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荀勗と阮咸の耳比べかたや「闇解」こなた「神解」=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)の「竹林の七賢」シリーズは、「阮咸」です。阮咸は阮籍の甥です。

荀勗(ジュンキョク)、善く音声を解し、1)ジロン之を闇解と謂う。遂に2)リツリョを調え、雅楽を正す。正会に至る毎に、殿庭に楽を作し、自ら3)キュウショウを調え、韻にア)わざる無し。阮咸は妙賞なり。時に神解と謂う。公会に楽を作す毎に、心に之を調わずと謂えるも、既に一言の直す無し。勗は意に之を忌み、遂に阮を出だして始平太守と為す。後に一田父の野に耕して、周時の玉尺を得る有り。便ち是れ天下の正尺なり。荀、試みに以て己が治むる所の4)ショウコ・5)キンセキ・6)シチクを校するに、皆短きこと一7)ショなるを覚ゆ。是に於て阮の神識に伏せり。(術解篇1)

1)「ジロン」=時論。その時代の人々の意見や論議。とても簡単な熟語ですが、恐らく想起されるライバル候補である自論、持論と区別しておきましょう。

2)「リツリョ」=律呂。中国古代の音楽で、基準となる音名の総称。呂は陰の調子。六律・六呂あわせて十二あり、十二律という。転じて、音楽の調子をいう。

3)「キュウショウ」=中国の音楽で、音階の宮・商・角・徴(チ)・羽(ウ)・の五音(ゴイン)のうち、宮と商のこと。音階の基本となる。ドレミファソラシドのようなもの。四字熟語に「徴羽之操」(チウノソウ=正しい音楽のこと)もあります。淮南子・説林訓に出てくる。

4)「ショウコ」=鐘鼓。鐘と太鼓。ともに音楽を演奏するための代表的な楽器です。転じて、音楽を指すこともある。ちなみに鉦鼓は陣中で用いるかねと太鼓、もしくは音楽で用いる打楽器で銅製で浅い皿形をしており、つり下げて叩く、簫鼓はふえと太鼓。微妙ですが「ショウコ」を書き分けられるようにしておきましょう。

5)「キンセキ」=金石。鐘や磬など金属製や石製の楽器のこと。転じて、音楽や歌を指す。

6)「シチク」=糸竹。琴などの絃楽器と、笛などの管楽器のこと。転じて、音楽全般を指す。「金石糸竹」(キンセキシチク)で音楽。

7)「ショ」=黍。これは難問か。きび。一黍で「一粒のきび」。きびの一粒は大きさや目方が一定であることから、度量衡の単位として用いられました。便ち、きび一粒(一黍)の直径を一分(イチブ)、きび百粒(百黍)の重さを一銖(イッシュ)、きび二千四百粒(二千四百黍)の体積を一合(イチゴウ)としました。

ア)「諧わざる」=かな・わざる。「諧う」(かな・う)は、うまく調和すること。「諧」には「やわらぐ」「ととのえる」の訓みもあるので覚えましょう。諧謔(カイギャク)、諧協(カイキョウ)、諧語(カイゴ)、諧声(カイセイ)、諧調(カイチョウ)、諧比(カイヒ)、諧和(カイワ)。


【解釈】 荀勗はよく音楽を理解し、当時の人々はこれを「闇解」と評していた。かくて律呂を調え、雅楽を正し、正月の儀式に朝廷で音楽を演奏するたびに、自ら宮商を調えたが、韻律に適わないものはなかった。阮咸もすぐれた音楽鑑賞家で、当時の人々は彼を「神解」と評していた。公の会合で音楽が演奏されるたびに、内心その音楽は調子が合っていないと思っていたが、それについて何も言わなかったので、荀勗は心中これを憎み、ついに阮咸を始平太守に転出させてしまった。後にひとりの農夫が田野を耕していて、周代の玉のものさしをみつけたが、これこそ天下の標準となすべきものさしであった。荀勗はためしに自分が調律した鐘鼓・金石・糸竹の楽器を調べてみたところ、みな黍一粒分だけ短いことに気がついた。そこで始めて阮咸のすぐれた鑑識力に感服した。

現在でも「阮咸」という名の絃楽器(円形で平らな胴に長い棹をもつ四弦楽器)が伝わっており、阮咸はすぐれた演奏家であると同時に、逸話にある通り「神解」と評されるほどの耳の肥えた音楽鑑賞家でもありました。荀勗は後漢の司空荀爽の曾孫で、魏の侍中より晋の中書監に至り、律令を定めるとともに楽事にも携わった。音律をよく聞き分けて、かつて道で聞いた趙の商人の牛に着けられた鈴の音を忘れずに、後年音律を調える段になって足りない音階が生じた時、「趙の牛の鈴があればぴったり合うだろう」と言って趙の郡県から牛の鈴を集めさせたところ、果たしてぴったり合うものがあったという故事(「晋書」荀勗伝、「蒙求」巻上「荀勗音律」)が伝えられています。

ことほど左様に政治家でありながら「闇解(心中おのずと音楽の精巧をわきまえていること)」を讃えられた荀勗ではありますが、彼以上に阮咸はすぐれた耳を持ち、正確に音律を聞き分けたと言いますからこそ「神解(人知を越えた神妙の理解)」という呼称がふさわしく、音楽較べでは荀勗を圧倒したのでしょう。

ちなみに、この逸話に出てくる「周時の玉尺」「天下の正尺」ですが、度量衡の基本だったものです。度量衡は、政治や社会制度を整えるため必要なものですが、中国の場合、音律の調和のために重視されたことがうかがえます。
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妻の言うことに耳を傾け、逆らわないのが賢い夫?=世説新語

世説新語の竹林の七賢シリーズから、本日は「山濤」と「劉伶」の二人。賢い妻を持つ二人ですが、それぞれ好対照の態度で接しています。さすがはモラトリアム集団「竹林の七賢」だけあります。ですが、この二人を並べた場合、山濤には好感が持てても、劉伶には眉を顰めないわけにはいかないかもしれません。本日も「明治書院・新書漢文大系21」から。

山公・嵆・阮と一面して、契り1)キンランの如し。山が妻韓氏、公の二人と常交に異なるを覚え、公に問う。公曰わく、我、当年、以て友と為す可き者は、唯だ此の二生のみ、と。妻曰わく、負羈の妻も、亦親しく狐・趙を観たり。意、之を窺わんと欲す、可ならんか、と。他日二人来る。妻、公に勧めて之を止めて宿らしめ、酒肉を具え、夜墉(かき=築地の塀)を穿ちて以て之を視、ア)に達するまで返るを忘る。公入りて曰わく、二人は何如、と。妻曰わく、君が才、殊に如かず。正に当に識度を以て相友とすべきのみ、と。公曰わく、伊が輩も亦常に我が度を以て勝れりと為す、と。(賢媛篇11)

1)「キンラン」=金蘭。「金蘭契」(キンランのちぎり)が成句で「友人との交わりが非常にかたく、清らかなことの形容」。元々の出典は「易経」繋辞伝上の「二人同心、其利断金、同心之言、其臭如蘭」から。金襴は微妙ですが「錦の一種で平らな金糸を横糸にして模様を織り出したもの」。

ア)「旦」=あした。あさ、明け方のことで、ほかには「朝、晨」。

【解釈】 山公(山濤)は嵆康・阮籍と一度あっただけで金蘭の如き交わりを結んだ。山公の妻韓氏は、夫と二人の交際がふつうでないのを悟り、公にたすねた。公は言った。「私が、いまどき友とするに値するのは、ただこの二人だけなのだ」。妻が言った。「負羈の妻も、自分の目で狐偃と趙衰をよく観察しました。私もお二人の様子をのぞいてみたいのですが、よろしいでしょうか」。後日、二人がやってきた。妻は山公に勧めて二人を泊らせ、酒肉をととのえた。夜になってかきに穴をあけてのぞき、朝になるまで帰るのを忘れていた。山公は部屋に入って来てたずねた。「二人はどうだったね」。妻が言った。「あなたは才能ではとてもあの二人には及びません。見識と度量でこそお付き合いなさいませ」。公が言った。「彼らも、いつも私の度量がすぐれていると言っているよ」。

利い妻の観察眼には山濤も肝を冷やしたのかもしれません。最後の「伊が輩も亦常に我が度を以て勝れりと為す」といった台詞は思い付きで取り繕った風にも聞こえます。嵆康・阮籍にかなわないことは彼自身が最もよく身に染みていたのかもしれません。

山濤と妻をめぐる別のエピソードがあって、これは「晋書」山濤伝に載っています。

山濤がまだ仕官せず家が貧しい頃、妻の韓氏にいった。「貧乏を我慢してくれ。しかし心配なのは、私が後にきっと三公の位にのぼるだろうが、あなたがその夫人にふさわしいかどうかだ」と。

今の貧乏生活を気に病むことなく、将来実現するかどうかも分からぬ、三公(=臣下の最高の官職→前漢代では丞相・大尉・御史大夫、後漢以降隋・唐代では大尉・司徒・司空、三槐九棘=サンカイキュウキョク)になってからのことを心配する山濤の度量は「見方によっては、確かにすぐれて大きいものといえるかもしれない」(P85)と明治書院ではちょっぴり皮肉交じりに解説されています。

しかしながら、そんなことを言われた当の妻に言わせれば、「あんだとぅ?どの口がゆうとるんじゃい?三公ぉだってぇ?上等じゃい。人のことをふさわしい云々を心配するんは百年早いわ。その三公とやらになってから言うてみんかいぃ~!」と口角泡を飛ばして、逆に啖呵を切られるのが関の山ではなかろうかと老婆心ながら心配しちゃいます。「蒙求」では「山濤識量」として載っています。

