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勧誘に来た田父をぎゃふんと圧倒 やっぱ酒かい=陶淵明「飲酒」10

陶淵明の「飲酒」シリーズの10回目。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から。この首では老農夫(=田父)と陶淵明の問答が綴られており、少し毛色が異なります。「滄浪の水清まば以て吾が纓を濯うべし。滄浪の水濁らば以て吾が足を濯うべし」(世の成り行きに任せていいのではないか。世が求めれば官に就き、世が乱れれば官を辞す)――。屈原が詠んだ「楚辞」で漁夫(ギョホ)の助言を受けて吐いた台詞を思い出します。冒頭ではいきなり夜明けに、だれかが陶淵明の家を訪れて、その門をたたくシーンから始まります。田父=漁夫という構図でしょう。


「其九」

1)セイシン 門を叩くを聞きて

裳をア)まにして往きて自ら開く

問う 子は誰とか為すと

田父 2)コウカイ有り

3)コショウもて遠く見候し

我れの時とイ)<を疑う

繿縷 4)ボウエンの下

未だ高栖と為すに足らず

一世 皆な同じくするを尚ぶ

願わくは君 其の泥を汨さんことをと。

深く父老の言に感ずるも

5)ヒンキ ウ)う所寡し

エ)をオ)ぐるは誠に学ぶ可きも

己に違うは詎ぞ迷いに非ざらんや

且く共に此の飲を歓ばん

吾が駕は回らす可からず


1)セイシン=清晨。

きれいに晴れ渡った早朝。さわやかな朝、すがすがしい朝。きれいな言葉ですね。日常でも使ってみようっと。清旦(セイタン)、清暁(セイギョウ)ともいう。「晨」は「あした」。晨鶏(シンケイ=夜明けを告げる鶏)、晨光(シンコウ=早朝に輝く太陽の光、晨暉=シンキ=)、晨昏(シンコン=早朝と晩)、晨鐘(シンショウ=夜明けを知らせる鐘の音)、晨炊(シンスイ=早朝の飯炊き)、晨征(シンセイ=早朝出発すること、晨往=シンオウ=、晨行=シンコウ=)、晨星(シンセイ=明け方の空に残る星、物の数の少ないたとえ)、晨省(シンセイ=早朝親のごきげんを窺うこと、昏定晨省=コンテイシンセイ=)、晨装(シンソウ=明け方の旅の装い)、晨朝(シンチョウ=早朝、震旦=シンタン=)、晨風(シンプウ=早朝吹く風)、晨門(シンモン=門番)。

2)コウカイ=好懐。

よきおもい、好感。好印象を持っていること。後悔や狡獪では意味が通らない。

3)コショウ=壺漿。

つぼに入った飲み物。ここは当然、酒が入っている。「漿」は「のみもの」の訓があります。漿酒(ショウシュ=水と酒、酒をみずに見立てる言い方、漿酒霍肉=ショウシュカクニク=)、漿果(ショウカ=レモンやバナナなど肉質部分が厚く、水分を多く含んでいる果物)。

4)ボウエン=茅簷。

かやぶきの軒、また、その家。「茅」は「ちがや、かや」、「簷」は「のき」。茅屋(ボウオク=かやぶきの家、自分の家の謙遜語、茅舎=ボウシャ=、茅庵=ボウアン=、茅宇=ボウウ=、茅廬=ボウロ=)、茅茹(ボウジョ=同類の物が互いに関連していて、連なりあっていること、衆賢茅茄=シュウケンボウジョ=)、茅牖(ボウユウ=かやでできた窓、転じて貧しい家)。簷雨(エンウ=のきばにかかる雨)、簷楹(エンエイ=のきの柱)、簷燕(エンエン=のきばにいるツバメ)、簷下(エンカ=のき下)、簷間(エンカン=のきば、のきのあたり、簷際=エンサイ=)、簷滴(エンテキ=のきばから垂れる水のタマ、雨垂れ、エンリュウ=エンリュウ=)、簷頭(エントウ=のきば、のきさき)、簷馬(エンバ=軒につるした鈴、風鈴、簷鈴=エンレイ=、簷鐸=エンタク=)。

5)ヒンキ=稟気。

天から授かった生まれつきの性質、持って生まれた性質。稟性(ヒンセイ)、稟質(ヒンシツ)、稟賦(ヒンプ)ともいう。稟受(ヒンジュ)は「天から受けること、天性」。

ア)倒まにする=さかし・まにする。

物の位置や物事の順序を逆にする。器を倒して中の物を出す。「さかさま」ともいう。ここは「裳」(もすそ)を倒まにするので、それだけ突然の客の来訪に慌てて出迎えているさまを表しています。「屐(ゲキ=くつ)、屣(シ=はきもの)を倒まにする」という言い方もよく出てきます。倒戈(トウカ、ほこをさかしまにする=敵に向けるべき戈を逆に味方に向ける、味方を裏切ること)

イ)乖く=そむ・く。

そむいて離れる。ここでは「我の時と乖く」と用いて、「時流に背中を向ける、世の流れに逆らい離れる」といった意。音読みは「カイ」。乖異(カイイ=意見や態度などが互いに食い違う、気が合わない、乖違とも)、乖隔(カイカク=意見が遠く隔たる)、乖忤(カイゴ=物事が食い違ってちぐはぐである、乖戻=カイレイ=、乖背=カイハイ=、乖悖=カイハイ=)、乖繆(カイビュウ=物事が食い違ってでたらめである)、乖別(カイベツ=人々が離れ離れになること、離散すること)、乖離(カイリ=心が合わずしっくりしない、違っていて合わないこと)、牽攣乖隔(ケンレンカイカク=心は互いに引かれあいながら遠くへだたていること)。

ウ)諧う=かな・う。

うまく調和する、成功する。音読みは「カイ」。「やわらぐ」「ととのえる」の訓読みもあり。諧謔(カイギャク=人を笑わせるような、おかしみのあることば、冗談)、諧協(カイキョウ=よく調和する)、諧語(カイゴ=たわむれにいう、調子のよい滑稽な言葉)、諧声(カイセイ=六書のひとつ、形声のこと)、諧調(カイチョウ=やわらぎととのう、よく調った音楽の調べ)、諧比(カイヒ=やわらぎ親しむ、打ち解けて肩を並べる)、諧和(カイワ=調和してよくととのう、また、調和させてととのえる、やわらいでよく調和していること)。

エ)轡=たづな。

馬のくつわにとりつけて、馬を操るためのつな。音読みは「ヒ」。馬轡(バヒ=くつわ)、轡銜(ヒカン=たづなとくつわ、轡勒=ヒロク=)、轡頭(ヒトウ=たづな)。

オ)紆ぐる=ま・ぐる。

「紆げる」は「まげる」。ここでは「轡を紆げる」と用いて、「車をめぐらす、すなわち、隠棲の考えを改めて出仕することを指す」。音読みは「ウ」。紆鬱(ウウツ=怒りや愁いのために、心がむすぼれてはればれとしないこと、山などが曲がって奥深いさま)、紆回(ウカイ=回り道をする、迂回)、紆曲(ウキョク=細長いものが曲がりくねっていること、紆折=ウセツ=)、紆結(ウケツ=心がむすぼれてはればれとしないこと)、紆徐(ウジョ=ゆっくり歩くこと、着物のすそがだらりと垂れ下がっているさま)、紆繞(ウジョウ=まといつく)、紆軫(ウシン=心がむすぼれて憂えるさま、地形が屈曲したさま)、紆盤(ウバン=山道などが曲がりくねるさま)、紆余(ウヨ=水の流れ、林・丘などが曲がりくねってつづくさま、才能が豊かなさま)、紆余曲折(ウヨキョクセツ=道が曲がりくねっている、経過が込み入って面倒なことが多いこと)。

