょうか?いずれも攻城戦で開城する際、士卒の命と引き換えに潔く散った戦国武将の代表です。

★荒木又右衛門は江戸時代初期の剣客。鍵屋の辻の決闘での活躍で名高く、講談や時代小説、時代劇映画などで題材となりました。鳥取市に墓があったんですね。



湖山の池、宝木、浜村、嶽々12)ギョウメイ誰か鹿と喚ぶ、虎狼の世界に麒麟を見ると山陽氏に歌はれたる山中鹿之助幸盛の墓は、浜村駅を距る二里半の鹿野村の幸盛寺に在り、青谷、泊、泊は伯耆最西端の駅にして、車窓再び紺碧の海を見るなり、松崎を過ぎて東郷湖、温泉ありて鰻に名あり赤碕駅に入りて大山の13)センガンは車窓より人を覗く、所謂伯耆富士なり、御来屋駅は海に近し、風薫る大山の大裾野に野馬の群れつゝ遊ぶを見る、木立の黒みわたりて見ゆる山は、船上山、海に近くの甍の光るは御来屋町なり、元弘三年春二月、後醍醐の帝の、隠岐より八重の潮路を渡りて、石の錨を卸させ玉ひしはこの浜なり、成田の小三郎勅使となりて名和の館に赴くや、一門感激し、帝を奉じ館を焼きて船上山に錦の御旗を翻し、中国13)ショウギの14)シュコウを成就す、其の館の在りしところに名和神社あり、町に辺りに帝御着船の記念碑ありて立てり。

★「山中鹿之助幸盛」=出雲国の武将戦国大名、尼子氏に仕えた忠臣、山中幸盛。山中鹿介が正しく、鹿之助は謬りが伝わったもの。山陽の七言絶句「山中鹿介を詠ず」に「嶽嶽たる驍名誰か鹿と喚ぶ 虎狼の世界麒麟を見る」と謳われ、「山陰の麒麟児」の異名を持つ。

★伯耆富士は大山の異名。標高1729メートル。見る角度で形が変わるのですが、とくに米子市方面から見ると富士山(これ)。

★「元弘三年春二月、後醍醐の帝…」は、1331年、鎌倉幕府転覆を狙った後醍醐天皇の計画が吉田定房の密告で露見し、頓挫した「元弘の変」を指す。帝は隠岐の島に流罪となったが再び、倒幕を呼び掛け、伯耆の名和長年に迎えられ船上山で決起し倒幕の綸旨を各地に出した。

麗水の紀行文は行き先々の歴史、故事来歴を知る上で大変勉強になります。日本史や地理がお嫌いな方も紀行文に沿って色々調べたりすると面白いですよ。行った気にもなれるし、行きたくもなるし。それにしても本当に細々と巡っています。日本全国行っていない所はないのかも。鳥取を抜けて島根に入ります。次回は宍道湖、出雲大社がメーン。

附録


頼山陽の「山中鹿介を詠ず」を採録しておきましょう。岩波文庫「頼山陽詩鈔」から。

存孤杵臼何忘趙   孤を存する杵臼何ぞ趙を忘れん
乞救包胥暫託秦   救を乞ふ包胥暫く秦に託す
嶽嶽驍名誰喚鹿   嶽嶽たる驍名誰か鹿と喚ぶ
虎狼世界見麒麟   虎狼の世界麒麟を見る

「杵臼」は「春秋時代晋の趙朔の食客」。「包胥」は「申包胥。春秋時代楚の臣」。「虎狼」は「残虐なる者に喩える」。「麒麟」は「仁義の士・俊秀の士に喩える」。出雲尼子氏の忠臣である山中鹿介の行動を中国春秋時代の杵臼、包胥に準えています。鹿という驍名が轟くが、虎でも狼でもないまさに伝説の動物、麒麟なのであると山陽は大絶賛です。



問題の正解は続きにて。。。


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応挙ゆかりの寺にある「金襖子」はげろげろと鳴かない?=山陰道五日の旅「日本道中記」(2)

遅塚麗水の「日本道中記」(近代デジタルライブラリー所収)から「山陰道五日の旅」シリーズに2回目です。城崎温泉エリアを後にして兵庫・香住にある応挙寺へ。正式名称は大乗寺ですが、円山応挙の襖絵が名高いようです。香住と言えば蟹だよなぁ。。。しかし、麗水の旅は真夏です。暑そう。。。

二 応挙寺

竹野浜に遊びし翌日、香住の応挙寺、亀居山(きこざん)大乗寺に詣りたり、門前の清き流れには1)の行くこと多く、境内の老楠には蝉の啼くこと頻りなり、先づ大書院に入る、書院を繞る金襖子(きんぶすま)に瀟湘八景の図を描く、応挙の筆なり、正面の床には晃(あきら)親王の台筆天機所到の四字額を掲げ、王羲之、左右龍虎の三対幅を掛けたる、亦た応挙の筆なり、次は芭蕉の間、これも金襖子に郭子儀の児孫と戯るゝ図にて、隣の本堂孔雀の間には、金地十二枚の大襖子を聯ねて老松と孔雀とを絵がけり、伝へいふ、この絵成りて後、堂前の鳩見て真樹となし、飛び来りて襖子を損傷せりと、皆応挙の筆なり、この外、呉道士の原図を摹せる十六羅漢、応瑞、呉春、源綺、蘆雪守礼の絵も多し、応挙いまだ顕れざる時、この地に2)リュウグウして密英和尚に識られ、銀三貫を恵まれて京都の石田幽汀の門に遊ぶことを得、応挙の3)セイメイ天下に布くに及び、自から門弟子を率てこの寺に遊び、和尚の恩に4)ホウシャすべく、5)エンリュウ数月にしてこの絵を描がきしなりと伝ふ、6)ウグイスバリの長廊下、徐(しず)かに度れたば、其の禽(とり)の少々(さゝ)啼す、寺後の7)スイショウ間毎(まごと)々々の青嵐(あおあらし)、人はこの巨匠の世に留めたる墨の香に酔ひて、8)とばかり黙して看め且つ歩むなりき。

