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「危葉風を畏れ、驚禽落ち易し」…この国のトラウマか=王融「永明十一年、策秀才文五首」5・完

中国名文を囓んで玩わうシリーズは、南朝斉の王融(467~493)が作成した「永明十一年、策秀才文五首」(永明十一年、秀才に策する文 五首=明治書院発行「新書漢文大系35 文選<文章篇>」)の5回目、ラストクエスチョンです。最後のお題は「交渉による領土回復」。国境を越えた“勢力”との付き合い方。まさに外交交渉力です。現代日本なら民主党政権の存在意義を問う米軍普天間基地移設問題の解決策を考えてほしい。。。毅然とした態度で国際関係を構築することが求められています。でも、日本は地続きの国土を持たないから国境の問題は弱いんだよなぁ。。。竹島もなぁ。。。

【5】
又問う。晋氏綱せずして、関河1)トウセキし、宋人馭を失いて、淮汴(ベン)崩離せし自り、朕旧民を思念し、永く済す攸(ところ)を言(おも)う。故に将を選びて辺を開き、労来安集す。加うるに2)カンを納れ和を通じ、徳を布き礼を脩むるを以てす。皇華を歌いて使いを遣り、3)コウウを賦して賓を懐く。関洛南望の懐いを動かし、獯夷(クンイ=北方異民族の名)北帰の念を遽やかにする所以なり。夫れ危葉風を畏れ、驚禽落ち易し。4)カンカを待つ無く、聊か辞弁を用い、片言にして三輔を求め、一説にして五州を定めん。斯の路何にか階(よ)らん。人誰か或いは謀を進む可き。志を誦して以て朕が心に沃げ。

1)トウセキ=蕩析。分散する、離散する。洪水によって流され、家族がちりじりになることをいう。次にある「崩離」(ホウリ)も同様の意味。「蕩」は「うごく、うごかす、やぶる」の意。ゆらゆらと揺れ動いて破れるさまをいう。蕩尽(トウジン=洗い流されてなくなる、使い果たす)、蕩舟(トウシュウ=舟を動かす、蕩船=トウセン=)、蕩揺(トウヨウ=ゆれうごく、ゆりうごかす)、蕩漾(トウヨウ=ただようさま、水が揺れ動くさま)、蕩滌(トウテキ=洗い流して清める、けがれ、よこしまな事などを除き去ること)。

2)カン=款。よしみ。まろやかで欠け目のない心。「款を納れる(納款=カンをいれる)」は成句で「他国と仲良くなる、敵に内通する」との意。「通款(カンをツウず)」ともいう。「まこと」とも訓む。款晤(カンゴ=うちとけて語り合うこと、款話=カンワ=)、款洽(カンコウ=なごやかにうちとける)、款狎(カンコウ=うちとけあって親しむこと)、款然(カンゼン=うちとけて人に接する様子)。

3)コウウ=膏雨。恵みの雨。適切な時に、適度に降って、草木に栄養を与える雨のこと。「滋雨」「甘雨」ともいう。「膏」は「うるおす」とも訓む。

4)カンカ=干戈。戦争。たてとほこ。倒置干戈(カンカをトウチす=武器を逆さまにして置く、世の中が平和であること)。兵戈(ヘイカ=武器)、干戚(カンセキ=たてとまさかり)。「カンカ」と言えば、坩堝、瞰下、轗軻、讙嘩、艱禍、鰥寡などの重要な同音異義語にも留意しましょう。

(解釈)また問う。晋氏が国家を治める綱紀を失って、州郡は分散させられ、宋室が支配の勢力を失って、淮・汴が崩壊分裂してより、朕は晋・宋の旧人民たちの難儀を心に思いやり、これを助け救わんと長らく考えていた。故に将を選び兵を練って派遣して辺境を開き、百姓を慰めいたわって安んじ和らげてきた。加えて、北方の戎狄と好を通じて和親を結び、徳化を敷いて礼制を修めた。毛詩の「皇華」を歌って使者を派遣し、「膏雨」を詠じて我を仰ぐこと滋雨のようにこれを懐けさせた。ここを以て関中や洛陽の民として江南の斉の地への思いを起こさせ、北狄の人をして北帰の念を持たせることになったのである。そもそも霜で落ちようとする葉は風を恐れ、弓弦の音に驚いた鳥は射落とされやすいというではないか。武力を行使することなくわずかの弁辞を用い、ほんの片言で三輔の地を手中にし、わずかの論説で五州を平定したいのだ。そのための方策は果たしてどのようにすればよいであろう。諸君、誰かよい計画を進言できまいか。おのおのの思うところを述べて、朕を教え導いてほしい。


「毛詩」とは、漢代初期、魯の学者である毛亨(モウコウ)・毛萇(モウチョウ)が伝えた『詩経』のテキストの現行本で、一般には「詩経」そのものを指すことが多い。続く「皇華」と「膏雨」はいずれも、詩経に採録されている詩のタイトルです。


「夫れ危葉風を畏れ、驚禽落ち易し」――。このセリフの意味するところは、一度危険な目に遭ったならば、その恐怖を知っているから、思うままに操れるのだ。直接手を加えない「無言の脅しの外交」と言ったら言い過ぎか。外交交渉では駆け引きが重要になる。正攻法で真正面からではなく搦め手から攻める。「北風と太陽」の北風ではなく太陽になれというのかもしれませんね。

グローバルな時代にあっては、ちんけな国境なんてどうでもいいが、国家として矜恃を持ち、毅然とした態度で各国と付き合いたいもの。古来、内弁慶の我が国は外国との付き合い方が下手糞です。本来なら等位外交が望ましいのでしょう。しかし、黒船来航已来、米国に偏って来たのも事実です。民主党連立政権の「アキレス腱」の普天間基地移設問題。

そろそろ、べったりも卒業と行きたいところですが、安全保障の観点からすると、「米国離れ」はそう簡単なことではない。自国の軍隊を持たないと決めた国が、他国の軍事力をどう見て付き合えばよいのか?という悩ましい問題が突き付けられています。

太平洋戦争の敗北、広島・長崎の原爆投下。。。これらはやはり、「夫れ危葉風を畏れ、驚禽落ち易し」という成句を想起せざるを得ませんね。ある意味、日本国の不幸なトラウマだ。しかしながら、声を大にして言いたい。

「風はもはや畏れることは無いのだ、弓弦の音も忘れてもいい頃なのだ。いつまでも米国に怯え続けることはないでしょう」。

王融は言いました。「聊か辞弁を用い、片言にして三輔を求め、一説にして五州を定めん」。そんな都合のよい外交なんてありえないな。経済大国と言われたのも昔になってしまった日本国ですが、この21世紀の針路をどう取るかを考えるいい機会としたいものですね。片言ではない、確固たる「軸」を確立しましょうよ。得難い貨幣を前にして、ピンチをチャンスに変えられるかどうか。いま「国力」が問われています。

以上、王融が出題した5つの難問でした。容易に答えは出せませんが、われわれ国民は事あるごとに常に自問自答しましょう。それがこの国を脱皮させる契機となるはずです。答えは出せなくても出そうとすることが大事なのです。その姿勢を国民が皆共有することがこの国を変えるのです。
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教育通じ世代間のバトンを繋ごう=王融「永明十一年、策秀才文五首」4

中国名文を囓んで玩わうシリーズは、南朝斉の王融(467~493)が作成した「永明十一年、策秀才文五首」(永明十一年、秀才に策する文 五首=明治書院発行「新書漢文大系35 文選<文章篇>」)の4回目です。本日のお題は「教育・文化の振興」。迂生にすれば最も重要な問題だと考えます。

【4】
又問う。朕聞く上智の民を利するは、礼に述(したが)わず、大賢の国をア)くするは、惟れ旧に図ること罔し、と。豈飢えをイ)すには1)テイショクを期せず、溺をウ)うには2)キコウを待つ無きに非ずや。是を以て三王道を異にして共に昌え、五覇風を殊にして並に烈なり。今農戦脩まらず、文儒是れ競い、本を弃(す)て末に徇い、厥の弊滋々多し。昔宋臣礼楽を以て残賊と為し、漢主文章を鄭衛に比す。豈聖をエ)り法を無(なみ)せんと欲するか、将た以て道を既(つ)くして権するか。今士女を耕桑に専らにし、3)キョウリョに習わすに弓騎を以てし、五都復して4)ショウジョを事とし、四民富んで文学に帰せんことを欲す。其の道やオ)奚何。爾5)メンジュウすること無かれ。

1)テイショク=鼎食。多くのかなえを並べて、そのご馳走を食べること。ご馳走。富裕を表す言葉でもある。

2)キコウ=規行。枠に嵌まったおこない。杓子定規。「規」は「ぶんまわし」(=コンパス)とも訓む。規矩準縄(キクジュンジョウ=物事や行為の標準・基準)。むしろ難語。

3)キョウリョ=郷閭。村里、ふるさと。「閭」は「村の門」のことで「むらざと」とも訓む。閭閻(リョエン=むらの出入り口の門と、むらの中にある門)、閭伍(リョゴ=古代のむらの組合、五人組)、閭闔(リョコウ=むらざと、風の別名)。

4)ショウジョ=庠序。中国古代の学校。庠校(ショウコウ)ともいう。「庠」も「序」も「まなびや」。孟子に「夏曰校、殷曰序、周曰庠」とある。邑庠(ユウショウ=県の学校)、郡庠(グンショウ=郡の学校)、庠序之教(ショウジョのおしえ=学校教育)。

5)メンジュウ=面従。うわべは従っている風を装うこと。面従後言・面従腹背がもと。四字熟語問題で問われればまず答えられるでしょうが、唐突に「メンジュウ」と問われ音だけでこの漢字が浮かぶかどうかです。意外に出ないが「メンジュウ」と言えばこれしかない。この際慣れておきましょうね。

ア)彊く=つよ・く。「彊い」は「つよい」。「つよい」はほかに、「驕い、毅い、伉い、侃い、倔い、剛い、勁い、勇い、勍い、梗い、梟い、禦い、豪い、遒い、驃い、驍い」がある。音読みは「キョウ」。「つとめる」とも訓む。自彊(ジキョウ)、彊忍(キョウニン=我慢しにくいことをあえて我慢する)。「疆」(さかい)は別字です。要注意。

イ)療す=いや・す。「療やす」とも。表外訓み。病気や不快な気持ちをなおす。療飢(リョウキ=飢えをいやす)、療妬(リョウト=しっとの病気をなおす)。「いやす」はほかに、「医やす、愈やす、痊やす、瘉やす」がある。

ウ)拯う=すく・う。音読みは「ジョウ」。水中に落ちたり、災難に遭ったりした者をすくいあげること。拯救(ジョウキュウ=すくいあげて助ける、拯恤=ジョウジュツ=)。

エ)非り=そし・り。「非る」は「そしる」。みとめない、正しくないこととして退ける。非謗(ヒボウ)=誹謗、非辜(ヒコ=むじつのつみ、無辜)、非毀(ヒキ)、非笑(ヒショウ=そしりわらう、誹笑)。「そしる」はほかに、「詆る、讒る、刺る、詛る、詬る、誣る、譖る、譛る、貶る、譏る、毀る、誚る、誹る、謗る」がある。

