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大業成すも満たされぬ太公望の心の隙とは?=南洲翁も信奉した佐藤一斎

あらゆる人間は平等な時間が与えられています。一日は二十四時間、一年は三百六十五日。これは誰も同じです。寿命は多少の違いがあるでしょうが、それは結果。生きている間は誰も次の瞬間死ぬとは思っていないので平等です。そこには全くの優位劣位はない。ところが、時間の使い方は千差万別。同じ一時間を使うもその効果たるや人によってがらりと異なります。仮令、世間が認める大業を成したとしても、どこかしら心が満たされないこともある。それは己が納得した時間の使い方ではなかったから。したがって、生きていく上で時間の使い方が最も大切となります。「時間が足りない」「時間があり過ぎる」とその多寡を嘆くのではなく、自分にとって最も有効な、納得のいく使い方を心掛けるべきです。

中国周代の太公望呂尚はご存知でしょう。渭水の上(ほとり)で釣りをしていたところを占いのお告げを受けた文王に発掘され、車で連れられる。そして、その子・武王を補佐して殷国を滅ぼし、周王朝建国に多大な貢献をしました。しかしながら、やはりこの人は「渭浜漁父」なのです。釣りが好きで好きでたまらない。魚が釣れようが釣れまいが渭水の上で釣り糸を垂れて一日をのんびりと過ごしたかったのです。そんな太公望の心境を詠じた漢詩が江戸時代末期の官需、佐藤一斎(1772~1859)にあります。

明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P119)によると、彼のプロフィールは「美濃岩村藩の江戸藩邸で家老の子として生まれた。ここで一斎は一生を規定する出会いをする。藩主の第三子、松平衡(たいら)、一斎より四歳年長であった。のちに衡は林家の養子となり、林述斎と称する。一斎は少年時代この衡と兄弟のように生活し、共に学問に励んだ」とあります。林家の養子となった衡に従って、一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門。1805年には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たったといいます。儒学の大成者として公に認められ、1841年に述斎が没すると、公儀の学問所昌平黌の儒官(総長)を命じられ、実質的な責任者となりました。門下生にはあの渡辺崋山もいました。ただ、蛮社の獄で崋山の無実の罪を解くよう奔走した松崎慊堂とは対照的な態度をとったことから、明治期にはその無慈悲さを批判されることとなります。

「太公望垂釣図」。


謬被文王載帰得    謬って文王に載せ得て帰られ
■■風月与心違    イッカンの風月心と違う
想君牧野■■後    想う君が牧野ヨウヨウの後
夢在磻渓旧釣磯    夢は磻渓の旧釣磯に在りしならんと



【解釈】 不本意にも文王に見い出され、王の車で周につれていかれた太公望は、それ以来心ならずも、一本の釣竿を肩に風月を楽しむことは二度と得られなかった。文王が亡くなって武王が立ち、その軍師として目ざましい働きをし、ついに殷の紂王を牧野に伐って滅ぼし、実は斉公に封ぜられたものの、その後、毎夜見る夢は、おそらく昔釣りをした磻渓の磯に帰って行ったことであろう。



イッカン=一竿。釣り竿のこと。ここは「一竿風月」(イッカンフウゲツ、イッカンのフウゲツ)で、陸游の「感旧詩」にある「回首壮遊真昨夢、一竿風月老南湖」との一節を踏まえている。釣り竿一本を友に、俗事を忘れて自然の風月を楽しみながら、自然の中で悠悠自適に過ごすことをいう。王侯に仕えず在野で隠棲して暮らすことを含意しているかもしれません。

ヨウヨウ=鷹揚。タカが飛ぶようにゆったりと力強く、勢い盛んなこと。「オウヨウ」と読むのは日本語で「こせこせしない、ゆったりと落ち着いている」の意。ここは無論前者の意。

釣磯=チョウキ。釣りをする磯のこと。「磯」の音読み「キ」と読む熟語が珍しいので採録しておきました。「幾何学」の「幾」が「キ」なので読むこと自体は難しくないですね。でも熟語はかなり珍しいです。熟字訓の磯馴松は「そなれまつ」。



出だしの「謬って」が面白い。「もつれて道筋を間違った」と言う意味ですが、ここは太公望呂尚の不本意な気持ちを代弁しています。「一竿風月」こそが彼の本心だったという。その後の業績も名声もなぜかしら空しい。「磻渓」(ハンケイ)とは、今の陝西省宝鶏県の東南を流れ、渭水に注ぐ川の名。呂尚が釣りをしていて文王に出会ったところです。ああ、呂尚よ、あなたは文王にさえ出会わなければあのまま釣りを楽しんでいたろうに。。。ここからは一斎の気持ちの忖度です。私も衡侯の傍に仕えていなければ、江戸・昌平黌で儒学を教えるなどという大それたことをする機会もなかったのだ。人の運命など分からぬものだ。自分自身でさえどうにもならないものなのかもしれない。確かに大きなことができるのはうれしいのだ。人より恵まれているだろう。呂尚とても正直そう思ったに違いない。ところが、どこかしら隙間風が吹くのはなぜだろう。人間は本当にやりたいことをしているのが一番なのである。事の大きさではない。己の満足感なのだ。それがこの世に生を享けた証なのかもしれないな。碩儒・佐藤一斎の本音が、太公望に事寄せて垣間見える詩ですね。う~む、深いぞ。

本日のオマケ。一斎は「言志四禄」という書物を書いております。「言志禄」「言志後禄」「言志晩禄」「言志耋禄」の4書の総称で、総1133条にも及ぶ長大な内容です。この中から西郷隆盛(南洲)が101条を選んで手元の座右の銘としていました。秋月種樹(古香)がその手抄本を借り出して、偶評を加えて、「南洲手抄言志録」として発行しました。青空文庫で読めます(ここ)。この書は1888(明治21)年5月17日に博聞社から発行されたもので、山田済斎が「南洲手抄言志録」を「西郷南洲遺訓」に収録する際に、漢文の偶評を反訳し、本文に訳を加えたのです。

ここから最初の十カ条を抜粋して、佐藤一斎の遺訓の一端と西郷がどう活用したのかを味わうとともに、漢字のお勉強もいたしましょう。

一 勿認■■以爲寛裕。勿認嚴刻以爲■■。勿認私欲以爲志願。

〔譯〕ユウダを認めて以て寛裕と爲すこと勿れ。嚴刻を認めて以てチョクリョウと爲すこと勿れ。私欲を認めて以て志願と爲すこと勿れ。

二 毀譽得喪、眞是人生之雲霧、使人■■。一掃此雲霧、則天青日白。

〔譯〕毀譽得喪は、眞に是れ人生の雲霧、人をしてコンメイせしむ。此の雲霧を一掃せば、則ち天青く日白し。

〔評〕徳川慶喜公は勤王の臣たり。幕吏の要する所となりて朝敵となる。猶南洲勤王の臣として終りを克くせざるごとし。公は罪をし位に敍せらる、南洲は永く反賊の名を蒙る、悲しいかな。(原漢文、下同)

三 唐虞之治、只是情一字。極而言之、萬物一體、不外於情之推。

〔譯〕唐虞の治は只是れ情の一字なり。極めて之を言へば、萬物一體も情の推に外ならず。

〔評〕南洲、官軍を帥ゐて京師を發す。婢あり別れを惜みて伏水に至る。兵士環つて之を視る。南洲輿中より之を招き、其背を拊つて曰ふ、好在なれと、金を懷中より出して之に與へ、旁ら人なき若し。兵士太だ其の情を匿さざるに服す。幕府砲臺を神奈川に築き、外人の來り觀るを許さず、木戸公役徒に雜り、自らを荷うて之を觀る。茶店のロウウあり、公の常人に非ざるを知り、善く之を遇す。公志を得るに及んで、厚く之に報ゆ。皆情の推なり。

四 凡作事、須要有事天之心。不要有示人之念。

〔譯〕凡そ事を作すには、須らく天に事ふるの心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず。

五 憤一字、是進學機關。舜何人也、予何人也、方是憤。

〔譯〕憤の一字、是れ進學の機關なり。舜何人ぞや、予何人ぞや、方に是れ憤。

六 著眼高、則見理不岐。

〔譯〕眼を著くること高ければ、則ち理を見ること岐せず。

〔評〕三條公は西三條、東久世諸公と長門に走る、之を七卿脱走と謂ふ。幕府之を宰府にザンす。既にして七卿が勤王の士を募り國家を亂さんと欲するを憂へ、浪華に幽するの議あり。南洲等力めて之を拒ぎ、事終にむ。南洲人に語つて曰ふ、七卿中他日關白に任ぜらるゝ者は、必三條公ならんと、果して然りき。

七 性同而質異。質異、教之所由設也。性同、教之所由立也。

〔譯〕性は同じうして而て質は異る。質異るは教の由つて設けらるゝ所なり。性同じきは教の由つて立つ所なり。

八 喪己斯喪人。喪人斯喪物。

〔譯〕己を喪へば斯に人を喪ふ。人を喪へば斯に物を喪ふ。

九 士貴獨立自信矣。依熱附炎之念、不可起。

〔譯〕士は獨立自信を貴ぶ。熱に依り炎に附くの念、起す可らず。

〔評〕慶應三年九月、山内容堂公は寺村左膳、後藤象次郎を以て使となし、書を幕府に呈す。曰ふ、中古以還、政刑武門に出づ。洋人來航するに及んで、物議紛々、東攻西撃して、ナイコウ嘗て戢(おさま)る時なく、終に外國の輕侮を招くに至る。此れ政令二途に出で、天下耳目の屬する所を異にするが故なり。今や時勢一變して舊規を墨守す可らず、宜しく政權を王室に還し、以て萬國竝立の基礎を建つべし。其れ則ち當今の急務にして、而て容堂のシガンなり。幕下の賢なる、必之を察するあらんと。他日幕府の政權を還せる、其事實に公の呈書に本づけり。當時幕府既に衰へたりと雖、イケン未だ地に墜ちず。公抗論して忌まず、獨立の見ありと謂ふべし。

一〇 有本然之眞己、有■■之假己。須要自認得。

〔譯〕本然の眞己有り、クカクの假己有り。須らく自ら認め得んことを要すべし。

〔評〕南洲胃を病む。英醫偉利斯之を診して、勞動を勸む。南洲是より山野に游獵せり。人或は病なくして犬を牽き兎を逐ひ、自ら南洲を學ぶと謂ふ、疎なり。






こたえ)▼游惰(遊惰)▼直諒▼昏迷▼ゆるし▼ふご(もっこ)▼老嫗▼竄▼やむ▼内訌▼至願▼威權(威権)▼躯殼(軀殻)
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昌平黌で学問の思いに浸る=竹を画く極意を詠じた野田笛浦

本日は江戸時代終盤の藩儒、野田笛浦(1799~1859)を取り上げます。それほど著名な漢詩人ではないでしょう。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P116~117)によれば、「丹後田辺の人。十二歳のとき江戸に行き、古賀精里の門人になる。文政九年(1826)、清国の船が清水港に漂着し、その応待を命ぜられる。船を長崎に護送するまでの六十日間、筆談し、また詩を応酬し合い、中国人を驚かせたという。このとき、笛浦は昌平黌にあった。のちに郷里の田辺藩に仕え、藩の執政として文教部門において大きな貢献をなす」とあります。

「画竹」。

落落胸中竹    落落たる胸中の竹
一揮応手成    一たび揮えば手に応じて成る
湘雲凝不散    湘雲凝って散ぜず
■■■■    マンプクシュウセイ起こる



【解釈】 爽快な胸中の成竹を筆に託し、一たびこれを揮えば、手に従って見事に苦も無くできた。湘水のほとりの雲が凝ったようにまわりを籠めて、一幅全体にいかにも秋の声が起こってきそうである。



マンプク=満幅。紙・布の幅いっぱい。全面的。これは引っ掛け。「満腹」や「万福」ではない。

シュウセイ=秋声。秋を感じさせるような物音、秋風の音や木の葉の散る音など。≠甃砌、秋霽、脩整、修正。



明治書院によれば、詩は竹の画に題したものという。「落落」とは、さっぱりした気分、気持ちが大きくて率直なさま。「胸中竹」というのは面白い表現です。心の中で竹の姿を強く思うこと。念ずれば通ず。竹の画を描こうと筆を揮う際の極意を述べています。イメージ・トレーニングが大事であると。竹が地中から顔を出し、グングン伸びてゆく。そして枝を張り、葉を繁らせ、秋風にカサカサとさびしい音を立てる――。こうした姿を心に思い描くのです。そうすれば、あとは筆が動くのに任せるだけ。一気呵成。芸術家の気持ちはなかなか分かりませんが、実際に筆をどう使おうかなどとはあまり考えないのが普通でしょう。筆を下ろすまでが大変。胸に去来するさまざまな思いをいかにして題材にするか。それが難しいんです。このblogの執筆もそう。各ネタが決まるまでが大変。一旦固まればあとはキーボードを乱打するのみ。一心不乱に書く可し。