★晃親王は、幕末維新期の宮廷政治家である山階宮晃親王。東京遷都に反対した。

★「金襖子」には「きんぶすま」の和訓が振られています。しかし、これは「かじかがえる」と訓む。「きんぶすま」なら「金襖」でしょう。「子」はいらないはずです。麗水の誤りか?それとももともとは「きんぶすま」と訓み、「かじかがえる」が派生したのか?「かじかがえる」は熟字訓問題にいかにも出そうですが、「きんぶすま」と書いたら不正解でしょうね。なぜなら、熟字訓じゃないから。。。「大書院」「芭蕉の間」「本堂孔雀の間」。

★「瀟湘八景」(ショウショウハッケイ)は「中国宋代の宋迪が描いた瀟湘(現在の湖南省、瀟水と湘江)付近の景色のよい八つの場所、琵琶湖近江八景の原型」。

★郭子儀は中国唐代の軍人。玄宗皇帝期の安禄山の乱を平定。

★呉道士は唐代の画工。

★応瑞、呉春、源綺、蘆雪、守礼=いずれも本邦円山派や四条派などの画師たち。

★密英和尚=麗水の記述にあるように、応挙がまだ京都で苦学をしていた頃、住職の密英上人がその才能を認め、援助。後年、名声得た応挙が、大乗寺が再興されたときに、息子や門弟ら一門を引き連れ、襖・屏風などに名作を描き残し、そのうち現在、165点が重要文化財に指定されているといいます。応挙がこの寺に籠って筆を執ったのは江戸中期の天明7年(1787)と言われています。

★「摹」は「モ」。「まねる、てほんのまねをする」の意。摹刻(モコク=原本に似せて版木を刻むこと)、摹拓(モタク=石碑などに書かれた文字を紙にすり写すこと、摹搨=モソウ=)、摹勒(モロク=原本に似せて版木を刻むこと)。

無名だった応挙の出世ストーリーは面白い。いつの世も「親切」は大事。しかも、見返りを期待しないでするのが真の「投資」ですね。

 寺を出でゝ矢田川に傍ふて下り、鮎狩を看、船に上りて岡見の公園に行く、江を吸ふの9)の背に乗りて、静なる10)漁蜑の村、11)せる天草の香り高き磯に着く、岡見山の老松は、山の姿を蓬萊のさまに見せたり、日本海の12)テイボウは竹の浜に勝りて面白し。


 翌日(あくるひ)は鳥取に行く、鎧駅を過ぎて余部(あまるべ)の大陸橋あり、山陰第一と称せらるゝ桃見峠(ももみとうげ)の長き13)ズイドウ(とんねる)あり、居組(ゐぐみ)の駅の錦浦、雪の白浜、岩美の駅に近く浦富(うらどめ)の奇勝あり、沙一湾、松一湾、花さくや黄金の島の夜も光る菜種島あり、千貫松の島もあり。


★余部の大陸橋=山陰本線鎧(よろい)駅と余部駅の間にあるトレッスル式鉄橋。明治45年(1912)に総工費33万1千円をかけて完成。長さ309.42m、高さ41.45m 当時は東洋一とされた。鎧駅方面から列車で行くとトンネル(麗水のいう桃見峠の長き隧道、全長約2キロ)を出てすぐ鉄橋をわたるので空中にほうりだされたように感じたといいます。老朽化などの理由で2010年7月16日に供用を中止。現在はコンクリート製の二代目橋梁が供用されています。絶景ビューだそうです。

★菜種島=野生化した菜の花が春に満開に咲く。

山陰本線の汽車に乗って海岸沿いを進む麗水です。絶景ポイントの連続に圧倒されているようです。伯耆の国、鳥取に入りました。


問題の正解は続きにて。。。


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城崎温泉エリアを貪欲に巡り尽くそう=山陰道五日の旅「日本道中記」(1)

かねての予告通り、明治期のジャーナリストであり紀行文の大家、遅塚麗水の「日本道中記」を題材にします。近代デジタラルライブラリーで検索すると閲覧することができます。大正六年六月に書いたという、その「序」によりますと、両三年来の紀行文をとりまとめたもので「吾が烟霞の痼癖」だとして、「旅路の友」として欲しいというのが本願であると言っています。目次を見ますと、全国あらゆる土地土地を巡っていることが分かります。

順に列挙しましょう。

一 京と大和巡り
二 富士の巻
三 奥羽七州旅日記
四 峡雲蘇雨
五 飛騨の山と越の海
六 山陰の海を伝へて
七 神戸より別府へ
八 宇佐八幡と耶馬渓
九 鎮西縦貫記
十 日向洋上
十一 瀬戸内海の風光


北へ南へ。あちこち足を運んでいます。まさに南船北馬といったところでしょうか。

麗水の漢文体の紀行文は雄渾で無駄がない。ただし古今の故事来歴を知っていないと理解できない部分も多く大変勉強になります。手始めにこの中から「六 山陰の海を伝へて」を紹介いたします。旧仮名遣いはそのままに、旧漢字は基本的に新漢字に改めます。当て字っぽい和訓は(   )で示しますが、問題にした方がいいと判断した場合は訓み問題(時には書き問題)に仕立てます。

劈頭には以下の解説文が添えられています。

山陰道の旅は城の崎温泉に始まりて、出雲の大社、美保関に終る、途中、応挙寺、東郷湖、大山、船上山、御来屋、米子、夜見が浜、安来、松江、宍道湖等の名所古蹟多し、五日の旅なれば遍く観ることを得べし。


