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お帰り如亭山人!おっ、いきなり「雪泥鴻爪」ですか…=漢詩学習

久しぶりに柏木如亭(1763~1819)の登場です。一休宗純ほど露骨ではありませんが、彼もまた男女の恋愛風景を漢詩という一見儼しい「フィールド」で描写した詩人です。彼の代表的な艶詩である「吉原詞」(「詩本草」=岩波文庫=に収録)の賞翫は、弊blogでもロングラン連載(2009年4月30日~5月5日)で行いました。遊郭の街・吉原に入り浸った自身の“遊蕩体験”を、時には客として、時には遊女の立場から詠じたものでした。

「如亭山人遺藁」が収録されている「新日本古典文学大系64」(岩波書店刊行)を古書肆で入手いたしました。グルメ本でもある「詩本草」にも採録されていた美食の漢詩も入っており、改めて思ったのですが、やはり、彼の詩はなかなかにバラエティに富んでいて、味わい深い。何よりも「語彙」が圧倒的に豊富です。以前も直感したのですが、「如亭の詩は漢字学習に向いている」。弊blogの詩本草シリーズの最終回「さようなら、ザ・ダンディー山人」(2009年5月17日)の最後のくだりに、「なかなか彼の詩は簡単にはアクセスができないのが残念ですが、いつの日かじっくりと彼の詩を翫わう機会も訪れることを期待して筆を擱きます」としたためてありました。

どうやら、その「機会」が訪れたようです。

如亭の詳細は以前の連載(2009年4月18日~5月17日)をご参照ください。

「如亭山人遺藁」は、「序」「巻一~巻三」「跋」から成ります。

「巻一」の劈頭は「駿州道中、松魚を食ふ」。「詩本草」にも採録されていました。(如亭は読み下し文だけでいいでしょ?だめ?如亭の詩は数をこなしたいので…詳しい解釈も省きます)

東海の旧トウフウ 緑を吹き
店に上がる時新 赤玉を斫る
正に是れ江都清和の天
此の時口所欲を遂ぐ
去年四月北方に在り
越海到る処嘗むべからず
今日駿州一たび咀嚼す
大いに勝れり 夜夢カキョウに向ふに


「トウフウ」は、何かの「風」であることは自明でしょう。「東風」「唐風」ではない。稍難しいか。「蕩風」が正解。心をそわそわとさせる風です。「蕩舟」(トウシュウ)は「ゆらゆらゆれる舟」。「蕩心」(トウシン)は「酒色にふけるこころ」。

「赤玉」というのは、松魚の身のあかあかとしたさまを譬えた言葉。「斫る」は「き・る」。

「江都」(コウト)は「江戸」。「清和」は陰暦四月一日、また、四月のこと。

」(ザン、サン、配当外)は、がつがつ食うこと、欲張りなさま。

「カキョウ」は浮かびますか?「花筐」「華僑」「佳境」ではありません。正解は「家郷」。ふるさと、故郷のこと。「家山」(カザン)、「家国」(カコク)ともいいます。

春爛漫。初鰹を美味そうに頬張る如亭の姿が髣髴とします。でも、去年の今頃は越後に遊んでいたため、夢にまで見た堅魚の姿でした。

続いて「桑苾堂に似す」。

雪寒を衝破して故園を離る
自ら慙づ 到る処姓名の存するを
天涯定まらず 飛鴻の影
泥辺に向いてソウコンを認むることを休めよ


「桑苾堂」は、桑原苾堂(1784~1837)。東海道島田宿(いまの静岡県三島市)の豪家。桑は修姓、苾堂は号。名は瑞、字は公圭、通称を伊右衛門・古作。居を鉄蕉書院といい、詩・書を能くし、東海道を往来する文人と広く交わった。如亭の編集した海内才子詩(文政三年刊)に詩八首を収める。

「似す」は「しめ・す」と訓んで、「贈る、与える」という意。

「衝破」(ショウハ)は「突破する」。

「天涯」は天のはて、極めて辺鄙なところ。

「飛鴻」(ヒコウ)は、大空を飛ぶ鴻雁。

「ソウコン」は浮かびますか?何かの「痕」(あと)なんですが、「創痕」「瘡痕」ではない。正解は「爪痕」。雪の上に鴻が爪のあとを残すことを「雪泥鴻爪」(セツデイコウソウ)といいます。人の行迹の儚いことを意味します。これは蘇東坡の「和子由池懐旧」(子由の「池懐旧」に和す)に由来しており、如亭の詩も明らかにこれを踏まえています。せっかくですから、蘇東坡の詩も掲げておきます。岩波文庫「蘇東坡詩選」から。

人生到る処知んぬ何にか似たる
応に似たるべし飛鴻の雪泥を踏むに
泥上に偶然指爪を留むるも
鴻飛んで那ぞ復た東西を計らん
老僧は已に死して新塔と成り
懐壁は旧題を見るに由無し
往日のキクたるを還お記するや否や
路は長く人は困じてケンロは嘶きしを


子由というのは蘇東坡(蘇軾)の弟、蘇轍のこと。

「キク」は「愧懼」「規矩」ではない。正解は「崎嶇」。山道がけわしくて歩きづらいさま。

「ケンロ」は前に「困じて」、後ろに「嘶き」(いななき)とあるから、疲れ果てて足が進まないロバのことで、正解は「蹇驢」。浮かびますか?稍難問でしょうか?

前半のくだりが「雪泥鴻爪」。人生のさすらい。それは舞い降りた雁が雪融の泥をひょいと踏むようなもの。泥の上にはたまさかつめのあとを残すものの、飛び去った張本人の行方はもう分かりはしないし、自分が残したあとのことなどかまってもいない。。。

如亭に戻りますが、あちこちを遍歴する己の何ともはかない人生を振り返っているのです。彼にとっての「故園」とは一体何処なのでしょうか?あちこちに“浮き名”だけが残っている。そんな人生はもうたくさんだ。。。でもやめらんねぇ~、というのが本音でしょうかね。如亭山人。

本日は復帰初戦ということでこの辺で。。。。やっぱ如亭はいいわ。
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王安石から汲んだ艶詩のエッセンス=漢詩学習

一休宗純の「狂雲集」の「第三 夢閨の章」シリーズはひとまず本日で最終回とします。掉尾を飾るのは北宋時代の詩人であり文章家でもある王安石(1021~1086)。唐と宋の名文家八人(唐宋八大家)の一人に数えられています。のみならず政治家としても傑出していましたが、彼が断行した革新的な諸施策である「新法」は悪評の高いものでした。

字は介甫、号は半山、荊公。江西省の人。

■賛公 三首(王安石を賛す 三首)■

鐘山霜竹雪筠箴
有客門前幾□□
誰識残生吟興味
一身投老価千金

鐘山の霜竹 雪筠の箴
客有り 門前に幾ばくかカンリン
誰か識る 残生の吟興の味
一身 老に投じて価い千金


「鍾山」は南京の東北の郊外にあり、別名、蔣山ともいい、鍾山とも書く。紫金山ともいう。王安石は晩年、ここに半山寺を営んだ。

「雪筠」(セツイン)は、雪のように白く美しいタケ。「筠」(配当外)は「均整のとれた形のよい竹」。「霜竹」も同じ意味。「箴」は「はり」。

「カンリン」は浮かびますか?「翰林」「瞰臨」などがありますが、正解は「汗淋」。汗が滴り落ちるさま。あるいは四字熟語に「流汗淋漓」があり、ここから来ているかも知れません。

「残生」は、残り少ない人生、あとわずかで人生が終わるというニュアンスが出ます。「残暑」も、残り少ない暑さ、あとわずかで夏が終わるというニュアンスですよね。

「吟興」は、詩歌をつくりたいと思う気持ちのこと。「吟懐」「吟魂」「吟情」「吟心」ともいう。

「日本の禅語録十二 一休」の解説によると、「王安石も、わが五山の文学の敬意を集める。唐宋八大家の一人としての評価もあろうが、何よりの敬意は、大恵武庫が伝える、蔣山賛元との問答による。今は先ず、王安石が晩年をすごす鍾山(半山寺)への思慕を、一休はうたいあげる」とある。

■其二■

霜雪□□苦一生
婬禅潤色也多情
多情夜々半山月
吟興胸襟無恵郷

霜雪のキチョウ 苦しむこと一生
禅に婬して潤色す也た多情
多情 夜々 半山の月
吟興の胸襟 恵郷無し


「キチョウ」は浮かびますか?稍難しいです。「亀兆」「熙朝」「貴寵」などがありますが、正解は「飢腸」です。飢えたおなか、つまり、空きっ腹のこと。空腹。

同書によると、「王安石の半山寺での生きざまを歌う。第四句が難解だが、一休のこの人に寄せる視線はほぼ理解できる」とある。

■其三■

分明分得正兼邪
□□宗門真作家
垂示蔣山坐□□
打成十八拍□□

分明に分ち得て正は邪を兼ぬ
宗門をフキする真の作家
蔣山に垂示せられてゼントウに坐し
打成す十八拍のコカ


「正兼邪」は、「新法」の政治家として腕をふるったことを指す。

「宗門」は「禅のこと」。「フキ」はうかがですか?「不羈」「不諱」「怖悸」「負羈」「附驥」「不羇」などがありますが、正解は「扶起」。稍難問です。たすけおこすこと。

「ゼントウ」は、杜牧の「酔後題禅院」に出てきた「禅榻」が正解。禅寺にある幅の長いこしかけのこと。

「コカ」はどうでしょう?その前にある「十八拍」がヒントで正解は「胡笳」。アシの葉を巻いて作った笛。悲しい音色を出す。もともと、北方の遊牧民族が用いた。盛唐の岑参(715?~770)の「胡笳歌送顔真卿使赴河隴」にある「君聞かずや胡笳の声最も悲しきを 紫髯緑眼の胡人吹く」の一節に詠まれていることで有名です。古来、辺塞詩にはよく出てくる詩題の一つ。