笛浦が江戸・昌平黌で学んだころを思い描いて詠んだ詩でしょうか。「昌平橋納涼」という作品があります。昌平橋は江戸神田川に懸かる橋で、現在のJR御茶ノ水駅東口、「聖橋」の南詰めの坂を百メートルほど下ったところにあります。川向かいには昌平黌(湯島聖堂)が見えることから、昌平橋と称されるようになりました。当時の神田川には舟が浮かべられ、月見の宴が催され、その河畔では夜店が立ち並び人々が行き交ったようです。

夏雲擘絮月斜明    夏雲綿をいて月斜めに明らかなり
細葛含風歩歩軽    細葛風を含んで歩歩軽し
数点■■橋外市    数点のコウトウ橋外の市
■■一担売秋声    ロウチュウ一担秋声を売る



【解釈】 夏の白い雲が綿をさいたようになり、その裂け目から夕月が明るい光をなげている。薄いかたびらの袖は風をはらんで涼しく、歩く足取りも軽い。何か所かのかがり火があかあかと燃えて、橋畔の夜店には一荷の籠虫が並び、早くも秋の声を売っている。

コウトウ=篝灯。かがり火。かごでおおった灯火。「篝」は「かがり」と訓み、「木や竹を四角く組んで火を付ける組み木」の意。篝火(コウカ、かがりび=夜間の照明・警備・漁猟などのために、屋外でたく火)。

ロウチュウ=籠虫。鈴虫などかごの中で飼っている虫のこと。「籠」は「かご」。籠蓋(ロウガイ=すっぽりとおおう)。

擘いて=つんざいて。「擘く」は「つんざく」。通常は「劈く」ですが、これもありです。音読みは「ハク、ヘキ」。擘張(ハクチョウ=手で弓をひきしぼること)、擘裂(ハクレツ=引き裂く、つんざく)、擘劃(ハッカク=右に左に分けながら、人や事柄を整理して処分する、擘画)、擘指(ヘキシ=おやゆび)、巨擘(キョハク=巨頭、大親分)。


晩夏の夜の風景を詠じた爽やかな作品。明治書院(P118)によれば、「神田川べりの納涼を描いて涼やかな詩である。足どり軽く歩くのは昌平黌の学生であろうか。雲の間から夕月がさし、川風が心地よい。今やかがり火は望むべくもないが、カーバイドの灯りにさえ郷愁を覚える昨今である。現在のこの界隈は、聖橋のたもとにビルが立ち並び、往時を偲ぶよすがはない。籠の中の虫はすずむしであろうか」との鑑賞がみえます。

「葛」は「かたびら」とも訓み、「クズの繊維を織ってつくった布、それでつくった衣」。「担」は「ひとかつぎでかつげる重さ・量」で、「一担」は「百斤、また一石、約五十キログラム」。満担(マンタン=せいいっぱいのひとかつぎの重さ)。

湯島聖堂に行かれたことはありますか?

迂生は昨年の5月には初めて訪れました。境内の掲示板には「日本の学校教育発祥の地」と記されています。既にご紹介した「寛政異学の禁」で復活を遂げ、林家の私塾から幕府の御用学問所「昌平坂学問所(昌平黌)」になりました。「昌平」というのは儒教の祖、孔子の生まれた村の名です。明治期には湯島聖堂の構内に文部省、国立博物館(現在の東京国立博物館・国立科学博物館)、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)など一時同居していました。孔子廟が祀られている「大成殿」は土日祝日のみ公開されております。受験シーズンには、孔子の絵馬を買い求め、合格祈願する人々で賑わいますが、普段は閑静です。緑豊かな境内を散策しながら学問への思いに浸るのも偶には乙ですよ。

攘夷せよ!火が付く幕府の尻叩く=激烈なる漢詩人カップル・梁川星巌・紅蘭

200年以上もの長きにわたり太平の世を謳歌し、安逸を貪った江戸時代も1800年代に入り、進むにつれてと、あちこちにガタがきて綻びが目立ち、屋台骨が揺らぐようになります。最終的には開国せざるを得ないのですが、そこに行き着く道程において「攘夷」の思想は避けて通れませんでした。前回取り上げた藤田東湖も若き勤王の志士たちに過激な思想を植え付けました。本日紹介する梁川星巌(1789~1858)も東湖と同様の熱き人でした。東湖と比べればどちらかと言うと漢詩人として名を残したのですが、勤王の志士たちにとって精神的支柱として果たした役割も無視するわけにはいきません。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P114)によると、星巌は「梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内等と交友があり、没するのがもう少し遅ければ、捕らえられること必定であった」とあります。安政の大獄ですね。

「紀事」。熱い詩です。

当年■■気憑陵    当年のダイソ 気 憑陵
叱咤風雲巻地興    風雲を叱咤し地を巻いて興る
今日不能除外■    今日外キンを除く能わずんば
■■二次是虚称    セイイの二字は是れ虚称



【解釈】 その昔徳川氏の祖家康は頗る盛んで、風雲に乗じ地を巻く勢いで身を興し、征夷大将軍となり幕府を開いた。その子孫たるものが、今日に及んで外患を除き得ないようでは、征夷の二字はその実のない虚称となる(征夷大将軍と言うからには、その名の通り外夷を撃攘すべきである)。


ダイソ=乃祖。汝の祖父。転じて、大祖先、偉大なる始祖。ここは徳川幕府を開いた家康を指す。「乃」は「なんじ、第二人称の代名詞」。乃公(ダイコウ=目上の者が、目下の者に対して自分を言う自称の言葉、父が、自分の子に対して自分をいう自称のことば)、乃今(ダイコン=このごろ、いま)。

キン=釁。すきま、割れ目。「外釁」は辞書に見えませんが、外国から攻められる恐れや外国との煩わしい交渉をいう。外患、外虞、外憂とも同義。釁端(キンタン=戦争が起こったり、不和になったりするきっかけ、仲たがいのはじまり)、釁隙(キンゲキ=すきま、仲たがい)。「釁」はもともと、銅器や酒器などのわれめのことですが、「ちぬる」の訓みも忘れずに。

セイイ=征夷。夷(えびす=外敵)を打ち払うこと。鎌倉時代以来、幕府の長を「征夷大将軍」と称しました。もともと奈良・平安時代は「蝦夷」を討つこと。≠誠意、清渭、霽威。



「憑陵」(ヒョウリョウ)とありますが、辞書では「憑凌」かあるいは「馮陵」となっており、「攻めよせて侵す」の意。「馮」は「向こう見ずにぶつかっていく」。行動が無茶振り、向こう見ずであるさまを「暴虎馮河」(ボウコヒョウガ)というのは「論語・述而」に見えます。

明治書院によると、詩は「老中間部詮勝の上洛を諫めようとして書かれたもの」とあります。安政五年(1858)秋、大老井伊直弼は日米修好通商条約の勅許を得るべく間部を上洛させました。星巌は間部に詩を教えたことがあり、紀事二十五首を作って、大津で出迎えて上洛を思いとどまらせようとしたのです。何よりも「征夷」が「虚称」というのは過激極まりない言葉です。

ところが星巌は虎列剌で急死します。先ほど名前の出た仲間たちが安政の大獄で捕らえられる3日前のことでした。それ以降は愈、血で血を洗う腥い幕末に突入します。数えればあっという間の十年間ですが、なんとまあ濃密な十年間であったことでしょう。弊blogの日本漢詩シリーズも8月からは幕末篇に入ります。

本日のオマケ。梁川星巌の妻、紅蘭も女流漢詩人として名高い。明治書院(P166)によれば、「江馬細香、原采蘋と並ぶ閨秀詩人である」と紹介されており、次の漢詩が載っています。

「牡丹蝴蝶図」。

■■驚世俗    グウゲン世俗を驚かす
周也果何人    周や果たして何人ぞ
怪爾為蝴蝶    怪しむ爾が蝴蝶と為り
偏尋富貴春    偏に富貴の春を尋ぬるを



【解釈】 事にかこつけたつくり話で世俗の人を驚かした荘周とは、いったいどんな人であったのでしょうか。あなたは夢に蝴蝶となって花から花へ飛びまわったと言いますが、ことさらに富貴の花といわれる牡丹の春色を訪ねるとは、平生の持論にも似合わない、とんと訝しく思われますよ。

グウゲン=寓言。事物にかこつけていう話。たとえ話。寓話(グウワ)とも。「寓」は「よる」「よせる」とも訓み、「当座のものを利用してことよせる、かこつけてほのめかす」の意。寓意(グウイ=他の物事にかこつけて、それとなく気持ちや意志を述べること)、寓懐(グウカイ=思いをよせる、自分の思いを他の事物に託する)、寓目(グウモク=注意して視る、注目、寓視=グウシ=)。


明治書院によると、「牡丹の花に蝶がたわむれている画を見て、それに題した詩」とある。「荘子」に出てくる有名な「胡蝶之夢」の故事が思い出されます。夢の中で荘子が胡蝶となり、気持ちよくひらひらと飛んでいるうちに目覚めてみれば、自分自身しかいない。あれれ、夢の中で趙になったのは自分なのか、それとも蝶が夢の中で荘子になったのか。区別がつかなくなってしまいます。紅蘭は、艶やかな牡丹の花に舞う蝶を見て、荘子の胡蝶を思い描いたのですが、「それにしちゃあ、荘子さん、牡丹なんざ、ちょっと派手が過ぎやしませんか?」と諷っているのです。「牡丹」は「富貴」の象徴。所詮、偉そうなこと言っても最後は金金か。。。尊皇攘夷を説いた熱血漢詩人星巌は、その妻も熱き女流漢詩人だったのです。

その紅蘭ですが、こんなお洒落なエピソードも。二人が結婚したのは文政3年(1820)。星巌32歳、紅蘭17歳のことでした。某サイトから借用いたします(ここ)。

星巌は、結婚後2~3ヶ月すると、もう旅に出た。

「わしはちょっと旅に出る。お前は裁縫をすること。それから学問をすること。まず三体詩をよく読んで、その中の絶句を暗誦しておきなさい。」と紅蘭に言い残して飄然と家を出ていってしまった。三体詩は、唐の164家の詩集で七絶・七律・五律の3種を記載するもので、詩学の代表的選集であった。

紅蘭は1ヶ月で絶句を覚えた。さらに律詩まですっかり暗記してしまったのに、星巌はいっこうに帰ってこない。

「見渡せば 野にも山にも霞なり 君は帰らず また春や来し」

春は再び訪れたが、夫からは一片の便りもない。親戚の者たちは、紅蘭がうら若い身そらで、長く空閨を守っていることに心を痛め、実家に戻るよう進言した。

しかし紅蘭は「一旦縁あって嫁いだ上は、一方の意志のみで自ら婚家を去るは、婦道の道に背くもの」と、いじらしくも固い決心をし、夫を信じてひたすら裁縫をし、詩道の勉学に精進した。

そんな星巌を待ち焦がれて詠んだ詩があります。詩題は「無題」。読めばわかるということです。

■■栽芍薬    カイゼンに芍薬を栽え
堂後蒔当帰    堂後に当帰を蒔く
一花還一草    一花還た一草
情緒両■■    情緒両つながらイイたり



【解釈】 前庭にはシャクヤクを植えました。背戸の庭にはセリを蒔きました。一つの花と一つの草と、花には花の思いを映し、草には草に寄せる私の思いがあります。私の心はこうして2つの花と草から離れることはありません。(芍薬は晩春に咲き、春に離れようとするので「将離」ともいう。ここでは夫に別れたこと。当帰はセリのこと。「待ち人は、やがてきっと帰ってくる」。どうして離婚など考えられるでしょう。)(訳・冨長蝶如)



カイゼン=階前。家に上がる階段の前、前庭のこと。

イイ=依依。なつかしげで離れにくいさま。依遅(イチ=ぐずぐずしてゆっくり物事をするさま)、依附(イフ=よりそってたよる)、依微(イビ=ぼんやりとしていてかすかなさま)。



星巌は足かけ3年目(文政5年・1822)、ようやく紅蘭の待つ曽根に帰ってきた。星巌が長い無音を陳謝した後、絶句の暗誦を質したところ、絶句はもとより三体詩494全部を暗誦しているので、すっかり感心し、褒めたたえた。    云々。。。


お洒落な漢詩人カップルですわ。

一つの衣服をシェアできる仲間と倶に学び暮らそう=若き塾生に「清貧」を説いた広瀬淡窓

学問や教育の現場から「清貧」という言葉が聞かれなくなって久しい。広辞苑によれば「行いが清らかで私欲がなく、そのために貧しく暮らしていること」。インターネットやゲームなど便利な道具や情報が溢れている今の子供たちはある意味不幸か。不必要な「物」も含めて有り余る「物」の中から、自らが本当に必要な「物」を選り分ける力を身につけなければならないのですが、「物」が有り過ぎてそれが難しい。最初から「物」なんてなければ、それはそれで何とか知恵を付けて如何様にもというのに、憖、「物」があるから「物」に攀ってしまう哀しさ。「あるからやる」のではなく「あるけどやらない」。学問とて同じこと。本来はもっとシンプルでいいはずです。学問は一心不乱で究めるものだと分かっていても誘惑が多いですから。

