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「死而後已」漢室再興成らず散った魄=「後出師の表」9・完

中国名文を噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「後出師の表」(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝」から)の9回目です。愈々最終回です。諸葛亮が直近の歴史を振り返ります。勝ったと思ったら裏切りに遇う。事ほど左様に「一寸先は闇」なのだから、たとえどんな結果が待ち受けていようとも一心に前に出ることが大事ではないか。先読みしても宛てにならない。「死而後已(死して後に已まん)」――。不退転の決意が述べられます。


【11】
然る後呉更に盟に違い、関羽1)キハイす。秭帰(シキ)2)サテツして、曹丕帝と称す。凡そ事是の如くなればア)め見るべきこと難し。臣3)キッキュウして4)ジンスイし、死して後に已まん。成敗5)リドンに至りては、臣の明の能く逆めイ)る所に非ざるなり。

1)「キハイ」=毀敗。やぶれること。「毀」は「やぶれる」。毀壊(キカイ=事物がこわれくずれる)、毀棄(キキ=こわして捨てる)、毀瘠(キセキ=喪に服して悲しむあまり痩せ衰える)、哀毀骨立(アイキコツリツ=やせおとろえるさま)、毀折(キセツ=やぶれこわれる)。「毀」には「こぼつ」「こぼれる」「そしる」の訓みもあり要注意。

2)「サテツ」=蹉跌。つまずくこと、ちぐはぐになって失敗すること。「蹉」も「跌」も「つまずく」。足の運びがくいちがってよろけること。「蹉跎」(サタ=時機を過ごしてしまう、つまずいて思う通りにならない)。蹉跎歳月(サタサイゲツ=時間は戻らない、Time is money.)。

3)「キッキュウ」=鞠躬。身をかがめてうやまいつつしむ、転じて、からだをかがめて働く。鞠窮とも書く。「鞠」も「躬」も「からだをまるくかがめる」。「鞠」には「やしなう」「ただす」の訓みもあるので要注意。「躬」は「み」「からだ」。躬行(キュウコウ=自分で実際に実行すること)、躬耕(キュウコウ=自分で田畑を耕すこと)、躬身(キュウシン=からだ、体を曲げて礼をする)。ちなみに「鞠」は「まり」も忘れずに…。

4)「ジンスイ」=尽瘁。心身の力を尽くして苦労すること、非常に苦労して努力すること。「瘁」は「つかれる」「やつれる」の訓みがあり。焦瘁(ショウスイ=憔悴)、瘁瘁(スイスイ=やつれはてるさま)。↑「キッキュウ」とセットで「鞠躬尽瘁」(ひたすら心を尽くして骨折り国事につとめること)は頻出四字熟語です。「後出師の表」のここのくだりが出典です。「鞠躬して尽瘁し、死して後に已まん」は心に銘じたい成句ですね。

5)「リドン」=利鈍。するどいこととにぶいこと。特に頭脳の善し悪しを言う。運・不運を指す場合もあります。ここはむしろ「運・不運」を指していると見た方がいいかもしれません。

ア)「逆め」=あらかじ・め。表外訓み。来るものを出迎える形で、事の起こる前に用意して、前もって。逆詐(ゲキサ=人が欺くのではないかと、こちらから疑う)、↓逆睹(ゲキト=見通しをつける、逆覩とも)、逆旅(ゲキリョ=旅館、やどや)逆料(ゲキリョウ=予想)。

イ)「睹る」=み・る。音読みは「ト」。目睹(モクト=目で見定めてじっと視る)、↑逆睹(ゲキト)。

さすがは国盗り物語。いったん連合した蜀と呉でしたが、建安24年(219)12月、魏軍と戦っていた関羽が呉に背後から襲われ荊州で敗死してしまいます。そしてこれを契機として蜀の劣勢が一気に加速し、その秭帰県が思いがけず劉璋に奪回されたうえ、曹操の息子・曹丕が帝を名乗ります。関羽は先帝、劉備にとって少壮時代からの盟友。彼の弔い合戦として復讐に出ますが、呉の将軍、陸遜の火攻めに遭い大敗を喫します。ここにおいて劉備も大病を患い223年、白帝城で臨終します。

諸葛亮も四度目の北征の際、五丈原(陝西省)において魏の司馬懿との大戦中に病死する。時に234年、53歳でした。漢室の再興の大事業は「死して後已む」という諸葛亮の言葉通りの結果となってしまいます。その後、蜀が滅んだのは263年のことですから、諸葛亮の死後約30年は余命を保ったことになります。最終的には魏に蹂躪されて終わります。

「後」と「前」を単純に比べてみると、明らかに「後」は追い詰められている諸葛亮の焦りが如実に書き連ねられています。数々の敗戦。魏・呉の圧力。小国の限界。知は体に勝てないのか――。「前」では先帝劉備との思い出を切々と語り、劉備の息子に叱咤激励する余裕も感じられました。ところが、「後」ではあの曹操すら引き合いに出して危機感を煽るほどに余裕がなくなっている。つまり、先帝との思いはもう口にできなくなった。ライヴァルを持ち出すしか手が無くなったということでしょう。

このシリーズの冒頭で、なぜに「後」が人口に膾炙しなかったかを考えてみましょうと敢えて問題提起してみました。聊か愚問は承知で、「二番煎じ感が否めない」とも申し述べました。そこで思うのはやはり、「赤心」というのは最初の吐露がすべてなんですね。二回目はその神通力はなくなっている。TVでも映画でも、小説でも何でもそうですが、続編というのは当たらないのが世の常です。譬えは悪いが、寅さんの「男はつらいよ」シリーズだって終盤はマンネリの連続。お約束の展開だけが生命線でした。初期のころの作品のあの“ピュアネス”は山田洋次がどう抗っても再び出すことは叶わなかったのです(あくまで私見ですので)。「出師の表」もおなじでしょう。「後」が「前」の迫力の前に勢いを失っているのは、消えゆく運命にある蜀国の先細る姿を暗示するかのようと見ることもできましょうか。諸葛亮の一世一代の“大見栄”は「前」で尽きていたと言っても過言ではない。「後」では先帝が一目も二目も置いた曹操の名前を出すしかもうなかったのですから…。

最後に、明治書院の解説(P207)に拠って締めくくりたいと思います。

前・後二篇の「出師の表」からは、頽勢にあらがって自らの使命を誠心誠意遂行しようとする諸葛亮の熱い思いが読み取れよう。三国志の登場人物の中で、最も人々に愛されたのは彼であるが、そのすぐれた知略以上に、この真摯さが多くの胸を打つことにその理由が求められるように思う。草廬を出て、乱世に身を投じて以来、その死に至る五十三年間、まったく「私」を顧みなかったその人格は稀有のものであった。

以上で「後出師の表」の賞翫を終了いたします。次回からは、蜀・西晋の李密(224~287)の手による「陳情の表」シリーズをお送りいたします。諸葛亮の「前出師の表」、中唐の韓愈の「十二郎を祭る文」と并せて中国の「三絶文」の一つとされています(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝 P213」)。祖母を大切に思う気持ちを素直に表した名文です。お楽しみに。
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曹操の墓の真偽の行方は…?=「後出師の表」8

中国名文を噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「後出師の表」(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝」から)の8回目です。

【10】
夫れ平らげ難き者は事なり。昔先帝軍を祖楚に敗らる。此の時に当たりて、曹操手をア)ちて謂わく、天下已に定まれりと。然る後に先帝東のかた呉越を連ね、西のかた巴蜀を取り、兵を挙げて北征す。夏侯イ)を授けたり。此れ操の失計にして、漢の事将に成らんとするなり。

ア)「拊ち」=「う・ち」。「拊つ」は「うつ」。手のひらでぽんとたたく。音読みは「フ」。拊愛(フアイ=なでるようにかわいがる、撫愛=ブアイ=)、拊手(フシュ=拊掌、ぽんとてをうつ、我が意を得たりと喜ぶさま)、拊循(フジュン=いたわっててなずける、撫循=ブジュン=)、拊心(フシン、むねをうつ、シンをフす=手でぽんぽんと胸をたたく、悲しんだり、いきどおったり、勇み立ったりするさま、拊膺=フヨウ=)、拊髀(フヒ=ももをたたく、興奮したり、喜び勇んだりするさま、撫髀=ブヒ=)、拊翼(フヨク=鳥がばたばたとはばたきする)。イコフヨクは「為虎傅翼」ですので念のため…。フシュチョウジは「俛首帖耳」ですのでこれも念のため…。「うつ」はほかに、「撲つ、拍つ、抵つ、暴つ、射つ、征つ、戛つ、批つ、抃つ、拷つ、捶つ、捶つ、挌つ、搏つ、搗つ、擂つ、擣つ、擽つ、格つ、椎つ、樅つ、橦つ、殴つ、膺つ、誅つ、槌つ、鏗つ、鷙つ」などがあります。結構多いですね。微妙に意味も異なりますが、とにかく此の意味では書けなくてもいい(音読みの熟語は書けなければならないが)ので訓めるようにセンスを磨きましょう。要はさまざまな文献(とくに中国の物)を読みまくって慣れることです。