オ)奚何=いかん。事実や状態を尋ねる疑問視。やや特殊か。通常は「奚若」。

(解釈)また、問う。朕は聞いている、最上の智者が人民の利益幸福を図る場合、必ずしも礼に順わないし、また、最高の賢者が国家を強大にする場合、必ずしも従来の旧法に則ることもしないと。言うなれば、飢餓に苦しむ者が空腹をいやすには、鼎を並べて似た美味しい豪華なご馳走を望む必要はないし、水に溺れている者を助けるには、規則正しい歩き方などをやっている場合ではないか。三王や五覇はそれぞれ政治や教化の方法を異にしているが、共に立派な功業を成し得たのはこのことによろう。今、農業も戦争も十分におさまっていないのに、文儒たちは互いに競い合い、本道を棄てて末節に走り、その弊害はいよいよ甚だしくなっている。昔、宋の臣墨翟(ボクテキ)は礼楽を卑しんで道を損なうものとみなし、漢王の宣帝は詩賦をもって鄭や衛の国々の淫声になぞらえた。これは先聖の道を非とし、法を侮るものであろうか、それとも政道を十分に極めていて、意図的にそうしたのであろうか。今、朕は、人民をして農耕や養蚕に励むようにさせて、村里の人々に弓術や騎馬を習わせ、五都を回復して学校の教えを謹み、人民はみな豊かに富み学問第一に帰せしめたいと願っている。その方法とはどのようにすればよいだろうか。真に思っていることを遠慮なく述べよ。

世の中を夷らかに治める一番の特効薬は教育でしょう。学問をする姿勢こそが国を発展に導くのです。高校無償化、子ども手当て、若年層へのばらまき施策は財政難の折には愚策に見えますが、方向は間違っていないと思います。所詮は教師の人件費などに消えて行くお金ですが、先行投資の意味合いが強いのも教育なのです。先々に花が開き、実を結ぶ。その過程が楽しい。鷹揚に構えて子供の成長を眺められる世の中がいいのです。いや、結局は無駄に終わってしまうかもしれない。それは誰にもわからない。しかし、その余裕こそが社会の饒、延いては活力を生む。だから、子供に何を教え、どんな社会人に育てるのか。これが最も重要なんです。大人の責任なんです。

子供らは手を掛けてあげればきちんと答えてくれる。正面から向き合えば、まともに応じてくれる。そんな人間を作りましょうよ。そして、彼らはそれぞれの求める幸せに向かって只管邁進すればいいのです。余計なことを考えずに。。。お為ごかしではない、自分自身の為に。藝術、文化、スポーツ、なんでもいいから好きな道に進むのもあり。科学者、起業、政治家でもなんでもいいや。いろんな奴がいて、いろんな人間がいて、社会の厚みが増す。忘れてならないのは、世代間のバトンの引き継ぎ。自分が生きた社会は先人が築き、後輩が又生きなければならないという明確な意識です。

文中の墨翟とは戦国時代の思想家、墨子のことです。孔子の儒教を「差別の愛」だとして、氾愛兼利を説き、墨家集団を率いた。

漢の宣帝が詩賦を譬えた「鄭衛」の音楽とは、国を亡ぼすような下品でみだらな音楽とされた。いずれも春秋時代の国名で、「鄭衛桑間」「鄭衛之声」「桑間濮上」「濮上之音」「桑濮之音」という成句があります。

「地方の顔」知事はセールスマンか?=王融「永明十一年、策秀才文五首」3

中国名文を囓んで玩わうシリーズは、南朝斉の王融が作成した「永明十一年、策秀才文五首」(永明十一年、秀才に策する文 五首=明治書院発行「新書漢文大系35 文選<文章篇>」)の3回目です。本日のお題は「地方官僚の登用」。地方の時代にいかにして能力を発揮させるか?これも大きな問題です。

【3】
又問う。昔者賢牧陝を分かち、良守共に治め、ア)下邑必ず其の風を樹て、一郷以て績を為す可し。旦に1)メイキンを撫し、日に2)ジュンシュを置く有るに至る。文にして害無く、厳にして残なわれず。故に能く人を阽危(エンキ=崖っ縁)の域より出だし、俗を仁寿の地にイ)す。是を以て賈誼言う、天下の悪有るは、吏の罪なり、と。頃(このご)ろ深く珪符をウ)び、妙に銅墨をエ)ぶ。而るに春雉未だ馴れず、秋螟散ぜず。入りて朕が前に在れば、其の智略を湊め、出でて城守を連ねては、オ)闕爾として聞こゆる無し。豈薪槱(シンユウ=柴を焚いて天の神を祭る祭事、転じて良賢を発掘すること)の道未だ弘からず、網羅の目を為すこと尚おカ)かなるか。意を悉し辞を正しうし、執事に侵さるること無かれ。

1)メイキン=鳴琴。琴を弾くこと。鳴絃・鳴弦(メイゲン)ともいう。風流な楽しみの代表格。

2)ジュンシュ=醇酒。薄めていない濃厚な味の酒。淳酒ともいう。享楽の代名詞。

ア)下邑=カユウ。天子・諸侯・豪族らが治める領地のこと。「邑」は「くに」「むら」とも訓む。邑宰(ユウサイ=村長)、邑入(ユウニュウ=税収)、邑落(ユウラク=むらざと、邑里=ユウリ=)、邑憐(ユウリン=うれえおしむ、悒憐)。

イ)躋す=のぼ・す。高い所へ登らせる。「躋る」は「のぼる」。他動詞と自動詞の違いで訓み分けましょう。音読みは「セイ」。躋升(セイショウ=高い所にのぼる)、躋攀(セイハン=高い所によじ登る、攀躋=ハンセイ=)。

ウ)汰び=えら・び。「汰ぶ」は「えらぶ」。表外訓み。「よなげる」と訓むのが一般的。

エ)簡ぶ=えら・ぶ。選び出す。「揀」(カン)に当てた用法。簡擢(カンタク=選び抜き出す)。

オ)闕爾=ケツジ。欠けていて不完全なさま。闕如(ケツジョ)、闕焉(ケツエン)、闕然(ケツゼン)ともいう。「闕」は「かける、かく」と訓む。「爾」は状態を表す形容詞に付く助詞。徒爾(トジ=いたずらなさま)、卓爾(タクジ=すっくりと高いさま)、莞爾(カンジ=にっこりと笑うさま)。

オ)簡か=おろそ・か。やや特殊な表外訓み。手を抜いてあるさま。「慢」と同義。繁簡(ハンカン)、「簡慢」(カンマン=人との対応や仕事を行うのに手数を省いていい加減に扱うこと、怠慢、手抜き)。

(解釈)また問う。昔、賢明な太守が陝の地で東西に分けて治め、賢良な長官は天子に協力して政事を執り、かくして、どの領地も美風をうちたて、その郷邑も治績を上げることができた。そして、朝に琴を弾じて堂を下らず、日ごと混じりけのない良い酒を飲宴するまでになった。法度を守っても人を害することなく、厳粛な政治を行っても下々を損なうことはなかった。この結果、人々を危難の域から救い、平俗な人々をして仁徳を身につけて命を長からしめたのである。賈誼が「人々が不善であるのは役人の罪による」と断じたのはこのことによる。このごろは、郡守や県令の任命を極力慎重を期して行っている。それなのに、まだ十分な成績は上がらず、春になっても雉は馴れ親しまず、秋になってもずい虫は逃げ出さないというありさまである(季節が本来の姿をみせないほど落ち着かない世の中になっている)。朝廷に居て朕の前では智略を尽くした政策を述べるくせに、ひとたび地方に赴任して長官となるや功績は上がらず、まったく噂にも聞こえてこない。賢牧を登用するの道がまだ狭く、人材を選ぶ網の目が今もなお粗いからであろうか。汝らは意を尽し言葉を正しくして奉答し、担当官にその正論が枉げられないように述べよ。

「珪符」(ケイフ)は「諸侯の身分を示す、玉と、そのしるし。転じて、諸侯の位。また、官位を与えること」。「銅墨」(ドウボク)は「銅印墨綬ともいい、銅製の印と、黒色のくみひも。県令の身分の象徴」。いずれも地方官として任命することです。中央から地方に派遣しても、私利私欲を貪るばかりの無能な役人ども。どうすれば仕事をするようになるのか。地方分権の時代にあって知事や市長ら自治体の首長の役割は確実に増していますが、なかなか、一国一城の主になると天狗になってしまうせいか、思うような業績を上げる人が少ない。セールスマン宜しく自分の売名行為ばかりを優先して国政に打って出ようとする●●●●知事。。。。住民が鉄拳を啖らわすしか手はないのですが、政治に参加する意識をどう養えばいいのか。仕事をしてもらうのではなく、仕事をさせる。仕事をしない奴は、次の奴と取り換える。

かつて韓愈が名伯楽がいないと嘆きましたが、名馬はいるんです。選挙民こそが名伯楽にならなければならないのです。調子のいい弁舌ではない、外見ではない、本質を見極める炯眼が求められます。そのためには、日夜精進するしかないですよね。この国の行く末を案じる人々が増えれば増えるほど、劇的に変わると思いま~す。何を精進するかはひとそれぞれでしょう。このblogを毎日読み込むのも「ある」と思いま~す。

ちなみに、「賈誼」(前201~前168)は前漢の文帝時代の政治家。青年期から詩書に長け、文帝に仕え、最年少の博士を経て太中大夫となり、暦・服色・官名・法律・礼楽などについて建議した。彼の才能を認めた文帝は、公卿の位に昇進させようとしたが、高官たちの中傷にあって実現せず、かえって長沙王の太傅に左遷された(前176)。1年余りで、文帝に呼び戻されて、その末子である梁の懐王の太傅に任じられ、国政について文帝の諮問も受けるようになった。「治安策」や「鵬鳥賦」など数多くの名文を残している。「文選」にも採用されていますが、残念ながら「新書漢文大系シリーズ」(明治書院)では掲載がありません。「新釈シリーズ」を手に入れる必要があります。

駄弁るだけの冗員は切るのみ!=王融「永明十一年、策秀才文五首」2

中国名文を囓んで玩わうシリーズは、南朝斉の王融が作成した「永明十一年、策秀才文五首」(永明十一年、秀才に策する文 五首=明治書院発行「新書漢文大系35 文選<文章篇>」)の2回目です。本日のお題は余剰官員の整理。古くて新しい問題です。現代日本ならさしずめ公務員制度改革ですね。さぁ、枝野行政改革担当大臣、どう答える?