江戸時代後期の漢学者、広瀬淡窓(1782~1856)に学問の「清貧」さが響き渡る漢詩があります。それが「桂林荘雑詠示諸生」(桂林荘雑詠諸生に示す)。淡窓は豊後日田(大分県)の人で、門人4000人を誇ったという「咸宜園」が有名ですが、その前身とも言うべき発祥の私塾が「桂林荘」です。そこで、若き塾生たちを激励、鼓舞する内容の詩を詠じました。高い志を抱いて集った仲間同士、物質的なものは乏しいけれども、精神的には潤沢で楽しいではないか。俱に学び俱に成長しようではないか。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P109~110)から。

休道他■■苦辛    道うをめよ タキョウ苦辛しと
■■有友自相親    ドウホウ 友有り自ら相親しむ
■■暁出霜如雪    サイヒ 暁に出ずれば霜雪の如し
君汲川流我拾薪    君は川流を汲め 我は薪を拾わん



【解釈】 さて、塾生諸君よ。いったん志を立ててはるばるやってきたからには、他郷はつらいなどと弱音を吐くものではない。志を同じくする多くの友人がいる。不自由を忍びながらも、一枚の袍(綿入れ)を共用する親友もできよう。朝早く柴の戸を開けて外に出てみると、霜が一面に降りまるで雪のようで、寒さはひとしお身にしみるが、何のこれしきのこと、自炊も楽しいではないか。君は川の水を汲んで来給え、僕は裏山の林に行って薪を拾ってこよう。

タキョウ=他郷。故郷以外の地方。異郷。対義語は故郷。

ドウホウ=同袍。親しい仲間。友人。「詩経・秦風・無衣」に「同袍同沢」(ドウホウドウタク)という成句が見えます。衣服を共有する意から、親しい仲間、特に戦友をいう。「袍」は「わたいれ」、「沢」は「はだぎ」の意。軍人同士が仲間を呼ぶ言い方でもある。褞袍(オンポウ=やや大型で、そで口の広い綿入れ)、戦袍(センポウ=戦士が着る外衣)。

サイヒ=柴扉。柴の門、転じて、貧しい家、あばら家。柴戸(サイコ)、柴扃(サイケイ)ともいう。「扃」は「かんぬき」とも訓み、「家の内外をわける戸口」の意。

休めよ=や・めよ。禁止をあらわすことば。~するな。古くは「勿」(なかれ)を用います。「休道」は「いうことをやめよ」と訓読するのが慣例。「やすめよ」ではないので要注意。




これはなかなかに有名な詩で、「殊に最後の句は友情を示す句としてしばしば引かれる」(明治書院)とあります。「君汲川流我拾薪」は御膝下の咸宜園では「君は川流に汲み我は薪を拾ふ」と読んだそうです。「柴扉」という表現から、桂林荘が粗末な造りだったことが分かります。淡窓は、朝餉の支度を塾生みんなで分担しようと呼びかけているのです。まだ水道・ガス・電気なんかありはしない時代の苦学生たちが将来を夢見ながらわいわいと一つのことに専心する。決してオヤジのノスタルジーで言うのではありません。今の子供にもこんな肌感覚の体験はあってもよいのでは?「物」が溢れて血迷うよりは余程いい。子供らもそんな環境に置かれたらそれなりに楽しくやれるのではないかしら。「物」なんてなきゃないでいいんですよ。ないところで、そこからどうやって清く楽しく生きていく方法を見つけ出すか。「清貧」などと気取ってやらなくてもいい。もっとシンプルな日常を送ることを心掛けたいものです。一日が長く、充実するぞ~。

本日のオマケ。「清貧」でネット検索していたら、太宰治の「清貧譚」という作品が引っかかりました。「聊斎志異」の一篇をモチーフに短編小説に編んでいます。それほど小難しい語彙も漢字もそれほどありません。さらりと読める好篇です。短いので全文を掲げ、一部漢字の問題に仕立てました。青空文庫から借用です(ここ)。ルビは削除しました。

「清貧譚」(太宰治)

以下に記すのは、かの聊斎志異の中の一篇である。原文は、千八百三十四字、之を私たちの普通用ゐてゐる四百字詰の原稿用紙に書き写しても、わづかに四枚半くらゐの、極く短い小片に過ぎないのであるが、読んでゐるうちに様々の空想が湧いて出て、優に三十枚前後の好短篇を読了した時と同じくらゐのマンシャクの感を覚えるのである。私は、この四枚半の小片にまつはる私の様々の空想を、そのまま書いてみたいのである。このやうな仕草が果して創作の本道かどうか、それには議論もある事であらうが、聊斎志異の中の物語は、文学の古典といふよりは、コドコウヒに近いものだと私は思つてゐるので、その古い物語を骨子として、二十世紀の日本の作家が、フテイの空想を案配し、かねて自己の感懐を託し以て創作也と読者にすすめても、あながち深い罪にはなるまいと考へられる。私の新体制も、ロマンチシズムの発掘以外には無いやうだ。

 むかし江戸、向島あたりに馬山才之助といふ、つまらない名前の男が住んでゐた。ひどく貧乏である。三十二歳、独身である。菊の花が好きであつた。佳い菊の苗が、どこかに在ると聞けば、どのやうな無理算段をしても、必ず之を買ひ求めた。千里をはばからず、と記されてあるから相当のものである事がわかる。初秋のころ、伊豆の沼津あたりに佳い苗があるといふことを聞いて、たちまち旅装をととのへ、顔色を変へて発足した。箱根の山を越え、沼津に到り、四方八方捜しまはり、やつと一つ、二つの美事な苗を手に入れる事が出来、そいつを宝物のやうに大事に油紙に包んで、にやりと笑つて帰途についた。ふたたび箱根の山を越え、小田原のまちが眼下に展開して来た頃に、ぱかぱかと背後に馬蹄の音が聞えた。ゆるい足並で、その馬蹄の音が、いつまでも自分と同じ間隔を保つたままで、それ以上ちかく迫るでもなし、また遠のきもせず、変らずぱかぱか附いて来る。才之助は、菊の良種を得た事で有頂天なのだから、そんな馬の足音なぞは気にしない。けれども、小田原を過ぎ二里行き、三里行き、四里行つても、相変らず同じ間隔で、ぱかぱかと馬蹄の音が附いて来る。才之助も、はじめて少し変だと気が附いて、振りかへつて見ると、美しい少年が奇妙に痩せた馬に乗り、自分から十間と離れてゐないところを歩いてゐる。才之助の顔を見て、につと笑つたやうである。知らぬふりをしてゐるのも悪いと思つて、才之助も、ちよつと立ちどまつて笑ひ返した。少年は、近寄つて馬から下り、

「いいお天気ですね。」と言つた。

「いいお天気です。」才之助も賛成した。

 少年は馬をひいて、そろそろ歩き出した。才之助も、少年と肩をならべて歩いた。よく見ると少年は、武家の育ちでも無いやうであるが、それでも人品は、どこやら典雅で服装も小ざつぱりしてゐる。物腰が、オウヨウである。

「江戸へ、おいでになりますか。」と、ひどく馴れ馴れしい口調で問ひかけて来るので、才之助もそれにつられて気をゆるし、

「はい、江戸へ帰ります。」

「江戸のおかたですね。どちらからのお帰りですか。」旅の話は、きまつてゐる。それからそれと問ひ答へ、つひに才之助は、こんどの旅行の目的全部を語つて聞かせた。少年は急に目を輝かせて、

「さうですか。菊がお好きとは、たのもしい事です。菊に就いては、私にも、いささか心得があります。菊は苗の良し悪しよりも、手当の仕方ですよ。」と言つて、自分の栽培の仕方を少し語つた。菊気違ひの才之助は、たちまち熱中して、

「さうですかね。私は、やつぱり苗が良くなくちやいけないと思つてゐるんですが。たとへば、ですね、――」と、かねてホウカイしてゐる該博なる菊の知識を披露しはじめた。少年は、あらはに反対はしなかつたが、でも、時々さしはさむ簡単な疑問の呟きの底には、並々ならぬ深い経験が感取せられるので、才之助は、躍起になつて言へば言ふほど、自信を失ひ、はては泣き声になり、

「もう、私は何も言ひません。理論なんて、ばからしいですよ。実際、私の作つた菊の花を、お見せするより他はありません。」

「それは、さうです。」少年は落ちついて首肯いた。才之助は、やり切れない思ひである。何とかして、この少年に、自分の庭の菊を見せてやつて、あつと言はせてやりたく、むずむず身悶えしてゐた。

「それぢや、どうです。」才之助は、もはや思慮分別を失つてゐた。「これから、まつすぐに、江戸の私の家まで一緒にいらして下さいませんか。ひとめでいいから、私の菊を見てもらひたいものです。ぜひ、さうしていただきたい。」

 少年は笑つて、

「私たちは、そんなのんきな身分ではありません。これから江戸へ出て、つとめ口を捜さなければいけません。」

「そんな事は、なんでもない。」才之助は、すでにキコの勢ひである。「まづ私の家へいらして、ゆつくり休んで、それからお捜しになつたつておそくは無い。とにかく私の家の菊を、いちど御覧にならなくちやいけません。」

「これは、たいへんな事になりました。」少年は、もはや笑はず、まじめな顔をして考へ込んだ。しばらく黙つて歩いてから、ふつと顔を挙げ、「実は、私たち沼津の者で、私の名前は、陶本三郎と申しますが、早くから父母を失ひ、姉と二人きりで暮してゐました。このごろになつて急に姉が、沼津をいやがりまして、どうしても江戸へ出たいと言ひますので、私たちは身のまはりのものを一さい整理して、ただいま江戸へ上る途中なのです。江戸へ出たところで、何の目当もございませんし、思へば心細い旅なのです。のんきに菊の花など議論してみる場合ぢや無かつたのでした。私も菊の花は、いやでないものですから、つい、余計のおしやべりをしてしまひました。もう、よしませう。どうか、あなたも忘れて下さい。これで、おわかれ致します。考へてみると、いまの私たちは、菊の花どころでは無かつたのです。」と淋しさうな口調で言つて目礼し、傍の馬に乗らうとしたが、才之助は固く少年の袖をとらへて、

「待ち給へ。そんな事なら、なほさら私の家へ来てもらはなくちやいかん。くよくよし給ふな。私だつて、ひどく貧乏だが、君たちを世話する事ぐらゐは出来るつもりです。まあ、いいから私に任せて下さい。姉さんも一緒だとおつしやつたが、どこにゐるんです。」

 見渡すと、先刻は気附かなかつたが、痩馬の蔭に、ちらと赤い旅装の娘のゐるのが、わかつた。才之助は、顔をあからめた。

 才之助の熱心な申し入れを拒否しかねて、姉と弟は、たうとうかれの向島のロウオクに一まづ世話になる事になつた。来てみると、才之助の家は、かれの話以上に貧しく荒れはててゐるので、姉弟は、互ひに顔を見合せて溜息をついた。才之助は、一向平気で、旅装もほどかず何よりも先に、自分の菊畑に案内し、いろいろ自慢して、それから菊畑の中の納屋を姉弟たちの当分の住居として指定してやつたのである。かれの寝起きしてゐる母屋は汚くて、それこそ足の踏み場も無いほどタイハイしてゐて、むしろ此の納屋のはうが、ずつと住みよいくらゐなのである。

「姉さん、これあいけない。とんだ人のところに世話になつちやつたね。」陶本の弟は、その納屋で旅装を解きながら、姉に小声でササヤいた。

「ええ、」姉は微笑して、「でも、のんきでかへつていいわ。庭も広いやうだし、これからお前が、せいぜい佳い菊を植ゑてあげて、御恩報じをしたらいいのよ。」

「おやおや、姉さんは、こんなところに、ずつと永く居るつもりなのですか?」

「さうよ。私は、ここが気に入つたわ。」と言つて顔を赤くした。姉は、二十歳くらゐで、色が溶けるほど白く、姿もすらりとしてゐた。

 その翌朝、才之助と陶本の弟とは、もう議論をはじめてゐた。姉弟たちが代る代る乗つて、ここまで連れて来たあの老いた痩馬がゐなくなつてゐるのである。ゆうべたしかに菊畑の隅に、つないで置いた筈なのに、けさ、才之助が起きて、まづ菊の様子を見に畑へ出たら、馬はゐない。しかも、畑を大いに走り廻つたらしく、菊は食ひ荒され、痛めつけられ、さんざんである。才之助は仰天して、納屋の戸を叩いた。弟が、すぐに出て来た。