ちなみに、妻が引き合いに出した「負羈の妻」とは曹の大夫「僖負羈」の妻のこと。「春秋左氏伝」の「僖公二十三年」に「晋の公子重耳(後の文公)が諸国放浪の際、曹国に行った折、無礼な振る舞いを受けたが、その従者である狐偃や趙衰らを観察していた負羈の妻は、重耳は一国の大臣になれるほどの人物だから、あなたは曹公とは違うということをお示ししておきなさいと夫に進言。果たせる哉、重耳は文公となって即位し、曹を攻撃したが、僖負羈の家と一族には手をつけぬよう命じたという」との故事を指しています。まさに賢妻の先見之明なり。今も同じかも。世の夫諸氏は女房の云うことを素直にはいはいと聞いておくのが一番の人生訓かもしれませんな~。

続いて「劉伶」。山濤とは対照的な劉伶の妻に対する傲慢な態度は少し腹立たしく思うかもしれませんよ。

劉伶酒を病みて渇甚だしく、婦に従って酒を求む。婦、酒を捐て、器を毀ち、2)テイキュウして諫めて曰わく、君が飲太だ過ぎたり。摂生の道に非ず。必ず宜しく之を断つべし、と。伶曰わく、甚だ善し。我は自ら禁ずるこ能わず、唯だ当に鬼神に祝り、自ら誓って之を断つべきのみ。便ち酒肉をイ)うべし、と。婦曰わく、ウ)んで命を聞く、と。酒肉を神前に供え、伶に請いて3)シュクセイせしむ。伶はエ)きて祈りて曰わく、天、劉伶を生み、酒を以て名を為さしむ。一飲一斛、五斗にしてオ)を解く。婦人の言は慎んで聞く可からず、と。便ち酒を引き肉を進め、4)カイゼンとして已に酔いたり。(任誕篇3)

2)「テイキュウ」=涕泣。なみだを流してなくこと。「涕」は「なみだ」。ほかには「泗、泪、洟」。涕泗(テイシ)、涕洟(テイイ)=たれるなみだと鼻水。涕涙(テイルイ=流れ落ちる涙)、涕零(テイレイ=なみだをこぼすこと)。

3)「シュクセイ」=祝誓。祝いの言葉を述べる言葉や文。

4)「カイゼン」=隗然。ひどく酔う様。「隗」は「けわしい」という意味ですから少しピンと来ませんがね。むしろ故事成語の「従隗始」(カイよりはじめよ)、「先従隗始」(センジュウカイシ)の方が有名ですね。

イ)「具う」=そな・う。表外訓み。「具える」は「そな・える」。かねそなえていること。

ウ)「敬んで」=つつし・んで。表外訓み。

エ)「跪きて」=ひざまず・きて。かしこまったときの作法。音読みは「キ」。跪拝(キハイ=ひざまずいておがむ)、跪坐(跪座=キザ、ひざまずいてももをたててまっずぐにすわる)、跪謝(キシャ=ひざまずいて感謝する)、跪伏(キフク=ひざまずいて伏しかがむ)。

オ)「酲」=テイ、ふつかよい。悪酔いすること。これ1級配当なんですね。「酲い」は「わるよ・い」とも訓む。

【解釈】 劉伶は二日酔で、ひどくのどが渇いていた。妻に酒をくれと求めた。妻は酒を捨てて酒器を壊して泣きながら夫を諌めた。「旦那様のお酒は度を越しています。摂生の道に外れております。どうぞぜひおやめくださいませ」。伶が言った。「なるほど結構だ。わしは自分でやめることは出来ないから、神にいのって酒を断つ誓いをしよう。すぐに御神酒と肉を用意してくれ」。妻は「かしこまりました」と言って酒肉を神前に供え、伶に誓いを立てるよう促すと、伶はひざまずいていのった。「天はこの世に劉伶を生み、酒飲みで名を為さしめた。一たび飲めば一石、二日酔を払うには五斗。女房の言葉など決して聞くまいぞ」。そこで酒を引き寄せて肉を食らい、すっかり酔っ払ってしまった。

劉伶は酒飲みの代名詞で、いつ、どこで死んでもいいように、従者に墓掘り用の鍬を持たせて歩いたとされています。しかし、体のことを心配して酒を控えるように懇願した妻を蔑ろにする劉伶の態度は許せないものがありますね。天をして「酒を以て名を為さしむ」というのは、単に「アル中」という評判が世間に立っただけのこと。「婦人の言は慎んで聞く可からず」とは女性蔑視発言に等しい。現代社会なら、即刻、離婚訴訟となっても可笑しくないでしょう。年老いても介護だってしてくんないよ。この話の後、妻がどういう態度を取ったかは伝わっておりませんが、楽しい夫婦生活でなかったことだけは想像に難くないですね~。

世説新語の随所に劉伶の酒にまつわる逸話が載っています。「蒙求」では「劉伶解酲」(リュウレイカイテイ)として掲載されています。これらはまた別の機会に。。。

母親が死んでも「ヒトン」を食べた阮籍=世説新語


「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)の「竹林の七賢」シリーズはまず、「阮籍」と「嵆康」(ケイコウ)の二人を取り上げます。

阮籍、母を葬るに当たりて、一1)ヒトンを蒸し、酒を飲むこと二2)、然る後に訣れに臨み、直だ云う、窮れり、と。ア)て一たび号するを得て、因りて血を吐き、3)ハイトン良久しうす。(任誕篇9)

1)「ヒトン」=肥豚。肥えて美味な豚の肉。ヒトンと言えば「肥遯(肥遁)」がありますが、こちらは心に余裕を持ち俗世間を離れて暮らすこと。易経にある言葉です。今回は「蒸す」のですから普通に豚肉のこと。肥馬軽裘(ヒバケイキュウ=金持ちの出で立ち)も。

2)「ト」=斗。酒の量を表す単位。一斗は十升(周代では奕1・94㍑とやや少なめ、日本の一斗は約18㍑)。「斗」の関連では序でに、斗筲之人(トショウのひと=小人物)や斗卮酒(トシシュ=一斗入りのさかずきの酒)、斗折蛇行(トセツダコウ=羊腸小径)なども想起しておこう。

3)「ハイトン」=廃頓。ぐったりするさま。辞書などに掲載はなく稍難問です。

ア)「都て」=すべ・て。表外訓み。基本。「すべて」はほかに、「渾て、凡て、惣て、総て、闔て」。

【解釈】 阮籍は母を葬るに当たり、一匹の肥えた豚を蒸して、酒を二斗飲んだ。その後で母との別れに臨むと、ただこういった。「おしまいだ」。一声、号泣したきりで血を吐いて、しばらくの間、気が抜けたようにぐったりしていた。

父母の喪に服する心得として、「儀礼・葬服」にある「斬衰斉衰」(ザンサイシサイ)が代表的な言葉としてあります。斬衰は最も重い喪服で3年、父親に対するもの。斉衰はその次で母親に対するもので同じく3年、その他の親戚は1年です。阮籍の取った態度は明らかにこの儀礼に負いています。

ただし、明治書院「新書漢文大系21」(P81)によると、「(迂生注:中国文学者である)吉川幸次郎氏(迂生注:1904~1980)は『阮籍伝』の中で、世間一般の儀礼など無視しながらも母との最期の別れに臨んで『窮れり』と号泣して吐血した阮籍を、『実は最も純粋な心情のもち主』であったとし、彼が世間の習俗にこだわらなかったのは、それがたまらない偽善として映じたからだと説明する」と記しています。

阮籍の母親をめぐる逸話は別のところでも、「母の喪中に文王司馬昭の宴席で酒を飲み肉を食べ続けたこと」(任誕篇2)、「母の喪中に弔問客がやってきても酒に酔っ払って、ざんばら髪で足をなげ出して座りこみ、何の礼もしなかったこと」(任誕篇11)なども紹介されています。母親を思う気持ちは誰にも負けないし、それは形式で表すものでもないということでしょうか。まともっちゃあまともです。でも、いささか表現方法は子供じみていますがね。

王戎4)ジャッカンにして阮籍に詣る。時に劉公栄(リュウコウエイ)坐に在り。阮、王に謂いて曰わく、偶々二斗の美酒有り、当に君と共に飲むべし。彼の公栄なる者は預る無けん、と。二人觴を交え5)シュウサクするに、公栄遂に一杯を得ず。而も言語談戯して、三人異なる無し。或いは之を問う者有り。阮答えて曰わく、公栄に勝る者は、イ)に酒を飲まざるを得ず、公栄に如かざる者も、与に酒を飲まざる可からず、唯だ公栄のみは、与に酒を飲まざる可し、と。(簡傲篇2)

4)「ジャッカン」=弱冠。男子のはたち。基本漢字ですが敢えて問われると「若干」などと答えてしまうかも。。周代では男子は二十歳になると元服の式を行い冠をつけたことから。「弱」は「わかい」の意。

5)「シュウサク」=酬酢。客と主人が互いに酒を勧めて飲み合う。献酬、杯のやり取り。差しつ差されつ。「酬」は、主人から客に返盃すること、「酢」は、客から主人に返盃すること。「酬」「酢」ともに「むくいる」と訓む。

イ)「与に」=とも・に。表外訓み。この場合は漢文訓読の副詞語法。一緒に、連れだってという意。

【解釈】 王戎がまだ二十歳のころ、阮籍を訪れた。その座に劉公栄(劉昶=リュウチョウ)も居合わせた。阮が王に言った。「ちょうど二斗のいい酒がある。君と一緒に飲もうではないか。あの公栄などという男は仲間に入れまい」。二人は盃をやり取りして酒を酌み交わしたが、公栄はついに一杯ももらえなかった。それでも、言論談笑は三人ともに変わるところがなかった。ある人がこのことを尋ねると、阮が答えて言った。「公栄以上の者とは、ともに酒を飲まねばならない。公栄以下の者とも、ともに酒を飲まねばならない。ただ、公栄とは、ともに酒を飲まずともよい」。