イ)「首」=こうべ。表外訓み。頭とそれを支える首のこと。こうべは「頭、顱」も。

ここでいう「事」とは天下統一。国盗り物語の究極の目標です。劉備は曹操と後漢の建安14年(209)に、牧(太守)として派遣された荊州(長江の中流域一体)で戦いましたが、敗れ去りました。そこで諸葛亮は益州(蜀)の地に入って、当地を治めていた劉璋を降ろして独立宣言することを献策しました。その間、呉と連合して魏に対抗します。こうして建安23年(218)には曹操と漢中の地を争い、翌年、魏軍を破り、漢中王となる。諸葛亮が提唱した「天下三分の計」が実現したのもこのころです。

曹操の墓発見のニュースはその後、喧喧囂囂かはたまた侃侃諤諤の議論が戦わされ、その真偽をめぐり見解が真っ二つに割れているようです。それぞれの「思惑」もあるでしょうから、まとまるわけがない。本邦でも邪馬台国の所在地に関して畿内説と九州説が真っ二つですからね。歴史はロマンです。本当か嘘かはI don’t care.信じる者だけが「幸せ」に浸れるのです。

勝ったり負けたりを繰り返す曹操と劉備。その物語に思いを馳せるのも2010年の年頭に当たり「乙」な時間の過ごし方ではないでしょうかね。

「曹操やぶれたりぃ~」。

「玉砕瓦全」小国が大国に臨む姿勢=「後出師の表」7

中国名文を噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「後出師の表」(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝」から)の7回目です。最後の疑問を投げかけます。それは国力。蜀と魏・呉の間にある永遠に埋まらないものです。だから、待っていてはダメだ。小国は大国に攻めていかなければダメなのだ。それがどんな結末を迎えようとも…。

【9】
今民窮し兵疲る。而も事はア)むべからず。事息むべからざれば、則ちイ)まると行くと、労費正に等しくして、ウ)きに及んで之を図らず、一州の地を以て賊と久しきを持せんと欲す。此れ臣の未だ解せざるの六なり。

ア)「息む」=や・む。表外訓み。やめる。とだえる、休止する。「熄める」と同義。息止(ソクシ=やむ、とだえること、休止)、息兵(ソクヘイ=戦争をやめること)。

イ)「駐まる」=とど・まる。表外訓み。じっとそこにいること。「とどまる」はほかに、「住まる、頓まる、停まる、淹まる、渟まる、紮まる、逗まる」。駐駕(チュウガ=天子が行幸の途中、乗り物を止めてその地に滞在すること、駐蹕=チュウヒツ=、駐鸞=チュウラン=、駐輦=チュウレン=)、駐顔(チュウガン=若々しい容色をいつまでも保つこと)、駐箚(チュウサツ=官吏が職務上の理由で任地に滞在すること、駐紮=チュウサツ=、駐扎=チュウサツ=)。

ウ)「蚤き」=はや・き。「蚤い」は「はやい」。時間的に早い。夙に。もちろん「のみ」の訓みも。蚤歳(ソウサイ=若いころ、年の初め)、蚤作(ソウサク=朝早く起きて働く)、蚤知(ソウチ=物事を早く知る、蚤見=ソウケン=)、蚤知之士(ソウチのシ=先見之明のある人、機を見るに敏な人)、蚤晩(ソウバン=はやうこととおそいこと、おそかれはやかれ)、蚤暮(ソウボ=朝と夕暮れ)、蚤夜(ソウヤ=朝早くから夜遅くまで)、蚤夭(ソウヨウ=歳若くして死ぬこと、わかじに、早死)。

人民の生活は疲弊し、兵士は戦いに困憊している。かといって、魏を討つ戦をやめるわけにはいきません。「則ち駐まると行くと、労費正に等しく」――。ここの言いぶりは面白い。坐しても地獄、進んでも地獄。労力も費用も同じならば、進んだ方が得ではないか。「踊る阿保に、見る阿保。同じ阿保なら踊らにゃ損損」。。。。ちょっと譬えは違いますが、コストが同じであるなら、よりリターンの得られる道を選ぶのが得策ではないかということでしょう。合理的だ。理に適っていると思います。彼の念頭にあるのは国力の差。「蜀の一州だけを以て魏と持久戦をしようとしている」。これが諸葛亮の疑問その六。そして、最も現実的な疑問でしょう。

先帝劉備の数次に及ぶ出兵は結果として蜀の国力を疲弊させました。それは想定の範囲内でした。三国の国力を比較しますと、魏が11州・93郡、呉が4州・43郡を支配下に治めているのに対して、蜀はたったの1州・22郡にすぎなかった。四川盆地は確かに肥沃な土地背景に豊かな作物が取れました。しかし、人口は少なく長期の戦争を維持するには限界がある。軍事力は“金食い虫”なのです。生まれながらにしての策士であり、軍事専門家である諸葛亮にとって、それらは基本中の基本。国力を比較して劣っているのを承知の上で、持久戦ではなく進攻策を采ろうとしたのです。

「玉砕瓦全」という成句もあります。砕けた玉は無傷の瓦より美しい――。名誉を重んじることはたとえ結果で死ぬこととなろうとも、徒らに生き長らえることよりは価値がある。まさに蜀国の在り様であり、取るべき「針路」を譬えた言葉と言っていいでしょう。諸葛亮にあったものは歴史観。漢王朝の復興。それは何と言っても、先帝劉備との固い絆で結ばれた約束。いや、宗教に近いものがあったかもしれません。諸葛亮の生き様ですね。

「ぼん、男なら潔く死ぬのもよかろうぜぇ~」。

人材は喪って分かる後の祭り=「後出師の表」6

弊blog読者士の皆さま、新年おめでとうございます。いつもお読みいただきまして深謝申し上げます。このblogはまだ生後1年に満たない若輩者でございます。皆さまとともに一歩一歩、前にだけは歩みを進めたいと思っております。漢字学習を中心に中国思想や歴史、日本の古典、江戸期、明治期の思想や文学作品を味わっていきたいと思っております。今年もご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

さて、中国名文を噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「後出師の表」(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝」から)の6回目です。年を越して「牛歩」のようにゆっくりと進んでいます。

【8】
臣漢中に到りしより、中間は1)キネンのみ。然れども趙雲・陽羣(ヨウグン)・馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉郃(リュウコウ)・銅等、及び曲長・屯将七十余人、突将の無然なる、賨叟(ソウソウ)・青羌(セイキョウ)、散騎・武騎一千余人をア)えり。此れ皆数十年の内、2)キュウゴウする所の四方の精鋭にして、一州の有する所に非ざるなり。若し復た数年ならば、則ち三分の二を損ぜん。当に何を以て敵を図るべきや。此れ臣の未だ解せざるの五なり。

1)「キネン」=期年。一周年、満一カ年、丸一年。祈念、記念を浮かべては新年早々いけませんな。

2)「キュウゴウ」=糾合。多くの人を寄せ集める。九合、鳩合、翕合ともいう。「糾」は「あざなえる」「よじる」と訓みますが、転じて「人々をひとまとめに寄せ集める」の意も派生しています。糾黜(キュウチュツ=罪をただして、しりぞける)、糾纏(キュウテン=よじれてまといつく)、糾謬(キュウビュウ=あやまりを調べただす)。

ア)「喪え」=うしな・え。「喪う」は「うしなう」。喪家之狗(ソウカのいぬ=宿なし犬、ひどく落ちぶれた人のたとえ)。

ここの一節はこれまでの曹操話から一転して、蜀軍の現状をリポートする。主に魏との戦いでは、有力武将たちを次々と戦死させてしまいました。蜀の基盤は益州(四川省)のみと脆弱でした。人材不足は必然。したがって、諸葛亮が南征したのも、戦士を集める狙いが一方であったのです。文中にある「賨叟・青羌」は前者が南蛮兵の長、後者が西南夷の長といった異民族の兵士です。あちこちから掻き集めた兵隊であって、益州だけではない。それが黙っていても1000人が死んだのだ。あと数年後には三分の二を失うだろう。坐しても攻めてもじり貧は必至。「当に何を以て敵を図るべきや」――。これが諸葛亮の疑問その五です。肝心の魏を討つには今こそラストチャンス。後顧の憂いなく出兵させてほしいものです。

人こそ命。人材が国力の帰趨を握るのです。いまの日本の現状を憂えれば、教育の大切さこそ必定。民主党政権には期待したいところです。このままでいけば坐して死するのみというのは、まさに日本国に当て嵌まると言えましょう。

「人こそ命でっせぇ~、ぼん」。

ドカドカと自分を卑下する諸葛亮=「後出師の表」5

中国名文を噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「後出師の表」(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝」から)の5回目です。2009年のオーラスです。今回も曹操の“しくじり”を持ち出して、自分を正当化しています。

【7】
曹操五たび昌覇を攻むれども下らず。四たび巣湖を越ゆれども成らず。李服を任用すれども、而も李服之を図る。夏侯に委任すれども、而も夏侯敗亡す。先帝毎に操を称して能ありと為すも、猶此の失有り。況んや臣の1)ドカなるをや。何ぞ能く勝つことを必せんや。此れ臣の未だ解せざる四なり。