【2】
又問う。惟れ王の国を建つるや、惟れ典(つね)に官に命ず。上は星象(セイショウ)に叶い、下は川岳に符(かな)う。必ず1)テンシャク具に脩まり、人紀ア)く事あるを待ちて、然る後才に「氵+公」(よ)りて職を授け、務めをイ)りて司を分かつ。是を以て五正朱宣に置きて、下民忒(たが)わず。2)キュウコウ黄序に開きて、庶績其れ凝る。周官三百、漢位兼ね倍す。ウ)を歴て以降、游惰エ)に繁し。若し閑冗オ)く弃(す)つれば、則ち3)オウギ已むこと無く、カ)冕笏澄まずんば、則ち坐談弥々積まん。何の則か脩む可き。善く其の対を詳らかにせよ。

1)テンシャク=天爵。人が定めた位・名誉である「人爵」に対して、天から授かった爵位。つまり、自然に備わった人徳のこと。

2)キュウコウ=九工。中国古代の国務大臣の総称。大人は司空(総理)以下、九人いた。九官(キュウカン)ともいい、後に九卿(キュウケイ)と呼ぶようになった。

3)オウギ=横議。道理にはずれて勝手な議論をすること、また、そうした議論。「横」には「わくをはみ出る、道理に従わず勝手である、異常で無茶なさま」との意味がある。

ア)咸く=ことごと・く。おしなべて皆。「咸」は「みな」とも訓む。

イ)揆り=はか・り。「揆る」は「はかる」。はかりごと、計画の意。百揆(ヒャッキ=もろもろの計画、国の政治)、首揆(シュキ=国の計画を主宰する宰相)、揆度(キタク=全体をおしはかる、揆測=キソク=)、一揆(イッキ=程度、種類、方法などが同じであること)。

ウ)茲=ここ。「ここに」「これ」「この」とも訓む。音読みは「シ」「ジ」。「しげる」との訓みもある。今茲(コンジ=今年)。

エ)寔に=まこと・に。本当に。音読みは「ショク」。

オ)畢く=ことごと・く。全部、もれなく。「ことごとく」はほかに、「悉く、咸く、侭く、儘く、尽く、殄く、殫く、竭く、悉尽」。「つくす」「おわる」「おわんぬ」とも訓み、音読みは「ヒツ」で、熟語は畢業(ヒツギョウ=卒業)、畢竟(ヒッキョウ=要するに)、畢世(ヒッセイ=一生涯を掛けて、畢生)、畢命(ヒツメイ=死ぬこと、命の限り)、畢力(ヒツリョク=熱心に努力すること)。

カ)冕笏=ベンコツ。官僚をいう。「冕」は「官僚の着ける礼装のかんむり」で、「笏」は「官僚が天子に拝謁する際に持つ板(日本ではシャク、さく)」。いずれも官僚の代名詞、否、代“名刺”。冕者(ベンシャ=官僚)、冕服(ベンプク=官僚の制服)、冕旒(ベンリュウ=かんむりの前後に垂れ下げる飾りの連珠)、袞(衮)冕(コンベン=袞服と、飾り玉のある下げてある礼装用のかんむり、あるいはその総称、高級官僚そのもの)。

(解釈)また問う。王者が建国した場合、賢良に命じて官職を任じる。その職は、上は天にある星辰に適合し、下は地にある川や山に符合するものまでさまざまであるが、必ず仁義忠信の天爵がすべてそなわり、人の守るべき綱紀もすべて実践されるのを待って、その後初めてそれぞれの才能にふさわしい官職を授け、任務を勘案して職司を分かち与えるものである。かくして金天氏少昊は五正の官を置いて人民は道に違わず、帝舜は九官を開き設けて多くの功業が成った。ところが、周代で300あった官職が、漢代になってほとんどその二倍に膨れ上がった。そしてこれ以降、現在に至るまで遊び怠ける役立たずの官僚が大層増えてしまった。もしも無益な官職や余剰人員をのこらず廃棄したならば、(既得権益者たちが)勝手な議論を囂囂と噴出させてやまないだろう。かと言って、閑職冗員を整理しなければ、それこそ仕事もしないで無駄なおしゃべりの類ばかりがいよいよ盛んになるであろう。どのような方策を取ればよいものか、諸君は詳しくこの問いに奉答せよ。

必要かどうかの吟味を仔細にすること無く、徒に「仕事」を増やして、官僚の数を増やす。ポストあって責任なし――。かつての日本の霞が関と同じですなぁ。

それにしてもキャリア官僚の給料高いですよ~。若い頃はそうでもないけれども、本省の課長クラスで幾らもらっているかご存知でしょうか?リアル数字は敢えて出しませんがとんでもない高給取りですよ。しかも、再就職、年金……リタイアしてからがまた手厚いことこの上なし。人事院勧告制度が間違っています。民間賃金に準拠しているというのですが、この「民」が曲者。所謂、大企業をベースとしている。これじゃあ、「世の中」の実態を正確に表していないですよね。とにかく恵まれ過ぎ。

それに比して彼らの仕事内容と言えば、愚にもつかない補助事業を創設して地方自治体を手懐けるばかり。将たまた国会議員を籠絡して思うがままの「金」を操る仕組みを画策する……。なかには高邁な理想を掲げて切瑳琢磨している若手官僚もいますが、 競争意識の無い“安住の地”で次第に腐っていくのが目に見えている。

政治家も同じです。衆議院、参議院の議員数は多過ぎやしませんか?日本のような狭い国土に比して明らかに冗員だ。高い報酬払ってまで隈無く地域の代表なんて必要があるのでしょうかね。

することがなくて駄弁っているだけの無駄な役人は切るべし。それしかないでしょ。無暗に切れないなら家族が路頭に迷うわない程度にまで給料を下げるべきでしょ。

秀才よ、危機を乗り越える策を考えてくれ…=王融「永明十一年、策秀才文五首」1

明治書院発行の「新書漢文大系35 文選<文章篇>」を読んでいたら、皇帝が官吏候補として人材登用を図る際に出題する問題文が出ていました。それが南朝斉の王融(467~493、字は元長)が作成した「永明十一年、策秀才文五首」(永明十一年、秀才に策する文 五首)。後の隋代に始まる官吏登用試験、「科挙」に通じる「原型」のなのでしょう。

諮問調の文章で、政治問題を取り上げてその解決策を自由に答えさせるものですが、現代社会でも立派に通用する難問ぞろい。時の皇帝が握髪吐哺、一饋十起ならぬ、人材を真剣に求めていた姿が髣髴とします。斯くも皇帝は日夜、難局を克服するため課題に向き合っていたのですね。

翻って、日本の政治家。彼らも選挙に出ることばかり考える前に、これらの問題について深く考察させてから、答えをまとめた者だけを候補者とした方がいいのではないかと思えますね。「被選挙権」はだれでも平等に在る権利ですが、その任に堪えるかどうかは別問題。義務も祁いにこなさなければならない。出られるから出るというのでは単なる子供にすぎない。別の人気があれば選挙民を瞞すことは簡単。しかし、政治家は人気じゃない。弁舌じゃない。顔じゃない。美人過ぎるかどうかじゃない。基礎問題を積み重ねた応用問題が解けて、その上で、その解答を実行に移せるかどうか。深い洞察力。迅速な決断力。果断な行動力。あらゆる面で実力が問われるのです。簡単に選挙になんか出られるものではない。出られるけど出ないのが大人なんです。

王融は当時の大貴族、王氏の家に生まれ、幼少期より文才があり神童とうたわれ、皇帝の信頼も厚かった。ところが、斉の武帝の跡継ぎに竟陵王蕭子良を立てようと謀って失敗。鬱林王蕭昭業が位に即くと死を賜りました。享年27歳の若さでした。可惜才ある若者の早過ぎる死でした。

弊blogでは中国名文シリーズを敢行していますが、新シリーズとして、この難問5題を順次味わうことといたしましょう。文章としても格調の高い一品。そして、単に文章として味わうのみならず、その解答を現代日本の政治問題に置き換えて考えてみるのもいいでしょう。その代わり「正解」はないですよ。んなもんあったら、鳩山首相に成り代わってこの国の政治を動かせますよ。

まずは第一問。そのテーマはずばり「経済・農業の振興策」。「秀才」は筆記の一次試験に合格している者。いわば配属をどこにするかを決めるため、論文・面接の二次試験を受けさせて適性を見極めようというのでしょう。
おっと、漢字の問題も忘れずに……。

【1】
秀才に問う。朕ア)をイ)り天に御し、枢を握り極に臨む。五晨空しく撫(したが)い、九序未だ歌わず。政を明台に思い、道を宣室に訪うに至りて、墜つるが若きウ)み毎に勤め、傷つくるが如きの念い恒に軫(めぐ)る。故に貧をエ)み賦を緩くし、徭を省き獄を慎む。幸いに四境慮り無く、三秋式(もっ)て稔りあり。而うして黍多く稌(いね)多きも、両穂の謡を興さず。褐無く衣無く、必ず七月の嘆きをオ)つ。豈政を布くこと未だ優ならざるか。将た1)ヒミン業を難んずるか。爾を朝に登(あ)げ、是に宏議を属す。心を同じうし、以て厥のカ)を匡さざること罔かれ。

1)ヒミン=罷民。つかれた人民。「罷れる」は「つかれる」。

ア)籙=ロク。未来を予言した文。予言書。未来記。権力の象徴であった。讖(シン)。胡籙(コロク=やなぐい。矢を入れる道具)というのもある。

イ)秉り=と・り。「秉る」は「とる」。権力を握ること。音読みは「ヘイ」。秉燭夜遊(ヘイショクヤユウ=人生を享楽的に過ごすこと)、権秉(ケンペイ=権柄)、秉彝(ヘイイ=天から与えられた正しい道を守ること、秉夷)、秉権(ヘイケン=権力を握る)。

ウ)惻み=いた・み。「惻む」は「いたむ」。いつも心について離れない、ひしひしと心に迫る。音読みは「ソク」。「惻隠之心、仁之端也」(孟子・公上)。

エ)恤れみ=あわ・れみ。「恤れむ」は「あわれむ」。気の毒な人に思いをめぐらす。音読みは「ジュツ」。恤民(ジュツミン=たみをあわれむ)、恤兵(ジュッペイ=金品を贈って出兵兵士を慰問する)。

オ)盈つ=み・つ。みちる、いっぱいになる。たっぷりあるさまをいう。音読みは「エイ」。盈満之咎(エイマンのとがめ・とが=物事が極点に達すればかえって災いを招くこと、盈則必虧=エイソクヒッキ=、盛者必衰=ジョウシャヒッスイ=)、盈溢(エイイツ=みちあふれる、盈羨=エイセン=)、盈厭(エイエン=みちたりる、満足する)、盈科(エイカ=水の流れが穴いっぱいになってから先へ進むように、学問も一足とびに高い所に至ろうとせず、順を追って進めるべきでるというたとえ)、盈貫(エイカン=弓をいっぱいに引き絞ること、転じて罪に罪を重ねること)、盈虧(エイキ=みちかけ、盈虚=エイキョ=)、盈月(エイゲツ=満月)、盈縮(エイシュク=みちることと、縮むこと)。

カ)辟=きみ。人々を平伏させておさめる人。君主。また、その位。音読みは「ヘキ」。辟王(ヘキオウ=君主)、復辟(フクヘキ=君主の位に復帰する)、辟公(ヘキコウ=天子に仕える公卿・大臣、天子の諸侯)、辟書(ヘキショ=天子や役所からの呼び出し状)、辟雍(ヘキヨウ=周代、天子がたてた大学、礼義・音楽・古典などを教えた)。

(解釈)汝ら、秀才の諸君に策問する。朕は天命をうけ天子となって天下に君臨した。しかし庶政はいまだ全からずして春夏秋冬の季節は空しく移り変わるのみ。六府三事の秩序を謳歌するほどには治まりきってはいない。明堂におっては政事について憂思し、宣室におっては政道のことを問い尋ねるのであるが、いつも塗炭の苦しみに落ちるような思いで勤め、傷つき痛むような感情が心中にめぐり流れる。このため、貧民を慈しみ税を軽くした。そして、徭役も減らし刑獄もなるべく慎むようにしたところである。幸いに辺境は平穏で夷蛮戎狄の族に特段の動きはない。秋の実りは豊かであった。かくして黍や稲など五穀の収穫は満ち足りたものであったのに、いま、人民はめでたい「両穂」の謡を歌わないのはなぜか。「褐もなく衣も無い」と嘆じるばかりで豳風(ヒンプウ)「七月」の嘆きでいっぱいであるのはいかなることであろうか。政治を敷き行ってまだ十分でないためなのであろうか、それとも疲弊した人民は産業を起こしがたいためなのであろうか。ここに、諸君を朝廷に登げ、大義に参ぜしめて意見を求めたいのである。全員が心を同じくして、この君を救い正して欲しい。