世説新語「任誕篇4」には、この阮籍と同じような台詞を吐いた劉昶の逸話も紹介されている。

劉昶は人と酒を飲むのに、身分を問わずいっしょに飲んだ。ある人がこれをとがめると、劉昶は答えていった。「俺以上の者とは飲まねばならん。俺以下の者とも飲まねばならん。俺と同じ程度の者とも、やはり飲まねばならん」。こうして劉昶は一日中皆といっしょに飲んで酔っ払っていた。

劉昶が阮籍の台詞をうまくこじつけて酒を飲む口実に作り変えています。小事にこせこせしない豪快さが浮き彫りにされていますが、彼の詳しい伝記は不明とあります。

続いて「嵆康」。弊blogでも一度だけ引用したことがあります。(ここ)=「嵆叔夜之為人也、巌巌若孤松之独立、其酔也、傀俄若玉山之将崩」(世説新語・容止篇)。「蒙求」にも「叔夜玉山」として採録されています。

嵆康汲郡の山中に遊び、6)ドウシ孫登に遇い、遂に之と遊ぶ。康去るに臨み、登曰わく、君才は則ち高し、保身の道は足らず、と。(棲逸篇2)

6)「ドウシ」=道教の修行をした人。神仙の術を修めた人。仙人のことか。

【解釈】 嵆康が汲郡の山中に遊んだ際、道士の孫登に出会い、そのまま彼と共に遊んだ。康が別れてこようとする時、登が言った。「あなたは才能がすぐれているが、保身の道は十分でない」。

これは嵆康の非業の死を暗示したエピソード。孫登から「保身の道は足らず」と言われてしまいます。ガードが甘いということでしょうか。明哲保身。。。。便ちお前は明哲ではない。だから、気をつけなさいというアドバイス。にもかかわらず結局は友人の冤罪を証言しようとして、かえって自分が讒言にあい処刑されてしまいました。嵆康は洛陽の東市で処刑される段になっても顔色一つ変えず、琴を持ってこさせて「広陵散」という曲を奏でて、曲が終わると「広陵散、今に於いて絶えん(この広陵散も、今を最後に途絶えてしまうのだ)」と言ったと「雅量篇2」にあります。この「広陵散」は源氏物語で光源氏が琴で奏でるシーンがあります。明哲ではなかった嵆康ですが、中国音楽史上でも指折りとされる「名曲」を抱えてこの世から消えてゆきました。

稀代のモラトリアム集団「竹林の七賢」=世説新語

世説新語は「竹林の七賢」シリーズに突入いたします。

竹林の七賢は三国時代末期、俗世間を避けて竹林で清談に耽った男たちの総称。魏から晋への王朝交代をめぐる不安定な政情に対する忿怒や、孔子ら儒教が説いた偽善性に対する不信から、最も舌鋒鋭かった阮籍は礼法の士を嘲り、君臣貴賤の別という身分制を否定しました。「七人」という存在感は、黒澤明の「七人の侍」のモデルになった…というのは大ウソですが、古来、「七」というのは何かしらシンボリックな数字であり、「三人寄れば文殊の知恵」ならぬ、「七人集まれば何かが起こせる」みたいな期待感を抱かせます。

ただし、彼らは堂々と世間に打って出て「事を起こした」わけではなかった。むしろ、斜に構え、権力者から背を向け、空理空論を弄んだのです。自分らは安全な位置にいて犬の遠吠えをやったのです。そうした隠遁生活を送った者として後世の文学者や詩人、画家たちに格好の「題」を提供したのは確かですが、何か「実」を残したわけではなかったとは言い過ぎでしょうかね~。

陳留の阮籍・譙国の嵆康・河内の山濤、三人年皆相比し、康年少にして之にア)ぐ。此の1)ケイに預る者は、沛国の劉伶・陳留の阮咸・河内の向秀・琅邪の王戎なり。七人常に竹林の下に集い、2)シイ3)カンチョウす。故に世に竹林の七賢と謂う。(任誕篇1)

1)「ケイ」=契。契合(ケイゴウ)で「親密にする、意気投合する」の意。

2)「シイ」=肆意。志をほしいままにする、わがままにふるまう。肆志(シシ)ともいう。「肆」は「ほしいまま」。放情肆志(ホウジョウシシ=勝手気儘)。

3)「カンチョウ」=酣暢。酒を飲んでのんびりした気分になること。また、その気分。「酣」は「たけなわ、酒を飲んでうっとりするさま、酒宴が佳境に入る」。「暢」は「のびる、のびやか」。

ア)「亜ぐ」=つ・ぐ。表外訓み。二番目という意味。亜槐(アカイ=大納言の唐風の呼び方)、亜卿(アケイ=九卿に準ずる官のこと)。

【解釈】 陳留の阮籍・譙国の嵆康・河内の山濤の三人は、年がみな近く、康がその中では年少で、他の二人についでいた。彼らの交わりにあずかったものは、沛国の劉伶・陳留の阮咸・河内の向秀・琅邪の王戎だった。七人はいつも竹林のもとに集まり、気ままに楽しく酒を酌み交わした。そこで世間ではこれを「竹林の七賢」と呼んだ。

ここで竹林の七賢の略歴を簡単に記しておきます。

■「阮籍」(ゲンセキ、210~263)

字は嗣宗。かつて歩兵校尉に任ぜられたので、阮歩兵とも称する。この人が有名なのは「白眼青眼」。気に入らない俗物を白目で睨む半面、お気に入りの者は青目で迎えたという故事が「晋書」阮籍伝に記されています。酒を愛好し奇行も多い。一方で琴を愛する風流人。世間一般の礼教に背を向けて、易や老荘思想に根差した独自の価値観で身を処した彼の人生観や生き方は後世に大きな影響を残しています。著に「詠懐詩」八十余篇、「達荘論」などがあります。

■「嵆康」(ケイコウ、224~263)→新書漢文大系では「嵆」「禾篇+尤/山」となっている。異体字ですね?

魏・晋の思想家。字は叔夜。魏帝曹操の曾孫を妻に迎えました。中散大夫に任ぜられ、世に嵆中散とも呼ばれています。老荘の学を好み、琴・書画にも堪能でした。鍾会に憎まれ讒言に遭い晋の文王司馬昭に殺されました。著に「養生論」があり、「嵆中散集」に収録されています。

■「山濤」(サントウ、205~283)

字は巨源。晋の宣王司馬懿の親類。武帝司馬炎の時、吏部尚書に任ぜられ、人材の登用に際しての論評が的確であったため「山公啓事」と称賛されました。人物として度量が大きいことが有名で「蒙求」巻上にも「山濤識量」として紹介されています。

■「劉伶」(リュウレイ、?~?)

字は伯倫。官は建威参軍。武帝司馬炎の泰始年間(265~274)の初め、何事も為すこと無く国を治めるという「無為の化」を献策して罷免されました。無類の酒好き。

■「阮咸」(ゲンカン、?~?)

字は仲容。阮籍の甥。官は散騎侍郎。音楽的才能に恵まれ、琵琶を能くしました。今もなお、阮咸が作ったと伝えられる弦楽器が残っており、その名もずばり「阮咸」といいます。

■「向秀」(ショウシュウ、227?~272)

字は子期。官は黄門侍郎・散騎常侍に至る。老荘を好み、「荘子」に注釈を施したが、未完成のまま亡くなった。嵆康との親交が深く、その歿後に昔の交遊を追想して作った「思旧賦」(「文選」)が名高い。

■「王戎」(オウジュウ、234~305)

字は濬仲。王導、王羲之らが輩出した瑯邪臨沂(ロウヤリンギ)王氏の一族。官は司徒・尚書令に至る。少年にして異彩を放ち、その眼光爛々として「巌下の電の如し」と評されたことなどが「蒙求」巻上「王戎簡要」に載っています。

次回から竹林の七賢にまつわる逸話を紹介します。モラトリアム臭芬芬ですよ~。

石崇、王、王済のちょっと下品な金持ち比べ=世説新語

本日の「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)は、晋代の大富豪「石崇」の逸話を二つ。まずは“残酷篇”です。

石崇客をア)えて1)エンシュウする毎に、常に美人をして酒をイ)らしむ。客の酒を飲みて尽さざる者は、2)コウモンをして交々美人を斬らしむ。王丞相、大将軍と嘗て共に崇にウ)る。丞相エ)より飲む能わざるも、輒ち自ら勉彊して、3)チンスイに至る。大将軍に至る毎に、固く飲まず、以て其の変を観る。已に三人を斬るも、顔色オ)の如く、尚お飲むを肯んぜず。丞相之をカ)む。大将軍曰わく、自らキ)の家人を殺す。何ぞ卿が事に預らん、と。(汰侈篇4)

1)「エンシュウ」=燕集。宴会を催すこと。「燕」は「宴」と同義で「くつろぐ」とも訓む。

2)「コウモン」=黄門。宦官の別名。肛門、候門、叩問、敲門、皐門、闔門などと区別を。

3)「チンスイ」=沈酔。泥酔、痛飲のこと。鎮綏、沈水ではない。

ア)「要えて」=むか・えて。「要える」は「むか・える」と表外訓み。

イ)「行らしむ」=や・らしむ。「行る」は「や・る」と表外訓み。

ウ)「詣る」=いた・る。「まい・る」ではない。

エ)「素より」=もと・より。

オ)「故の」=もと・の。

カ)「譲む」=せ・む。責める。これは稍難しい表外訓み。責譲(セキジョウ)。

キ)「伊」=かれ。

【解釈】 石崇は客を招いて宴会するたびに、いつも美女に酒をすすめさせた。酒を飲み干さない客があると、宦者に命じて次々と美女を斬り殺させた。王丞相(王導)と大将軍(王郭)とが、あるとき連れだって崇のもとを訪れた。丞相は平素から酒を飲むことができなかったが、無理に飲んで泥酔するにいたった。杯が大将軍のところにめぐってくるたびに、大将軍は決して酒を飲もうとせず、その成り行きを見守っていた。既に三人の美女が斬られたが顔色一つ変えず、それでもまだ飲もうとはしない。丞相が責めると、大将軍は言った。「自分の家の者を勝手に殺しているのだ。君に何の関係があるというのだ」。

