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陶淵明の「閑情の賦」シリーズ⑤=次第に落ち着くストーカー…

 本日は陶淵明先生の「閑情の賦」シリーズの5回目。mixi日記からの転載です。

今回は全般に大人しめです。次第に自然描写が多くなり、直接的な真情を詠むよりは、自然に事寄せる形を取っています。ストーキング熱を冷ますにはやはり、自分を外から客観的に見つめるのが「特効薬」なのでしょう。自分の内面から、自惚れた「俶さ」(よさ)を歪めて見るのではなく、一歩も二歩も離れた外から冷徹な「慝いところ」(わるいところ)を見るのです。そうすれば、段々とクールダウンしていく。。。しかし、度が過ぎると今度は新たな「病」に罹ってしまうので注意が必要です。


 葉は燮燮として以て条を去り、

 気は淒淒として寒に就く。

 日は影を負うて以て偕に没し、

 月は媚かしく雲端に景る。


 ■「燮燮」

 =「しょうしょう」。葉の落ちる音、とあるが難しい表現です。「燮」は「やわら・げる」と訓み、有名な「陰陽を燮理する」(いんようをしょうりする=宰相が国家を治めること)がある。この熟語は珍しい用例と言っていいでしょう。「燮和」(しょうわ)という熟語もある。世の中や陰陽をやわらげて調和させること。ちなみにこの漢字は覚えるの難しいですが「ひげんひまた」で迂生は覚えて忘れません。

 ■「条」

 =「えだ」と表外訓み。見出し語。とくに、「こえだ、細く長いえだ」とある。「条枝」(じょうし)、「柳条」(りゅうじょう)、「枝条」(しじょう)、「桑条」(そうじょう)、「条達」(じょうたつ)。

 ■「淒淒」

 =「せいせい」。漢検辞典小文字にあり。すごい、すさまじい、ぞっとするさま。「淒」は「さむ・い」「すご・い」よ訓む。ニスイである「凄」とは勿論別字ですが似た意味に使われるという。「淒惨」(せいさん)は、また登場「せいさ~ん」です。「リッシン偏」「サンズイ」「ニスイ」+「妻」はいずれも「すさまじい」「さむい」「すごい」。

 ■「就く」

 =「つ・く」。近づく、なる。「寒に就く」で「寒さに近づく、冬が近づいている」。「就木」(しゅうぼく=死ぬこと)=「就世」(しゅうせい)、「就褥」「就蓐」(以上しゅうじょうく=就寝)=「就牀」(しゅうしょう)。

 ■「媚かしい」

 =「なまめ・かしい」。通常は「こ・びる」「こび」と訓むが、意味的には「なまめかしい」。音読みは「び」で「明媚」(めいび→風光明媚)、「媚態」(びたい)、「阿媚」(あび)、「媚笑」(びしょう)、「媚薬」(びやく)、「媚子」(びし)、「媚辞」(びじ)=「媚語」(びご)、「媚承」(びしょう)、「媚附」(びふ)。


(解釈)木々の葉っぱはみなはらはらと枝を離れ落ちる。空気は冷え冷えと寒さ厳しい冬に近づく。太陽が沈みあたりが暗くなるころ、月だけが婀娜っぽい光を雲切れから放っている。

この段はこれまでから一転して、風景描写のオンパレード。自分の気持ちを抑えて冷静になろうと孜めています。いい傾向です。そう、気持ちが昂ぶってどうしようもないときは、いったん引いて自然を詠みましょうよ。脳内のマグマが枯渇して、思考回路はショートしている。健忘しかかり、顔色が悪いんですから、もう何をしてもうまくいくはずかないのです。葉、気、日、月。。。いずれ劣らぬ自然の構成物を眺めて、気持ちを静めましょう。熙らげましょう。偏屈なストーカーから真人間に戻るために。。。


 鳥は声を悽しくして以て孤り帰り、

 獣は偶を索めて還らず。

 当年の晩暮を悼み、

 茲の歳の殫きんと欲するを恨む。



 ■「悽しい」

 =「いたま・しい」。またまた登場です。「いた・む」とも訓む。「いたましい」は「惨ましい」「黯ましい」「痛ましい」「傷ましい」。

 ■「偶」

 =「ぐう」。対になる、つれあう、たぐい。「偶語」(ぐうご)、「偶坐」(ぐうざ)、「偶視」(ぐうし)、「偶対」(ぐうたい)、「偶匹」(ぐうひつ)=「偶儷」(ぐうれい)=「配偶」(はいぐう)。人偏でなくスキ偏になった「耦」(なかま、ペア)も同じ意味で「耦坐」(ぐうざ)、「耦語」(ぐうご)、「配耦」(はいぐう)、「耦刺」(ぐうし)などがある。

 ■「茲の」

 =「こ・の」。「茲」は「ここ」とも訓み、音は「し、じ」。ここ、これ、この、ここに。類義語は「此、斯」。「しげる」「ますます、どんどん増えるさま」との意味もある。熟語には「如茲」「若茲」(かくのごとし)、「来茲」(らいじ)、「今茲」(こんじ)。ちょっと馴染みが薄い漢字ですから、目に焼き付けておきましょう。

 ■「殫きる」

 =「つ・きる」。見出し語。使い果たしてなくなる。全部なくなる。「つ・くす」とも訓む。「ことごとく」とも。音読みは「たん」。「殫尽」(たんじん)、「殫見」(たんけん)、「殫竭」(たんけつ)=「殫極」(たんきょく)、「殫見洽聞」(たんけんこうぶん=物知り)、「殫残」(たんざん)、「殫亡」(たんぼう)。


(解釈)鳥は痛ましい声をあげひとり塒に帰って行く。獣は伴侶を探しているので戻れない。若いと思っていたが次第に寄る年波、余命の尽きる日も近いと思うと悲しくなってくる。残された時間は少ないのに。。。。

この段は少し「異質」ですね。自然を眺めて気分転換を図ったはずなのに、鳥や獣と人間である自分の立場とを比べている。鳥なら独りでも家に帰るが、盛りのついた獣はパートナーをナンパできるまで外をうろうろしている。はっ、まさに自分じゃないか。。。そんな無駄な時間を費やしているうちに、恐怖の「老い」にも直面。そう、時間を感じ始めたのです。残り時間は少ない。何をやっとるんじゃ、おのれは?焦りでしょうか?



 宵夢 以て之れに従わんと思えども、

 神 飄颻として安からず。

 舟に憑りて棹を失えるが若く、

 崖に縁りて攀る無きに譬う。


 ■「神」

 =「しん」。こころ、たましい。「神~」の熟語で注意すべきは「神韻」(しんいん)、「神宇」(しんう=中国)、「神荼」(しんと→鬱塁神荼=うつりつしんと)、「神廟」(しんびょう)、「神飆」(しんぴょう)、「神牖」(しんゆう=心の窓)、「神籟」(しんらい)など。

 ■「飄颻」

 =「ひょうよう」。ひらひらと動いて定まらないさま。「飄揺」(ひょうよう)とも書く。「飄」は「つむじかぜ」「ひるがえ・る」とも訓む。「飄逸」(ひょういつ)、「飄瓦」(ひょうが)、「飄客」(ひょうかく)、「飄忽」(ひょうこつ)、「剽疾」(ひょうしつ)、「飄然」(ひょうぜん)、「飄蕩」(ひょうとう)、「飄泊」(ひょうはく)=「飄寓」(ひょうぐう)、「飄泛」(ひょうはん)、「飄飄」(ひょうひょう)、「飄飄乎」(ひょうひょうこ)、「飄蓬」(ひょうほう)、「飄揚」(ひょうよう)、「飄零」(ひょうれい)=「飄落」(ひょうらく)=「飄墜」(ひょうつい)。「颻」は「よう」で「風が物を揺り動かす」=「揺」と同系。もちろん配当外。

 ■「憑る」

 =「よ・る」。よりかかる。「憑」は「つ・く」「たの・む」とも訓み、音読みは「ひょう」。川を徒歩で渡るのは「憑河」(ひょうが=馮河、暴虎憑河、暴虎馮河)、「憑依」(ひょうい)、「憑依妄想」(ひょういもうそう)、「憑拠」(ひょうきょ)、「憑険」(ひょうけん)、「憑肩」(ひょうけん)、「憑恃」(ひょうじ)=「憑仗」(ひょうじょう)=「憑藉」(ひょうしゃ)、「憑弔」(ひょうちょう)、「憑付」(ひょうふ)。

 ■「攀る」

 =「すが・る」。通常は「よ・じる」。よじのぼること。「すがる」は「縋る」もある。「攀」の音読みは「はん」で、熟語は「攀援」(はんえん)、「攀縁」(はんえん)、「追攀」(ついはん)、「登攀」(とうはん)、「攀桂」(はんけい)、「攀登」(はんとう→意外性を突いて出そうだ)、「攀竜附鳳」(はんりょうふほう)、「攀轅臥轍」(はんえんがてつ)、「攀恋」(はんれん)=「攀慕」(はんぼ)。


(解釈)夜中の夢の中だけでもあなたについていきたいのだが、魂はふらふらと揺れ動くばかり。気持ちは休まらない。譬えれば、舟に乗って棹をなくしたように、崖を登るもつかまるところがないように、気持ちが不安定なのだ。

夢に魘されるシーンですね。現実から逃避して夢であなたに遭うことで気持ちを休めようとするのですが、かえって不安になってしまう。舟や崖というアイテムはまさにそうした不安の象徴でしょう。


 時に畢昴は軒に盈ち、

 北風 淒淒たり。

 〔忄(リッシン偏)+冏〕として寝ねられず、

 衆念 徘徊す。

 起きて帯を摂びて以て晨を伺うに、

 繁霜 素階に粲たり。


 ■「畢昴」

 =「ひつぼう」。「畢」も「昴」も二十八宿の一つ。共に晩秋を代表する星座とされる。「畢」は、雨を降らせる星と考えられた。基準星は今の牡牛座に含まれる。和名は「あめふりぼし」。「昴」は、基準星は同じく牡牛座に含まれ、肉眼では普通、六つの星がまるく固まって見えるので、六連星とも。中国では、俗に七簇星・琉璃星ともいう。秋を代表する星座で、白虎の座といわれる。和名は「すばる」。(http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ktchn2800w.htm

 ■〔忄(リッシン偏)+冏〕

 =「けいけい」。心がやすらかでないさま。この漢字は配当外。音符の「冏」は1級配当漢字で「けい」「あき・らか」。「烱」(=炯)も「けい」。

 ■「衆念」

 =「しゅうねん」。さまざまな思い、妄想がかけめぐること。「衆~」で「多くの~」という言い方は、「衆口」(しゅうこう→衆口鑠金)、「衆芳」(しゅうほう)、「衆妙之門」(しゅうみょうのもん)、「衆愚」(しゅうぐ)、「衆辱」(しゅうじょく)。

 ■「摂ぶ」

 =「むす・ぶ」と表外訓みなのか、宛字訓みなのか。いずれにせよ辞書には見えない訓みです。通常表外訓みで「か・ねる」「か・わる」「と・る」といささか変わった訓みがあるので、これも要注意。「摂政」(せっしょう)で御馴染みでしょう。多分、このうち「てにとる」という意味から派生して「むすぶ」、「てにとってむすぶ」と訓ませているものと思われる。あるいは訓読で「帯を摂る(と・る)」と訓んでも間違いではなかろう。「摂~」の熟語は「摂受」(しょうじゅ→「しょう」という表外の音読みに注意)、「摂衣」(せつい)、「摂生」(せっせい)、「摂取不捨」(せっしゅふしゃ)。

 ■「繁霜」

 =「はんそう」。たくさんの霜。髪が酷く白くなったことの喩えとしても用いる。ここでも両方の意味を掛けていると思われる。「繁~」で「たくさんの~」という言い方は、「繁衍」(はんえん)、「煩苛」(はんか)、「繁華子」(はんかし)、「繁辞」(はんじ)、「繁縟」(はんじょく→繁文縟礼)、「繁文」(はんぶん)、「繁露」(はんろ)。

 ■「素階」

 =「そかい」。白くなった階段。「素」はここでは、「白い」という意。既出です。「階」は「きざはし」との表外訓みがある。

 ■「粲」

 =「さん」。あきらか、あざやか。この意味では「燦」も同義です。「粲粲=燦燦」(さんさん)、「粲然=燦然」(さんぜん)。「粲」には、「しらげよね、ついて白くした米」や「いい、めし、ごちそう」の意もある。「一粲を博す」(いっさんをはくす=ご笑納ください)は成句として覚えよう。この場合は、自分の詩文や贈り物に対して白い歯を出して笑ってお納め下さいという意。


(解釈)あめふりぼしやすばるといった晩秋の星座が窓一杯に燦めいている。北風が吹きすさび、目は冴えて眠れない。思いが頭を搔け巡り、起きて帯を締めて夜明けを待つ。外を見ると霜が階を覆って辺り一面真っ白だ。年を重ねた自分を思わないわけにはいかない。

ぐぐっと逼り来る段ですね。心に沁みます。人生の晩年を詠じると共に、抗えない老いへの諦めにも似た真情が風景と共に詠まれています。慥かに寂しいんですが、でも、それは己の欲望に勝てるかもしれないという淡い期待の「芽」でもあるのです。

「起きて摂びて以て晨を伺うに」との件には、そうした決意が感じられます。覚悟を決めたというか。眠れずに夢の中で悶悶とするよりは、起きて着替えて朝を待つ。未来を迎える。そして、刮目して現実から逃げない。窓の景色を眺めると寒々とした真っ白い階が。でも、その「攻めの姿勢」こそがあの人への叶わぬ思いを打ち消すことができるのではないでしょうか。
いよいよ次回は陶淵明「閑情の賦」の最終回です。ストーキングは一生続かない。。。人生はプチストーカーの積み重ね。。。。

(以上、charのmixi日記、2009年3月15日付からの転載です)
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「鐃鉤搭索」と「作爺下頷」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」は、「鐃鉤搭索」(ドウコウタッサク)と「作爺下頷」(サクヤカガン)。


 「第九八則 天平和尚の両錯」の「本則」に次の件が見えます。


【本則】 …一日(あるひ)、西院遥かに見て召して云く、「従漪」。〔鐃鉤搭索し了れり。〕平、頭を挙ぐ。〔著れり。両重の公案。〕西院云く、「錯」。…西院云く、「適来(いましがた)の這の両錯、是れ西院の錯か、是れ上座(そなた)の錯か」。〔前の箭は猶お軽きも後の箭は深し。〕平云く、「従の錯なり」。〔馬鞍橋(ばあんきょう)を錯り認めて、喚んで爺(おやじ)の下頷(したあご)と作す。恁麼(さよう)の似(ごと)き衲僧、千箇万箇(せんにんまんにん)を打殺すとも、什麼の罪か有らん。〕西院云く、「錯」。〔雪上に霜を加う。〕…

 「鐃鉤搭索」は難しい四字熟語で、当然ながら漢検四字熟語辞典には記載がありません。「がんじがらめにして身動きできなくすること」と岩波文庫の語釈にはありますがよく分かりません。「鐃」は「どら」。鐘に似ている小さな楽器で、じゃ~んと打ち鳴らす。「鉤」は「かぎ、L字型の物を引っ掛ける金具」。「鐃鉤」は「捕獲用の熊手」という解釈もあります。「搭」は「のせる、つける、あわせてくっつける」。「搭索」は辞書に見えない。

 「馬鞍橋」は一般には「驢鞍橋」(ロアンキョウ)と書き、「ロバの鞍のくらぼね」。

 「爺の下頷と作す」は文字通りの解釈は「おやじのしたあごだと思う」。前段の「馬鞍橋」を自分の父親のしたあごの骨と思い込んでしまった。つまり、物事の見分けも付かない愚か者のこと、また、間違いのこと。漢検四字熟語辞典には「阿爺下頷」(アヤカガン)として掲載されています。「阿爺」は「おとっつあん」。だいじなおとっつぁんの骨と馬の鞍骨の区別もつかんのかわれは?「下頷」(カガン)=「下顎」(カガク)。んなら、「下腮」(カサイ?)、「下顋」(カサイ?)、「下頤」(カイ?)もありでげすかね?辞書には見えませんでしたが…。そうか、すべて「したあご」と訓で訓めばOKだね。ん?「頤」はこれ一字で「したあご」か。なら、「下頤」はダブリですね。「頤を外す」(おとがいをかずす)のも「したあご」に決まっていますよね。「阿爺頤」か(でも、こんなことばないっすからね)。


★「嘲風哢月」(チョウフウロウゲツ)?「嘲風弄月」?、「嘯風弄月」??「嘯風哢月」???