清 晨 聞 叩 門
倒 裳 往 自 開
問 子 為 誰 與
田 父 有 好 懷
壺 漿 遠 見 候
疑 我 與 時 乖
繿 縷 茅 檐 下
未 足 為 高 棲
一 世 皆 尚 同
願 君 汩 其 泥
深 感 父 老 言
稟 氣 寡 所 諧
紆 轡 誠 可 學
違 己 詎 非 迷
且 共 歡 此 飲
吾 駕 不 可 回




朝早く、門をたたく音がするので急いで迎えに出て門をあけた。「どなたか」と聞いたところ、一人のお年寄りが、わたしに好意を持ち、酒壺を手土産代わりに、わざわざ遠方よりたすねてくれたのだった。老人は、わたしが時世に背を向けてすねているのを訝ってたずねた。「ボロを着てボロ家に住むのが、高尚な暮らしですかね。今日の世の中、人と調子を合わせることが肝腎、あなたも一緒になってこのドブ泥の世の中を搔き乱したらいかがですか」。老人の意見はまことに身にしみてありがたく思う。しかし、もともとわたしの性分として人と調子を合わせるのが下手なのだ。馬の手綱を向け変える方向転換術を真似することはできよう。しかし、それでは自分の本領を曲げてしまうことになる。これは自分というものを棄て去ることにもなるのではないか。まあまあ、今日のところは、一緒に酒を酌み交わして歓談することとしましょうよ。それでも、わたしは車の向きを変えるわけにはいかないがね。

「繿縷」は「ぼろ、衣服が破れたさま」で、“糸篇コンビ”よりも「襤褸」と“衣篇コンビ”の方が一般的でしょうか。「高栖」とは「高尚な生活」で、ここでは隠者としての生活を指しています。「汨」はここでは「みだす」と訓み、「泥水をかき乱す」。

この首に登場する田父は陶淵明を再び宮仕えの道に引き戻そうとしているのです。淵明の心の中の葛藤のシーンかもしれません。おれはこのまま隠遁していいのだろうか?初期のころにはまだ煩悩が湧いていたのでしょうか。しかし、「離騒経」で見た屈原のような悲壮感はここには見えません。「漁夫の辞」はまだ触れていませんが、漁夫が屈原に対して指弾したよりは田父はもっとお茶らけている感があります。ボロ住まいでは優雅な隠者とは言えませんよ。だから、もう少し裕福になるためにもお仕事をしましょうよ、ね。

これに対する淵明のスタンスは一貫しています。自分は生まれつき世間とそりが合わない性格だ。自分を曲げてまでは生きたくない。辛いだけだから。でも酒のお付き合いなら幾らでもできる。。。田父が持ってきた酒だけはちゃっかりといただくというのですから、もはや何をか言わんや。嫌いな物から遠ざかり、好きな物に囲まれ、だら~っと悠悠自適の暮らしを送るがよい。田父も最後は諦めでしょうね。半分以上は羨望の眼差しだと思いますが。自分もあいつみたいに生きられたらどんなに楽か……。いえ、決して「楽」なんかじゃないのです。淵明の心の深奥にある闇は誰にも理解できないのです。
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汚れた塵に塗れた「羈」とはオサラバしたいのです=陶淵明「飲酒」9

陶淵明の「飲酒」シリーズの9回目。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から。

「其八」

青松 東園に在り

衆草 其の姿を没するも

凝霜 異類をア)くさば

1)タクゼンとして高枝を見わす

林に連なりては人覚らず

独樹は衆乃ち奇とす

壺を提げて2)カンカにイ)

遠望 時に復た為す

吾が生 3)ムゲンの間

何事ぞウ)塵羈にエ)がる

1)タクゼン=卓然。

高く抜きんでてすぐれているさま。卓爾(タクジ)ともいう。「卓」は「ぬきんでる」の意。卓逸(タクイツ=ひときわ高く抜き出てすぐれていること、卓抜=タクバツ=、卓越=タクエツ=、卓出=タクシュツ=、卓殊=タクシュ=、卓絶=タクゼツ=、卓立=タクリツ=、卓異=タクイ=、卓偉=タクイ=、卓傑=タッケツ=)、卓午(タクゴ=正午)、卓犖(タクラク=高く抜き出る、非常にすぐれていること)、卓袱台(チャブダイ=円形、四角形の小型食卓、四本脚付き)。

2)カンカ=寒柯。

葉が落ちてもの寂しい感じの木の枝。寒枝(カンシ)、寒条(カンジョウ)ともいう。「柯」は「えだ」。引っ掛け問題で、なかなかこの漢字は浮かばないと思いますが、酣歌、讙嘩、艱禍、干戈、瞰下、坩堝、鰥寡、矜寡、轗軻など同音異義語は目白押しですね。

3)ムゲン=夢幻。

ゆめまぼろし。はかないもののたとえ。夢幻泡影(ムゲンホウヨウ=人生が儚いたとえ、泡沫夢幻=ホウマツムゲン=)。無限、無間ではない。

ア)殄くさば=つ・くさば。

「殄くす」は「つくす」。全部つきはてる、ことごとく滅びる。音読みは「テン」。殄滅(テンメツ=ほろび絶える、みなごろし、殄殲=テンセン=)、殄瘁(テンスイ=やみ疲れる、人口が減少し国力が衰えること)。

イ)挂け=か・け。

「挂ける」は「かける」。高い所にひっかけてたらす。音読みは「ケイ、カイ」。挂冠(ケイカン=官職をやめること、挂冕=ケイベン=、挂綬=ケイジュ=)、挂歯(ケイシ=とり上げて問題にする)、挂錫(ケイシャク=錫杖をかける、僧が一箇所に長くとどまること)。

ウ)塵羈=ジンキ。

俗世間のこと。塵網(ジンモウ)ともいう。「羈」は「たづな」。俗世間の煩雑さを「たづな」にたとえた陶淵明ワード。塵鞅(ジンオウ)、塵雑(ジンザツ)と言い換えても可。「羈」は「おもがい」の意も。羈絆(キハン=つなぐ、きずな、束縛、羈束=キソク=、羈勒=キロク=)、羈縻(キビ=馬のおもがいと、牛の鼻づな。転じて、つなぎとめる、束縛して使役する)、羈旅(キリョ=旅行、旅人、食客として身を寄せる)、羈枕(キチン=旅先で寝ること、旅枕)。