石崇(249~300)は、盛唐の詩人李白の「春夜宴桃李園序」で「如し詩成らずんば、罰は金谷の酒数に依らん」(弊blogでも取り上げました→ここ)と詠じた「金谷の酒数」の故事となった人です。金谷園というのは洛陽の西北部の郊外にある彼の別荘で、石崇はそこにイケメン文士・潘岳ら時の名士を招いて昼夜を分かたず宴を張り、それぞれ胸の思いを詩に作らせたのです。李白の詩では、詩ができなかった場合は罰盃として三杯の酒を飲ませたといいますが、世説新語の場合は、美女が勧めた酒を飲まなかった場合は、何とその美女が斬り殺されるというとんでもない罰が待ち受けていました。石崇が著したという「金谷詩序」には、「遂各賦詩,以敘中懐,或不能者,罰酒三斗」とあります。

続いて“驕奢”篇です。

石崇王(オウガイ)と豪を争い、並びに綺麗を窮め、以て輿服を飾る。武帝は、の甥なり。ク)にを助け、嘗て一珊瑚樹の高さ二尺許りを以てに賜う。4)シカ扶疎、世に其のケ)比罕なり。以て崇に示す。崇視コ)わるや、鉄如意を以て之を撃ち、手に応じて砕く。既にサ)惋惜し、又以て己の宝をシ)めりと為し、5)セイショク甚だス)し。崇曰わく、恨むに足らず、今卿に還さん、と。乃ち左右に命じて悉く珊瑚樹を取らしむ。三尺四尺にして、条幹絶世、6)コウサイ目に溢るる者六七枚有り。が許の比の如きは、甚だセ)し。惘然自失す。(汰侈篇8)

4)「シカ」=枝柯。えだのこと。「柯」は曲がった枝。

5)「セイショク」=声色。声と顔色。生殖、聖職、整色ではない。

6)「コウサイ」=光采(光彩)。美しい輝き。

ク)「毎に」=つね・に。いつも。表外訓み。

ケ)「比罕」=たぐいまれ。

コ)「訖わる」=お・わる。音読みは「キツ」。清訖(セイキツ=清算し終わる)。

サ)「惋惜」=ワンセキ。残念なことだと惜しむこと。「惋」は配当外で「ワン」「うらむ」。惋恨(ワンコン=残念なことだとうらむ)、惋傷(ワンショウ=嘆き悲しむ、惋嘆ワンタン、惋慟ワンドウ、惋怛ワンダツ)。

シ)「疾めり」=ねた・めり。「疾む」(ねたむ)は「嫉む」と同系か。「にくむ」とも。

ス)「し」=はげ・し。「」は「といし」とも訓み、音読みが「レイ」。疾(レイシツ=はげしくてはやい)、色(レイショク、いろをはげます=厳しい顔つきをすること)、民(レイミン、たみをくるしむ=人民を苦しめる)。

セ)「衆し」=おお・し。表外訓み。「おおし」はほかに、「饒し、鉅し、蒸し、夥し、套し、巨し、庶し、戎し、林し、殷し、浩し、濔し、稠し、臻し、芬し、蓁し、藹し、輿し、黎し」もある。難しいのも入っています。

【解釈】 石崇は王と豪奢を競い、どちらも綺麗のかぎりを尽くして、その車や衣服を飾った。武帝(司馬炎)は、の甥である。いつもを援助し、ある時、高さ二尺ばかりの珊瑚樹をに賜った。枝がみごとに張り、世にたぐいまれなものである。はそれを崇に見せた。崇は見終わると、鉄の如意でこれを打ち、珊瑚樹はあっという間に砕けてしまった。はなげき惜しむとともに、自分の宝物を妬んだのだと思い、ひどく顔色を変え、声を荒らげた。崇は言った。「恨むことはない。今君にお返ししよう」。そこで、左右の者に命じてありったけの珊瑚樹を持ってこさせた。高さが三尺、四尺で、枝ぶりは世に類なく、目に眩いほどに輝くものが、六、七本もあった。のものぐらいなら、いくらでもある。は茫然となって気を失いそうになった。

晋王室の縁続きであったため贅沢三昧が許された王ですが、後世「金持ち」の代名詞ともなった石崇には遉に適わなかったようです。しかしながら、二人の贅沢較べは読んでいてもあまり楽しくはないですね。ところが二人の上を行く贅沢三昧人「王済」(オウセイ)の話が「汰侈篇3」に登場すると紹介されています。

武帝司馬炎が王済の家を訪れた時、王済は全て瑠璃の器を用いて食事を出した。百人を超える侍女は全員があや絹や薄絹の衣装を身につけて、食べ物や飲み物を捧げ持っていた。蒸した豚はよく肥えておいしく、普通の味と違っていた。武帝が不思議に思って、尋ねると、「人間の乳を豚に飲ませて育てたものです」と答えた。武帝はひどく不愉快に思って、食事も終わらぬうちに立ち去った。こうしたことは、王・石崇であっても思いつかないことであった。

上には上がいるというよりも、武帝が立ち去ったように気持ち悪いですよね。人間の乳を豚に飲ませるという発想は奇想天外、ハチャメチャでしょう。お下劣な言葉で「獣姦」と言っていいかもしれません。お金の使いどころが狂っているとしか言えませんな。

キベン、ユウベン、僕ブサメン?=世説新語

「世説新語」が扱うのは三国志の登場人物だけではありません。魏から西晋の時代にエピソードを残した三人の“珍人”を紹介します。いずれも三者三様の特徴で後世に言葉を残しています。本日も明治書院「新書漢文大系21 世説新語」を参考に致しております。

まずは「孫楚」から行きましょう。明治の文豪・夏目漱石の「号」の由来ともなった故事成語、「漱石枕流」の出典です。

孫子荊、年ア)き時、隠れんと欲す。王武子に語るに、当に石に枕し流れにイ)がんとすべきに、誤って曰わく、石に漱ぎ流れに枕せん、と。王曰わく、流れは枕す可く、石は漱ぐ可きか、と。孫曰わく、流れに枕する所以は、其の耳を洗わんと欲すればなり。石に漱ぐ所以は、其の歯を砥がんと欲すればなり、と。(排調篇6)

ア)「少き」=わか・き。「少い」は「わかい」と表外訓み。「すくない」とは違いますよ。送り仮名がちがいますので。「嫩い、夭い、妙い、叔い、稚い」も咸「わかい」。

イ)「漱がん」=すす・がん。「漱ぐ」は「すす・ぐ」。音読みは「ソウ」。「すすぐ」は「滌ぐ、洒ぐ、漑ぐ、浣ぐ、澡ぐ、澣ぐ、濯ぐ、盥ぐ、酳ぐ、雪ぐ」もある。

【解釈】 孫子荊(孫楚)は若いころ、隠棲したいと思っていた。王武子(王済)に語って、「石に枕し流れに漱がん」と言うべきところを、誤って「石に漱ぎ流れに枕せん」と言ってしまった。王武子は言った。「流れに枕したり、石に漱いだりできるものだろうか」。孫子荊は言った。「流れに枕するのは耳を洗うためだ。石に漱ぐのは歯をみがくためだ」。

孫楚(218?~293)の逸話は、負け惜しみが強く、自己の非を素直に認めないで、ひどいこじつけをする類の人を比喩するようになりました。slip of tongue(言い間違え)は誰しもあるべきで、素直に誤りを正せばいいものを、詭弁を弄して無理矢理ストーリーを構築する。そのたくましい想像力はある意味大したものですが、別のところで生かしたらいいという話ですね。

この逸話は元来、「晋書」巻五十六列伝二十六に拠っており、「蒙求」巻上にも「孫楚漱石」として掲載されています。孫楚は四十を越えて鎮西将軍の下役になり、最後は馮翊(ヒョウヨク)の長官まで出世した人です。文才があり秀でていたものの、性格は若いころから拗けていて、陵傲(リョウゴウ=おごること)する点が多かったとされ、地元の評判は今一。若いころのエピソードではありますが、いけすかない奴だったのは間違いないですね。

ちなみに、言い間違えて「耳を洗うため」という件は、前々回紹介した「許由(キョユウ)」の故事を踏まえている。許由は、堯帝から帝位を譲ると言われたことを穢らわしい話を聞いてしまったとして、潁川の水で耳を洗った。ちょっとした言い間違えをすかさず伝説の高潔の士の故事と重ねる孫楚の機転の巧みさは大したものです。シニカルながらのウィットには富んでいると言えるでしょう。

詭弁も単なる苦しい言い訳に終わっていないからこそ、現代にまでその名が残っているのでしょうし、漱石も号に望んだのでしょうね。ただ、石で歯を磨くのはよう分かりませんが……。ぼろぼろになりまっせ、正味な話。

次に「郭象」。これは短い。

王太尉云う、郭子玄の語議は、1)ケンガの水をウ)ぐが如く、注ぐもエ)きず、と。(賞誉篇32)

1)「ケンガ」=懸河。川を上からつり下げたように、流れの勢いが激しいこと。県河とも書く。「懸河の弁」が成句で、「川の水がとうとうと流れるようなよどみない弁舌」。「懸~」の熟語は案外いろいろなものがあります。懸崖(ケンガイ=断崖、崖っ縁)、懸隔(ケンカク=へだたり)、懸空(ケンクウ=架空、空理空論)、懸磬(ケンケイ=家の中に何もないこと)、懸弧(ケンコ=男子の誕生、男子が生まれると桑で作った弧ゆみを門にかけて祝ったことから)、懸衡(ケンコウ=勢力が拮抗しているさま)、懸車(ケンシャ=退官、七十歳)、懸鶉(ケンジュン=破れた衣の譬え)、懸泉(ケンセン=滝、懸溜、懸瀬、懸瀑、懸湍)、懸想(ケソウ=惚れること)、懸榻(ケントウ=珍客)、懸旆(ケンハイ=たれさがった旗、心が動揺すること)=懸旌、懸疣(ケンユウ=こぶやいぼ、無駄)、懸梁(ケンリョウ=苦学)。