「両穂の謡」は豊作をよろこぶ歌。麦穂両岐(バクスイリョウキ=麦の穂が二またになって実るさまをいう)という言葉が「後漢書・張堪伝」に見えます。豊作の前触れ、すなわち善政をたとえます。「豳風(ヒンプウ)」は詩経の一篇で、このうち「七月」は冬支度前の用意をする時期を表す。そこそこの収穫があっても思う存分食べることはできない。それはこれから始まる長い冬に備えておかなければならず、とても心からは喜べないというのです。

いやはや今の日本そのものですね。将来不安から生活意欲が縮んでおり、何をするにも楽しくない。年金はもらえるのかしら?消費税が上がるのではないかしら?給料は上がらない、会社も潰れる?溢れるのは老人ばかりで、子供はどこにもいやしない。。。こんな時代にどうして「豊作を喜ぶ歌」などが歌えるものか。「冬の時代」に備えて萎縮するしかないではないか。多くの日本国民の共通の叫びです。

大きく立ちはだかるのは「格差の問題」。難局を乗り切るためには、全国民が一丸とならなければいけないのに、一部の富裕層の潤沢な生活ぶりが、国民の間に不満を募らせているのです。頑張った人が成果を得て収入を増やすという当たり前の社会にしなければいけない。チャンスは均等に与える。

特効薬は税制でしょうね。金持ち優遇をやめて(累進課税の強化)、それと同時に所得税、住民税、法人税など、あらゆる税目を減税する。これが先行的に大前提と言えるでしょう。そして、目的を明確にしたうえで消費税など増税をする。消費をすることが国を支えるのだという意識を植え付けるのです。無駄なものは買わないように生活様式も切り替えるのです。絶対に必要のない物まで買っているはずですから。

消費税は国民に真に必要な「筋肉質の生活」を求めることとなるでしょう。しかし、それは決して「萎縮」することを求めるのではない。「楽しい国づくり」に参加するという明確な意識付けをすることなのです。そこには教育も必要でしょう。子供だけではない。各世代に於いて改めて「教育」することが求められる。「減税」と大喝一声すれば、国民のやる気は引き出されると思います。「幸せ」の定義の再構築も必要だ。表層の物質的なものだけではない、もっと内面の、心の安寧を優先させることも大事でしょう。新しく生まれ変わるくらいの気持ちで人生を謳歌する。そんな契機としたいものです。

政権交代は単なる「創業」に過ぎず=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」11・完

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の11回目、最終回です。長々と連載しましたが、実際にはそれほど長いものではありません。一気に読めば分かりやすいのでしょうが、聊か細切れで「冗長感」も否めない絮さが生じたかもしれません。

蘇軾の論を借りて迂生なりの現代日本の政治について見解を最後にまとめてみます。

【11】
夫れ法を以て天下を毒する者は、未だ反って其の身及び其の子孫に中たらざるもの有らず。漢武・始皇は、皆殺に果なる者なり。故に其の子扶蘇の仁の如きは、則ち寧ろ死するも請わず。戻太子の1)カンの如きは、則ち寧ろ反するも訴えず。訴えの必ず察せられざるを知ればなり。戻太子は豈に反を欲する者ならんや。計、2)ブリョウより出ずるなり。故に二君の子たる者は、死と反と有るのみ。

李斯の知は、蓋し以て扶蘇の必ず反せざるを知るに足らん。吾又表して之を出だし、以て後世人主の殺に果なる者を戒む。

1)カン=悍。気が強く荒々しいこと。旁の「旱」(ひでり)は「からからにかわいていること」ですので、心がそうした状態にある、つまりはうるおいがなくむき出しの性分であることを言う。「あらい」「あらあらしい」「つよい」「おぞましい」などとも訓む。訓読み問題で要注意の漢字です。悍驕(カンキョウ=気が荒くわがままである)、悍室(カンシツ=気の荒い妻、悍妻=カンサイ=)、悍馬(カンバ=気が荒く、荒々しい馬、あばれ馬)、悍婦(カンプ=気の荒い女)、悍勇(カンユウ=気が荒く、勇ましい)、悍吏(カンリ=荒々しく心根の悪い役人)、悍戻(カンレイ=荒々しくて道理にはずれている、乱暴である)、潑悍(ハッカン=短気を起こしやすいさま)、精悍(セイカン=顔つきや動作・性質が激しく鋭い)。

2)ブリョウ=無聊。「ムリョウ」とも読む。こだわりがあって楽しまない、なんとなく気が晴れない、味気なさ、たいくつであること。事が割り切れずに不愉快なさま。「聊」は「いささか」とも訓む。聊爾(リョウジ=かりそめに、ふとした思い付きで)、聊頼(リョウライ=たよりにする、寥頼=リョウライ=)、聊浪(リョウロウ=何ということなくぶらつく、気ままにぶらつく)。

(解釈)そもそも法律によって天下に毒を与えた者で、自身やその子孫が逆にその毒にあたらなかった者はいない。漢の武帝と始皇は、どちらも思い切って人を殺した人物であった。だからその子供が、扶蘇のようなおとなしい人の場合は、死を選ぼうとも、再下付のような要求はしなかった。だが戻太子のような気の荒い人の場合は、反逆の道を選ぼうとも、無実を訴えはしなかった。訴えたところで調べてはもらえないことが分かっていたからである。戻太子が反逆を望む人物であったわけがない。不安から起こった計画だったのである。だからこの二人の君主の子供となった者には、死か反逆かの道しかなかったわけである。

李斯の知恵は、扶蘇が絶対に反乱を起こさないことを見抜くに十分であったろう。だから私はまた、このことをはっきり表し、それによって後世の君主の思い切りよく人を殺す人たちに警告するのである。

明治書院の「背景」(P146)によると、「厳しすぎる法律、死刑の乱用が扶蘇を萎縮させ、李斯らの計略をまんまと成功に導いた。それは始皇自らの手で、自らの大業を一炊の夢に導いたことにほかならない」と結んでいます。

秦が天下統一を果たしたのに、始皇帝が死んでわずかの間に滅亡した。扶蘇という有能な天子がいたのにもかかわらずその命脈は短かった。国家は成立した途端に滅亡の芽を孕むのである。「創業は易く守成は難し」―。これは「貞観之治」と称され、天下太平を謳歌した唐代中期、時の太宗が臣下の魏徴に尋ねて得た答えです。「貞観政要」に記されています。恐らく秦の始皇帝・扶蘇の歴史も含意されていたものでしょう。

蘇軾も同じことを言っているのですが、その滅亡の芽は商鞅の「新法」にあったのだと喝破します。「恐怖政治」と言ってもいいでしょうか。それを基に李斯が策略を仕掛けたのです。王安石も同じことを始めた。厳しい法律によって委縮させて言うことを聴かせる。いわば守旧派の抵抗ですね。自民党と民主党の対決です。新しい勢力は古い勢力を駆逐するのです。蘇軾は守旧派の代表となった。どっちがいいのかは分かりませんね。「白」か「黒」かという単純なものではないでしょう。既得権が剝奪される側は抵抗しますよね。儒教でいう宥恕の政治とか何とか理屈を捏ねていますが、要は自分らの立場が危ういということに尽きる。

何も人民に媚びることはないですが、やはり教育がセットだということは繰り返しておきます。為政者が人民を手懐けようと思えば教育こそ疎かにするべきではないのです。

民主党が子ども手当てや高校教育の無償化などの新規施策を打っていますが、間違った方向だとは思わない。現時点では金の「ばらまき」の側面しか見えませんが、子供の成長に社会が手を差し伸べ、そして、その子供が社会の成長に恩返しをする。そうした「好循環」の流れがしっかりと意識できれば、国民は痛みにも耐え抜く覚悟ができると思います。一方的に苛辣な法律を制定するのではなく、それこそ宥恕の政治も実施し、国民一丸となって進む体制を作ってほしいと思います。明日への希望を繋ぐことができる。それが国家としての存在価値でしょう。

「創業は易く守成は難し」は、まさに民主党にこそ当て嵌まるのではないでしょうか。政権交代は単に「創業」でしかないですからね。「守成」はこれからが本番です。あっさり「転覆」しないように手は打たなければならないのですが、鳩山、小沢じゃあ持たないでしょうな。さっさと次にバトンを渡すべきですね。

少し論理の飛躍があることをお許しください。少し疲れ気味です。。。。あくまで漢字学習blogであるので、全くの門外漢である法律論を展開するのは無理がありました。。。失礼しました。

木を徙して人民の信を得る政治=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」10

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の10回目です。この冒頭で10回シリーズと申し上げたのですが、うまいこと終わらせることができませんでした。次回の第11回が最終回となります。ご容赦ください。

【10】
鞅、信を1)シボクに立て、威を棄灰に立つ。其の親戚・2)シフを刑して、3)ソクヨウ無し。威信を積むの極は、以て始皇に至る。秦人其の君を視ること、雷電鬼神の測識す可からざるが如し。古は公族罪有らば、三たびア)して而る後刑に致す。今、人をして其の太子を4)キョウサツして忌まず、太子も亦敢て請わざらしむるに至るは、則ち威信の過ぐるなり。

1)シボク=徙木。「徙木之信」(あるいは「移木之信」)が故事成語(典拠は「史記」・商君伝)で「政治をする者は人民に対してうそをつかないことを明らかにすること、約束を実行するたとえ」という意。秦の商鞅が、法令を改めるとき、民衆の法令に対する信頼を得るため、市の南門にたてた木を北門にうつした者には懸賞金を与えると告げて、実際に移した者に約束通り賞金を与えたという。「徙」は「うつる」「うつす」と訓む。遷徙(センシ=うつる)、徙倚(シイ=少し動いては立ち止り、うろうろするさま、転じてだらしないさま)、徙宅(シタク=住居の場所を変えること、徙居=シキョ=)、曲突徙薪(キョクトツシシン=未然に災難を防ぐこと)、移徙(わたまし=貴人の転居を敬う言い方)。

2)シフ=師傅。道を教え導くもり役、先生。もともとは、周代の三公(太師・太傅・太保)と三狐(少師・少傅・少保)の総称で、天子の顧問や皇太子の教育係をつとめ、名誉ある高官であった。「師傅保」「師保」ともいった。「傅」は「かしずく」とも訓む。傅育(フイク=そばについていて身分の高い人の子を守り育てる)、傅説(フエツ=星の名、後宮で子を願う時に祀る)、傅会(フカイ=むりにこじつける、文章の論旨をまとめる)、傅婢(フヒ=そばについておもりをする女の召使)、傅姆(フボ=人の子を守り育てる婦人、傅母)。