同書によると、「政治家としての王安石には、幾人かの敵があった。禅者としての王安石は、蔣山賛元との問答によって、不滅の手腕をうかがわしめる。『胡笳十八曲』は、ここでは艶詩ととってよい。かつて、黄山谷が自から断絶を誓った、文学の世界である」とある。

政治家であり、禅者であり、詩人でもあった王安石は、一休にとってまさに理想的な憧れの存在でした。政治家にだけはならなかった一休は、その「艶詩」の“エッセンス”を汲み取って、エロ漢詩への道を切り開いていったのでしょうか?

まだ純粋に真面目だった?17歳の一休さん=漢詩学習

本日の一休宗純「狂雲集 第三 夢閨の章」は蘇東坡(蘇軾、1036~1101)と黄山谷(黄庭堅、1045~1105)です。共に北宋時代の詩人で師弟関係にあります。

まずは、蘇東坡。諱を軾、字を子瞻といい、四川省眉山の出身。父は洵、弟は轍で、三蘇とも呼ばれた。狷介の性質で、俗と合わず、中年で黄州、晩年に恵州、さらに海南島に流され、常州で病没する。


■東坡像(東坡の像)■

竺土釈迦文殊師
即今蘇軾更看誰
黄竜禅味□□
万象森羅文与詩

竺土には釈迦 文殊の師
即今は蘇軾 更に誰をか看る
黄竜の禅味 ゼットウの上
万象森羅 文と詩と


「竺土」は、インドのこと、天竺ですね。

「ゼットウ」は「絶倒」ではありません。、ものの言い方、話しぶりのことで「舌頭」が正解。「舌尖」(ゼッセン)、「舌端」(ゼッタン)ともいいます。反対に「舌本」(ゼッポン)は、舌の付け根(舌根)。「舌耕」(ゼッコウ)といえば、講義、演説、講演など、弁舌によって生計をたてること。

「日本の禅語録十二 一休」(講談社)の解説によると、「蘇東坡と黄山谷の文学への、ひたむきな敬意と愛慕。一休もまたそんな中世禅林の流れに棹す。詩が禅を求め、禅が詩を求める。禅と詩の数奇な出会いの実体を、一休は東坡のすがたに確かめる。書蹟が知られることも、与って大きい」とあります。

■東坡像(東坡の像)■

画図今日尚驚群
赤壁玉堂如□□
海内先生広長舌
八万四千文

画図して今日尚お群を驚かす
赤壁と玉堂とヘンウンの如し
海内は先生の広長舌
ゴウを揮う 八万四千文


「画図」は「ガト」もしくは「ガズ」と読む。絵画のこと。また、絵を描くこと。蘇東坡は絵画もものしました。

「赤壁」は、湖北省黄岡県に近い、長江の左岸。赤鼻磯と呼ばれるところ。1082年7月、蘇東坡がここに遊び、「前赤壁の賦」を詠じた。「玉堂」は、宋代翰林院の別名。

「ヘンウン」は浮かびますか?ちぎれぐものことです。正解は「片雲」。「片雨」(ヘンウ)は通り雨のこと。「片月」(ヘンゲツ)は弓張り月、かたわれ月。「片楮」(ヘンチョ)は紙の切れ端、転じて簡単な手紙を指す。「片鱗」(ヘンリン)はすぐれた学識・才能などの一部分のこと。芭蕉の「奥の細道」に、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、とあるように、「旅」を寓意する言葉ですね。もちろん一休は芭蕉の生まれる前の人ですから、奥の細道は知りませんけどね。

「ゴウ」は「毫」。「毫を揮う」で「揮毫」。筆を走らせること。「八万四千文」は「東坡の偈。仏法を八万四千の法門といい、煩悩の数だけ悟りがある」。

同書の解説によると、「東坡といえば、『赤壁の賦』と『渓声山色』の句。禅の日本定着は、東坡を介して完成する。尨大なその詩文の註釈、『四河入海』がそれだ。夜来八万四千偈は、そのことを措いて理解されまい。江湖風月集は、日本に来てその本領を発揮する」とあります。


次の黄山谷は、諱が庭堅、字が魯直。江西省分寧の人。東坡に学び、蘇黄とも呼ばれた。生涯を流謫地で過ごし、広西の宜州で病没した。

■賛山谷(山谷を賛す)■

詩客風流常□□
寒儒吟興独清高
春風桃李十年燭
夜雨江湖□□

詩客の風流 常にセキバク
寒儒の吟興 独り清高たり
春風の桃李 十年の燭
夜雨の江湖 イッサンの醪


「詩客の風流」とあるのは、山谷が艶詩の名人であったことを指す。「セキバク」は平易で「寂寞」(寂莫)が正解。

第三、四句は山谷の名作「寄黄幾復」(七言律詩)を踏まえている。「イッサン」は「一盞」「一粲」「一山」「一散」から選んでください。後ろに「醪」(ロウ=にごりざけ、どぶろく)とありますから、正解は「一盞」。さかずき一杯の酒です。

山谷の詩は「名詩」なので訓み下し分だけ掲げておきます。一休さんは山谷の詩を踏まえながら見事に対句で詠んでいる。(石川忠久氏の「漢詩鑑賞事典」より)

我は北海に居り君は南海
雁に寄せて書を伝えんとするも能わざるを謝す
桃李春風一杯の酒
江湖夜雨十年の灯
家を持して但だシリツの壁有るのみ
病を治むるに三たび肱を折るを蘄(もと)めず
想い得たり書を読んで頭已に白く
渓を隔てて猿は哭さんショウエンの藤に


「シリツ」=「四立」→家徒四壁のイメージ。
「ショウエン」=「瘴煙(烟)」。中国嶺南地方の沼地に立ちこめるというガス。有毒で病気を引き起こすとされた。

同書の解説によると、「黄山谷の文学に、一休が触れるのは十五歳(迂生注:十七歳の誤りか?)の『中秋無月』。一休にとって、信にそれは中国文学そのものとの、決定的な出会いであった」と説明していますが、すいません、いまひとつよくわかりません。

「狂雲集 第一 純蔵主の章」には一休が十七歳、参禅した時の詩が載っています。

「中秋無月」

是無月只有名明
独坐閑吟対鉄檠
天下詩人断腸夕
雨声一夜十年情


是れ月無くして、只だ名の明らかなる有り
独坐閑吟 鉄檠に対す
天下の詩人 断腸の夕
雨声一夜 十年の情


この第四句はやはり黄山谷の詩の第四句を踏まえています。

解説には「一休の詩魂は、十分に熟し切っている」とあります。

盛唐詩人、王維の「秋夜独坐」にあるように、「独坐」は詩題として頻出する。「鉄檠」(テッケイ)は「鉄製の燭台」。「檠」はぜひとも覚えておきましょう。

十七歳のころの一休はむしろ、まだ冷徹というか只管修行にまい進した若者だったと言えましょう。好きな詩を換骨奪胎することや、「断腸」「独坐」といった本場の詩の基本タームを鏤めていることなど、この詩からはまだ生硬ながらも漢詩を詠じる「真面目」さがうかがえます。

要は彼がエロさを前面に出すのはもっと年をとってからというこってすわ。

一休の「心」の師匠は晩唐詩人の杜牧=漢詩学習

引き続き一休宗純の「狂雲集」の「第三 夢閨の章」シリーズから、本日の「通信簿」は白楽天と杜牧です。なぜかしら李白の名前が見えませんが、 盛唐時代の“詩仙”の叫びはエロすぎる禅僧のお眼鏡に適わなかったのでしょうか。それにしても杜牧への傾倒は中途半端ではありません。およそ600年前の中国の詩人のどこに惹かれたのでしょうかね。まずは白楽天から。

■白楽天■

留得□□百億春
千言万句与居新
古今独証之無老
世許□□天外人

留め得たり シカ 百億の春
千言万句 居と与に新たなり
古今 独り証す 之無の老
世に許す 天外にシュットウする人


「シカ」は浮かびますか?「市賈」「枝柯」「止戈」「疵瑕」「駛河」ではありません。白楽天に関係するものです。正解は「詞華」。すぐれた詩文のことです。

「シュットウ」は素直でいいんですが、意味がやや違います。「他より飛び抜けてすぐれていること」で「出頭」が正解です。盲点かぁ?天の外にも頭を出す、この世では抜きんでているということ。最大限の賛辞を尽しています。

