スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

変わる街と変わらない街の違いを見つけに出掛けませんか?=「礫川徜徉記」(10)・完

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの10回目、最終回です。当時四十五歳だった荷風が原点を見詰め、それまでの人生を振り返るため、少年時代を過ごした小石川の散策がいよいよ終焉を迎えます。迂生の“タイムスリップ”も最終旅程に入りました。

 やがて寺のしもべ来りて兆域に案内す。兆域は本堂のうしろなる1)キュウフにあり。2)セキトウを登らむとする時その3)フモトなる井のほとりに老婆の石像あるを見、これは何かと4)に問へば5)咳嗽のばばさまとて、せきを病むもの願を掛け病癒れば甘酒を供ふるなりといへり。この日も硝子罎の甘酒四、五十本ほども並べられしを見たり。霊験のほど思ひ知るべし。

 日輪寺を出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂を6)ぢて新長谷寺の樹下に憩ふ。朱塗の不動堂は幸にして震災を免れしかど、境内の碑碣は悉くいづこにか運び去られて、懸崖の上には三層の西洋づくり東豊山の眺望を遮断したり。来路を下り7)口の8)に抵り見れば、これもいつかセメントにて築き改められしが上に鉄の釣橋をかけ渡したり。駒留橋のあたりは電車製造場となり上水の流は化して9)コウトクとなれり。鶴巻町の新開町を過れば、夕陽ペンキ塗の看板に反映し洋食の臭気10)フンプンたり。神楽坂を下り麹町を過ぎ家に帰れば日全く昏し。燈を11)げて食後戯にこの記をつくる。時に大正十三年甲子四月二十日也。



以上、荷風が四十年前の想い出を辿りながら小石川を中心としたエリアを散策した迹を付いてきました。前の年の関東大震災が東京の街に大きな変化を与えたことが明確に分かりますね。明治期から大正へと時代が移り、街の姿が変遷していることも感傷を与えます。それでも変わらないものにどうしても目が行く荷風でした。いや、俺は変わりたくはないのだ。。。。

迂生が十八の時に某田舎から上京してから既に三十年近くが経過しています。小石川に住んだのはたった一年間だけです。爾来、水道橋や飯田橋、神楽坂、本郷辺りは何度か足を踏み入れましたが、小石川には一度も赴いていません。今回、荷風の記に登場した地名で迂生が覚えているものは、今の共同印刷や小石川植物園、伝通院くらいです。あとはほとんど知りません。坂にもいちいち名前があったことも初めて知りました。現在の地図を脇に置いて見て荷風の歩いたであろう道を辿ってみたのですが、寧ろ、荷風の目で見た街を今の迂生の目でもう一度見てみたいという気がむくむくと湧いて起こりました。小石川と言えば山手線内ですし、東京都心のど真ん中やや北寄りと言っていいところ。文人墨客たちが数多く住んだ街でもあります。一抹の懐かしさは感じながらも昔の東京を感じてみることができそうです。春めいた頃にでも散歩に出よおっと。。。

以上、荷風紀行文シリーズでした。


問題の正解は続きにて。。。

続きを読む

スポンサーサイト

荷風の「掃墓」は懐かしい日本女性の鑑も対象なのです=「礫川徜徉記」(9)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの9回目です。小石川金富町は少年時代を過ごした家のあった場所。そこで家政婦として働いた女性がいました。荷風の追憶はさらに広がり深まります。

 金剛寺坂の中腹には夜ごとわが1)センコウの肩揉みに来りし久斎とよぶ按摩住みたり。われかつて卑稿『伝通院』と題するものつくりし折には、殊更に久を休につくりたり。久斎姓は村瀬名は久太郎といへり。その父寅吉といへるは幕府の御家人なりしとか。わが家金富町より一番町に移りし頃久斎は病みて世を去り、その妻しんといへるもの、わが家に来りて2)スイサン3)カンデキの労を取り、わづかなる給料にて老いたる姑と幼きものとを養ひぬ。わが父三たび家を徙して、終に4)エンソクの地を大久保村に卜せられし時、5)コウモンの傍なる6)皀莢の樹陰に7)カヤブキの廃屋ありて住むものもなかりしを、折から久斎が老母重き病に伏したりと聞き、わが母上ここに引取り、やがて野辺のおくりをもなさしめ玉ひけり。しん深くこの恩義に感じてや、センコウ8)カンシャを捐てられし後は、一際まごころ籠めてわが家のために立ちはたらきぬ。大正七年の暮われセンコウの旧居を人に譲り9)キンショを築地の僦居に移せし時、しんは年漸く老い、両眼既におぼろになりしかば、その忰の既に家を成して牛込築土に住みたりしをたより、次の年の春暇を乞ひてわが許を去りぬ。去るに望みて、御用の節にはいつにても御知らせ下さりましさしづめ来月の大掃除にはお手つだひに上りませうと言ひゐたりしがそのかひもなく、一月あまりにして突然身まかりし趣、忰のもとより言越し来りぬ。享年六十余歳。流行感冒に10)カカりて歿せしといふ。しん逝きて後ここに幾年、わが家再びこれに代るべき良婢を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ固より文字を知るものにもあらざりしかど、女の身の守るべき道と為すべき事には一として11)くところはあらざりき。良人にわかれて後永く寡を守り、姑を養ひ、児を育て、誠実の心を以てよく人の恩義に報いたり。われ大正当今の世における新しき婦人の為す所を見て翻つてわが老婢しんの生涯を思へば、おのづから畏敬の念を禁じ得ざるも豈偶然ならんや。しんの墓は小日向水道町なる日輪寺にありと聞きしのみにて、いまだ一たびも行きて弔ひしことなければ、この日初夏の晷のなほ高きに加へて、寺は一12)ギュウメイの間にあるをさいはひ杖を曳きぬ。路傍に石級あり。その頂に寺の門立ちたり。石級の傍別に道を開きて登るに易からしむ。登れば一望忽13)コウゼンとして、牛込赤城の嵐光人家を隔てて14)スイショク滴らむとす。供養の卒塔婆を寺僧にたのまむとて15)を通ぜしに寺僧出で来りてわが面を熟視する事16)良久にして、わが家小石川にありし頃の事を思起したりとて、ここに端なく四十年のむかしを語出せしもまた奇縁なりけり。