3)ソクヨウ=惻容。いつも心に離れないようす。「惻」は「いたむ」とも訓む。惻然(ソクゼン=親身になってあわれみいたむさま)、惻痛(ソクツウ=親身になっていたみ悲しむ、惻怛=ソクダツ=、惻楚=ソクソ=、惻愴=ソクソウ=)、惻憫(ソクビン=親身になってあわれむ)、惻惻(ソクソク=ひしひしと心に迫るさま、また、あわれみいたむさま、親身になって心配するさま)、惻隠之心(ソクインのこころ=あわれみいたむ心のこと、孟子の言う性善説の根源)。

4)キョウサツ=矯殺。君主の命令だといつわりだまして殺す。「矯」は「いつわる」とも訓む。矯飾(キョウショク=表面だけをいつわりかざること)、矯制(キョウセイ=天子の命令を勝手に変更して天子の命令といつわって事を行うこと、矯詔=キョウショウ=、矯勅=キョウチョク=)、矯託(キョウタク=いつわってほかのことにかこつけること)、矯誣(キョウフ=事実を変えてごまかし、人を欺くこと、矯詐=キョウサ=)。矯枉過正(キョウオウカセイ=あやまちをなおして返って度を過ごし正しい状態でなくなること)=矯枉過直(キョウオウカチョク)=矯角殺牛(キョウカクサツギュウ)=庇葉傷枝(ヒヨウショウシ)もありますが、この場合の「矯」は「ためる」という意味(曲がった物を押し曲げて正しい形に直す)。

ア)宥して=ゆる・して。「宥す」は「ゆるす」。「なだめる」とも訓む。音読みは「ユウ」。宥坐之器(ユウザのキ=身近に置いて自分の生活の戒めとする道具)、宥赦(ユウシャ=ゆとりを持って罪を許す)、宥恕(ユウジョ=ゆとりをもってゆるす、大目に見る、宥貸=ユウタイ=、宥免=ユウメン=)、宥和(ユウワ=相手の心を刺激しないようになだめ和らげる)、寛宥(カンユウ=寛大な心)。「ゆるす」はほかに、「縦す、赦す、免す、聴す、容す、予す、侑す、允す、准す、原す、恕す、放す、貰す、釈す」などがあります。

(解釈)商鞅は木を動かすことによって信義を確立し、灰を道に棄てた者を処刑することによって権威を確立した。そしてその親戚や師匠を処刑して、気の毒に思う様子も無かった。権威と信義を積み重ねた挙句には、始皇の身にまで及んだ。秦の人民はその君に対して、雷電や鬼神のような、計り知ることのできない印象を抱いたのである。昔は諸侯の一族が罪を犯した場合には、君主が二度まで許せと主張して、それから処刑した。だがいまは自分の国の太子を謀殺しても、ものともしないありさまとなり、太子もまた命令の再確認を願わないというのは、権威と信義の行き過ぎというものである。

蘇軾の「弁論」もいささか絮くなってきましたね。「もう分かったよ」という感じもします。要するに、王安石の新法では世の中を治めきれないということでしょう。商鞅のくだりがまたまた述べられていますが、千数百年も前に起きた始皇帝と扶蘇の「事件」がいままた起ころうとしていると強い危機感を持っているのでしょうかね。

明治書院の「背景」(P114~115)によると、「商鞅は法律制定後、都の南門の三丈の木を、北門に移せば十金を与えると布告した。うますぎる話なので誰も手を出さなかったため、五十金に増額したところ一人が北門まで持って行った。商鞅は即座に五十金を支払った。次に法律を施行したところよく守られたという」とあります。「徙木之信」の説明ですが、この人民との信頼関係を築いたうえで法律を作るという話はいいと思います。公約を掲げて選挙で勝ってそれを実行に移して信頼を勝ち得る。そのうえで消費税増税なり国民にも痛みを共有するように持って行く政治の在り方はありでしょう。

続けて、「公族罪有り」については、『礼記』文王世子篇にエピソードが見えると述べたうえで、「公族が罪を犯したときは、君主の裁可を願う。そこで君主は『宥せ』と言う。裁判官は『有罪です』と答える。このやり取りの三度目に、君主が『宥せ』と言ったとき、裁判官は無言で退出し刑を執行する。公族用の手続きであり、忍びないが法は曲げられないことを表現するためである」とあります。裁判の「三審制」みたいですね。三回まで裁きの判定の余地を残し、それでだめなら諦めがつくというもの。縦令、身分が高い者の眷でも罪は罪として受け入れよということ。例外がないのが法の取り柄なのだから。ある意味、法家の厳格さの徹底ぶりを表わしています。法を守るとはこういうことなのです。これも理解できますね。情実といった依怙贔屓無しに一律に適用するのなら法の有難味はあるでしょう。しかし、バランスを欠いた法律の在り方がいま行われている――。押しつける法律。それが新法だ。

いよいよ次回が最終回。蘇軾が長々と論じてきた結論篇です。

理想は「忠恕」の効いた優しい政治=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」9

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の9回目です。悪知恵の働く人間は何時の世にも何処の国にも居るものです。場の空気を読むことに長けており、自らが手を下す範囲は最小限に抑える。それでいて相手が勝手に動いて最大限の効果を得ることができる。始皇帝の側近中の側近である李斯がまさに典型ですね。そして、商鞅の「新法」を真似た新たな「新法」が王安石によって制定された現在、第二、第三の「李斯」が現れるのではないかと蘇軾は危惧しています。

【9】
周公曰わく、平易にして民を近づくれば、民必ず之に帰せんと。孔子曰わく、一言にして以て終身之を行う可きもの有らば、其れ恕かと。夫れ忠恕を以て心と為し、平易を以て政を為さば、則ち上は知り易く、下は達し易し。売国の奸有りと雖も、其の1)ゲキに投ずる所無し。2)ソウソツの変、自りて発すること無し。其の令すれば行われ禁ずれば止むは、3)ケダし商鞅に及ばざる者有らん。而も聖人は終に此を以て彼にア)えず。

1)ゲキ=隙。すき、ひま、人間関係や国際関係のすきま、仲違い、争い。隙院(ゲキイン=人の住んでいない家、空き家)、隙宇(ゲキウ=あきや、隙屋=ゲキオク=)、隙罅(ゲキカ=すきま、隙欠=ゲキケツ=、隙孔=ゲキコウ=)=罅隙(カゲキ)、隙駒(ゲキク=戸の隙間からちらと見える、速く走る馬、速く過ぎ去る月日に譬える、隙駟=ゲキシ=)、隙欠(ゲキケツ=すきまの穴、油断)、隙地(ゲキチ=人の住まない地、空き地)。

2)ソウソツ=倉卒。忙しくあわただしいさま、にわかで思いがけないさま。倉倅、倉猝とも書く。「倉」は「あわてるさま、にわか」。「にわか」とも訓む。倉皇(ソウコウ=あわてていて落ち着かないさま、蒼惶=ソウコウ=、倉黄=ソウコウ=)。

3)ケダし=蓋し。漢文訓読語法。「~蓋…」は「~はけだし…」と訓む。「~は要するに…」「~はつまり…である」と訳す。後節の文頭に置かれ、前節の理由・原因を説明する。また、「たぶん、思うに」と訳す場合は、全体を見渡して推量する意を表す。通常は文頭、あるいは述語の前にくる。

ア)易えず=か・えず。「易える」は「かえる」。表外訓み。入れ替わること。易簀(エキサク=病床を取りかえる意から、人の死をいう。孔子の弟子の曾参が危篤の際、すのこが身分にふさわしくないと言ってとりかえさせて亡くなった故事)、易水歌(エキスイカ=楽府の一つ、荊軻が始皇帝の暗殺に向かう途中、易水で知人たちと別れる時に歌った)、易姓革命(エキセイカクメイ=王朝が変わること)、易地(エキチ=地位や立場を変えること)。

(解釈)周公が言った。「あらゆることを簡単にして民衆を近づけたならば、民衆は必ず懐いてくるであろう」と。孔子は言った。「一言で表現でき、一生の間それを心がけなくてはならないものがあるとすれば、まさに恕の徳であろうか」と。そもそも忠恕の心を我が心とし、簡単な道理によって政治を行ったならば、上の者は下の者の気持ちを理解しやすく、下の者は上の者へ考えを申し上げやすい。こうすれば、国を売りものにして私欲を満たそうとする悪者があっても、すきに乗ずる方法もないであろうし、突然の騒動も、どこからも起こりようがないであろう。命令が確実に実行され、禁令が確実に守られる点では、それは商鞅の法律に及ばないところがあるかもしれない。だが聖人はそれでも、その効果と、忠恕の政治の効果とを取り替えようとはしないのである。

いよいよ蘇軾の言いたい「政治の要諦」が全貌を現しました。厳しすぎる法律―。上の命令が即座に伝わり厳守される。しかし、「上意下達」がスムーズならそれでいいのか。孔子や周公はもっと寛大な心を民衆に示すことを説いているではないか。法律で縛るだけで動かせる民衆のエネルギーには限界があるだろう。その弊害は言うに及ばない。「法」という名の下に好き放題にふるまう「トンデモ野郎」を生んでしまうのだ。明治書院の「背景」(P143)によると、「儒家と法家の対比である。儒家は仁愛を柱にした徳知政治を理想とする。すなわち、法にしばられない、道徳主体による思いやりの政治である。対する法家は、命令のすみやかさ、法律の厳守が主体の政治であるから違反者に容赦はない。蘇軾は忠恕による王道政治を理想に掲げる」とあります。

為政者はもっと簡単に、もっと目線を下げて、政治を行うべきである。新法の厳しさはいずれ国家の滅亡を招くであろう。いよいよ、王安石の新法と商鞅の新法を明確に準えて批判します。それは次回にて。

「シチョウ」は有能?それとも無能?=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」8

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の8回目です。厳格すぎる法律をつくることが、国家にとって繁栄を齎すのか否かは永遠のテーマとも言えるでしょう。それじゃあ、厳しいからと言って緩めればいいのか?それも間違いですね。商鞅が定めた法律はその後の国家にとって戦略を立てる上で大いに手本となりました。いや、反面教師となりました。

【8】
李斯の胡亥を立て、復た二人を忌まざる者は、1)イレイの素より行われ、臣子の敢えて復請せざるを知ればなり。二人の敢えて復請せざるも、亦始皇の2)シカンにして回らす可からざるを知ればなり。豈に其の偽りなるをア)らんや。

1)イレイ=威令。権威のある命令。人を恐れさせるほどの迫力のある命令。「威」は「おどす」「たけし」とも訓む。遺黎、頤令、慰霊、違令、異例ではない。

2)シカン=鷙悍。たけだけしい、勇猛である。鷙勇(シユウ)、鷙猛(シモウ)、鷙強(シキョウ)ともいう。「鷙」は「小鳥や獣をつかまえる猛鳥のこと」で、「あらあらしい」「たけだけしい」とも訓む。鷙戻(シレイ=あらあらしくて道理に逆らうさま)、鷙鳥(シチョウ=荒々しい鳥、タカ・ハヤブサなどの猛禽類(=鷙禽シキン)、また、ツバメの別称の場合もある)。「鷙鳥累百不如一鶚」(シチョウヒャクをかさぬるもイチガクにしかず=無能な者が百人集まっても、たった一人の有能な者には及ばない、「鶚」は「ミサゴ」)、「鷙鳥は撃たざれば必ず其の首を俛す」(シチョウはうたざればかならずそのくびをふす=能力ある者は必要な時以外はそれを隠しているということ、能ある鷹は爪を隠す)。んでも、それじゃあ、「鷙鳥」は無能なんでしょうか、それとも有能なんでしょうか?どっちなのか?あるいは両方ともなのか?