別題は「山陰道五日の旅」。山陰には行かれたことがありますか?地味ではありますが意外な穴場が目白押し。古来、神話エリアでもあります。昨今はゲゲゲエリアでもあります。今年は豪雪のようですが、冬に訪れるのもいいですよ。

本日はその一回目です。兵庫県の北部、日本海に面した城崎温泉が出発点です。城崎温泉と言えば、志賀直哉の「暗夜行路」。「城崎にて」という短編もありますが、志賀は「生涯に十数度訪れている」と城崎温泉HP(ここ)に出ています。


一 城崎温泉

本谷川は温泉(ゆ)の末を集めて円山の江に注ぐ、或夜ひそかに旅人の新妻(にいづ)が1)燕膩を流すらめ、神代の昔荒神の剣を揮つて、山を2)き島を造ると言ひ伝へたる津居山の港の追門(せと)より、日本海の潮は江を伝ふて此処までは通ふなり、木欄干の小橋を渡れば、湯の宿は千本格子の窓を並べて、二階三階3)き路を4)んで立てり、名物の5)麦稈(    )細工、出石焼を賈る店に交はりて、浅葱暖簾を垂れ籠めたる6)キテイもあり、町に在る六つの湯殿、大小の差異(けじめ)はあれど、何れも檜の香の薫る7)ハフ作りにて、鉄道の開けし以来(このかた)、太(いた)く其の8)キュウカンを更ためたり、絵日傘を9)カザしつゝ、湯具を抱へて浴場に通ふ客の送迎へする湯島女も亦婈(かほよ)し見られたり、春の水のさゝ濁りするに似たる温泉のうちに身を浸せば、日に焦けし我が肌への象牙とばかり白く透けたり。


「町に在る六つの湯殿」は健在のようですが、現在、外湯は「七つ」とあります。その後増えたのでしょうか。


★「ささ濁り」は「水がすこしだけ濁ること」。漢字で書けば「小濁り、細濁り、薄濁り」などとなる。
★「」は「かおよし」の訓が振られていますが「器量よし、美人、佳人」の意。


 城の崎の湯の起源(おこり)は遠き昔に在り、脚を傷つけたる鴻の来り浴するを見て、始めて甘露峯の麓に温泉湧くを知りたるは、今の鴻の湯其の蹟なりといふ、天平年中、僧道智が曼陀羅を修して一湧泉を穿ち得たるは今の曼陀羅湯、亀山の帝の中宮安嘉門院の来り浴したまひしは、今の御所の湯、10)ゲッケイ雲客時に11)ヨバを12)げ、文墨13)ホウガイの徒も亦た14)(   )を解き杖を留む、しほらしな山わけ衣春雨に雫も花に匂ふ袂はとは、吉田の兼好が此の湯に浴みせし帰るさの雨に逢ひてての口すさみ、わけて聴く麓の泉峯の蝉とは、頓阿が夏の幾夜を温泉の宿に過せし時の吟なり。


「鴻の湯」(こうのゆ)は今も有名な外湯です。この「鴻」は「コウノトリ」のようです。「曼陀羅湯」は今の「まんだら湯」。「御所の湯」は現在もあり。歴史書「増鏡」に記述があるそうです。いずれも入り口が「破風作り」。麗水が記した兼好法師の歌、「しほらしな山わけ衣春雨に雫も花に匂ふ袂は」は、正確には「しほらしよ 山かけ衣春雨に 雫も花も 匂ふたもとは」というようです。頓阿は兼好法師と同時期(鎌倉時代後期~南北朝期)の僧侶で、兼好と共に和歌四天王の一人。「わけて聴く麓の泉峯の蝉」は不詳。



 温泉寺の春日仏師の作と称する国宝十一面観音に15)サンケイし、更に車にて玄武洞駅に至り、円山の江を渡りて、玄武洞を観たる翌(あす)の日は、竹野の浜に潮浴せり、柴栗山の『左右に隠岐佐渡及び三越(ゑち)を16)チュウエキに17)ゲイし、満洲女直を雲天の外に望む、酒を把つて浩然18)コウセイの懐ありといふ文を彫りたる石は、海浜の丘に立てり、北陸佐渡を袂の陰に看るなどは文人の誇張なれど、快晴の日には隠岐の島を水天の間に望み見るべしといふ。


★「柴栗山」は江戸時代後期の儒学者である柴野栗山。日本漢詩の項を参照(ここ)。「玄武洞」は円山川東岸にある洞窟。栗山が文化四年(1807)に訪れ、連なる亀甲模様が四神の一つ・玄武が亀と蛇をまとっており、その姿かたちに似ていることから命名したとあります。城崎から新潟・佐渡島は流石に見えるべくもないですが、隠岐の島なら晴れた日に空と海のかなたに臨むことができるそうです。

それにしても一日がかりではありますが、城崎温泉エリアのほとんどすべての見るべきポイントを網羅して見尽くしている貪欲な旅です。タクシーもない時代ですから不便この上ないのですが、それだけに見るのも必至で目に、いや心に焼き付けている感じがします。事前の下準備も周到で、これは絶対見ようという気概がありあり。それは文章にも現れていると思います。山陰道五日の旅の初日が終わり、二日目も終わろうとしています。城崎エリアではゆっくりしましたな、麗水さん。。。

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変わる街と変わらない街の違いを見つけに出掛けませんか?=「礫川徜徉記」(10)・完

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの10回目、最終回です。当時四十五歳だった荷風が原点を見詰め、それまでの人生を振り返るため、少年時代を過ごした小石川の散策がいよいよ終焉を迎えます。迂生の“タイムスリップ”も最終旅程に入りました。