荷風は永井家に尽くしてくれた家政婦しんに日本女性の真髄を見抜き、胸底から畏敬の念を表します。一度も弔ったことがなかったのですが今回の小石川散策で水道町なる日輪寺にある墓を初めて訪れ、長年の懸案を一つクリアできました。荷風の「掃墓」は古の文人墨客ばかりが対象ではないのです。自分の身内とも言うべき親しい人をも訪れ、対話をするのでした。


問題の正解は続きにて。。。


続きを読む

車井戸と総後架を保存したい「世間無用の間人」=「礫川徜徉記」(8)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの8回目です。大田南畝の遷喬楼の址を辿ることはできませんでしたが、小石川の散策はまだまだ続きます。


また六樹園が狂文『吾嬬(あづま)なまり』に鶯谷のさくら会と題する一文ありて、1)コウランの前なる桜の咲きみだれたるが今日の風にやや散りそむといへど、今はそれかとおぼしき桜の古木もさぐるによしなし。このあたり今は金富町と称ふれど、むかしは金杉水道町にして、南畝がいはゆる金曾木なり。懸崖には2)キョウボクなほ天を摩し、樹根怒張して巌石の3)をなせり。4)カンドウを下るに竹林の間に椿の花開くを見る。人家の犬5)リハの間より人の来るを見て吠ゆ。6)エンゼン田家の光景なり。細径に従つて7)バンカイすればおのづから金剛寺の域に出づ。寺はわづかに8)ドウウを遺すのみにして墓田は尽く人家となりたれば、旧記に見る所の実朝の墓も今は尋ぬべきよすがもなし。本堂の前を過ぎ9)クリと人家との間の路地に入るに、迂回して金剛寺坂の中腹に出でたり。路地の中に稚き頃見覚えし車井戸なほあるを見たり。大都の10)コウソウは年々面目を新にするに反して窮巷屋後の11)シュウロは幾星霜を経るも依然として12)キュウカンを13)めず。これを人の生涯に観るもまたかくの如き歟。人一たび14)セイリの巷に15)ホンチするや、時運に激せられて旧習に16)アンジョたる事能はず。たまたま鄰人の新聞紙をよみて衣服改良論を称るものあれば忽雷同して、腰のまがつた細君にも洋服をまとはしめ、児輩の手を引いて、或時は劇場に少女歌劇を見、或時は日比谷街頭17)シュウロウなる官吏の銅像を仰いでその功績を説かざるべからず。然るに独吾輩の如き世間無用の間人にあつては、あたかもロウコウのシュウロ今なほ車井戸と18)総後架とを保存せるが如く、七夕には妓女と19)彩紙を截つて狂歌を吟じ、中秋には月見団子を食つて泰平を皷腹するも、また人のこれを咎むることなし。幸なりといふべし。

最後の「皷」は「鼓」の異体字で「鼓腹」のこと。衣食住が足りて満足するさま。「鼓腹撃壌」のごとく「平和な世の中を謳歌すること」を言います。この「コフク」も問題にしたいところで、「胡服」とやったらアウトです。

六樹園は国学者、狂歌師である石川雅望(1754~1830)の雅号。南畝から狂歌を学んだ弟子。国学者でもある。荷風は最後のくだりで「世間無用の間人」と自らを称しています。私淑する成島柳北の「天地間無用の人」と軌を一にする心持ちでしょうか。世の役に立つ文章など書くつもりはなく、昔の風習を墨守しつつ、己のやりたいがままに時を過ごす。これほどの悦楽はあるまい。少年時代を過ごした小石川を散策するにつれ、昔と変りない風景を発見してはもの思いに耽っています。その少し前にある、「大都の康荘は年々面目を新にするに反して窮巷屋後の湫路は幾星霜を経るも依然として旧観を革めず。これを人の生涯に観るもまたかくの如き歟。人一たび勢利の巷に奔馳するや、時運に激せられて旧習に晏如たる事能はず」。時と共に変化する街の姿と決して変わることのない風景のコントラスト。人の人生に喩えている。時勢に恵まれ勢いのいい時は昔のことなど忘れて先へ先へと進みがち。しかし、わたしの望みはのんびり妓女と月見団子を食って享楽的にすごすこと。栄達を知った者がその後は落ちていくことを悟っているのでしょうか。このとき荷風は45歳。人生の曲がり角にあったのでしょうか。ほぼ同時期である迂生も身につまされます。


問題の正解は続きにて。。。



続きを読む

「庚韻」とは何ぞや?漢詩の平仄は難しい…=「礫川徜徉記」(7)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの7回目です。大田南畝(1749~1823)の遷喬楼で日ごと宴会が開かれている際の様子を、南畝の友人である常陸・大子(茨城県)出身の漢詩人、大窪詩仏(1767~1837)が詠じた七言古詩を紹介しています。こうしたエピソードがさらりと出てくる辺りが、漢詩の素養たっぷりの荷風の面目躍如たるところでしょうか。本日は詩仏の漢詩を味わいましょう。



大窪詩仏が『詩聖堂詩集』巻の十に「雪後鶯谷小集得庚韻(せつごうぐいすだににすこしくあつまりてこういんをえたり)」と題せるもの南畆の家のことなるべし。その作に曰く

遷喬楼在懸崖上    遷喬楼は懸崖の上に在り

闌干方与赤城平    闌干は方に赤城と平らなり

霞気不消連旬雪    霞気も消さず連旬の雪

万瓦渾如粧水晶    万瓦は1)て水晶を2)うが如し

疑在広寒清虚府    疑うらくは広寒清虚の府に在るかと

四望生眩総瑩瑩    四望は眩を生じて総て3)瑩瑩たり

主人愛客愛酒兼    主人 客を愛し兼ねて酒を愛し

暇日開宴迎客傾    暇日 宴を開き 客を迎えて4)