1)「ドカ」=駑下。自分の才能を卑下すること。駑劣(ドレツ)ともいう。

諸葛亮の疑問その四――。曹操にも「失」があったではないか。それによると、「五回も昌覇(東海郡)の城を攻めたが、城は降伏しなかった。また四回巣湖を越えて合肥(安徽省)を攻めたが成功しなかった。李服を任用したけれど、李服はかえって謀反をはかった。夏侯淵を大将軍として漢中のことを委任したが、蜀軍に攻められて淵は戦死したではないか」というのです。「先帝毎に操を称して能ありと為す」、つまり先帝劉備も曹操の才能を称賛していました。そんな曹操でも躓きがあったのに、ましてや才能の大きく劣る私ごときが失敗しないわけがないでしょう。必勝を求められても困るというのですが、ちょっと弱気ですなぁ。ま、打って出なければ、そのまま崩れ落ちる運命であることは分かっていたから、失敗するしないは行動の価値基準たり得るはずがなかったんですけどね。

「四の五の言わずにあっしについてきておくんなせぇ~」。

曹操に一目置いた諸葛亮=「後出師の表」4

中国名文を噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「後出師の表」(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝」から)の4回目です。諸葛亮の怒りはまだまだこれからが本番。なぜかしら曹操を持ち出して自分と比べるのです。

ところで、曹操と言えば最近、中国河南省安養県安豊郷西高穴村でその墓が特定されたと発表されて、歴史ファンの間で話題となっていますね。曹操本人を含めファミリーや家臣らの逸話は世説新語でも紹介しました()。タイムリーな話題に迂生自身も少し胸が熱くなっています。ロマンですよね。掘り起こされる事を心配してダミーの墓を72も作っていたとも言われる。今回発見された墓からは、「魏武王常所用格虎大戟」の文字が刻まれた戟、「魏武王常所用慰頚石」の文字が刻まれた石の枕がみつかったことから、曹操の墓と特定する「決め手」となったとあります。一度訪れてみたいものです。遠いんでしょうなぁ。リンク(中央日報の記事)。

さて、諸葛亮の怒りの矛先は漢王朝を倒して「偽りの天下統一」を果たした曹操…、にではなく、むしろ彼には一定の敬意を表しており、曹操でも致命的な敗北を喫しているのに、どうして私ごときが何のリスクも無く戦に勝てると思っているのか?その考えが分からんわというのです。


【6】
曹操の智計は人に1)シュゼツす。其の兵を用うるや、孫・呉に2)ホウフツなり。然れども南陽にア)しみ、烏巣に険しく、祁連に危く、黎陽に偪(せま)られ、幾んど北山に敗れ、殆んど潼関(トウカン)に死せんとす。然る後一時を偽定せるのみ。況んや臣の才弱くして、危うからざるを以て之を定めんと欲するをや。此れ臣の未だ解せざるの三なり。

1)「シュゼツ」=殊絶。普通と違って特にすぐれていること。「殊に絶する」(こと・にぜっ・する)。簡単ですが案外と想起できないかも。

2)「ホウフツ」=髣髴。よく似ていてまぎらわしいさま。さながら~のようである。このほか、「ぼんやりとほのかに見えるさま」の意もある。漢検が好きな熟語の一つ。「乾坤」と並んでとにかくよく出る。彷彿と簡単でもOK。

ア)「困しみ」=くる・しみ。熟字訓。「困しむ」は「くるしむ」。「こうじる、こうずる」という和訓もある。困蹶(コンケツ=物事に行き詰まる)、困餒(コンタイ=苦しみ飢える)、困敝(コンペイ=苦労して気力がなくなる)、困阨(コンヤク=困しみ悩む、災い)、困匱(コンキ=貧乏で者に不自由する、困竭=コンケツ=)、困窘(コンキン=貧しく動きが取れない)、困殆(コンタイ=困難にあい行き詰まる、困急)。

諸葛亮の疑問その三――。「治世の能臣、乱世の姦雄」と称され、古代の兵法家孫子・呉子の再来と謳われた曹操。その彼ですら何度も危機に見舞われました。諸葛亮によれば、「南陽(河南省)で困難に遭い、烏巣の湿地帯では危い目に遭い、祁連山では匈奴に追い詰められ、黎陽(黄河の北の地)では袁譚(エンタン)に混乱させられ、北山ではほとんど敗れ、潼関では馬超らに攻められて戦死寸前」だったという。このような艱難辛苦を乗り越えて天下を偽り平定したのだ。まして、自分のような「弱い意志の者が安全な方法で天下を定めようとすることなどできるわけではないでしょうが」。曹操に一目置いている諸葛亮が端無くも浮き彫りとなっています。

その曹操は軍人であるばかりか、詩人・文人の面も併せ持っており、兵法書「孫子」の注釈書も著しているほどです。さらに、才能ある者は善悪は別として登用して腕を振るわせるなど、やはり当時の大英雄といって人物でした。その結果として、三国の中で魏が飛び抜けて強大となり、天下の大半を平定したのです。諸葛亮が言うところの「偽定」という記述も、嫌々ではあるが、その事実を認めているのです。曹操は魏王のまま没し(220年)、子の曹丕が後漢の献帝を廃して帝位に就き、洛陽を都として魏王朝を開きました。

「曹操はん、墓が見つかったそうですってなぁ~」。

盤る「グンギ」「シュウナン」とは…=「後出師の表」3

中国名文を噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「後出師の表」(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝」から)の3回目です。諸葛亮が劉禅帝や取り巻きの家来連中に対して抱いた疑問が続きます。

【5】
劉繇(リュウヨウ)・王朗各々州郡に拠る。安を論じ計を言い、ア)もすれば聖人を引く。1)グンギ腹に満ち、2)シュウナン胸に塞がる。今歳戦わず、明年征せず。孫策をして坐して大に、遂に江東を并せしめん。此れ臣の未だ解せざるの二なり。

1)「グンギ」=群疑。多くの疑問。音としては「群議」もありますが、これだと「様々な意見」という意味。「腹に満つ」という言いぶりがヒントでしょうか。「群蟻」附羶(グンギフセン=多くの人が利益に群がるさま)も序でに覚えておきましょう。

2)「シュウナン」=衆難。多くの困難。音としてはなかなか浮かびにくい。したがって、ここも「胸に塞がる」など前後の文脈から意味を考えるしか手はなさそうです。

ア)「動もすれば」=やや・もすれば。漢文訓読用法。「かならずつねに、どうかするといつも」などと訳すとぴたりとはまります。前の状況に連動して、後の状況が起こる意を示す。ここでは「楽して手懐ける方法や謀許りを論じるようとして、いつも聖人の言辞などを引用して、戦わずして服従させようと考える」と解釈されます。

諸葛亮の疑問その二――。劉繇は揚州太守、王朗は会稽太守のこと。いずれもそれぞれの州を割拠して半独立を維持している。つまり、戦いに勝つにはどうやって彼らを取り込むかが大きなポイントとなるのです。ところが、わが蜀国の「群臣」どもときたら、のんびり屋さんばかり。下手に手を出さなくてもうまいこと「甘言」を弄して手懐ければいいではないかとさえ考えている。甘い。甘すぎる。「国盗り物語」のことを理解しておらん。今この時に動かずして、戦わずしてわれわれに来年はない。呉の孫策が劉繇も王朗も討って楽々と併合して国力が強大になれば、江東地方の統一が図られてしまう。その時が来てからでは遅いのだ。

孫策は孫堅の長子。力量はたっぷりとあったが若くして暗殺されてしまいます。焦り…諸葛亮の切歯扼腕する姿がまざまざと眼前に浮かぶような文章ですね。時間との戦いでもある。勝てるとは限らないが、後から言ったのでは手遅れというのも多々ある。蜀は小国であり、場所も辺鄙なだけに「出遅れ」は致命傷となってしまうのです。

「うぬら、危機感の薄い奴らじゃのぅ」。

鎧の下から覗かせた二代目の評価=「後出師の表」2

中国名文を噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「後出師の表」(明治書院「新書漢文大系8 古文真宝」から)の2回目です。「後」も「前」と同様に先帝の思いから始まりました。漢王朝創業期の劉邦に思いを馳せますが、劉禅帝にとってはすこし諷り気味です。

【4】
高帝の明日月と並び、謀臣淵のごとく深し。然れども険を渉りア)を被り、危くして然る後に安し。今陛下未だ高帝に及ばず。謀臣良・平に如かず。而も1)チョウサクを以て勝ちを取り、坐して天下を定めんと欲す。此れ臣の未だ解せざるの一なり。