ア)料らん=はか・らん。「料る」は「はかる」。表外訓み。おしはかること、思いを致すこと。「はかる」はほかに、「咨る、諮る、図る、課る、計る、量る、測る、諏る、詢る、商る、議る、仞る、度る、忖る、揆る、揣る、擬る、権る、猷る、略る、癸る、称る、籌る、衡る、評る、謨る、鈞る、銓る」など数多くがあります。同じ「はかる」でも意味は微妙に違うので要注意。きっちり整理しましょう。料峭(リョウショウ=春風の肌寒いさま、春寒料峭=シュンカンリョウショウ=は必須です)、料得(リョウトク=おしはかる)。

(解釈)李斯が次の天子として胡亥を立て、扶蘇・蒙恬の二人をものともしなかったのは、権力による命令が普段からよく行われており、臣下が命令の確認を願い出ようなどとはしないことを知っていたからである。扶蘇・蒙恬の二人が確認を願おうとしなかったのも、始皇が気の荒い性質で、一度怒らせたら取り返しがつかないことを知っていたからである。偽造を疑う余地などなかったのである。

明治書院の「背景」(P142)によれば、「ここで初めて、先の『或ひと』の発言が、事実のみを切り取ったものへの批判であり、時代の空気や心理を反映したものでないということが分かる」と解説しています。表面的な現象だけを見れば扶蘇・蒙恬が刑罰を受け入れずに反論するだろう李斯が分かっていたのに企みを敢行したようにも受け取れることは確かです。そうではなくて商鞅の布いた法が浸透していたので逆らうことはできやしない。そうした空気が曼延していたのだと見切っていたのです。

つまり、なぜ扶蘇・蒙恬が素直に李斯・趙高の企みに引っ掛かってしまったのかについては、彼らが駑鈍であったからではなく、国家の礎たる法がその“反乱”を許さなかったからだと蘇軾は言うのです。法を統括する為政者次第で臣下をどうとでも操ることができた。始皇帝はそうした強大な権力を握っており、少し知恵の在る者が先手を打てば、思い通りに動かすことができたのです。

李斯にはそれが分かっていた。天子の御言葉を示せば、扶蘇と蒙恬が逆らえないことがお見通しでした。さすがは知恵者です。それも二重の意味で賢い。先の先を読み切っている。ですが、さらにその先までは読み切れなかった。歴史とは分からんもんです。生きているすべての間を思い通りに操れた人なんて一人もいないのです。どこかで綻び、どこかで躓く。よもや国家が転覆しようとは努々夢想だにしなかったでしょうからね。。。

苛辣な法に嵌まった商鞅の「自縄自縛」=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」7

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の7回目です。商鞅が制定した苛辣な法律の数々。その最たるものが親子孫まで連座の対象とする「参夷」でした。臣下、人民で萎縮しない者はいないほどのプレッシャーを与えました。得意満面であった商鞅も実はその罠に嵌ってしまいます。そして、始皇帝も……。本日は、豪華な「オマケ」が付いています。久々に陶淵明の詩も味わいましょうね。

【7】
其の法の行わるるにア)たりてや、求めて獲ざる無く、禁じて止まらざる無し。鞅自ら以為らく、尭・舜にイ)して湯・武に1)せりと。其の出亡して舎する所無きに及び、然る後に法をウ)るの弊を知る。夫れ豈に独り鞅の之を悔ゆるのみならんや、秦も亦之を悔いたり。荊軻の変に、兵を持する者始皇が柱をエ)りて走るを熟視して、之を救う者莫きは、法重きを以ての故なり。

1)ガせり=駕せり。上に載せる、上に乗っかる、かけわたす、つのらせる。「架」と同義。ここでは、商鞅は自分が古の聖王である湯王や武王よりもまさっているということ。「駕」はもともと「馬に軛(くびき)をのせて、車の轅(ながえ)をのせかける」という意味。馬車で貴人が往来する意味が派生して「来駕」(ライガ)、枉駕(オウガ)の言葉が出た。駕御(ガギョ=人を思いのままに使いこなす、駕馭=ガギョ=)、駕籠(かご=ひとをのせてかつぐ乗り物)、駕跨(ガコ=馬にまたがる)、駕幸(ガコウ=天子のみゆき、行幸)、駕説(ガセツ=うまく議論を操る、いにしえの聖王の道理、また、その時代)、駕病(ガヘイ=病気を悪化させる)、駕輿(ガヨ=こし、駕轎=ガキョウ=)、凌駕・陵駕(リョウガ=地位・身分・能力で、他人をしのぎのりこえること)。

ア)方たりて=あ・たりて。「~に方たりて」と用いる。漢文訓読語法。「ちょうどそのとき」と訳すのが一般的。

イ)軼して=イツ・して。列から抜けて前に出る、ぬきんでる、列から抜け出てすぐれたさま。熟語は「逸」や「佚」とほぼ同じです。軼材(=逸材)、侵軼(=侵佚)。遺聞軼事(イブンイツジ=ぬけおちた昔話)、軼聞(=逸聞)。「荘子」(徐無鬼)に「超軼絶塵(チョウイツゼツジン)があり、「非常に軽やかに速く走ること」。やはり抜きんでているさまを言います。ここでは、古の聖王である尭舜をも上回ると自惚れているさまを言います。

ウ)為る=つく・る。表外訓み。「つくる」はほかに、「甄る、製る」もある。

エ)環りて=めぐ・りて。「環る」は「めぐる」。表外訓み。「めぐる」はほかに、「周る、週る、運る、盤る、般る、循る、旋る、回る、巡る、繞る、遶る、廻る、繚る、邏る、紆る、匝る、匯る、圜る、嬰る、帀る、徇る、徼る、斡る、槃る、樛る、浹る、蟠る、躔る、輾る、迴る」などもあり、数が多いです。環堵蕭然(カントショウゼン=家のかきねがみすぼらしく貧しさま)=環堵之室(カントのシツ)は必須です。

(解釈)商鞅の法律が実施された当時にあっては、天子が求めて手に入らないものはなく、禁じてやまぬこともなかった。だから彼はこれこそ古の尭・舜の時代よりもすぐれており、湯王・武王にまさるものだと自慢ありありであった。ところが彼が秦を逃げ出したときになってみると、泊めてくれる家がない。そのとき初めて法律を作ること弊害に気が付いたのである。いや、後悔したのは商鞅だけではない。秦の国そのものが悔やんだのである。荊軻の騒ぎが起きたとき、武器を持った者は始皇が柱の周りを回って逃げるさまを見ているだけで誰も助けようとはしなかった。法律が厳しかったからである。

蘇軾は、法律とは何かを問うています。厳格な法は為政者にとっては都合がよいが、それを受ける側に立ってみると「笊」なのです。法を作り治めるには厳格さは便利。だって一つの例外も無いんですから、考える、斟酌する必要がないから。莫迦でも出来ますわね。

ところが、為政者が法に裁かれる場面がないわけはなく、その時、彼らは自分の作った法によって雁字搦めの状態になる。自分だけ助けてくれとは言えるはずがない。例外がないのが「取り柄」なんですから。

明治書院の「背景」(P141~142)によると、「商鞅の法は厳しすぎたため、貴族や大臣に恨まれた。身の危険を感じた商鞅は亡命の途中宿を乞うが、主人に身元の定かでない者を泊めては、罪に連座することになると突き放され、『ああ、我が法の害、ここまでに至れるか』と嘆じた。ついに捕らえられ、八つ裂きにされた」とあります。裁く方が裁かれる方に立場を変えた途端、その本当の意味を感じ取ることになるのです。まさに自縄自縛です。人をはめる罠に自ら落ちたと言えるでしょう。

続けて始皇帝の場合。本文にある「荊軻」(?~前227)は、秦末戦国時代、燕の太子・丹の命を受け、始皇を暗殺するために派遣された刺客です。「首尾よく始皇の前に進み出た荊軻は、仕込んだ合口(=匕首)で始皇を追い回す。家来はただ茫然。秦の法律では殿上人は武器を帯びてはならず、他の家臣も命令がなければ殿上に昇れない。始皇に余裕はなく、臣下が勝手に殿に昇れば情状の余地は認められないため、誰も手出しができなかった」とあります。これこそが蘇軾の言う「秦も亦之を悔いたり」というわけです。人にやさしい臨機応変の法でこそ本当の法律なのではないでしょうか?

結局は荊軻の暗殺は未遂に終わります。ちなみに陶淵明が荊軻のことを詩に詠んでいます。折角ですから全文を掲げておきます(岩波文庫「陶淵明全集(下)」P66~70)。二度と戻らぬ不退転の覚悟はそのまま現実となりました。寧ろ失敗したことで荊軻の名は数多くの後世人の口に膾炙され、語り継がれています。九郎義経の「判官贔屓」は中国のここにもあったかぁ、といった感も強いですね。

「荊軻を詠ず」

燕丹は善く士を養う、
志は強嬴(キョウエイ)に報ゆるに在り。
百夫の良を招き集め、
歳暮に荊卿を得たり。
君子は己を知るものに死す、
剣を提げて燕京を出づ。
素驥 広陌に鳴き、
慷慨して我が行を送る。
雄髪は危冠を指し、
猛気は長纓を衝く。
飲餞す 易水の上、
四座 群英を列ぬ。
漸離は悲筑を撃ち、
宋意は高声に唱う。
蕭蕭として哀風逝き、
淡淡として寒波生ず。
商音に更々涕を流し、
羽奏に壮士驚く。
心に知る「去りて帰らざるも、
且つは後世の名有らん」と。
車に登りては何れの時か顧みん、
蓋を飛ばして秦庭に入る。
凌として万里を越え、
逶迤(イイ)として千城を過ぐ。
図窮って事自ら至る、
豪主 正に怔営(セイエイ)たり。
惜しい哉 剣術疏にして、
奇功 遂に成らず。
其の人 已に没すと雖も、
千載 余情有り。

◆語釈◆

強嬴=嬴(エイ)は秦王(すなわち後の始皇帝)の姓。
素驥=白馬。
広陌=コウハク。広い路上。
危冠=キカン。高々と聳える冠。お洒落です。
長纓=チョウエイ。冠をしばるひもがだらりと垂れているさま。お洒落です。
飲餞=インセン。遠出する際に、道祖神を祀り、宴会をして旅の安全を祈ること。今でいえば送別会。
漸離=ゼンリ。高漸離のこと。荊軻の親友で、楽器の筑(チク)の名手だった。
凌=リョウレイ。ふるいたつさま、勢いの激しいさま。
逶迤=配当外。うねうねと続くさま。
怔営=配当外。恐れ驚いているさま。
疏=ソ。未熟なこと。
奇功=キコウ。非凡な計画。ここは始皇帝の暗殺計画を指す。

いや~、やっぱ陶潜の詩はいいわ。シンプルで特に技巧も無いのですが声に出して詠むと気持ちが落ち着ますわ。またまた味わいたい気がむくむくとしてきましたよ。

世にも恐ろしい三族も連座する「悪法」=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」6

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の6回目です。秦国を滅亡に至らしめた新しい“キャスト”として、商鞅(姓は公孫、前390?~前338)が登場します。彼は始皇帝が天下統一を果たすより遡り6代前の孝帝に仕えた戦国時代の人物です。彼の名は中江兆民の「評論集」シリーズを賞翫した際にも出てきました(「農業論」の「学士紳士畑水錬の名案は恐くは商鞅、安石の新法の如く、徒に農畝社会を擾乱せんのみ」、http://rienmei.blog20.fc2.com/blog-entry-331.html)。刑名の学(刑罰で天下を統御しようとする学派)に基づいて法治主義を信奉し、苛烈な法律を制定して世の常識を覆してしまいました。蘇軾は商鞅に秦朝滅亡の「伏線」があると考えます。