 風や月を題材にして詩歌を作ること。「嘲風」は文章家が戯れに作った詩文を毀る語。しかし、いかなる辞書を見ても載っていない言葉。「哢月」は月を眺めて楽しむこと。これ簡単そうで書けといわれたら意外に難しいですよね。「嘲」は「あざける」で、「風を嘲る」というのは変だなぁと思ったら、こんな意味か。。。。「哢」の方も「さえずる」で「月に哢る」ということか。難しいな。覚えられない。「鳥哢」は鳥がさえずる、だけど「嘲弄」はあざけりからかうこと。口偏のあるなしで大違いだ。「弄月」と書いてしまいそうで要注意だ。

 ここで止めようかと思ったのですが、でもなんか変な四字熟語だ、なんとなく覚えにくい。あそうだ、「嘯風弄月」(ショウフウロウゲツ)とごっちゃになってしまうからだ。でもこっちは「弄月」だぞ。やっぱ変だ。。。あれれ、善く善く見ると漢検四字熟語辞典にも類義語として「嘲風弄月」となっているぞ。。。うむ、初めて気が付いた。誤植だ。でもどっちが正しいんだろう。風に嘯き、月を弄ぶ。だったら、風を嘲り、月を弄ぶでもいいじゃん。やはり「嘲風哢月」という四字熟語は変だ。どっちを書けばいいんだ、両方とも正解か、いやこの問題はきっと出ないぞ。。。物議を醸す。。。


★「枕戈待旦」(チンカタイタン)


 闘いの備えを怠らないこと。戈を枕にして眠り、朝になるのを待つ意。いつも戦場に身を曝しているので気が抜けない、おちおち熟睡なんてできやしないということ。「枕戈寝甲」(チンカシンコウ)という類義語もある。「干戈倥偬」(カンカコウソウ)も忘れずに。。。


★「椿萱並茂」(チンケンヘイモ)


 父と母とが共に健在なこと。「椿」は「椿寿」という言葉もあるように長寿の木で、父に譬える。一方、「萱」は通称わすれ草といい、「憂いを忘れる」ことに引っ掛けて、主婦である母のいる部屋(北の座敷)の前の庭に植える風習から、母に譬える。「二人並んで蕃茂(長生き)する」のが「並茂」。「椿庭萱堂」(チンテイケンドウ)の類義語があり。「萱堂」は母親のこと。「椿寿」のほかには、「大椿」(ダイチン)、「椿年」(チンネン)、「椿齢」(チンレイ)がある。「椿庭」(チンテイ)、「椿堂」(チンドウ)、「椿府」(チンフ)も父親のこと。

★「墜茵落溷」(ツイインラクコン)


 人には運不運があるということ。「茵」はしとね・敷物、「溷」はかわやの意。風に吹かれて散った花びらが、あるものは幸運なことに敷物の上に落ち、別のものは運悪くかわやに落ちるというアイロニカルなデスティニー。類義語に「運否天賦」(ウンプテンプ)。出典は「南史・列傳第四十七」で「人生如樹花同發、隨風而墮、自有拂簾幌墜于茵席之上、自有關籬牆落於糞溷之中。墜茵席者、殿下是也;落糞溷者、下官是也。貴賤雖複殊途、因果竟在何處。」生れ持った身分の違いが最大の「墜茵落溷」ということなのか?抗えないのか?運不運で片付けていいのか?


★「提耳面命」(テイジメンメイ)


 懇切に教え諭すことの譬え。耳に口を近づけ面と向かって教え諭す意。「提耳」は両方の耳を持って引っ張り上げる、「面命」は目の当たりに命ずる、面と向かって教え諭す。「耳を提して面(まのあたり)に命ず」と訓読する。「耳提面命」ともいう。出典は「詩経・大雅・抑」で「於乎小子、未知藏否、匪手攜之、言示之事。匪面命之、言提其耳、借曰未知、亦既抱子。民之靡盈、誰夙知而莫成」。しかし、本当に懇到と言っていいのか?昏倒ではないのか?


★「鉄樹開花」(テツジュカイカ) →「碧巌録」で既出

 物事の見込みがないこと。「鉄樹」は鉄でできた木、また、60年に1度、丁卯(ひのとう)の年だけに開花するといわれる木のこと。鉄の花はめったに咲かないことから、反語的にあり得ないことを言う。出典は中国南宋期の禅の歴史書である「五灯会元=ごとうえげん(20)」で「鉄樹開花、雄鶏生卵、七十二年、揺籃縄断。」四字熟語辞典には「雄鶏生卵」(ゆうけいせいらん)も類義語とあります。前後の文脈が読めないので分かりませんが、世にも珍しいことが起こったようです。七十二年が何なのか気になるが。。。


★「轍乱旗靡」(テツランキビ)


 軍隊などが敗走する形容。兵軍の轍の迹が乱れ軍旗が撓垂れる意。
「靡」はしおれる、しなだれる。出典は「春秋左氏伝・荘公一〇年」で「吾視其轍乱,望其旗靡」。


★「顚委勢峻」(テンイセイシュン)


 水源も末流もその勢いが激しく盛んなこと。源流から末流まで勢いが途切れず激しいこと。「顚」は頂のこと、「委」は末・終わりの意。「顚委」は源流と末流の意。「勢峻」は勢いがあって激しいこと。出典は、柳宗元の「鈷潭記」で「顚委勢峻,蕩撃益暴」。少し上に「突怒偃蹇」(トツドエンケン)も同じ出典で見えました。

陶淵明の「閑情の賦」シリーズ④=第二の「悶悶」始まる

 陶淵明の「閑情の賦」シリーズの4回目。mixi日記からの転載です。




不図気がつくと妄想は妄想でしかない。思いは叶わない。ストーカーに疲れ果てた男の第二の「悶悶」が始まります。


 願う所は必ず違うことを考えば、

 徒らに契闊して以て心を苦しむ。

 情を労して而も訴うる罔きを擁きて、

 歩して南林に容与す。

 木蘭の遺露に栖み、

 青松の余陰に翳れん。



 ■「契闊」

 =「けっかつ」。辛苦すること。あるいは、久しく会わないこと。漢字源によると「けいかつ」とも読むようだ。四字熟語に「死生契闊」(しせいけっかつ=生死を共にすることを約束し、共に苦しみ努力すること、出典は詩経)があるのでここから。「契」を「けつ」と読むのは表外の音読みで、珍しい用法。「ちぎ・る」「きざ・む」というのは表外訓読み。

 ■「罔い」

 =「な・い」。無・莫と同じ意味ですが、珍しい用法と言っていい。通常は「あみ、くらい、おろか、しいる」。「罔罟」(もうこ=網罟)、「罔然」(もうぜん)、「欺罔」(きもう)、「誣罔」(ふもう)、「迷罔」(めいもう)、「罔極」(もうきょく、きわまりなし)、「罔象」(もうしょう、みずは)、「罔羅」(もうら)、「罔両」(もうりょう=魍魎)。

 ■「擁く」

 =「いだ・く」と表外訓み。見出し語。周りに両手をまわし、すっぽりとだきかかえる。「擁遏」(ようあつ=擁閼、雍遏、夭閼、雍閼、壅遏、擁塞)、「擁衛」(ようえい)、「擁掩」(ようえん)、「擁経」(ようけい、けいをいだく)、「擁膝」(ようしつ、ひざをいだく)、「擁腫」(ようしょう)、「擁彗」(ようすい、すいをいだく)、「擁覆」(ようふく)、「擁蔽」(ようへい=壅蔽)、「擁祐」(ようゆう=擁佑、擁右)。

 ■「容与」

 =「ようよ」。見出し語にはない。ゆとりがあって静かなさま。精神にゆとりがあって自由であるさま。ただ、解説には、おろおろして徘徊するとある。この場合の「容」は「ゆとりがあるさま」との意だがやや特殊か。熟語はこれ一本でOK。「容~」の熟語では「容喙」(ようかい)、「容膝」(ようしつ、ひざをいる)、「容範」(ようはん)、「容接」(ようせつ)。

 ■「木蘭」

 =「もくらん」。見出し語にあり。「木蓮」(もくれん)と同じとあり、「もくれん」と熟字訓訓みもする。モクレン科の落葉低木。中国原産。春に、葉の出る前に暗紫色の大きな六花弁を上向きにつける。迚も艶やかな花(http://www.hana300.com/mokure.html)。以前、四字熟語学習時に取り上げた「撲朔謎離」(ぼくさくめいり=男女の見分けが難しい譬え)で活躍した少女の名前でもある。彼女は父に代わって戦場で大暴れ、無事に凱旋したものの、同僚戦士はずっと男だと思っていたという故事。「木蘭辞」(もくらんのじ)。という楽府に詠まれている。「ムーラン」として、ディズニー映画にもなった。

 ■「遺露」

 =「いろ」。露がおりること、おりた露。解説によると、屈原の「楚辞」に「墜露」ともあり、ここから来ているという。

 ■「栖む」

 =「やす・む」と訓ませている。通常は「す・む」。ねぐらで憩うようにゆっくりとやすむという意味。「栖」は「棲」と同義。「栖遅(棲遅)」(せいち)という熟語は「ゆっくりとやすむ」という意味から「隠栖、隠退」の意味が派生している。

 ■「翳れる」

 =「かく・れる」。「翳」に訓読みは多いが、この訓み方は珍しく、宛字読みっぽい。漢検辞典には記載莫し。「かくれる」は「伏れる」「蔵れる」「遯れる」「逋れる」「蟄れる」「竄れる」「匿れる」。


(解釈)そうしたわたしの願いは、どれもみな到底叶えられるはずのないものばかり。ただ虚しく心を切り刻んで思い悩むばかりだ。
苦しい胸のうちを訴えかける相手もいない。そうした思いのままうろうろ南の林のなかを歩き回る。木蘭の露がおりた辺りに憩い、青松がたっぷり蔭を落としているところに身を隠そうではないか。

脳内ストーキングに瘁れ果てたのか、悶悶とした自責の念に駆られます。妄想に対しては反省もしているのですが、人に言えないというのは辛いでしょうね。アウトプットは大事です。この主人公は友達でもいないのでしょうか。ふらふらと街中ならぬ、林の中を徘徊しはじめます。今度は本当のストーカーのはじまりかぁ?それってやばいよ。

「妄想に 瘁れた後は 不知不識 彷徨う徘徊 リアル・ストーカー」。。。



 儻し行き行きて覿ること有らば、

 欣びと懼れと中襟に交々ならん。

 竟に寂莫として見ゆること無く、

 独り悁想して以て空しく尋ねん。
 

 ■「儻し」

 =「も・し」。漢検辞典意味欄②に「もし、あるいは、仮定を示す助字」と見える。漢字源に語法の欄があり、「儻若」「儻或」も「もし」と読むとある。音読みは「とう」。意味欄①には「すぐれる、ひいでる」があり、熟語の記載はない。漢字源には、「儻来」(とうらい=たまたま来る)のほか、「俶儻」(てきとう)=非凡なさま、は書けなくていいから読みをぜひ覚えておきたい。音読み問題で出るぞ。

 ■「覿る」

 =「み・る」。通常は「あ・う」と訓む。あいまみえること。音読みは「てき」だが、単独で出されたらなかなか読みにくい漢字です。しかし、「覿面」(てきめん)、「天罰覿面」(てんばつてきめん)、「効果覿面」(こうかてきめん)など熟語であるならすぐ読めるでしょうね。幸いなことに熟語はこれらしかない。問題ではこんな漢字こそ狙われる。「あう」「みる」いずれみ訓めるようにしておきましょう。

 ■「中襟」

 =「ちゅうきん」。心中。「襟」(えり)は「むね、心の中」という意味があり、「胸襟を開く」は、本音をさらけ出す。この意味の熟語には、「襟度」(きんど=度量)、「襟懐」(きんかい=胸のうち)、「宸襟」(しんきん=天子のお考え)、「襟抱」(きんぽう)、「襟韻」(きんいん)、「襟情」(きんじょう)がある。

 ■「悁想」

 =「えんそう」。思い叶わずいらいらした思い。本文のルビは「けん」だがこれは誤植でしょう。「悁」は「えん」「いか・る」。1級配当漢字です。「うれ・える」とも訓む。「悁悁」(えんえん)、「悁忿」(えんふん)。「悁悒」「悁邑」(以上えんゆう)、「悁憂」(えんゆう)は、心が結ぼれること。つまり、心が曲がり縮んで霽れないこと。いらいらした状況です。音符「員」(口は貝より小さい)の読みは非常に難しい。大きく分けて、今回のように「えん」と読む場合と、「けん」と読む場合がある。「えん」では「捐」(す・てる、捐館=貴人の死、義捐金)、「けん」では、「涓」(涓滴岩を穿つ)、「狷」(狷介孤高、狷介固陋)、「娟」(うつく・しい、娟雅)、「絹」(きぬ)、「蜎」(うつく・しい、蟬蜎)。くれぐれも「けんそう」とは読まないように。


(解釈)もしも、こうして歩いているうちにあなたにあいまみえることができたら、欣びと恐れとがわたしの心の中に代わる代わる湧き起こるに違いない。しかし結局は孤りさびしく遭えるはずも無く、独り善がりの一方通行で終わるだろう。当て所も無くあなたのお姿を追い求めるだけ。。。

やはり、ただ単に歩き回るのではない。どこかであなたと偶然を装い擦れ違えないか。「待ち伏せ」かぁ(by 石川ひとみ、古っ!!)?あるいは袖擦り合うことはないかと覬っている。多分、南の林の中と言っているが、あの人の住む近所に違いない。「他生の縁」がないものか。。。

ないよ。あるわけないっしょ。でも、誰しも経験がありはしないか。好きな人の近所をぐるぐる回り、その人の家の前を行ったり来り、電柱や壁の蔭に隠れてじ~っとあの人が家の中から出てくるのを窺ったり、そうしたことをやったことあるんちゃうの?待つだけならストーカーぎりぎりボーダーか。いや、いまはもうアウトか。え?お前の記述はリアルやね、今もやってるんちゃうの?って、。。。そう問いますか。。やば。。。やばひ。若いころっすよ、若気の至りっすよ。知らない女性の蹤をつけて自宅を割り出したんではない、例えば中学時代なら自宅も知っているし、近所だし、近くを通りかかったらあるでしょうが、意識したことぐらい。そんなレベルですよ。たまたま出くわさないかなぁ、淡い恋心。でも分かっている、片思いだということは。ちょっと身につまされるなぁ。単純にストーカーだと言い切れない部分がある。。。