衣冠何須挂神武    衣冠何ぞ須ん神武に5)ることを

与身并忘刀筆名    身と与に并て忘る刀筆の名

我是江湖釣漁客    我は是れ江湖の釣漁の客

平生不曾接■■    平生曾て6)カンエイに接せず

十里泥濘深於海    十里 泥濘 海よりも深けれども

今日肯来訂酒盟    今日 肯て来たりて酒盟を7)

唯応■■報厚意    唯だ応に8)ランスイして厚意に報ゆべく

対君不酔作麼生    君と対して酔わずんば9)作麼生せん





詩仏の詩題にある「庚韻」とは、各偶数番目の句末、すなわち「平」「晶」「瑩」「傾」「名」「纓」「盟」「生」が、百六種類ある漢詩の韻の一つ、平声(ヒョウショウ、ヒョウセイ)のうちの「庚(コウ)」の音で韻を踏んでいるというのです。中国語読みでなければ同じ韻と気づかないものもあります。「赤城」とは群馬県の赤城山のことで、闌干(=欄干)からは、はるか遠くに聳える赤城山も拝めるほど高く見晴らしが良かったのでしょう。遷喬楼を褒めそやした後、第七句にある「主人」はもちろん南畝のことを指す。暇さえあれば客人を饗して宴会三昧。物書きとして名を馳せるこの私も仕官せず只の釣り好きではあるが、折角の御厚意には酒で酔って無二の親友の約束を結ぶ以外にお返しなど出来はしない。

大窪詩仏は江戸時代後期、市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられました。江戸神田で詩聖堂という詩塾を開き、一世を風靡しました。


問題の正解は続きにて。。。



続きを読む

とにかく坂が多く文人たちが好んだ町なんです小石川は…=「礫川徜徉記」(6)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの6回目です。少年時代を過ごした思い出の地、小石川の探索が続きます。冒頭の「博文館の印刷工場」は現在の共同印刷。この工場のことは迂生もはっきりと覚えています。千川通りを挟んで小石川植物園の正面にあり、ここから伝通院まで小高い丘になります。とにかく坂道の多い町でした。荷風の文章と地図を並べてみているといちいち坂に名前があるのが分かります。今も残るものもあれば、名前が変わっているのもあります。紀行文の楽しみはこのように今の地図を辿りながら読むと倍増しますね。荷風も再訪した当時、その40年前と比べ変わっていないものと変わっているものとが如実にコントラストされ感慨に耽っています。


極楽水の麓を環りし細流のほとりには今博文館の印刷工場1)ソビえ立ちたれば、その頃仰ぎ見し光円寺の公孫樹も既に望むべからず。小家の間の小道を上りて久堅町より竹早町の垣根道を過ぐるにかつて画伯浅井忠が住みし家の門前より、数歩にして同心町の2)コウクに出づ。電車砂塵を捲いて来徃せり。道の向側は切支丹坂に通ずる坂の下口にて、旧丹後舞鶴の藩主牧野家の黒板塀、玄関先の老樹と共に四十年のむかしに変る所なければ、なつかしさのあまり覚えず歩を止む。切支丹坂より茗荷谷のあたりには知れる人の家多かりき。今はありやなしや。電車通を伝通院の方に向ひて歩みを運べば、ほどなく新坂の降口あり。新樹の梢に遠く赤城の森を望む。新坂にはわが稚き頃大学総長浜尾氏の邸、音楽学校長伊沢氏の邸、尾崎咢堂が3)僦居、4)モンショウを連ね庭樹の枝を交へたり。この坂車を通ぜざりしが今はいかがにや。電車通を行くことなほ二、三町にしてまた坂の下口を見る。これ即金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の切絵図には金剛寺の裏手多福院に接する処明地の下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて仏蘭西人アリベーと呼びしものの邸址、今は岩崎家の5)ベッショとなり、短葉松植ゑつらねし6)ドショウは7)ジョウサイめきたる石塀となりぬ。岩崎家の東鄰には依然として思案外史石橋氏の居あり。遅塚麗水翁またかつてこのあたりに鄰を卜せしことありと聞けり。正徳のむかし太宰春台の伝通院前に7)トバリを下せしは人の知る処。礫川の地古来より文人遊息の処たりといふべし。さてわれは駒井氏の門前より目指せし小路を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は忽にして8)ケンガイの頂に達し紐の如く分れて南北に下れり。8)ガイカに人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷喬楼の9)キュウシはいづこならむ。文化五戊辰の年三月三日、南畝はここに六秩の10)ガエンを設けたる事その随筆『一話一言』に見ゆ。


「礫川の地古来より文人遊息の処たりといふべし」。「遊息」とは「のんびりくつろぐ」の意。政治家、ジャーナリスト、思想家、経済人、学者ら名だたる名士が居住し、あるいはセカンドハウスを建てた土地が小石川なのです。そんなイメージは全くありませんでしたが、表通りから一歩径に入ると確かに閑静な街であったことは覚えています。さまざまな名士を持ちだしていますが、その中で一人だけ遅塚麗水に触れておきます。遅塚麗水〈チヅカ・レイスイ、1868年12月27日~1942年8月23日)本名は金太郎、別号は松白。作家・ジャーナリストで、明治・大正期の紀行文の大家として知られる。大衆小説には菅原道真を主人公とした「菅丞相」やアイヌに題材をとった「蝦夷大王」などがあり、また大正7年(1918年)には日本の初期の無声映画「乳屋の娘」(日活向島制作)の脚本も務めている。遅塚麗水は東京の下町の庶民に広く読まれた「都新聞」(昭和17年=1942年に国民新聞と合併して現在の東京新聞となった)の記者であり、「照日の松」は麗水生名義で都新聞で連載された大衆小説である。