1)「チョウサク」=長策。すぐれた計画。良策。長冊(チョウサク)、長算(チョウサン)ともいう。この場合の「長」は「まさる、すぐれる、たける」という意味。

ア)「創」=きず。表外訓み。創痍(ソウイ=刀で受けた傷)、創瘢(ソウハン=きず、きずあと)=創痕(ソウコン)。絆創膏(バンソウコウ)は書けなければいけません。

諸葛亮の疑問その一――。漢王朝を創始した前漢の高祖皇帝(劉邦)を尊敬している諸葛亮は、その見識の高さを「月日」に譬えて称賛し、そして、その参謀たる臣下たち(張良・陳平)が持っている智恵が「淵」のように深いと崇めています。ここまではいいのですが、翻って、御帝・劉禅さま、そして、取り巻きの臣下連中、いずれとも高祖、張良・陳平にはとてもおよぶ力量ではないでしょう。だのに、楽してのんびりと勝ちを獲得して座ったまま手をこまぬいて天下を統一しようなどとはどのお方が望んでいるのでしょうか。「あり得ない」とかなり強い調子です。帝に失礼ではないのか。ここはちらっと後主・劉禅に対する諸葛亮の本心というか、二代目への「評価」が鎧兜の下からちらりと顔を覗かせていますね。

「ぼん、もっと謙虚でいてくだせぇ~」。

諸事情これあり、しばらく小出しで進むことをお許しくださいませ。

先帝の遺徳を偲ぶも「二番煎じ」?=「後出師の表」1

中国名文の味を噛み締めるシリーズは、引き続き諸葛亮の「熱文」。今度は「後出師の表」を取り上げます。「コウスイシのヒョウ」と読んでください。悲痛極まりない「前出師の表」を受けた魏への出兵は思うような戦果を挙げられず、いやむしろ“敗北”に近い形で撤退を余儀なくされて終わりました。その後、呉が魏の曹休を破り、そのために関中(長安を中心とする一帯)から魏軍が東に移動したことを聞いた諸葛亮が、翌建興6年(228)、今度はその関中への出兵を試みる決意を固めました。その際に上ったのが「後出師の表」なのです。今度は「古文真宝」(明治書院「新書漢文大系 8」)をテキストといたします。「文章規範」には掲載がありませんでした。このシリーズも短く分けられており読みやすくなっています。数回シリーズの予定ですが、年末年始にかかるのでいつ終えられるかは現時点では分かりません。気長にお付き合いください。ポイントは「前」に比べて「後」の方はあまり有名ではないのはなぜかということでしょうか。「前」と同様に先帝の遺徳を偲び、魏国に比した蜀国の正統性を主張しているのですが、やはり「二番煎じ」臭い感じがしますね。

【1】
先帝は漢賊両立せず、1)オウギョウは偏安せざるを慮る。故に臣に託するに賊を討つを以てせり。先帝の明を以て、臣の才を量る。故に臣の賊を伐つに、才弱く敵ア)きことを知れり。然れども賊を伐たざれば、オウギョウも亦た亡ぶ。惟だ坐して亡ぶるを待たんよりは、之を伐たんにイ)孰与ぞ。是の故に臣に託して疑わざりしなり。

1)「オウギョウ」=王業。帝王として天下をおさめる事業。ここでは劉備が漢王朝を再興させる事業を指す。超簡単な漢字ですがなかなか浮かばないかも。

ア)「彊き」=つよ・き。「彊い」は「つよい」。音読みは「キョウ」。彊忍(キョウニン=我慢しにくいことをあえて我慢する)、倔彊(クッキョウ=屈竟)、「つとめる」とも訓み、自彊(ジキョウ=自分で努力すること)。

イ)「孰与ぞ」=いずれ・ぞ。二つの比較するもののうち、どちらであろうか。「孰若ぞ」とも書く。比較選択の漢文訓読用法。「AよりはBの方がいい」と後に来るものを選択せよというニュアンスが強い。ここでは「坐して滅ぶよりは、魏を伐って出る方がましだ」。


【2】
臣命を受けしの日より、寝ぬるに席を安んぜず、食うに味を甘しとせず。北征を2)シイすれば、宜しく先ず南に入るべし。故に五月濾(ロ)を渡り、深く不毛に入り、日をイ)せて食う。臣自ら惜しまざるに非ざるなり。王業の蜀都に偏安することを得べからざるをウ)う。故に危難を冒して、以て先帝の遺意を奉ず。而れども議する者謂いて計に非ずと為す。

2)「シイ」=思惟。深く考える。「シユイ」と読めば、「心を一心にこらして静かに自分の心を考察するという日本仏教の用語。禅那=ゼンナ=ともいう」。「惟」は「おもう」「ただ」とも訓む。音読みの「ユイ」は呉音です。惟惟(イイ=はいはいと承諾する)、惟神(かんながら=神としての存在)、惟我独尊(ユイガドクソン=唯我独尊とも)、惟適之安(ユイテキのアン=ただ自分の気に入ることだけに安んじている。自分の気の向くままの生活に満足してそれ以上を求めない)。

イ)「并せ」=あわ・せ。「并せる」は「あわせる」。音読みは「ヘイ」。并呑(ヘイドン=他国をあわせて自分の領土とすること)、并分(ヘイブン=半分に分けあう)。「併」とほぼ同義です。「并びに」(ならびに)という副詞用法もある。

ウ)「顧う」=おも・う。熟字訓ですが少し稀な用法か。顧眷(コケン=近くに置いてひいきにする、目を掛けて大切にする)、顧恤(コジュツ=あわれみをかける)、顧眄(コベン=ふりかえってみる、きょろきょろする)、顧恋(コレン=恋い慕う)。

ここではまず、北伐の前提として南部の雲南地方に住む異民族を平定したことを言っています。諸葛亮は「後顧の憂い」を消すために五十万の兵を率いて南征しました。その険しい道のりだったのは「日を并せて食う」で瞭然。食事は二日に一度だったというのです。そして、蜀が中原からみれば辺鄙な位置にあるため、ここに安住していては「王業」を為すことができないという先帝の思いを常に抱えて出兵したのだと言い切る。ところが、これは「良策」ではないという輩が数多いる。。。

【3】
今賊遇々西に疲れ、又東に務む。兵法は労に乗ずと。此れ3)シンスウの時なり。謹みて其の事をエ)ぶること左の如し。

3)「シンスウ」=進趨。こばしりに走りすすむ、進んで仕える。「趨」は「はしる」「おもむく」とも訓む。趨競(スウキョウ=はしり競う)、趨闕(スウケツ=朝廷に行く)、趨舎(スウシャ=出処進退)、趨翔(スウショウ=日常の動作)、趨蹌(スウソウ=すばやく走るさま)、趨庭(スウテイ=家庭で子が父の教えを受けること)、趨風(スウフウ=風に乗ったように速く通り過ぎること)、趨歩(スウホ=こばしり)、趨利(スウリ=利益のある方について利益を得ようとすること)。「ソク」と読むと「すみやか」の意。趨織(ソクショク=コオロギ)、趨数(ソクソク=せわしげでわずらわしいさま)、趨趨(ソクソク=せわしげに歩くさま、蟋蟀・蛩・蛬)。

エ)「陳ぶる」=の・ぶる。述べる。表外訓み。「陳」には「つら・ねる」「ふる・い」「ひ・ねる」の訓みもある。陳錫(チンシ=ひろく全体に恩恵を与える)、陳事(チンジ=往時、事柄を述べる)、陳迹(チンセキ=旧跡)、陳疏(チンソ=事情、理由を述べて弁解すること)。

「賊」、すなわち魏は西の反乱に遭い兵力が疲れている。建興6年春、蜀軍は魏の大将軍曹真を攻め、その際、天水郡(甘粛省)など三郡が蜀に呼応したため、その対応に追われた魏は疲弊していました。そして、東では呉の陸遜が率いる軍勢に防戦一方。兵法にある「敵の疲労に付け込む」というのはまさにこのこと。今をおいて魏を討つ好機はありませぬぞ。それなのに朝廷では異を唱えて詰まらんことをいう連中のなんと多いことよ。不満たらたらの諸葛亮の反撃が続きます。

「兵法のイロハもなんもわかっておらぬ」。

諸葛亮の瞋恚が迸ります。

人気の秘密は「判官贔屓」?=「前出師の表」4

中国の名文を噛んで噛んで噛み締めるシリーズは、諸葛亮の「前出師の表」(明治書院「新書漢文大系9 文章規範」から)の最終回です。先帝への「忠誠」を心に決め、二代目に仕えおおせることがその遺志に報いること。自らが帝位に就くなどとんでもない。諸葛亮が思いのたけをしたためた「表」です。最後までしっかりと噛みましょう。

【10】
今南方已に定まり、甲兵已に足る。当に三軍を1)ショウスイし、北のかた中原を定むべし。庶わくは2)ドドンを竭くし、3)カンキョウを4)ジョウジョし、漢室を興復し、旧都に還らん。此れ臣が先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分なり。

1)「ショウスイ」=将帥。軍隊を率いること。その大将。将率(ショウソツ、ショウシュツ)ともいう。この場合の「帥」は「ひきいる」。「率」と同義ですが、通常動詞で使う場合は「率」、名詞の場合は「帥」=読みはソツ・シュツ=を用います。今回は動詞ですから本来は「ソツ・シュツ」と読むべきですが「スイ」と名詞バージョンとなっています。「ショウソツ、ショウシュツ」と読んだ方が意味的には正確かも知れません。帥先もしかしたら、読み下しが違うのかも。「将帥として三軍をひきいて」と読めば「ショウスイ」。(ソッセン=率先)、帥導(ソツドウ、シュツドウ=率導)。ちなみに、「憔悴」ではない。