【6】
蘇子曰わく、嗚呼、秦の道を失う、自って来るもの有り。豈に独り斯・高の罪ならんや。商鞅法を変じて、誅死を以て軽典と為し、1)サンイを以て常法と為せしより、人臣2)ロウコ3)キョウソクし、死を得るを以て幸と為す。何ぞ復請するに暇あらんや。

1)サンイ=参夷。ひとりの罪によって、その人の三族(親・子・孫)までも同じ罰を与える刑罰のこと。「三族の罪」ともいう。

2)ロウコ=狼顧。人が恐れて振り返り見ることのたとえ。オオカミは臆病で、常に後ろを振り返り見ることから。転じて、オオカミのように、身を動かさないで後方を振り返り見る(=180度回転させる)ことのできる首。人相を言う。西晋の礎を築いた後の宣帝である「司馬懿」(諸葛亮が挑発するため巾幗を贈った相手です)がこの相であったということが「晋書」宣帝紀に見えます。

3)キョウソク=脅息。じっと息をこらす。非常に恐れ心配しているさま。「脅える」は「おび・える」とも訓む。

(解釈)わたくし蘇軾はこう考える。ああ、秦が正しい道を踏み外したのは、そのときに始まったのではない。李斯・趙高ばかりの罪ではなかったのだ。商鞅が法律を改め、死刑を軽い処罰とし、三族まで滅ぼすことをふつうの規則としてからというものは、臣下はびくびくとおびえ、死刑になることをありがたいとまで考えるようになった。もう一度帝の御言葉を願い出る余裕など、どこにもあるものか。

商鞅は「参夷」によって、「三族」まで連座して処刑することのできる法律を定めました。①父、母、妻②父母・兄弟・妻子③親・子・孫――など、親族の範囲をあらわす「三族」ですが諸説あるようです。秘書のやったことを勝手にやったとか、母親がやったことを知らなかったとか言い逃れる政治家が横行していますが、知っていようがいまいが自動的に自分の親、子、孫をも刑罰に巻き込むという恐ろしい法律なのです。むしろ死刑などの方が遥かに軽くてましなのです。自分だけ死ぬ死刑の方が有難いと考えるのも首肯されるところ。扶蘇や蒙恬も、こうしたピリピリした「空気」の中で生きていた。実際に悪だくみを嗾けたのは李斯や趙高ですが、帝の御言葉が本物かどうかを疑う前に、死刑を受け入れてしまう「土壌」があったのです。

見事に嵌った李斯の「乾坤一擲」?=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」5

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の5回目です。

【5】
或ひと曰わく、李斯は始皇をア)けて天下を定む、不智なりと謂う可からず。扶蘇は始皇の子にして、秦人之を1)イタダくこと久し。陳勝其の名をイ)るも、猶お以て天下を乱すに足る。而して蒙恬重兵を持して外に在り。二人をして即ち2)チュウを受けずして、之を復請せしめば、即ち斯・高遺類無けん。斯の智を以てして此を慮らざりしは、何ぞやと。

1)イタダく=戴く。君主として上におしいただくこと。また、君主からありがたくもらうこと。音読みは「タイ」。戴星(タイセイ=朝早く家を出ることや、夜遅く家に帰ることなど、空の星を仰いで歩くこと)、戴天(タイテン=天の下に住む)、戴白(タイハク=しらが頭になる、年寄り、老人)、愛戴(アイタイ=君主からの愛情をいただく)。

2)チュウ=誅。罪を責めて殺す、死刑。「誅」は「ころす」「ほろぼす」とも訓む。誅意(チュウイ=おかした罪そのものではなくその意図や動機をせめる、誅心=チュウシン=)、誅求(チュウキュウ=金銭や財産をむさぼり求める、税を厳しく取りたてる)、誅殺(チュウサツ=罪を責めて殺す、誅屠=チュウト=)、誅鋤(チュウジョ=草木を根こそぎ取ること、罪を責めてすべてをほろぼす)、誅賞(チュウショウ=罪は咎め、善はほめる)、誅翦(チュウセン=罪を責めて罰としてころす)、誅殄(チュウテン=罪を責めてほろぼす、誅滅=チュウメツ=、誅絶=チュウゼツ=)、誅罰(チュウバツ=罪を責めて罰する)、誅戮(チュウリク=罪の在る者をころす、誅伐=チュウバツ=)。

ア)佐けて=たす・けて。わきから手を添えてささえる。「佐ける」は「たすける」。佐弐(サジ=補佐官)、佐車(サシャ=君主用の予備の車)、佐吏(サリ=上役をたすける役人)。「たすける」はほかに、「裨ける、扶ける、輔ける、丞ける、毗ける、掖ける、拯ける、介ける、佑ける、侑ける、俾ける、右ける、幇ける、弼ける、掾ける、援ける、救ける、毘ける、相ける、翊ける、翼ける、補ける、讃ける、資ける、賛ける」などが数多い。訓めるように。。。

イ)假る=か・る。「仮」の旧字。「名を仮る」は、「一字借用する。みせかけに利用する、名前を騙る」んどの意。「仮髻」(カケイ=かつら、かもじ)、仮寐(カビ=うたたね、寝たふり)などは、その場を糊塗するかりそめの小道具を言います。


(解釈)ある人がこう言った。
「李斯は始皇を助けて天下を平定したのだから、知恵がないとは言えまい。扶蘇は始皇の子供で、秦の民衆は長い間彼を天子の子として仰いでいた。陳勝は彼の名前を騙ったのだが、それだけで天下に乱を起こすには十分だった。しかも蒙恬は大軍を掌握して国境の外に居た。この二人がすぐに罰を受けず、もう一度帝の御言葉をいただきたいと願い出たならば、李斯と趙高は一族もろともに生き長らえることはできなかったであろう。李斯ほどの知恵者がそれを考えに入れなかったのはなぜだろうか」。

文章規範の「背景」(P139)によると、「扶蘇には儒家的な思考があったため、始皇の政策に反対して追われたとされる。陳勝が楚の項燕とともに彼の名を指導者として挙げたのもうなずけよう」とあります。蘇軾が持ち出した「或(あるひと)」は、その言辞の末尾で「斯(=李斯)の智を以てして此を慮らざりしは、何ぞや」と疑問を呈しています。李斯の「企み」が成功したのはあくまで二人のチョンボの御蔭であって、始皇帝を支えて天下統一に貢献した知恵者である李斯が、そのことを考慮できないはずはなかったであろう。それなのに敢えて「行動」に打って出たのは単に一か八か、乾坤一擲の「ギャンブル」が嵌っただけなのではないのかと言うのです。つまり、偶なのだと。それだけに、李斯・趙高の「企て」、つまりは偽造した「処罰」をいとも安易に受け入れてしまった扶蘇と蒙恬の軽率な「行動」が悔やまれるのです。しかし、蘇軾は別の要因が働いたと考えます。それは次回以降明らかに。。。。

ちなみに、唐突に出てきた「陳勝」ですが、中国史においては「陳勝・呉広の乱」で有名な人物です。秦末の前210年に農民900人を率いて反乱を起こした際、始皇帝の長男である扶蘇を名乗って、農民の歓心を買いました。「燕雀安知鴻鵠之志哉」の名セリフを残したことでも有名です。「陳勝呉広」と言えば成句となっており、「ものごとの先駈けをなす人、反乱の最初の指導者」をいう。

エイシュとヨウシュの紙一重の差異=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」4

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の4回目です。“タマンナイ”奴等である宦官が皇帝に取り入って世の中を混乱に陥れた例は中国史において枚挙に遑がない。特に秦の始皇帝と漢の宣帝が酷かったと蘇軾は言います。ここにきて彼がこの文章を表した真意を漸く明示しています。

【4】

然れども世主皆1)カンシンして悔いず。漢の桓・霊、唐の粛・代の如きは、猶お深く怪しむに足らず。始皇・漢宣は皆英主なるも、亦趙高・恭・顕の禍いに沈む。彼自らア)以為えらく、聡明の人傑なり、2)ドボク薫腐の余、何をか能く為さんと。其の国を亡ぼし朝を乱すに及んでは、乃ち3)ヨウシュと異ならず。吾故に表して之を出だし、以て後世の人主の始皇・漢宣の如き者を戒む。

1)カンシン=甘心。「こころにあまんず」とも訓読する。心を満足させる、思い通りにするといった意。ここでは「心を許す」といった解釈がふさわしい。「甘」は「あまやかす」という意味です。「甘~」の熟語は、甘言(カンゲン=人に気に入るような言葉)、甘食(カンショク=うまいと思って満足して食べる)、甘脆(カンゼイ=うまくて歯切れがよい、そのような肉、甘毳=カンゼイ=)、甘棠之愛(カントウのあい=りっぱな政治を行う人に対する敬愛の情)、甘眠(カンミン=やすらかにぐっすり眠る、甘寝=カンシン=)、甘露(カンロ=うまいつゆ、天子がよい政治をするという瑞祥として天が降らすという雨露)。「世主」(セイシュ)は「その時代時代の君主」。

2)ドボク=奴僕。雑役に使われる男、しもべ。奴子(ドシ)、奴人(ドジン)ともいう。奴僕視(ドボクシ)は「どれいのように卑しい者として扱うこと、見下すこと」で単に「土視」(ドシ)ともいう。

3)ヨウシュ=庸主。これといって取り柄のない、平凡な主君。庸君(ヨウクン)ともいう。この場合の「庸」は「つね」と訓み、「世の中に通用する、一般なみのさま、普通の」という意味です。「もちいる」の表外訓みもあり、反語で「なんぞ」との語法もある。

ア以為(え)らく=おも(え)・らく。「以為」は漢文訓読語法で「思うに」「考えるに」などと訳す。「以謂」ともかく。書き取り問題では出ないでしょうが訓み問題では出そうです。「以て~と為す」との返り読みする場合もある。

(解釈)しかし代々の君主はみな宦官に心を許し、反省しなかった。漢の桓帝・霊帝、唐の粛宗・代宗のような平凡な君主なら、それでも不思議はないだろう。しかし始皇や漢の宣帝はいずれも英明であるのに、やはり趙高や弘恭・石顕のわざわいを受けて失敗してしまった。彼らは自分で「わしは聡明な傑物だ、奴隷同様の去勢された奴らに何ができようぞ」とタカを括っていたのだが、結局は国を滅亡に追いやり、朝廷を混乱に陥れたりしたことを鑑みれば、平凡な君主とどこが違うというのだろう。だからわたしはこのことを明確に表現して、そのことで後世の君主、とりわけ始皇や漢の宣帝のような英明なる為政者に対して警告する者である。

問題にはしませんでしたが「薫腐」(クンプ)というのは、「睾丸を煙でいぶして腐らして落とすこと」で、去勢することを言います。「薫」は「くすべる」とも訓む。漢の宣帝(在位前73~前49)は、武帝の末期に国力を回復して中興の英主と謳われました。