彼の紀行文はいいですよ。書物として手に取ることは難しいですが、さすがネット時代。近代デジタルライブラリーによってかなりの作品を繙くことができます。荷風シリーズの後にでも弊blogで採り上げることも検討します。紀行文は前にも申し上げましたが、行ったことのない土地も曾遊の地にしてくれる肩の凝らない読み物です。

「六秩」は「六十歳」の意。「秩」には「十年」の意があります。十年を一秩という。大田南畝(蜀山人)が還暦のお祝いを、鶯谷(現在の小石川春日近辺)にある「遷喬楼」と名付けた邸宅で催したことが、彼の随筆『一話一言』に書かれているというのです。荷風は大田南畝の住んだ楼の跡を探し求めています。

ちなみに遅塚麗水の「幣袋」という紀行文の一節が以前、漢字検定1級試験の文章題に採用されたことがあります。charのmix日記で追いかけたことがあるのでIDのある方は→のリンクから2009年2月で入ってみてください。その冒頭のくだりだけコピペしておきます。長いですよ~。


【一 東海道】

 書き出しはこうです。

 鼻眼鏡に黒眼鏡、つれ立ちて月の晦日の宵浅き三等急行車にて新橋を立つ、七日ばかりの旅なるを、銀座へ物買に行く序とて家を挙げて送り来る、共に行くもの思案外史、

 ■「晦日」

 =「みそか」と宛字訓み。「晦」一字でも「みそか」。漢検辞典の見出し語にあり。

 ■「序」

 =「ついで」と表外訓み。

 白と青との階級を撤して、一切平等無差別の赤切符、納々たる客車の榻子に背を靠せ肱を交へて、パナマも、台湾も、お釜帽子も、麦稈も、上布も、浴衣も、絽も、透綾も、兵児帯も、三尺も、長き短き旅の路伴、折からの月明の、水より寒き夜涼のうちに友懐かしく譁やかに、知るも知らぬも打ち解けて語り合ふ、絶えて白と青とに見るところの倨傲矜驕、城府を作りて相睥睨する慢態なきは心地よし、

 ■「階級」

 =「しな」と宛字訓み。漢検辞典には音読みしかないが、表外訓みで「階(しな)」はあるので要注意。一等車、二等車といった列車車両の階級のことだろう。

 ■「納々」

 =「のうのう」は簡単だが耳慣れない。人で一杯といった意味ではないかな。

 ■「榻子」

 =「とうし」は、長椅子、寝台のことか。「臥榻の側(かたわら)、豈他人の鼾睡を容れんや」が想起される。

 ■「靠」

 =「もたせる」と訓む。よりかかること。「靠れる」「靠りかかる」「靠る」は漢検見出し語。「凭」も同様の意味。靠れ合いの関係。

 ■「麦稈」

 =「むぎわら」と訓読みで。むろん「ばっかん」の音読みもありだが、、麦藁帽子のこと。漢検辞典小文字にあり。「稈」は「わら、イネ・麦などの穀物の茎」。「稈心」(かんしん)、「禾稈」(かかん)などがあり。

 ■「絽」

 =「ろ」。縦または横に小さな織り目の透いた薄い絹織物。「絽羽織」(ろはおり)が漢検見出し語。ほかに「絽刺」(ろざし)。

 ■「透綾」

 =「すきや」と訓む。「すきあや」が転じた。透けて見えるような薄い絹織物。肌触りが良く、夏の婦人用衣服に使用。「数奇屋」ではない。漢検辞典見出し語。

 ■「兵児帯」

 =「へこおび」は、男子や子供が着物に締めるしごき帯(http://www.iisilk.net/hekoobi.htm)。漢検見出し語にあり。もともと薩摩の兵隊さんがしていたことから由来する。生地が柔らかく幅太。温泉宿にあるふと~いあれですね。熟字訓ではなく表外訓みとして訓めるようにしたい。いや、書けるようにもしよう。

 ■「路伴」

 =「みちづれ」と宛字訓み。「路」は「みち」の表外訓みがあり。

 ■「譁」

 =「にぎ・やか」と訓ませている。宛字っぽい。通常は「かまびす・しい」。「喧譁」=「喧嘩」(けんか)、「譁笑」=「嘩笑」(かしょう)、「譁然」=「嘩然」(かぜん)。要は「嘩」と書き換えが略可能かな漢字です。「譁しい」は見出し語にあるが、「やかま・しい」とも訓めるかも。

 ■「倨傲」

 =「きょごう」は漢検見出し語。おごりたかぶること。威張って気儘であること。類義語は「傲慢」(ごうまん)。「倨」は「おご・る」。足を投げ出して坐る、無礼な態の意もあり、「箕倨」(ききょ)、「傲倨」(ごうきょ)も必須だ。書き問題での基本語でしょう。

 ■「矜驕」=「きょうきょう」も同様の意。ほこりたかぶる、自信過剰。「驕矜」(きょうきょう)もあり。「矜伐」(きょうばつ)も押さえよう。麻生太郎が用いてプチ流行したのは「矜持」「矜恃」(以上きょうじ)。敢えて言います、似非プライドのこと。

 ■「睥睨」

 =「へいげい」。基本的な漢検見出し語。周囲をにらみをきかすこと。前段に「城府」とあるので、威容を誇る城に譬えて見下ろす態を言ったものでしょう。

 ■「慢態」

 =「まんたい」。増長慢。人をあなどる態度。簡単な漢字だが、書き問題で出されて書けるかどうか。一発変換はされないから一般的ではないだろう。


 食堂に入りて先づ盞を挙げて幸多き旅の首途を祝福すれば、微醺はやがて美睡を勾引し来りぬ、短か夜の明け易く、残月依稀の弁天島、暁縹き岡崎刈谷、天主の金鯱にまだ朝日の射さぬ時、名古屋に降りて亀山行きの汽車に乗換ふ、