白楽天(白居易、772~846)は、源氏物語を筆頭にして、上代日本文学に多大なる影響を与えた詩人です。幼いころから死ぬまで「逸話」の多い人で、一休の詩の第三句にある「生後7カ月、之と无=無=の二字を読みわけた天才だった伝説」は、これを踏まえている。

次に杜牧。怒涛の6首です。

■賛杜牧(杜牧を賛す)■

杜書記独朗天然
参得正伝臨済禅
欲隠弥彰□□
多盃酔後紫雲前

杜書記 独朗天然
参得す 正伝臨済の禅
隠さんと欲して弥いよ彰わるキョウゴの笑い
多盃に酔うて後 紫雲の前


「キョウゴ」は「嚮後」「蛩語」「誑語」「教護」などが浮かびますが、正解は「狂語」。「狂言綺語」(キョウゲンキゴ)の略で、「人の興味をひくようにかざりたてたことば、転じて、小説などの文章、文学全般を指す」。

「紫雲」は、ある宴席に招かれた杜牧がその主人宅の妓女を“横取り”したエピソードを指す。その妓女の名を「紫雲」といった。

このシリーズで参考にしている「日本の禅語録十二 一休」(講談社)の解説によると、杜牧(803~853)は「一休が自分の前身と見ちがえるほど、生き写しの詩人」と述べています。そして、「狂雲集のうちで、もっとも言及の多いのがこの人。酒と女と男ダテ、文学に淫し、国を愛し、禅を愛した杜牧を、一休は尊敬する」とあります。これまでに見た屈原、陶淵明、杜甫、柳宗元、白楽天に対しても深い賛辞を投げていたように思うのですが、杜牧は彼らの比ではない尊敬を捧げているというのです。

杜牧は字が牧之、号が樊川。自ら詠じた詩の中で「青楼薄倖」の“異名”も持っている。「杜書記」というのは、833年、牛僧孺の淮南節度府掌書記として招かれたことから。当時まだ30歳そこそこだった彼は赴任地である揚州(江蘇省揚州市)で夜毎、酒と女に溺れたとされる。

■賛杜牧 其一(杜牧を賛す 五首)■

□□風流更絶倫
杜書記業偽中真
詩情儒雅婬於色
不説□□説美人

サイチョウの風流 更に絶倫
杜書記の業は偽中の真
詩情は儒雅 色に婬し
ソウセイ説かず美人を説く


「サイチョウ」は稍難しい。正解は「才調」で「才気と知恵の程度・具合」。「絶倫」は「倫(同類)を絶する、人並み外れてすぐれていること」。「偽中真」は「にせもの、虚飾が多い中で真実を伝えること」。杜牧の詩の特徴でもあり、どこからどこまでが脚色で真実か分からないというのです。

「ソウセイ」は「美人」と対比させる言葉と言えます。「譟静」「叢生」「簇生」「蚤世」「創世」などが“ライヴァル候補”ですが、ここでは「人民、世間」という意味で「蒼生」が正解です。これなんかいい問題だと思いますわ、自賛ですけどね。。。「蒼氓」(ソウボウ)ともいいます。これは読みでも要注意です。


■其二■

楊州雲雨十年情
情浄無求儒雅名
□□消愁□□
落花風与一身軽

楊州の雲雨 十年の情
情浄うして求むる無し 儒雅の名
ゼントウに愁いを消してビンシ雪し
落花の風 一身と与に軽し


この詩は以前、弊blogで杜牧ワールドの一つとして取り上げた「題禅院」(禅院に題す、2009年9月10日付の記事)を踏まえたもの。迂生の好きな詩です。特に第三句はそのまんま採りいれています。杜牧の詩を暗唱できるほど覚えて居れば“一発ツモ”ですが、「ゼントウ」は「禅榻」、「ビンシ」は「鬢糸」。「鬢糸茶烟(煙)」も思い出してくださいね。本番で出ますよ。

第一句にある「楊州(揚州)」は江戸でいえば吉原。色街の代名詞です。杜牧の詩に「遣懐」という七言律詩があり、その第三句の「十年一覚揚州夢」を踏まえている。「雲雨」というのは「巫山雲雨」「朝雲暮雨」からきており、男女の濃密な“絡み”を表しています。

すなわち一休は杜牧の代表的な2つの詩をミックスさせているのです。若いころの放蕩と老後の枯淡。それはそのまま一休の人生と重ね……、いや、違いますね、一休の老後は枯淡ではなかった。バリバリの“現役”、年若の盲目の女性との愛欲に塗れた晩年でした。一休に「鬢糸茶烟」は通じないでしょう。だからこそ、裏返しで杜牧へのあこがれもあったのかもしれません。

■其三■

遮眼乾坤□□
無能□□世間踈
楊妃金穴風流寵
□□君恩一滴無

眼を遮る乾坤 スイリの徒
無能にしてランセイ 世間に踈なり
楊妃の金穴 風流の寵
ウロのごとき君恩 一滴も無し


「スイリ」は「推理」「水利」でないことは明白なるも、じゃあなんじゃろ?と言われれば浮かびにくいですね。やや難問。「遮眼」は「めをさえぎる、みるとはなしにみえる」という意味で、意識朦朧としている状況です。これが敢えて言えばヒントですが、正解は「酔裏」。「酔中」ともいう。酔った状態にあるということで、この場合の「裏」は「うち、なか」という意味です。

「ランセイ」は「乱世」「卵生」でないことは明らかですが、その前の「無能」がヒントか。正解は「懶性」。「懶」は「なまけ、ものうい」。ものぐさで、だらしない性格。「懶惰」「懶慢」は必須熟語です。「踈」は「疎」の異体字です。

「楊妃の金穴 風流の寵」は、唐代の玄宗皇帝が楊貴妃への寵愛に溺れたことを指す。「金穴」は「大金持ち、パトロン」という意味で、後漢書の「郭皇后紀」に出典のある面白い言葉です。同じ「キンケツ」でも「金欠」とは正反対ですね。。。要注意。

「ウロ」は「烏鷺」「迂路」もありっちゃあありですが、この後の「君恩」が大ヒントです。正解は「雨露」。大いなるおめぐみのことで、あまねく君恩に浴することが雨露(あめつゆ)のように潤沢であるさまをいう。

杜牧に「阿房宮賦」という長編大作があります。秦の始皇帝の土木工事と游蕩を諷刺し、遠い時代に想いを馳せつつ、近い時代に女色に沈湎した玄宗皇帝、そして杜牧の時代の敬宗の奢侈淫佚を戒めるのが目的でした。一休は杜牧の軽妙洒脱な様相だけではなく、政治風刺の側面をも信奉していたのです。つまりは、自分の“役割”も同じではないかと。。。次の詩にもつながります。


■其四■

天宝朝廷無侍臣
寒儒到処寄吟身
亡国楊妃金玉境
□□睡熟□□

天宝の朝廷に侍臣無し
寒儒到る処 吟身を寄す
亡国の楊妃 金玉の境
カイドウの睡は熟すバカイの春


「天宝」は、安禄山の乱の起きた唐の時代を象徴する元号。「侍臣」とは、帝の乱行を戒める忠臣のこと。「寒儒」は、貧乏詩人。杜甫、李白、王維らを指すのでしょう。「亡国の楊妃」は勿論、楊貴妃のこと。杜牧の「泊秦淮」という詩に「商女不知亡国恨」とあるのを踏まえている。

「カイドウ」と「バカイ」は、“楊貴妃ウオッチャー”、あるいは“長恨歌フリーク”なら超基本タームですよね。正解は各々、「海棠」と「馬嵬」。前者は玄宗が楊貴妃を称した台詞、後者は玄宗が楊貴妃を殺した場所。

「日本禅語録十二 一休」の解説によると、「一休にとって、杜牧の世界はそのまま天宝の悪夢とかさなり、足利義政の無能とかさなる」とある。一休は杜牧のことを「蒼生説かず美人を説く」と言いましたが、不思議なことに杜牧自身は美人の中でも楊貴妃を礼讃することはなかったといいます。一方で、白居易は長恨歌を詠じて彼女を礼讃する「雨霰」を贈りました。ここが杜牧と白居易の大いなる違いだとして、同書は「一休は、杜牧を忠義の遺子とみる」としています。そうか、銀閣寺を建立した足利義政の無能かぁ。東山文化。政治的には見るべきものがなかった第8代将軍の気だるい時代に生きたんですね、一休さんは。。。政治を厭い、文化に逃げ込み、応仁の乱を引き起こす張本人となった。一休のエロ漢詩から醸し出されるアンニュイさは、義政の時代そのものだったということは言えないでしょうかね。

■其五■

寒儒上古旧精魂
絶妙風流詩思言
憶得湘南屈醒後
□□□□尽乾坤

寒儒 上古の旧精魂
絶妙の風流 詩思の言
憶し得たり湘南の屈の醒めたる後
スイキョウボツデキし乾坤を尽す


「旧精魂」はここでは屈原の亡霊のこと。「絶妙の風流」は、世説新語にある「黄絹幼婦」の故事から。「黄絹」は「色糸」=「絶」、「幼婦」は「少女」=「妙」。つまり、「絶妙」。その故事というのは、詳細は省きますが、「曹娥の碑」に「黄絹幼婦 外孫臼」(コウケンヨウフ ガイソンセイキュウ)の八文字が刻まれていた。その“心”を読み解こうと腐心した魏武と、従者である楊修の2人のやり取りの妙味を描いたものです。ちなみに後半四文字の“心”は「好辞」です。意味はお分かりですよね?