2「ドドン」=駑鈍。にぶくて劣った才能。鈍才。「駑」は「にぶい」とも訓む。駑材(ドザイ=自分の才能を卑下)、駑鉛(ドエン=劣っている才能)、駑劣(ドレツ=自分を卑下、駑下)、駑怯(ドキョウ=のろまでいくじなし)、駑蹇(ドケン=にぶくてのろま)、駑散(ドサン=愚鈍でまとまりがない)、駑駿(ドシュン=駑馬と駿馬、愚人と賢人、駑驥=ドキ=)、駑駘(ドタイ=才能が劣る)、駑馬十駕(ドバジュウガ=怒罵が十日間車を引く、才能がなくても努力すれば追いつける)。

3)「カンキョウ」=姦凶。悪者、悪漢。姦賊とも。「姦」は「よこしま」「かだましい」という意味。「かしましい」と訓めば「おしゃべりでうるさい」の意。姦豎(カンジュ=小悪人のこと)、姦慝(カントク=悪賢い)、姦猾=姦黠(カンカツ=悪賢い)、姦険(カンケン=心がひねくれている)。

4)「ジョウジョ」=攘除。夷狄や法に従わない者を追い払い、とり除くこと。「攘」は「はらう」「ぬすむ」と訓む。攘夷(ジョウイ=外人うちはらい)、攘攘(ジョウジョウ=入り乱れ混乱)、攘斥(ジョウセキ=排斥)、攘窃(ジョウセツ=自分のところにまぎれた物を盗み自分のものとする)、攘臂(ジョウヒ=腕捲り、尽力)、攘羊(ジョウヨウ=ひつじをぬすむ、論語の故事で「馬鹿正直」)。

「北のかた中原」というのは、曹操の建てた「魏」のこと。魏国こそ、後漢の献帝から帝位を奪った「姦凶」であるというのです。だから「攘除」するしかない。それが「漢室」の「興復」であり、「旧都」にわれら蜀が戻ること。前節までの回想シーンから一転、現実の状況を持ち出して改めて帝に対して魏を討つための「決意」を高らかに謳っています。迂生はここの「件」が最もお気に入り。暗誦したいくらいです。「庶わくは駑鈍を竭くし、姦凶を攘除し、漢室を興復し、旧都に還らん」――。繰り出される漢語の音とリズムが心地いい響きを与えてくれます。意味など小さい、小さい。音が意味を凌駕する思いがします。


【11】
損益を5)シンシャクし、進んで忠言を尽くすに至りては、則ち攸之(ユウシ)・褘(イ)・允(イン)の任なり。願わくは陛下臣に託するに討賊興復の効を以てし、効あらずんば則ち臣の罪を治し、以て先帝の霊に告げよ。若し徳を興すの言無くんば、則ち攸之・褘・允等のア)を責め、以て其の慢を彰せ。

5)「シンシャク」=斟酌。事情を考えほどよく取り計らう。元々は酒や水をくみかわす意。杯の大小でさけをくむように、物事の状況を考えて手加減することを意味するようになった。「斟」は「くむ」とも訓む。浅斟(センシン=度を越さない程度に軽く酒を飲むこと、浅酌=センシャク=)。「酌」も「くむ」。浅斟低唱(センシンテイショウ=軽く飲み小声で歌う、粋な酒盛り、反対が「深斟高唱」(シンシンコウショウ)で「巷で行われる下品な宴会」というのはうそで~す。こんな言葉はないからね~、でも実際にはそんな宴会は横行していますよね)。

ア)「咎」=とが。過失、差し障り。「とがめる」とも訓む。音読みは「キュウ」。休咎(キュウキュウ=吉凶)、咎殃(キュウオウ=災難)、咎悔(キュウカイ=とがめと後悔、さしつかえ)、咎罪(キュウザイ=罪、過失、とがめる、咎過=キュウカ=、咎愆=キュウケン=)、咎徴(キュウチョウ=天のとがめのきざし、災いのしるし)、咎犯(キュウハン=春秋時代の狐偃のあだな)、既往不咎(キオウフキュウ=終わった罪は問わない)。

再び郭攸之・費褘・董允の3人の臣下を持ち出しています。よほど諸葛亮の信頼が厚かったのでしょう。私に魏を討つ機会をくださいませ。そして、3人から忠言の言葉が聞かれないときは、過失であるとして彼らの怠慢を追及しても構いません。


【12】
陛下も亦宜しく自ら謀りて以て善道を6)シシュし、7)ガゲンを察納し、深く先帝の遺詔を追うべし。臣、恩を受くるにイ)えず感激す。今遠く離るるに当たり、表に臨んで8)テイキュウし、云う所を知らず。

6)「シシュ」=諮諏。上の者が下の者に意見を求める。「諮詢(咨詢)」で既出です。錙銖、髭鬚、卮酒、斯須、死守、四炷ではない。

7)「ガゲン」=雅言。かどのとれたきれいな言葉。また、正しく発音すること。

8)「テイキュウ」=涕泣。なみだを流してなくこと。「涕」は「なみだ」。涕泗(テイシ=たれるなみだと鼻水、涕洟=テイイ=)、涕涙(テイルイ=流れ落ちる涙)、涕零(テイレイ=なみだをこぼす)。「なみだ」はほかに、「泗、泪、洟、奈美だ(って誰だ?)」。低級、定休、庭球しか思い浮かばない場合は、もう少し勉強する必要があります。

イ)「勝えず」=た・えず。「勝える」は「たえる」。こらえること。表外訓み。「不勝~」とあって、「こらえきらない、やり尽せない」の意。杜甫の五言絶句「春望」に「渾欲不勝簪」(すべて簪に勝えざらんとほっす)の用例がありますから、なんとか訓めるっしょ。


感極まって涙に咽ぶ諸葛亮。すべては大恩のある先帝劉備の遺志に報いるため。軍人である亮はいわゆる「物書き」ではありません。人の恩と国家に対する「赤心」が書かしめた名文と言えるでしょう。「~べし」の文言が多い。劉禅帝に対する「帝王学」を献じてもいる文章なのです。

「ぼん、あっしを信じて毅然としておくんなせぇ~」。

こうした悲壮な決意のもとに打って出た北伐ですが、蜀軍は中原に至るまでに嶮岨な山々を越えなければなりません。物資補給が困難を極め苦労します。いわゆる軍事力というのはこの兵站が大事なのです。残念ながら、魏討伐は成就しませんでした。三国志フリークのなかでも諸葛亮の人気度は1、2を争うでしょうね。判官贔屓の性向の強い日本人からすれば、帝直々の“求愛”を受けて「草廬」から出た智将が最終的には「負け組」だったという悲劇のストーリーもその人気の秘密かもしれませんね。

努力しても、才能があっても思うようには生きられないのか――。しかし、縦令負けようともその「骨」があれば、こうして後代に名文を残すことができるのです。勝ち負けの結果はすぐに出るとは限らない。学力試験、成果主義…そんな性急な結果ばかりが求められるわれわれ現代人。「勝ち」が勝ちで「負け」が負けなのか?「勝ち」「負け」の基準とは何なのか?急ぐな。一歩一歩前にだけは進もうではないか。揺るぎない「自信」を与えてくれます。迂生も急ぎませんよ。このblogの価値はあとで分かるのだ。。。。

以上、「前出師の表」の「味」はいかがでしたか?

翌年、諸葛亮は再度魏に出兵しますが、その前に献じたのが「後出師の表」。中国名文を玩わうblogの次のターゲットとなります。しかし、あまり人口に膾炙されないのはなぜでしょうか?その秘密を探りましょう。

強固な絆は「草廬三顧」が原点=「前出師の表」3

中国の名文を噛んで噛んで玩わうシリーズは、諸葛亮の「前出師の表」(明治書院「新書漢文大系9 文章規範」から)3回目です。この「表」の“ヤマ場”と言っていいでしょう。亡き先帝劉備と自分との切っても切れない関係の由来を滔滔と述べます。

【7】
侍中・尚書・長史・参軍は、此れ悉く貞亮にして節に死するの臣なり。願わくは陛下之に親しみ、之を信ぜよ。則ち漢室の隆んならんこと、日をア)えて待つ可きなり。

ア)「計え」=かぞ・え。「計える」は「かぞえる」。表外訓みですが、これは縦令知らなかったとしても前後の文脈からも訓めるでしょうね。このセンスを磨きたいですね。「かぞえる」はほかに、「数える、算える」。これらも何となく訓めますよね。

「漢室」とあるのは、蜀国こそが漢代の後継と自任していたからです。魏を倒して漢の国を再興するのは蜀である。それが実現するその日まで指折り数えて待ちましょうというのです。諸葛亮はここでも家臣の登用を推挙している。すなわち、「尚書」はもと宮中の文書係であったが、次第に重い任を持つようになり、大臣クラスの職になりました。ここでは陳震を指す。震は「侍中」職を兼務していたが、劉備の死後、尚書令に任ぜられました。「長史」は宰相の下に置かれ、役人の監督にあたる。ここは張裔のこと。「参軍」は軍務にかかわる職で、将琬(ショウエン)を指す。「貞亮」(テイリョウ)とは「節操がかたくて、心の明るいこと」。