 やがて寺のしもべ来りて兆域に案内す。兆域は本堂のうしろなる1)キュウフにあり。2)セキトウを登らむとする時その3)フモトなる井のほとりに老婆の石像あるを見、これは何かと4)に問へば5)咳嗽のばばさまとて、せきを病むもの願を掛け病癒れば甘酒を供ふるなりといへり。この日も硝子罎の甘酒四、五十本ほども並べられしを見たり。霊験のほど思ひ知るべし。

 日輪寺を出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂を6)ぢて新長谷寺の樹下に憩ふ。朱塗の不動堂は幸にして震災を免れしかど、境内の碑碣は悉くいづこにか運び去られて、懸崖の上には三層の西洋づくり東豊山の眺望を遮断したり。来路を下り7)口の8)に抵り見れば、これもいつかセメントにて築き改められしが上に鉄の釣橋をかけ渡したり。駒留橋のあたりは電車製造場となり上水の流は化して9)コウトクとなれり。鶴巻町の新開町を過れば、夕陽ペンキ塗の看板に反映し洋食の臭気10)フンプンたり。神楽坂を下り麹町を過ぎ家に帰れば日全く昏し。燈を11)げて食後戯にこの記をつくる。時に大正十三年甲子四月二十日也。



以上、荷風が四十年前の想い出を辿りながら小石川を中心としたエリアを散策した迹を付いてきました。前の年の関東大震災が東京の街に大きな変化を与えたことが明確に分かりますね。明治期から大正へと時代が移り、街の姿が変遷していることも感傷を与えます。それでも変わらないものにどうしても目が行く荷風でした。いや、俺は変わりたくはないのだ。。。。

迂生が十八の時に某田舎から上京してから既に三十年近くが経過しています。小石川に住んだのはたった一年間だけです。爾来、水道橋や飯田橋、神楽坂、本郷辺りは何度か足を踏み入れましたが、小石川には一度も赴いていません。今回、荷風の記に登場した地名で迂生が覚えているものは、今の共同印刷や小石川植物園、伝通院くらいです。あとはほとんど知りません。坂にもいちいち名前があったことも初めて知りました。現在の地図を脇に置いて見て荷風の歩いたであろう道を辿ってみたのですが、寧ろ、荷風の目で見た街を今の迂生の目でもう一度見てみたいという気がむくむくと湧いて起こりました。小石川と言えば山手線内ですし、東京都心のど真ん中やや北寄りと言っていいところ。文人墨客たちが数多く住んだ街でもあります。一抹の懐かしさは感じながらも昔の東京を感じてみることができそうです。春めいた頃にでも散歩に出よおっと。。。

以上、荷風紀行文シリーズでした。


問題の正解は続きにて。。。

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荷風の「掃墓」は懐かしい日本女性の鑑も対象なのです=「礫川徜徉記」(9)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの9回目です。小石川金富町は少年時代を過ごした家のあった場所。そこで家政婦として働いた女性がいました。荷風の追憶はさらに広がり深まります。

 金剛寺坂の中腹には夜ごとわが1)センコウの肩揉みに来りし久斎とよぶ按摩住みたり。われかつて卑稿『伝通院』と題するものつくりし折には、殊更に久を休につくりたり。久斎姓は村瀬名は久太郎といへり。その父寅吉といへるは幕府の御家人なりしとか。わが家金富町より一番町に移りし頃久斎は病みて世を去り、その妻しんといへるもの、わが家に来りて2)スイサン3)カンデキの労を取り、わづかなる給料にて老いたる姑と幼きものとを養ひぬ。わが父三たび家を徙して、終に4)エンソクの地を大久保村に卜せられし時、5)コウモンの傍なる6)皀莢の樹陰に7)カヤブキの廃屋ありて住むものもなかりしを、折から久斎が老母重き病に伏したりと聞き、わが母上ここに引取り、やがて野辺のおくりをもなさしめ玉ひけり。しん深くこの恩義に感じてや、センコウ8)カンシャを捐てられし後は、一際まごころ籠めてわが家のために立ちはたらきぬ。大正七年の暮われセンコウの旧居を人に譲り9)キンショを築地の僦居に移せし時、しんは年漸く老い、両眼既におぼろになりしかば、その忰の既に家を成して牛込築土に住みたりしをたより、次の年の春暇を乞ひてわが許を去りぬ。去るに望みて、御用の節にはいつにても御知らせ下さりましさしづめ来月の大掃除にはお手つだひに上りませうと言ひゐたりしがそのかひもなく、一月あまりにして突然身まかりし趣、忰のもとより言越し来りぬ。享年六十余歳。流行感冒に10)カカりて歿せしといふ。しん逝きて後ここに幾年、わが家再びこれに代るべき良婢を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ固より文字を知るものにもあらざりしかど、女の身の守るべき道と為すべき事には一として11)くところはあらざりき。良人にわかれて後永く寡を守り、姑を養ひ、児を育て、誠実の心を以てよく人の恩義に報いたり。われ大正当今の世における新しき婦人の為す所を見て翻つてわが老婢しんの生涯を思へば、おのづから畏敬の念を禁じ得ざるも豈偶然ならんや。しんの墓は小日向水道町なる日輪寺にありと聞きしのみにて、いまだ一たびも行きて弔ひしことなければ、この日初夏の晷のなほ高きに加へて、寺は一12)ギュウメイの間にあるをさいはひ杖を曳きぬ。路傍に石級あり。その頂に寺の門立ちたり。石級の傍別に道を開きて登るに易からしむ。登れば一望忽13)コウゼンとして、牛込赤城の嵐光人家を隔てて14)スイショク滴らむとす。供養の卒塔婆を寺僧にたのまむとて15)を通ぜしに寺僧出で来りてわが面を熟視する事16)良久にして、わが家小石川にありし頃の事を思起したりとて、ここに端なく四十年のむかしを語出せしもまた奇縁なりけり。