 軽裾を斂めて以て路に復り、

 夕陽を瞻て流歎す。

 歩み徙倚として以て趣を忘れ、

 色は惨悽として顔を矜す。


 ■「軽裾」

 =「けいきょ」。軽やかに動くすそ。「軽~」で「軽やかな~」という熟語は、「軽靄」(けいあい)、「軽陰」(けいいん)、「軽盈」(けいえい)、「軽黠」(けいかつ)=「軽猾」(けいかつ)、「軽裘」(けいきゅう→軽裘肥馬)、「軽霞」(けいか)、「軽舸」(けいか)=「軽艘」(けいそう)、「軽絮」(けいじょ)、「軽鬆」(けいしょう)、「軽妝」「(けいしょう=薄化粧)、「軽塵」(けいじん)=「軽埃」(けいあい)、「軽躁」(けいそう)、「軽煖」(けいだん)、「軽佻」(けいちょう→軽窕浮薄)、「軽剽」(けいひょう)、「軽飆」(けいひょう)、「軽羅」(けいら)、「軽輦」(けいれん)。

 ■「斂める」

 =「おさ・める」。見出し語。しまうこと。「苛斂」(かれん→苛斂誅求)。何度も出ているのでさらっと。。。

 ■「流歎」

 =「りゅうたん」。長歎すること。長くつく溜息。「流~」で「ながれ続く~」という熟語は、「流淫」(りゅういん)、「流裔」(りゅうえい)、「流衍」(りゅうえん)、「流鶯」(りゅうおう)、「流霞」(りゅうか)、「流金鑠石」(りゅうきんしゃくせき)、「流憩」(りゅうけい)、「流杵」(りゅしょ)、「流洽」(りゅうこう)、「流寇」(りゅうこう)、「流行坎止」(りゅうこうかんし)、「流竄」(りゅざん)、「流徙」(りゅうし)、「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)、「流歠」(りゅうせつ)、「流霰」(りゅうせん、りゅうさん)、「流涎」(りゅうせん、りゅうぜん、よだれをながす=垂涎)、「流蘇」(りゅうそ)、「流涕」(りゅうてい)、「流蕩」(りゅうとう=流宕)、「流麦」(りゅうばく、むぎをながす=読書に夢中)、「流眄」(りゅうべん)=「流睇」(りゅうてい)、「流萍」(りゅうひょう、読み注意)、「流氓」(りゅうぼう)、「流傭」(りゅうよう)、「流連荒亡」(りゅうれんこうぼう=家に帰りたくないほど楽しい)、「流潦」(りゅうろう、読み注意)。

 ■「徙倚」

 =「しい」。漢検辞典小文字にある。少し動いては立ち止まり、うろうろすること。また、だらしのないさま。「徙」は「うつ・る、うつ・す」と訓む。屈原の「楚辞」に用例が見える、陶淵明は楚辞をかなり意識しているようだ。熟語はほかに「徙宅」(したく、たくをうつす)=「徙居」(しきょ)、「曲突徙薪」(きょくとつししん)、「徙遷」(しせん)、「移徙」(いし、わたまし=熟字訓)、「遷徙」(せんし)、「転徙」(てんし)、「徙木之信」(しぼくのしん)。「倚」は「よ・る」と訓み、「倚門」(いもん)、「倚門之望」(いもんのぼう)、「倚信」(いしん)、「偏倚」(へんい)、「倚人」(きじん、読み注意)、「依倚」(いい)、「倚子」(いす→椅子)、「倚藉」(いしゃ)、「倚几」(いき)、「倚馬之才」(いばのさい)=「倚馬七紙」(いばしちし)、「倚伏」(いふく→禍福倚伏)、「倚閭」(いりょ、りょによる)、「倚廬」(いろ)、「倚魁」(きかい、読み注意)。

 ■「惨悽」

 =「さんせい」。見出し語にはなし。身に沁みて悲しい。ひっくり返して「悽惨」(せいさん)もある。「惨」は「むご・い」「ひど・」「いた・む」との表外訓みがある。熟語には「惨悴」(さんすい)、「惨愴」(さんそう)、「惨惻」(さんそく)、「惨憺」(さんたん=惨澹)、「惨慄」(さんりつ)=「惨懍」(さんりん=惨凜)。「悽」は「いた・む」と訓み、熟語は「悽然」(せいぜん)、「悽愴」(せいそう)、「悽惻」(せいそく)=「悽傷」(せいしょう)=「悽楚」「(せいそ)=「悽悼」(せいとう)、「悽惶」(せいこう)、「惺惺」(せいせい)、「悽絶」(せいぜつ)=「悽切」(せいせつ)=「悽断」(せいだん)「悽戻」(せいれい)。いや~書いていて身が切らる熟語ばかりで辛くなりました。いまや渋い脇役には欠かせない俳優の平泉成。。。声を稍低めて唱えて覚えよう、「せいさ~ん」。

 ■「矜す」

 =「きょう・す」。音動詞読み。意味は「あわれむ、かなしむ」で、そのまま訓読みでも読める。「顔を矜す」で、泣きべそを書く。ほかに、「ほこ・る」「つつ・しむ」との訓読みもあり、熟語には麻生太郎の発言で一躍有名になった「矜持、矜恃」(きょうじ、プライド)、「矜恤」(きょうじゅつ、きんじゅつ)、「矜厳」(きょうげん)、「哀矜」(あいきょう)、「矜夸」(きょうか)=「矜誇」(きょうこ)、「矜貴」(きょうき)、「驕矜」(きょうきょう)、「矜驕」(きょうきょう)、「矜荘」(きょうそう)、「矜功」(きょうこう)、「矜負」(きょうふ)、「矜式」(きょうしき)、「矜大」(きょうだい)、「矜伐」(きょうばつ)、「矜邁」(きょうまい、京舞ではない)、「矜」(きょうれい)、「矜哀」(きんあい、読み注意)、「矜育」(きんいく、読み注意)、「矜人」(きんじん、読み注意)、「矜憐」(きんれん、読み注意)=「矜愍」(きょうびん)。


(解釈)裾を颯とかかげて帰途につくのだが、夕日を眺めれば長い溜め息ばかり。とぼとぼ歩けば行き先を忘れ、顔は見るからに色を失い半泣き状態に。。。

やばいっす、「病気」の兆候が出始めています。まずは記憶力が弱まります。何処へ帰ろうとしていたか?その前に自分の名前と住所を確かめよう。はい、暗誦して。大丈夫ですね。でも顔色が悪いぞ。どうして涙が止らないの。。。。I can't stop the loneliness、悲しみがぁとまらなぁい(by 杏里、またまた古っ!!)。

まさにストーカーのなれの果て、ど壺に嵌った状態ですね。袋小路に入り込み、二進も三進もいかなくなった。進退窮まったりぃ。でも、この「ピンチ」を救えるのは自分しかいないのです。ピンチをいかにしてチャンスに変えられるかが、男として、いや、人間としての力量を問うているのです。

(以上、charのmixi日記、2009年3月14日付から転載)

「曲躬叉手」と「足恭諂詐」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」は、「曲躬叉手」(キョクキュウサシュ)と「足恭諂詐」(スウキョウテンサ)。

 「第九二則 世尊、一日座に陞る」の「頌」に対する「評唱」の最後に次の件があります。

 …僧、過(てわた)す。厳云く、「人を鈍置殺(こけ)にす」と。又た趙州に問う、「如何なるか是れ王、仙陀婆を索む」。州、禅床を下りて、曲躬叉手す。当時(そのとき)若し箇の仙陀婆有りて、世尊未だ座に陞らざる已前に透去(みぬ)かば、猶お較(たが)うも些子(わずか)なり。世尊更に座に陞り、便ち下り去る。已是に便(たより)を著(え)ずして了れり。那ぞ堪えん、文殊更に白槌するに。不妨(なかなか)に他の世尊の一上(ひとしきり)の提唱を鈍置(こけに)す。且て作麼生(いかなる)か是れ鈍置せる処。

 「曲躬叉手」は、「丁寧にお辞儀をするさま」。「躬」は「み=身」のことで、からだを弓状にまげるという意味もあります。「鞠躬」(キッキュウ)も体をかがめてお辞儀すること。「叉手」は「サシュ」または「サス」と読み、仏教語で「両手の指を組み合わせるさま」。ぶかぶかとお辞儀する時に単に両手を合わせるのではなくそれぞれの指同士も交差させているのです。


 「第九六則 趙州の三転語」の「頌」に対する「評唱」に次の件が見えます。

 …三祖の伝に云く、「二祖の妙法、世に伝わらず。頼(さいわい)に末後に依前のごとく他の当時雪に立つことを悟るに値う」と。所以に雪竇道く、「雪に立つこと如し未だ休めざれば、何人か雕偽せざらん」と。雪に立つこと若し未だ休めざれば、足恭諂詐の人皆な之に効い、一時に只だ雕偽を成さん、則ち是れ諂詐(へつらい)の徒なり。雪竇、「泥仏は水を渡らず」を頌すに、為什麼(なにゆえ)にか、却って這の因縁を引き来たりて用う。他参得して意根下に一星事も無く、浄「身+果」「身+果」地(きれいさっぱり)にして、方(はじ)めて頌し得ること此の如し。

 「値う」は「あう」。「遇う」の表外訓みです。

 「足恭諂詐」は「度を過ぎてうやうやしく、こびへつらい自分をいつわるさま」です。漢検四字熟語辞典には掲載されていません。ここでいう「足恭」は「論語・公冶長第五」の「巧言令色足恭」に出てくる有名な言葉。「巧言」は「言葉上手」、「令色」は「顔つきがいい」、「足恭」(スウキョウ、シュキョウとも)は「あまりにうやうやしいさま」。「足」を「スウ」と読むのが難しい。副詞の用法で「あまりにも…しすぎる、十二分すぎるほど…である」といった意味。

 「効い」は「ならい」と表外訓み。

 「一星事」は「働かすこと」。

 本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「徴羽之操」(チウノソウ)


 正しい音楽のこと。「徴羽」は古典音楽の階名である五音(音楽の音色、宮・商・角・徴・羽=順にド、レ、ミ、ソ、ラ)のうちの「ソ」と「ラ」の二つ。「操」はあやつる、うまく使う意。「淮南子」の「説林訓」。「チウ」と読むのは難しい。淮南子も入手できず難しい。。。


★「築室道謀」(チクシツドウボウ)


 意見ばかり多くてまとまらず、物事が実現しないこと。「築室」は家を建てること。「道謀」は道を行く人に相談する意。「家を建てようと思うんだけど、どんな屋根がいいですかね?外壁は?間取りは?」なんて聞いていると、Aさんは「瓦葺がいい」、Bさんは「モルタルがいい」、Cさんは「二階建てより平屋がいい」など甲論乙駁、議論百出、勝手な意見が飛び交いまとまらない。「結局や~~~めた」という落ちに。出典は「詩経・小雅・小旻」で「室を築かんとして道に謀るが如し」。路傍の人は無責任な意見しか言わないのだ。いや、寧ろ、自分の家を作るのに人に聞くという優柔不断な態度を戒める句かもしれません。むろん「断章取義」ですがね。。。


★「蠹居棊処」(トキョキショ)


 いたるところに悪人が蔓延っていること。木の芯を食う蠹(きくいむし)が木にいて、碁石が盤面に散らばるように、悪人がいることの譬え。「蠹蟲的存在如棋子遍布棋盤。比喻壞人深入社會、散佈各處。」との解説が某中国語サイトにありました。出典は韓愈の「潮州刺史謝上表」で「孽臣奸隸,蠹居棋處」。「旋乾転坤」(センコンテンケン)=国の政局を一新すること、「輦轂之下」(レンコクノモト)=天子の御膝下、「誠惶誠恐」(セイキョウセイコウ)=まことにおそれかしこまる、も同じ文章中に見えました。正直意味は分かりませんが、国難を天子に上奏している文章のようです。


★「道傍苦李」(ドウボウクリ)


 人から見捨てられ、見向きもされないものの譬え。「道傍」は道端。「苦李」は苦いすもも。道端の李は苦ければ誰も見向きもしないということ。あ、これって逆かぁ、美味しいと思ったものには罠がある、食べてみたら苦かった。そんなに安易に美味しいものが手に入らないことの戒めではないでしょうか。据え膳食ったら何とやらかも。。。。


★「投桃報李」(トウトウホウリ)


 善に対して善で報いることの譬え。桃が贈られれば、返礼として李を贈り報いる意。また、自ら徳を施せば人もこれを手本にする譬え。さらに友人の間の贈答のこと。「桃を投じて李に報ゆ」と訓読。出典は「詩経・大雅・抑」で「我に投ずるに桃を以てすれば、之れに報ゆるに李を以てす」。桃と李とどっちが価値があるのだろうか?分からん。まさか桃を貰ってに二倍返しで李ってことはないよなぁ。貰い損じゃんか。どんなに小さい恩義にもお返ししなければならんのか、恩義をもらったらちょっとでいいからお返ししなければならんのか。。。。?さあどっちが生きる道?