【8】
臣は本1)フイ、躬ら南陽に耕す。苟くも性命を乱世に全うせんとし、2)ブンタツを諸侯に求めず。先帝臣が3)ヒヒなるを以てせず、イ)りに自ら4)オウクツして、三たび臣を5)ソウロの中に顧み、臣に諮るに当世の事を以てす。是に由り感激して、遂に先帝に許すに6)クチを以てす。

1)「フイ」=布衣。無位無冠の一般庶民。これまでも何度も登場。「ホイ」と読めば、日本の官位の一つ(六位以下の官吏)。付倚、巫医、怖畏、黼依、黼帷、不意などの同音異義語を整理しましょう。

2)「ブンタツ」=聞達。有名になり出世すること。「名聞栄達」(メイブンエイタツ)の略。

3)「ヒヒ」=卑鄙。いなかびて下品であるさま。「卑」も「鄙」も「いやしい」。「鄙」は「ひな」とも訓む。卑近・鄙近(ヒキン=いやしくて俗っぽい)、鄙見(ヒケン=つまらない考え、鄙懐=ヒカイ=)、鄙言(ヒゲン=俗っぽくいやらしい言葉)、卑賤・鄙賤(ヒセン=心や身分が卑しい)、鄙倍(ヒバイ=心が卑しくて道理に負くこと)、鄙朴・鄙樸(ヒボク=いなかじみて粗野である)、鄙吝(ヒリン=心がいやしく度量が狭い)、卑陋・鄙陋(ヒロウ=卑しくて見聞が狭い)、鄙穢(ヒワイ=ことばや文章がいやしくて下品である)。

4)「オウクツ」=枉屈。尊い身分の人がへりくだってわざわざ来訪すること。「枉」は「まげる」という意のほか、「むじつのつみ」とも訓む。枉駕来臨(オウガライリン=人の来訪を敬う言い方)=枉車オウシャ、枉顧(オウコ=人の来訪を敬う言い方)、枉死(オウシ=非業の死)、枉訴(オウソ=無実の罪で人を訴える)、枉道(オウドウ=正しい道を曲げる、回り路をする)、枉撓(オウドウ=法律を曲げて人を罪に陥れる、枉橈)、枉法徇私(オウホウジュンシ=規則を曲げて私利私欲に走ること)。

5)「ソウロ」=草廬。くさでできた粗末ないおり。「廬」は「いおり」。弊blogも「粗末ないおり」です。草露だと「物事の儚いこと」ですのでお間違えないように。ま、有名な「草廬三顧」(ソウロサンコ)のシーンですから間違うわけないですが念のため…。

6)「クチ」=駆馳。はせまわって人のためにつくすこと。「駆」も「馳」も「はせる」。馳駆(チク)ともいう。駆儺(クダ=おにやらい、追儺)、駆騁(クテイ=馬をあちこち走らせる)、「馳檄」(チゲキ=檄文を馬を飛ばして回す)、馳驟(チシュウ=馬をはやがけさせる)、馳騁(チテイ=人を彼方此方やって使役する、思うままに支配すること)、馳弁(チベン=弁舌を揮う)、馳逐(チチク=競馬)、馳思(チシ=思いをはせること)。

イ)「猥りに」=みだ・りに。原則を押し曲げて、普通ならそんなことをしないのにわざわざ。「猥」は「みだら」「みだれる」「みだりがましい」「みだりがわしい」とも訓む。音読みは「ワイ」。猥褻(ワイセツ=エロ、猥多(ワイタ=ごたごた)、猥談(ワイダン=エロ話)、猥賤(ワイセン=卑しくて下品)、鄙猥・卑猥(ヒワイ=エロ)。「みだりに」はほかに、「叨に、妄りに、濫りに、乱りに、浪りに、漫りに、胡りに」がある。

諸葛亮と劉備の邂逅を回想するシーンに突入する。これ以降のくだりが本「表」の見せ場、泣かし所となります。二人の間柄を語る際に忘れることのできない故事である「草廬三顧」。別名は「三顧の礼」。「礼を尽くして賢人を招き入れて仕事を依頼すること、目上の人がある人物を信任して手厚く迎えることのたとえ」(成語林)という意味。用例=鳩山政権は国民が三顧の礼をもって迎えたというわけでは必ずしもなかった。

孔明はたびたび劉備の訪問を受けたが、その都度拒んできた。いわば「求愛」。いけません、いけませんわ、お殿様。あなたさまとはあまりにも身分が違いすぎます。お許しくださいませ~。劉備はあきらめない。こうと決めた相手は是が非でも手に入れないと済まない。三度目の訪問。劉備の熱意は最高潮に達する。「当世の事を以て」―。今我々蜀国は何を為すべきかのぅ?男冥利に尽きる本望を感じた孔明は、帝の「求愛」を受け入れる覚悟を決めます。この人なら…信頼できますわ。決して裏切らないし、わたくしを信用もしていただける…。「益州、荊州をもって蜀の領土となさいまし。そして、彼の憎々しい魏・呉と鼎足する象(かたち)をお取りなさいませ~」と進言します。彼の有名な「天下三分の計」を開陳した瞬間でした。

二人の強固な関係が結ばれました。信頼関係を構築するには、小さなことから大きなことまであらゆる問題で人が腹を割ることが大事だということを教えてくれます。ネットを介してあたかも濃密ながら擬似的な、安易な関係が横行する現代社会に対して、ある意味で危険だと警鐘を鳴らしてくれるかのようです。「衷情」をどう表すか。上っ面の安易な言葉ではない。礼を尽くす。すべてをさらけ出す。礼儀の上ですべてを分かりあえる関係を築きたいものですな。


【9】
後に7)ケイフクにウ)値い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来二十有一年なり。先帝臣が謹慎なるを知る。故に崩ずるに臨んで、臣に寄するに大事を以てせり。命を受けてより以来、8)シュクヤ9)ユウタンし、付託の効あらず、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。故に五月瀘(ロ)を渡り、深く不毛に入る。

7)「ケイフク」=傾覆。傾きくつがえる、国が滅亡すること。圭復、京福、敬服、慶福ではない。

8)「シュクヤ」=夙夜。朝早くから夜遅くまで。「夙」は「つとに」「はやい」とも訓む。夙怨(シュクエン=以前から持っていた怨み)、夙懐(シュクカイ=昔の思い出、早くからあった志)、夙悟(シュクゴ=幼少のころから賢いこと、夙慧=シュクケイ=、夙敏=シュクビン=)、夙興夜寐(シュクコウヤビ=朝早く起き、夜は遅く寝る、日夜政務に励むこと)、夙儒(シュクジュ=深い学問のある年老いた学者、宿儒)、夙心(シュクシン=夙志、以前からの志)、夙成(シュクセイ=早くに完成する、早熟)、夙昔(シュクセキ=ずっと以前)、夙賊(シュクゾク=昔からの悪人)、夙茂(シュクボウ=幼少からすぐれた才能を持っていること、「茂」は草木がよく茂ることで、才能のすぐれていることのたとえ)、夙齢(シュレクレイ=若い年齢、少年時代のこと)。

9)「ユウタン」=憂歎。思い悩んで嘆息すること。憂嘆でも正解。

ウ)「値う」=あ・う。「遭う」の意。表外訓みです。慣れないと難しい。

「傾覆」というのは、建安13年に劉備が長阪で魏の曹操の攻撃を受けて大敗した「長阪橋の戦い」を指しています。この敗戦はしかしながら、次の「赤壁之戦」につながる。孔明は劉備の命を受けて呉に向かい、孫権と同盟を結び、呉と蜀の連合軍が魏の大軍を打ち破りました。「レッド・クリフ」。まだ観ていませんが、この「三顧の礼」を踏まえて観ると面白いかなぁ。

「大事」とあるのは、天下統一による漢王室の再興をいう。「三国志」蜀志諸葛亮伝によりますと、劉備はその臨終に際して、孔明にこう語ったとあります。

「君が才は曹丕に十倍す。必ずや能く国を安んじ、終に大事を定めん。若し嗣子輔く可くんば之を輔けよ。如し其れ不才ならば、君自ら取る可し」

実の子供である劉禅が凡庸なる器であると思ったら、君が王位に就いて事業を進めてくれと「禅譲」を示唆したのです。この“破格”の申し入れに対して、帝への忠誠を誓う孔明。いかに二代目が「不才」であったとしても、「臣、敢えて股肱の力を竭くし、忠貞の節を效(いた)し、之に継ぐに死を以てせん」。逆に、劉禅を補佐して守り抜こう。帝のご遺志を忘れずに漢王朝の復興を是非とも実現して報いることこそわが使命である―。そう心に刻み込んだことでしょう。御涙頂戴の浪花節。日本人の琴線にこそ触れるシーンかもしれませんね。