「どうなさいました。何か御用ですか。」

「見て下さい。あなたたちの痩馬が、私の畑を滅茶滅茶にしてしまひました。私は、死にたいくらゐです。」

「なるほど。」少年は、落ちついてゐた。「それで? 馬は、どうしました。」

「馬なんか、どうだつていい。逃げちやつたんでせう。」

「それは、惜しい。」

「何を、おつしやる。あんな痩馬。」

「痩馬とは、ひどい。あれは、利巧な馬です。すぐ様さがしに行つて来ませう。こんな菊畑なんか、どうでもいい。」

「なんですつて?」才之助は、蒼くなつて叫んだ。「君は、私の菊畑を侮蔑するのですか?」

 姉が、納屋から、幽かに笑ひながら出て来た。

「三郎や、あやまりなさい。あんな痩馬は、惜しくありません。私が、逃がしてやつたのです。それよりもこの荒された菊畑を、すぐに手入れしておあげなさいよ。御恩報じの、いい機会ぢやないの。」

「なあんだ。」三郎は、深い溜息をついて、小声で呟いた。「そんなつもりだつたのかい。」

 弟は、渋々、菊畑の手入れに取りかかつた。見てゐると、葉を喰ひちぎられ、打ち倒され、もはや枯死しかけてゐる菊も、三郎の手に依つて植ゑ直されると、サッと生気を恢復し、茎はたつぷりと水分を含み、花の蕾は重く柔かに、しをれた葉さへ徐々にその静脈に波打たせて伸腰する。才之助は、ひそかに舌を捲いた。けれども、かれとても菊作りの志士である。プライドがあるのだ。どてらの襟を掻き合せ、努めて冷然と、「まあ、いいやうにして置いて下さい。」と言ひ放つて母屋へ引き上げ、蒲団かぶつて寝てしまつたが、すぐに起き上り、雨戸の隙間から、そつと畑を覗いてみた。菊は、やはりリンコと生き返つてゐた。

 その夜、陶本三郎が、笑ひながら母屋へやつて来て、

「どうも、けさほどは失礼いたしました。ところで、どうです。いまも姉と話合つた事でしたが、お見受けしたところ、失礼ながら、あまり楽なお暮しでもないやうですし、私に半分でも畑をお貸し下されば、いい菊を作つて差し上げませうから、それを浅草あたりへ持ち出してお売りになつたら、よろしいではありませんか。ひとつ、大いに佳い菊を作つて差し上げたいと思ひます。」

 才之助は、けさは少からず、菊作りとしての自尊心を傷つけられてゐる事とて、不機嫌であつた。

「お断り申す。君も、卑劣な男だねえ。」と、ここぞとばかり口をゆがめて軽蔑した。「私は、君を、風流な高士だとばかり思つてゐたが、いや、これは案外だ。おのれの愛する花を売つてベイエンの資にする等とは、もつての他です。菊をリョウジョクするとは、この事です。おのれの高い趣味を、金銭に換へるなぞとは、ああ、けがらはしい、お断り申す。」と、まるで、さむらひのやうな口調で言つた。

 三郎も、むつとした様子で、語調を変へて、

「天から貰つた自分の実力でベイエンの資を得る事は、必ずしも富をむさぼる悪業では無いと思ひます。俗といつて軽蔑するのは、間違ひです。お坊ちやんの言ふ事です。いい気なものです。人は、むやみに金を欲しがつてもいけないが、けれども、やたらに貧乏を誇るのも、いやみな事です。」

「私は、いつ貧乏を誇りました。私には、祖先からの多少の遺産もあるのです。自分ひとりの生活には、それで充分なのです。これ以上の富は望みません。よけいな、おせつかいは、やめて下さい。」

 またもや、議論になつてしまつた。

「それは、ケンカイといふものです。」

「ケンカイ、結構です。お坊ちやんでも、かまひません。私は、私の菊と喜怒哀楽を共にして生きて行くだけです。」

「それは、わかりました。」三郎は、苦笑して首肯いた。「ところで、どうでせう。あの納屋の裏のはうに、十坪ばかりの空地がありますが、あれだけでも、私たちに、しばらく拝借ねがへないでせうか。」

「私は物惜しみをする男ではありません。納屋の裏の空地だけでは不足でせう。私の菊畑の半分は、まだ何も植ゑてゐませんから、その半分もお貸し致しませう。ご自由にお使ひ下さい、なほ断つて置きますが、私は、菊を作つて売らう等といふ下心のある人たちとは、おつき合ひ致しかねますから、けふからは、他人と思つていただきます。」

「承知いたしました。」三郎は、大いに閉口の様子である。「お言葉に甘えて、それでは畑も半分だけお借りしませう。なほ、あの納屋の裏に、菊の屑の苗が、たくさん捨てられて在りますけれど、あれも頂戴いたします。」

「そんなつまらぬ事を、いちいちおつしやらなくてもよろしい。」

 不和のままで、わかれた。その翌る日、才之助は、さつさと畑を二つにわけて、その境界に高い生垣を作り、お互ひに見えないやうにしてしまつた。両家は、絶交したのである。

 やがて、秋たけなはの頃、才之助の畑の菊も、すべて美事な花を開いたが、どうも、お隣りの畑のはうが気になつて、或る日、そつと覗いてみると、驚いた。いままで見た事もないやうな大きな花が畑一めんに、咲き揃つてゐる。納屋も小綺麗に修理されてゐて、さも居心地よささうなしやれた構への家になつてゐる。才之助は、心中おだやかでなかつた。菊の花は、あきらかに才之助の負けである。しかもショウシャな家さへ建ててゐる。きつと菊を売つて、大いにお金をまうけたのにちがひない。けしからぬ。こらしめてやらうと、義憤やら嫉妬やら、さまざまの感情が怪しくごたごた胸をゆすぶり、ゐたたまらなくなつて、つひに生垣を乗り越え、お隣りの庭にチンニュウしてしまつたのである。花一つ一つを、見れば見るほど、よく出来てゐる。花弁の肉も厚く、力強く伸び、精一ぱいに開いて、花輪は、ぷりぷり震へてゐるほどで、いのち限りに咲いてゐるのだ。なほ注意して見ると、それは皆、自分が納屋の裏に捨てた、あの屑の苗から咲いた花なのである。

「ううむ。」と思はずウナつてしまつた時、

「いらつしやい。お待ちしてゐました。」と背後から声をかけられ、へどもどして振り向くと、陶本の弟が、にこにこ笑ひながら立つてゐる。

「負けました。」と才之助は、やけくそに似た大きい声で言つた。「私は潔よい男ですからね、負けた時には、はつきり、負けたと申し上げます。どうか、君の弟子にして下さい。これまでの行きがかりは、さらりと、」と言つて自分の胸を撫で下ろして見せて、「さらりと水に流す事に致しませう。けれども、――」

「いや、そのさきは、おつしやらないで下さい。私は、あなたのやうな潔癖の精神は持つてゐませんので、御推察のとほり、菊を少しづつ売つて居ります。けれども、どうか軽蔑なさらないで下さい。姉も、いつもその事を気にかけて居ります。私たちだつて、精一ぱいなのです。私たちには、あなたのやうに、父祖の遺産といふものもございませんし、ほんたうに、菊でも売らなければ、のたれ死にするばかりなのです。どうか、お見逃し下さつて、これを機会に、またおつき合ひ願ひます。」と言つて、うなだれてゐる三郎の姿を見ると、才之助も哀れになつて来て、

「いや、いや、さう言はれると痛み入ります。私だつて、何も、君たち姉弟を嫌つてゐるわけではないのです。殊に、これからは君を菊の先生として、いろいろ教へてもらはうと思つてゐるのですから、どうか、私こそ、よろしくお願ひ致します。」と神妙に言つて一礼した。

 一たんは和解成つて、間の生垣も取り払はれ、両家の往来がはじまつたのであるが、どうも、時々は議論が起る。

「君の菊の花の作り方には、なんだか秘密があるやうだ。」

「そんな事は、ありません。私は、これまで全部あなたにお伝へした筈です。あとは、指先の神秘です。それは、私にとつても無意識なもので、なんと言つてお伝へしたらいいのか、私にもわかりません。つまり、才能といふものなのかも知れません。」

「それぢや、君は天才で、私は鈍才だといふわけだね。いくら教へても、だめだといふわけだね。」

「そんな事を、おつしやつては困ります。或いは、私の菊作りは、いのちがけで、之を美事に作つて売らなければ、ごはんをいただく事が出来ないのだといふ、そんなせつぱつまつた気持で作るから、花も大きくなるのではないかとも思はれます。あなたのやうに、趣味でお作りになる方は、やはり好奇心や、自負心の満足だけなのですから。」

「さうですか。私にも菊を売れと言ふのですね。君は、私にそんな卑しい事をすすめて、恥づかしくないかね。」

「いいえ、そんな事を言つてゐるのではありません。あなたは、どうして、さうなんでせう。」

 どうも、しつくり行かなかつた。陶本の家は、いよいよ富んで行くばかりの様であつた。その翌る年の正月には、才之助に一言の相談もせず、大工を呼んでいきなり大邸宅の建築に取りかかつた。その邸宅の一端は、才之助のボウオクの一端に、ほとんど密着するくらゐであつた、才之助は、再び隣家と絶交しようと思ひはじめた。或る日、三郎が真面目な顔をしてやつて来て、

「姉さんと結婚して下さい。」と思ひつめたやうな口調で言つた。

 才之助は、頬を赤らめた。はじめ、ちらと見た時から、あの柔かな清らかさを忘れかねてゐたのである。けれども、やはり男の意地で、へんな議論をはじめてしまつた。

「私には結納のお金も無いし、妻を迎へる資格がありません。君たちは、このごろ、お金持ちになつたやうだからねえ。」と、かへつて厭味を言つた。

「いいえ、みんな、あなたのものです。姉は、はじめから、そのつもりでゐたのです。結納なんてものも要りません。あなたが、このまま、私の家へおいで下されたら、それでいいのです。姉は、あなたを、お慕ひ申して居ります。」

 才之助は、ロウバイを押し隠して、

「いや、そんな事は、どうでもいい。私には私の家があります。入り婿は、まつぴらです。私も正直に言ひますが、君の姉さんを嫌ひではありません。はははは、」と豪傑らしく笑つて見せて、「けれども、入り婿は、男子として最も恥づべき事です。お断り致します。帰つて姉さんに、さう言ひなさい。清貧が、いやでなかつたら、いらつしやい、と。」

 喧嘩わかれになつてしまつた。けれどもその夜、才之助の汚い寝所に、ひらりと風に乗つて白い柔い蝶が忍び入つた。

「清貧は、いやぢやないわ。」と言つて、くつくつ笑つた。娘の名は、黄英といつた。

 しばらくは二人で、ボウオクに住んでゐたが、黄英は、やがてそのボウオクの壁に穴をあけ、それに密着してゐる陶本の家の壁にも同様に穴を穿ち、自由に両家が交通できるやうにしてしまつた。さうして自分の家から、あれこれと必要な道具を、才之助の家に持ち運んで来るのである。才之助には、それが気になつてならなかつた。

「困るね。この火鉢だつて、この花瓶だつて、みんなお前の家のものぢやないか。女房の持ち物を、亭主が使ふのは、実に面目ない事なのだ。こんなものは、持つて来ないやうにしてくれ。」と言つて叱りつけても、黄英は笑つてゐるばかりで、やはり、ちよいちよい持ち運んで来る。清廉の士を以て任じてゐる才之助は、大きい帳面を作り、左の品々一時お預り申候と書いて、黄英の運んで来る道具をいちいち記入して置く事にした。けれども今は、身のまはりの物すべて、黄英の道具である。いちいち記入して行くならば、帳面が何冊あつても足りないくらゐであつた。才之助は絶望した。

「お前のおかげで、私もたうとう髪結ひの亭主みたいになつてしまつた。女房のおかげで、家が豊かになるといふ事は男子として最大の不名誉なのだ。私の三十年の清貧も、お前たちの為に滅茶滅茶にされてしまつた。」と或る夜、しみじみ愚痴をこぼした。黄英も、流石に淋しさうな顔になつて、

「私が悪かつたのかも知れません。私は、ただ、あなたの御情にお報いしたくて、いろいろ心をくだいて今まで取計つて来たのですが、あなたが、それほど深く清貧に志して居られるとは存じ寄りませんでした。では、この家の道具も、私の新築の家も、みんなすぐ売り払ふやうにしませう。そのお金を、あなたがお好きなやうに使つてしまつて下さい。」

「ばかな事を言つては、いけない。私ともあらうものが、そんな不浄なお金を受け取ると思ふか。」

「では、どうしたら、いいのでせう。」黄英は、泣声になつて、「三郎だつて、あなたに御恩報じをしようと思つて、毎日、菊作りに精出して、はうばうのお屋敷にせつせと苗をおとどけしてはお金をまうけてゐるのです。どうしたら、いいのでせう。あなたと私たちとは、まるで考へかたが、あべこべなんですもの。」