★「同袍同沢」(ドウホウドウタク)



 苦労を共にする親密な友。また、戦友のこと。衣服を共にする意から。「袍」はわたいれ。「沢」は肌着。一枚のパンツをお互い共有するって、、かなりやばい仲じゃない?「同袍」を「同朋」「同胞」と書き誤らないように注意がありますが、其の方がいいんじゃない?「同胞同沢」って、だめじゃん。「沢」の方がパンツだったよ。出典は「詩経・秦風・無衣」で「豈曰無衣、与子同袍、王于興師、脩我戈矛、与子同仇、豈曰無衣、与子同沢、王于興師、脩我矛戟、与子偕作、豈曰無衣、与子同裳、王于興師、脩我甲兵、与子偕行」。なんかリズムよさしそうな詩ですね。秦国の民草が意気揚々と戦に出る雰囲気が出ています。

★「鋳山煮海」(チュウサンシャカイ)


 財を多く蓄えること。「鋳山」は山から銅を採取して鋳て銭を作る意、「煮海」は海水を煮て塩を作る意。「山に鋳、海に煮る」と訓読する。出典は「史記・呉王伝」。某解説サイトに「呉には鄣郡の銅山があり、劉(前漢王朝の公子)は亡命者を招いて銭を私鋳し、また海水を煮て塩を製造した。そのため領民に人頭税を賦課する必要がなく、 国の財政は豊かであった。そして身代金によって人の身代わりに兵役に服する者には、官より時価の賃金を与えた。さらに季節ごとに国内の賢人の安否を問い、 村里の人々に賞賜した。」とあります。国が豊かで人民が霑ったということを言うようです。


★「中流砥柱」(チュウリュウノシチュウ)


 困難にあってもびくともせず、節義を曲げない人物の譬え。黄河の中に立って少しも動かない砥柱山→黄河河南省三門峡の東、陝州(センシュウ)にあり、聳え立つ砥石のように平らな岩石。己の信念を守り通し、時流に流されないさまを自然の景勝に譬えたもの。


★「重熙累洽」(チョウキルイコウ)


 光明をかさねて広く恩恵が行き渡ること。代々の天子が賢明であり、泰平の世が長く続くこと。「重熙」は光明をかさねる意、「累洽」は天子の徳があまねく行き渡る意。出典は班固の「東都賦」。「煕」は「洽」とも「ひろい、あまねし」という意味で「熙洽」(キコウ)=徳のある天子が次々と位を継ぐこと、という熟語もあり。


★「糶糴斂散」(チョウテキレンサン)


 豊作の年には政府が米を買い上げ、それを凶作の年に安く売ること。「糶」は米穀を売り出すこと、「糴」は米穀を買い入れること、「斂散」は集めることと放出すること。中国春秋時代に管仲に始まったという物価安定と食糧安保の一箭双雕を狙う経済政策。以前取り上げた、安いときに買い入れ、高くなったら売り出す「賤斂貴発」(センレンキハツ)に通じるものがある。「糶」は「うりよね」、「糴」は「かいよね」。部首は「米」で、音符は「抜擢」の「擢」=抜き取る、から。「出」と「入」の微妙な違いなので、抜き取って「米を売り出す(糶)、米を買い入れる(糴)」と覚えましょう。読めるだけでは駄目、書けなければいけない漢字です。

陶淵明の「閑情の賦」シリーズ③=エスカレートする脳内ストーキング

 陶淵明の「閑情の賦」も更新しておきましょうね。第三回です。迂生のmixi日記からの転載ですので悪しからず。



 脳内ストーカーはエスカレートします。陶淵明全集・下(岩波文庫)の解説によりますと、「以下につづく『十願』あるいは『十悲』とも呼ばれる十段はこの賦のサワリ(触り=聴かせどころ、詠ませどころ)の部分で最も有名」とあります。既に前段で「願わくは衣に在りては…悲しいかな 羅襟の宵に離るれば、…」でスタートしている「願…悲(嘆)…」のパターンが「十段」連続(あと九段ある)するというのです。今回は二段目から六段目まで見ていきます。まずは「帯」になりたい。


 【2】

 願わくは裳に在りては帯と為り、

 窈窕の繊身を束ねん。

 嗟かわしいかな 温涼の気を異にすれば、

 或いは故きを脱ぎて新しきを服るを。


 ■「繊身」

 =「せんしん」。かぼそい体。「繊」は「ほそ・い」「ちい・さい」との表外訓みがある。「繊細」(せんさい)、「繊毫」(せんごう)、「繊弱」(せんじゃく=孅弱、孱弱)、「繊麗」(せんれい)、「繊翳」(せんえい)、「繊婉」(せんえん)、「繊芥」(せんかい)、「繊姸」(せんけん)、「繊悉」(せんしつ)、「繊嗇」(せんしょく=けち)、「繊繊」(せんせん)、「繊魄」(せんぱく)、「繊微」(せんび)、「繊腰」(せんよう)、「繊羅」(せんら)。

 ■「束ねる」

 =「つか・ねる」と表外訓み。見出し語。たばねる、ひとまとめにしてしばる。「束脩」(そくしゅう=入門する際の進物)、「束帛」(そくはく)、「束身」(そくしん)、「束風」(たばかぜ)。

 ■「嗟く」

 =「なげ・く」。見出し語。感嘆する。また、ためいきをついて悲しむ。「ああ」という簡単語でも訓む。音読みは「さ」。「嗟嘆」「嗟歎」(以上さたん)、「嗟来之食」(さらいのし=さあくらえ、無礼な食事の提供)、「怨嗟」(えんさ)、「咨嗟」(しさ)→「瞻望咨嗟」(せんぼうしさ)、「歎嗟」「嘆嗟」(以上たんさ)、「咄嗟」(とっさ)、「嗟哉」「嗟呼」「嗟吁」「吁嗟」「嗟于」「嗟乎」「嗟嗟」「于嗟」「嗟来」「嗟夫」(以上ああ)、「嗟咨」(さし)、「嗟賞」「嗟称」(以上さしょう)、「嗟悼」(さとう)、「嗟服」「嗟伏」(さふく)、「嗟来」(さらい)。

 ■「服る」

 =「き・る」と表外訓み。見出し語にはない。漢検辞典の意味欄②にある。「佩服」(はいふく)、「着服」(ちゃくふく)、「服翫」「服玩」(以上ふくがん)、「服膺」(ふくよう)→「拳拳服膺」(けんけんふくよう)。「したが・う」との表外訓みもあり、「服喪」(ふくも)がある。


(解釈)なれるものなら、あなたの裳では帯になりたい。だって、たおやかで美しいかぼそいお腰をきゅっと締めてあげたいから。しかし嘆かわしいことに、寒暖の気候が変わると、古い裳・帯を新しいものと取り替えて着られてしまう。また、離れ離れになってしまう。。。ああ。

まずは「帯」ですが、束ねるというと少しSMチックなニュアンスも出ませんかね。勘繰り過ぎか。腰を締め上げると訳したら完全に亀甲縛りですね、はははは。でもやはりここでも落ちは一生傍にいられない。時が来ればストーカーができなくなるということ。


 【3】

 願わくは髪に在りては沢と為り、

 玄鬂(髟+兵)を頹肩に刷わん。

 悲しいかな 佳人の屢屢沐し、

 白水に従りて以て枯煎するを。


 ■「沢」

 =「たく」。「つや」「うるおい」という意味がある漢字だが、ここでは髪にそうした艶を出すための油のこと。鬢付け油。

 ■「玄鬂」

 =「げんびん」。くろかみ。「玄」は「くろ」「くろ・い」との表外訓みがある。「玄鳥」(げんちょう)は「ツバメ」のことだが、玄い鳥の意から来ている。「玄~」の熟語は多く、「玄雲」(げんうん)、「玄英」(げんえい=冬)、「玄猿」(げんえん)、「玄奥」(げんおう)、「玄学」(げんがく=老荘の学問)、「玄鑑」(げんかん)、「玄虚」(げんきょ)、「玄闕」(げんけつ)、「玄黄」(げんこう)、「玄混」(げんこん)、「玄妻」(げんさい=美女、黒髪から)、「玄駟」(げんし)、「玄酒」(げんしゅ=水→太羹玄酒)、「玄裳縞衣」(げんしょうこうい=鶴)、「玄端」(げんたん)、「玄紐」(げんちゅう)、「玄穹」(げんきゅう=天)、「玄兎」(げんと)、「玄翁」(げんのう)、「玄牝」(げんぴん)、「玄冕」(げんべん)、「玄圃」(げんぽ)、「玄妙」(げんみょう)、「玄冥」(げんめい)、「玄燿」(げんよう)。
「鬂」(髟+兵)は配当外ですが「鬢」(びん、ひん)の異体字です。したがって「玄鬢」と書き換えてもいいでしょう。左右両脇の耳際の毛のことだが、御髪全体を指す。「鬢乱釵横」(びんらんさいおう)は女性の乱れた寝姿。

 ■「頹肩」

 =「たいけん」。くずれた肩、撫で肩のことか。「頹」は「くず・れる」とも訓み、熟語は「頽檐」(たいえん)、「頽垣」(たいえん)、「頽岸」(たいがん)、「頽毀」(たいき)、「頽乎」(たいこ)、「頽然」(たいぜん)、「頽思」(たいし=意気銷沈)、「頽弛」(たいし)、「頽勢」(たいせい=退勢)、「頽堕」(たいだ→頽堕委靡)、「頽替」(たいたい)、「頽唐」(たいとう)=「頽墜」(たいつい)=「頽落」(たいらく)、「頽年」(たいねん)=「頽齢」(たいれい)、「頽波」(たいは)、「頽廃」(たいはい=退廃)、「頽敗」(たいはい)、「頽風」(たいふう)、「頽敝」「頽弊」(以上たいへい)、「頽陽」(たいよう=夕暉、落日)。

 ■「刷う」

 =「かいつくろ・う」と表外訓み。これは難しい。辞書には見えない。漢字源には「はく、清める、さっとなでてごみを取り去る」の意味が見えるので、ここから宛字っぽく訓んだものと思われます。そもそも「かいつくろう」は「搔い繕う」で「つくろう、整頓する。容儀の乱れたのをととのえる」という意味。ここでは、はらりと垂れかかった髪の毛をと払い上げることか。「刷毛」(はけ)、「刷恥」(さっち=雪辱)などに要注意か。

 ■「白水」

 =「はくすい」。漢字源には、澄んだ清らかな川の流れとあるが、ここでは、米の研ぎ汁で煮沸して髪を洗う、シャンプーみたいなものか。「白~」の熟語は無数にあるが主なものでは「白堊」(はくあ、はくあく)、「白雨」(はくう=にわかあめ)、「白鷗」(はくおう)、「白玉楼」(はくぎょくろう=文人の死後)、「白衫」(はくさん)、「白粲」(はくさん)、「白皙」(はくせき)、「白叟」(はくそう)、「白地」(はくち、あからさま)、「白蘋」(はくひん)、「白璧微瑕」(はくへきのびか)、「白旄」(はくぼう)、「白面」(はくめん、しらふ)、「白楊」(はくよう)。

 ■「枯煎」

 =「こせん」。見出し語にはない。からからにほされること。「煎」は「い・る」「に・る」と訓み、「煎茶」(せんちゃ)、「煎督」(せんとく)、「煎餅」(せんべい)、「煎薬」(せんやく)、「煎和」(せんわ)、「煎調」(せんちょう)、「焙煎」(ばいせん)、「烹煎」(ほうせん)、「香煎」(こうせん)、「熬煎」(ごうせん)、「煎熬」(せんごう)。


(解釈)なれるものなら、あなたの髪の上で髪油になりたい。だって、その黒髪をその撫で肩の上で梳かしてさしあげられるから。だけど、悲しいかな、あなたは頻繁に髪の毛を洗われるので、米の研ぎ汁と共に洗い流され、からからに乾されてしまうのが落ち。ああ、また離れ離れになってしまう。。。。

次は「沢」(鬢付け油)。髪の毛にべたーっと張り付くさまはまさにストーカーではないでしょうか。その豊かな一本一本に己の情念を浸み込ませる感じが出ています。でも、所詮は清潔好きの女性だから、しょっちゅう髪を洗うのですから、いつまでも張り付いている訳にはいきませんわね。。。諦めなさい。


 【4】

 願わくは眉に在りては黛と為り、

 瞻視に随って以て閑やかに揚らん。

 悲しいかな 脂粉の鮮かなるを尚び、

 或いは華粧に毀たれんことを。


 ■「瞻視」

 =「せんし」。見出し語にあり。目を上げて見ること。見上げること。また、その目つき。「瞻」は「み・る」と訓む。対義語は「瞰」(下を見る)。「瞻仰」(せんぎょう)、「瞻望」(せんぼう)、「瞻望咨嗟」(せんぼうしさ)、「仰瞻」(ぎょうせん)、「瞻依」(せんい)、「瞻前」(せんぜん)、「瞻慕」(せんぼ)。

 ■「閑やか」

 =「のど・やか」と表外訓み。「しず・か」と訓むのが一般的ですが、熟字訓に「長閑」(のどか)があるので何とか訓めそうです。「閑舒」(かんじょ)、「閑暢」(かんちょう)、「閑話休題」(かんわきゅうだい)は余談をやめて話を本筋に戻すときに使うことば。

 ■「毀つ」

 =「こぼ・つ」。見出し語。こわす、やぶる、そりとる、けずる。ほかに、「やぶ・る」「そし・る」「やぶ・れる」「や・せる」と訓みが多いので要注意です。音読みは「き」。「毀壊」(きかい)、「毀棄」(きき)、「毀傷」(きしょう)、「毀損」(きそん)、「毀謗」(きぼう)、「毀誉」(きよ)、「毀誉褒貶」(きよほうへん)、「詆毀」(ていき)、「破毀」(はき)、「毀言」(きげん)、「毀疵」(きし)=「毀短」(きたん)=「毀詆」(きてい)、「毀歯」(きし)、「毀瘠」(きせき)、「毀折」(きせつ)、「毀誹」(きひ)。


(解釈)なれるものなら、あなたの眉の黛(まゆずみ)になりたい。だって、あなたの視線の動きにつれて、静かに上下に動くことが出来るから。でも、悲しいのは、お洒落好きだからしょっちゅうお化粧を塗り直されるのを大事にされるから、すぐに新しいのと塗り換えられてしまうことだ。。ああ、また、さようなら。。。。

ここでは「黛」。微妙なところを考えましたねぇ。眉が動くたびにその視線と共に一緒に動けるかぁ。同じものが見たい。でも目になるわけでなく眉に塗られる黛となってかぁ。マニアックやな。いまならさしずめ、マスカラになって。。。。でしょうか。

 【5】

 願わくは莞に在りては席と為り、

 弱体を三秋に安んぜん。

 悲しいかな 文茵の代り御して、

 年を経るに方りて求められんことを。

 
 ■「莞」

 =「かん」と読む。「い」と訓読み。イグサ科の多年草。ここでは、蒲のこと。沼などの湿地に自生し、茎は円柱状をしており、むしろを織るのに使用する。「ふとい」ともいう。熟語には「莞爾」(かんじ、にっこり)、「莞然」(かんぜん)、「莞席」(かんせき)、「莞莚」(かんえん)、「莞簟」(かんてん=いむしろとたかむしろ)。

 ■「席」

 =「むしろ」と表外訓み。敷物。これまで何度も登場しているがまた御浚いです。「むしろ」はほかに「蓆」「莚」「筵」「蒻」「蒲」「苫」「莞」「藉」がある。

 ■「三秋」

 =「さんしゅう」。三つ意味があり、①陰暦で秋にあたる三つの月。孟秋、仲秋、季秋②九ヶ月③三度の秋。三年間のこと。ここでは、①。

 ■「文茵」

 =「ぶんいん」。文様のある褥(しとね)。虎の皮できていると解説にはある。「しとね」も頻出ですが「褥」「蓐」「衽」「袵」などがある。「茵」の熟語は「茵褥」(いんじょく)、「茵蓐」(いんじょく)、「茵席」(いんせき)、運・不運の「墜茵落溷」(ついいんらっこん)がある。

 ■「経る」

 =「ふ・る」と表外訓み。通常は「へ・る」でしょう。「経過」「経歴」「経渉」などはこの意味です。


(解釈)なれるものなら、蒲のむしろになりたい。だって、秋の三月の間、あなたのかよわいお体を安らかに休ませてあげられるから。だけど、悲しいのは、やがて冬になると、むしろの役目は虎皮のしとねに取って代わられる。また、1年(正確にはマイナス3ヶ月)も待たなければ御用に与れない。。。ああ、秋が来るのが待ち遠しい。。。。

ふむ、次は体の一部ではない敷物か。やや距離を置いて客観的になれたのかな、、、って、ちゃうわ、お尻や、お尻がどっかと坐るんじゃ。こりゃ、楽しい圧迫ですな。苦しい、苦しい、でも、嬉しい。。。ああ、重い、重い、でも、楽しい。。。。臭い、臭い、でも、郁しい。。。(最後のはレッドカード級かも、、、失礼しました、つい興奮してしまって。。。。)いやぁ、三ヶ月もの間、愛しい人と密着ですよ。これは堪らないですね。自らが動けないだけに、サディスティックに甚振られて欣ぶ危ない快楽がそこには潜んでいますね。