「詩思」は、唐代の詩人、鄭綮の言った「詩思は橋風雪の中、驢子の上に在り」=「橋驢上」(ハキョウロジョウ、詩作する上で絶好の場所のこと)に出てくる。詩を作ろうと思う気持ち、うたごころ。「詩情」「詩心」「詩腸」「詩魂」「詩懐」「詩興」などとも同義語。

「湘南の屈」は、あの屈原が汨羅江に身を投げたこと。「屈」は「ぬれぎぬ」。「スイキョウ」は「酔郷」。「酒を飲んだ時の快い気分のこと」。別天地だから「郷」を用いる。「酔狂」とは違う意味なので要注意です。宋代の詩人、蘇軾の「湖上に飲す初めは晴れ後に雨降る 二首」(西施と西湖を詠じた詩)の第一首の第二句に「晩雨留人入酔郷」がみえます。

「ボツデキ」はこれしかない。「没溺」が正解。物事に熱中して抑制できなくなること。

同書の解説によると、「中国文学は、屈原の入水にはじまる。経史子集の四部の分類が、集の部を楚辞にはじめるのによる。失意の怨みと、酒と美人あって、文学は完成する。杜牧を通して、一休が学んだのは、そんな中国文学の伝統だった。狂雲集は、単なる狂雲集でなかった」とあります。深い、深すぎるぞ、一休さん。杜牧は一休さんの師匠だったのかもしれません。

ちなみに、「経史子集」というのは、中国の古典的書籍を四部に分類することで、経部(経書)・史部(史書)・子部(諸子)・集部(詩文などの文学書)から成る。隋代にはじまり、18世紀の清代に完成した。漢籍の分類法として用いられており、いわゆる「漢詩」は楚辞がスタートとなるのです。

蹉跌に泣いた屈原と柳宗元も敬慕する一休=漢詩学習

一休宗純の「狂雲集・第三夢閨の章」から、彼が中国詩人に捧げた「通信簿」とも言える詩の数々を玩わいます。本日は屈原と柳宗元です。

■屈原像(屈原の像)■

楚人離騒述□□
深吟湘南秋水長
□□忠言千載潔
春蘭風露幾清香

楚人は離騒にシュウチョウを述ぶ
深吟する湘南 秋水長し
ギャクジの忠言 千載に潔し
春蘭の風露 幾ばくか清香


「離騒」は「憂いに会う」「別離の愁い」という意味。屈原の出身地・楚(現在の湖南省南部から洞庭の南に広がる古代農耕国家)でうたい継がれてきた歌謡の形式を基に詠じた三百七十五句に及ぶ長編の自伝的叙事詩。「楚辞」に収録されている。讒言に遭って退けられた憂国の公憤を述べている。

「シュウチョウ」は浮かびますか?「繡帳」でも「秋蜩」でも「酋長」でもありません。聞き慣れないですが、正解は「愁腸」。心細い気持ち、わびしい思いのことですが、「愁思」「愁心」「愁襟」「愁中」「愁裏」ともいいます。「腸」(はらわた)は「人の心の中」を指す。漢詩では「断腸」でよく使いますよね。「愁絶」は「ひどくわびしがること」、「愁眉」「愁眠」「愁夢」「愁吟」など「愁~」の熟語は多いです。
「湘南」は屈原が身を投じた汨羅の淵のある地。「秋水」は「秋の台風」。荘子に「秋水篇」がある。
「ギャクジ」はいかがでしょう?音として聞いても単語はすぐには浮かびませんね。稍難問ですかね。正解は「逆耳」。「忠告のことばが耳に入りにくい、忠言を聞き入れにくい、また、聞きづらい忠告の言葉」という意味で「みみにさからう」とも訓読する。

この場合の「逆耳忠言」とは、屈原の「漁父」(一休の次の詩も参照)に出てくる老漁夫が諌めて語った「聖人は物に凝滞せずして、能く世と推移す。世人皆濁らば何ぞ其の泥を淈=みだ=して其の波を揚げざる。衆人皆酔わば何ぞ其の糟を餔=くら=いて其の=しる=を=すす=らざる。何の故に深思高挙して、自ら放たれしむるを為すや」(聖人は物事にこだわらず、世と共に移り変わると申します。世人がすべて濁っているなら、なぜご自分も一緒に泥をかきみだし、波を立てようとはなされないのか。人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒糟をお食べになり、糟汁まですすろうとはなされないのですか。どうしてそのように深刻に思い悩み、高尚にふるまって、自ら放逐されるのを招くようにするのですか)の台詞を指す。この詩では漁夫は最後に「滄浪の水清まば以て吾が纓を濯うべし。滄浪の水濁らば以て吾が足を濯うべし」との決め台詞で去ってゆきます。そのあと屈原は汨羅に身を投げるのです。ちなみに「滄浪」「纓」などは漢検1級試験では必須ですね。

「風露」は「秋の風光」。「清香」は「すがすがしいかおり」。

■「漁父」■

学道□□失本心
漁歌一曲価千金
湘江暮雨楚雲月
無現風流夜々吟

学道サンゼン 本心を失す
漁歌の一曲 価千金
湘江の暮雨 楚雲の月
限り無き風流 夜々の吟


「サンゼン」は、①三千②参禅③粲然(燦然)④潸然⑤産前――から選んでください。一休にとっての学問であり、それが禅の道の修行。正解は「参禅」です。
「漁歌の一曲」というのは、漁父の「逆耳忠言」のこと。

屈原に関しては「ベキラに身を投じた憂国の貴公子、王孫詩人として知られた。伝説と作品を分ち、楚の地における、南方民俗の発生を想定する近代研究も、広い意味の中国文学が、この人とともにはじまることを否定しない」と「日本の禅語録十二 一休」(講談社、P300)は述べています。迂生も以前、晩唐詩人の李商隠が屈原を詠じた「楚宮」という詩をmixi日記で玩わったことがありますので、少し長いですがここに引用しておきます。

(以下、迂生のmixi日記=2009年3月21日付から)

屈原は古代中国、紀元前4~3世紀の伝説の詩人です。まさに春秋戦国時代の末期、楚国の華胄の家に生まれ、時の帝王に仕え出世したものの、帝の寵幸ぶりを妬んだ政敵の讒言に遭い、いまの洞庭湖あたりに流竄され彷徨。失意のうちに身を汨羅江(べきらこう)に投じました。「楚辞」(そじ)と呼ばれる朗誦体の詩は屈原の創始とされ、後世の詩人に多大な影響を与えている(以上、岩波文庫「中国名詩選・上」P112を参照)。後世、「汨羅之鬼」(べきらのき)という成句にもなっており、水屍体を意味する代名詞でもあります。古代中国の悲劇の大詩人は、同じく轗軻不遇の李商隠にとっても恰好の詩材となったようです。まさに屈原のことを詠じた詩が「楚宮」(そきゅう)。戦国時代に奢侈淫佚に耽った楚国の宮殿のこと。商隠は屈原の何処に惹かれたのか。。。そして、迂生もなぜ惹かれたのか。。。。揃い目記念日の五月五日は屈原の命日、そして端午の節句に食べる粽(ちまき)の起源が屈原にあることはご存知か?。。それも登場します。


 【楚宮】(七言律詩) =李商隠

 湘波 涙の如く 色漻漻たり

 楚〔示+〕の迷魂 恨みて逐いて遥かなり

 楓樹 夜猿 愁いて自ら断たる

 女蘿 山鬼 語りて相い邀う

 空しく腐敗に帰す 猶お復し難し

 更に腥臊(月+〈操-手偏〉)に困しめらる 豈に招き易からんや

 但だ使し故郷に三戸在らば

 綵糸 誰か惜まん 長蛟を懼れしむるを


(解釈)湘江の水は涙のように、透き通った色。そこに身を投げた楚の人屈原の怨霊はどこまでも恨みを追いかける。
 水辺の楓に鳴く夜の猿は、胸破れんばかりに悲痛な声。女蘿のつるをまとった山の鬼女は、言葉巧みに誘いかける。
 水底で腐爛している肉体は二度と呼び戻すこともかなわず、そのうえ魚に食いちぎられては魂を招き返すことができようか。
 もし屈原の郷里にのこった家がたった三軒だとしても、みずちをたじろがせる色鮮やかな糸で縛った食べ物を、彼の眠る水中に供え続けることだろう。