「わかれるより他は無い。」才之助は、言葉の行きがかりから、更に更に立派な事を言はなければならなくなつて、心にもないつらい宣言をしたのである。「清い者は清く、濁れる者は濁つたままで暮して行くより他は無い。私には、人にかれこれ命令する権利は無い。私がこの家を出て行きませう。あしたから、私はあの庭の隅に小屋を作つて、そこで清貧を楽しみながら寝起きする事に致します。」ばかな事になつてしまつた。けれども男子は一度言ひ出したからには、のつぴきならず、翌る朝さつそく庭の隅に一坪ほどの掛小屋を作つて、そこに引きこもり、寒さに震へながら正座してゐた。けれども、二晩そこで清貧を楽しんでゐたら、どうにも寒くて、たまらなくなつて来た。三晩目には、たうとう我が家の雨戸を軽く叩いたのである。雨戸が細くあいて、黄英の白い笑顔があらはれ、

「あなたの潔癖も、あてになりませんわね。」

 才之助は、深く恥ぢた。それからは、ちつとも剛情を言はなくなつた。墨堤の桜が咲きはじめる頃になつて、陶本の家の建築は全く成り、さうして才之助の家と、ぴつたり密着して、もう両家の区別がわからないやうになつた。才之助は、いまはそんな事には、少しも口出しせず、すべて黄英と三郎に任せ、自分は近所の者と将棋ばかりさしてゐた。一日、一家三人、墨堤の桜を見に出かけた。ほどよいところに重箱をひろげ、才之助は持参の酒を飲みはじめ、三郎にもすすめた。姉は、三郎に飲んではいけないと目で知らせたが、三郎は平気で杯を受けた。

「姉さん、もう私は酒を飲んでもいいのだよ。家にお金も、たくさんたまつたし、私がゐなくなつても、もう姉さんたちは一生あそんで暮せるでせう。菊を作るのにも、厭きちやつた。」と妙な事を言つて、やたらに酒を飲むのである。やがて酔ひつぶれて、寝ころんだ。みるみる三郎のからだは溶けて、煙となり、あとには着物と草履だけが残つた。才之助はキョウガクして、着物を抱き上げたら、その下の土に、水々しい菊の苗が一本生えてゐた。はじめて、陶本姉弟が、人間でない事を知つた。けれども、才之助は、いまでは全く姉弟の才能と愛情に敬服してゐたのだから、ケンエンの情は起らなかつた。哀しい菊の精の黄英を、いよいよ深く愛したのである。菊の苗は、わが庭に移し植ゑ、秋にいたつて花を開いたが、その花は薄紅色で幽かにぽつと上気して、嗅いでみると酒の匂ひがした。黄英のからだに就いては、「亦他異無し。」と原文に書かれてある。つまり、いつまでもふつうの女体のままであつたのである。


ちょっと長かったでしょうか。内容は平易ですね。中学生に読ませて感想文を書かせたり、議論をさせたりするといい素材かもしれません。

幸田露伴の作品でこれくらいのヴォリュームの文章題を作成したなら、これの何十倍の漢字の問題になってしまい、一日じゃあ終わらないでしょうね~。太宰故に、ほどよいレベルの漢字や語彙が程良い間隔で登場します。偶には太宰もいいかな。。息抜きで。。。太宰ファンの方々怒らないでね、決して軽く見ているわけではありませんから。

真の「清貧」とは何ぞや。「人は、むやみに金を欲しがつてもいけないが、けれども、やたらに貧乏を誇るのも、いやみな事です」「あなたのやうに、趣味でお作りになる方は、やはり好奇心や、自負心の満足だけなのですから」「どうしたら、いいのでせう。あなたと私たちとは、まるで考へかたが、あべこべなんですもの」「あしたから、私はあの庭の隅に小屋を作つて、そこで清貧を楽しみながら寝起きする事に致します」「あなたの潔癖も、あてになりませんわね」――などなどの3人が三様に語る台詞にはいちいち含蓄があり、面白いと思います。




こたえ)▼マンシャク=満酌▼コド=故土▼コウヒ=口碑▼フテイ=不逞▼オウヨウ=鷹揚▼ホウカイ=抱懐▼キコ=騎虎▼ロウオク=陋屋▼タイハイ=頽廃▼ササヤいた=囁いた▼サツ(ッ)と=颯と▼リンコ=凛乎▼ベイエン=米塩▼リョウジョク=凌辱(陵辱)▼ケンカイ=狷介▼ショウシャ=瀟洒▼チンニュウ=闖入▼ウナつて=唸つて▼ボウオク=茅屋▼ロウバイ=狼狽▼キョウガク=驚愕▼ケンエン=嫌厭

幕末の勤皇の志士よ国のために立ち上がれ!!=「正気の歌」で鼓舞した藤田東湖

藤田東湖(1806~1855)は、父親幽谷と共にいわゆる「水戸学」を確立した儒学者です。西郷隆盛が最も敬愛した尊皇攘夷論者でもあり、幕末の多くの志士たちが彼の思想の影響を受けています。同志に会澤正志斎がいます。

まずは、東湖の「題菊池容斎図」(菊池容斎の図に題す)から味わいましょう。

■■得雲雨    コウリョウ雲雨を得ば
非復■■物    復たチチュウの物に非ず
如何■■裡    如何ぞフウジンの裡
徒使英雄屈    徒に英雄をして屈せしむる



【解釈】 蛟竜も雲雨を得れば天に上り、もはや池中一個の生物ではなく。鬼神のごとき変化を現す。時を得れば英雄とても同じこと。どうして詰まらない俗塵の中に英雄をとじこめておくのであろうか。



コウリョウ=蛟竜。想像上の生き物であるみずちや竜。君主や英雄にたとえる。「蛟竜雲雨を得」は「三国志・呉志・周瑜伝」にある成句で、「君主たる者が人民の心を得て威信が備わったたたとえ、また、英雄が機会をとらえて大業を成すたとえ」の意。実力者がチャンス到来とばかり行動に出れば一気に天下を手中に収めるということ。なかなか来ないんですけどね…。≠荒寥、亢竜、岡陵、後梁、拷掠、杠梁、狎猟、膏粱、虹梁、郊燎、粳糧、高粱、綱領、稿料。

チチュウ=池中。いけのなか。これは引っ掛け。「地中」ではない。だって、蛟や竜に付き物は「水」ですからね。「土」の中にいるのは鼴鼠や螻蛄や蚯蚓でしょ?況んや、「踟躊」ではないけれど、「チチュウ」の音でこの漢字を浮かべられた人は語彙のセンスありです。

フウジン=風塵。かぜとちり。風に巻き起こされる土ぼこり。転じて、わずらわしく、けがらわしい物事のたとえ。俗事・俗世間のこと。「風神」は「風の神」、「風人」は「詩人」。



菊池容斎(1788~1878)は、幕末から明治時代初期にかけての日本画家です。歴史画を得意とした復古大和絵派。日本古来の忠臣・義士・烈婦など五百余人の像を描き、1868年に「全賢故実」(全10巻)として上梓しました。東湖が題した図は誰を描いたものだったのでしょうか?明治書院には「竜は勤王の志士か」と提起されています。この詩が詠まれた時期は定かではありませんが、東湖が存命のころはまだ志士たちは若い。したがって、特定の個人ではない、子供の蛟か、はたまた鳳雛か。

明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P109)によれば、「その大義を明らかにし、名分を正し、国体を擁護するという学は、その後の日本の歴史の折々に過激な盲信者を生み、暗い影を落としている。東湖自身は一言で言えば至誠の人」とあります。ただ、歴史的に見て惜しむらくは、安政2年(1855)の安政の大地震に際し、小石川の水戸藩邸内で、老母をかばって圧死したことでしょう。享年50歳でした。現在、水戸藩邸跡は小石川後楽園となり、その一画に東湖追悼の石碑が建っています。もし彼があと20年長生きていたなら、どのような明治維新になっていたでしょうか?江戸幕府はあんな風に倒れていたのでしょうか?


本日のオマケは東湖の代表作と云っていい『正気(せいき)の歌』(正式名:『文天の正気歌に和す』)。水戸藩主徳川斉昭が讒言により幕府から隠退を命ぜられ、駒込の別邸に幽閉されたのに従い、江戸の藩邸に幽囚された時に作られました。南宋末期の志士、文天の「正気歌」に寄せた漢詩。幕末の志士を鼓舞するばかりか、明治、大正、昭和初期と愛国的な人々に愛唱されました。某サイト(ここ)からいただきます。読みがなは省略し、表現などを一部手直ししています。兎に角長い。オマケとは言いつつも、こっちの方がメインかも。。。問題づくりも困難を極めました。語釈や解説はなし。思想的な話もなしにしましょう。数多くの史実が登場します。すらすらと朗読できて頭にイメージが浮かぶかどうか。難しい漢字もあります。調べてみましょう。

天地正大氣    天地正大の気
粹然鍾州    粋然として神州に
秀爲不二嶽    秀でては、不二の嶽と為り
■■聳千秋    ギギとして千秋に聳え
注爲■■水    注ぎては、タイエイの水と為り
洋洋環八洲    洋洋として八洲を環る
發爲■■櫻    発しては、バンダの桜と為り
衆芳難與儔    衆芳与にひし難し
凝爲百錬鐵    凝りては、百錬の鉄と為り
鋭利可割鍪    鋭利なること鍪を断つべし
藎臣皆■■    藎臣、皆ユウヒ
武夫盡好仇    武夫、尽く好仇
神州孰君臨    州、孰か君臨す
萬古仰天皇    万古、天皇を仰ぐ
皇風洽■■    皇風はリクゴウ
明大陽    明徳は大陽にし
不世無汚    世に汚隆無くんばあらず
正氣時放光    正気、時に光を放つ
乃參大連議    乃ち大連の議に参し
■■排瞿曇    カンカンとして瞿曇を排す
乃助明主斷    乃ち明主の断を助け
燄燄焚伽藍    燄燄として伽藍を焚く
中嘗用之    中、嘗て之を用ふ
宗社磐石安    宗社、磐石安し
丸嘗用之    清丸、嘗て之を用ひ
妖僧肝膽寒    妖僧、肝胆寒し
忽揮龍口劍    忽ち龍口の剣を揮ひ
虜使頭足分    虜使、頭足分る
忽起西海颶    忽ち西海の颶を起し
■■殱胡氛    ドトウ、妖氛を殱す
志賀月明夜    志賀、月明かなる夜
陽爲■■巡    陽りてホウレンと為りて巡る
芳野戰■日    芳野、戦タケナワなるの日
又代帝子屯    又、帝子に代りて屯す
或投鎌倉窟    或は、鎌倉の窟に投ぜられ
憂憤正愪愪    憂憤、正に愪愪
或伴櫻井驛    或は、桜井の駅に伴ひ
遺訓何殷勤    遺訓、何ぞ殷勤なる
或守伏見城    或は、伏見の城を守り
一身當萬軍    一身、万軍に当る
或殉天目山    或は、天目山に殉し
幽囚不忘君    幽囚、君を忘れず
承平二百歳    承平、二百歳
斯氣常獲伸    斯の気、常に伸ぶるを獲たり
然當其■■    然れども、其のウックツするに当りては
生四十七人    四十七人を生ず
乃知人雖亡    乃ち、知る人亡ぶと 雖も
英靈未嘗泯    英霊、未だ嘗てびず
長在天地間    長に天地の間に在り
凛然敍彜倫    リンゼンとして、彜倫を叙す
孰能扶持之    孰か能く之を扶持するものぞ
卓立東海濱    タクリツする東海の浜に
忠誠尊皇室    忠誠、皇室を尊び
孝敬事天    孝敬、天神に事ふ
修文兼奮武    文を修め、兼ねて武を奮ひ
誓欲■■    誓つてコジンを清めんと欲す
一朝天歩艱    一朝、天歩
邦君身先淪    邦君、身先づ淪す
頑鈍不知機    頑鈍、機を知らず
罪戻及孤臣    罪戻、孤臣に及ぶ
孤臣困葛藟    孤臣、葛藟に困しむ
君冤向誰陳    君冤、誰に向かひてか陳べん
孤子遠墳墓    孤子、墳墓に遠ざかる
何以報先親    何を以て先親に報ぜん
■■二周星    ジンゼンたり二周星
獨有斯氣隨    独り、斯の気の随ふ有り
嗟予雖萬死    、予万死すと雖も
豈忍與汝離    豈汝と離るるに忍びんや
屈伸付天地    屈伸、天地に付す
生死又何疑    生死、又、何ぞ疑はん
生當雪君冤    生きては当に君冤を雪ぎ
復見張四維    復た四維を張るを見るべし
死爲忠義鬼    死しては忠義の鬼と為り
極天護皇基    極天、皇基を護らん