 ■「盞」

 =「グラス」と宛字訓み。これは面白い。「酒盞」(しゅさん)だけでいいだろうが、こういう訓みもあることを知ると言葉に奥行きが生まれる。もちろん「さかずき」もあるのでお忘れなく。。。見出し語なので必須です。

 ■「首途」

 =「かどで」。熟字訓だがしっかりと見出し語にある。「門出」と書くよりこっちがいいだろう。旅立ちの「門出」より「首途」の方がお洒落だろう。奥の細道に「夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉」の句がある。(http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/natuyama2.html

 ■「微醺」

 =「びくん」。見出し語。「微酔」。ほろよい。対義語は「泥酔」「宿酔」「酩酊」。

 ■「美睡」

 =「びすい」はぐっすりとよく眠ること。また、気持ちよい眠り。「甘睡」ともいう。まどろみと熟睡の間ではないかな。「微醺」と「美睡」を対比させている。

 ■「勾引」

 =「こういん」は見出し語。裁判の尋問で証人等を強制的に呼び出す意だが、ここではもちっと軽い意味で「かどわかす」(勾引す)という意味でしょう。ついつい誘われてしまうということ。

 ■「依稀」

 =「いき」は見出し語にあり。ぼんやりとしてはっきりしないさま、よく似ているさま。きっとそうなんだろうけどはっきりしないときに使う語。残月の明かりで辛うじて弁天島だろうと分かるんだけどちょと自信もないなぁ、くらいの意味か。

 ■「縹」

 =「あお・い」と宛字訓みっぽい。「縹」は「はなだ」で、薄い藍色、そらいろのこと。要は「縹色」(はなだいろ、http://www5e.biglobe.ne.jp/~e-kaori/houi/iro3.htm)のことなんでしょう。「縹色」は見出し語。「縹緻」(きりょう)は熟字訓、「縹緲」「縹眇」「縹渺」(以上ひょうびょう)はどれでもいいから絶対に書けるように。

 ■「鯱」

 =「しゃち」。「金鯱」で「しゃち」と訓ませています。通常は「しゃちほこ」で国字の基本語。

続きを読む

背中に「菊慈童」を彫った兄貴がいろんな遊びを教えてくれたよ=「礫川徜徉記」(5)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの5回目です。悪友唖々子井上精一氏を蓮久寺に弔った後、小石川植物園のある方へ歩を進めます。お灸で有名な安閑寺。迂生が学生時代の第一歩を記した小石川のごく近所なのですが全く知りませんでした。大正十三年の四十年前、少年荷風が遊んだ場所でした。


旧交を追想して歩を移すほどに、いつしか白山御殿町を過ぎ、植物園に沿ひたる病人坂に出づ。坂の麓に一古寺あり。門に安閑寺の三字を掲げたり。ふと安閑寺の灸とて名高き1)モグサを售りしはこの寺なり。われら稚き頃その名を聞きてさへ恐れて泣き止みしものをと心づけば、追想おのづから2)ルルとして糸を繰るが如し。その頃植物園門外の小径は水田に沿ひたり。水田は氷川の森のふもとより伝通院兆域のほとりに連り一流の細水3)センセンとしてその間を貫きたり。これ旧記にいふところの小石川の流にして今はわづかに4)キュウコウの間を通ずる溝となれり。ああ四十年のむかしわれはこの細流のほとりに春は土筆を摘み、夏は蛍を撲ちまた赤蛙を捕へんとて日の暮るるをも忘れしを。赤蛙は皮を剥ぎ醤油をつけ焼く時は味よし。その頃金富町なるわが家の抱車夫に虎蔵とて背に菊慈童の筋ぼりしたるものあり。その父はむかし町方の手先なりしとか。老いて盲目となり5)虎蔵の世話になり極楽水の裏屋に住ひゐたり。虎蔵わが供をなして土筆を摘み赤蛙を捕りての帰道、折節父の家に立寄り6)ユウゲの菜にもとて獲たりしものを与へたり。貧しき家の夕闇に盲目の老夫のかしらを剃りたるが、7)コツゼンとして仏壇に向ひて8)カネ叩き経誦める後姿、初めて見し時はわけもなく物おそろしくおぼえぬ。わが家の女中ども虎蔵がおやぢはむかし多くの人を捕へ拷問なぞなしたる報にて、目も見えぬやうになりしなりと噂せしが、虎蔵もやがてわが家より暇取りし後いつか牛込警察署の刑事となり、わが十七、八の頃一番町の家に来りて、ゆうべは江戸川端の待合にて芸者の寝込を捕へたりなぞ、その後家に来りし車夫に語りゐたりしを聞きし事ありき。



荷風の生家は小石川金富町にありました。現在は春日二丁目の金富小学校のある辺りだそうです。地下鉄丸ノ内線の後楽園駅と茗荷谷駅の丁度中間の近辺になります。お抱えの車夫に虎蔵という名の若者がいました。永井家は結構金持だったんですね。その虎蔵は背中に「菊慈童」の彫り物が。古代中国を舞台とした説話で、罪を得て辺境の深山に流された少年が、菊の霊力によって不老不死を得て、長きにわたって子供の姿をとどめたという伝承。周代の穆王に愛された侍僮が菊慈童です。お稚児さんですな。永遠の若さを象徴するのです。虎蔵は、少年荷風に色々な話を聞かせて子供の好奇心を擽った存在だったのでしょう。小石川植物園のそばをそぞろ歩く荷風の胸にノスタルジーが去来しています。

続きを読む

互いの情婦を取り合う妙味は「新五左衛門」にゃあ分かるめぇよ=「礫川徜徉記」(4)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの4回目です。大田蜀山人・南岳の墓石の無事を確認して本念寺を後にします。今度は小石川白山権現の先にある蓮久寺に辿り着きます。、そこには荷風の莫逆之友、唖々子こと井上精一氏の墳墓があります。