ウ)「写ぐ」=そそ・ぐ。表外訓みですがこれは難問。「そそぐ」は「注ぐ、澆ぐ、濯ぐ、雪ぐ、灌ぐ、濺ぐ、灑ぐ、沃ぐ、淋ぐ、溲ぐ、喞ぐ、洒ぐ、淙ぐ、溌ぐ、漑ぐ、盥ぐ、瀉ぐ、瀝ぐ」も。↑「すすぐ」との比較で、「すすぐ」⊂「そそぐ」という集合関係にあることが分かります。

エ)「竭きず」=つ・きず。「竭きる」は「つ・きる」。音読みは「ケツ」。竭力(ケツリョク=尽力)、竭歓(ケッカン、カンをつくす=非常によろこび楽しむこと)、竭蹶(ケッケツ=喘ぎ転びつ急ぐさま、力不足だが努力はすること)、竭尽(ケツジン=すべてを使い切る、蕩尽)、竭誠(ケッセイ、まことをつくす=真心を出し尽くす)。

【解釈】 王太尉(王衍)が言った。「郭子玄(郭象)の議論は、まるで滔滔たる大河の水を切って落としたようで、いくら注いでも尽きることがない」。

有名な故事成語である「懸河の弁」の出典です。郭象(カクショウ、字は子玄、252~312)は、老荘の学に精通し、「郭象注荘子」の著を以て知られています。ただ、この「郭象注荘子」については、郭象が、未完のままであった向秀(ショウシュウ、竹林の七賢の一人)の注釈を盗作して完成したものと伝えられています。「世説新語・文学篇17」でその経緯が書かれています。いずれ取り上げることとします。郭象の名誉にかかわることですが、いつの世も著作物の盗作騒ぎは尽きませんなぁ。桑原桑原。。。

最後に「潘岳」。ジャニーズ張りの美男子だったようです。

潘岳は妙に姿容有りて、神情好し。少き時、弾を挟んで洛陽の道に出ずるに、婦人の遇う者、手を連ねて共に之にオ)わざる莫し。左太沖はカ)だ醜し。亦復た岳にキ)って2)ユウゴウす。是に於て群3)オウ斉しく共に之に乱4)し、5)イトンして返る。(容止篇7)

2)「ユウゴウ」=遊遨(敖)。楽しんで歩きまわる。気ままに遊び楽しむ。

3)「オウ」=嫗。おうな。お婆のこと。対義語は叟、翁。

4)「ダ」=唾。つばき、つば。乱「打」ではない。意外に難問。

5)「イトン」=委頓。ぐったりと力が抜けること、気力などが衰え弱ること。「委」は「だらりと落ちてそのままである」という意。金持ちの代名詞である「猗頓之富」(イトンノトミ)の「猗頓」とは違うので注意しましょう。

オ)「縈わざる」=まと・わざる。「縈」は配当外で「まとう」。音は「エイ」。縈紆(エイウ=くねくねと曲がりくねる)、縈回(エイカイ=ぐるぐると曲がりめぐる、縈繞エイジョウ)、縈胸(エイキョウ=こころにわだかまって離れない)、縈青繚白(エイセイリョウハク=周囲を緑の山に囲まれ清らかな水がめぐって流れている好景色)、縈帯(エイタイ=くねくねとめぐりとりまくさま)、縈抱(エイホウ=だきかかえるように取り巻くこと)。

カ)「絶だ」=はなは・だ。表外訓み。非常に。「はなはだ」はほかに「太だ、甚だ、孔だ、已だ、很だ、狠だ、苦だ」。

キ)「効って」=なら・って。「効う」は「ならう」。表外訓み。「ならう」はほかに、「倣う、傚う、嫺う、嫻う、狃う、肄う、閑う」。

【解釈】 潘岳は、容姿がまことに美しく、なんともいえぬ風情があった。若い時、はじき弓を小脇に抱えて洛陽の道に出ると、出会った女たちは皆手をつないで彼を取り巻いた。左太沖(左思)は、はなはだ醜かったが、彼も潘岳の真似をして遊びに出掛けた。すると婆さんたちがいっせいにやたらと唾を吐きかけたので、すっかりしょげて帰った。

潘岳(ハンガク、247~300)の名は後世、美男子の代名詞として文学作品に登場し、その字が「安仁」であったことから「潘安」と省略して記したり、「潘郎」と記したりしました。

「晋書」潘岳伝には、彼が洛陽の町を車で通ると女性は果物を投げつけ果物で車がいっぱいになるという故事が書かれています。漢検1級受験者なら必須四字熟語である「擲果満車」(テキカマンシャ=美少年)の主役の人物ですね。

このほかにも、「三国志演義」と並び中国四大奇書の一つ、明代の「金瓶梅」の主人公西門慶(セイモンケイ)が初めて登場する第2回には次のような一節があります。

張生(元代の戯曲「西廂記」の主人公)のような顔、潘安のような容貌が、いかにも意にかなった、風流士然とした男ぶりであった。

このように二枚目、今ならイケメンとして知られる潘岳。なんと文学的才能にも恵まれていたようです。この逸話に登場するもう一人の主人公、左思らとともに晋の元康時代(291~299)の文壇を賑わせたとあります。

そうそう、忘れておりましたがブサメン、左思くん(敢えてくん付け)。婆さんから唾を吐きかけられるとは何とまあ無体な話です。そりゃあ悄気て帰るよなぁ。ただ不細工なだけなのに。いや、訥弁でもあったようです。にしても不細工って罪なの??あんまりだよ。唾なら婆さんじゃなくてせめて美女のをかけてくれぇ~~~???

かわいそうな左思くんのために一つだけフォローをしておきましょう。

「洛陽紙価」(ラクヨウのシカ)という故事成語はご存知でしょう。著書が世に持て囃されて好く売れること。これの由来が左思くんなんです。「晋書」左思伝によると、彼は賦に巧みで、その作品「三都賦」が傑作であったため、洛陽の人々の評判が立ち、挙ってこの作品を書写した。このため紙不足が生じて紙の値段が急騰したとあります。。

洛陽の 紙価高からしむ 唾の借り

人間何かしら取り柄や才能があるものです。諦めるな~。人生の評価・決着は死ぬときまでできないからね。蓋棺事定(ガイカンジテイ)ですよ。日々、精進あるのみ。左思くんから学びませう。

♪「爾」と呼べぇ~ば、「汝」と答えるっ♪=世説新語

本日の「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)シリーズは「呉」国の孫皓(242~283)から。三国志では「孫晧」ですが、呉の孫権の太子であった孫和(ソンカ)の息子で、孫林(景帝)のあとを承けて帝位に就きました。晋の武帝司馬炎により国を滅ぼされ、投降して帰命侯に封ぜられました。

晋の武帝、孫皓に問う、聞く、南人は好んで1)ジジョの歌を作る、と。ア)る能く為すや否や、と。皓、正に酒を飲む。因りて2)サカズキを挙げて帝に勧めて曰わく、昔は3)ナンジと隣為り、今はナンジと臣たり。ナンジに一杯の酒を上る、ナンジが寿をして4)バンシュンならしめん、と。帝、之を悔ゆ。(排調篇5)

1)「ジジョ」=爾汝。人を軽んじたり、なれなれしくしたりして呼ぶときのことば。おまえ。爾汝交(ジジョのまじわり)は「お互いにきみ、おまえと呼べるような親しい交際」。「爾」は「なんじ」。爾汝は既出です()。

2)「サカズキ」=觴。「さかずき」はほかに「盃、杯、卮、巵、爵、盞、觚、鍾」があり、それぞれ微妙に形態や大きさ、用途などが異なります。調べて整理しておこう。

3)「ナンジ」=汝。↑1)「ジジョ」の「汝」。これも「おまえ」。汝曹(ジョソウ、なんじがともがら=おまえたち)。「なんじ」はほかに、「若、乃、女、廼、迺」がある。

4)「バンシュン」=万春。これは引っ掛け問題。晩春ではないので要注意です。永遠なる春のこと。万福(バンプク=たくさんの幸い、祝いのときのあいさつのことば)や「万寿」(バンジュ=長息を祝うときのことば)などと近い意味でしょう。

ア)「頗る」=すこぶ・る。非常に、かなり。予想や常態より数量・程度が多い様子を表す。音読みは「ハ」。偏頗(ヘンパ)、頗偏(ハヘン)、頗側(ハソク)はいずれも、「正常の線からずれて一方にかたよっていること、かたより、不公平」という意。

【解釈】 晋の武帝(司馬炎)が孫皓にたずねた。「南方の人は好んで『爾汝(おまえ)の歌』を作ると聞いているが、少しはできるかね」。皓はちょうど酒を飲んでいたので、杯をあげて帝にすすめて言った。「昔はお前の隣り人、今じゃお前の臣となる。お前にささげる酒一杯。お前の齢万々年」。帝は後悔した。


孫皓が投降したシーンは「三国志演義」第120回では次のように描かれています。「通俗三国志」からの引用です。征服者と被征服者とが舌戦で火花を散らす緊迫感に溢れています。これも一部問題にしておきます。

太康元年夏五月、江南ことごとく定まりければ、王濬(オウシュン)イ)を収て洛陽へ回り、孫皓を引て天子に見しむ。晋帝(司馬炎)坐を賜て、「朕この座を設て卿(なんじ)を待こと久し」と宣いければ、孫皓答て申けるは、「臣も南方に於て此座を設て陛下を待こと久しかりき」。晋帝大に笑いければ、賈充(カジュウ)傍に在て問て曰、「孫皓、呉に在て人の面を剥、或は眼をウ)れりと聞しが、如何なる罪をか此の如くは罰し給いし」。孫皓答て、「人の臣として君をエ)し、5)カンネイにして不忠なる者を、皆此の如く刑を用う」と云ければ、賈充心オ)て赤面す。晋帝酒宴を設て呉の君臣を持成、孫皓を帰命侯に封じ……