エ)紲がる=つな・がる。

俘虜または罪人としてつながれること。音読みは「セツ」。羈紲(キセツ=きずな、羈絏=キセツ=)。緤、絏も同義。

青 松 在 東 園
衆 草 沒 其 姿
凝 霜 殄 異 類
卓 然 見 高 枝
連 林 人 不 覺
獨 樹 衆 乃 奇
提 壺 撫 寒 柯
遠 望 時 復 為
吾 生 夢 幻 間
何 事 紲 塵 羈



わが庭の東に青々とした松が生えている。ふだんは雑草におおわれて姿を隠しているが、冬の霜が凍ってほかの草木をほろぼしたやすとき、すっくと高い梢をあらわす。林の中にまぎれていては気づかないけれども、一本松となって、人は初めて驚きの目をみはる。わたしは酒壺をひっさげて冬枯れの枝に掛けて、時には遠くから眺めて楽しんでいる、夢まぼろしのようなこの人生、なんで塵塗れのきずなに身をつながれたりするのことがあるものか。

孤高の人。。。世の雑然とした状態から一人だけ抜きん出ている。それだけにその気持ちは忖ることができない。人からは浮いていると揶揄され、誰とも交わらない。例えば、青々とした松がそう。普段は多くの草草に隠れ目立たないのですが、寒々しい季節が到来して、草草がすべて枯れることを余儀なくされたときにこそ、その存在感が発揮される。寒々しい空に聳え立つ梢は人々の目を驚かすばかり。それでも松自身には何の感慨もない。ただ、自分の思うように存在するだけ。季節が勝手に変わっただけ。周りの見る目が変わっただけ。不安に駆られることも、自信が揺らぐこともないのです。俗世を棄てた陶淵明の目には自分の姿と被ったことでしょう。そして、彼はその松に酒つぼを掛けては遠くから眺めて楽しむのです。自身を客観的に見ている。それは夢か幻か正直分からないけれど、少なくとも塵に塗れた煩わしい人間関係とはもうおさらばだ~~。

憂さを忘れさせてくれる物に感謝の念を…=陶淵明「飲酒」8

陶淵明の「飲酒」シリーズの8回目。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から。

「其七」

秋菊 佳色有り

露を裛うて其のア)を掇る

此の1)ボウユウの物にイ)かべて

我が世を遺るるの情を遠くす

2)イッショウ 独り進むと雖も

杯尽きて壺自から傾く

日入りて群動ウ)

帰鳥 林に趨いて鳴く

3)ショウゴウす 東軒の下

聊か復た此の生を得たり



1)ボウユウ=忘憂。

悲しみや心配事を気にしないようにすること。「うれいをわする」と訓読するケースもあります。「忘憂物」(ボウユウのもの、うれいをわするるのもの)と続けて「酒のこと」。酒を飲めば憂いを忘れるという、いかにも陶淵明らしい言葉です。房牖や茅牖ではないので念のため。。。

2)イッショウ=一觴。

酒一杯のこと。現代語ならさしずめ一献(イッコン)でしょうか。「觴」は「さかずき」であるのは論を持ちませんが、四字熟語の「一觴一詠」(イッショウイチエイ=酒を飲みながら詩をうたって楽しむ)を想起してください。一餉(イッショウ)なら「一回食事をするほどの短い時間」、一笑(イッショウ)なら「ちょっと笑うこと」。

3)ショウゴウ=嘯傲。

うそぶいて自由な気持ちになる。世間を超越したさま。「嘯」は「うそぶく」、「傲」は「何物にもとらわれず、ゆうゆうと楽しむ、また、そのような気持ち」。一方、「おごる」の訓みもありますが、ここは違う。

ア)英=はなぶさ。

「花」の意で表外訓み。「うるわしい、すぐれている、ひいでた者」の意もある。この意味での熟語は、含英咀華(ガンエイショカ=美しい詩文をあじわって心に蓄積すること)、英華(エイカ=美しい花、すぐれた詩や文章)、英乂(エイガイ=すぐれていて賢明な人)、英稟(エイヒン=すぐれて生まれつき)、英髦(エイボウ=才能が優れた人、英旄=エイボウ=)、英台(エイダイ=非常に高い身分の役人、長官)。

イ)汎かべ=う・かべ。

「浮かべ」の意の表外訓み。ただようの意も。音読みは「ハン」。汎称(ハンショウ=広くひっくるめていう、総称)、汎渉(ハンショウ=広く物事に通じていること)、汎汎(ハンパン=水が広々とみなぎるさま、速やかに流れてとどこおらないさま、泛泛=ハンパン=)、汎萍(ハンペイ=水に浮かぶ浮き草)、汎濫停蓄(ハンランテイチク=学問が広く深い)。

ウ)息み=やす・み。

「休む」「憩う」の意味の表外訓み。休息ですよね。息偃(ソクエン=休んで横になる)、息土(ソクド=いくら作物を作ってもやせることのない肥沃な土地)、息肩(ソッケン=責任から解放される、肩で息をする)、息耗(ソッコウ=物が増えることと減ること、物事の状態や様子、得失、知らせ・消息)。


秋 菊 有 佳 色
裛 露 掇 其 英
汎 此 忘 憂 物
遠 我 遺 世 情
一 觴 雖 獨 進
杯 盡 壺 自 傾
日 入 群 動 息
歸 鳥 趨 林 鳴
嘯 傲 東 軒 下
聊 復 得 此 生



菊の花がみごとな色に咲いた。露に濡れたその花びらを摘んで「憂さ払い」(酒)に浮かべると、世俗から遠く離れたわたしの思いが一層深まるようだ。独酌でちびりちびりやっているが、杯が空になると、知らぬ間に手が動いて徳利を傾けて杯を満たしている。日が暮れてもろもろの動きもやみ、鳥たちも林の中のねぐらに鳴きながら帰って行く。わたしも東の軒下で心のびやかに放吟する。まずはこの人生の真骨頂(自由)を取り戻したか。今日もまずまず無事に過ごせたのだ。

この首は陶淵明の飲酒に関するシーンがふんだんに盛り込まれています。第二句の「裛露」は「露を裛(まと)う」で「菊の花が露に濡れているさま」。「掇其英」は「其の英を掇(と)る」で「菊の花を摘む」の意。第三句の「忘憂物」はぜひともマスターしておきたい陶淵明ワード。菊の花を酒に浮かべて飲むのです。不老長生の薬と考えられています。酒を飲めば俗世間から遠く離れたところにある思いが一層深まって行く。

第五、六句では、独りで飲み進めると觴がすぐさま空になってしまい、気が付けばまた一杯。なみなみと徳利に酒を注ぎ続ける。第七句の「群動」とは「昼間のもろもろの動き」。つまり、昼間に活動する人間も動物も日が暮れればそれぞれ帰る家に戻って行く。かくいう俺も東の軒下で放吟するのだが、そのときにこそ生きていることを実感する。ああ、一日、酒を飲み尽くせた歓びに浸ることができるのだ。隠者の暮らしに慣れてきた陶淵明が「生」を謳歌している様子がまざまざと目に浮かびます。蕩びやかに、夷らかに人生を送れることが一番。余計な雑事も、煩わしい人間関係も無縁の世界。自由気儘。。。それも酒があってこそ。酒に対する感謝の念が強く感じられますね。