 【6】

 願わくは糸に在りては履と為り、

 素足に附きて以て周旋せん。

 悲しいかな 行止の節有りて、

 空しく床前に委棄せらるるを。


 ■「糸」

 =「いと」。ここでは生糸。「糸帛」(しはく)、「糸鞋」(しあい)、「糸涙」(しるい)、「糸綸」(しりん)、「糸桐」(しとう=琴の別名)。

 ■「素足」

 =「そそく」と音音で読む。これだと白い足の意。普通は「すあし」と重箱読みをするが、その場合は、靴下を穿いていない剥き出しの裸足のことですな。案外要注意かも。「素(そ)~」と読んで、「白い~」という熟語は「素衣」(そい)、「素英」(そえい)、「素影」(そえい)=「素彩」(そさい)、「素娥」(そが)、「素冠」(そかん)、「素宦」(そかん)、「素肌」(そき)=「素膚」(そふ)、「素錦」(そきん)、「素景」(そけい)、「素月」(そげつ)、「素絹」(そけん)、「素光」(そこう)、「素糸」(そし)、「素秋」(そしゅう=秋)=「素商」(そしょう)、「素雪」(そせつ)、「素湍」(そたん)、「素読」(そどく)、「素波」(そは)、「素魄」(そはく=月)=「素蟾」(そせん)、「素服」(そふく)、「素面」(そめん、しめん、しらふ)、「素鱗」(そりん=白身魚)、「素練」(それん)。

 ■「周旋」

 =「しゅうせん」。見出し語。人や物事の間に立ち、両者を取り持ったり口添えしたりして世話をすることの意だが、ここでは立ち居振る舞いのことでしょう。一緒になって動くこと。起居と動作(欷歔と礬水ではない)のこと。

 ■「行止」

 =「こうし」。いくことととどまること。行うことと止めること。出処進退。ふるまい、品行。ここでは振る舞い。足の動きのことですね。

 ■「委棄」

 =「いき」。見出し語。物事をほうっておくこと。棄ててそのままにしておくこと。「委」は漢検辞典意味欄③に「すてる、すておく」がある。この意味では「委捐」(いえん)がある。ほかに注意すべき熟語は「委悉」(いしつ)、「委質」(いしつ)=「委贄」(いし)=「委摯」(いし)=はじめて仕官すること、「委靡」(いび)→「頽堕委靡」(たいだいび)⇔「萎靡沈滞」(いびちんたい)は「萎靡」ですが殆んど同じ意味でしょう。


(解釈)なれるものなら、生糸の靴になりたい。だって、あなたの真っ白なおみ足にぴたっと張りついて一緒に動き回れるから。だけど、悲しいかな、あなたの行動にも節目がある。寝る時は脱ぎ捨てて寝台の前に棄てて置かれますよね。

ここでは「靴」。これも一見、体の一部ではないので客観性があるかとも思いますが、いやいや、これこそフェチの極致。素足にぴったり張り付くんですから、何処へ行くのも一緒。食事も游びもトイレの中も。。。。ただし、さすがに寝るときは脱ぐでしょう。忘れたかのようにぽいと棄てられる。この落差がたまらない。あんなに密着していたのにあっさり見捨てられる。。ああ、もっと苛めて。。ぞんざいに扱って。。でも、また朝になったら一緒だよ。。。。おぉ~~っこわ。


以上前半の「妄想ストーカー」行為でした。頭の先から、眉から、尻の下まで、足の先までいつも一緒だよ、愛しいあなた。。。どんどん妄想が膨らんでいくのが分かるでしょう。でも、それはあなたも、わたしも、誰もが大なり小なりやっていること。実際にやったら犯罪ですが、頭の中だけなら何をやってもいいんですから。。。いろんな「パーツ」になった自分を妄想したことありませんか?迂生はありますよ、○▲■××・・・・ですけど、何か?

「十願」の残りの四段は次回にて。。。

(以上、charのmixi日記、2009年3月12日付から転載)



ストーキングは明らかに「ピーク」を越えていきます。段々と密着度が弱くなっていく。脳内から湧き出る「マグマ」が枯渇してきたのかもしれません。いや、まだまだ「踏ん張るぞい。。。」って言っても如何せんエネルギーがぁぁ、、、ああ、愛しいあなたさま。どうか余を見捨てたまふ勿れ―。お願い。


 【7】

 願わくは昼に在りては影と為り、

 常に形に依りて西東せん。

 悲しいかな 高樹の蔭多く、

 時有りて同にせざるを慨つ。


 ■「西東」

 =「さいとう、せいとう」。東奔西走、あちこち歩き回ること。本文では「さいとう」とルビが振ってあるが、どちらかというと和読みっぽいので、「せいとう」の方がしっくりきます。「西する、東する」という読み方もある。

 ■「慨つ」

 =「かこ・つ」と表外訓み。通常は「なげ・く」と訓む。「かこつ」なら「喞つ」「託つ」の方が一般的でしょうか。もっとも、意味的に「なげく」「かこつ」は同義です。「慨世」(がいせい)、「慨慨」(がいがい)、「慨息」(がいそく)、「慨嘆」「慨歎」(以上がいたん)、「慨然」(がいぜん)。


(解釈)なれるものなら、昼間なら影になりたい。だって、いつもあなたの身に寄り添ってあちこち付いてまわれるから。ただ、悲しいことに、高い木の傍だと影も大きいから、その木陰に入ってしまわれるとご一緒できないのが恨めしい。早く出てくださいな。。。

「影」。。。まさにストーキングですね。日の光がある限り、どこまでも付いていける。たとえ木陰に入ってもじっと機を窺っているんですから、大したことではないですね。家に引き籠られるとつらいが、行動的なあなたはいつも外出して歩き回るから安心さ。。ね。いつも一緒だよ。ふっ。ふっ。。ふっ。。。ふっ。。。。ふっ。。。。。



 【8】

 願わくは夜に在りては燭と為り、

 玉容を両楹に照らさん。

 悲しいかな 扶桑の光を舒べ、

 奄ち景を滅して明を蔵すを。


 ■「燭」

 =「ともしび」と訓む。あかりにするため、ともした火。たいまつ(松明)、かがりび(篝火)、ろうそく(蠟燭)など。音読みは「しょく、そく」。熟語には「燭光」(しょっこう)、「燭台」(しょくだい)、「華燭」(かしょく)、「樺燭」(かしょく)、「銀燭」(ぎんしょく)、「紙燭」(ししょく)、「手燭」(てしょく)、「蠟燭」(ろうそく)、「燭花」(しょっか)、「燭影」(しょくえい)、「燭芯」(しょくしん)、「燭心」(しょくしん)、「燭剪」(しょくせん)、「燭竜」(しょくりょう)、「燭涙」(しょくるい)、「秉燭夜遊」(へいしょくやゆう)、「風燭」(ふうしょく)=風前の灯火。

 ■「玉容」

 =「ぎょくよう」。美しい容姿。「玉~」で「美しい~、すばらしい~」と敬意を表わす言い方を1級配当漢字を軸にして列挙すると「玉韻」(ぎょくいん=他人の詩)、「玉宇」(ぎょくう)、「玉顔」(ぎょくがん)、「玉釵」(ぎょくさい)、「玉趾」(ぎょくし)、「玉卮」(ぎょくし)、「玉甃」(ぎょくしゅう)、「玉什」(ぎょくじゅう)、「玉筍」(ぎょくじゅん)、「玉簫」)(ぎょくしょう)、「玉觴」(ぎょくしょう)、「玉漿」(ぎょくしょう)、「玉簪」(ぎょくしん)、「玉塵」(ぎょくじん=雪)、「玉砌」(ぎょくせい)、「玉屑」(ぎょくせつ)、「玉蟾」(ぎょくせん=月)、「玉箸」(ぎょくちょ)、「玉牒」(ぎょくちょう)、「玉兎」(ぎょくと=月)、「玉佩」(ぎょくはい)、「玉帛」(ぎょくはく)、「玉璞」(ぎょくはく)、「玉臂」(ぎょくひ)、「玉貌」(ぎょくぼう)、「玉摧」(ぎょくさい)、「玉塞」(ぎょくさい)、「玉鸞」(ぎょくらん)、「玉輦」(ぎょくれん)、「玉壺」(ぎょっこ)、「玉勒」(ぎょくろく)、「玉珂」(ぎょっか)、「玉函」(ぎょっかん)、「玉几」(ぎょっき)、「玉肌」(ぎょっき)=「玉膚」(ぎょくふ)、「玉斧」(ぎょくふ)、「玉筐」(ぎょっきょう)=「玉匣」(ぎょっこう)、「玉稿」(ぎょっこう)、「玉觥」(ぎょっこう)、「玉鉤」(ぎょっこう)、「玉喉」(ぎょっこう)、「玉闕」(ぎょっけつ)。

 ■「両楹」

 =「りょうえい」。二本の大柱。「楹」は「はしら」ですが、天井から床の間に入った形状が丸い、太いはしら。熟語には「楹書」(えいしょ=遺言状)、「楹棟」(えいとう=柱石)、「楹聯」(えいれん)=「楹帖」(えいちょう)、「一楹」(いちえい)。

 ■「扶桑」

 =「ふそう」。見出し語。昔の中国による日本の呼称。扶桑国。中国の伝説で、東海の太陽の出る所にある神木およびその地の称から。ここでは、太陽そのものを指す。「扶」の意味的には、「たすける」ではなく、「広がって大きいさま」=普、博。熟語には「扶寸」(ふすん=膚寸)、「扶掖」(ふえき)、「扶疏」(ふそ)=「扶蘇」(ふそ)、「扶揺」(ふよう=暴風)。

 ■「舒べる」

 =「の・べる」。見出し語。かたまったものなどを、のばし広げる。心中の思いを述べるの意もある。これは何度も出ている。もう覚えたでしょう。音読みは「じょ」。「舒巻」(じょけん→「けん」の読みに注意、じょかんでもいいようだが)、「旌旗巻舒」(せいきけんじょ)、「舒緩」(じょかん)、「舒暢」(じょちょう)、「閑舒」(かんじょ)、「展舒」(てんじょ)、「舒遅」(じょち)、「舒徐」(じょじょ)、「舒嘯」(じょしょう)、「舒情」(じょじょう)、「舒展」(じょてん)、「舒放」(じょほう)。

 ■「奄ち」

 =「たちま・ち」。漢検辞典の見出し語にはある。にわかに、瞬く間に。「おお・う」とも訓む。音読みは「えん」。「気息奄奄」(きそくえんえん)、「奄有」(えんゆう)、「奄冉」(えんぜん)、「奄然」(えんぜん)、「奄忽」(えんこつ)、「奄人」(えんじん=宦官)、「奄息」(えんそく)、「奄留」(えんりゅう)。漢字源には「たちまち」の意味は見えないので、必ずしも確立されている意味ではないようです。「たちまち」は「忽ち」「驀ち」「輙ち」「輒ち」「溘ち」「掩ち」「倏ち」「乍ち」など宛字っぽいのも含めてある。「倏忽」(しゅくこつ)が最もぴったりでしょう。


(解釈)なれるものなら、夜にはともし火になりたい。二本の大柱の間であなたのうっとりするほど艶やかな姿を照らして差し上げられるから。でも悲しいことに、朝日が差し込んでくると、あっという間にその火は消される。あかりは必要なくなるから。。。朝が来るのが恨めしい。。。朝よ来ないで、邪魔すんな、おらっ。

夜のともし火というのは、これまでと違っていささか距離を置いている。気持ちの中で少し「客観性」が出てきたかもしれません。でも、夜中じゅうずっと寝姿も見ている、じ~っとね。朧げなあかりながらも、ねっとりとしたその視線の先には、愛しい人の肢体が、ああ。夜よ明けないでぇ。このまま夜が続いて欲しい。っていうけど、確かさ、「領」になりたいときは、夜が来たら羅が脱ぎ捨てられるから、早く夜が明けて、朝になって言ってたよなぁ。そらそら、「齟齬」が出てきましたよ。脳内ストーカーに理論矛盾が発生し始めています。妄想のジグソーパズルは完成するのか?


 【9】

 願わくは竹に在りては扇と為り、

 淒飆を柔握に含まん。

 悲しいかな 白露の晨に零ちては、

 襟袖を顧みて以て緬邈たるを。


 ■「淒飆」

 =「せいひょう」。涼風とある。「凄」とは別字だがほぼ同義で使われる。「淒」は「すさま・じい、さむ・い」という意味。「飆」は「つむじ風」で、熟語には「飆風」(ひょうふう)、「飆飆」(ひょうひょう)、「清飆」(せいひょう)、「飆回」(ひょうかい)、「飆起」(ひょうき)、「飆塵」(ひょうじん)。

 ■「柔握」

 =「じゅうあく」。これはちょっと難解だが、柔らかい手で握られること。あるいは、その握られたしなやかな手そのもの。「柔翰」(じゅうかん=筆)、「柔克」(じゅうこく)、「柔日」(じゅうじつ=十干のうちの、乙、丁、己、辛、癸。対して剛日は、甲、丙、戊、庚、壬)、「柔条」(じゅうじょう=若い枝)、「柔脆」(じゅうぜい)、「柔懦」(じゅうだ)、「柔媚」(じゅうび)。

 ■「緬邈」

 =「めんばく」。遥かに遠いこと。また、遥かにあって見えにくいさま。「緬」は「長く細々と続くさま、はるかに遠いさま」。「緬然」(めんぜん)、「緬想」(めんそう)、「緬思」(めんし)、「緬羊」(めんよう)。「邈」は配当外。「貌+之繞」。本文のルビは「ばく」。「まく」とも読む。とおい、はるかという意。遠くにぼんやりかすむさま。ほのかにかすんださま。「あなどる」の意もある。何となく「藐」と似た意味の漢字です。仲間でしょうから、此方は1級配当なのでセットで覚えられたらベターですね。「邈焉」(ばくえん)、「邈乎」(ばくこ)、「邈然」(ばくぜん)、「邈邈」(ばくばく)、「邈視」(ばくし)。「藐」の方では、「藐焉」(ばくえん)、「藐姑射の山」(ばくこやのやま、はこやのやま)、「藐視」(びょうし)、「藐然」「(ばくぜん)、「藐藐」(ばくばく)などほぼ「邈」と同じです。


(解釈)なれるものなら、竹の団扇(うちわ)になりたい。だって、あなたのしなやかな手に握られて涼しい風を送ってあげられるから。たけど悲しいことに、朝になって白露が降りるころになると、寒々として襟や袖を振り返りつつ遥か遠くに身を引かなければならない。団扇は必要なくなるのだから。。。

ラス前の段ですが、「団扇」というのもかなり距離を置いた存在ですね。いよいよ、身に付き纏うことが曠しいことだと分かってきたのでしょうか。ただ、「柔握」と辛うじての接点、触れ合いは求めているところが未練たらたらといえるでしょう。送った風であなたを涼しくしてあげる。。犠牲愛。奉仕愛。何も求めない無償の愛。。。。でも、優しく「に・ぎ・っ・て。。。。。」って、何を??ピー、レッドカード二枚目です。。退場っすよ、お客さん。


 【10】

 願わくは木に在りては桐と為り、

 膝上の鳴琴と作らん。

 悲しいかな 楽しみ極まりて以て哀しみ来り、

 終に我れを推して音を輟めしむるを。


 ■「鳴琴」

 =「めいきん」。琴を弾くこと。また、音を奏でている琴のこと。音を鳴らしたり、音が聞こえたりする「鳴~」には、「鳴珂」(めいか)、「鳴禽」(めいきん)、「鳴絃」(めいげん)、「鳴弦」(めいげん)、「鳴号」(めいごう)、「鳴糸」(めいし=琴)、「鳴謝」(めいしゃ)、「鳴条」(めいじょう)、「鳴鏑」(めいてき)=「鳴箭」(めいせん)、「鳴吠」(めいはい)=「鶏鳴狗盗」(けいめいくとう)、「驢鳴犬吠」(ろめいけんばい)、「鳴鸞」(めいらん)=「鳴鑾」(めいらん)。

 ■「輟める」

 =「や・める」。文字通りやめること。音読みは「てつ」で「輟耕」(てっこう)、「輟食」(てっしょく)、「輟朝」(てっちょう)、「中輟」(ちゅうてつ)。


(解釈)なれるものなら、木であれば桐になりたい。だって、あなたの膝の上で奏でる琴に作られるから。ただ悲しいかな、あまりに楽しい後は急に空しくなって、その悲い気持ちからその琴をおしのけて音を出すのをやめられてしまう。ああ、永遠に奏でてはくださらないのか。。

オーラスは「桐」、そして「琴」。う~む、音を奏でる「楽器」というのはやはり「エロチック」な存在だと思います。快楽を追求する道具というか。でも、琴じゃもうずっと一緒にいられるわけにはいかんわ。少なくともあの人が演奏しているときだけだから、一日のうちの何時間にもなりはしない。すぐに飽きられることも心配していますが、自分ではもう分かっていますね。ストーカーがもう保たないことを。。。諦めの境地の象徴と言えるかも。

「十段」まで続けると、己の脳内のストーカーに限界があることを感じないわけにはいかない。体力の限界ならぬ、脳内の限界、ストーキングの限界。回路がショートを起している。あちこち撞着だらけ。あっちを立てれば、こちらが立たず。こっちを捐てても、あちらも立たず。もう「引退」ですよね、普通。限界を感じたんだから。さて、どうする?次の一手や如何に?このまま、ストーキングは続けられないぞ。もう狂い死にするしかないのか。あなたならどうする?