蘇軾は宦官如き、ある意味非人間的な連中が及ぼす「禍い」を「毒薬猛獣」のようだと国家にとって極めて危険な火種であると強調しました。1000万人に1人か2人しかいないほどの善良な宦官は例外中の例外。ほとんどは単に邪な心しか持ち合わせておらず国家を破滅に導くしか能がないのである。だからはっきりと「癌」だと言い切って、為政者に対して戒めとして上奏するのです。これが蘇軾の趣旨。当時も宦官が、新法党と旧法党が熾烈な勢力争いを繰り広げていた宮廷内で跳梁跋扈していたのでしょう。目に余ったに違いありません。

英邁なる君主と凡庸なる君主の違いは紙一重なのだ。糞の中から味噌を見出す鋭い「眼差し」があるか、それとも、味噌も糞も同じにしか見えない鈍った「眼差し」しかないかだ。

宦官…それは愛すべきタマンナイ奴等=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」3


中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の3回目です。始皇帝がどうして宦官である趙高を登用したのでしょうか。明らかに彼を用いたことが秦王朝滅亡へと繋がっているのですが、その謎の一端が次第に明らかになります。

【3】
ア)れ1)エンインの禍いは、毒薬猛獣の如し。未だ肝を裂き首を砕かずんば有らざるなり。2)ショケイ有ってより以来、惟だ東漢の呂強、後唐の張承業の二人のみ、号して善良と称す。豈に一二を千万に望んで、以て必亡の禍いを取る可けんや。

1)エンイン=閹尹。宦官の長。「閹」は「射精を封じる、宮刑を受けた者」。要は宦官そのものを指す言葉です。宮中では皇帝や后妃の身辺の世話をしました。「奄」とも書きます。閹割(エンカツ=男子の生殖器を取る刑罰、宮刑)、閹官(エンカン=宮刑に処せられて、宮中に仕える男、宦官、閹宦=エンカン=、奄人・閹人=エンジン=、閹寺=エンジ=)、閹竪(閹豎、エンジュ=去勢された男の召使、宦官)、閹然(エンゼン=深くしまってかくしておくさま、本性を現さずにほかに媚び諂うさま)→「閹う」はこれ一字で何と「こびへつら・う」とも訓めるのです。奄然ともいう。

2)ショケイ=書契。文字のこと。「契」は小刀で彫りつけること。昔は骨や木に彫りつけて記録したことからいう。語選択や類義語、あるいは文章題の常用系の書き取り難問題で格好の素材となりそうです。処刑、書痙、諸兄、初経ではない。ここでは「有史以来」といった意味。関連では「結縄の政」なんていうのもありますね。

ア)夫れ=そ・れ。文頭に用いて「そもそも」「さて」などと訳す漢文訓読上の語法。表外訓み問題で出そうです。直接関係ないですが、孟子に出てくる言葉で「夫里之布」(フリのフ)というのは、「古代の税制で、付加税の一種。夫布(フフ)は無職の者から、里布(リフ)は居住地に桑や麻を種えない者からそれぞれ徴収する。田税相当額を取る」。ここでいう「布」とは「銭」のこと。職業や土地を持っていない貧乏人からも公平に徴税するという現代の税法に通じる理念を言います。その意味をわれわれ現代人に置き換えて噛み締めながらぜひとも覚えておきましょう。

(解釈)そもそも宦官の起こすわざわいは、毒薬や猛獣のようなものである。肝を裂いて頭をこなごなにくだくような惨い目に遭わずにはいられないほどなのである。有史以来、ただ後漢の呂強と後唐の張承業の二人だけが、善良な宦官という評判をとった。しかし、千万人の中の一人か二人しかいない善良な者に期待して、滅亡が見えているわざわいに甘んじていてよかろうはずがないであろう。

宦官は中国の政治史を概観する上では欠くべからざる存在です。「閹尹」のほかにもいろいろな呼称があります。宦寺、宦者、宦人、寺人、奄人、太監。。。。黄衣廩食(コウイリンショク)という四字熟語もあります。もちろん「生殖器」がないわけですから子孫をつくることができない。そこがミソなのです。皇帝や皇后に取り入ることができたのもそうした「安心感」があるからなのです。しかしながら性格は拗けているのも無理からぬところでしょう。史記を著した司馬遷のように宮刑として去勢を強いられ宦官になった者もいましたが、平民から科挙を経ずに宮廷に入るにはある意味で手っ取り早い方法であり、自ら志願して宦官になる者(自宮という)も多くいました。

蘇軾が「ただ二人の善良なる宦官」と称した「東漢の呂強、後唐の張承業」。明治書院の「背景」(P137)に藉りましょう。

漢は王莽の乱で一度滅びたが、光武帝が再興し都を東の洛陽に移したので、これ以後を東漢もしくは後漢という。呂強はその後漢の霊帝のときの宦官。零帝が宦官を諸侯に封じようとしたとき、趙高の例をひいて諫めました。また党人を重く用いた正しい政治を主張し、宦官仲間からは憎まれて、謀略を仕組まれた揚句に自殺を強いられました。一方、後唐(923~936年)は五代の王朝の一つ。張承業は唐の僖宗のときの宦官で、後唐の創業主である李克用に仕えた後、幼い荘宗を盛りたてましたが、諫めて聴かれずに自ら食を断ち餓死しました。

宦官の中でもやはり趙高が宦官史上最大の「悪玉」のようですね。「KING OF KANGAN」~。

蒙毅のボーンヘッドに非難集中=蘇軾「秦の始皇・扶蘇の論」2

中国の名文・美文を囓んで玩わうシリーズは、蘇東坡(蘇軾)の「秦の始皇・扶蘇の論」(明治書院「新書漢文大系9・文章規範」)の2回目です。秦の始皇帝を取り巻く長男次男の確執、取り巻きの家臣の勢力争いが激しく、始皇帝の死を契機に一気に爆発し、秦朝そのものの没落へと一直線に進んでいく。国家の廃頽はいつどこで起きるかは分かりません。

【2】
蘇子曰わく、始皇、天下の軽重の勢を制し、内外をして相形せしめ、以て1)カンを禁じ乱に備う。密なりと謂う可し。蒙恬は三十万人に将として、威北方に震い、扶蘇其の軍を監す、而も蒙毅2)イアクに侍して謀臣たり。大カン賊有りと雖も、敢えて其の間に3)ヘイゲイせんや。

不幸にして道に病む。山川に祈祠せしむるに、尚お人有るなり。而も蒙毅を遣わす。故に高・斯、其の謀を成すを得たり。始皇の毅を遣わし、毅の始皇病んで、太子未だ立たざるを見、而も4)サユウを去れるは、皆以て智と言う可からず。

然りと雖も、天の人の国を亡ぼすや、其の5)カハイ必ず智の及ばざる所に出ず。聖人の天下を為むる、智をア)んで以て乱を防がず、其の乱を致すの道無きを恃むのみ。始皇乱を致すの道は、趙高を用うるに在り。

1)カン=奸(姦)。よこしま。道理を犯す行為。悪事。「奸賊(姦賊)」は「悪者、悪漢」。姦兇、姦凶ともいう。

2)イアク=帷幄。戦場で幕を張り巡らし作戦計画をたてる場所。「帷」も「幄」も「とばり」。帷帳(イチョウ)、帷幕(イバク)ともいう。

3)ヘイゲイ=睥睨(俾倪)。横目でにらむ。「睥」も「睨」も「にらむ」。

4)サユウ=左右。そばにいて仕える近臣、侍臣。傍づき。主君や皇帝のそばを指す。

5)カハイ=禍敗。思いがけない災難や失敗のこと。禍災、禍殃(カオウ)、禍害(カガイ)、禍患(カカン)ともいう。「禍」は「わざわい」とも訓む。禍泉(カセン=わざわいのもと、つまりは酒のこと)、禍胎(カタイ=わざわいを引き起こすもの)、禍機(カキ=わざわいの起こるきっかけ)、禍咎(カキュウ=わざわいととがめ)、禍簒(カサン=簒奪によって生じるわざわい)。「わざわい」はほかに、「殃い、凶い、厄い、夭い、妖い、孼い、害い、慝い、氛い」などがあります。


ア)恃んで=たの・んで。頼りにすること。「恃む」は「たのむ」。音読みは「ジ」。恃気(ジキ=勇気をたのむ)、恃頼(ジライ=たのみとする、恃憑=ジヒョウ=)、恃力(ジリョク=勢力や権力をあてにする、ちからをたのむ)、矜恃(キョウジ=プライド)。

(解釈)蘇軾はこう考える。始皇帝は天下の形勢のささいなものから重大なものまで一切を統御し、国の内外の連絡を密にさせて、不正を取り締まって反乱に備えた。これは緻密な計画だったと言える。蒙恬は三十万人を率いて北方に威勢を轟かせ、扶蘇はその軍隊を監督し、また蒙毅は天子のそばに仕えて参謀となっていた。極悪人がいたとしても、この隙を狙おうと企てることができたろうか。

だが、始皇帝は不幸にして旅先で病気になった。その際、山川の神に祈らせるにはまだほかにも人がいたはずだ。それなのに始皇帝はあろうことか蒙毅を派遣した。だから趙高と李斯がその陰謀を成功させることができたのだ。始皇帝が蒙毅を派遣したことと、始皇帝が病気になったとき、皇太子もまだ立てられていないのに蒙毅が帝のそばを離れ去ったこととは、どちらも知恵のある者の対応とは言えまい。

とは言え、天が人の国を滅ぼさんとするときは、その災難と失敗たるや必ず人間の知恵の及ばぬところから起こってくるものである。だから聖人が天下を治めるときには、自分の知恵をあてにして世の乱れを防ぐようなことをせずに、世の乱れを招くようなやり方をしないことを頼みとするものである。実に始皇帝が世の乱れを招いた過程を見ると、趙高を登用したところにその要因が胚胎していたのである。

文章規範の「背景」(P136)によると、「冒頭部は全篇の基礎となる事実の要約である。それを受けて天下の形勢を語る。形勢は磐石かに見えた。しかし意外にも早く、それは始皇の旅先での病とともにやってきた」との解説が見えます。実は始皇帝は自らの死を察知して「自分が死んだら蒙恬に軍隊を任せ、都に戻って会葬する」ことを長男の扶蘇に命じる手紙を認めていました。ところが、その手紙を使者に渡さないうちに死んでしまい、趙高はその手紙を隠して、逆に扶蘇と蒙恬の謀反が発覚したと偽って、扶蘇に対して自殺を命じる詔書を偽造したのです。そのため、扶蘇は自殺に追いやられ、蒙恬は偽造を疑って自殺を承服しなかったため、捕らわれて誅殺されてしまいました。

第二パーツで蘇軾は、始皇と蒙毅の不明さを論じていますが、同書によると「趙高を信任している始皇は、もとより不明のそしりは免れないのであって、改めてとりあげられるべき筋のものではない。むしろここは、平生から趙高・李斯の言動を熟知しているはずの蒙毅が、なぜ巡幸の一行にとどまるべく知恵を巡らすことができなかったのか、という一点に非難が集中されるべきであろう」と解説は論じています。

蒙毅のボーンヘッド。しかしながら、歴史にはなぜ?という疑問が付き纏うものです。「たられば」を言ってしまえば限がない。人間のドラマには、後世人の想像力を越えたエピソードや葛藤があるのでしょう。
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