俺の憧れは商山に隠れた4人の賢者だ=陶淵明「飲酒」7

陶淵明の「飲酒」シリーズの7回目。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から。

「其六」

1)コウシは千万端

誰か非と是とを知らんや

是非 ア)りに相イ)

2)ライドウして共に誉めウ)

三季より此の事多し

3)タッシのみ爾らざるに似たり

4)トツトツ 俗中の愚

且く当に黄綺に従うべし


1)コウシ=行止。

行くことととどまること、出処進退。ふるまい、品行。ここは後者の意。

2)ライドウ=雷同。

自分ではっきりした考えを持たず、人の言うことに軽軽しく同調すること。付和雷同なら即座でしょうが、「ライドウ」だけいきなり振られて思い浮かぶかどうか。「雷」は「かみなり、いかずち」の表外訓みがあり、「雷~」の熟語はほかに、雷鼓(ライコ=太鼓を鳴らし轟かす)、雷霆(ライテイ=激しいかみなり)、雷斧(ライフ=石で作った大型のおの)、雷名(ライメイ=世間に知れ渡った名声)、雷吼(ライコウ=雷鳴)など。

3)タッシ=達士。

広く物事の道理に通じた人。達人、達者ともいう。この「達」は「すらすらと理解する、すぐれていて何でもこなす」という意。「すらすらと出世する」という意もあり、「達官(タッカン)」は「すらすらと出世した役人、高位高官」、「栄達(エイタツ)」は「出世すること」。

4)トツトツ=咄咄。

意外なことに驚いて出る声の形容で「おやおや」がぴったり。咄咄怪事(トツトツカイジ=驚くべき不思議な突発事件、奇怪きわまる事件)、咄咄逼人(トツトツひとにせまる=絵や書画の素晴らしいのに驚嘆すること、驚嘆させられること)、咄呵(トツカ=ちぇっと舌打ちする)、咄嗟(トッサ=物事の急なこと、瞬く間であること、溜息をつく形容)。

ア)苟りに=みだ・りに。

これは特殊な訓みです。漢文訓読語法では通常は「かりそめ」「いやしくもする」「かりそめにする」「いやしくも」「まことに」などの訓みがふさわしい。「みだりに」は寧ろ、「猥りに、叨に、妄りに、浪りに、漫りに、濫りに、乱りに、胡りに」などが一般的。

イ)形べ=くら・べ。

これも特殊な宛字っぽい訓み。物のかたちをうつしとる。形魄(ケイハク=からだ)、形名(ケイメイ=かたちとなまえ、述べた意見と、それを実際に行った行為)、形躯(ケイク=からだ)、形勝(ケイショウ=景色が優れている土地)。

ウ)貶る=そし・る。

けなすこと。「貶」には多くの和訓があり「おとす」「おとしめる」「けなす」「さげすむ」「さみす」「へんする」。音読みは「ヘン」。貶竄(ヘンザン=官位を下げて遠方の地へ流刑にする、貶流=ヘンリュウ=、貶謫=ヘンタク=、貶逐=ヘンチク=)、貶斥(ヘンセキ=官位を下げてしりぞける、貶黜=ヘンチュツ=、貶退=ヘンタイ=)、貶損(ヘンソン=へらす、おとしめけなす)。「そしる」はほかに、「非る、謗る、謗る、詆る、讒る、刺る、詛る、詬る、誣る、譖る、譛る、譏る、毀る、誚る、誹る」などがあります。


行 止 千 萬 端
誰 知 非 與 是
是 非 茍 相 形
雷 同 共 譽 毀
三 季 多 此 事
達 士 似 不 爾
咄 咄 俗 中 愚
且 當 從 黃 綺



人の出処進退は千差万別であって、その是非はだれにも論じられないはずだ。ところが、その是非を決めつける議論が巷間行われていて人々はその尻馬に乗ってほめたりけなしたりしている。夏、殷、周代の末からこのかた、こうした風潮がはびこっている。さすがに世を達観した人だけはそうしたことには関心がない。いやはや、世間の愚かな俗物の人のやることといったら、呆れて物が言えなくなるな。ああ、わたしは商山の隠者に見習って世を避けることとしようかな。

この詩で出てくるポイントとなるキーワードは「三季」と「黄綺」の二つ。「三季」は「夏、殷、周三代の季(すえ)」。「黄綺」は「今の陝西省商県にある商山に隠れた四人の賢者のうち、綺里季(キリキ)、夏黄公のこと」。いずれも秦の始皇帝からの迫害を避けようとし、結局、漢代の初めまで生きて高齢となり、眉もひげもみんな真っ白で、商山四皓=ショウザンシコウ=と称された。陶淵明が憧れの存在です。隠者として生きる上では模範と言えるでしょう。商山四皓は是非とも覚えておきましょう。桃花源記でも出てきました(ここ)。あとの二人は、東園公と甪里(ロクリ)先生。その後の竹林の七賢につながる世捨て人たち。陶淵明は自らを「達士」と称し、商山の隠者を見習って行動しているのだというのです。出処進退はほかのだれでもない、自らが決めたのだと胸を張っているのです。

隠者同士なら言葉はいらぬ 菊と廬山で乾杯だ!=陶淵明「飲酒」6

東晋の隠逸詩人、陶淵明の「飲酒」シリーズ6回目です。今回は飲酒二十首の中でも人口に膾炙していると言っていい首です。隠者の暮らしぶりを描き、隠者の要諦を述べています。折に触れて口ずさみ、是非とも暗記して暗誦できるようにしたいもの。あるいは、自分で文章を書くなどの際に引用したり、モチーフとしたりしたら楽しいのではないでしょうか。さり気なく陶淵明を引用するなんざちょっとお洒落じゃあ~りませんかぃ?

「其五」

廬を結んで1)ジンキョウに在り

而も車馬のア)しき無し

君に問う 何ぞ能くイ)ると

心遠く地自から偏なり

菊を採る 2)トウリの下

悠然として南山を見る

3)サンキ 日夕に佳し

飛鳥 ウ)相与に還る

此の中に真意有り

弁ぜんと欲して已に言を忘る


1)ジンキョウ=人境。

人の住んでいるところ、俗人が住む人間世界のこと、世間。

2)トウリ=東籬。

東側にある垣根。それじゃあ、西側にある垣根は「西籬」か?辞書には掲載がないが…。陶淵明のこの詩に詠まれたお陰で「東籬」が定着した。もしも、「采菊西籬下」と詠んでいたら…中国文学史の一頁が塗り変わっていたかもしれませんな。いやいや、「南籬」でも「北籬」でもいいんですがね。偸利、凍梨、桃李、董理、蹈履などの同音異義語も押さえておきたいところ。

3)サンキ=山気。

山の中の気、山中の空気のこと。山に立ちこめるもや・霧を指す場合もありますが、ここは前者。ただし、「やまけ」と訓んでしまうと「冒険や投機を好む心のこと」。一発当てましょう!?何を?