荷風は永井家に尽くしてくれた家政婦しんに日本女性の真髄を見抜き、胸底から畏敬の念を表します。一度も弔ったことがなかったのですが今回の小石川散策で水道町なる日輪寺にある墓を初めて訪れ、長年の懸案を一つクリアできました。荷風の「掃墓」は古の文人墨客ばかりが対象ではないのです。自分の身内とも言うべき親しい人をも訪れ、対話をするのでした。


問題の正解は続きにて。。。


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車井戸と総後架を保存したい「世間無用の間人」=「礫川徜徉記」(8)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの8回目です。大田南畝の遷喬楼の址を辿ることはできませんでしたが、小石川の散策はまだまだ続きます。


また六樹園が狂文『吾嬬(あづま)なまり』に鶯谷のさくら会と題する一文ありて、1)コウランの前なる桜の咲きみだれたるが今日の風にやや散りそむといへど、今はそれかとおぼしき桜の古木もさぐるによしなし。このあたり今は金富町と称ふれど、むかしは金杉水道町にして、南畝がいはゆる金曾木なり。懸崖には2)キョウボクなほ天を摩し、樹根怒張して巌石の3)をなせり。4)カンドウを下るに竹林の間に椿の花開くを見る。人家の犬5)リハの間より人の来るを見て吠ゆ。6)エンゼン田家の光景なり。細径に従つて7)バンカイすればおのづから金剛寺の域に出づ。寺はわづかに8)ドウウを遺すのみにして墓田は尽く人家となりたれば、旧記に見る所の実朝の墓も今は尋ぬべきよすがもなし。本堂の前を過ぎ9)クリと人家との間の路地に入るに、迂回して金剛寺坂の中腹に出でたり。路地の中に稚き頃見覚えし車井戸なほあるを見たり。大都の10)コウソウは年々面目を新にするに反して窮巷屋後の11)シュウロは幾星霜を経るも依然として12)キュウカンを13)めず。これを人の生涯に観るもまたかくの如き歟。人一たび14)セイリの巷に15)ホンチするや、時運に激せられて旧習に16)アンジョたる事能はず。たまたま鄰人の新聞紙をよみて衣服改良論を称るものあれば忽雷同して、腰のまがつた細君にも洋服をまとはしめ、児輩の手を引いて、或時は劇場に少女歌劇を見、或時は日比谷街頭17)シュウロウなる官吏の銅像を仰いでその功績を説かざるべからず。然るに独吾輩の如き世間無用の間人にあつては、あたかもロウコウのシュウロ今なほ車井戸と18)総後架とを保存せるが如く、七夕には妓女と19)彩紙を截つて狂歌を吟じ、中秋には月見団子を食つて泰平を皷腹するも、また人のこれを咎むることなし。幸なりといふべし。

最後の「皷」は「鼓」の異体字で「鼓腹」のこと。衣食住が足りて満足するさま。「鼓腹撃壌」のごとく「平和な世の中を謳歌すること」を言います。この「コフク」も問題にしたいところで、「胡服」とやったらアウトです。

六樹園は国学者、狂歌師である石川雅望(1754~1830)の雅号。南畝から狂歌を学んだ弟子。国学者でもある。荷風は最後のくだりで「世間無用の間人」と自らを称しています。私淑する成島柳北の「天地間無用の人」と軌を一にする心持ちでしょうか。世の役に立つ文章など書くつもりはなく、昔の風習を墨守しつつ、己のやりたいがままに時を過ごす。これほどの悦楽はあるまい。少年時代を過ごした小石川を散策するにつれ、昔と変りない風景を発見してはもの思いに耽っています。その少し前にある、「大都の康荘は年々面目を新にするに反して窮巷屋後の湫路は幾星霜を経るも依然として旧観を革めず。これを人の生涯に観るもまたかくの如き歟。人一たび勢利の巷に奔馳するや、時運に激せられて旧習に晏如たる事能はず」。時と共に変化する街の姿と決して変わることのない風景のコントラスト。人の人生に喩えている。時勢に恵まれ勢いのいい時は昔のことなど忘れて先へ先へと進みがち。しかし、わたしの望みはのんびり妓女と月見団子を食って享楽的にすごすこと。栄達を知った者がその後は落ちていくことを悟っているのでしょうか。このとき荷風は45歳。人生の曲がり角にあったのでしょうか。ほぼ同時期である迂生も身につまされます。


問題の正解は続きにて。。。



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「庚韻」とは何ぞや?漢詩の平仄は難しい…=「礫川徜徉記」(7)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの7回目です。大田南畝(1749~1823)の遷喬楼で日ごと宴会が開かれている際の様子を、南畝の友人である常陸・大子(茨城県)出身の漢詩人、大窪詩仏(1767~1837)が詠じた七言古詩を紹介しています。こうしたエピソードがさらりと出てくる辺りが、漢詩の素養たっぷりの荷風の面目躍如たるところでしょうか。本日は詩仏の漢詩を味わいましょう。



大窪詩仏が『詩聖堂詩集』巻の十に「雪後鶯谷小集得庚韻(せつごうぐいすだににすこしくあつまりてこういんをえたり)」と題せるもの南畆の家のことなるべし。その作に曰く

遷喬楼在懸崖上    遷喬楼は懸崖の上に在り

闌干方与赤城平    闌干は方に赤城と平らなり

霞気不消連旬雪    霞気も消さず連旬の雪

万瓦渾如粧水晶    万瓦は1)て水晶を2)うが如し

疑在広寒清虚府    疑うらくは広寒清虚の府に在るかと

四望生眩総瑩瑩    四望は眩を生じて総て3)瑩瑩たり

主人愛客愛酒兼    主人 客を愛し兼ねて酒を愛し

暇日開宴迎客傾    暇日 宴を開き 客を迎えて4)