答えだけ簡単に。5)「カンネイ」=奸佞(姦佞)。奸佞邪智を忘れずに。イ)「師」=いくさ。表外訓み。ウ)「鑿れり」=「くじ・れり」。「うがつ」の方が一般的でしょう。エ)「弑し」=ころ・し。音で読めば「シイし」。オ)「羞」=はじ。羞じる。

太康は西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号(280~289年)です。

武帝の腹心である賈充が暗に孫皓の暴政を詰る問いを発し、これにすかさず孫皓が「臣下が主を滅ぼす不忠こそ暴政である」と切り返すあたりは、世説新語の逸話に盛り込まれた「爾汝の歌」の皮肉な内容に通じていると思います。

帝に対して絶対に使うことのできない「お前」を繰り返して諷る孫皓に対して、呉を小馬鹿にしようとした武帝が「歌わせなければよかった」とちょっぴり後悔するシーンが笑えます。「爾汝の歌」は当時、江南地方で流行していた民歌で、孫皓の歌に「汝」という語が織り込まれているように、歌中に「お前」という言葉が歌い込まれていると思われますが、実際にどのようなものだったかは伝わっていません。ですから、この孫皓の詩は貴重な資料と言えるでしょう。

「好好先生」は高潔の士がお好み=世説新語

本日の世説新語(明治書院「新書漢文大系21」)からは、蜀の司馬徽(シバキ、?~?)を紹介します。「三国志」諸葛亮伝の裴松之注によれば、蜀の劉備に、諸葛亮と龐統(ホウトウ、ここでは龐士元)を推挙したのが司馬徳操(司馬徽)です。いわゆる「伏竜鳳雛」(伏竜=諸葛亮、鳳雛=龐統)という四字熟語の出典となった故事を残していますが、これはまた別の機会に。。。

今回取り上げた逸話は少し長めで、語彙も豊富。必ずしも漢検1級配当漢字ではないものの特別な意味が込められた言葉が多い。言わんとする教訓も現代社会でこそ通用するもの。高潔の士を引き合いに出して「清貧」の有用性を説いている。今の政治家、官僚にそのまんま贈る言葉です。

南郡の龐士元(ホウシゲン)、司馬徳操の潁川(エイセン、川の名)に在るを聞き、ア)に二千里を候す。至れば、徳操の桑を采るに遇い、士元車中従り謂いて曰わく、吾聞く、丈夫世に処するに、当に金を帯び紫をイ)ぶべし、と。焉んぞ1)コウリュウの量を屈して、2)シフの事を執ること有らんや、と。徳操曰わく、子且く車より下りよ。子はウ)だ3)ジャケイの速きを知るのみにして、道を失うの迷いを慮らず。昔伯成は4)グウコウし、諸侯の栄を慕わず。原憲は5)ソウスウにあり、有官の宅に易えず。何ぞ坐するに則ち6)カオク、行くに則ち7)ヒバ、侍女数十なること有りて、然る後奇と為さんや。此れ乃ち許父の8)コウガイする所以、夷斉の9)チョウタンする所以なり。窃秦の爵、千10)の富有りと雖も、貴ぶに足らざるなり、と。士元曰わく、僕生まれて11)ヘンスイに出て、大義を見ること寡なし。若し一たび12)コウショウを叩き、13)ライコを伐たざれば、則ち其の音響を識らざりしならん、と。(言語篇9)

1)「コウリュウ」=洪流。大水のこと。「洪」は「おおきい」「おおい」という意味。洪勲(コウクン=おおきなてがら)、洪緒(コウショ=おおきな事業)、洪繊(コウセン=おおきいものとちいさいもの=洪細)、洪濤(コウトウ=おおなみ=洪瀾コウラン)、洪伐(コウバツ=大功)、洪範(コウハン=自然と人生のきまり→洪範九疇コウハンキュウチュウ)、洪覆(コウフウ=天子の大いなる恩み、読み問題注意)。

2)「シフ」=糸婦。紡績や裁縫の仕事をする婦人のこと。糸事(シゴト)といえば、紡績や裁縫の仕事のこと。糸帛(シハク=絹糸と絹織物)、糸鞋(シアイ=糸で編んだくつ、糸履シリ)、糸涙(シルイ=糸のように細い涙)。

3)「ジャケイ」=邪径。まっすぐでない曲がりくねった小道。正しくない心や行為の喩え。正しくないがゆえに正しい道よりも近道なのです。そう言えば「邪路」(ジャロ)という言い方もありましたね。漢書・五行志に「邪径は良田を敗り、讒口は善人を乱す」(焦って正しくない方法では折角の田圃がだめになる、人落とし入れる讒言は折角の人物がだめになる)があります。

4)「グウコウ」=耦耕。二人が並んで耕すこと。「耦」は「二人並んで耕す」。耦語(グウゴ=むかいあってひそひそ話す)、耦国(グウコク=臣下の治めている国が主君の国と双ぶくらい大きいこと)、耦刺(グウシ=二人で互いに刺し違えて死ぬ)。

5)「ソウスウ」=桑枢。貧しく粗末な家の形容。甕牖縄枢(オウユウジョウスウ)、甕牖桑枢(オウユウソウスウ)。「枢」は「とぼそ」と訓み、戸の開閉をする軸の部分。ここが桑の枝を用いていることから粗末な家を表す。これは稍難問。

6)「カオク」=華屋。派手な家。家屋といきたいところですが、文意を考えれば。。。

7)「ヒバ」=肥馬。肥えた立派な馬、富貴なさまを表しており、転じて金持ち。軽裘肥馬(ケイキュウヒバ=富貴な人の外出の装い)を想起してください。

8)「コウガイ」=慷慨(慷愾)。感情が高まってなげくこと。悲憤慷慨(ヒフンコウガイ)。

9)「チョウタン」=長歎(長嘆)。長くためいきをついてなげく。長息(チョウソク)、長吁(チョウウ)ともいう。長短ではないので念のため。

10)「シ」=駟。四頭立ての馬車、あるいは馬四頭のこと。千駟(センシ)でそれだけ馬車や馬がたくさんある金持ちという譬え。十駟は馬四十頭。駟介(シカイ=よろいで武装した、四頭立ての馬車の馬)→駟介旁旁(シカイホウホウ、シカイボウボウ=詩経・鄭風・清人に出典がある、よろいを装備した四頭立ての馬の引く戦車が戦場を駆け巡る様子)、駟過隙(シゲキをすぐ=月日の経過がはやいことに譬える)、駟馬(シバ=四頭立ての馬車、その四頭の馬)、「駟不及舌」(シもしたにおよばず=言葉を慎むことの警め、綸言汗の如し)。

11)「ヘンスイ」=辺垂(辺陲)。国のはて、国境付近の片田舎。辺陬(ヘンスウ)、僻陬(ヘキスウ)、辺鄙(ヘンピ)ともいう。同義語問題に要注意か。「陲」は「ほとり」「さかい」とも訓む。

12)「コウショウ」=洪鐘。↑1)参照。「洪」は大きい。大きい鐘の音。

13)「ライコ」=雷鼓。太鼓の一種。八つの面がある。太鼓を鳴らし轟かせること。

ア)「故に」=ことさら・に。わざわざ、わけあって。ここは文意から「ゆえに」ではないので要注意。わざわざ遠い距離を遇いに来たのには深いわけがあるのだというニュアンス。

イ)「佩ぶ」=お・ぶ。「佩びる」は「おびる」。身につけるという意。「おびだま」の訓みもある。音読みは「ハイ」。佩韋佩弦(ハイイハイゲン=韋弦之佩イゲンノハイ、自分の性格を改めて修養しようと戒めのための物を身につけること)、佩環(ハイカン=佩玉ハイギョク)、佩綬(ハイジュ=印綬を身につける、転じて官職に就くこと)、佩刀(ハイトウ=佩剣ハイケン、刀を腰につける)、佩服(ハイフク=感服する、好く覚えて置く)=感佩(カンパイ)。

ウ)「適だ」=た・だ。「たまたま」「たとい~とも」の訓みもあるが、ここでは文意から「ただ~のみ」と漢文訓読の語法で訓む。限定の意を示す。


【解釈】 南郡の龐士元(龐統)は司馬徳操(司馬徽)が潁川にいると聞き、わざわざ、二千里の道を訪ねて行った。着くと、ちょうど徳操は桑を摘んでいるところであった。士元が車中から言葉をかけた。「男子たる者この世に処しては金印紫綬を帯びるべきもの、と聞いております。どうして立派な器量を持ちながら、糸を操る女のような仕事をなさることがありましょうか」。徳操は答えた。「まあ車を降りなさい。あなたはただ小道を行く速さを知るだけで、道に踏み迷うことを考えない。昔、伯成は二人で畑を耕しながら、諸侯の栄誉を望まず、原憲は桑の枢のあばら家に住みながら、役人の邸に移り住もうとはしなかった。どうして住むのに豪華な邸、出かけるのに肥えた馬、侍女の数十人あって、初めて立派であると言えようか。これこそ許由・巣父が慷慨し、伯夷・叔斉が長嘆したゆえんだよ。秦から窃みとった爵位や馬千乗の富があったとしても、貴ぶには足るまい」。士元が言った。「わたくしは辺鄙な田舎に生まれたため、大義に接することがほとんどなく、もし、いちど大鐘を叩き、雷鼓を打ってみなければ、その響きの大きさは分からなかったでしょう」。