第一句の「湘波」(しょうは)は、湘江の波で、洞庭湖に南から注ぎ込む川。屈原が身を投げた汨羅江はその支流。汨羅江は、いまの湖南省北東部を西流し、湘江下流に注ぐ。長さ約200キロメートル。
「漻漻」(りょうりょう)は、水が清く、底まで見分けられるさまをいう。空なら高くて澄み切ったさま。水の流れが清らかなさまもいう。当然ながら、配当外の漢字です。あっても良さそうですけどね。音符が「翏」の漢字はいろいろあるので整理しておきましょう。

第二句の「〔示+〕」(れい)は非業の死を遂げた魂のこと。難しい、漢字源にもなかった。。。解説によっておきます。「」と同じだとある。「淫」(いんれい=たたり)という難しい熟語も紹介されていました。「楚」は屈原のこと。「逐う」は「お・う」と表外訓み。

第三句の「楓樹」(ふうじゅ)は、南方の楚国を代表する水辺の植物。フウ。「楓」は日本で言えば「かえで(もみじ)」。「楓橋」(ふうきょう)、「楓宸」(ふうしん=天子のいる宮殿)もある。「夜猿」(やえん)は、南方の猿が夜に泣き叫ぶ悲痛な声。「楓樹」も「夜猿」も屈原の詠んだ「楚辞」に出てくるキーワード。

第四句の「女蘿」(じょら)は、地衣類の名。深山のブナや針葉樹の幹や枝にかかり、互にからまりあって群生する。サルオガセ。サガリゴケともいう。「松蘿」(しょうら)ともいう。「蘿」は「つた、かずら」。「蘿窓」(らそう)、「蘿蔔」(らふく、すずしろ)、(ちょうら)、「藤蘿」(とうら)、「蘿径」(らけい)、「蘿衣」(らい)、「蘿月」(らげつ)、「蘿薜」(らへい=つたかずら)=「蘿蔓」(らまん)=「蔦蘿」(ちょうら)。
「山鬼」(さんき)は、山中に住む女の神。これらも女蘿を帯とした山鬼として、「楚辞」に出てくる。
「邀う」は「むか・う」で「邀える」。招く、呼ぶという意。「邀」の音読みは「よう」。熟語には「邀撃」(ようげき)、「邀求」(ようきゅう)、「邀賞」(ようしょう)、「邀討」(ようとう)、「邀幸」(ようこう)、「邀賓」(ようひん)。

第六句の「腥臊(月+〈操-手偏〉)」(せいそう)は、なまぐささ。転じて動物そのものを指す。「臊」は配当外だが、「けだものの肉。むかむかするようなくさいにおい」。「臊腥」(そうせい)もある。「臊羯狗」(そうかつく=人をののしる言葉)は面白い表現だ。解説によると、「呂氏春秋」本味に「夫れ三群の虫、水に居る者は腥、肉を攫む者は臊、草を食らう者は羶」とある。腥、臊、羶いずれも「なまぐさい」。ここでは身投げした屈原の体が魚に食われ原形をとどめなくなったさまをいう。

「招く」は、死者の魂を招くこと。招魂(しょうこん)という言葉もある。

第七句の「三戸」(さんこ)は、家が三つになること。「使し」は「も・し」と訓読させているが、通常は使役の「せしむ」。ただ、意味的には「たとい~とも」と言った方が正確だろう。

解説によると、「史記」項羽本記に、楚の南公という予言者が「楚は三戸と雖も、秦を亡ぼすは必ず楚なり」と言った言葉に基づくとある。楚の人の秦に対する怨みは深いので、たとえ三戸まで落ちぶれたといえども、秦を滅ぼすことを諦めないだろうという意味。執念深い民族だというのです。

第八句の「綵糸」(さいし)は、色鮮やかな糸。「綵」は「あや、あやぎぬ」とも訓み、「綵幄」(さいあく)=「綵幔」(さいまん)、「綵衣」(さいい)=「綵服」(さいふく)、「綵雲」(さいうん)、「綵舟」(さいしゅう)=「綵船」(さいせん)、「綵繍」(さいしゅう)、「綵勝」(さいしょう)、「綵組」(さいそ)、「綵帳」(さいちょう)、「綵筆」(さいひつ)、「綵房」(さいぼう)。

「懼れる」は「おそれる」。びくびくすること。音読みは「く」。熟語には「恐懼」「驚懼」「兢懼」「兢懼」「兇懼」(以上きょうく)、「悚懼」「竦懼」「聳懼」「慴懼」(以上しょうく)、「懼然」(くぜん)がある。いかにもおどおどした感じの出ている漢字ですな。

屈原の命日五月五日が来るたびに、楚の人は竹筒に米を包んで霊を弔っていたが、後漢の建武年間、三閭大夫(屈原)と名乗る人物が現れ、「毎年いただいているものは蛟竜(こうりょう、みずち)に盗られているので、もしお恵みをいただけるんであれば、楝(おうち)の葉で蓋をして五色の糸で縛ってほしい。這の二つは蛟竜が苦手なものだから」と言う。以後、その通りに粽を作る風習が誕まれたという。

尾聯の二句は、楚の人の矜恃と屈原のエピソードを絡ませながら、前を向いて生きることの意味をシニカルに詠じているような気がします。

この詩は、屈原の無念を稍グロテスクな場面も織り交ぜつつも、彼の名詩「楚辞」にあるキーワードを鏤めながら、楚の人々に慕われ続ける大詩人に思いを馳せています。無念のうちに身を投じた先輩詩人に、やはり自分自身を投影していると見ていいでしょう。たとえ、思いがかなわずに自分の命を落とすことになろうとも、分かってくれる人がたった三人でも、いや一人でもいてくれたらいい。その人たちが熱い思いを持っていてさえくれたなら必ずや繋いでくれるはず。。。そのためには、生きている間には思いのたけを詩に詠もうではないか。その詩こそが人々の心を動かすのだから。そんな決意を李商隠は屈原に事寄せて固めたのだと思います。(以上、引用終わり)

一休の「狂雲集・狂雲の章」にも屈原の命日を詠った詩があります。

■端午■

千古屈平情豈休
衆人此日酔悠々
忠言逆耳誰能会
只有湘江解順流

千古 屈平 情 豈に休せんや
衆人は此の日酔いて悠々たり
忠言は耳に逆らう 誰か能く会せん
只だ湘江のみ解く順流する有り


「屈平」というのは「屈原」のこと。第二句は「漁父」の忠言に出てきた一節を踏まえている。「悠々」は「苦悩とは無関係に当然のこととして」。「順流」は、孔子が死んだ時、それを悼んで泗水が逆流したという伝説を踏まえ、それを揶揄するもの。言い換えれば、屈原の死を正当なものとして評価する一休のスタンスを明確に示していると言えます。


続いて、柳宗元(柳子厚)です。

■「柳子厚種木槲花図(柳子厚、木槲の花を種ゆる図)」■

独吟□□倚鋤頭
題取詩消木槲愁
遠客帰期公未誤
残生此地祝千秋

独り吟じてショウシャ 鋤頭に倚る
詩を題取して消す 木槲の愁い
遠客の帰期 公未だ誤らず
残生 此の地に千秋を祝す


「ショウシャ」は平易。「瀟洒」が正解。こざっぱりとして清らかなさま。「瀟灑」もある。「鋤頭」は「すきの柄」。「木槲」の「槲」は「かしわ(おおばくぬぎ)」。

中唐の柳宗元(773~819)は、字を子厚といい、河東(山西省)の人。21歳で進士に合格するほどの神童だった。中央政界では韓愈、劉禹錫らと机を並べた。33歳の時、時政を批判して失脚し、西方に左遷され、47歳のとき柳州(広西壮族自治区)の地で死去した。韓愈と共に、唐宋八大家の新文学を以て知られる。

柳宗元と言えば、超俗の名吟として有名なのが「江雪」(五言絶句)でしょう。「寒江独釣」という詩題を生みだし、絵画にもなっています。

千山鳥飛絶
万径□□
孤舟□□
独釣寒江雪


千山鳥飛ぶこと絶え
万径ジンショウ滅す
孤舟サリュウの翁
独り釣る寒江の雪


「ジンショウ」は「迅捷」…ではなくて「人蹤」です。人の「あしあと(蹤)」。「踪」とも書く。「サリュウ」は「蓑笠」が正解。「みのとかさ」。

まさに墨絵の世界そのものですね。

同書の解説によると、「柳子厚は、柳州に流されたとき、木槲をうえる詩をつくる。流謫の地にあって、主恩を忘れぬ忠節のあかしである。一休は、薪の酬恩庵を己れが流謫の地に見立てる。柳子厚や屈原に、わが身をかさねあわせての作品」とあります。

宗元が書いた「木槲花を種ユ」に「上苑ニ年々、物華ヲ種ユ、飄零今日、天涯ニ在リ、祗ダ応に長ク竜城ノ守ト作ラン、剰エ庭前ニ木槲ノ花ヲ種ユ」があり、都にいる帝に対する永遠なる忠誠の気持ちを詠んでおり、「木槲」は忠節の意をあらわすとされます。一休の詩はこれを踏まえています。酬恩庵というのは、京都府京田辺市にある禅寺。1456年、一休が草庵を結んで中興した。別名、一休寺ともいう。