ア)喧しき=かまびす・しき。

「喧しい」は「かまびすしい」。わいわいとにぎやかでうるさいようす。「やかましい」もありですが、こちらは和訓。喧譟(ケンソウ=騒がしい、また、やかましく騒ぎ声、喧騒、喧噪、喧聒=ケンカツ=)、喧争(ケンソウ=騒がしく言い争う)、喧囂(ケンゴウ=やかましく騒ぐ)、喧呼(ケンコ=やかましく叫ぶ)、喧喧(ケンケン=騒がしいさま)、喧嘩(ケンカ=騒がしく言い立てる)、喧轟(ケンゴウ=騒がしく響き渡る)、喧啾(ケンシュウ=鳥などが騒がしく鳴く)、喧擾(ケンジョウ=騒ぎ乱れる、喧紛=ケンプン=)、喧静(ケンセイ=騒がしいことと静かなこと)、喧然(ケンゼン=騒がしいさま)、喧伝(ケンデン=盛んに世間に言いふらす)、喧騰(ケントウ=評判が高くなる、大評判になる)、喧呶(ケンドウ=やかましく叫ぶ)、喧鬧(ケンドウ=騒がしくてにぎやか)、喧熱(ケンネツ=熱狂して騒ぐ)、喧卑(ケンピ=騒がしくていやしい)。

イ)爾る=しか・る。

指示語。近くにある事物や前に述べた事物や事柄を示す言葉。それ、そのような。

ウ)相与に=あいとも・に。

漢文訓読語法。「いっしょに、たがいに」と訳す。「与」は「ともに」と訓み、従属する意。


結 廬 在 人 境
而 無 車 馬 喧
問 君 何 能 爾
心 遠 地 自 偏
采 菊 東 籬 下
悠 然 見 南 山
山 氣 日 夕 佳
飛 鳥 相 與 還
此 中 有 真 意
欲 辨 已 忘 言



人里に居を構えているのだが、役人どもの車馬の音に煩わされることはない。「どうしてそんなことがあり得るのだ」とお尋ねかい。いやいや、わたし自身の心が世俗から遠く離れたところにあるから、ここだって僻遠の地に変わってしまうのだよ。東側の垣根の下に咲いている菊の花を手折りつつ、ゆったりとした気持ちで、ふと頭をもたげると、南方遥かに廬山の姿が目に入る。山のたたずまいは夕方が特別にすばらしく、鳥が連れだって山のねぐらに帰って行く。この自然の中にこそ、人間のあるべき本当の姿があるのではないか。ところが、それを言葉にしようとしてもどうにもうまく表せないのがもどかしい。

この中でもっとも有名なのは「采菊東籬下、悠然見南山」の二句。不老長生の象徴である菊の花を薬として飲む陶淵明。いや、菊を浮かべて酒を飲んでいるのかもしれません。さらに南山。これも不老長生を寓意する山。現在の江西省九江県にある廬山のこと。廬山の真面目という成句が残っているように、廬山という山は見る角度、時間、場所によって、見る人の気持ちによって見え方が変化する不思議な山である――北宋の蘇軾も「題西院壁」で詠じています。酔っ払って見た南山は陶淵明の目にどのように映ったのでしょうか。

次の二句の「山氣日夕佳、飛鳥相與還」と并せて、菊の花で一杯、彼方の廬山、秋の夕暮れ、靄の中、塒に還る鳥。。。煩わしい俗世間を離れた陶淵明が、隠者の暮らしを始めた様子が活写されています。そして、最後の二句の「此中有真意、欲辨已忘言」は、陶淵明自身が説くところの隠者の心得。「真実を悟った者は言葉を忘れるのだ。孤高の人から話を聞いたって俗世間に入る者は理解できやしないのさ。本当に知りたかったらこっちへおいで。隠者と隠者なら目と目で会話ができるぞ~い」。こんな風に詼謔的な風味も感じられるくだりです。

群からはぐれた鳥が逝き着いた居場所とは?=陶淵明「飲酒」5

陶淵明の「飲酒」シリーズの5回目です。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から。

「其四」

ア)栖栖たり 群を失える鳥

日暮れて猶お独り飛ぶ

徘徊して1)テイシする無く

夜夜 声は2)ウタた悲し

イ)響 清遠を思い

去来 何ぞ依依たる

孤生の松に値えるに因り

翮をウ)めて遥かに来たり帰る

3)ケイフウに栄木無く

此の蔭 独り衰えず

身を託するに已に所を得たり

千載 相違わざらん

1)テイシ=定止。

さだまった居場所。これはなかなかに面白い言葉です。停止、涕泗、諦思、逞志でなないので要注意。常用系の難問となりそう。

2)ウタた=転た。

時が経つにつれて程度がだんだんと激しくなるさま。ますます。これは頻出ですね。「愈」も同様の意味。「転~」の熟語は、転轂(テンコク=こしきを回す、車で荷物を運ぶ)、転丸(テンガン、たまをころばす=物事がたやすいこと、勢いの激しいたとえ)、転徙(テンシ=場所・すまいを次々変える)、転瞬(テンシュン=瞬きする間もない短い間に)、転餉(テンショウ=軍用の食糧をもちはこぶ)、転柁(テンダ=舟の向きを変える)、転眄(テンベン=ふりかえって見る、昔を反省する)、転蓬(テンポウ=風にふきとばされてころがっていくヨモギ、あちこちを転々とするたとえ)、転漏(テンロウ=水時計の目盛りが変わること、わずかな時間)。

3)ケイフウ=勁風。

つよい風。「勁」は「つよい」とも訓む。勁悍(ケイカン=つよくてあらあらしい)、勁士(ケイシ=勇気があって性質のつよい人)、勁疾(ケイシツ=つよくてすばやい、勁捷=ケイショウ=)、勁秋(ケイシュウ=万物を枯らすような風や、霜のきびしい秋)、勁駿(ケイシュン=強くてはやい馬)、勁箭(ケイセン=じょうぶなつよい矢、勁矢=ケイシ=)、勁草(ケイソウ=風などに折り曲げられないつよい草、節操の固い人物のたとえ)、勁直(ケイチョク=外からの力によって曲げられることのない強い正しさ)、勁弩(ケイド=張りが強い石弓)、勁抜(ケイバツ=つよくて他に抜きんでている)、勁兵(ケイヘイ=鋭い武器、強い兵隊、勁卒=ケイソツ=)、勁旅(ケイリョ=つよい軍隊)。

ア)栖栖=セイセイ。

息を弾ませて忙しそうなさま。せかせか。棲棲とも。不安げな様子でもあります。

イ)響=レイキョウ。

しきりに鳴く声。「」は「はげしい」。疫(レイエキ=たちの悪い病気、悪疫)、階(レイカイ=災いのもと、禍端)、鬼(レイキ=疫病神)、色(レイショク=いかりで顔つきをきびしくする)、風(レイフウ=激しい風、烈風)、民(レイミン=人民を苦しめること)。

ウ)斂めて=おさ・めて。

「斂める」は「おさめる」。たるんだものを引き締める、散在したものをまとめる。音読みは「レン」。斂手(レンシュ=手を出さない、かかわりを持たずに何もしないこと)、、斂衽(レンジン=すそがばらつかないようにしてひざまずく、みなりをきちんと整える)、斂迹(レンセキ=挙動を引き締めてつつしむ)、斂葬(レンソウ=死体を土中に葬りおさめる)、斂足(レンソク=足を引き寄せて、小刻みに進むさま)、斂眉(レンビ=まゆを寄せて顔をしかめること)、斂殯(レンヒン=死体を棺に入れて安置すること)、斂容(レンヨウ=乱れた姿を引き締めて整える、態度を引き締めて居住まいを正す)。