司馬徳操は何事においても「好好(ハオハオ)」(ごもっとも、仰せの通りで)というのが口癖であったらしく、世に「好好先生」と呼ばれたことが、明の馮夢竜(フウボウリュウ)「古今譚概」、清の雍翟灝(テキコウ)「通俗編」品目篇などに見えます。また「蒙求」巻上にも「司馬称好」として同王のエピソードが載せられています。

【おまけ】
折角ですから、司馬徳操が名前を挙げた高潔の士を説明しておきます。いずれも漢検本番でいつ出ても可笑しくないでしょう(いや、もう既に出ているかも)。

伯成(ハクセイ)=伯成子高。「荘子・天地篇」に登場する人物で、岩波文庫から引用しますと、「尭の天下を治むるや、伯成子高、立ちて諸侯と為る。堯の舜に授け、舜の禹に授くるや、伯成子高、諸侯たることを辞して耕す。禹、往きてこれを見れば、則ち耕して野に在り。禹、趨りて下風に就き、而して焉れに問いて曰わく、昔、堯の天下を治めむるや、吾子立ちて諸侯と為る。堯の舜に授け、舜の予れに授けてより、吾子は諸侯たるを辞して耕す。敢えて問う、其の故何ぞやと」とある。尭・舜から禹に代替わりした途端に諸侯をやめた伯成。納得のいかない禹にその訳を問われた答えは、「昔、尭の天下を治むるや、賞せずして民勧み、罰せずして民畏る。今、子は賞罰し、而して民は且に不仁ならんとす。徳は此れより衰え、刑は此れより立ち、後世の乱は此れより始まらん。夫子闔(な)んぞ行かざる。吾が事を落(とど)むるなかれ」。深いなぁ。。。賞罰などなくても民が耕作に励み、国を敬った時代だったが、あなたの御代になって様変わりしてしまった。賞罰は民を不道徳に陥れるのですよ。後世の乱れもあなたの代から始まるのでしょうね。。。

原憲(ゲンケン)=孔子の弟子の一人。「論語」にも見える。字は子思。清貧に安んじた人として有名。原憲の貧(ゲンケンのヒン)という成句は「人柄が潔白で無欲なために貧乏していること、清貧のたとえ」。「荘子」譲王篇が出典。「原憲、魯に居る。環堵(一丈四方の狭い部屋)の室、茨くに生草を以てし、蓬戸完からず、桑以て枢と為し、而して甕牖(割れて底のない甕をはめ込んで明かりとりの牖にした粗末な部屋)の二室は、褐以て塞と為す。上は漏り下は湿るも、匡坐して弦歌す。子貢、大馬に乗り、紺を中にし、素を表にし、軒車(貴人の乗る高く大きな車)は巷に容らず、往きて原憲を見る。原憲、華冠「糸+徙」履(カカンシリ=破れた冠とかかとのなくなった履き物)にて、藜を杖つきて門に応ず。子貢曰わく、嘻、先生何ぞ病れたるやと。原憲これに応じて曰わく、憲これを聞けり。財なきをこれを貧と謂い、学んで行なう能わざるをこれを病る謂うと。今、憲は貧なり、病るるに非ざるなりと。子貢逡巡して愧ずる色あり。原憲笑いて曰わく、夫れ世に希めて行ない、比周して友たり、学は以て人の為めにし、教えは以て己れ為めし、仁義をこれ慝(よこしま)にし、輿馬をこれ飾るは、憲は為すに忍びざるなりと」。

許由・巣父(キョユウ・ソウホ)=ともに伝説上の高潔の士。栄達や高位を嫌う譬え。また、ひとり行いを清くする譬え。漢検四字熟語辞典にもこのまま四字熟語として載っています。成語林によると、「許由・巣父は二人とも尭帝から天下を譲ろうと言われても、受けなかった。許由は、尭帝の申し出を汚れたこととして「潁川」(エイセン)でその耳を洗っていたが、そこに巣父がやって来て、その理由を聞き、そんな汚れた水は引いてきた牛にも飲ませることはできないと言って引き返したという」。「流れに耳を洗う」、「許由耳を洗えば巣父牛を引いて帰る」ともいう。

伯夷・叔斉(ハクイ・シュクセイ)=周代初めの兄弟。殷の孤竹君の息子。これも漢検四字熟語辞典に四字熟語として掲載。父は弟の叔斉を跡継ぎにしようとしたが、叔斉は兄の伯夷と譲り合って国を去り、文王を慕って周にいった。のち、周の武王が殷の紂王を討つときいさめたが、聞き入れられなかったため、二人とも首陽山で餓死した。清廉な人物の代表とされる。采薇歌(サイビのうた)を残している。

土井晩翠も詠んだ諸葛亮が司馬懿に贈った「キンカク」=世説新語

弊blogの世説新語シリーズでは三国のうち「魏」関連の人物が続いていますが、本日は「蜀」の国から、劉備が三顧の礼を尽して迎えた丞相の「諸葛亮」(字は孔明、181~234)を取り上げます。後世、名軍師と称され、劉備、劉禅の親子に仕えました。

諸葛亮の渭浜にア)るや、関中震動す。魏の明帝深く晋の宣王の戦わんことを懼れ、乃ち辛毗(シンピ)を遣わして軍の司馬と為す。宣王既に亮と渭に対して陣し、亮イ)誘譎を設くること万方なり。宣王果たして大いにウ)忿り、将に之に応ずるに重兵を以てせんと欲す。亮1)カンチョウを遣わして之をエ)わしむ。還りて曰わく、一老父有り、毅然として2)コウエツに仗り、軍門に当たりて立つ。軍出ずるを得ず、と。亮曰わく、此れ必ず辛佐治なり、と。(方正篇5)

1)「カンチョウ」=間諜。敵情を探るスパイのこと。忍びの者。努々「浣腸」を想起しないように。。。間使(カンシ)、間人(カンジン)、間者(カンジャ)、諜人(チョウジン)、諜者(チョウシャ)、諜候(チョウコウ)ともいう。「間」も「諜」ともに「間う(うかが・う)」「諜う(うかが・う)」と動詞として「スパイする」の意もあります。↓ウ)「覘う」も同様の意があり。

2)「コウエツ」=黄鉞。黄金で飾ったまさかり。天子が征伐に出かける時のしるしとして用いた。後に、天子の護衛兵を指すようになった。「仗り」は「よ・り」。ここではそのまさかりを杖代わりについてという意。老人ですから。

ア)「次る」=やど・る。表外読みです。宿る、軍隊が一泊するの意。ぜひとも覚えておきましょう。

イ)「誘譎」=ユウケツ。だましてそそのかすこと。稍難しい言葉です。「譎」は「いつわる」とも訓む。譎詐(ケッサ=譎詭、譎欺)、譎怪(ケッカイ=あやしい)、譎諫(ケッカン=遠まわしにいさめる)、譎妄(ケツモウ=手の込んだうそ)、譎謀(ケツボウ=だますこと=譎数ケッスウ、譎計ケッケイ)。

ウ)「忿り」=いか・り。「忿る」は「いか・る」。音読みは「フン」。忿然(フンゼン=ぷんぷんおこっているさま)、忿怒(フンヌ、フンド=ぷんぷんおこる)、忿忿(フンプン=激しいいかり)、忿戻(フンレイ=かっとして乱暴に人と争う)、忿(フンレイ=激しくおこること)、不忿(フフン=納得がいかずいまいましい、唐代の俗語)。

エ)「覘わしむ」=うかが・わしむ。「覘う」は「うかが・う」。音読みは「テン」。覘候(テンコウ=じっくりとさぐりうかがう)、覘望(テンボウ=うかがい望む、遠くから様子を見る)。「うかがう」はこのほかに、伺う、俔う、候う、偵う、斥う、睨う、覗う、遉う、闖う。

【解釈】 諸葛亮が渭水のほとりに陣取ると、関中は大騒ぎになった。魏の明帝(曹叡)は、晋の宣帝(司馬懿)が陣を出て戦うことを大変心配し、そこで辛毗を遣って軍の司馬とした。司馬懿は亮と渭水をはさんで対陣していたが、亮はありとあらゆる挑発をした。司馬懿は果たして大いに憤り、大軍をもって応戦しようとした。亮が間諜を放って敵を探らせると、帰ってきて言った。「一人の老人が毅然とした態度で黄金の鉞をついて、軍門に立ちはだかっていますので、敵軍は出動できません」と。亮は言った。「それはきっと辛佐治だ」と。

このエピソードは、建興5年(234)に渭水の南で諸葛亮と司馬懿(後の晋の宣王)の率いる魏軍とが戦いを交えた、所謂「五丈原の戦」(ゴジョウゲンのいくさ)を舞台としています。戦いに応じようとしない司馬懿に、諸葛亮が巾幗(キンカク)を送り付けた(世説新語では誘譎を設くる、となっている)ことが、「三国志」魏書・明帝紀の裴松之注、「晋書」宣帝紀、「蒙求」巻下「亮遺巾幗」に見えます。

明治の詩人土井晩翠もその詩集「天地有情」に収めた長篇詩「星落秋風五丈原」の一節で、


拒ぐは たそや敵の軍、
かれ 中原の一奇才
韜略深く 密ながら
君に向はん すべぞなき、
納めも受けむ 贈られし
素衣巾幗のあなどりも、
陣を堅うし手を束ね
魏軍 守りて出ざりき。


と詠じております。この詩の全文はmixi日記に掲載しております。IDのある方はlink(mixi)からどうぞ。かなりの長編ですが、漢検1級語彙が目白押し。諸葛亮にまつわる語彙もあちこちに散りばめられており、三国志の勉強でも大いに役立つはずです。いつの日か弊blog本編で取り上げてもいいかもしれません。