「現代語訳」(八神邦建訳) ここからは完全に先ほどのサイトからそのまま借用しました。参考程度に…。

天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。
正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、
流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八洲をめぐる。
開けば、幾万もの枝に咲く桜の花となり、ほかの草木の及ぶところではない。
正気、凝れば、百度(ひゃくたび)鍛えし日本刀となり、切れ味鋭く兜を断つ。
忠臣いずれもみな勇士。武士ことごとく良き仲間。
神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。
天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、
その明らかなる御徳は太陽に等しい。
世の中に栄枯盛衰の絶えることはない。時に正気が光り輝く。
たとえば、欽明帝の御代のこと。物部尾輿(もののべのおこし)、中臣鎌子、
大連(おおむらじ)の議にて、剛直なる正論をもって、
蘇我稲目(そがのいなめ)の惑える仏教を排斥した。
すなわち、英明なる帝の叡慮を助け、蘇我の仏像、海に捨て、
私寺ことごとく焔をあげて焼きつくした。
たとえば、中臣鎌足、正気をおこなう。「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)。
蘇我氏の専横、倒して皇室国家を磐石安泰ならしめた。
たとえば、和気清麻呂、正気をおこなう。宇佐八幡の御神託をいただいて、
妖僧「弓削道鏡」、肝を冷やした。
同じく、北条時宗。建治元年(1275年)、降服迫る「元」の使節を虜にし、
相模の国は竜の口にて切り捨てて、捕虜の首と胴を泣き別れにした。
同じく、元寇襲来のとき、正気は玄界灘の猛風を起こし、
怒涛とともに外国軍の異様な気配を滅ぼしつくした。
後醍醐帝の御代のこと。元弘の変(1331年)。倒幕の企て洩れて、
志賀の比叡山に逃れた夜は明るい月夜。
さらに藤原師賢(もろかた)ら、帝の御衣(みけし)を借り、
帝の乗り物にて行幸を偽り、延暦寺へ。帝はその間に笠置の山へ移りたもう。
南朝は吉野城の戦いたけなわなるとき、元弘三年(1333年)、
護良(もりなが)親王の忠臣、村上彦四郎義光(よしてる)、正気を行う。
帝子(大塔宮・護良親王)の身代わりに、落城さなか宮の鎧兜をいただき切腹す。
あるいは、建武新政、護良親王、正気を行う。
足利尊氏の誅殺くわだて、鎌倉は東光寺の土牢に幽閉さる。
深い憂憤、苦悩のうちに弑殺さる。時に二十八歳。
あるいは、楠木正成、正行(まさつら・11歳)父子の桜井の駅の別れのとき。
正成四十三歳、正気を行う。生き延びて最期の一人になるとも帝を護れ、と遺言するは、
なんとねんごろなことか。勝てぬ戦と知りながら、大楠公、湊川にて討ち死にす。
あるいは、天正十年春三月、織田信長に敗れた武田勝頼、天目山にこもりいる。
讒言にて幽閉されていた小宮山内膳正友信、主君の恩を忘れず、これが最期のお供だと、
駆けつけ許され殉死した。
あるいは、天下分け目の関が原、徳川家康が股肱の臣、鳥居彦右衛門元忠、
主君の囮を買って出て伏見の城を守り奮戦。
二千の手勢とわが身をもって、四万の敵に当たって討ち死にする。享年三十三歳。
以来、太平の世は二百年。かくのごとく正気は、常に伸びるを得てきた。
しかし、正気は、その鬱屈するときもあったが、赤穂義士の四十七人を生み出す。
すなわち、当時を知る人々が亡くなっても、英霊たちが滅んだことは、いまだかつてない。
正気、とこしえに天地の間にあって、りりしく普遍の道を現し続ける。
かくのごとき正気を、だれが助けて伸ばせるだろうか。人為でできることではない。
抜きん出て立つ東海の日本の浜辺、忠誠つくして皇室を尊び、
両親を敬うがごとくに、天津神につかえまつる。
学問を修め、さらに武道をきわめ、誓って異国のけがれを払わんと欲す。
ある日、時運、困難となり、水戸藩主・徳川斉昭の身は隠居謹慎を命ぜられて表より消え、
幕府は時機を見るに頑迷にして愚鈍。
藩主の冤罪は、一人残された腹心・東湖に及んで蟄居幽閉の身となった。
東湖、蔦葛(つたかずら)のつるにからまれたごとく苦しみ身動きが取れない。
藩主の冤罪、誰に向かって陳述できようか。
わが身は、江戸の水戸藩下屋敷にあり、先祖の墓のある郷里からも遠ざかっている。
どうやって亡父亡母のご恩に報いることができようか。
いつしか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。
ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、おまえと離れることを忍べようか。
わが命の絶えるも伸びるも天地の神におまかせする。生きようと死のうと、疑うことなどできようか。
生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、
主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。
死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。




こたえ) あつまる、巍巍、大瀛、万朶、たぐひ、熊羆、六合、あまねく、侃侃、怒濤、鳳輦、酣、鬱屈、ほろびず、凛然、イリン、卓立、胡塵、なやみ、荏苒、ああ

君は西施のその後の消息を御存じか?=范蠡と船で越を去ったと詠んだ朝川善庵

「臥薪嘗胆」とは仇に報いるため、堅い薪の上に寝て(痛いよねぇ~)、そして、熊の胆を嘗める(苦いよねぇ~)、まさに「艱難辛苦」することです。中国春秋時代、呉と越のロングランバトルのお話。戦死した呉王闔廬の子の夫差は、父の仇を忘れないため、薪の上で寝起きして復讐心を掻き立て、ついに会稽山で越王勾践を降伏させました。これに対し、勾践は助命を嘆願してやっと許されると、国に戻り寝室に苦い熊の胆を吊るして、これを嘗めながら報復の志を励まして、苦心の末に夫差を破りました。

范蠡は越王勾践の参謀で、呉王夫差を破る際の戦で大活躍しました。また、西施は范蠡の策略で越から呉に献上され、絶世の美貌を武器に夫差を蠱惑の俘に陥れ、呉滅亡に一役買ったいわば色仕掛けの“刺客”です。「会稽之恥」をすすいだ越王勾践の喜びを象徴する范蠡と西施といういわば、ヒーローとヒロインが仲睦まじく、一つの船に乗って意気揚々と越国を去る――。そんな画に題した漢詩が江戸後期の儒学者、朝川善庵(1781~1849)の「范蠡載西施図」(范蠡、西施を載するの図)です。まずはじっくりと味わってみてください。

安国忠臣傾国色    国を安んずるの忠臣国を傾くるの色
片帆俱趁五湖風    片帆俱にう五湖の風
人間■■君知否    人間のイフク君知るや否や
呉越存亡■■中    呉越の存亡イッカの中



【解釈】 越王勾践を助けて国を安定した忠臣范蠡と、呉王夫差を魅了して国を傾けた美人西施と、互いに相携えて一片の帆船に乗じ、五湖の風をうけて越の国を流れゆく。人世の禍福の互いにより合って、いつどんな変化が起こるか、諸君はご存じであろうか。この画をよく見るがよい。呉の禍は越の福となり、その存亡にそれぞれ関係のあった二人が今や同じ舟に乗って、越を去るのである。



イフク=倚伏。よりかかったり、中に隠れていたりする。禍が福のもとになり、また福の中には禍が隠されているという、禍と福が互いに生じる因果関係のこと。老子「五八章」の「禍兮福之所倚、福兮禍之所伏」から。≠畏伏、威伏、異腹、衣服。「倚」は「よる」と訓む。よりかかること、もたれること。倚几(イキ=すわったとき、よりかかる台、ひじかけ)、倚馬之才(イバのサイ=すぐれた文才)、倚門(イモン=門によりかかる、売春婦)、倚門之望(イモンのボウ=父母が子の帰るのをひたすら待ち望むこと、倚閭望=イリョのボウ=とも)、倚廬(イロ=父母の喪に服する間、仮に住む小屋)、倚魁(キカイ=不思議で怪しい)、倚人(キジン=体の不自由な人、畸人=キジン=、風変わりな人)。

イッカ=一舸。一艘のおおぶね。「舸」は「おおぶね」とも訓む。≠一価、一家、一禾、一過、一課、一科。舸艦(カカン=大きな軍艦)、舸船(カセン=大きなふね)。

趁う=おう。はなれずにぴったりと後ろからついていく、すきまなく追う。音読みは「チン」。趁船(チンセン=定時の船や車に乗り込む、便乗する)、趁時(チンジ=時につけ込む、隙に乗じる)。



詩は何だか“意味深”ですね。呉滅亡後の西施の消息には二説あります。①夫差の自害後、西施は越国に無事保護され、勾践は彼女を後宮に入れようと考えたが、范蠡をはじめ重臣たちは「西施は呉を傾国させた美女。夫差の轍を踏まれるおつもりか」と猛反対。勾践は西施を恐れ、越国に禍もたらす悪女として密かに処刑した②西施は范蠡と恋仲にあって、西施が呉の夫差の許へ発つとき、この戦が終わったら旅に出ようと約束し、西施は夫差に抱かれながらも范蠡をいつも想っていた。そして呉滅亡後、西施は范蠡の許へ戻ることが叶い、二人は越国を出ることに。范蠡は商人となって成功、巨万の富を得て西施と共に優雅な余生を送った(猗頓之富=イトンのとみ=の故事)。いずれも伝説にすぎない話ですが、善庵の詩は②の説を採っていますね。例えば、「十八史略」では「臥薪嘗胆」はあるものの、西施のことは一言も触れられていません。また、呉滅亡後、范蠡が妻子召使いを連れて越国を去り、大金持ちになったことは書かれています。その妻が西施であるかどうかは判然としません。


明治書院(P103)によると、善庵のプロフィールは、折衷学派の儒者、片山兼山の子であるが、兼山が「妻子を残して没し、母は医者朝川黙翁に嫁いだ。善庵が父の姓と異なるのはこのため。折衷学派の山本北山の門に入り、京阪、長崎にも足を伸ばして学を磨いている」とあります。松浦侯、藤堂侯などの諸侯から、賓師の礼を受けた儒者であり、「文化十二年(1815)に清国の船が下田に来たときには江川太郎左衛門の要請を受けて中国語の通訳を筆談で務めた」とあります。

中国の経書はもちろんのこと、十八史略をはじめとする歴史に通暁していたのでしょう。簡潔な七言絶句、二十八字の中に、呉越の戦いを詠み切り、最後に范蠡と西施のエロチックなムードで余韵を残すテクニックはさすがであると同時に、儒者らしからぬセンスもお持ちですな。

啄木も病に臥せり望郷の念歌う=老母の安否を漢詩に託した松崎慊堂

病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも


石川啄木の「一握の砂」の「煙 一」にある短歌です。帰りたくても帰れずにいる望郷の念を空の雲に事寄せて詠い上げています。

「蛮社の獄」で蟄居の身となった渡辺崋山が死罪を免れたのも、漢詩の師匠である松崎慊堂(1772~1844)が奔走した赦免運動の賜物でした。慊堂が故郷の肥後を離れて幾年、病に倒れ牀に臥した際に懐かしい老母のことを思い、詠じた詩が「秋日臥病有感」(秋日病に臥して感有り)です。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P101)によると、この詩は冒頭に掲げた啄木の歌を連想させるとあります。慊堂は肥後を出奔して以来、生涯故郷の土地を踏むことがなかったといいます。出奔の理由は「肥後の農家の出。九歳のとき寺に入るが十四歳で還俗、儒者になろうと江戸に出奔」とあります。まずは「秋日臥病有感」を味わいましょう。

■■何日省慈闈    コエン何れの日か慈闈を省せん
多病多年■■違    多病多年シンジ違う
雲路三千夢至難    雲路三千夢至り難し
秋天無数■空飛    秋天無数ガン空しく飛ぶ



【解釈】 「いつ故郷に母上をお見舞いすることができるだろうか」と、永年そう思いながら、とかく病気がちで、心と事と食い違い、いまだに実現できない。それにしても肥後までは雲路はるばる三千里、夢にさえ容易に行けるところではない。今しも見はるかす南の空へ無数の雁が飛んでいく。それが何とも羨ましくて仕方がない。

コエン=故園。ふるさと。「故~」の熟語は、故衣(コイ=いつも着なれた着物、故服=コフク=)、故意(コイ=古い心、昔馴染みとしての友情)、故旧(コキュウ=以前からの知り合い、故知=コチ=)、故剣(コケン=以前から連れ添った妻をいう)、故山(コザン=故郷の山、ふるさと)、故趾(コシ=昔の町・建物のあと、故址)、故処(コショ=先例に従い処置する、もとの場所)、故人(コジン=以前からなじみの人)、故地(コチ=以前住んでいた土地)、故轍(コテツ=その人の今までの経歴、生き方、前例)、故買(コバイ=盗品と知って買うこと)、故里(コリ=故郷)、故侶(コリョ=昔馴染みの友)、故老(コロウ=徳のある老人)。

シンジ=心事。心に思う事がらと実際の事がら。偏義複辞であるなら、「心」に重きを置いて、心に思う事がら。ここは前者の意。思うこととやることは別だというギャップをいう。