栖 栖 失 群 鳥
日 暮 猶 獨 飛
徘 徊 無 定 止
夜 夜 聲 轉 悲
 響 思 清 遠
去 來 何 依 依
因 値 孤 生 松
斂 翮 遙 來 歸
勁 風 無 榮 木
此 蔭 獨 不 衰
託 身 已 得 所
千 載 不 相 違



群にはぐれた鳥が日が暮れてもただ一羽、まだ不安げに飛んでいる。さまよって落ち着くところもなく、鳴き声は毎晩ひとしお悲しげだった。しきりに鳴くその声は清遠の地に思いをはせているのか。行きつ戻りつして去りがたくしていたが、幸い一本松をみつけ、ようやく羽をすぼめてはるばる飛び帰ってきた。冬の寒風に吹きさらされて、木々はみな葉を落としてしまったが、この松の葉かげのみは常緑を保っている。安住の地を得たからには、もはやいつまでもここを離れはしないだろう。

群れからはぐれた鳥は当然ながら陶淵明自身のこと。。塵俗に塗れた宮仕えの生活に飽き飽きした彼は、あちこちさまよったが、漸くにして身を落ちつける場所を見つけたのです。「翮」(カク)は「(鳥の)つばさ」。もう飛び廻る必要のない鳥にはもはや必要のない代物です。周りが葉を散らす中で「常緑」と喩えて永遠に変わらない居場所、それが故郷の田園だったのです。そこはやさしく迎え入れてくれると同時に、心の起伏を起こさせることがない安寧の地。。第十一句にある「已得所」は、彼自身が隠遁生活に入ったことを寓意しています。陶淵明の「帰去来兮辞」を思い起こします。どうして彼が田園に帰ったのか。その背景や心情については、もう一度復習したいところですな。

名聞利養に意味なし!酒があるなら飲め、飲め、飲め=陶淵明「飲酒」4

陶淵明の「飲酒」シリーズの4回目です。岩波文庫「陶淵明全集(上)」から。

「其三」

道 喪われて1)センザイにア)とし

人人 其の情を惜しむ

酒有るも肯えて飲まず

但だ世間の名を顧る

我が身を貴ぶ所以は

豈に一生に在らずや

一生 復た能く幾ばくぞ

イ)やかなること流電の驚かすが如し

2)テイテイたり 百年の内

此れを持して何をか成さんと欲する

1)センザイ=千載。

非常に長い年月、千年、ちとせ。遠い昔を指すことも。千秋、千葉(センヨウ)、千歳(センザイ)、千霜(センソウ)ともいう。「載」は「年、数を表す言葉について年数を表すことば、年月の切れ目の意から」。「王三載」(オウのサンサイ=即位三年め)。載祀(サイシ=年、殷代には一年を一祀と記した)、載生魄(サイセイハク=月の初め、「
魄」は月のほの白い輪廓、新月の時)。

2)テイテイ=鼎鼎。

その時その時が過ぎゆくさま。「かなえ」のように三本脚でずしりとして歩みが鈍い、すなわちゆっくりと着実に歩むことを表している。

ア)向とし=なんなん・とし。

やや特殊な訓み、宛字っぽい訓読語法。通常は「垂とし」。いままさに~となろうとしている、やがて~になろうとしている。垂死は「スイシ、シになんなんとす」で「いまにも死にそうな様子」。

イ)倏やか=すみ・やか。

たちまち、あっという間に。音読みは「シュク」。倏忽(シュクコツ=時が非常に速く過ぎるさま、時間が非常に短いさま)、倏焉(シュクエン=時間が非常に速く過ぎるさま、たちまち)、倏然(シュクゼン=すばやいさま、さっと、たちまち)。

道 喪 向 千 載
人 人 惜 其 情
有 酒 不 肯 飲
但 顧 世 間 名
所 以 貴 我 身
豈 不 在 一 生
一 生 復 能 幾
倏 如 流 電 驚
鼎 鼎 百 年 內
持 此 欲 何 成


道が失われて千年にもなろうというのに、世間の人は相も変わらず自分の気持ちを出し惜しみしている。酒があっても飲もうともせず、ただただ世俗的な虚名を気にしている。だが、我が身が大事だとといっても、それは自分の一生の限られた範囲内のことにすぎない。その一生が長さは稲妻のごとき一瞬の出来事と言える。たった百年しかない一生をぐずぐずと世間体ばかり気にし続けて一体何ができるというのか。

名聞利養に執着することを厭い、官途を棄てて田舎に帰った陶淵明らしい詩です。「道喪」というのは、古代の聖賢の教え、つまり孔子をはじめとする儒家の教えが行われなくなった今の世のことを指しています。体面ばかりを重んじ讒諂面諛。欲しいものを欲しいと言わずに押し殺す嫌な世の中だと。酒が欲しいなら素直になって飲めばいいではないか。お上の意向を窺っていてはこの世に生まれた甲斐があるのか。短い人生、思う通りに生きようとしないで何が楽しいのだ。このくだりは如何にも「ザ・陶淵明」。周りにいた連中がどうしようもなく虫酸が走るような下らない奴らばかりで辟易したのでしょう。

詩中問題にしませんでしたが「流電」とは「稲妻のこと、物事がすばやいたとえ」。「流~」の熟語を拾ってみると、流淫(リュウイン=行いが度を越して乱れる)、流裔(リュウエイ=血筋の続いている遠い子孫)、流衍(リュウエン=はびこる)、流鶯(リュウオウ=枝から枝へと飛び移るウグイス)、流霞(リュウカ=仙人の飲む酒)、流金鑠石(リュウキンシャクセキ=酷暑)、流憩(リュウケイ=ぶらついて時に休息する)、流言蜚語(リュウゲンヒゴ=デマ)、流光(リュウコウ=移りゆく時間のこと)、流洽(リュウコウ=仁徳や、よい風潮が世の中を広くうるおす)、流寇(リュウコウ=徒党を組んで各地を渡り歩く盗賊)、流行坎止(リュウコウカンシ=平和時に出仕し、険悪な時は致死し民間にいること)、流竄(リュウザン、ルザン=島流し)、流矢(リュウシ=流れ矢)、流徙(リュウシ=人民が戦争のためあちこちさまようこと)、流觴曲水(リュウショウキョクスイ=陰暦三月三日、曲がりくねった流れにさかずきを浮かべ、自分の前に来るまでに詩を作る遊び)、流声(リュウセイ=評判、名声)、流瘠(リュウセキ=流浪してやせおとろえた人)、流歠(リュウセツ=水の流れるような音をたてて汁を吸う)、流涎(リュウゼン、リュウセン=よだれをたらす、ひどくほしがる、垂涎)、流霰(リュウセン、リュウサン=ぱらぱらと降るアラレ)、流蘇(リュウソ=五色の糸で作ったふさ)、流謫(リュウタク=罪によって遠くにながすこと)、流涕(リュウテイ=涙を流して泣くこと)、流宕(リュウトウ=おちぶれてさまよう、勝手気儘で道から外れる、流蕩=リュウトウ=)、流毒(リュウドク=世間に害を与えること)、流麦(リュウバク、むぎをながす=読書に夢中になること)、流眄(リュウベン=流し目で見回すこと、流睇=リュウテイ=)、流萍(リュウヒョウ=ながれていく浮き草)、流品(リュウヒン=政府に仕える役人)、流氓(リュウボウ=あちこちあてもなくさ迷い歩く人、ごろつき)、流沫(リュウマツ=川の、流れる水面のあわ)、流誉(リュウヨ=それに相当することをしていないのに伝わるよい評判)、流落(リュウラク=おちぶれてさすらう)、流連荒亡(リュウレンコウボウ=遊楽や狩り・飲酒の楽しみにふけり家になかなか帰らないこと)、流潦(リュウロウ=ながれる雨水、洪水)。こんなに熟語がありますが、これでもかなり端折りました。是非とも流れるように覚えたい言葉が目白押しですね。