(以上、charのmixi日記、2009年3月13日付から転載)

「蚌、明月を含む」と「滴水滴凍」=「碧巌録」で四字熟語抔

 本日の「碧巌録」は、「蚌、明月を含む」(ボウメイゲツをふくむ)と「滴水滴凍」(テキスイテキトウ)。

 「第九〇則 智門般若の体」の「本則」に次の件が見えます。

【本則】 挙す。僧、智門に問う、「如何なるか是れ般若の体」。〔通身影象無し。天下の人の舌頭を坐断す。体を用いて什麼か作ん。〕門云く、「蚌、明月を含む」。〔光万象を呑むは即ち且て止き、棒頭正眼の事は如何。曲は直を蔵さず。雪上に霜を加うること又た一重。〕僧云く、「如何なるか是れ般若の用」。〔倒退三千里。用を要して什麼か作ん。〕門云く、「兎子懐胎す」。〔嶮うし。苦瓠は根に連(いた)るまで苦く、甜瓜は蔕に徹(いた)るまで甜し。光影の中に活計(くらし)を作す。智門の窠窟を出でず。若し箇の出で来たるもの有らば、且道(さて)、是れ般若の体か是れ般若の用か。且く要す土上に泥を加うることを。〕

 「般若」とは「梵語prajňãに相当する音写語。知慧のこと」。

 「通身影象無し」は「(般若の体という)体全体の影も形も無い」。

 「蚌、明月を含む」は「蚌(カラスガイ)は仲秋の明月の光を浴びると真珠を孕むという伝承がある、ここでは、般若の知慧の光を体得することに喩える」。

 迂生の好きな晩唐の詩人に李商隠(いつか採り上げますよ)がいますが、彼の「錦瑟」という詩の中で「滄海月明らかにして珠に涙有り」という一節があります。古代中国では、真珠は海中の蚌から生まれ、蚌は月と感応し合って、月が満ちれば真珠が円くなり、月が欠ければ真珠も欠けると思われていました。また、仲秋の名月の時期になると、蚌は水面に浮かび、口を開いて月光を浴び、月光に感応して真珠が出来ると考えられていました。

 「兎子懐胎す」は「兎は仲秋の明月の光を浴びると懐妊するという、これも伝承がある、ここでは、般若の知慧の輝きを自ら発することに喩える」。


 「第九一則 塩官の犀牛の扇子」の「評唱」に次の件があります。


 …此れ皆な是れ下語(あぎょ)の格式なり。古人此の事を見徹すれば、各各同じからずと雖も、道得(い)い出だし来たれば、百発百中、須(かなら)ず出身の路有って、句句血脈を失わず。如今(いま)の人は問著(といつめ)れば、只管に道理計較を作す。所以に十二時中、人に咬嚼するを索め、滴水滴凍にして、箇の証悟する処を求めしむ。看よ他の雪竇一串(いっせん)に頌して云うを。

 「下語」は「コメントをつけること」。この場合は「ア」「ギョ」とそれぞれ唐宋音と漢音の組み合わせ。ちょっと難しい。

 「咬嚼」は「(その理屈のままに)咀嚼すること」。四字熟語では「咬文嚼字」(コウブンシャクジ)が想起されます。難渋な文章を嚙み砕いて翫わうこと。それが難しいこと。

 「滴水滴凍」は漢検四字熟語辞典には「滴水嫡凍」として掲載されています。「瞬時も気をゆるめないで仏道修行に励むこと」とある。ぽたぽたと間断なく水が滴り落ちるさま。「嫡」は直系の血筋の意味ですが、転じて、「ただちに・すぐに」という意味が派生。滴り落ちる水がすぐさまに凍結するように、一瞬の気の弛みも許さないことから。「嫡」を「テキ」と読むのは表外の音読み(漢音)で意外に珍しいですね。迂生は刱めて見ました。「よつぎ」という表外の訓読みがあり、本番ではこちらの方が狙われそうですね。しかし、漢字源を見ると、「チャク」=呉音、「テキ」=漢音とあり、両方とも一般的のようです。「嫡子」も「チャクシ」と「テキシ」、「嫡出」も「チャクシュツ」と「テキシュツ」のいずれもOKです。

 「一串」の読みは「イッセン」。「イッカン」でも良さそうですが、この読み分けは非常に難しい。「串」には「くし、つらぬく」と「なれる、気脈を通じる」という意味が在る。前者は「カン」、後者は「セン」とされますが、辞書によっては逆の場合もあり難しい。「串戯」(冗談・ギャク)は「カンギ」、「親串」(仲間)は「シンセン」。

本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「菟糸燕麦」(トシエンバク)、「菟葵燕麦」(トキエンバク)


 有名無実。役立たず。「菟糸」は「ねなしかずら」という草の名、「菟葵」は「いえにれ」という草の名、「燕麦」は烏麦のこと。「糸」があっても織れないし、「葵」と名が付いてもそのものを食べるわけでなし、「麦」とは名ばかりで飼料や緑肥にしかならないもの。。。いずれも字面はいいが、中身は大したことない見掛け倒し。。。ということのようですが、それぞれの植物そのものには辜はない。だって、人間が勝手に名前をつけただけでしょ。いい迷惑だぜ。。。ったくって零しているはずです。ちなみに「莵葵」は「いそぎんちゃく」の熟字訓もあり。「莵裘の地」は引退後に隠居する土地のこと。「於菟」は虎(但、楚の方言)。

★「頽堕委靡」(タイダイビ)


 身体や気力などが、しだいにくずれ衰えること。「頽堕」は崩れ落ちる、だらしなくなること、「委靡」は衰え弱る、ふるわないこと。「怠惰」と「萎靡」と間違え易いので注意。特に「委」と「萎」が間違える。「委」は「すてる」「曲がりくねったさま」。「紆余委蛇」(ウヨイダ)はうねうねと長く続くさま。


★「戴盆望天」(タイボンボウテン)


 二つのことを一度に実現させるのは無理だということ。「戴盆」は頭に盆を載せること、「望天」は天を仰ぎ見ること。頭に盆を載せたまま天を仰ぎ見ることは、、、、できませんわな。それぞれ別の動作であり、別の意味がある行為です。それぞれやればいいんです。何も危ない橋を渡るように同時にやらなければならない法はないと思います。時間的制約があるのなら、優先順位をつけて高い方を選び、のちのち時間的余裕ができたときにもう一つのことをすればいいんです。簡単なことです。身体は一つしかないんですから。若くはないんですから。。。


★「大惑不解」(タイワクフカイ)


 自分の心の惑いがわかっていない者は一生の間真理を悟ることができない。また、いろいろ疑い迷って、その疑問がなかなか解けないこと。「不解」を「不快」と書き誤るなと漢検四字熟語辞典にあります。出典は「荘子・天地」で、「其の愚を知る者は大愚に非ざるなり。其の惑を知る者は大惑に非ざるなり。大惑なる者は終身悟らず、大愚なる者は終身暁からず」。自分の愚かさをわかっている者は大愚ではなく、自分の惑いがわかっている者は大惑ではない。大惑のものは死ぬまでさとるときがなく、大愚のものは死ぬまで知恵がひらけない。世俗に諂りながらそれを自覚しない莫迦どもこそが、この大惑であり、大愚なのである。無知の知と言っていいでしょう。己の惑い、愚かさを知ることがすべての出発点です。それがあるから前に進めるのです。


★「打成一片」(ダジョウイッペン) →「碧巌録」で既出

 すべてのことを忘れて物事に専念すること。千差万別の事物の相を平等に観ずること。仏教語とあり出典はかの「碧巌録」なり。読みが注意で「打成」は「ダジョウ(タジョウもOK)」で、書きも注意で「イッペン」を「一編」や「一変」などと書き誤らないようにしましょう。


★「多銭善賈」(タセンゼンコ)、「多謀善断」(タボウゼンダン)


 資財や条件が整っていれば成功しやすいということ。「多銭」は元で・資本の多いこと、「善賈」は良い商いをする意。「多銭、善く賈(あきない)す」と訓読する。類義語は「長袖善舞」(チョウシュウゼンブ=袖が長いほどきれいに舞える)。出典は「韓非子・五蠹」で「鄙諺に曰く、長袖は善く舞い、多銭は善く賈うと。此れ多資の功を為し易きを言うなり」。世間の諺に「袖が長いと舞が上手い、銭が溜まると商売上手」というのがある。これは元手が十分だと仕事もしやすいことを言ったものである。足下の状態がしっかりしていないのにはかりごとが上手く行くわけがない。技を研こうよ、お金を貯めようよ。一方、「多謀善断」は「よくよく考えて、物事を巧みに処理すること」。「多謀」を「多望」「多忙」と誤まるなとの注意があり。「多○善●」のパターンで無理矢理一緒くたにしました。


★「断金之交」(ダンキンノマジワリ)


 非常に強い友情で結ばれていること。二人が心を同じくすれば金属をも断ち切ることができることから。出典は「易経・繫辞・上」で「二人心を同じくすれば、その利きこと金を断つ。同心の言は、その臭(かおり)蘭のごとし」。正しい心情の持ち主が二人して心を勠せれば、その鋭さは金鉄をも断ち切るほどであり、心を同じくする者の言葉は、蘭の芳りのようにかぐわしいものだ。類義語は多く、列挙すると、「断金之契」(ダンキンノチギリ)、「断金之利」(ダンキンノリ)、「管鮑之交」(カンポウノマジワリ)、「金蘭之契」(キンランノチギリ)、「膠漆之交」(コウシツノマジワリ)、「水魚之交」(スイギョノマジワリ)、「耐久之朋」(タイキュウノトモ)、「莫逆之友」(バクギャクノトモ)、「刎頸之交」(フンケイノマジワリ)。いずれも劣らぬ「男と男の堅い友情」です。


★「簞食瓢飲」(タンシヒョウイン)


 清貧に甘んじる譬え。わずかな飲食物。竹の器の飯と瓢簞に入った飲物。出典は「論語・雍也」で「賢なるかな回や。一簞の食(シ)、一瓢の飲(イン)、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」。弟子の顔回を頌めまくった孔子の言葉。他の人ならそのつらさに耐えられない貧乏生活だが、顔回はそういう中でも自分の楽しみを改めようとはしない。えらいえらい。サブプライムバブル崩壊に伴う貧窮生活が始まるのです、いや始まっているのです。其の中でいかにして生活を楽しめるかどうかがポイントになるでしょう。「簞食瓢飲」という言葉を嚙み締めましょう。「顔回簞瓢」(ガンカイタンピョウ)、「朝齏暮塩」(チョウセイボエン)などが類義語。

★「断薺画粥」(ダンセイカクシュク)


 貧乏に耐えて勉学に励むこと。「薺」はなずな(ぺんぺん草)、「断薺」はなずなをきざむ意。「画粥」は固くなった粥を四角く切ること。いずれも裕福な家庭では食べるものではない。出典は「范希文修學最貧、在長白山僧舍、煮粟二升、作粥一器、經宿遂凝、以刀畫爲四塊、早晚取二塊、斷薺數十莖、而之」という故事から。
 類義語は「車胤聚蛍」(シャインシュウケイ)、「蛍雪之功」(ケイセツノコウ)、「苦学力行」(クガクリッコウ)、「鑿壁偸光」(サクヘキトウコウ)など。春の七草も漢字で書けるようにしておきましょう。これを機に「芹、薺、御形、繁縷、仏座、菘、蘿蔔、これぞ七草」。秋は、、、いいよね。


★「断爛朝報」(ダンランチョウホウ)


 切れ切れになって、続き具合の分からなくなった朝廷の記録。ずたずたに千切れた官報。ここが注意で、また、「春秋」(孔子の表わした歴史書)を毀って言う言葉。出典は「宋史・王安石伝」で「春秋の書を黜けて、学官に列せしめず。戯れに目して断爛朝報と為すに至る」。北宋時代の王安石は、春秋が欠落の文章だと看做し、孔子の意図するものが罩められているものではないと断じた。這の辺りの春秋を運る学問の動向は奥が深く、迚も太刀打ちできません。これくらいで引き下がります。既報ですが「春秋筆法」「筆削褒貶」「微言大義」「皮裏陽秋」などのキーワードと共に、「断爛朝報」も知ったかぶりで覚えておきましょう。

「掩耳偸鈴」と「一箭双雕」=「碧巌録」で四字熟語


 本日の「碧巌録」は、「掩耳偸鈴」(エンジトウリン)と「一箭双雕」(イッセンソウチョウ)。


 「第八五則 桐峰庵主の大虫」の「評唱」に次の件があります。

 …千古の下、人の点検に遭う。所以に雪竇道く、「是なることは則ち是なるも、両箇(ふたり)の悪賊、只だ解く耳を掩って鈴を偸むのみ」と。他の二人皆な是れ賊なりと雖も、機に当って却って用(はたらか)ず。所以に耳を掩って鈴を偸む。此の二老、百万の軍陣を排(つら)ねて、却って只だ掃箒(ほうき)を闘わしむるが如し。…

 「耳を掩って鈴を偸む」は、漢検四字熟語辞典には「掩耳偸鐘」(エンジトウショウ)の類義語として掲載があります。それによると、「浅はかな考えや知恵で自分を欺くたとえ、また、自分の良心を欺き悪事をはたらくたとえ」とある。「掩耳」は耳をふさぐこと、鐘を盗むのに音がして(鐘が鳴って)人に知られることを恐れて自分の耳をふさいでもどうにもならないことをいう。類義語はほかに「掩耳盗鈴」(エンジトウリン)、「掩目捕雀」(エンモクホジャク)。押さえたり、隠したりするのは耳や目にとどまりませんよ。「掩巻」(エンカン=読書をやめる)「掩鼻」(エンビ=臭いをかがない)、「掩涙」(エンルイ=涙をおさえる)。