「ぼん、あっしにお任せくだせぇ~」。

いよいよ次回はラスト。諸葛亮の名文を締めくくります。

「殷鑒不遠」後漢の末期は哀れなり=「前出師の表」2

中国の名文を噛み締めて玩わうシリーズは、三国時代の蜀の宰相、諸葛亮(諸葛孔明)の「前出師の表」(明治書院「新書漢文大系9 文章規範」から)の2回目です。実は「出師の表」は二回行われていて、「後出師の表」というのもあるという説があります。「出師の表」を出してから1年後の建興6年(228)、諸葛亮は再び「表」を具申します。「三国志」の本文に記述がないため「後世の偽作説」もあるのですが、北伐(魏を討つこと)に対する批判の声をいちいち反論して、一早い出兵を訴える内容となっています。通常、「出師の表」と言えば「前」を指す。弊blogでは「文章規範」を出典としているため、「前」の付いたタイトルをそのまま採用しております。

諸葛亮は自分が出兵した暁、朝廷の体制はこうするべきだと人物の具体名を挙げて述べています。

【4】
侍中・侍郎郭攸之(カクユウシ)・費褘(ヒイ)・董允(トウイン)等は、此れ皆良実にして、志慮忠純なり。是を以て先帝1)カンバツして以て陛下に遺せり。愚ア)以為らく、宮中の事は、事大小と無く、悉く以て之にイ)り、然る後に施行せば、必ず能く2)ケツロウを3)ヒホし、広益する所有らんと。

1)「カンバツ」=簡抜。選び出す、すぐれた者を多くの中から選び出して用いること。簡擢(カンタク・カンテキ)、揀抜(カンバツ)ともいう。「簡」は「えらぶ」の意。このままで表外訓みもあるので要注意です。熟語では簡練(カンレン=選び出し鍛える)、簡閲(カンエツ=選び出し善し悪しをより分ける)、簡擢(カンタク=選び出す)=簡選(カンセン)。

2)「ケツロウ」=闕漏。欠漏でも正解。意味は、手落ち、欠けて不足している部分。「闕」は「かける」とも訓む。闕文(ケツブン=あるべき字が抜けている文章)、闕失(ケッシツ=過ち)、闕如(ケツジョ=欠けて不完全なさま=闕然・闕焉)、闕殆(ケッタイ=危険・不安に思うことをやらないで取り除いておくこと)、闕本(ケッポン=そろっている巻数の一部が抜けていて完全でない書物、端本=ハホン=ともいう)。

3)「ヒホ」=裨補。物事の欠点などをたすけおぎなうこと。「裨」は「たすける」「おぎなう」とも訓むので押さえて。小さい当て布で補うイメージ。裨益(ヒエキ=おぎない、役立つこと。助けとなること)、裨海(ヒカイ=小さい海)、裨助(ヒジョ=輔佐、飛絮は楊の目の花が飛ぶ様)、裨将(ヒショウ=副将、裨王=ヒオウ=)、裨販(ヒハン=小商人、仲買の商人)。

ア)「以為らく」=おもえ・らく。漢文訓読用法。「思うに、考えるに」と訳す。「以」「以謂」も同様でいずれも重要。読むのは勿論、書けるようにもしておきたい。「以て~と為す」と返り読んでもいい。

イ)「咨り」=はか・り。「咨る」は「はかる」。意見を並べ出して相談すること。この意味の「はかる」はほかに、「諮る、詢る、諏る」。音読みは「シ」。咨議(シギ=相談し意見を求める)、咨稟(シヒン=相談の結果、その意見を申し上げる)、咨問(シモン=上の者が下の者に公の問題について意見を求め相談する、咨詢=シジュン=、咨諏=シシュ=、咨謀=シボウ=)。いずれも常用漢字の「諮」と置き換えが可能です。「咨」にはほかに、感歎詞の「ああ」の意味もあり、咨嗟(シサ=舌打ちして感動する、咨嘆、咨歎)、咨咨(シシ=嘆息するさま)、咨美(シビ=深く感銘してほめたてること)、瞻望咨嗟(センボウシサ)は必須四字熟語。

「侍中」は漢代の侍従職で、天子のそば近く仕える役目を担っていました。「侍郎」は黄門侍郎の略称で、天子の謁見を管理する職。「郭攸之」は荊州南陽の人ですがやや印象は薄い。これに対し、「費褘」は湖北省江夏の人で、蜀に仕えて侍中となり、孔明の死後は後任の軍師に就き、尚書令を兼ねて蜀の中心人物になりました。また、「董允」は湖北省枝江の人で、黄門侍郎から、のちに侍中となりさらに尚書令に昇進。費褘と俱に蜀の名臣と謳われました。あとの2人は「三国志」蜀志に伝があります。諸葛亮によると、3人とも、「良実」=素直で真心があり、「志慮忠純」=志は純粋であるとして、「欠けた点や漏れた所を補ってご政道を拡大して、陛下のお役に立つことがありましょう」と評しています。んでも、単に亮のお気に入りの嬖臣を推奨申しあげているだけのことではないのかぁ?


【5】
将軍向寵(ショウチョウ)は、性行淑均にして、軍事に4)ギョウチョウす。昔日に試用せられ、先帝之を称して能と曰えり。是を以て衆議寵を挙げて以て督と為す。愚以為えらく、営中の事は、悉く以て之に諮らば、必ず能く行陣をして5)ワボクし、優劣所を得しめんと。

4)「ギョウチョウ」=暁暢。物事や道理によく通じていること。「暁」は「さとる」「さとす」の表外訓みがあります。暁達、暁通ともいう。暁喩(ギョウユ=よくわかるようにさとす、暁譬=ギョウヒ=)、暁寤(ギョウゴ=はやおき)。「暢」は「のびる」「のべる」「のびやか」とも訓む。暢達(チョウタツ=文章が流暢で行き届いている)、暢叙(チョウジョ=思い切り述べる)。

5)「ワボク」=和穆。おだやかである、仲むつまじく、調和すること。和睦でも正解か。ただし、仲直りするという意味ではなく、仲が良い状態ですので微妙なニュアンスを言うには「和穆」がベターか。この場合の「穆」は「おだやかでつつしみぶかい」の意。穆清(ボクセイ=天子の美徳で教化がおだやかに行われていること)、穆穆(ボクボク=おだやかで美しいさま)。

「向寵」は湖北省襄陽の人。牙門将(将軍の一つ)に任ぜられ、中部督に昇進して、陛下の安全を守る近衛の軍を指揮しました。これもお気に入りかぁ?しかし、いずれも先帝の「お墨付き」を挙げているので、劉禅帝も言うことに従わないわけにはいかないでしょうね。でも、これって諸葛亮以外に聞いた人はいないのでしょうね。よくある「今際の遺言」。紙に残っているわけではないから、ごく限られたものだけがどうとでもできるっちゃあ、できる。ねぇ、亮さんよ~。「行陣」とは「軍の部隊」のこと。ただし、この「表」の底辺に一貫している思想は「適材適所」。最後のくだりも、「向寵ならば部隊を一つにまとめて、すぐれた者もおとった者もそれぞれにあった部署に配属する」というのです。


【6】
堅臣に親しみ、小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆せる所以なり。小人に親しみ、堅臣を遠ざくるは、此れ後漢の6)ケイタイせる所以なり。先帝ウ)しし時、エ)に臣と此の事を論じ、未だ嘗て桓・霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。

6)「ケイタイ」=傾頽。かたむきくずれる、勢力が衰える。携帯、形態、継体、敬体ではないので注意しましょう。「頽」は「くずれる、くずれおる」とも訓む。頽年(タイネン=心身ともに衰えてくる年齢、頽齢とも)、頽弛(タイシ=掟などがゆるみすたれる)、頽思(タイシ=意気消沈)、頽陽(タイヨウ=夕日、落日、入り日、類義語・対義語問題に利用できそう)、頽唐(タイトウ=道徳・気風が乱れる)、頽堕委靡(タイダイビ)は必須四字熟語。

ウ)「在し」=いま・し、ましま・し。「在す」は「います」「まします」。いらっしゃる、「いる」「ある」の尊敬語。表外訓みです。「坐す」も同じ。

エ)「毎に」=つね・に。いつも。表外訓み。「つねに」はほかに、「庸に、尋に、彝に、雅に」もあるので訓めるようにだけはしておきましょう。

「先漢」は、高祖から平帝に至る12代215年の前漢を指す。その興隆期にはいわゆる名臣が続々と現れて、大帝国を建設したが、最終的には大臣の王莽に天下を奪われました。一方、「後漢」は光武帝から献帝に至る12代195年。その末期は宦官や豪族が跋扈して帝室は無力と化し、ついに魏に滅ぼされました。

諸葛亮と先帝劉備の議論は、「前漢では興隆期、後漢では末期現象を取り上げたものであって、前漢が必ずしも賢人を近づけ、後漢がいつも小人を近づけていたというものではない」(新書漢文大系9、P180)とあり、それぞれの両極端な時を比喩的に用いています。「桓・霊」というのは後漢の10、11代目の天子。宦官が勢力を持ち、後漢帝室の統制力が急激に衰えて行ったころの天子です。要するに、「殷鑒不遠」(インカンとおからず)の格言通り、われら蜀の手本、反面教師とすべきは、直前まで長く続いた前漢と後漢のいい点や悪い点にあると言いたいのでしょう。小人ばかりが蔓延った後漢の末期はあまりにも惨めだったと…。