一休は宋元の「江雪」に触発され、「秋江独釣図」という詩を詠んでいます。石川忠久氏の「漢詩鑑賞事典」(講談社学術文庫、P409)に拠りましょう。

清時有味是漁舟
水宿生涯伴□□
蒲葉□□半零落
一竿帯雨暮江秋

清時 味わい有るは是れ漁舟
水宿の生涯 ハクオウを伴う
蒲葉 ロカ 半ばは零落
一竿 雨を帯ぶ暮江の秋


「ハクオウ」は「白鷗」しかないですね。羽の白いカモメ。「ロカ」は「蘆花」が正解。アシの花。

解説には「(宗元の詠んだ)雪景色をむらさめの光景に移し、孤独や失意に耐える心を、自然と一体化し、孤高を持して暮らすよろこびに変えて、超俗の画幅を作り出している」とあります。一休さんの換骨奪胎は素晴らしい。単なるエロすぎる禅僧ではありませんね。

漂泊詩人の杜甫に投影する一休宗純=漢詩学習

本日も一休宗純の「狂雲集」から、杜甫を詠じた詩を4首紹介します。

■「杜甫騎驢図(杜甫が驢に騎る図)」

漠々蜀江風色癯
不騎官馬只騎
残生七十吟髭雪
日短乾坤一□□

漠々たり蜀江の風色癯す
官馬に騎らずして只だに騎る
残生七十 吟髭の雪
日は短し乾坤の一フジュ


「風色」は「顔色」の意。「」は配当外で「ク」「やせる」。「ロ」は「驢」。これ一字で「ろば」とも訓む。ロバに乗っている姿は役人としても下っ端。官途には恵まれなかったということです。「フジュ」は浮かびますか?稍難しい。「諷誦」や「膚受」ではない。「腐儒」が正解。この世に役に立たない学者のことで、杜甫自身の自嘲的な表現です。「腐生」ともいう。

「日本の禅語録十二 一休」の解説(P304)には、「杜甫といえば、ロバに乗った失意の姿が先ず眼前にあらわれる」とあり、「後にわが芭蕉の眼にうつる杜甫のイメージも、この延長線上にある」といいます。

■「看杜詩 二首(杜詩を看む)」

古今詩格旧精魂
江海□□亦主恩
仰叫虞舜一生涙
涙痕濺洒裛乾坤

古今の詩格 旧精魂
江海にヒョウレイするも亦た主恩
仰ぎて虞舜と叫ぶ一生の涙
涙痕洒を濺ぎて乾坤を裛む


「詩格」は「風格、品格」。「精魂」は楊貴妃の魂。「ヒョウレイ」は浮かびますか?正解は「飄零」。落ちぶれること。「漂零」でもOK。「」は配当外で「ユウ」「つつむ」。水気がしっぽりとつつむさま。

杜甫の愛国詩人のイメージは「新唐書文芸伝にはじまる。数シバ寇乱ヲ嘗メ、節ヲ挺シテ汗ス所無シ。歌詩ヲ為リテ、時ノ撓弱スルヲ傷ム。情ハ君ヲ忘レズ、人ハ其ノ忠ヲ憐レムと云ウ。一休もまた同じ評価による。わが中世が、それをもとめたのである」と同書に解説が見えます。

涙愁春雨又秋風
□□難忘天子宮
詩客名高天宝事
寒儒忠義也英雄

涙して愁う春雨 又た秋風
ショッケイも忘れ難し天子の宮
詩客の名は高し天宝の事
寒儒の忠義 也た英雄


「ショッケイ」は「食頃」が正解。「食事をするほどの、短い時間のこと。しばらくの間」。「頃」は、首をかしげるほどの短い時間を表す。「食事」ともいい、「須臾」が同義語でしょうか。「詩客」は杜甫のこと。

「日本の禅語録十二 一休」の解説(P306)によると、「漂泊詩人、杜甫。かれが明主と仰ぐ玄宗は、楊貴妃にうつつをぬかして、天下を混乱におとし入れる。天宝とは、そんな時代の名である。それは、詩人の忠節心のたかまりと表裏する。杜甫をよむ一休は、応仁・文明の日本を読んでいる」とあります。

■「看杜州以後詩有感(杜の州以後の詩を看みて感有り)」


遠客寓居何処帰
一身憔悴掩□□
夔州日暮終焉地
争奈吟髭撚尽微

遠客 寓居して何処にか帰らん
一身 憔悴してサイヒを掩う
夔州の日暮 終焉の地
争奈せん吟髭の撚り尽して微かなるを


「サイヒ」は浮かびますか?「歳費」や「採否」ではない。正解は「柴扉」。しばのとびら、粗末な家の象徴です。「州」(キシュウ)とは、長江上流にある今の四川省奉節県で杜甫が流れ着いた町。766年の春から2年間住んだ。そして、「州以後」というのは、彼が55歳から5年間、杜甫の最晩年を指す。彼方此方を彷徨った挙句、洞庭湖上で病を得て船の上で死ぬ。59歳のことだった。杜甫はこの5年間に大作をものにしているとされます。

加藤周一は同書の「一休という現象」で、一休がエロチックなものを詠じた背景として、「連歌」に代表される大衆文化が広がっていたことを挙げ、彼の特徴は「一休の生きていた時代には、官能的な表現があった。狂言はしばらくおくとして、『犬筑波集』の句や『閑吟集』の歌は、しばしば直接に肉体的であり、この時代の大衆文化のなかで、性的表現の禁忌が少なかったことを示している。一休が独特であったのは、決して露骨な性的表現を用いたからではなく、それを七言絶句に用いたからである。その意味でのみ、一休は大衆に近かったのであり、したがって大衆から遠かった禅林のなかでは、型破りにならざるをえなかった」(P11~12)と述べています。閑吟集に代表される情熱の歌謡が流行していたように、いわゆる「エロ」そのものは当時の文化として受け入れられる土壌は十分あったが、それを漢詩の世界に持ち込んだことが最大のユニークさを示しているというのです。なるほど、一休が特殊だったのではない。その表現の場を敢えて漢詩の世界に持ち込んだ着想というか、大胆な行動が特筆されるのです。確かに、漢詩にするといかにも一見、儼しいですからね、でも、実はこんなにも柔らかな世界を描いている。そういうギャップが一休宗純の最大の魅力と言えるでしょう。

そんな一休ですが、杜甫に対する共感は深いものがあり、これ以外にも彼の詩には杜甫を詠じることが多いです。漂泊の詩人の流浪の生涯はまさに、88歳まで生きた一休自身の人生と重ね合わせていたのかもしれません。

陶淵明、杜甫…エロすぎる禅僧?一休さんの「通信簿」=漢詩学習

エロすぎる禅僧こと一休宗純が生涯で詠んだ詩偈、法語などすべての漢文作品を集めた「狂雲集」(講談社「日本の禅語録十二 一休」、加藤周一 柳田聖山)を古書肆にて入手しました。さすがは一休、エロ詩や超然たるトリッキーな詩が多い。「吸美人婬水」というのもありますが、……ここではエロ詩はもう輟めておきます。まだまださらっと目を通しただけですが、まあ、エロは扨措くとしても、なかなか面白いし、漢字の勉強にもなります。そんな中で、「第三章 夢閨の章」に、歴代の中国詩人を詠じた詩がずらりと出ているのに目が留まりました。

屈原、陶淵明、杜甫、白楽天、杜牧、蘇東坡、王安石…名だたる詩人を一休の切り口で詠んで捧げている。いわば一休による「通信簿」です。

まずは、陶淵明。

「愛紅菊淵明像(紅菊を愛する淵明の像)」。

赤心片々約秋風
西晋風流議未空
応是淵明□□
□□衰色晩花紅

赤心片々として秋風を約す
西晋の風流 議未だ空しからず
応に是れ淵明がヒカの血なるべし
トウリの衰色 晩花紅なり



陶淵明は一休好みの隠逸詩人と言っていいでしょう。「飲酒(二十首) 其五」の有名な一節「菊をトウリの下に采り(采菊東籬下)」を踏まえていますが、一休の手にかかると、その菊の色は何と「紅」になってしまいます。「トウリ」は言うまでもなく「東籬」。東の垣根。菊のイメージは黄色か白色かと思いますが、紅い菊というのは、淵明の内なる熱い血潮を含意している。田園に帰った淵明の一本気なところ。「ヒカ」は、①悲歌②悲笳③飛舸④皮下のうちどれが当てはまるかはもうお分かりですね?正解は「皮下」。