 「排ねる」の訓み方は表外ということで押さえておきたい。


 「第八七則 雲門、薬病相治す」の「頌」に次の件があります。

【頌】 …門を閉じて車を造らず、〔大小(さすが)の雪竇、衆の為に力を竭すも、禍は私門より出づ。坦蕩として一糸毫(けすじほど)も掛からず。阿誰か閑工夫(ひま)有らん。鬼窟裏に向いて活計(くらし)を作す。〕通途自ずから寥廓たり。〔脚下は便ち草に入り、馬に上って路を見る。手に信(まか)せて拈(と)り来たり、不妨に奇特なり。〕錯、錯。〔双剣、空に倚りて飛ぶ。一箭もて双雕を落とす。〕鼻孔遼天たるも亦た穿却(うが)たれたり。〔頭落ちたり。打って云く、穿却ち了せり。〕

 「大小」は「さすがの~」と訓み、「~ともあろうものが」と訳す。

 「坦蕩」(タントウ)は、「たいらかでゆったりとしているさま」。

 「通途」(ツウト)は「大通り」。「寥廓」(リョウカク)は、「なにもなくうつろである、むなしいほどに大きい、広々とした天空」。

 「一箭もて双雕を落とす」(イッセンもてソウチョウをおとす)は「一箭双雕」で漢検四字熟語辞典に掲載。「弓を射るのがうまいこと、また、ただ一つの行為で二つの利益を得ることのたとえ」。一本の箭(や=矢)で二羽の雕(わし=鷲)を射ること。類義語は「一発双貫」(イッパツソウカン)、「一挙両得」(イッキョリョウトク)、「一石二鳥」(イッセキニチョウ)、「一挙双擒」(イッキョソウキン)。

 「遼天」は「はるかな空のように鼻高々であるさま」。


本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「鏃礪括羽」(ゾクレイカツウ)


 学識をみがいて、世に役立つ人材になること。「鏃礪」は鏃(やじり)を研ぐこと、「括羽」は筈(やはず)と鳥羽の意。研いだ鏃を竹につけ、さらに筈と鳥羽をつけて鋭い矢にすることから、学問や知識を身につけることをいう。何となくですが以前出した「射石飲羽」(精神一到)と関連付けて覚えることが可能なような可能でないような。。。。


★「大隠朝市」(タイインチョウシ)


 真の隠者は山中などにいるのではなく、一見一般の人と変わらない生活をしているものだということ。「大隠」は真に悟りを得た隠者のこと。「朝市」はまちなか、市井という意味。「大隠は朝市に隠る」と訓読する。「市中閑居」(シチュウカンキョ)が類義語。市井の人にも悟りを開いたものはいる、そうあなただってなれるのだ。


★「大衾長枕」(タイキンチョウチン)


 兄弟睦まじいこと。交情が親密なこと。「衾」は夜着、かけぶとん。おおきなかけぶとんと長い枕で一緒に寝る仲。漢検四字熟語辞典によると、もともとは夫婦仲の睦まじいことを言ったが、唐の玄宗皇帝が兄弟仲良く寝られるように長い枕に大きなかけぶとんを作ったことから、兄弟の仲睦まじいことの譬えに用いられるようになった。「衾」は「衾褥」(キンジョク)がある。「長枕大被」(チョウチンタイヒ)が類義語。「タイキン」が「大金」「胎禽」「太鈞」「大鈞」「退勤」でないことに留意。「チョウチン」が「提灯」「堤燈」でないことは。。。分かるよなぁ。


★「太羹玄酒」(タイコウゲンシュ)


 規則のみに縛られた淡白で面白味のない文章(詩歌)の譬え。「太羹」は味のついていない肉汁、「玄酒」は水の別名。祭のときに水を酒の代用としたところから。調味料や味の離いていないもので、「用以比喻詩文風格淡雅古樸」。「大羹玄酒」とする例も多い。「羹」はあつもの、スープ、お吸い物。「懲羹吹膾」(ちょうこうすいかい)で有名。最近の新聞記事も「太羹玄酒」なものが多いですよねぇ。詰まらん。。。


★「屠羊之肆」(トヨウノシ)、「屠所之羊」(トショノヒツジ)


 「屠」られる「羊」が共通しているのでまとめてみました。意味は各、「羊を殺してその肉を売る店、転じて賎しい身分の象徴」と「刻々と死に近づいているものの譬え」。
 「屠羊之肆」の出典は「荘子・譲王」で「夫れ三珪の位は、吾れ其の屠羊之肆よりも貴きを知れり。万鍾の禄は、吾れ其の屠羊之利よりも富めりを知れり。然れども豈に爵禄を貪りて吾が君をして妄りに施すの名あらしむべけんや。説は敢えて当たらず。願わくは復た吾が屠羊之肆に反らんや」。「三珪の位」は楚の高級官僚の役職。羊を殺して売りさばく職業の屠羊説の台詞。立派な階級も豊富な爵禄も、私如きの賎しい者に賜るという出鱈目をおやりになったら、汚名となって残りますよ。お受けできませんとして、天子からの下賜を断ったというエピソード。身分を弁えた高潔の士の泣かせる台詞です。


★「訥言敏行」(トツゲンビンコウ)


 人格者はたとえ口は重くても、実行は正しく敏速でありたいということ。「訥言」は口下手の意。「訥」一字で「くちべた」とも読む。「木訥」「樸訥」「朴訥」(以上ボクトツ)、「訥渋」(トツジュウ)、「訥訥」(トツトツ)。注意すべきは「咄咄怪事」(トツトツカイジ)の「咄」とは違うこと。出典は「論語・里仁」で「君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す」。ちゃんとやればいいんです。一々ことさらにアピールしなくてもね。。。。


★「斗筲之人」(トショウノヒト)


 器量の小さい人物の譬え。「斗」は一斗(周代では約1・94立)入りのます。「筲」は一斗二升入りの竹器。いずれも小さいキャパシティーしかない容器のこと。これも出典は「論語・子路」で「噫、斗筲の人、何ぞ算うるに足らん」。最近の政治家を称して孔子が見下した言葉です。さらに、註釈(岩波文庫)を視ますと、ただ単に器量が小さい事を言うのではなく、「聚斂」(税を取り立てる)するだけ(取り立てた税を斗筲に納れるだけ)の小役人という解釈もあるようです。現代に日本政府の財務省の役人も「斗筲之人」?


★「吐故納新」(トコノウシン)


 古いものを排除し、新しいものを取り入れること。「吐古」は古いものを吐き出すこと、「納新」は新しいものを入れる意。「新陳代謝」「新旧交代」「人心一新」などが類義語。出典は「荘子・刻意」で「此れ江海の士、世を避くるの人、間暇なる者の好む所なり。吹呴呼吸し、吐古納新、熊経鳥申するは、寿を為すのみ。此れ道引の士、養形の人、彭祖寿考なる者の好む所なり」。註釈(岩波文庫)によりますと、古い息を吐き出して新鮮な気息を吸い入れるという深呼吸のことだといいます。神仙術の長生き方法の一つ。荘子の口調は少し厳しいですが、長生きを求めることそのものを否定しているのではありません。無為自然の結果が寿であればいいという。


★「兎死狗烹」(トシクホウ)


 利用価値のある間は用いられるが、無用になると捨てられること。うさぎが殺されると、猟犬は不必要になり煮て食べられることから。もちろん「狡兎走狗」(コウトソウク)の方が有名成句ですね。出典は「韓非子・内儲説・下」で「狡兎尽くれば則ち良犬烹られ、敵国滅びなば則ち謀臣亡ぶ」。暗躍する謀臣を良犬に譬えています。目的が達せられればいらなくなものはたくさんある。果して1級合格という目的が達せられれば、その過程で学んだことはいらなくなるのでしょうか?わたしは逆だと思います。過程がいらないなら目的もいらない。過程がないのに合格できるわけがない。。。。

「羝羊触藩」と「点鉄成金」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」は、「羝羊触藩」(テイヨウショクハン)と「点鉄成金」(テンテツセイキン)。

 「第八四則 維摩の不二法門」の「評唱」に次の一節があります。

 …你且ず道え、是れ什麼処か是れ勘破(みぬ)ける処。只だ這の些子(かんどころ)は得失に拘らず、是非に落ちず、万仞の懸崖の如し。向上(うえ)に性命(いのち)を捨得(す)てて、跳得過去(とびだ)さば、你に許(みと)む親しく維摩に見えたりと。如し捨て得ざれば、羝羊の藩に触るるに大いに似たり。雪竇は故然(もと)より是れ性命を捨て得たる底の人、所以に頌出して云く、

 「羝羊の藩に触るる」は「羝羊触藩」と四字熟語で覚えましょう。「まがきに突っ込んで角をひっかけた牡羊のように動きが取れない、つまり、自ら墓穴を掘って藻掻き苦しむさま」。これ「易経」に出てくる結構有名な成句なんですが、なぜかしら漢検四字熟語辞典には掲載がない。漢検辞典にも成句として見えない。これは手落ちですよ。弊blogを読んでしっかりと押さえておきましょう。「羝羊」(テイヨウ)は見出し語にあります。


 続いて、「第八五則 桐峰庵主の大虫」の垂示に次の一節があります。

 垂示に云く、世界を把定(おさえこ)んで、繊毫(けすじほど)も漏らさず、尽大地の人、鋒を亡い舌を結ぶ、是れ衲僧の正令なり。頂門に光を放ち、四天下を照破す、是れ衲僧の金剛眼睛なり。鉄を点じて金と成し、金を点じて鉄と成し、忽ちに擒え忽ちに縦つ、是れ衲僧の拄杖子(つえ)なり。…

 「繊毫」は「センゴウ」。否定文で用いて「少しも~でない」。「糸毫」「寸毫」ともいう。

 「鋒を亡い舌を結ぶ」は「亡鋒結舌」(ボウホウケツゼツ)と四字熟語っぽく覚えてもいい。「気勢を殺がれてものが言えなくなったさま」。

 「点鉄成金」は直後の「点金成鉄」(テンキンセイテツ)とひっくり返してもOK。気合一つで何でもできること。修行者を導く練達した手際を指す。鉄だって金に変えられるけれど、下手すれば、金を鉄にもできてしまう。文章の添削の妙味を表す言葉でもある。新聞業界で言えばデスクの役割。現場の記者の精魂罩めた原稿を生かすも殺すもデスクの腕次第。下手に筆を入れると、「金」も「鉄」になってしまうが、ぴりりとした調味料を少しだけ入れることで「鉄」を「金」に変えることができるものです。こわいっちゃあこわいですが、人を導くということは簡単ではないんです。


 本日のmixi転載四字熟語は次の通りです。


★「先難後獲」(センナンコウカク)


 仁徳者は難事を先にして利益は後にすることとすること。類義語は「先苦後甜」(センクコウテン)。出典は「論語・雍也」で「仁者は難きを先にして獲るを後にす、仁と謂うべし」。


★「賤斂貴発」(センレンキハツ)


 物価が安いとき(賤)に買い入れて、物価が高騰したとき(貴)に安く売り出す物価安定策。「斂」は「あつめる」で「賤きとき斂め、貴きとき発す」と訓読する。「賤斂貴出」とも書く。経済学の基本ですね。現代でも十分通用する考え方。


★「草偃風従」(ソウエンフウジュウ)


 人民は天子の徳によって教化され、自然とつき従うようになるということ。出典は「論語・顔淵」の「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す」。草は風が吹けば必ずなびく。風が大事。「偃」は「ふす、なびく、たおれる」という意。「偃息」(エンソク)、「偃武修文」(エンブシュウブン)、「偃臥」(エンガ)、「偃月」(エンゲツ)、「偃月刀」(エンゲツトウ)、「偃蹇」(エンケン)、「偃甲」(エンコウ)=「偃革」(エンカク)=弭兵、「偃草」(エンソウ)=教化、「偃然」(エンゼン)、「偃兵」(エンペイ)など熟語は多い。


★「叢軽折軸」(ソウケイセツジク)

 小さなものでも沢山集まると大きな力になるということ。「叢軽」はたくさん集まった軽いもの、「折軸」は車軸が折れる意。軽いものも積み重なれば車軸を折るほどの力を持つということ。「積羽沈舟」(セキウチンシュウ)、「積水成淵」(セキスイセイエン)が類義語。小さなことから兀兀と。。。。西川きよしでございますぅ。。。


★「簇酒斂衣」(ソウシュレンイ)


 貧乏生活。「簇酒」は杯に一杯ずつ集めた酒のこと、「斂衣」は端切れを乞い集めて作った衣服のこと。「簇」も「斂」も「あつめる」という意。「粗衣粗食」「簇酒歛衣」(ソウシュカンイ)が類義語。「斂」と「歛」は微妙です。注意しましょう。「歛」は「のぞむ、ねがう」で「歛丐」(カンカイ)=こじき。

★「甑塵釜魚」(ソウジンフギョ)


 非常に貧しい譬え。「甑」はこしき、せいろう。土焼きで上が大きく下が細く、底に七個の穴がある蒸すための器。「甑塵」は、貧しいため甑を使うことから塵が積もったということ。「釜魚」は釜に魚が湧くということ。魚と言ってもぼうふらのこと。「瓦」がつく漢字を整理しておこう。「甄」は陶器を作る職人のことで「すえ」とも読む。「甄別」(ケンベツ)、「甄陶」(ケントウ)、「甄抜」(ケンバツ)、「甄者」(ケンジャ)。「甎」は「しきがわら」で「甎全」(センゼン)。「甌」は「ほとぎ」で「甌脱」(オウダツ)、「甌臾」(オウユ)、「甌窶」(オウロウ)。「甍」は「いらか」で「甍宇」(ボウウ)。「甕」は「かめ、みか」で「甕天」(オウテン)、「甕頭」(オウトウ)、「甕牖」(オウユウ)、「甕牖縄枢」「甕裡醯鶏」は基本四字熟語。「甓」は「かわら」で「瓦甓」(ガヘキ)、「瓶」は「びん」で「瓶子」(ヘイシ)、「瓶筲」(ヘイソウ)、「瓶盆」(ヘイボン)、「瓷」は「磁」で「瓷器」(ジキ)。「甃」は「いしだたみ」で「甃砌」(シュウセイ)、「甃甎」(シュウセン)。「瓮」は「もたい」。


★「束皙竹簡」(ソクセキチクカン)、「束帛加璧」(ソクハクカヘキ)、「束髪封帛」(ソクハツフウハク)


 「束」で始まる四字熟語を三つ取り揃えました。意味は全然違うので無理矢理関連付けましょう。意味は順に「束皙は古墓などから出土した竹簡を解読して博学を称された」、「一束の帛の上に璧を載せる。昔、最高の礼物」、「妻が堅くその貞操を守ること」。「帛」が二語で共通していますが、「(白い)きぬ」のこと。「裂帛」(レッパク)=「きゃぁあああ~」、「帛書」(ハクショ)、「帛布」(ハクフ)、「帛紗」(フクサ)=袱紗、「幣帛」(ヘイハク)=ぬさ。


★「属毛離裏」(ゾクモウリリ)


 子と父母との深いつながりのこと。「属」も「離」もつらなる、つながるの意。「毛」は父親のこと、「裏」は母胎のこと。子の身体は、毛髪皮膚まですべて母胎(父母の血肉)とつながっているという意味。出典は「詩経・小雅・小弁」で「毛に属せざらんや、裏に離かざらんや」。

「疋馬単鎗」と「金声玉振」=「碧巌録」で四字熟語


 「碧巌録」で四字熟語シリーズはいよいよ岩波文庫の「下」に突入します。巻八の「第七一則」から巻十の「第一〇〇則」まで。本日は「疋馬単鎗」(ヒツバタンソウ)と「金声玉振」(キンセイギョクシン)。