伯夷・叔斉の「積善」よりも栄啓期の「固窮節」=陶淵明「飲酒」3

陶淵明(365~427)は、中国の六朝時代の詩人です。本日は「飲酒」シリーズの3回目。


「其二」です。

善を積めば報い有りと云うに、

夷叔は西山に在り

善悪 苟くも応ぜずんば

何事ぞ 空言を立てし

九十にしてア)イ)索を帯にし

1)キカン 当年に況う

2)コキュウの節に頼らずんば

百世 当に誰か伝うべけん

1)キカン=飢寒。

飢えることと凍えること。飢えと寒さ。饑寒とも書く。飢餒(キダイ=必要なたけ食べられず、飢えてやつれること、飢餓)。

2)コキュウ=固窮。当然困難な目にあうものだ。もちろん困窮するに決まっている。どんな境遇でも天命に安んじていること。


ア)行つ=か・つ。

これは難読。「且つ」と同義。なおかつ。

イ)索=なわ。

表外訓み。これまでも何度も出てきました。索慮(サクリョ)とは、南北朝時代、南朝の側から北魏を軽蔑して呼んだ言葉(髪の毛をなわのように編んでいたため)。索麺(ソウメン=素麺、なわみたいですよね)。

積 善 云 有 報
夷 叔 在 西 山
善 惡 苟 不 應
何 事 立 空 言
九 十 行 帶 索
飢 寒 況 當 年
不  固 窮 節
百 世 當 誰 傳


「善行を積めば報われる」と言うが、伯夷・叔斉は西山に隠れた。善行と悪行がもしもそれ相応に報われぬとしたら、どうしてこのような絵空事の格言を作ったのか。同じく隠者の栄啓期は、九十になってもなお荒縄の帯をしめ、飢えと寒さに苦しむさまは壮年時代と変わらなかった。とはいえ、「固窮の節」にたよるのでなければ、百世の後にだれがその名を伝えたろうか。



この詩には前後半に一つずつエピソードが登場します。まず前半。「積善云有報」は「易経」に出てくる「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」のことを指しています。善い行いを積み重ねてきた者の家には必ずその功徳として思いがけない幸せが舞い込み、子孫までその恩恵にあずかるということ。反対に善を積まない家には、あとあとまで残るわざわいがふりかかる。

「夷叔」(イシュク)は「伯夷・叔斉」のこと。清廉な人物の代表格。紀元前12世紀ごろの周代初め、武王の武力行為(殷の紂王の征伐)を容認せず、周の粟を食むのを恥として西山(首陽山)に引き籠もり、薇(わらび)を採って露命をつないだが、結局は餓死してしまった。伯夷が兄で、叔斉が弟。兄を差し置いて父の後は継げないからと、二人とも国を離れます。これまでも何度か出てきました。

伯夷と叔斉の二人は善行があるのにどうして彼らは餓死してしまったのか。易経の格言はただの作り事ではないか。陶淵明の訝りです。

そして後半。「九十行帯索」。これは春秋時代の隠者栄啓期のこと。彼は鹿の毛皮に縄の帯という貧しい身なりであったが、「貧は士の常なり」と言って、九十すぎまでなんの憂いもなく生きたという。

「況う」は漸難しい言葉で「たぐ・う」と訓む。なぞらえる、引き比べるという意。比況(ヒキョウ)という熟語もあります。「いわんや」「ますます」とも訓む。「当年」とうのは「壮年期、元気盛んなばりばりのころ」。「固窮節」は、「論語・衛霊公篇」に「君子固より窮す、小人窮すれば斯に濫る」から来ています。いかに困窮しようともあくまで節を曲げない精神を指す。陶淵明のお気に入りの辞です。ほかの詩でも幾つか用いられています。栄啓期が苦労に耐えて長生きしたのも「固窮節」があったから。それがない奴は長生きできないし、できたとしても何の価値もない木偶の坊だ。いまもその名が伝わるのは「固窮節」に負っているというのです。栄啓期のことは「飲酒・其十一」にも再び登場します。

陶淵明が言いたいのは、一日一善のような「善行を積む」という外形的なことだけでは報われない。それよりも内面的な意志の強さ、「不撓不屈の精神」こそが最終的には勝つのだと言っている。この辺は孔子の教えの影響が強いようですね。儒教臭がぷんぷんします。艱難辛苦、屈辱などありとあらゆる耐え難いことに打ち勝つ心の強さを持ちたい。逃げてはダメだ。人間はピンチに立たされた時にこそ真価が発揮される。疾風勁草。長生きも目的となってしまってはダメで、あくまで結果に過ぎない。若々しい肉体と精神がバランスよく保たれてこその長生きだと思います。

酒を手に入れたら一滴たりとも逃さず飲み干そう=陶淵明「飲酒」2

陶淵明の「飲酒」シリーズの2回目です。岩波文庫の「陶淵明全集(上)」から引用いたします。

「其一」

1)スイエイは定在すること無く

彼れと此れとア)ごも之れを共にす

邵生 瓜田の中

イ)んぞ東陵の時に似んや

寒暑に代謝有り

人道も毎にウ)茲くの如し

達人は其の会を解し

逝ゆく将に復た疑わざらんとす

忽ち一樽の酒と与に

日夕 歓びて相持せん


1)スイエイ=衰栄。


おとろえることとさかえること、栄枯盛衰のこと。「衰~」の熟語は、衰朽(スイキュウ=年をとっておとろえる)、衰孼(スイゲツ=しだいに弱っていく)、衰颯(スイサツ=おとろえしおれる)、衰殺(スイサツ=しだいに年をとり病気になること)、衰弛(スイシ=おとろえて体力・気力がだれる)、衰鬢(スイビン=年をとって色艶の薄くなった耳わきの毛)、衰耄(スイボウ、スイモウ=もうろくすること)、衰邁(スイマイ=年を取っておとろえる)、衰門(スイモン=没落した家系)。


ア)更(ごも)=こもごも。


かわるがわる、入れ替わって。交々、交の方が一般的ですが、これもありです。「更」一字でも「こもごも」。更互(コウゴ=交互)、更代(コウタイ=交代)、更直(コウチョク=かわるがわる宿直する)。