本念寺を出で白山権現の境内をよこぎりわづかに人力車を通ずべき垣根道を北へと歩み行けば、坂の下に蓮久寺とよべる法華寺あり。これ去年癸亥七月十二日わが1)コウユウ唖々子井上精一君が埋骨のところなり。門に入るに2)リリたる古松の下に寺の男の落葉掃きゐたれば、井上氏の3)エイイキを問ふ。導かれて行くにいまだ一周忌にも到らざれば、4)チョウド新にしていまだ5)ヒケツを建てず。傍なる6)某氏の墓前に香華を手向けて蓮久寺を出づ。われは今日に至りても唖々子既に7)コウドに帰せりとの思をなすこと能はず。この日子のわれと共にあらざるは前夜の酒を病みなぞして約に背きて来らざるが如き心地のせらるるのみ。世に竹馬の交をよろこべるものは多かるべしといへども、子とわれとの如く終生よく無頼の行動を共にしたるものは稀なるべし。学生の頃悪少年を以て目せられしものは、8)セイハイの中子とわれとの二人なり。十六、七の頃には倶に漢詩を唱和し二十の頃より同じく筆を小説に染めまた倶に俳諧に遊べり。わが狎妓の窃に子と情を通じたるものあり。子の情婦にしてわれのこれを奪ひしものまたなしとせず。けだし9)シャハンの情事は烟花場裏一夕の遊戯にして新五左衛門等の到底解し得べきところに非ざるなり。われ田舎の人より短冊を乞はるることあるや常に唖々子が句を書して責を10)フサげり。われ俳才なく自作の句を記憶せず。これを憶ふ時子の名吟まづわが念頭に浮びいづるを以てなり。



悪友朋友というものは誰しも持っているもので、荷風にとって唖々子井上精一氏はまさにそんな関係。お互いの彼女も奪い合った間柄だと告白しています。「新五左衛門」とは「新五左」と略し、江戸吉原などで無粋な田舎武士を罵っていう言い方。浅葱裏(あさぎうら)ともいう。その辺の花街、遊里の世界の機微については野暮な田舎侍、いやさ野暮な連中には到底理解できないさね、とでも言うのでしょう。とりわけ俳諧を詠じる能力では一目も二目も置いていたようで、色紙などへの揮毫を求められた折は、自分の句ではなく唖々子氏の遺した句を書きつけたそうです。


問題の正解は続きにて。。。


続きを読む

微妙な漢字の誤りが一か所あるのですが…=「礫川徜徉記」(3)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの3回目です。旧友、大田南岳の追慕がまだ続きます。本日は短めで。。。。その代わり特別問題を用意しておきます。一か所だけ漢字の誤りがあるので正してください。微妙ですよ…。

閑居自適し、時に薬草を後園に栽培して病者に与へ、また『田うごき草』と題する一冊子を刊刻してその1)コウケンを説く。人戯に呼んで田うごきの翁となせり。南岳また年々土中に2)カメを埋めて鈴虫を繁殖せしめ、新凉の節を待つてこれを知友に頒つ。南岳を知るものの家秋に入つて草虫3)リンロウの声を聴かざる処なし。知友また呼ぶに鈴虫の翁を以てす。南岳は弓術の達人にしてまた水府流遊泳の師たりき。大田南畝が先人自得翁の墓誌を見るに、享保二十年七月、将軍吉宗公中川狩猟の時徒兵の游泳を閲するや自得翁水練に達したるを以て4)カショウする処となりしといふ。されば南岳の水練に巧なるけだし5)ライユウする所ありといふべきなり。大正四、五年の頃南岳四谷の旧居を去つて北総市川の里に徒り寒暑昼夜のわかちなく釣魚を事とせしが大正六年七月十三日白昼江戸川の水に溺れて死せり。人その故を知るものなし。あるひは言ふ水中にあつて卒中症を発したるならんと。時に年四十6)三なり。その配中村氏は南畆先生が7)ガイコの後裔なり。容姿艶麗そのいまだ嫁せざるや近鄰称するに四谷小町の名を以てしたりしといふ。某男某女あり。嗣子名は大。家を継ぎしが本年の春病んで歿したりしと。われこの日始てこれを寺僧に聞得て愕然たりき。因にしるす南岳が四谷の旧居は荒木町8)ゲンカの地と接し今岡田とかよべる酒楼の立てるところなり。この日兼てより写し置かんと思ひゐたりし南畝が室富原氏の墓誌を手帳にしるす。墓誌の終に9)トウボウの詩六首を刻したり。『蜀山集』に出でたればここに録せず。



改めて思うのですが、荷風はこうした生硬な漢文の随想録にこそ真骨頂が発揮されている作家ではないでしょうか。「荷風随筆集(上)」の編者である野口富士男氏の解説(P297)によると、荷風の父=永井久一郎は禾原という号をもっていて漢詩をよくしたが、久一郎の妻、すなわち荷風の生母は尾張藩の藩儒=鷲津毅堂の息女で、毅堂は久一郎の経学の師であったと言えば、永井家が漢学一家であった、とあります。荷風は外語学校の清語科に籍を置いたことがあるばかりか、十六歳のころには岩渓裳川に漢詩作法をまなんでいるともあり、生まれながらにして漢文の素養が身につき、その育った環境で深められていったと言っていいでしょう。それほど難解ではないものの、さらさらと書きすすめられているのが分かります。口語体、漢文体のもいずれの文体をも駆使できて、気分で自在に使い分けていたのでしょう。かの有名な断腸亭日乗も簡潔な漢文体です。本作品も太田蜀山人・南岳の墓参りが主眼である肩の凝らない内容ですから、自然と漢文体を用いたものと思われます。漢文の方が気持ちをストレートに表せるのではないでしょうか。正直、こちらの方が読みやすいですね。リズムがあります。

問題の正解は続きにて。。。



続きを読む

本念寺にて大田蜀山人・南岳の墓健在を確認す=「礫川徜徉記」(2)