「巾幗」はいかにも漢検試験の書き問題で出そうな言葉で(いや既に何度か出題されているはずです、今後も要注意という意味)、「女性の頭巾と髪飾り、転じて女性そのもの」。諸葛亮が司馬懿に送り付けたその意図は、戦に応じない司馬懿を「それでも男か、女々しい、女みたいだ」と揶揄して、激昂させることにありました。つまり挑発です。「幗り」は一字で「かみかざ・り」とも訓みます。

果たせる哉、司馬懿は諸葛亮の誘いに乗って兵を率いて出ようとします。ところが、辛毗(字は佐治)が軍門に鉞(まさかり)を持って立ちふさがっていたため出陣できませんでした。このほか、「魏志」辛毗伝には、諫めを聞き入れようとしない魏の文帝曹丕が、そのまま内裏に入ろうとするのを、辛毗がその裾を引きとどめてなおも諌め続けた逸話(「蒙求」巻上には「辛毗引裾」として載る)もあり、辛毗は剛直で気骨ある人物だったことが窺われます。この逸話は辛毗のそうした人柄を髣髴とさせるものと言えましょう。。。。って諸葛亮のことよりも辛毗がメインになっちゃいましたね

「鶏肋」の真相は?気が利き過ぎると命取りに=世説新語

本日の「世説新語」(明治書院・新書漢文大系21、目加田誠著、長尾直茂編)からは、魏の武帝・曹操に仕えた家臣「楊脩」(175~219)の逸話を一挙に4つ紹介します。切れ者のこの男は三男の曹植の家庭教師役も務めており、それがもとで曹操から殺されてしまいます。「出る杭は打たれる」―。“切れ”すぎるがゆえに自身をも“切って”しまった。この逸話のなかで三番目に出てくる「黄絹・幼婦・外孫・韲臼」の件は、弊blogでも以前取り上げたこと(ここ)があります。

楊徳祖とは楊脩のこと。

【1】 楊徳祖、魏武の主簿為り。時に相国の門を作り、始めて1)スイカクを構う。魏武自ら出でて看、人をして門に題して活の字を作らしめて、便ち去る。楊見て、即ち之を壊たしめ、既にア)わりて曰わく、門中の活は闊の字なり。王正に門の大なるを嫌うなり、と。(捷悟篇1)

1)「スイカク」=榱桷。たるき。屋根の裏板を支えるために、棟から軒に渡す横木のことです。榱椽(スイテン)ともいう。「榱」は丸いたるき、「桷」は四角いたるき。

ア)「竟わり」=お・わり。音読みは「キョウ」。竟日(キョウジツ=終日)、竟夕(キョウセキ=終夜)、竟内(ケイダイ=一定区域内=境内)。

主簿とは漢代の官名で記録や文書をつかさどった。

【解釈】 楊徳祖(楊脩)は魏の武帝(曹操)の主簿であった。そのころ丞相府の門が建造され、「たるき」が組み上がった。武帝は自らそれを見に出かけ、人に命じて門の扁額に「活」の字を書かせて、そのまま立ち去った。楊はそれを見ると、即刻門を取り壊させ、壊し終わるとこう言った。「門の中に活の字を書けば闊の字になる。王は門の大きいのがお嫌いなのだ」。

【2】 人、魏武に一盃のイ)をウ)る。魏武噉うこと少許にして、蓋頭上に合の字を題し、以て衆に示す。衆能く解するもの莫し。次いで楊脩に至る。脩便ち噉いて曰わく、公、人をして一口を噉わしむるなり。復た何ぞ疑わん、と。(捷悟篇2)

イ)「酪」=ちちしる。ウシやヒツジなどの乳で作ったヨーグルト。乾酪(カンラク=チーズ)、酪漿(ラクショウ=牛や羊の乳)。

ウ)「餉る」=おく・る。音読みは「ショウ」。餉遺(ショウイ=贈り物)、餉饋・餉餽(ショウキ=軍隊などの食糧)、餉給(ショウキュウ=軍隊の給与)、餉時(ショウジ=食事をする程の短い時間)。「かれいい」の訓みもある。「おくる」はほかに、「餽る」「餞る」「帰る」「詒る」「貽る」「賻る」「輸る」「饋る」。


【解釈】 ある人が魏の武帝(曹操)に一杯の酪を贈った。武帝は少しばかり飲むと、蓋の上に「合」の字を書いて一座の人々に示した。人々はその意を解することができなかった。順番が楊脩に回ってくると、脩はすぐさま飲んで言った。「公は皆の者に一口ずつ飲まそうとなさっておいでなのだ。何もためらうことはないぞ」。

【3】 魏武嘗て曹娥碑の下を過ぐ。楊脩従う。碑背上に題して黄絹・幼婦・外孫・エ)韲臼の八字を作るを見る。魏武、脩に謂いて曰わく、解するや否や、と。答えて曰わく、解せりと。魏武曰く、卿未だ言う可からず、我の之を思うを待て、と。行くこと三十里、魏武乃ち曰わく、吾已に得たり、と。脩をして別に知る所を記さしむ。脩曰わく、黄絹は色糸なり、字に於て絶と為す。幼婦は少女なり、字に於て妙と為す。外孫は女子なり、字に於て好と為す。韲臼は辛を受くるなり、字に於て辞と為す。所謂絶妙好辞なり、と。魏武も亦之を記すこと、脩と同じ。乃ち歎じて曰わく、我が才卿に及ばざること、乃ち三十里なるを覚ゆ、と(捷悟3)

エ)「韲臼」=セイキュウ。あえものをまぜるうす。正確に言うと、本文では「韲」ではありません。説明が難しいので省きますが、異体字でしたので「韲」を用いました。「あえもの」。

【解釈】 魏の武帝(曹操)が、ある時、曹娥碑のもとを過ぎたが、楊脩も付き従っていた。碑の背に黄絹・幼婦・外孫・韲臼(セイキュウ)の八字がしるされているのを見て、武帝が脩に言った。「分かるかね」。脩が「分かります」と答えると、武帝が言った。「君はそれをまだ言ってはならぬ。わしが考えるまで待っておれ」。三十里ほど行ったところで、武帝は言った。「よし、わしにも分かったぞ」。そこで脩に別に解答を書かせた。脩の答えに曰わく、「黄絹は色糸です。文字にすると絶になります。幼婦は少女です。文字にすると妙になります。外孫は女(むすめ)の子です。文字にすると好になります。韲臼は辛を受け入れるものです。文字にすると辞(辤)になります。つまり絶妙好辞という意味です」。武帝もまた自分で書いたが、脩と同じであった。そこで感嘆して言った。「わしの才能が君に及ばぬこと、三十里であることが今にして分かったわい」。

【4】 魏武、袁本初を征せんとして、治装の余、数十2)コクの竹片有り。オ)長さ数寸。衆云う、並びに用うるに堪えず、と。正に焼除せしめんとす。太祖、之を用うる所以を思い、カ)えらく、竹椑楯(チクヘイジュン=竹の楯)を為る可し、と。而れども未だ其の言を顕らかにせず。使いを馳せて主簿楊徳祖に問う。声に応じて之に答うるに、帝の心と同じ。衆、其の弁悟に伏す。(捷悟4)

2)「コク」=斛。容量の単位。昔の一斛は十斗で、周代には19・4リットル。隋・唐代には約59リットル。宋代以後は五斗で、約48リットル。

オ)「咸」=みな。音読みは「カン」。咸京(カンケイ=秦の都、咸陽のこと、また、長安を指すこともある)、咸池(カンチ=天の神)、咸陽・咸陽宮・咸陽橋。

カ)「謂えらく」=おも・えらく。「謂」は「おもう」「いう」。所謂は「いわゆる」、以謂は「おもえらく」(以為らく)。

【解釈】 魏の武帝(曹操)が袁本初(袁紹)を討とうとして、軍装を整えた時、数十斛の竹片が余った。すべて長さ数寸である。人々は「まるで役に立たない」と言って、焼かせようとした。太祖(曹操)はその使い道を考えて竹の楯を作ればよいと思ったが、なお口には出さなかった。そして使者を急がせて主簿楊徳祖(楊脩)にたずねさせると、たちどころに答えたが、それは帝の考えと同じであった。人々はその悟りの速さに感服した。

さまざまなエピソードがありますね。このうち、曹操が門に「活」と書いた逸話と盒に「合(合=人+一+口で、一人一口ずつ)」と書いた逸話の二つは、「三国志演義」第72回に巧みに採り入れられています。演義の中では楊脩は、才能がありながら放埒な振る舞いが多く、それゆえに曹操に忌まれて処刑されたことになっています。そのきっかけが、以下の「鶏肋」事件。これは「後漢書」楊脩伝などに見えているものですが、これも演義で作者・羅漢中がうまく盛り込んでいます。

 曹操は劉備と漢中の地を争ったが、戦はうまくいかず、思わず「鶏肋」(ケイロク)という言葉を口にし た。これを聞いた楊脩は、この意図を「鶏の肋骨は食べようにも肉はない。しかし捨てがたい味があ る。この戦も捨てるに惜しいが、いったんは停戦し帰陣する」と解釈して、さっそく帰り支度をはじめ  た。そこで曹操は楊脩を軍の規律を乱すものと見做して処刑した。

こうしたエピソードにも見られる通り、楊脩は確かに機転の利く才子でした。しかし、彼が処刑されたのは「鶏肋」事件とは無関係。実際のところは曹操の後継者をめぐり、曹丕・曹植の兄弟間の政争に巻き込まれたのが真相でした。彼は家庭教師として仕えていた曹植に対して次々と「知恵」を授けたことから、一家臣ごときが「王家の後継問題」にまで口出しする事態になりはしないかと気を揉み始めていた曹操。いつか“瑕疵”があれば処刑せねばならぬ、と思っていた矢先、渡りに舟と言っていい「事件」でした。

歴史は変えられません。もし、曹操が楊脩の言うように撤退していたら、はたまた楊脩を処刑すること無く生かしていたら、…、そんな想像は三国志ファンならずとも、「歴史ファンタジー」を掻き立てて止まないことでしょう。
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char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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