衣冠何須挂神武    衣冠何ぞ須ん神武に5)ることを

与身并忘刀筆名    身と与に并て忘る刀筆の名

我是江湖釣漁客    我は是れ江湖の釣漁の客

平生不曾接■■    平生曾て6)カンエイに接せず

十里泥濘深於海    十里 泥濘 海よりも深けれども

今日肯来訂酒盟    今日 肯て来たりて酒盟を7)

唯応■■報厚意    唯だ応に8)ランスイして厚意に報ゆべく

対君不酔作麼生    君と対して酔わずんば9)作麼生せん





詩仏の詩題にある「庚韻」とは、各偶数番目の句末、すなわち「平」「晶」「瑩」「傾」「名」「纓」「盟」「生」が、百六種類ある漢詩の韻の一つ、平声(ヒョウショウ、ヒョウセイ)のうちの「庚(コウ)」の音で韻を踏んでいるというのです。中国語読みでなければ同じ韻と気づかないものもあります。「赤城」とは群馬県の赤城山のことで、闌干(=欄干)からは、はるか遠くに聳える赤城山も拝めるほど高く見晴らしが良かったのでしょう。遷喬楼を褒めそやした後、第七句にある「主人」はもちろん南畝のことを指す。暇さえあれば客人を饗して宴会三昧。物書きとして名を馳せるこの私も仕官せず只の釣り好きではあるが、折角の御厚意には酒で酔って無二の親友の約束を結ぶ以外にお返しなど出来はしない。

大窪詩仏は江戸時代後期、市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられました。江戸神田で詩聖堂という詩塾を開き、一世を風靡しました。


問題の正解は続きにて。。。



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とにかく坂が多く文人たちが好んだ町なんです小石川は…=「礫川徜徉記」(6)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの6回目です。少年時代を過ごした思い出の地、小石川の探索が続きます。冒頭の「博文館の印刷工場」は現在の共同印刷。この工場のことは迂生もはっきりと覚えています。千川通りを挟んで小石川植物園の正面にあり、ここから伝通院まで小高い丘になります。とにかく坂道の多い町でした。荷風の文章と地図を並べてみているといちいち坂に名前があるのが分かります。今も残るものもあれば、名前が変わっているのもあります。紀行文の楽しみはこのように今の地図を辿りながら読むと倍増しますね。荷風も再訪した当時、その40年前と比べ変わっていないものと変わっているものとが如実にコントラストされ感慨に耽っています。


極楽水の麓を環りし細流のほとりには今博文館の印刷工場1)ソビえ立ちたれば、その頃仰ぎ見し光円寺の公孫樹も既に望むべからず。小家の間の小道を上りて久堅町より竹早町の垣根道を過ぐるにかつて画伯浅井忠が住みし家の門前より、数歩にして同心町の2)コウクに出づ。電車砂塵を捲いて来徃せり。道の向側は切支丹坂に通ずる坂の下口にて、旧丹後舞鶴の藩主牧野家の黒板塀、玄関先の老樹と共に四十年のむかしに変る所なければ、なつかしさのあまり覚えず歩を止む。切支丹坂より茗荷谷のあたりには知れる人の家多かりき。今はありやなしや。電車通を伝通院の方に向ひて歩みを運べば、ほどなく新坂の降口あり。新樹の梢に遠く赤城の森を望む。新坂にはわが稚き頃大学総長浜尾氏の邸、音楽学校長伊沢氏の邸、尾崎咢堂が3)僦居、4)モンショウを連ね庭樹の枝を交へたり。この坂車を通ぜざりしが今はいかがにや。電車通を行くことなほ二、三町にしてまた坂の下口を見る。これ即金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の切絵図には金剛寺の裏手多福院に接する処明地の下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて仏蘭西人アリベーと呼びしものの邸址、今は岩崎家の5)ベッショとなり、短葉松植ゑつらねし6)ドショウは7)ジョウサイめきたる石塀となりぬ。岩崎家の東鄰には依然として思案外史石橋氏の居あり。遅塚麗水翁またかつてこのあたりに鄰を卜せしことありと聞けり。正徳のむかし太宰春台の伝通院前に7)トバリを下せしは人の知る処。礫川の地古来より文人遊息の処たりといふべし。さてわれは駒井氏の門前より目指せし小路を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は忽にして8)ケンガイの頂に達し紐の如く分れて南北に下れり。8)ガイカに人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷喬楼の9)キュウシはいづこならむ。文化五戊辰の年三月三日、南畝はここに六秩の10)ガエンを設けたる事その随筆『一話一言』に見ゆ。


「礫川の地古来より文人遊息の処たりといふべし」。「遊息」とは「のんびりくつろぐ」の意。政治家、ジャーナリスト、思想家、経済人、学者ら名だたる名士が居住し、あるいはセカンドハウスを建てた土地が小石川なのです。そんなイメージは全くありませんでしたが、表通りから一歩径に入ると確かに閑静な街であったことは覚えています。さまざまな名士を持ちだしていますが、その中で一人だけ遅塚麗水に触れておきます。遅塚麗水〈チヅカ・レイスイ、1868年12月27日~1942年8月23日)本名は金太郎、別号は松白。作家・ジャーナリストで、明治・大正期の紀行文の大家として知られる。大衆小説には菅原道真を主人公とした「菅丞相」やアイヌに題材をとった「蝦夷大王」などがあり、また大正7年(1918年)には日本の初期の無声映画「乳屋の娘」(日活向島制作)の脚本も務めている。遅塚麗水は東京の下町の庶民に広く読まれた「都新聞」(昭和17年=1942年に国民新聞と合併して現在の東京新聞となった)の記者であり、「照日の松」は麗水生名義で都新聞で連載された大衆小説である。