 「第七一則 百丈、咽喉を併却(ふさ)ぐ」の「頌」に次の件が見えます。

 【頌】 和尚も也た併却ぐべし、〔已に言前に在り了れり。衆流を截断す。〕龍蛇陣上に謀略を看る。〔須是らく金牙にして始めて解す。七事身に随う。戦に慣れたる作家。〕人をして長く李将軍を憶わしむ、〔妙手多子無し。疋馬単鎗、千里万里、千人万人。〕万里の天辺に一の鶚が飛ぶ。〔大衆見るや。且道(さて)、什麼処(いずこ)にか落在す。中れり。打って云く、飛び過ぎ去れり。〕

 「龍蛇陣」は「兵法の陣(じんだて)の一つで、ここでは、百丈の発問をいう」。和尚に盾突いた百丈です。

 「七事」とは「弓、箭など七種類の武器」。

 「憶」は、ただ思うのではない、昔、往事に思いを騁せる意。「李将軍」とは漢の時代の名将軍で弓の名手の李広のこと。

 「疋馬単鎗」は「たった一騎でしかも一本の鎗で立ち向かうこと」。「疋」は「動物の足を数える単位」。一匹の馬。「鎗」は「やり」。「一騎当千」が想起されます。

 「鶚」は訓めますよね。「ガク」、「みさご」のことです。ワシ、タカの猛禽類。餌を追い求めて望見するさまを表わす。



 「第七三則 馬大師の四句百非」の「頌」に次の一節があります。


 【頌】 蔵頭は白く、海頭は黒し、〔半合半開。一手には擡げ一手には搦(おさ)う。金声して玉振す。〕明眼(みょうげん)の衲僧も会すること得ず。〔更に行脚すること三十年せよ。終是に人に你の鼻孔を穿却(うが)たる。山僧故是口担(へんたん)の似し。〕…
 「半合半開」は「半分閉じて半分開くといった思わせぶりな示し方」。

 「搦」は通常「からめる」。「そっと手に持つ」という意味もある。

 「金声玉振」は漢検四字熟語辞典に拠りましょう。「才知と人徳を調和良く備えていること。また、偉大な人物として大成すること」。「孟子・万章・下」に出てくる、孟子が孔子の人格を絶賛した言葉です。「金」は鐘のこと、「声」は鳴らす意、「玉」は「磬」(ケイ)という石製の打楽器、「振」は収める意。中国では、鐘を鳴らして音楽を始め、次に糸・竹の楽器を奏で、最後に磬を打って締めくくった。始まりをちゃんとして、終わりも乱れず整っていることを言う。音楽用語です。ぜひ「孟子」の一読をお勧めいたします。

 「口担」は「口をへの字に結んで黙り込むこと」。「担」は「天秤棒」。

 本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「白荼赤火」(ハクトセキカ)、「白兎赤烏」(ハクトセキウ)、「白髪青袗」(ハクハツセイシン)


 一面に軍を展開すること。兵が一面に白い花のように散り、赤い火が燃え盛るように展開するさま。「荼」は「にがな・のげし」。四字熟語辞典には「荼」を「茶」と誤まるなとあります。「荼毒」(トドク)、「荼毘」(ダビ)、「荼炭」(トタン)などがある。「白兎赤烏」(ハクトセキウ)は時間のこと。「白髪青袗」(ハクハツセイシン)は、晩年に官位を得る遅咲きの人。「白」で始まり「赤」「青」と色で対比するパターン。


★「麦穂両岐」(バクスイリョウキ)


 豊作の前触れのこと。「麦穂」は麦の穂、「両岐」は二股に分かれること。麦の穂が二股になって実るという意。「リョウキ」が浮かぶかどうか「良驥」「綾綺」「猟奇」「涼気」「猟期」「漁期」「両機」などではない。「バクスイ」は「爆睡」はないよなぁ。


★「社燕秋鴻」(シャエンシュウコウ)


 出会ったかと思うとまたすぐ別れることの譬え。「社燕」は春の社日(立春から五番目の戊=つちのえの日)に来て、秋の社日(立秋から五番目の戊の日に飛び去る燕。「鴻」は秋に来て春に去る白鳥。燕と白鳥が同じ時期に過ごすことはほぼないことから、お互いに出会うことの難しさをいったもの。季節季節の暦日の一種に「雑節」(ザッ切)というのがあって、節分、彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日。社日というのは、「生まれた土地の神様(産土神)を祀る日。春と秋の2回行われ、春のものを春社〔シュンシャ/はるしゃ〕、秋のものを秋社〔シュウシャ/あきしゃ〕といい、春分(3月20日頃)と秋分(9月23日頃)のそれぞれに最も近い戊〔つちのえ/いぬ〕の日を指す」とある。「社」=土地の神様、「稷」(きび)は五穀の神様。合わせて有名な「社稷」(国の守り神、転じて国家)となり、「社稷の臣」は、「それらの神に仕えるもの、国家の重臣」となるわけである。


★「馬牛襟裾」(バギュウキンキョ)



 見識がなく無教養な者のこと。また、無礼者。「襟裾」はえりとすそだが、転じて衣服を着ることを表わす。つまり、衣服を着た牛や馬のような奴。結構きつい侮蔑の辞ですな。ネット検索で漸く見つけたら、「符讀書城南」という詩であの有名な成句「灯火親しむべし」の出典と同じでした。自分の息子、符に対して、親心で学問しなさいと説いている句。一部だけ引用すると、「人不通古今、馬牛而襟裾。行身陷不義、況望多名譽。時秋積雨霽、新涼入郊墟。燈火稍可親、簡編可卷舒。豈不旦夕念、為爾惜居諸。恩義有相奪、作詩勸躊躇。」。五言古詩と言う奴でしょうか。見事に偶数番目の句の終わりを「yo」で韻を踏んでいるのが分かります。
 ちなみですが、自分を謙る「牛溲馬勃」(ギュウシュウバボツ)、「牛糞馬涎」(ギュウフンバセン)という言い方もありますが、牛や馬が可哀相。有益な家畜なのに。。。。いずれも韓愈の詩が出典となっている。一体、韓愈は牛や馬に恨みがあるのかぁ?

★「杯水車薪」(ハイスイシャシン)


 何の役にも立たないこと。「杯水」はほんの僅かな水のこと、「車薪」は車一台分の薪のこと。杯一杯の水で車一台分の薪についた火事を消そうとしても無力だということ。出典は「孟子・告子・上」で「仁の不仁に勝つは、猶水の火に勝つがごとし。今の仁を為す者は、猶一杯の水を以て、一車薪の火を救うがごとし、熄えざれば則ちこれを水は火に勝たずと謂う。此れ又不仁に与するの甚だしき者なり。亦終に必ず亡わんのみ」。「仁」のお話です。少しばかりの「仁」しかないくせに、甚だしい「不仁」に勝とうとしている輩が多い。水が火に勝つのは消し去ることができて初めてのことだ。もっと大きな水になろうとするのが先。火を消せるだけの力を蓄えよう。焦ってはいけない。少ししかないが折角の「仁」すらなくしてしまうぞ。精進精進あるのみ。焦らず、じっくり力を蓄えましょう。「杯水車薪」で臨んでも意味のないことは世の中に沢山ありますよねぇ。。。。


★「破戒無慙」(ハカイムザン)


 戒律を破っても少しも恥じないこと。仏教語で「破戒を破壊と書くな、無慙を無残、無惨と書くな」との注意書きがあります。取り上げたのも、意味というより書き誤りに対する注意喚起です。


★「翦草除根」(センソウジョコン)


 災いを根刮ぎ除き去ること。問題を根本から解決すること。「草を翦り根を除く」と訓読する。類義語は「釜底抽薪」(フテイチュウシン)、「抜本塞源」(バッポンソクゲン)。「翦」がやや難しい。「きる」と読み、「剪」と書き換えが可能。「翦定」(センテイ)、「翦夷」(センイ)、「翦裁」(センサイ)、「翦裁」(センサイ)、「翦断」(センダン)、「翦紙」(センシ)、「翦屠」(セント)、「翦刀」(セントウ)、「翦伐」(センバツ)、「翦滅」(センメツ)、「翦余」(センヨ)など熟語は多い。すべて「剪」もOK。「詩経・国風・召南」の「甘棠」という詩中に「勿翦勿伐…」が見えます。「ブッセン」と読みます。

「出没巻舒」と「慧炬三昧」=「碧巌録」で四字熟語

 三日ぶりの「碧巌録」です。本日は、「出没巻舒」(シュツモツケンジョ)と「慧炬三昧」(エコザンマイ)。

 「第六八則 仰山、三聖に問う」の「評唱和」に次の一節が見えます。

 …其の実は是れ互換の機、収むるときは則ち大家(みな)収め、放つときは則ち大家放つ。雪竇一時に頌し尽し了れり。佗(かれ)の意に道く、「若し放収せず、若し互換せずんば、你は是れ你、我は是れ我ならん」と。都来(すべて)只だ四箇の字、甚(なに)に因ってか却って裏頭(なか)に於て出没巻舒す。古人道く、「你若し立てば我便ち坐り、你若し坐らば我便ち立たん。若也同に坐り同に立たば、二り倶に瞎漢(かつかん)と。…

 「出没巻舒」は漢検四字熟語辞典に記載は無い。「没」は「モツ」と呉音で読んで下さい。「没骨」(モッコツ)、「没義道」(モギドウ)。「巻舒」は「巻いたり、広げたりすること、転じて、才能を隠したり外へ出したりすること」。「出没」もほぼ同義。自由自在に自分の考えを隠したり押し広めたりする。己の思うがままに世界を操ることです。ある意味、理想的な処世かもしれません。

 続いて、「第六九則 南泉、忠国師を拝す」の「評唱」に次の一節があります。

 若是衲僧正眼に覰著(み)れば、只だ是れ精魂を弄するのみ。若し喚んで精魂を弄すと作さば、却って是れ精魂を弄するにあらず。五祖先師道く、「他の三人は是れ慧炬三昧、荘厳王三昧」と。此の如く女人拝を作すと雖然(いえど)も、他(かれ)終に円相の会を作さず。円相を画くと雖も、他終に円相の会を作さず。…

 「慧炬三昧」も四字熟語辞典には見えません。「慧炬」は「知慧のたいまつ」。「三昧」は「精神統一して得られた境地」。たいまつの火が物事をよく見極め、道理を正しく把握し照らし出すように精神を集中して乱れない。「荘厳王」は「福徳や知慧によって飾られた王者」。「ショウゴン」と読む。

 本日の四字熟語はかなり難しい。禅宗の極意みたいなもの。自在な境地と煩悩に打ち克つ境地。。。簡単には到達できませんね。

 本日のmixi日記転載四字熟語はやや多めで行きましょう。



★「折檻諫言」(セッカンカンゲン)


 臣下が君主を厳しくいさめること。「檻」は手すり、欄干、おばしま。「折檻」はてすりが折れること。「諫言」は目上の人をいさめる意。いずれも1級配当の基本中の基本漢字。偶には基本も押さえておきましょう。漢検四字熟語辞典によれば、前漢の朱雲が成帝に奸臣を斬るよう諫めたことろ、帝の逆鱗に触れ、その場から連れ出そうとした。しかし、朱雲は御殿の欄干につかまって諫言を止めず欄干の手すりの木が折れてしまったという故事があるそうです(漢書・朱雲伝)。「檻」は「おり」とも読み、「檻猿籠鳥」(カンエンロウチョウ)、「檻穽」(カンセイ)、「檻送」(カンソウ)、「檻致」(カンチ)、「檻輿」(かんよ)、「檻車」(カンシャ)→いずれも今で言う護送車のこと。下付きには「獣檻」(ジュウカン)、「牢檻」(ロウカン)などがある。注意すべきは「切諫」という言葉があるのでこれと混同しないようにしましょう。


★「折衝禦侮」(セッショウギョブ)


 武勇によって敵をくじき、敵の侮りを防ぎとめ恐れさせる。「折衝」は衝いて来る敵をくじく意、「禦侮」は敵がこちらを侮るのを防ぎとめる意。出典は「詩経・大雅・緜・毛伝」ですが見つかりませんでした。どうやら、今では極めて一般的な日常言葉である「折衝」はこの詩経が由来のようです。


★「截断衆流」(セツダンシュル)→「碧巌録」で既出


 俗世間の雑念妄想をたちきること。修行者が煩悩をたちきること。「衆流」は雑念妄想の譬え。いずれも仏教語。「シュル」と読むのは難しいですね。まぁ、出ないでしょ。


★「切問近思」(セツモンキンシ)


 すべての事を身近な問題として切実に取り上げ、自分のこととして考えること。出典は意外にも論語・子張で「子夏が曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」から。「せつもん」が「切問」、切実な問題と読み切れるかどうかが最大のポイントですね。「キンシ」は「近思」でいいでしょう。「金翅」「鈞旨」「巾笥」「麕至」「菌糸」は浮かばんでしょうなぁ??


★「善巧方便」(ゼンギョウホウベン) →「碧巌録」で一部既出

 機に応じた方法にきわめて巧みなこと。また、その方法。仏が相手の素質や性格に応じて巧みに方法を講ずること。仏教語。「善巧」の読みが難しい。「ゼンギョウ」と読むので1級配当四字熟語になっています。「巧」を「キョウ」と読むのは呉音です。類義語は「応機接物」(オウキセツモツ)、「対症下薬」(タイショウカヤク)、「因病下薬」(インペイカヤク)、「応病与薬」(オウビョウヨヤク)。



★「僭賞濫刑」(センショウランケイ)


 適正を欠いた賞罰。「僭賞」は身分をこえた恩賞のこと、「濫刑」はむやみやたらに罰する意。賞罰の内容の度が過ぎていることをいいます。対義語は「信賞必罰」(シンショウヒツバツ)。「センショウ」は結構難しいかも。「戦捷」「僭縦」「僭称」「詮証」「戦竦」「尠少」「賤称」「船檣」「戦悚」「賤妾」「選奨」「先蹤」「鮮少」など多くの同音異義語がある。「らんけい」も「蘭閨」「蘭馨」「蘭桂」「蘭契」「卵形」「蘭渓」と「蘭」(あららぎ)系が多い。


★「八索九丘」(ハッサクキュウキュウ)


 古い書籍のこと。いずれも古代中国の書物の名称で現存はしない。「八索」は八卦(ハッカ)に関するもの、「九丘」は中国の九州の地理に関するもの。「春秋左氏伝記・昭公12年」に「王曰く、是れ良史なり。子善く之を視よ。是れ能く三墳・五典・八索・九丘を讀めり、と。」が見えます。

★「博聞約礼」(ハクブンヤクレイ)、「博施済衆」(ハクシサイシュウ)、「博学篤志」(ハクガクトクシ)


 「博」で始まるこれら三つは出典がいずれも「論語」。意味は順に「博く文献に目を通して学問を修め、礼を以て学んだことを締めくくり実践すること」、「博く恩恵を施して、民衆を苦しみから救うこと」、「学問が博く熱心なこと」。まぁ、文字通りの意味は難しくないでしょう。原典に当たってみると、それぞれ「君子、博く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦た以て畔かざるべきか」(雍也)、「如し能く博く民に施して能く衆を済わば、如何。仁と謂うべきか」(雍也)、「博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」(子張)。「畔く」が「そむく」と表外読み。
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Author:char
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漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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