そして杜甫。
「杜甫像(杜甫の像)」。

天宝寒儒三十年
常呼虞舜仰□□
浣花渓水吟中涙
白髪江山夜雨前

天宝の寒儒 三十年
常に虞舜と呼んでソウテンを仰ぐ
浣花渓水 吟中の涙
白髪の江山 夜雨の前


各地を放浪する生涯を送った杜甫もまた一休好みの詩人です。仕官するのが遅かった杜甫には一休も共感を覚えています。天宝は玄宗皇帝が楊貴妃に湎れた時代を象徴する元号です。「寒儒」というのは出世が遅れた杜甫のこと。「虞舜」というのは、「舜」のことで、古代の伝説上の聖天子。姓は有虞氏。尭から位を譲られ、また自分の後任には禹を推した。杜甫は玄宗皇帝を「尭舜」の如く信奉し敬い、初めて官途に就くことができた。「ソウテン」は、①勦殄②層巓③掃殄④蒼天⑤曹霑⑥曾点⑦漕転⑧争点から選んでください。「仰ぐ」んですから、正解は「蒼天」です。「浣花」は、四川省成都の西、一名、濯錦江といい、杜甫が草堂を構えた場所。ここでの生活が生涯で最も安定していたと言います。「吟中の涙」は「春望」の「時に感じては花にも涙を濺ぎ」を想起したものでしょうか。杜甫は成都を離れ家族と共に長江を下り、晩年を流浪で暮らします。第四句は不遇をかこつままでの生活を詠ったものでしょう。「杜甫一生憂う」と言われる杜甫の人生こそ、一休の波長に合うものだったのでしょう。

傷心の王維も陶淵明に傾倒へ=漢詩学習

本日は王維の「菩提寺の禁に、裴迪来りて相い看て説く。逆賊等凝碧池上に音楽を作す。供奉人等声を挙ぐるに、便ち一時に涙下ると。私に口号を成し、誦して裴迪に示す」という長~いタイトルの詩を玩わいます。長いのは題だけで、詩本体は七言絶句で、比較的シンプルな詩です。
岩波文庫「王維詩集」(P255~257)から。

万戸傷心生野煙
百官何日更朝天
□□葉落空宮裏
凝碧池頭奏管絃

万戸 傷心 野煙を生ず
百官 何の日か 更に天に朝せん
シュウカイ 葉は落つ 空宮の裏
凝碧の池頭 管絃を奏す


家々が皆、野煙を上げているのは心の痛みを表しているかのようだ。再び帝の前に百官が勢ぞろいするのはいつのことになるのか。秋となりえんじゅの枯葉がひっそりとした宮殿の中に舞い落ちている。凝碧の御池のほとりでは管弦楽の調べが奏でられているばかりだ。

「シュウカイ」は熟語としては難しいでしょう。解釈をヒントにして「秋になってえんじゅに枯葉が…」ですから正解は「秋槐」。「えんじゅ」は「カイ」が音読みです。「鬼」を「キ」ではなく「カイ」とノータイムで読めるようにしなければいけません。「かたまり」の「塊」は常用ですが、①「隗より始めよ」の「隗」②「崔嵬」(たかくけわしい)の「嵬」③「傀儡」(くぐつ)の「傀」④「玫瑰」(はまなす)の「瑰」などがあるので「グループ化」しておきましょう。

で、これだけ読むと何のことやらいまひとつ分からないでしょうね。題を見ると、「逆賊」とあるのは「安禄山」のことなんです。これまでも何度も取り上げていますが、755年12月に唐王朝に反旗を翻した安禄山の乱が舞台。翌年6月には都長安も陥落しました。漢詩国民投票でぶっちぎりの一位を獲得した杜甫の「春望」はこの都の荒れ果てたさまを詠んだものでした。この乱は当時の詩人たちにはかほど大きな衝撃を与えました。そして、王維も例外ではなく捕虜として監禁されたのです。そうしたさなかに詠んだのが上記の詩です。

「凝碧池」というのは、副都・洛陽にある御苑内の池のこと。安禄山は洛陽に本拠を構えていました。「供奉人」というのは文学芸術にすぐれ宮中に召しだされて御用を承る者で、あの李白もこれに任ぜられて、楊貴妃を褒めまくって墓穴を掘ったのでしたよね。ここでは宮廷所属の音楽団の団員を指します。「口号」は「口ずさみながら作った詩」。

この詩のエピソードについては、音楽好きだったあの玄宗皇帝が自ら宮中で学団を養成し、「梨園の弟子」と称したのは例の長恨歌でご存知ですよね。同書に拠りましょう。「彼らは長安が陥落すると安禄山の捕虜となってしまった。禄山は凝碧池で大宴会を開き、彼らに演奏をさせたが、みな涙を流しながら演奏した。禄山の一党はみな刀を抜いて彼らをおどかした。楽団の一人雷海青はたまりかねて楽器を投げだし、玄宗のいる西方をめがけて大いに泣きさけんだ。禄山は怒りにまかせて海青を八裂にしてしまった。王維はそのことを聞き伝えてこの詩を詠んだという」とあります。出典は玄宗時代の逸話集「明皇雑録」。

そして、王維は次のような詩(五言絶句)も詠じています。これが彼の未来を救います。

安得捨塵網
払衣辞世喧
悠然策□□
帰向桃花源

安くにか塵網を捨つるを得て
衣を払いて世の喧しきを辞し
悠然としてレイジョウを策き
帰りて桃花源に向かわん


何とかして世俗のしがらみを捨て、衣の塵を払って世間の騒音に別れを告げ、ゆったりとくつろいであかざのつえをつき、桃花源に帰ってゆきたいものだ。(石川忠久氏の「王維一〇〇選」P253~254)

王維は獄中にあってこの詩を詠じました。「塵網」は「けがれた網、つまり、世間のしがらみ」。先日紹介した陶淵明の「園田の居に帰る 其一」にも出てきました。最後の句の「桃花源」は言わずと知れた「桃花源の記」。陶淵明への傾倒を夢に見ます。「払衣」は「衣の塵を払って辞去する、つまり、隠遁すること」。「レイジョウ」は「令丞」「令嬢」「礼状」「令状」「霊場」「礼譲」ではないですよ~。正解は「藜杖」、「あかざのつえ」です。「策き」は「つ・き」と訓む。

石川氏の解説によると、「757年の初めに安禄山は子の安慶緒に殺され、秋には一時、乱も終息にむかうかにみえた。玄宗のあとを継いだ粛宋は長安にもどり、十月には王維も唐軍に救われたが、敵に仕えた偽官として処罰されることになった」といいます。岩波文庫の「王維詩選」によると、「この詩は粛宋の耳に入って、王維が本心から賊に降ったのではないことがわかっていたため、乱後の処分が軽くすんだと言われている」とあります。本来なら死刑になるところを、降格にとどまりました。詩の内容が前王朝への忠誠心を表したものと理解されたのです。弟の王縉による切実なる助命嘆願も功を奏したといいます。

杜甫も同じように賊軍の囚われの身となりましたが、自力で脱出したことが評価され、天子を諌める官職を得ました。乱後、王維と同僚となった時、次のような詩(五言律詩)を王維に贈りました。王維の方が先輩です。傷心の先輩に深い同情をささげています。(「王維一〇〇選」P258~260)訓み下し分のみ。

王中允維に贈り奉る

中允声名久し
如今ケッカツ深し
共に伝う庾信を収むと
比せず陳琳を得たるに
一病明主に縁る
三年独り此の心
キュウシュウ応に作有るべし
試みに誦せ白頭吟


中允の王維どのは詩人としてつとに名声を得ておられ、いま、非常に深く苦しんでおられる。世人はみな、敵前逃亡しても臣下として迎えられたかの庾信のような、りっぱな人物と伝えている。最初は袁紹に仕えておきながら、曹操の部下となった陳琳のような輩とはくらべようもない。賊軍に捕らわれて口がきけないふりをしたのも、ひとえに天子への忠心からしたこと。獄に下され、三年間ひたすら唐王朝への忠誠を貫かれた。その苦しみに憂えた間に、きっと詩作がおありのはずです。ちょっとあなたさまの「白頭吟」をお聞かせくださいませな。

「ケッカツ」は「契闊」。苦労すること。「死生契闊」をお忘れなく。
「キュウシュウ」は浮かびますか?「仇讐」「鳩聚」「翕習」ではない。常用漢字ですが、やや難しい。正解は「窮愁」。貧乏で難儀をしていることからくる深い悲しみ。杜甫がよく使う語彙です。「窮賤」(キュウセン)は「貧乏」、「窮巷」(キュウコウ)、「窮閻」(キュウエン)は「むさくるしげな場末の町」、「窮涸」(キュウコ)は「金がつきはて生活に苦しむこと」。「窮~」という熟語は数多いので要注意です。

詩人はどんな境遇に置かれても自分自身を詠じるしか道はない。それが自らの運命を切り開くのです。それが分かる者同士だからこそ杜甫は王維に贈ったのでしょう。いずれにせよ安禄山の乱は王維の心に傷を残した事件だったようです。陶淵明が追い求めた隠逸の世界へと急速に傾き始めるきっかけとなりました。誰しもあるでしょう。心に負った傷が。そして、それを癒すにはもはや従前のありきたりのものではダメなのです。

旅人・芭蕉の憧れは田園に帰った「あの人」?=漢詩学習

行く春や鳥啼魚の目は泪

松尾芭蕉が奥の細道の旅立ちの場面で詠んだ有名な句です。これは、あの中国の隠逸詩人、陶淵明の「園田の居に帰る」のある一節を下敷きにしているとされます。さて、どこでしょう?