永井荷風の「礫川徜徉記」(岩波文庫、「荷風随筆集(上)」・野口富士男編)シリーズの2回目です。この記が書かれたのは大正十三年(1924年)4月20日で、つまり関東大震災のあった翌年のことです。荷風は成島柳北のほか、江戸時代中後期・町人文化の担い手であった大田蜀山人も信奉し、その子孫である俳人画家の故大田南岳とも親交がありました。小石川原町(現在は小石川白山)の本念寺には蜀山人と南岳両人の墓があり、震災の影響で墓が倒れていはしまいかかどうか気になって仕方がなかった。そこで「掃墓」の一環として、墓の無事を祈りながら本念寺を訪うたのです。


 ことし甲子の暮春、日曜日にもあらず大祭日にもあらぬ日なり。前夜の雨に表通も砂ほこりをさまりて、吹き添ふ微風に裏町の1)ヌカルミも大方はかわきしかと思はれし昼過。丸の内より神田を過ぎて小石川原町なる本念寺に大田南畆の墓を弔ひぬ。われ小石川白山のあたりを過る時は、必本念寺に入りて北山南畝両儒の墓を弔ひ、また南畆が2)コウエイにしてわれらが友たりし南岳の墓に3)コウゲを手向くるを常となせり。震災の時これらの墳墓いかがなりしや。殊に南畆の墓碑はこの4)チョウイキにても形大なるものなれば、倒れ砕けはせざりしやと心にかかりてゐたりしが、この日行きて見るにその位置少しく変りしのみにて石は全かりき。南岳の墓は本のところに依然として立ちたり。自然石にて面に大田南岳墓。碑陰にまつくろな土瓶つゝこむ清水かなの一句を刻す。これ南岳の句にして小波巌谷先生書する所、石もまた巌谷翁の5)を捐てて建てられしものなり。

小波巌谷は、明治・大正期の児童文学作家で俳人の巌谷小波(いわや・さざなみ)のこと。

われ初て南岳と交を訂せしは明治三十二年の頃清朝の人にして俳句を善くしたりし蘇山人羅臥雲が平川天神祠畔の6)グウキョにおいてなりけり。南岳諱は亨。野口幽谷の門人なり。初陸軍士官学校に入らむとして体格検査に合格せざりしかば、7)ソシを翻して絵事に従へるなり。その初武を以て身を立てんと欲せしはその家世々征夷府に仕へて8)徒士たりしによれるもの歟。南岳少くして耳9)ロウせり。人と語るに10)オント鐘の如し。平生奇行に富む。明治卅八年秋八月日魯両国講和条約の結ばれし時、在野の政客暴民を11)コセンし電車を焼き官庁を破壊す。12)レンコクの下13)ジュンラを見ざること数日に及べり。市民各その欲する所を14)にする事を得たりしかば、南岳白日衣をまとはず釣竿を肩にして桜田門外に至り15)を16)御溝に垂れて連日鯉魚十数尾を獲て帰りしといふ。


「交(まじわり)を訂す」は「好を通じる、交際する、親炙する」の意。明治三十二年(1899)、荷風は二十歳の時、清の留学生であり俳人の蘇山人の紹介により巌谷小波の主宰する「木曜会」に入会。蘇山人の仮住まいに出入りしていて南岳と出会ったというのです。このあたりは南岳を偲び、思い出話が一齣、二齣続きます。都内におまわりがいなくなり警備が手薄のところで素っ裸で皇居のお濠で魚釣りというのも奇天烈です。


また大婚式記念郵便切手の発行せられし時都人各近鄰の郵便局に赴き局員に請ひて、記念当日の消印を切手に捺せしむ。南岳17)春画を描きたる絵葉書数葉を手にし郵便局の窓に18)りて消印を請ふ。局員裏面の絵画に心づかず消印をなすこと三、四葉にして初て19)キョウガクの声を発す。この時おそし南岳20)エンピを伸べ絵葉書を奪つて疾走す。後に人に語つて曰くこれ21)に22)ヘイカの宝物なり。子孫の繁栄を祝するものけだしこれに優るものあるを知らずと。その為人おほむねかくの如し。かつて上野なる日本美術協会の展覧会に出品して褒状を得たり。褒賞授与の日川端玉章手づからこれを南岳に与へしに、南岳一礼して手に取るや否や、寸断して脚下に放棄し、悠々としてその席に還りて坐す。満堂の画人皆色を失ふ。南岳おもむろに鄰席を顧て曰く諸君驚くことなかれ、我狂するにあらず。唯平生川端玉章の為人を好まず、従つてその手に触れしもの我これを受ることを欲せざるのみと。23)ジライ復浮名を展覧会場に争はず。


春画の絵葉書に消印を押させ、子孫繁栄のため家宝とするセンスは面白い。残念ながら今回は紀行文と言うよりは故人を偲ぶ文が中心でした。本念寺は知らないし訪れたことはありません。大田蜀山人にも特に思い入れはありません。ノスタルジーには浸れませんでした。ちなみに、荷風が小石川に思い入れがあるのは出生地(今の小石川春日)だからです。十二、三歳の頃までの少年時代を過ごし、いろいろと遊んだ記憶のあることが、「荷風随筆集(上)」の「伝通院」で紹介されています。


問題の正解は続きにて。。。


続きを読む

ノスタルジー訪ねて“タイムスリップ”の旅へ=「礫川徜徉記」(1)

実際行かなくても当地に行った気になる錯誤感を与えてくれ、恰も曾遊の地を増やしてくれるかのような「紀行文」は、迂生の好きな読書ジャンル。橋本左内の後、ネタを何にしようかと思案した挙句、ほとんど思いつきで明治、大正、昭和の耽美派作家である永井荷風(1879~1959)を扱うこととします。荷風は江戸文化を愛し、かの成島柳北先生を私淑し、柳北研究の大家でもあります。また、彼の作品の多くは、花柳界や妓女を舞台としており、恐らく柳北の代表作である「柳橋新誌」や「京猫一斑」「花月新誌」などをモチーフにしたであろうと推察されます。映画化された「東奇譚」もその一つですが、この「」は「墨田川」を表し、柳北が好んで用いた漢字であり、いかに柳北を心酔していたかが伺えます。荷風は、そんな東京下町を中心とした江戸周辺各地を歩き回り、紀行とも随筆とも言える文章も残しています。有名なところでは「日和下駄」(東京散策記)。岩波文庫から刊行されている「荷風随筆集(上)」(野口富士男編)に採録されています。この他にも多くの紀行文もどきが採られており、しばらくはここから幾つか文章を味わうこととします。まずは「礫川徜徉記」を取り上げます。