「ぼん、おやじの心配は分かってくだせぇ~」。

本日は以上です。「出師の表」は淡淡と進んでいますが、盛り上がるのは次のくだりから。いよいよ「蔗境」に入っていきます。

涙無しに読めない先帝への忠心=「前出師の表」1

「世説新語」シリーズでは中国の主に三国、東西の晋の時代に活躍した歴史上の人物に纏わるエピソードを玩わいました。歴史を動かした英雄たちの「えっ?」という零れ話の数々は、現代社会を生きるわれわれから見ても、是非とも追随すべきものから、くすりと笑える気楽なもの、その真偽が訝しいもの、さらには、決して真似できずに反面教師としたいものまで千差万別でした。人間のドラマは今も昔もちっとも変わりませんね。

さて、今回から少し「毛色」を変えましょう。古来、中国の政治家や軍人、または文人たちが残した美文、名文が現代まで数多く伝わっています。後世の時代にも大きな影響を与えて、それぞれが歴史の積み重ねを繰り返してきた。怒り、憎しみ、諦め、喜び、悲しみ、忠心、懐古、反骨…さまざまな思いや、その時々に彼らが置かれた状況が鮮やかに盛り込まれている。そうした「魂の迸り」から生まれた文章をじっくりと噛んでみようと思いました。「菜根譚」と同様に簡単には噛み切れないことは覚悟しつつ、それでも何度も何度も時間を掛けて噛んでいればその一端からでも「味」が沁み出してくることを期待したい。その文章が放つ「教育的効果」、言葉や故事を学習できること。また、何よりも現代人が進むべき「方向」を誤らないためのヒントが得られるのではないか。そう考えました。

美文、名文の定義はやや曖昧ですが、「文章規範」「文選(文章篇)」「唐宋八大家読本」「古文真宝」をはじめ古来、歴史家が“公認”して編んだ書物があります。その中には人々を感動させ、今もなお人口に膾炙するものが数多採録されています。弊blogでは、これらの中から時代も背景もランダムに、肆意的に採り上げていこうと思います。正直、脈絡は有りません。

まずは「世説新語」でも活写されていた魏・呉・蜀の三国時代から、最も劣勢に在った蜀の名臣・諸葛武侯(181~234、諸葛亮、字は孔明)の「前出師の表」に挑戦します。なぜに「前出師の表」か。蜀帝・劉備と参謀・諸葛亮の兄弟のような、親子のような、友達のような不思議な君臣の関係は現代でこそ必要なものではないか。親子ですら希薄な関係しか持てなくなったわれわれが今一度、取り戻すべき人と人のつながり方を提示しているのではないかと考えたのです。

この「表」というのは「道理をのべて君主に陳情する文」のことを言います。「出師」は「軍隊の出動」。時に蜀の建興5年(227)。亡き劉備の息子、劉禅に上ったもので、このままだと坐して死するのみの国威を啓発して中原(魏)を手に入れるために、乾坤一擲の勝負に出ることを懇切に“諭し”ています。軍事行為の具申ですからおよそ、文学とは懸け離れている内容です。先帝劉備から受けた恩義を語るくだりは、後に「孔明の出師の表を読みて涙を落とさざる者は、其の人必ず不忠なり」(「文章規範」の安子順の評語)と言わしめるほど、“三国志フリーク”のみならず、およそ義理人情に絆されたことのある人ならば、読んで心を動かされない人はいない名文と言えるでしょう。

これも明治書院の「新書漢文大系」シリーズにある「9 文章規範」(前野直彬著、藤原満編)をベースにしつつ、同じく「35 文選<文章篇>」(原田種成・竹田晃著、小嶋明紀子編)も一部参考にしています。

このシリーズの「文章規範」は全体を細かく分けているため、素人にも読みやすくなっています。本文や背景などは主にこちらを借りて進めます。逐一の解釈は省きます。

【1】
臣亮ア)す。先帝創業未だ半ばならずして、中道に崩殂(ホウソ=崩御)す。今天下三分して、益州疲弊せり。此れ誠に危急存亡のイ)なり。

ア)「言す」=もう・す。表外訓みですがやや宛字チック。「もうす」は「白す、啓す、首す、禀す」もある。

イ)「秋」=とき。「たいせつなとき」という意味の表外訓み。「多事之秋」は「タジのとき」。

三国時代の中国は大小17の州に分かれていました。魏は12州、呉は4州を領有していましたが、蜀がただ1州持っていたのが「益州」です。今の四川省、パンダの王国です。先帝劉備様が道半ばでこの世を去り、魏と呉と蜀の中でも蜀が最も弱小でその存在すら危ぶまれたことに強い危機感を訴える劈頭の一節です。魏と蜀の国力を単純に比較すれば、おそらく10倍近い開きがあった。だが、もしここで魏に決戦を挑まず、魏の版図拡大を指を銜えてみているだけなら、国の破滅は必至だというのです。

【2】
然れども次衛の臣、内にウ)らず、忠志の士の、身を外に忘るるは、蓋し先帝の遇を追いて、之を陛下に報いんと欲するなり。誠に宜しく聖聴を開帳して、以て先帝の遺徳を光かし、志士の気をエ)いにすべし。宜しく妄に自ら1)ヒハクなりとし、喩を引き義を失いて、以て2)チュウカンの路を塞ぐべからざるなり。

1)「ヒハク」=菲薄。才能・人格が劣っていること。また、自分の才能・人格を謙遜していうことば。「菲」は「うすい」の意。浅学菲才(センガクヒサイ=自分を遜る言い方)、菲儀(ヒギ=薄謝、菲物<ヒブツ>とも)、菲質(ヒシツ=謙遜するさま)、菲菲(ヒヒ=草木がしげるさま、花の香りがかんばしいさま)、菲食(ヒショク=粗食)。

2)「忠諫」=真心をこめていさめる。「諫」は「いさめる」。

ウ)「懈らず」=おこたら・ず。「懈る」は「おこたる」「だるい」。音読みは「カイ」。懈弛(カイシ=心が緩みなまける)、懈怠(カイタイ・ケタイ・ゲタイ=物事をおろそかにすること、懈惰<カイダ>、懈慢<カイマン>)。

エ)「恢いに」=おお・いに。「恢」は通常「ひろい、ひろめる」と訓むのでやや宛字っぽい。音読みは「カイ」。恢偉(カイイ=大きくて目立つ)、恢恢(カイカイ=ひろくて大きいさま)、恢廓(カイカク=心が広く大きい)、恢奇(カイキ=非常に珍しい)、恢詭(カイキ=非常に奇怪)、恢宏(カイコウ=ひろめる)、恢達(カイタツ=心が広い)、恢誕(カイタン=大袈裟で出鱈目)、恢復(カイフク=回復)。天網恢恢(テンモウカイカイ=悪人は逃げ切れない、リンゼーさんを殺害した市橋容疑者のこと)。

「忠志の士」とは武官、即ち軍事に関係する役人のこと。これに対して「次衛の臣」とは武官以外、即ち文官のこと。陛下の周りには忠実な部下ばかりいるとアピールしながら、諸葛孔明は劉禅帝に対して、「ゆめゆめご自身で徳が薄いなどと言って、勝手な口実を設けてお逃げになってはいけませんぞ」とまさに「忠諫」しています。


【3】
宮中・府中、倶に一体と為り、3)ソウヒを4)チョクバツするに、宜しく異同あるべからず。若し姦を作し科を犯し、及び忠善を為す者有らば、宜しく有司に付して、其の刑賞を論じ、以て陛下平明の治を昭らかにすべし。宜しく偏私して内外をして法を異にせしむべからざるなり。

3)「ソウヒ」=臧否。物事の善悪・是非、人物のよしあしを判断し、批判すること。「臧」は「よい」とも訓む。臧獲(ソウカク=ボディーガード役のマッチョマン、臧穀<ソウカク>)、臧匿(ソウトク=隠れて物事の面に出ない)。慣用読みで「ゾウ」もありますが、漢検問題用には「ソウ」を覚えておくのが無難か。「贓物」は「ゾウブツ」。

4)「チョクバツ」=陟罰。官位を上げてほめることと、官位を落として罰すること。「陟」は「のぼる」「すすむ」の訓みがある。「黜陟」(チュッチョク=官位を下げることと上げること)、陟升(チョクショウ=高い所にのぼる、チックショー?ではない)、陟方(チョクホウ=天子が四方視察の旅にのぼる、天子が死ぬこともいう)、陟降(チョッコウ=天に上ったり地上にくだったりすること)。

「宮中・府中」は文官の朝廷と武官の幕府。うしろにある「内外」も同じ意味。文武一丸となって物の善し悪し、その時々の是非を判断しなければならない。ここからは、諸葛孔明が出兵した後の朝廷の動揺を予め鎮めておく狙いのくだりが続きます。「後顧の憂い」なく戦地に赴きたいという軍人としての切なる願い。そして、二代目皇帝、劉禅への置き土産と言ったら聞こえはいいが、要は頼りない坊ちゃんを叱咤激励する親心。うろたえることなく公平無私でいてくださいな。

「ぼん、しっかりしてくだせぇ」。

2代目は大変よね。

以下、次回に続きます。恐らく4回シリーズになるかと……。
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char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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