ガン=雁(鴈)。渡り鳥のかり。故郷に帰ることを懐う場面には欠かせないアイテムです。雁行(ガンコウ=かりが並んで飛ぶ形のように、斜めかぎ形に並ぶ、斜めに並んで進む、少しずつ遅れて進む)、雁影(ガンエイ=かりが飛んでいく姿)、雁語(ガンゴ=かりの鳴き声、雁声=ガンセイ=)、雁歯(ガンシ=材木や石材が一枚一枚食い違って並んでいること)、雁字(ガンジ=かりが並んで飛んでいく列のこと)、雁書(ガンショ=消息を伝える手紙のこと、雁使=ガンシ=、雁信=ガンシン=、雁足=ガンソク=、雁帛=ガンパク=、雁素=ガンソ=)、雁序(ガンジョ=飛んでいくかりが、順序正しく従っていること、兄弟にもたとえる)、雁陣(ガンジン=飛んでいくかりの列)、雁柱(ガンチュウ=琴柱)、雁塔(ガントウ=かりを供養するために建てた塔)、雁皮紙(ガンピシ=雁皮の樹皮の繊維で作った、表面がなめらかで薄い紙)、雁幣(ガンペイ=婚礼の時にとりかわす品、結納品)、雁来紅(ガンライコウ、はゲイトウ=草の名、夏から秋にかけて咲く)。

慈闈=ジイ。母親の住む部屋、母親のこと。「闈」(イ)は、「女性のすむ奥座敷、そこに通じる門のこと」。「閨」(ケイ、ねや)や「閫」(コン、しきみ)と同義。



起句の「省(セイ)す」とは「人の安否をねんごろにたずねる、親の安否をよくみてたしかめる」という意。「礼記」にある昏定晨省(コンテイシンセイ)や温凊定省(オンセイテイセイ)という成句が浮かびますが、「昏定」は「夕方に親の寝床を整えること」、「晨省」は「朝方に親の機嫌を尋ねること」。省問(セイモン=故郷に帰って親の安否をたずねること)、省墓(セイボ=墓参り)、省視(セイシ=お見舞い)。

松崎慊堂は、故郷を捨てたあと、江戸で「曲折を経て林簡順の門に入り、昌平黌で佐藤一斎と共に切磋琢磨して大儒となる。掛川藩の儒官として長らく仕えるが、晩年は江戸羽沢村(渋谷)に石経山房を営み、読書と門弟の指導にあたる」(明治書院)とあります。主な門人に、崋山のほか、安井息軒、塩谷宕陰らがいます。著作も多いですが、晩年の日記「慊堂日暦」は「当時の学者の生態、天変地異を詳細に伝えて興味深い」(同書)といいます。

本日のオマケ。啄木が慊堂のこの漢詩をモチーフにしたかどうかは定かではありませんが、彼ほど望郷の思いを歌に詠じた歌人はいないと言っていいでしょう。「一握の砂」の歌からピックアップします。基本的には漢字は少ないです。(青空文庫から、ルビを省略)

目さまして猶起き出でぬ児の癖は
かなしき癖ぞ
母よトガむな 
                
ひと塊の土にヨダレし             
泣く母の肖顔つくりぬ
かなしくもあるか

ヒョウゼンと家を出でては            
ヒョウゼンと帰りし癖よ
友はわらへど

草に臥て
おもふことなし
わが額にフンして鳥は空に遊べり         

ふと深き怖れを覚え
ぢっとして
やがて静かにホソ(ゾ)をまさぐる        

何処やらに沢山の人があらそひて
クジ引くごとし                 
われも引きたし

いつも逢ふ電車の中の小男の
ある眼                      
このごろ気になる

雨降れば
わが家の人誰も誰も沈める顔す
れよかし                  

ヒョウキンの性なりし友の死顔の         
青き疲れが
いまも目にあり

何やらむ
穏かならぬ目付して
ツルハシを打つ群を見てゐる           
アカじみしアワセの襟よ             
かなしくも
ふるさとのクルミ焼くるにほひす

或る時のわれのこころを
焼きたての
パンに似たりと思ひけるかな           

かうしては居られずと思ひ
立ちにしが
戸外に馬のイナナきしまで            


……



咎む、涎、飄然、糞、臍、鬮、かど、は・れ、瓢軽、鶴嘴、垢、袷、胡桃、麺麭、嘶き



まだまだ続きますが、限がないのでこの辺でご容赦を……。
しかしながら、啄木の歌は表面上は淡淡としていますが、内に秘めたる熱き思いが端々で迸り出ようとしています。

黄昏流星群…偶には永井荷風ワールドでも如何?=晩秋の老愁を詠じた平公務員の館柳湾

永井荷風の代表作、「濹東綺譚」(昭和12年=1937=4~6月、東京大阪朝日新聞夕刊に連載)の最後に次の一節が見えます。新潮文庫(P105)から引用します。

 わたくしは毎年冬の寝覚に、落葉を掃く同じようなこの響をきくと、やはり毎年同じように、「老愁ハ葉ノ如ク掃エドモ尽キズ蔌蔌タル声中又秋ヲ送ル。」と言った館柳湾の句を心頭に思浮べる。その日の朝も、わたくしは此句を黙誦しながら、寝間着のまま起って窓に倚ると、崖の榎の黄ばんだ其葉も大方散ってしまった梢から、鋭い百舌の声がきこえ、庭の隅に咲いた石蕗花の黄い花に赤蜻蛉がとまっていた。赤蜻蛉は数知れず透明な其翼をきらきらさせながら青々と澄渡った空にも高く飛んでいる。

江戸期の日本漢詩シリーズの本日の主役は、荷風が心酔した館柳湾(1762~1844)です。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P99)によると、柳湾のプロフィールは「越後の廻船問屋の子として生まれた。江戸に出て亀田鵬斎の門人となり、幕府の下役人として各地の金山などで文書の整理にあたり、功名を求めなかった。いわば一生を平の公務員で過ごしたといったところ。晩年は江戸の目白台に隠居して詩を作り、その詩名はなかなかのものであった。しかし、その詩名のわりには伝が詳しく伝わらない。歴史の表舞台とかかわりなく、儒官という肩書きもない人は、おおむねそうなのであろう」という。中唐、晩唐の詩風を好んだ詩人でした。荷風お気に入りの漢詩人ともあり、あまりぱっとしない経歴とも言える柳湾のどこに惹かれたのでしょうか?

「秋尽」(秋尽く)。

■■空驚歳月流    セイリ空しく驚く歳月流るるに
閑亭■■思悠悠    閑亭ドクザすれば思い悠悠
老愁如葉掃難尽    老愁は葉の如く掃えども尽くし難し
簌簌声中又送秋    簌簌声中又秋を送る



【解釈】 いつしか静かに歳月が流れて、われながらただ驚くばかりである。ひっそりとした家の中に独り座っていると、過ぎた日の思い出が、あれやこれやと、果てしも無く続く。やるせない老いのさびしさ、それは払っても払っても続いて、絶えることのない落葉のようで、そのカサカサというかすかな音を聞きながら、こうしてまた今年の秋を送るのである。



セイリ=静裏。静かなうちに。この場合の「裏」は「~のうちに」という意。「静~」の熟語は、静一(セイイツ=静かで、一つのことに集中すること)、静淵(セイエン=考え深いこと、心が静かで深い)、静嘉(セイカ=清らかで、美しい)、静居(セイキョ=静かに暮らす)、静虚(セイキョ=心が静かで、わだかまりがないこと)、静境(セイキョウ=静かな場所、閑静な場所)、静語(セイゴ=静かに話す)、静好(セイコウ=静かでなごやかなこと)、夫婦仲のよいこと)、静思(セイシ=心静かに考える、静慮=セイリョ=)、静女(セイジョ=操がかたく、しとやかな女)、静躁(セイソウ=静かなことと、さわがしいこと)、静泰(セイタイ=静かでやすらかな、静安=セイアン=、静寧=セイネイ=)、静謐(セイヒツ=静かでひっそりしている)。

ドクザ=独坐。ただ一人で座っている。「独~」の熟語は、独往(ドクオウ=俗人をつれずに、ひとりで行く)、独宿(ドクシュク=ただひとりで泊まる)、独擅(ドクセン=ひとりでほしいままにする)、独擅場(ドクセンジョウ=その人だけが活躍する場所、ひとり舞台)、独尊(ドクソン=ただ自分だけが他よりすぐれていてとうといと考える)、独夫(ドクフ=悪い政治を行って、天帝からも人民からも見放された君主)、独侑(ドクユウ=ひとりで酒を呑むこと、独酌=ドクシャク=)、独楽(ドクラク=自分ひとりで楽しむ)、独立不慚于影(ドクリツするもかげにはじず=ひとりでいても、他人に見られて恥かしいような振る舞いはしない)。



詩の舞台は晩秋。第四句を見ると、荷風は「蔌蔌」(ソクソク=風の強く吹く形容、物のがさがさひびく音の形容、水の流れる音の形容)、明治書院は「簌簌」(ソクソク=びっしり茂るさま、がさがさという音の形容)。草冠と竹冠の違いですが意味も微妙に異なっています。

明治書院によると、「作者自身の人生の夕暮れでもある。後半の二句。老いの比喩がそのまま実景となり、人生の秋と季節の秋が混然として不思議な効果を醸し出す」とあります。荷風が「濹東綺譚」で引用したのは、この詩と同じ秋の季節の変わり目にある色街が舞台になっており、人生の黄昏時にある主人公の「わたくし」と、私娼窟の若い娼婦「お雪」との邂逅と別離がぴったり合ったからでしょう。齢五十を過ぎた「わたくし」が、二十代の「お雪」と別れようと決めたあたりのくだりに、「お雪は倦みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿たらしめたミューズである」(新潮文庫、P72~73)というフレーズがあります。「黄昏流星群」という中年向け漫画が一時、流行りましたが、まさに当て嵌まる。

「不惑」を出発して数年。中間地点を過ぎて、確実に一歩一歩、「知命」へと向かっている。その狭間であっちふらふらこっちふらふらと揺れ動きながら「最後のあだ花」を咲かせたいと思いつつも、諦めていく中年男の儚い哀れな思い。えっ?誰のこと言っているのかって?……掃っても掃っても落ち葉が止まらない晩秋の柳湾の気持ちとも重なり、連日の猛暑日という季節のさなかだというのに、なぜかしらおセンチに心ばかり寒い髭鬚髯散人に決まっているでしょうが。。。。迂生の「ミューズ」はいないのかぁあああ。


本日のオマケ。どうせなら荷風ワールドの一端を味わっておきましょう。「濹東綺譚」の一節から文章題にてお許しを。。。。新潮文庫のP71~72から。

然しここにわたくしの観察の決して誤らざる事を断言し得る事がある。それはお雪の性質の如何に係らず、窓の外の人通りと、窓の内のお雪との間には、互に融和すべきイチルの糸の繋がれていることである。お雪が快活の女で、其境涯を左程悲しんでいないように見えたのが、若しわたくしの誤りであったなら、其誤はこの融和から生じたものだと、わたくしは弁解したい。窓の外は大衆である。即ち世間である。窓の内は一個人である。そしてこの両者の間には著しく相反目している何物もない。これは何に因るのであろう。お雪はまだ年が若い。まだ世間一般の感情を失わないからである。お雪は窓に座っている間はその身を卑しいものとなして、別に隠している人格を胸の底に持っている。窓の外を通る人は其歩みを此路地に入るるや仮面をぬぎキョウフを去るからである。

 わたくしは若い時からシフンに入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女達の望むがまま家に納れてキソウを把らせたこともあったが、然しそれは皆失敗に終った。彼女達は一たび其境遇を替え、其身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教う可からざるランプとなるか、然らざれば制御しがたいカンプになってしまうからであった。

 お雪はいつとはなく、わたくしの力に依って、境遇を一変させようと云う心を起している。ランプかカンプかになろうとしている。お雪の後半生をしてランプたらしめず、カンプたらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでいるわたくしではなくして、前途に猶多くの歳月を持っている人でなければならない。然し今、これを説いてもお雪には決して分ろう筈がない。お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見ていない。わたくしはお雪のウカガい知らぬ他の一面を曝露して、其非を知らしめるのは容易である。それを承知しながら、わたくしが猶チュウチョしているのは心に忍びないところがあったからだ。これはわたくしをカバうのではない。お雪が自らその誤解を覚った時、甚しく失望し、甚しく悲しみはしまいかと云うことをわたくしは恐れて居たからである。……



イチル=一縷。望みなどが絶えてなくなりそうなほどにほんの少しであること。「縷」は「いとすじ」。

キョウフ=矜負。自分の才能や行為をすぐれたものとしてほこること、その自負心。矜恃(キョウジ)ともいう。

シフン=脂粉。べにとおしろい、女の化粧。膩粉(ジフン)ともいう。

巷=ちまた。まち、世間。岐、街、衢、閧、閭も「ちまた」。

キソウ=箕帚(箕箒)。四角いちりとりと、ほうき。「箕箒妾」(キソウのショウ)と云えば「人の妻となることを謙遜した言い方」。「箕」は「み」、「帚(箒)」は「ほうき」。

ランプ=懶婦。不精の女、なまけものの女。嬾婦とも書く。「懶」「嬾」はいずれも「おこたる」「ものうい」と訓む。

カンプ=悍婦。気の荒い女。「悍」は「あらい」「つよい」「おぞましい」と訓む。

ウカガい=窺い。うかがいみること。音読みは「キ」。窺伺傚慕(キシコウボ=そっと他人のようすをうかがって、そのまねをする)、窺覦(キユ=穴からのぞいてすきをうかがう、窃かに分不相応のことを願いのぞむこと、窺欲=キヨク=、窺覬=キキ=)。

チュウチョ=躊躇。ためらって行き悩むこと。

カバう=庇う。横に並べたおおいを掛けて保護する。音読みは「ヒ」。庇蔭(ヒイン=かばい助ける、人のおかげ)、庇護(ヒゴ=弱い立場の者などをかばいまもる、庇保=ヒホ=)。



矜負、脂粉、嬾婦、悍婦がやや難問か。これ以外は比較的平易でしょう。

それにしても、娼婦が結婚して家庭の鞘に納まると嬾婦か悍婦になるという見立てはユニーク。荷風の女性観とはいえ、女性一般に敷衍することが可能でしょう。それにしても、このくだりを読んだ男性が一様に頷いて納得している姿がなぜかしら目に浮かぶのは迂生だけ??