「礫川」は漢読みすれば「レキセン」ですが、「礫」は「こいし」の和訓があり、「こいしかわ」と訓みます。東京・文京区に所在する地名です。徳川家康の生母、「於大の方」(おだいのかた)の墓がある寺として有名な伝通院があります。実を申しますと、迂生が某田舎から上京して東京での大学生生活を始めたのがこの礫川、もとい小石川・伝通院のごく近所だったのです。荷風の随筆を読んでいてこのくだりに出逢い旧懐の念に駆られると同時に、荷風の生きた当時はこの「礫川」を当てていたということを初めて知り感慨が極まりました。迂生が小石川に住んだのは十八~十九歳のたった一年間です。もう三十年近くも前のことであり、正直言ってそれほどの思い入れも記憶も乏しいのですが、荷風翁に誘われてタイムスリップしてセンチメンタルジャーニーに連れて行ってもらいましょう。

ちなみに、聊か難しい「徜徉」(ショウヨウ)ですが「気ままに歩き回る」の意。「ぎょうにんべん」をとって「尚羊」とも書きます。こちらはお馴染みの「逍遥」と同義ですね。英語でいれば「rambling」。ぶらぶら無目的のそぞろ歩きも迂生の趣味の一つです。

本日は冒頭の一節。荷風はまず寺社墳墓巡りの要諦を説きます。


 何事にも倦果てたりしわが身の、なほ折節にいささかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でて、その庭に入り、古墳の苔を掃つて、見ざりし世の人を憶ふ時なり。

 見ざりし世の人をその墳墓に訪ふは、生ける人をその家に訪ふとは異りて、1)カンケンの辞を陳るにも及ばず、手土産たづさへ行くわづらひもなし。2)此方より訪はまく思立つ時にのみ訪ひ行き、わが心のままなる思に耽りて、去りたき時に立去るも強て袖引きとどめらるる虞なく、幾年月打捨てて顧ざることあるも、軽薄不実の3)を受けむ心づかひもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日その墳墓をたづねて更にその4)ヒトトナリを憶ふ。この心何事にも喩へがたし。寒夜ひとり茶を煮る時の情味聊これに似たりともいはばいふべし。


 わが東京の市内に残りし古碑断5)ケツ、その半ば6)癸亥の歳の災禍に7)ウユウとなりぬ。山の手の寺院にあるもの、幸にして8)ブバの災を免れしといへども、移行く世の気運は永く9)シテン繁華の間に金石の文字を存ぜしむべきや否や。もしこれ10)キジンの憂ひにあらずとなさんか、掃墓の興は今の世に取残されしわれらのわづかにこれを知るのみに止りて、われらが子孫の世に及びては、これを知らんとするもまた知るべからざるものとはなりぬべし。

 掃墓の事業(迂生注:正確には閑事業=不用不急の実用に適さない事業、暇にまかせた手慰み)は江戸風雅の遺習なり。英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず。たまたまわれ巴里にありてこれあるを見しかど、既に二十年前のことなれば、大乱以後の巴里の人士今なほ然るや否や知るべくもあらず。江戸時代にありて普く探墓の興を世の人に知らしめし好奇の士は、『江戸名家墓所一覧』の一書を著せし老樗軒の主人を以てまづはその11)ビソともなすべきにや。『墓所一覧』の12)リソウに上せられしは文政紀元の春なること人の知るところなり。

 春秋の彼岸は墓参の時節と定められたり。しかれども忘れられたる古墳を尋ね弔はんには、秋の彼岸には晷(ひあし=地上にうつった柱のかげ)既に傾きやすく、やうやうにして知れがたき断碑を尋出して、さて寺の男に水運ばせ苔を洗ひ13)を剝して漫漶(マンカン=字の迹形が消えかけて読み取れないさま)せる墓誌なぞ読みまた写さんとすれば、衰へたる日影の14)くも15)ウスヅきて16)の啼きしきる声一際耳につき、読難き文字更に読難きに苦しむべし。春の彼岸には風なほ寒くして雨の気遣はるる日もまた多きをや。花見の頃は世間さわがしければ門をいづる心地もせざるべし。八重の桜も散りそむる春の末より牡丹いまだ開かざる夏の初こそ、17)ロウク杖をたよりに墓をさぐりに出づべき時節なれ、長き日を歩みつづけて汗ばむ額も寺の庭に入れば新樹の風ただちにこれを拭ひ、木の根石の端に腰かくるも藪蚊いまだ来らず、18)醜草なほはびこらざれば蛇のおそれもなし。苔蒸す地の上には落花なほみだれてあり。日の光にかがやく木の芽のうつくしさ雨に打れし墓石の古びたるに似もやらねば、亡き人を憶ふ心落葉の頃にもまさりて一段の深きを加ふべし。


文中にある「掃墓」は墓参りのことですが、中国では春の清明節の行事です。本邦では春秋の彼岸が一般的。しかし、荷風は何も御先祖様や身内の墓を訪うというわけではありません。世間の人から忘れられた古人の墓を訪ね、独り墓誌を鈔しとったり、心の中で対話したりするのです。「探墓」とも言っています。いわば冒険ですね。思わぬ発見もあるようです。これをやるには人がいないシーズンがいいそうです。


問題の正解は続きにて。。。。





続きを読む

profile

char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

calendar
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
recent entry
recent comment
category
monthly archive
search form
RSS links
links
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。