「帰園田居其一」。訓み下し文だけでご容赦ください。

少きより俗に適する韻無く
性 本丘山を愛す
誤って塵網の中に落ち
一去十三年
羈鳥旧林を恋い
池魚故淵を思う
荒を南野の際に開かんと
拙を守って園田に帰る
方宅十余畝
草屋八九間
楡柳後簷を蔭い
桃李堂前に羅なる
曖曖たり遠人の村
依依たり墟里の煙
狗は吠ゆ深巷の中
鶏は鳴く桑樹の巓
戸庭塵雑無く
虚室予有り
久しく樊籠の裏に在りしも
復た自然に返るを得たり


ちょっと長いですがいかがですか。石川忠久氏の「陶淵明詩選」(NHKライブラリー、P117)によると、「詩の後半は、ほとんどが対句仕立てで調子よい」とあります。確かに、「曖曖たり遠人の村 依依たり墟里の煙」の二句が傑出していると言います。「遠くの村里から立ちのぼる夕餉の煙には、何ともいえない心の安らぎがあると指摘。その次の「狗と鶏の句」も印象深いとして、「単なる実景描写ではなく、平和なユートピアの象徴。漢代の古詩の『鶏は鳴く高樹の巓 狗は吠ゆ深宮の中』をもじったもので、もとは『老子』に基づく」と解説しています。「老子」にある理想社会を描いた「小国寡眠」の章に、「隣国相望み 鶏犬の声相聞こえ 民老死に至るまで相往来せず」となっています。

芭蕉は「鳥」と「魚」を詠んでいる。「羈鳥旧林を恋い 池魚故淵を思う」が正解ですね。「望郷の思い」を籠の鳥と池の魚に託しています。雁字搦めの生活から抜け出したい。一方、芭蕉の句は、惜春の情に、これからの前途三千里の旅路の行く末を案じつつ、江戸にいる知人たちとの惜別の思いを重ねています。淵明は13年間続けた宮仕えに倦んで故郷に戻ろうと決意した。翻って、芭蕉は一堂に見送られて去りがたい思いを募らせている。芭蕉が何を志してみちのくに旅立とうと思ったのかは知りません。当時のみちのく旅行は決死の覚悟だったのではないかと想像はします。

一見すると淵明と芭蕉のそれぞれの詩興は相違うのではないかとも思われます。しかし、共通する思いは「現実逃避」と牽強付会してみました。いや、「逃避」という言葉が少し違うかも。「遊離」。そうそう、「現実からの遊離」。「幽体離脱」。荘子の言うところの「胡蝶之夢」。夢の中で俺が蝶になったのか、それとも蝶が夢で俺になったのか。「彼我」の区別もない曖昧な世界。裏が表で、表が裏で。。。

淵明の詩ですが、重要語彙が目白押しですね。「韻」「塵網」「羈鳥」「故淵」「方宅」「楡柳」「後簷」「羅なる」「曖曖」「依依」「墟里」「深巷」「巓」「塵雑」「樊籠」。

この「園田の居に帰る」は、例の「帰去来兮辞」と表裏を為すと言え、五首連作です。石川氏の解説によると、「“心に適った場所に帰る”場面は、多くの後世の詩人たちの共感を呼んだ」と記しています。「古人も多く旅に死せるあり」と言った「奥の細道」も、実はいわば「旅」をやめて故郷に帰ることができた淵明への憧れの「裏返し」ではないか。自分にとっての相応しい故郷を見つける旅だったのではないかとも迂生は思うのです。いや、奥の細道にかぎらず、芭蕉は常に故郷を追い求めていたのではないか。僭越なる一知半解ですが。。。

横歩きの八本足って何?…それより藤井竹山て誰?=漢詩学習

「シルヴァーウィーク」闌です。迂生も「忙中有閑」で、女房の実家である某西域に来ております。しかしながら、blog更新だけは怠らないようにします。便利な世の中でありまして、「予約配信」なるものができるんです。したがって、「形」だけは毎日更新が可能です。

本日はまず、藤井竹外(1807~1866)という江戸時代の漢詩人の五言絶句を読んでください。漢字も簡単で内容も簡単です。頼山陽に学び「七絶の鬼」と称されたようです。明治書院「新書漢文大系7 日本漢詩」(P144)から。

天然具八足
戈甲宛軍装
本是無腸子
横行形不妨


さて、この詩のタイトルは何でしょうか?つまり、これは何を詠じた詩でしょうか?という問題です。じっくり読むも何も簡単ですよね。正解は最後に。。。

で、この藤井竹外なんですが、例の「漢詩国民投票」では第20位にランクインしており、日本人詩人の中では7番目の票を集めました。とはいえ、迂生にとって全く初耳の人です。 竹外は本名を啓(または啓二郎)。幕末の激動期を生きた高槻藩の中堅家臣。幕臣ながら20代から漢詩づくりに熱中し、多くの作品を残しています。吉野の桜を詠んだ「芳野懐古」(七言絶句)が代表作の一つです。日本人の魂である「桜」をやや懐古趣味的に詠じた詩です。
「漢詩鑑賞事典」によりましょう。P833~834です。


古陵松柏吼□□
山寺尋春春□□
□□老僧時輟帚
落花深処説南朝


古陵の松柏テンピョウに吼ゆ
山寺春を尋ぬれば春セキリョウ
ビセツの老僧時にくをめて
落花深き処南朝を説く


深い御陵のあたりに生えた松や柏は、春のつむじ風を受けてゴウゴウと鳴っている。山寺の風情をたずねてみると、あたりはひっそりとしている。ゆきのようにしろいまゆの老僧が、一人掃除をしているが、ときどき掃く手をとめて、花びらが散って積もったあたりに立ち、過ぎしむかしの南朝の物語を説法してくれた。

「テンピョウ」と言えば「天平」しか浮かばないようではアウトです。正解は「天飆」。「空高く吹く強風」のこと。「飆」は「つむじかぜ」。「セキリョウ」は平易。「寂寥」が正解。「ビセツ」は浮かびますか?「ゆきのように白いまゆ」とあり、「眉雪」が正解です。面白い表現です。転じて、老人を指します。「舒眉」は「まゆをのばす」と訓み、「しかめたまゆをのばす、心配がなくなって安心して喜ぶこと」。「彗くを輟める」は訓み問題に良さそうです。「は・くをや・める」。「彗」は「ほうき」とも。「輟」は「テツ」。
「南朝」というのは、南北朝の争乱の南朝を指す。

同書の「鑑賞」によると、「この詩は元稹の『行宮』を翻案したものと見ることができる」とあります。「行宮」の第3、4句にある「白頭の宮女在り 閑坐して玄宗を説く」をなぞらえて、同じく第3、4句の「眉雪の老僧 南朝を説く」に替えたというのです。「玄宗皇帝の華やかな宮廷をしのぶのに、かつての美人、今はひっそりと離宮を守る老いた宮女というのは、歳月の推移を表しておもしろい」と解説。続けて、翻って竹山の詩は「南朝の後醍醐帝の悲哀や、楠正成などの武将たちの戦話だから、学者風で分別臭くもある老僧に語らせるのが、まことによく合う。老僧を表現するのに、眉雪といったのはなかなかうまい」として、「眉雪」がpunch-lineであることを称賛しています。

しかしながら、「行宮」の宮女が語るのは、彼女が若き日に実際に見物した世界であるのに対して、こちらの詩は「五百年前の昔話で、老僧の体験でないところが迫力に乏しいとする論評もある」と瑕疵にも言及します。そして、「老僧が掃くのは落花である。落花は無論、吉野名物、桜の花。この句により、竹外は“藤落花”(とうらっか)ともてはやされたほどである」といいます。ここで出てくる元稹は中唐の詩人で白居易の無二の親友。いつか取り上げましょう。

さてさて、冒頭の答えです。「戈甲」(ほこと、よろい、武器のこと)、そして、「横行」。これらが大ヒントですね。

正解は「蟹」。「八足」に引っ張られて「章魚」と答えたらダメですよ。蟹の螯は足にはカウントしませんよ。「無腸子」というのは「蟹」の異称。「無腸公子」ともいいます。柏木如亭の「詩本草」の「15 蟹」(岩波文庫、P62)に「独だ無腸公子に遇へば則ち必ず酔ひを尽くす」とあります。その註釈欄では「本草綱目」巻四十五・蟹に「時珍曰く、その外骨なるを以て則ち介士と曰ひ、その内空なるを以て則ち無腸と曰ふ」とある。どうやら「介士」という言い方もあるようです。外観と内観で言い換えるんですね、面白い。

生まれつき八本の足を持ち、矛と鎧をつけてさながら武装兵士のようだ。「無腸子」の渾名があるくらいだから、腹にはなんのわだかまりもない。だから、横歩きしたって一向に構わんのだ。

蟹の描写を通じて、赤心率直の用を説いているのです。蟹がなんで横に歩くのかが少しだけわかりましたね。
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char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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