蘭の画に土無くとも節の無い竹は画かぬ=西洋事情に通じ「慎機論」を著した渡辺崋山

渡辺崋山(1793~1841)といえば国宝の肖像画、「鷹見泉石像」で有名な画師。きりりと真っ直ぐな性格を浮き彫りにしたシャープな筆勢が印象的な画です。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P98)によれば、崋山のプロフィールは、「三河田原藩の江戸藩邸で生まれた。父は田原藩の家老であった。しかし、家計は楽ではなかったようである。画を始めたのも家計の足しにするためであったという。画を谷文晁に学び、佐藤一斎について経学・詩文を修めた。そして、二十七歳のとき松崎慊堂の門人となる。天性の才を当代一流の師に鍛えられて学問も画も華開く」とあります。

一方で、高野長英、小関三英ら当代名うての蘭学者とも交わり、「尚歯会」を結成し、合理的な西洋思想を採り入れようと、開明的な「目」も持ちあわせていました。独自の「開国論」を展開するなど、余りにも先を見過ぎたため、幕府から睨まれてしまいます。天保八年(1838)に起きた米国船モリソン号事件をめぐり、幕府の異国船打ち払いの方針に危惧を抱きます。崋山の著した経世書、「慎機論」は、「時機を慎まなければ大変な事になる」と鎖国に対して警告したものですが、余りにも過激な文章であり、草稿段階で棄ておいて自ら公にはしませんでした。

幕府の官学・朱子学の林述斎の子である目附、鳥居耀蔵は「蘭学憎し」の怨念を抱え、尚歯会弾圧に乗りだします。崋山らの小笠原諸島渡航の嫌疑を捏ち上げますが、嫌疑不十分。そこで、最終的には彼らの著述を盾に取り、儒学者から蘭学者を貶んだ言い方である「蛮社の獄」と呼ばれる思想弾圧に踏み切ります。崋山は慎機論の草稿が自宅から発見され、蟄居の身となりました。師匠の慊堂らの奔走により死罪は免れたものの、累が田原藩主に及ぶことを恐れた彼は結局自刃してしまいます。

おっと、“聞き齧り”の歴史の長口舌がいささか過ぎたようです。漢詩にまいりましょう。崋山の画師であるプライドと同時に、己を曲げない性格を端的に表した詩が「題自画墨竹」(自画の墨竹に題す)です。

鄭老画蘭不画土    鄭老蘭を画いて土を画かず
有為者必有不為    為す有る者は必ず為さざる有り
酔来写竹似■葉    酔い来って竹を写せば葉に似たり
不作鷗波無節枝    作らず鷗波無節の枝



【解釈】 宋の鄭所南は宋滅亡後、蘭を描いて根は描いたが土は描かなかった。すでに国には寸土もないからだという。いやしくも事を成そうとする者は、義において成すべからざる事は断固として成さないものと聞いている。今酔いにまかせて竹を描いたら、葉は蘆のそれに似て甚だ拙いが、さればといって趙子昂のような節のない枝は描かないつもりである。


ロ=蘆。あし。蘆葦(ロイ=アシ、いずれもアシ)、蘆花(ロカ=アシの花)、蘆芽(ロガ=アシの芽、蘆牙とも、蘆錐=ロスイ=、蘆筍=ロジュン=)、蘆管(ロカン=アシの茎、古人の吹いたアシ笛)、蘆洲(ロシュウ=アシの生えている中洲)、蘆絮(ロジョ=アシの穂わた)、蘆雪(ロセツ=アシの穂が雪のように白いこと)、蘆汀(ロテイ=アシの生えているみぎわ、蘆渚=ロショ=)、蘆笛(ロテキ=アシの葉で巻いてつくったふえ、蘆笳=ロカ=)、蘆荻(ロテキ=アシとオギ)、蘆苻(ロフ=アシの茎の中にある薄い膜)。

この詩は恐らく、自ら描いた竹の画に添えた詩なのでしょう。中国の宋が滅亡した後、決して元に仕えなかった「鄭老」(=鄭所南)と、逆に元に屈した「鷗波」(=趙子昂)の二人の画師を対照的にとらえています。鄭老は、坐す時は必ず「南」に向かったという。蘭の画を得意としましたが、宋が亡びて後は土は画かず、これを「無根蘭」と称しました。崋山は勿論自分は節操を以て事に当たることを宗としており、鄭老の生き方に共感を覚えているというのです。そして、承句の「有為者必有不為」は、「孟子・離婁下篇」にある「孟子曰く、人為さざるありて、而る後為す有るべし」に基づいており、「義」を押し通して為してはいけないことがあるから、そのあとで初めて大業が為せるのであるという。

一方、鷗波は、宋が亡びて元に仕え、翰林学承旨に進み、卒して魏国公を贈られ、文敏と諡された。詩文・書画、皆巧みであったが、異朝に仕えたので「無節操漢」といわれた。結句の「無節枝」は「節のない竹の枝」のことで、酒に酔って竹の絵を描いた場合、葉は蘆のようななよなよしたものなら許すが、竹本体に節のないものは断じて認めないぞ。「趙子昴のような無節操漢にはならん」という意を寓しています。崋山の一生そのものを詠じた見事な詩です。

本日のオマケ。「慎機論」の「外国船打ち払い令」の危険性について書かれた部分を掲げておきます。(ここ)から。

「今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実にキユウに堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。ガコカツロウの顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひはヒョウトウし、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯てサセツの論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋ジュウテキといへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、キョウオウの端となるべし」


キユウ=杞憂。無用な心配、取り越し苦労。「列子・天瑞篇」に出典あり。

ガコカツロウ=餓虎渇狼。飢えたトラとのどの渇いたオオカミ。危険で何をするか分からないものの喩え。

ヒョウトウ=漂蕩。大水によって財産を流されること。さすらい歩くこと。広々としてあてもないこと。

サセツ=瑣屑。こまごましている、くだくだしくめんどうなこと。瑣砕(ササイ)ともいう。

ジュウテキ=戎狄。異民族の別称。ここでは西洋の異国人をいう。戎夷(ジュウイ)、戎越(ジュウエツ)、戎蛮(ジュウバン)ともいう。

キョウオウ=驕横。おごり高ぶって道理にはずれること。驕蹇(キョウケン)ともいう。

盛唐のマルチスト・王維を目指そうぜ=南画の補完として漢詩を詠んだ田能村竹田

前回、陶淵明ばりの隠者の世界を詠じた良寛の詩をご紹介しましたが、本日もその系譜に位置付けられると言っていい田能村竹田(1777~1835)を取り上げます。彼は漢詩よりも寧ろ南画の道を究めた文人として有名でしょう。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P95)によると、そのプロフィールは「豊後直入郡竹田村の生まれ。家は代々岡藩の典医。竹田も学問に励むかたわら医学を修める。初め藩儒として立とうとし、『豊後国志』の編纂にも携わり、藩政にも一家言持っていた。しかし、三十六歳のとき、藩内に百姓一揆が起こり、その原因は藩政の過ちによるとする己の意見が容れられなかったのを期に藩儒を辞職する。以後は自分の最も好きな道に精進する。それは画の道であった」とあります。漢詩は恐らく、画業を補完する役割を果たしたのであろうと思われます。

「遊山」(山に遊ぶ)。

落落長松下    落落たる長松の下
抱琴坐■■    琴を抱いてバンキに坐す
清風無限好    清風無限に好し
吹入■■衣    吹き入るヘイラの衣



【解釈】 高く聳えた松の根本に、琴を抱いて夕日をあびて座っていると、心地よい清らかな風がしきりに吹いて、わがカズラで編んだ衣に透っていく(まさに涼味万斛だ)。


バンキ=晩暉。夕日の光。晩照(バンショウ)ともいう。「暉」は「ひかり」。暉映(キエイ=照り輝く)、暉暉(キキ=日光が四方にかがやくさま、空が晴れて明るいさま)、春暉(シュンキ=春の日の輝き、転じて、子を育む父母の恩→寸草春暉)、朝暉夕陰(チョウキセキイン=朝日の光と夕日のかげり、日の出と日没のけしき)。

ヘイラ=薜蘿。カズラとツタ。蘿薜(ラヘイ)、蘿蔓(ラマン)、蘿蔦(ラチョウ)ともいう。つる状にのびてまつわりつく植物の総称。転じて、隠者の服。「薜」は「かずら」で他の木に巻きつく。「蘿」は「つた」でツタ類の総称。蘿衣(ライ=コケの一種)、蘿径(ラケイ=つたかずらの生い茂っているこみち)、蘿月(ラゲツ=つたかずらごしに見える月)、蘿蔔(ラフク=ダイコン、すずしろ=春の七草の一つ、清白)、松蘿(ショウラ=松の木に絡まるツタ、木にぶら下がるサルオガセ、女蘿=ジョラ=)。



一幅の文人画をイメージさせます。「長松」「琴」「晩暉」「清風」「薜蘿」――。これは誰がどう読んでも隠者の詩ですね。そう、俗世間から離れ故郷の田園に帰った陶淵明。「琴」は淵明の「帰去来兮辞」に「悦親戚之情話、楽琴書以消憂」があります。淵明の琴は「無絃」です。淵明にインスパイアされた王維に「田園楽」という詩があり、ここにも「落落長松夏寒」や「抱琴好倚長松」があります。また、同じく王維の「竹里館」に「独坐幽篁裏、弾琴復長嘯」もあり、竹田の「遊山」は明らかにこれらを踏まえて隠者の世界を築いていますね。「薜蘿」といえば、屈原が詠じた楚辞「九歌」の一つである「山鬼」の冒頭にある「若有人兮山之阿、被薜茘兮帯女蘿」でお馴染みの隠者語です。

画師としての竹田は、谷文晁や浦上玉堂との交わりがあり、早くからその才能は世間に認められていました。一方の漢詩は、上田秋成や頼山陽らとも交流があり、山陽から高い評価を得ていました。王維も画人として知られ、「詩中に画あり」と表せられたマルチストでした。竹田の目指した理想の画人・詩人だったのでしょう。

本日のオマケ。晩唐の李商隠に夕暮れを詠んだ「楽遊」という詩があります。竹田の「遊山」は陶淵明や王維に加え、李商隠のこの詩も踏まえているとみられます。岩波文庫「李商隠詩選」(川合康三選訳)から。(注:「登楽遊原」となっているテキストもあります)

「楽遊」。

向晩意不適    晩に向んとして意適わず
駆車登古原    車を駆りて古原に登る
夕陽無限好    夕陽 無限に好し
只是近■■    只だ是れコウコンに近し



【解釈】 たそがれるにつれて、心は結ぼれる。車を走らせ、いにしえの跡がのこる楽遊原に登る。夕日は限りなく美しい。ひたぶるに日暮れに迫りゆくなかで。



コウコン=黄昏。たそがれどき、夕方。≠哽恨。

向んとして=なんなんとして。今にも~になろうとしているさま。「ある状況に近づきつつある」の意。「垂として」が一般的ですが、漢詩の世界ではこの言い方も頻出です。



この第三句にある「無限好」は「限り無く美しい」との感嘆する表現です。そのまま竹田も活用しています。「楽遊」とは、長安の東南に位置する行楽の地、楽遊原のこと。360度ぐるりと一望できる高台にありました。漢代の廟があったことから「古原(コゲン)」とも言いました。「黄昏」というのは勿論、一日の終わりを言いますが、李商隠にとって自らの人生の「たそがれ」をも意味していたのは間違いないでしょう。転句と結句の連続性が妙に鮮やかであると同時に切なく感じるのは迂生も人生の「たそがれどき」を歩いているからでしょうか?たそがれどきも見ようによっちゃあ、やりようによっちゃあ、「夕陽」のように輝けるんですよね。そんな自信を与えてくれる作品です。
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char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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