彼の紀行文はいいですよ。書物として手に取ることは難しいですが、さすがネット時代。近代デジタルライブラリーによってかなりの作品を繙くことができます。荷風シリーズの後にでも弊blogで採り上げることも検討します。紀行文は前にも申し上げましたが、行ったことのない土地も曾遊の地にしてくれる肩の凝らない読み物です。

「六秩」は「六十歳」の意。「秩」には「十年」の意があります。十年を一秩という。大田南畝(蜀山人)が還暦のお祝いを、鶯谷(現在の小石川春日近辺)にある「遷喬楼」と名付けた邸宅で催したことが、彼の随筆『一話一言』に書かれているというのです。荷風は大田南畝の住んだ楼の跡を探し求めています。

ちなみに遅塚麗水の「幣袋」という紀行文の一節が以前、漢字検定1級試験の文章題に採用されたことがあります。charのmix日記で追いかけたことがあるのでIDのある方は→のリンクから2009年2月で入ってみてください。その冒頭のくだりだけコピペしておきます。長いですよ~。


【一 東海道】

 書き出しはこうです。

 鼻眼鏡に黒眼鏡、つれ立ちて月の晦日の宵浅き三等急行車にて新橋を立つ、七日ばかりの旅なるを、銀座へ物買に行く序とて家を挙げて送り来る、共に行くもの思案外史、

 ■「晦日」

 =「みそか」と宛字訓み。「晦」一字でも「みそか」。漢検辞典の見出し語にあり。

 ■「序」

 =「ついで」と表外訓み。

 白と青との階級を撤して、一切平等無差別の赤切符、納々たる客車の榻子に背を靠せ肱を交へて、パナマも、台湾も、お釜帽子も、麦稈も、上布も、浴衣も、絽も、透綾も、兵児帯も、三尺も、長き短き旅の路伴、折からの月明の、水より寒き夜涼のうちに友懐かしく譁やかに、知るも知らぬも打ち解けて語り合ふ、絶えて白と青とに見るところの倨傲矜驕、城府を作りて相睥睨する慢態なきは心地よし、

 ■「階級」

 =「しな」と宛字訓み。漢検辞典には音読みしかないが、表外訓みで「階(しな)」はあるので要注意。一等車、二等車といった列車車両の階級のことだろう。

 ■「納々」

 =「のうのう」は簡単だが耳慣れない。人で一杯といった意味ではないかな。

 ■「榻子」

 =「とうし」は、長椅子、寝台のことか。「臥榻の側(かたわら)、豈他人の鼾睡を容れんや」が想起される。

 ■「靠」

 =「もたせる」と訓む。よりかかること。「靠れる」「靠りかかる」「靠る」は漢検見出し語。「凭」も同様の意味。靠れ合いの関係。

 ■「麦稈」

 =「むぎわら」と訓読みで。むろん「ばっかん」の音読みもありだが、、麦藁帽子のこと。漢検辞典小文字にあり。「稈」は「わら、イネ・麦などの穀物の茎」。「稈心」(かんしん)、「禾稈」(かかん)などがあり。

 ■「絽」

 =「ろ」。縦または横に小さな織り目の透いた薄い絹織物。「絽羽織」(ろはおり)が漢検見出し語。ほかに「絽刺」(ろざし)。

 ■「透綾」

 =「すきや」と訓む。「すきあや」が転じた。透けて見えるような薄い絹織物。肌触りが良く、夏の婦人用衣服に使用。「数奇屋」ではない。漢検辞典見出し語。

 ■「兵児帯」

 =「へこおび」は、男子や子供が着物に締めるしごき帯(http://www.iisilk.net/hekoobi.htm)。漢検見出し語にあり。もともと薩摩の兵隊さんがしていたことから由来する。生地が柔らかく幅太。温泉宿にあるふと~いあれですね。熟字訓ではなく表外訓みとして訓めるようにしたい。いや、書けるようにもしよう。

 ■「路伴」

 =「みちづれ」と宛字訓み。「路」は「みち」の表外訓みがあり。

 ■「譁」

 =「にぎ・やか」と訓ませている。宛字っぽい。通常は「かまびす・しい」。「喧譁」=「喧嘩」(けんか)、「譁笑」=「嘩笑」(かしょう)、「譁然」=「嘩然」(かぜん)。要は「嘩」と書き換えが略可能かな漢字です。「譁しい」は見出し語にあるが、「やかま・しい」とも訓めるかも。

 ■「倨傲」

 =「きょごう」は漢検見出し語。おごりたかぶること。威張って気儘であること。類義語は「傲慢」(ごうまん)。「倨」は「おご・る」。足を投げ出して坐る、無礼な態の意もあり、「箕倨」(ききょ)、「傲倨」(ごうきょ)も必須だ。書き問題での基本語でしょう。

 ■「矜驕」=「きょうきょう」も同様の意。ほこりたかぶる、自信過剰。「驕矜」(きょうきょう)もあり。「矜伐」(きょうばつ)も押さえよう。麻生太郎が用いてプチ流行したのは「矜持」「矜恃」(以上きょうじ)。敢えて言います、似非プライドのこと。

 ■「睥睨」

 =「へいげい」。基本的な漢検見出し語。周囲をにらみをきかすこと。前段に「城府」とあるので、威容を誇る城に譬えて見下ろす態を言ったものでしょう。

 ■「慢態」

 =「まんたい」。増長慢。人をあなどる態度。簡単な漢字だが、書き問題で出されて書けるかどうか。一発変換はされないから一般的ではないだろう。


 食堂に入りて先づ盞を挙げて幸多き旅の首途を祝福すれば、微醺はやがて美睡を勾引し来りぬ、短か夜の明け易く、残月依稀の弁天島、暁縹き岡崎刈谷、天主の金鯱にまだ朝日の射さぬ時、名古屋に降りて亀山行きの汽車に乗換ふ、