イ)寧んぞ=な・んぞ。


反語の副詞用法。「いずくんぞ」とも訓む。


ウ)茲くの如し=か・くのごとし。


漢文訓読語法で「如茲」と用いて「このようである」。「茲」は「ここ、ここに、これ、この」という意の指示語。


衰 榮 無 定 在
彼 此 更 共 之
邵 生 瓜 田 中
寧 似 東 陵 時
寒 暑 有 代 謝
人 道 毎 如 茲
達 人 解 其 會
逝 將 不 復 疑
忽 與 一 樽 酒
日 夕 歡 相 持




人の栄枯盛衰は定まりなく、浮いたかと思うと沈むもの。秦代の邵平を見るがよい。いまや畑の中で瓜づくりに励んでいるが、かつてのあの東陵公だった人かと誰が思うだろう。自然界に寒暑がかわるがわる訪れるように、この世にも浮き沈みがあるのは同じこと。達人ともなればその道理を悟って、到来したチャンスを疑うことはしない。だから思いがけずありついたこの酒樽こそきょうの晩酌の相手。夜になれば気ままに楽しむこととしよう。

劈頭の一首はいかにも陶淵明らしい一品。彼の「雑詩(其一)」にも、有名な「盛年重ねては来らず 一日再び晨なり難し 時に及んで当に勉励すべし 歳月 人を待たず」(若い時は二度とは来ない。一日に二度朝がくることはない。時を逃さず、十分歓楽を尽くさなくてはいけない。年月は人を待ってくれないのだから)がありました(ここ)。「若いうちは勉強に励みなさい」という曲解を生み、「断章取義」の極致と言われている一節です。この考え方は陶淵明が一貫して持っている「胆」です。

邵平というのは、秦代の宰相、東陵公の後の呼び名。秦滅亡後、庶民となり、長安の東近郊で瓜をつくって細々と暮らしを立てました。その瓜が美味であったため、東陵瓜と称され評判になったと伝承されています。「人間万事塞翁が馬」という成句が淮南子に見えるように、何が幸いし、何が災いするかは誰にもわからない。四季の変化があるように、人生山あり谷あり循環する。ただし、ここぞと思う「好機」だけは逃すまいぞ。。。。とここまではいいのですが、最後のオチがやっぱり「酒」なのが陶淵明の真骨頂です。めったに手に入らない酒だからこそ今日は一滴も漏らさず飲み干そう。嗚呼、勿体無や、嗚呼、勿体無や。

聊か酩酊しており前後脈絡無きこと御容赦を…=陶淵明「飲酒」1

迂生は酒を嗜みません。所謂、下戸です。酒量ゼロではないですが、麦酒を中ジョッキで2時間かけて飲むのが関の山。それ以上は無理。それで顔を真っ赤にして「へべれけ」になれます。左党連中からすれば「効率的で金もかからない」と皮肉交じりに羨ましがられます。飲めぬものは致し方無し。まぁ、かれこれ40云年生きておりますが、酒が飲めずに困った記憶は一片もありませんよ。

さて、中国の詩人は一部の例外を除いて酒豪揃い。酒こそわが命――。彼らにとって詩を詠じるエネルギーともなっているようです。弊blogは陶淵明の「桃花源記」を皮切りにネット世界という「瀛海」に解纜、古人之糟魄を嘗め続けております。この陶淵明こそ生涯、酒を抱いて詩を吟じ続けました。最後には官僚生活を棄てて田舎に帰って、外界から引き籠もってしまいました。弊blogでは、陶淵明が禁酒を誓う「止酒」というユニークな詩を取り上げたことがありますが(ここここ)、その前提となる肝腎の酒を詠じた「飲酒」に触れることを失念してきました。

中国の詩人に数々の影響を与えたこの詩を賞翫しましょう。ただ、二十首の連作と長めです。焦ることなく、ゆっくりと歩みを進めることとしましょう。メジャーな詩ですのでテキストは饒くありますが、ここでは岩波文庫の「陶淵明全集(上)」(松枝茂夫・和田武司訳注)や石川忠氏の「漢詩をよむ 陶淵明詩選」(NHKライブラリー)などを中心に参考に致します。

まずは「序文」です。

余れ閑居して歓び寡く、兼ねてア)、夜已に長し。偶々名酒有り、夕として飲まざる無し。影を顧みて独り尽くし、1)コツエンとして復た酔う。既に酔う後は、輒ち数句を題して自ら娯しむ。紙墨遂に多く、辞に2)センジ無し。聊か故人に命じて之れを書せしめ、以て歓笑と為さんイ)

1)コツエン=忽焉。


にわかに、突然。忽然(コツゼン)ともいう。「忽」は「たちまち」。いつのまにかうっかりしているまに。忽諸(コッショ=たちまち、ふっと消えるさま)、忽地(コッチ=たちまち、うっかりしているまに)、忽微(コツビ=細かくて価値のないこと)、忽略(コツリャク=おろそかにすること)。「忽」には「ゆるが・せにする」という訓みもある。

2)センジ=詮次。


区別した明確な順序。「詮」は「えらぶ」とも訓む。ことばや物事をきれいにそろえて、よいもの、正しいものをえらびとる。詮衡(センコウ=そろえたものの能力や性格などをよく調べて、その中からえらぶこと)。詮釈(センシャク=道理をときあかす、また、その説明)。

ア 比=このごろ。


漢文訓読語法。近頃と訳す。「比今」や「比来」も、意味・用法ともに同じ。

イ)爾=のみ。


漢文訓読語法。文末に置かれ、「~のである」と断定で訳す。あるいは、「~だけ」「~であるにすぎない」と訳し、限定の意を表す。ここでは前者。


ひっそり暮らして楽しみも少なく、しかもこの頃は夜が長くなった。たまたま名酒が手に入ったので飲まぬ夜はない。影法師を相手に独り飲みほして、飲むとたちまち酔っ払う。酔った後には、詩句を二、三書き記して楽しむのが常。いつのまにか書き散らしたものがたまった。前後の脈絡には欠けるものばかりだが、ともかく友に頼んで書き取ってもらった。話の種の一つにでもなればうれしく思うのだ。

岩波文庫によれば、「秋の夜長、閑居のつれづれに毎夕、酒を飲み、酔後、気ままに書きつらねたもの。『飲酒』と題するが、必ずしも酒をうたっているわけではなく、むしろ酒に託して自己の心境を告白したものが目だつ」とあります。制作時期についても触れており、彭沢より帰田後の40歳前後か、帰田後12年を経た53歳ごろ、という二説があるという。また、この連作すべてを同一時期の作とするかどうかについても見解が分かれているといいます。

心に浮かんだよしなしごとをそこはかとなく詩に書きとどめたようです。へべれけに酔っているので前後の脈絡のほどはご容赦を……とは、陶淵明らしいユーモアですね。どことなく人を食っているのですが、憎めないキャラクターです。宮仕えをやめた隠逸は孤独なのです。酒を飲む相手も自分の影だけというのは何とも寂しい限り。んでも、酔ってしまえばこっちのもの。好き勝手なことを書いても誰に咎められることもない。さぁ、新たなる陶淵明ワールドの始まりです。
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char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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