 ■「盞」

 =「グラス」と宛字訓み。これは面白い。「酒盞」(しゅさん)だけでいいだろうが、こういう訓みもあることを知ると言葉に奥行きが生まれる。もちろん「さかずき」もあるのでお忘れなく。。。見出し語なので必須です。

 ■「首途」

 =「かどで」。熟字訓だがしっかりと見出し語にある。「門出」と書くよりこっちがいいだろう。旅立ちの「門出」より「首途」の方がお洒落だろう。奥の細道に「夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉」の句がある。(http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/natuyama2.html

 ■「微醺」

 =「びくん」。見出し語。「微酔」。ほろよい。対義語は「泥酔」「宿酔」「酩酊」。

 ■「美睡」

 =「びすい」はぐっすりとよく眠ること。また、気持ちよい眠り。「甘睡」ともいう。まどろみと熟睡の間ではないかな。「微醺」と「美睡」を対比させている。

 ■「勾引」

 =「こういん」は見出し語。裁判の尋問で証人等を強制的に呼び出す意だが、ここではもちっと軽い意味で「かどわかす」(勾引す)という意味でしょう。ついつい誘われてしまうということ。

 ■「依稀」

 =「いき」は見出し語にあり。ぼんやりとしてはっきりしないさま、よく似ているさま。きっとそうなんだろうけどはっきりしないときに使う語。残月の明かりで辛うじて弁天島だろうと分かるんだけどちょと自信もないなぁ、くらいの意味か。

 ■「縹」

 =「あお・い」と宛字訓みっぽい。「縹」は「はなだ」で、薄い藍色、そらいろのこと。要は「縹色」(はなだいろ、http://www5e.biglobe.ne.jp/~e-kaori/houi/iro3.htm)のことなんでしょう。「縹色」は見出し語。「縹緻」(きりょう)は熟字訓、「縹緲」「縹眇」「縹渺」(以上ひょうびょう)はどれでもいいから絶対に書けるように。

 ■「鯱」

 =「しゃち」。「金鯱」で「しゃち」と訓ませています。通常は「しゃちほこ」で国字の基本語。

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背中に「菊慈童」を彫った兄貴がいろんな遊びを教えてくれたよ=「礫川徜徉記」(5)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの5回目です。悪友唖々子井上精一氏を蓮久寺に弔った後、小石川植物園のある方へ歩を進めます。お灸で有名な安閑寺。迂生が学生時代の第一歩を記した小石川のごく近所なのですが全く知りませんでした。大正十三年の四十年前、少年荷風が遊んだ場所でした。


旧交を追想して歩を移すほどに、いつしか白山御殿町を過ぎ、植物園に沿ひたる病人坂に出づ。坂の麓に一古寺あり。門に安閑寺の三字を掲げたり。ふと安閑寺の灸とて名高き1)モグサを售りしはこの寺なり。われら稚き頃その名を聞きてさへ恐れて泣き止みしものをと心づけば、追想おのづから2)ルルとして糸を繰るが如し。その頃植物園門外の小径は水田に沿ひたり。水田は氷川の森のふもとより伝通院兆域のほとりに連り一流の細水3)センセンとしてその間を貫きたり。これ旧記にいふところの小石川の流にして今はわづかに4)キュウコウの間を通ずる溝となれり。ああ四十年のむかしわれはこの細流のほとりに春は土筆を摘み、夏は蛍を撲ちまた赤蛙を捕へんとて日の暮るるをも忘れしを。赤蛙は皮を剥ぎ醤油をつけ焼く時は味よし。その頃金富町なるわが家の抱車夫に虎蔵とて背に菊慈童の筋ぼりしたるものあり。その父はむかし町方の手先なりしとか。老いて盲目となり5)虎蔵の世話になり極楽水の裏屋に住ひゐたり。虎蔵わが供をなして土筆を摘み赤蛙を捕りての帰道、折節父の家に立寄り6)ユウゲの菜にもとて獲たりしものを与へたり。貧しき家の夕闇に盲目の老夫のかしらを剃りたるが、7)コツゼンとして仏壇に向ひて8)カネ叩き経誦める後姿、初めて見し時はわけもなく物おそろしくおぼえぬ。わが家の女中ども虎蔵がおやぢはむかし多くの人を捕へ拷問なぞなしたる報にて、目も見えぬやうになりしなりと噂せしが、虎蔵もやがてわが家より暇取りし後いつか牛込警察署の刑事となり、わが十七、八の頃一番町の家に来りて、ゆうべは江戸川端の待合にて芸者の寝込を捕へたりなぞ、その後家に来りし車夫に語りゐたりしを聞きし事ありき。



荷風の生家は小石川金富町にありました。現在は春日二丁目の金富小学校のある辺りだそうです。地下鉄丸ノ内線の後楽園駅と茗荷谷駅の丁度中間の近辺になります。お抱えの車夫に虎蔵という名の若者がいました。永井家は結構金持だったんですね。その虎蔵は背中に「菊慈童」の彫り物が。古代中国を舞台とした説話で、罪を得て辺境の深山に流された少年が、菊の霊力によって不老不死を得て、長きにわたって子供の姿をとどめたという伝承。周代の穆王に愛された侍僮が菊慈童です。お稚児さんですな。永遠の若さを象徴するのです。虎蔵は、少年荷風に色々な話を聞かせて子供の好奇心を擽った存在だったのでしょう。小石川植物園のそばをそぞろ歩く荷風の胸にノスタルジーが去来しています。

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Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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